東京出身。富豪になりたい中年男。幼稚園から高校まで私立一貫校に通い、大学卒業後、財務系マスコミ事業に従事。霞ヶ関担当記者、編集局長等を経て現在は副社長。適度に偏屈。スタイリッシュより地味で上質を求め、流行より伝統に心が動く。アマノジャクこそ美徳が信条。趣味は酒器集め、水中写真撮影、ひとり旅、葉巻、オヤジバンドではボーカル担当。ブログ更新は祭日以外の月曜、水曜、金曜。 ★★★スマホでご覧頂いている場合には画面下の「ウェブバージョンを表示」をクリックしてウェブ画面に飛ぶと下側右にカテゴリー別の過去掲載記事が表示されますので、そちらもご利用ください。
2016年9月30日金曜日
パワーチャージ!
9月初旬にこのブログで「グダグダ退治」の話を書いた。要は気力が湧かずにグダグダしがちな日常を変えようという趣旨である。
気力が上がる漢方薬を飲み始めて1ヶ月が過ぎた。それこそ「気のせい」かもしれないが、それなりに効き目を感じ始めている。
♪ペン・パイナッポー・アッポーペン♪を口ずさむぐらいに元気である。
https://www.youtube.com/watch?v=Ei3STJUd0GI
根が単純だからそういう効能の薬を真面目に飲んだだけで、活気が出てきたと思えるのかもしれない。まあ、それならそれで良しである。
バイアグラだってニセモノを飲んでギンギンになる人が結構いるらしい。そういうものである。
「気」なんてものは、まさに気分次第である。漢方の名前は「補中益気湯」。何かを補って気を益々高めるという意味だ。
「気のせい」だから困ることもある。漢方が効いているならやめられない。やめたらグダグダが再来するんじゃないかと不安になる。
仕方なく1日3回、それも食前にキッチリ飲み続けないとならない。かなりメンドーである。
先日出かけた京都では、仏像巡りのほかに「気」を向上させる努力?もしてみた。
もともと今の時期の私には西の方角が吉方とのことで京都に行った。せっかくならパワースポットとやらに身を置いてみようと企んだわけである。
で、鞍馬山と貴船にいそいそと向かった。鞍馬山は義経伝説の場所でもある。子どもの頃、義経モノが好きだった私にとってちょっぴりウキウキする場所だ。
鞍馬寺の本殿に行くにはケーブルカーでショートカットすることも可能なのだが、パワーを吸収したい私としては安易な経路はパスして徒歩で山を登った。
そうはいっても30分程度の距離なので騒ぐほどではない。でも日頃運動不足の私には結構キツい。涼しかったはずなのに汗だくになった。
義経が弁慶をぶっ飛ばすぐらい強くなったのも当然だ。あんな場所で日々トレーニングすれば無敵の強さを手に入れそうだ。
さてさて鞍馬山である。いにしえの人々が畏怖を感じた独特な空気が山全体を覆っている。パワースポットとやらがどんなものかちっとも知らないが、確かにここには一種独特の「気」が漂っている。
「気」の感じ方は人それぞれ。ある場所に佇んでみて、その気配を不快に感じる人もいれば清々しく感じる人もいる。その人のその時点の心の在り方でも変わる。
なんだかスピリチュアルっぽい書きぶりになってしまったが、そんなつもりはない。すべて「気のせい」の話である。個人的に「気のせい」の「気」に敏感なタチなのでついウダウダ書いてしまう。
私にとって鞍馬山の「気」はいつまでも深呼吸を繰り返したくなる感じだった。その場にずっと佇んでいたい感覚とでも言おうか。
「何事のおわしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」
その昔、かの西行法師が伊勢神宮にお参りした際に詠んだ歌である。大げさに例えるなら似たような感覚だったかもしれない。涙がこぼれるほど感動したわけではないが、何となく「かたじけない気分」?になった。
ということで、まずはパワーチャージが出来たので次なる目的地は貴船である。貴船はもともと「気生根」と書いたそうだ。「気が生まれる根っこ」である。そりゃあ行かねばなるまい。
ところが、さすがの人気観光スポットである。縁結びの神様である貴船神社界隈には騒がしい女性が多かった。そのせいで神聖な雰囲気はあまり感じなかった。仕方なくヨボヨボ歩く。
奥宮に龍穴というパワースポットがあったのでそのあたりをウロウロ。女性の多さゆえに私の邪念が邪魔をして神聖なパワーを実感することはなかった。
すっかり邪念オジサマに戻ってしまったので、ついでに季節外れの川床ランチを楽しんだ。
子持ち鮎などを突っつきながらヒンヤリとした空気に身を置く。土瓶蒸しの松茸がシャバ過ぎて唖然としたがなかなか快適だった。暑い夏の夜のほうが風情がありそうだが、昼は昼で清涼感たっぷりで悪くなかった。
その後、日帰り温泉に立ち寄って緑を眺めながら露天風呂を満喫。人がいなかったのでハマショーをうなったりしてホゲホゲ過ごす。
ということで、気力アップのために涙ぐましい?努力を重ねている私である。
10月末に口やお尻にカメラを突っ込まれる定期検査が待っている。そこで何も異常が無ければ、今回のパワーチャージの旅にも大いに意味があったと思うことにしよう。
2016年9月28日水曜日
仏像にオッタマげる 炭屋旅館
京都に行ってきた。目的は「仏像めぐり」である。我ながら渋すぎると思う。そんなことでいいのかと思う。
いまさら信仰心が芽生えたわけではない。ナゼか仏像が私を呼んでいる。今回、一気にたくさんの仏像を見たことで自分がなぜ仏像に興味を持ち始めたかが改めて分かった。
「仏像はロマンだ!」。よく分からないがそういうことである。
気の遠くなるほど長い年月を過ごしてきた佇まいに惹かれる。萌え萌えだ。昭和、大正、明治はもちろん、江戸、室町、鎌倉、平安時代それぞれの時代に人々が崇めてきたわけだから物凄い話である。
どれだけの人が願いを込めて祈り、どれだけの人の心の平穏につながったのかと考えるだけで超ド級のロマンである。ロマンぶりぶりだ。
2泊3日で10カ所のお寺をじっくり見て回った。市内中心地をはじめレンタカーを駆使して鞍馬山や大原の先まで行った。凝り性のB型らしい集中力?である。
この画像はわが国の国宝指定第一号の仏像だが、作られたのは「飛鳥時代」である。ホントかよ!と突っ込みたくなるほど古い。1500年ぐらい前だ。聖徳太子が生きていた頃である。オッタマゲである。
そんな来歴もさることながら、姿形の美しさが超絶的だ。さすがに仏像業界?人気ナンバー1である。究極的に美しい。
日本中の仏像を集めてオールスターチームを結成したら間違いなくセンターを務めるはずだ。
こちらは東寺にあるスペシャルな空間である。大スターが勢揃いである。圧倒されながら随分と長い時間鑑賞させてもらった。
ここには仏像ファンの間では「イケメン」として人気の帝釈天も置かれている。確かに美男である。
私としてはイケメンに対するジェラシーもあるし、最初の画像の弥勒菩薩のインパクトが強かったので、さほど印象には残らなかった。
今回は基本的には混雑している寺は避けたのだが、仏像が目的だから「三十三間堂」は外せない。過去にも何度か訪ねたがやはり圧巻である。貴重な仏像が千体も並んでいるんだからドッヒャー!って感じである。
若い頃とは違い今の私は仏像方面?の勉強にせっせと励んでいる。如来や菩薩その他の仏像の種類や意味合いも少しばかり覚えてきた。
ちょっとした「ウンチク野郎」である。今回の旅では「予習」の大事さを改めて感じた。付け焼き刃だろうとウンチク的予備知識があれば見るものに確実に彩りが加わる。
(画像はJTBパブリッシング発行の「京都仏像めぐり」「古寺を巡る」の画像を勝手に撮影したものです。ごめんなさい)
さて、さまざまな仏像にオッタマゲた今回の旅で、ある意味一番のオッタマゲが先斗町や祇園界隈に一歩も足を踏み入れなかったことかもしれない。過去には夜の散策が目的だったこともあったから随分と枯れてしまったものである。
初日は料理の美味しさで定評のある「炭屋旅館」に泊まった。仏像めぐりでヘトヘトになって夕方チェックインしてからは一歩も外に出ず。
ウマい料理にウンウン唸りながらクイクイ冷酒を飲んで、その後はテレビを見たり本を読んだりしてバタンキュー。画像の椀物が印象的だった。ハモや松茸はさておき黄色い丸形のモロコシ豆腐とやらのウマさに悶絶。
翌日も朝から動き回ってヘトヘトになって夕方ホテルに入る。一休みして街に繰り出すつもりでいくつか料理屋さんに目星も付けておいたのだが、どうにもこうにもバテ気味だったのでグズグズ過ごす。結局、そのまま街に出ることもなくルームサービスで夕食を済ますという暴挙にでてしまった。
その翌日も泊まろうかと思っていたのだが、朝から夕方まで仏像を見て回り、結局バテバテになったので夕方の新幹線で帰ることにした。
京都駅で複数の弁当を買い込む。老舗「いづう」の高級鯖寿司とその半値以下で買った気軽な鯖寿司を食べ比べて、安い方が断然ウマかったことにオッタマゲながら帰宅した。
ちなみに、仏像ばかり眺めて繁華街にまったく足を踏み入れなかったことを思うと、行くべきだったのは京都ではなく奈良だったと思う。
国宝に指定されている仏像の数は京都より奈良のほうが遙かに多い。その差は5~6倍だとか。
今回見たかったのに見そびれた仏像が京都にはゴロゴロあるし奈良にも行きたい。困ったものだ。
2016年9月26日月曜日
とんかつジプシー にし邑 かつぜん
相変わらずトンカツが好きだ。共食いみたいなものである。
月に10回は食べたくなる。実際にはそんなに食べないが、割といつでも頭の中はトンカツだ。
この画像は東銀座の人気店「にし邑」の上ヒレカツだ。正しくウマい。ここはカウンターが15席ほどの造り。昼時は行列が出来るらしい。
この日は夜の7時過ぎだったが、基本的に満席である。ただ、酒を頼んでダラダラしている客は私ぐらいなので回転は良い。
ポテサラをつまみにビールを飲んで、牛すじ煮込みで芋焼酎ロックをカピカピ飲む。私はトンカツ屋で飲むのが好きなのだが、人気店の多くが飲み屋的には使いにくい。
まあ、飲み屋さんじゃないから仕方がないが、それなりのツマミがあって、酒もそれなりに揃えている店なら黙々とトンカツを食べるだけではもったいない。
というわけで、画像のトンカツもご飯と豚汁はパスしてツマミとして楽しんだ。芋焼酎とトンカツの相性は捨てがたい。
トンカツはご飯の友として味わうのが王道だ。実際にそれが一番ウマい食べ方である。でも酒のツマミとして楽しむと妙な高揚感がある。プチ贅沢気分である。
トンカツに関しては「意識高い系」?を自認する私である。これまでもいろんな店を訪ねてきた。
一時期は高い値付けをしている店ほどウマいトンカツが味わえると思い込んでいたが、実際にはそんなことはない。
高い店には高いなりの理由もある。乱暴な言い方をすれば味の差ではない。雰囲気や居心地の違いだろう。
一年に一度か二度、なんとなく吸い寄せられるのが銀座交詢ビルにある「かつぜん」だ。とんかつ割烹と名乗っているだけあって物凄く高い。卒倒したくなる。
凄く高いせいでふらっと訪ねても席には余裕がある。高級割烹のようなゆったりしたカウンタ―席に陣取り、ダラダラ酒を飲みながらちょっとした料理をつまみ、シメにトンカツというパターンだ。
味は普通に美味しい。率直に言ってこの店のトンカツの5分の1ぐらいの値段でもっとウマいトンカツを出す店は簡単に見つかる。
でも、それはそれである。ゆったり落ち着く空間に身を置いてゆるゆると上質なトンカツを楽しめる店はなかなか無い。
トンカツは私にとって「神」である。特別な存在だという事実を確認する意味でもこういう店で「非日常系トンカツワールド」に身を置くことも悪くない。
回転寿司屋がどんなにウマい寿司を出そうとも、上等な寿司屋のカウンターに陣取って過ごす時間とは比べられないのと同じかもしれない。
私の場合、どうも「ゆるゆると酒が飲めるかどうか」で店の好みを判断してしまうようだ。純粋にトンカツ情報を欲している人には参考にならずにスイマセン!
先日、湯島界隈をぶらぶらしていた時に、渋い構えのトンカツ屋に遭遇した。古い民家風で店先のメニューには酒のツマミも並んでいる。
迷わず突撃した。モツ煮なんかを頼んで焼酎をグビグビ。昭和感ムンムンで居心地良し。湯島や上野界隈はトンカツの聖地のようにウマい店が揃っている。きっとこの店も名店なんだろうと期待する。
シメのトンカツを食べてびっくり。マズい。揚げ過ぎだったのか苦みさえ感じる。たまたまだったら悪いので店の名前は書かないが、ションボリしながら店を後にする。
別な日、疲れ気味だったので酒も飲まずに「ゆで太郎」で蕎麦でも食べて帰ろうとしていた時のこと。通りすがりで入ったトンカツ屋が大当たりでちょっと興奮した。
池袋の雑踏に隠れるように地味な看板を掲げて営業している街中のフツーのトンカツ屋だ。店の名は「清水家」。数々の有名店にもひけをとらないウマいトンカツが味わえた。
当然、値段も街中のフツーのトンカツ屋価格である。まさに目からウロコである。ゆっくり酒でも飲みながらという路線ではないが、単純明快にウマいトンカツを食べるだけならバッチリだ。
それにしても軽く蕎麦を食べるつもりがトンカツ屋に入ってしまう私の行動パターンが心配である。
最近、私が真剣に考えているのがトンカツ愛好家を表現する言葉である。マヨネーズ好きを「マヨラー」と呼ぶようにトンカツ好きにも素敵な呼称をつけたい。
これまでも、炭水化物が大好きな人を「タンスイカブラー」、タルタルソース好きを「タルタル人」、ピラフ好きを「ピラファー」、ソース好きを「ソースマン」、その他「コレステローラー」などとアレコレ勝手に表現してきたが、トンカツはなかなか難しい。
「トンカツラー」では頭髪問題みたいだし、「トンカツァー」では発音しにくい。
「トンカチスト」はどうだろう。ちょっと大工さんみたいだが、キリッとした響きで悪くない。
今後もトンカチストとして共食いを続けようと思う。
2016年9月23日金曜日
ゾワゾワする言葉
リテラシー、アカウンタビリティー等々、ビジネスの世界で飛び交う外来語、カタカナ言葉がちょっと苦手だ。
そういう私自身も気付かぬうちにそれっぽい言葉を使っているが、せいぜい20年前から浸透しているようなトレンドとかバーチャルとかバリアフリーとか、ソープランド(これは違うか)あたりに止めている。
仕事先の関係者から面と向かってアセスメントだのコンセンサスだのアジェンダとか言われると何だかゾワゾワした気分になる。
私が社会人に成り立ての頃は、今のようなカッチョ良さげなカタカナ用語はあまり目立っていなかった。それよりも日本語自体を難解な表現にしたがる傾向が強かったと思う。
「幸甚に存じます」「当該案件については」「包括的に考慮する」といった感じだ。
今でも普通に使う言い回しだが、若い頃はこういう馴染みのない言葉を使うと「賢い人」になったような気がした。
いま思えばマヌケだが、ある意味可愛いかったのだろう。
島国根性のせいで外来語をどこか格好良く感じるのが、われわれニッポン人のシャバい部分である(「シャバい」が分からない人はおそらく30代以下の若い人かと思われる)。
戦争中は「敵性語」が使えなかったせいで野球の審判はストライクを「よし」、ボールを「ダメ」、アウトを「それまで」と叫んでいたそうだ。確か学校で習った話である。
そんなバカみたいなトラウマ?のせいもあって「カタカナ=お洒落」的なDNAが日本人全体に染みついているのかもしれない。
仮に「敵性語」が使えなかったら毎日あらゆる場面で厄介だろう。「コピー頼むよ」は「複写願います」だし、「メールしておいて」は「電子手紙の送信乞う」になってしまう。
昔、さんまやタモリが英語を使わずにゴルフをするテレビの企画があったが、アレは結構おかしかった。まともに会話が成立しない。
https://www.youtube.com/watch?v=WhXj-5ZKK1E
ちなみに銀座のクラブだったら「倶楽部」で済むが、ホステスさんは「社交嬢」、シャンパンは「発泡葡萄酒」になってしまう。
チャンスボトルは「空瓶好機」だし、アフターに行くのも「閉店後交流」になってしまう。実にメンドーだ。
なんだか話がズレてしまった。
カタカナ言葉に話を戻す。たとえば「マンパワー」や「スキル」なども、要はただの「人材」であり「技術」のことでしかない。なぜかカタカナ語にして得意になって語る人が多い。
なんとなく格好つけたい気分で言葉を言い換えるのなら御愛敬だが、言葉の言い換えによっては物事の本質を隠す目的があるから厄介である。
統制や統治だと高圧的なイメージがあるから「ガバナンス」に言い換えるようなパターンだ。
簡単なことを難解に見せようとする一種の見栄ならまだしも、時にはタチの悪いゴマカシもある。売春を援助交際と言い換えるようなマヤカシだ。
カタカナ言葉からは逸れるが、典型的な例をあげてみる。
事故のことを「事象」、老朽化を「高経年化」、汚染水は「滞留水」。これらは“原発業界”の用語である。考えてみればヒドい言い換えである。
以前、作家の村上春樹さんが原子力発電を「核発電」と呼ぶべきと提唱していたが、まったくその通りだと思う。よく考えれば「原発」という言葉自体も実に分かりにくい。うさんくさく思えてくる。
外来語をカタカナ言葉にして使いまくる一方で、外国語に直訳できない表現が多いのが日本語の特徴である。独自の文化を背景に発達した日本語は言葉の組み合わせによって意味や意図が微妙に変わる。日本人からみても難しい。
わが国にはかつて、全滅を「玉砕」、撤退や敗走を「転進」と言い換えて深刻な事態を隠そうとした黒い歴史がある。姑息な言い換えは悪質な嘘になることもある。
言い換えの裏側に潜んでいる思惑には気をつけたいものだ。
2016年9月21日水曜日
セックスと税金
知り合いから聞いた話。とある女性が交際倶楽部とやらに登録して稼ぎまくっているらしい。うらやましい話である。
うらやましいといっても、行為の話ではない。税金のことを考えずにガッポガッポ儲けている点がうらやましい。
聞くところによると1ヶ月あたり「実働」は1週間にも満たないのに年間の稼ぎは軽く500万を超えるらしい。
変な趣味を持つ相手だと1度に30万以上包んでくるそうだ。まあ、変な趣味に付き合うのもご苦労なことだが、痛いとか苦しいわけではないらしい。やはり費用対効果という意味ではチャらい話である。
その女性には一応、本業らしきものがある。それをタテにしおらしい一般人のフリをしながら、かなりの人数の“パパ”を手玉に取っているとか。
いまハヤリ?の一般人を装ったプロである。交際倶楽部のような場所で女性を探す男のほうもどうかと思うが、私のような純情でウブな男にとっては、世の女性陣の「粉飾」ぶりが恐い。
カタい話になるが、身体を売って稼いだカネであっても税金はかかる。反復継続して仕事感覚でこなしていれば事業所得という区分になる。
もちろん、そんなカネを申告する人はいないだろう。足がつくこともないから事実上、税金はかからないわけだ。
一体、どれだけの無税天国状態なんだろう。大真面目に納税している私からすれば腹立たしい話である。
少し前の話だが、某AV女優が脱税で摘発されたのだが、それをめぐる一悶着がちょっと面白いので紹介したい。
そっちの業界ではそれなりに活躍していたのにまったく無申告だったことが摘発のきっかけ。
税務署サイドがその女性の銀行口座を調べ、出演料などの本業収入を洗い出したが、アダルトビデオの仕事以外にも多額の収入があったことが発覚。
その女性は個人的に付き合った相手からお手当を得ていたわけだが、その金額が常識外れに高額だったわけだ。
世の中にはお金持ちがゴロゴロいるから、人気AV女優を愛人にしたつもりで、月に100万、200万払う御仁もいるのだろう。
そんなパパを複数持てば年収はウン千万円である。実際、この事例でも数年間で億単位の収入が無申告とみなされた。
ところが、女性側は一連の収入を身体を売った稼ぎではなく「慰謝料」だと反論したそうだ。税理士の入れ知恵だろうが、なかなか「いとをかし」?な主張である。
婚約不履行などの際にやり取りされる慰謝料は、精神的・肉体的な苦痛への賠償的な意味合いだから普通は課税されない。それを引き合いに出して売春収入を課税対象から除外しようと狙ったわけだ。
慰謝料が非課税になるのは「社会通念上相当な金額」という前提があるし、このケースでは相手が複数で、交際期間や金額からみても、女性側の言い分は単なる屁理屈。突飛な主張が裁判で通用するはずもなかったわけだ。
さてさて、最近は「愛人のカジュアル化」という言葉を耳にする。昔のようにスケールの大きいパパさんを探すより、5万~10万程度で月に一、二度相手すれば済むパパさんを複数つかまえる女性が多いんだとか。
良し悪しウンヌンではなく、そんな乱れた話が増えているのなら、税金問題以前に売春禁止法との絡みが気になるところである。
愛人といえば、ヒヒオヤジに囲われて家賃やお手当をもらって暮らすイメージである。身体が見返りだから突き詰めればセックスをカネで売っている形だ。
「カネでセックス=売春」かといえば、そうではない。わが国の法律では「不特定多数」を相手にすることが規制の対象だ。「特定のヒヒオヤジ」を相手にする一般的な愛人の場合は対象外である。
ということは、複数のパパさんとエッちらオッちら励んでいる場合には、売春禁止法に引っかかる可能性が出てくるわけだ。
さきほどのAV女優のケースは脱税だけでなく売春禁止法違反でも摘発されかねないイメージだが、調べてみたらそんなこともないようだ。
「不特定多数」と「特定多数」では意味が違う。すなわち特定された相手なら100人だろうと売春禁止法には引っかからないという理屈だ。
なんだかヘンテコな話である。
時々みせしめのように摘発されるソープ嬢が気の毒に思えてくる。ソープ嬢の場合、相手が不特定多数だから摘発の対象になるが、一般人を装って多くの金満オヤジを股にかけるプロ売春婦にはお咎めナシ。
なんともビミョーな話だと思う。
今日は何となくまとまりのない話に終始してしまった。
2016年9月16日金曜日
一盗二婢三妾四妓五妻
「どんなコが好みなの?」「どんな人がタイプですか?」。老若男女問わず、誰もが何度も聞かれたことがあると思う。
誰だってブサイクより美形が好きだし、恐い人より優しい人が好きである。カタブツよりエッチな人のほうがステキである(これは違うか)。
好みやタイプなど、考えてみれば不毛な質問である。にもかかわらず、たいていの人は聞かれればアレコレ答える。
私も若い頃は具体的にアーだのコーだのと答えていたが、今では「好みなんてありません」と大真面目に答える。
誰でもいいと言いたいわけではない。あくまで自分が恋に落ちる人が好みだ。それが現実だろう。髪が長かろうが短かろうが、巨乳だろうが微乳だろうが、そんなことを気にする余裕?などない。
内面に関してもちょっと付き合ったところで分かるものではない。それこそ ♪性格なんてものは僕の頭の中で勝手に作り上げりゃあいい♪(斉藤和義「君の顔が好きだ」より)である。
中高年オヤジの間で奇跡の47歳と呼ばれているのが「森高千里」である。人妻である。主婦である。
人妻であり主婦だから、世のオッサン連中は「ウチの嫁とは大違いだ」「ウチの嫁にも見習って欲しい」などと語りたがる。
でも、そんなことを言うと世のオバサン連中からは「だったらアンタは江口洋介なのか?」という痛烈な真理を突きつけられる。
まったくその通りである。50歳を過ぎてあんなカッチョいい夫など滅多に存在しない。
「好み」や「タイプ」をとくとくと語るのも似たようなものだろう。「森高・江口理論」に当てはめれば、「エラそうに語っているけどテメーはどうなんだい!」という話になる。
とくに中高年男性は自分のことを棚に上げて理想論を振りかざしやすい。ヒキガエルみたいなオヤジやゲジゲジみたいなオッサンも「好みの女性」をグヘグヘと論じる。
あれはヤメたほうがいいと思う。まあ、私の場合も好みやタイプを語らないのは、エラそうなことをホザいて世の女性達から逆襲を食らうのが恐いからである。
さて、自分を棚にあげてエラそうに語る男達の世界には、女性をめぐるゲスな格言?が存在する。
「一盗二婢三妾四妓五妻」。
「いっとう、にひ、さんしょう、しぎ、ごさい」と読む。何かのオマジナイみたいだが、要はエロティックな関係を想定した場合の「男が燃える順番」である。
ちなみにネット上で見つけたこの言葉の英訳が妙に笑えるのでついでに載せておく。
Most thrilling relationships for a man (another man's wife、a maidservant、a mistress、a prostitute、and finally his own wife)
なかなか分かりやすい。「スリリング・リレーションシップ」という表現にウケてしまった。
”and finally his own wife” も英語的?である。「そして最後が」とわざわざ強調されているみたいで面白い。
要は「人妻や誰かの恋人」「使用人やお手伝いさん」「オメカケさんや愛人」「プロの女性、商売女」「自分の妻」という順番だ。
いやはや、最下位扱いの世の奥サマ達からぶっ飛ばされそうな言葉である。
いや、待てよ。奥サマ達は自分の旦那以外の男からは一番人気である。捨てたもんじゃないわけだ。
この言葉自体、使われている漢字から見て大昔のお大尽さんが言いだした言葉だろう。住み込みの女中やメカケが珍しくなかった時代の戯れ言である。
あくまで明治大正あたりの成金オヤジ的女性観であって、今の時代だとピンとこない部分もある。
だいたい、女中さんを例にとっても、現在では行儀見習いを兼ねて若い女性が住み込みで働くようなことはないから、シチュエーションとして成立しない。
プロの女性も時代とともに変わってきた。普通の女性、一般の女性といってもその実態は実に曖昧。プロか否かの線引きは今や男が思っている以上にテキトーになっているのが現実だ。
人妻にしても積極的に浮気に励む人々も結構いるから昔の人がイメージした貞淑な人妻とはちょっと違う。まあ、大多数の人妻は真面目だろうからそう決めつけちゃうのも良くない。
でも、今の時代、人妻との秘密の関係がバレたら相手の旦那から慰謝料請求をされるリスクもある。
人妻ではなく、誰かの恋人を寝取っちゃうのは確かに「萌え萌え」かもしれないが、それをネタに小賢しいヤツらからツツモタセみたいにユスられるリスクもある。
まあ、それはそれである意味”スリリング”だから、やはり「盗」に関しては今の時代も第一位なんだろうか。
2016年9月14日水曜日
「終わった人」
スマホやパソコンをいじった後には寝つきが悪くなるそうだ。電気の光をずっと見ているから脳が休まらないらしい。
というわけで、寝る前には活字が一番である。ベッドに入って本を開く時は何となくワクワクする。1日の終わりに脳を別の世界に解放するような気分になる。
抜群に面白い本だと脳が活性化しちゃって眠気がちっともやってこない。適度に面白いぐらいがちょうどいい。
先週、久しぶりに抜群に面白い本を読んだ。長編だったので毎晩の晩酌のように少しずつ読もうと思っていたのだが、面白すぎて一晩で一気に読んでしまった。
脚本家として有名な内館牧子さんの「終わった人」という小説がそれ。面白いという表現より「身につまされる」「納得する」といった感覚だろうか。
主人公は60代前半の男。エリート銀行マンだったが、不運の出向転籍を経て定年退職した後の物語だ。
これから読む人のためにストーリーは詳しく書かないが、中高年の心の動き、閉塞感、飢餓感、あきらめ、抵抗心なんかがモノの見事に描写されていた。
軽妙なタッチで書かれているので重苦しい作品ではないのだが、中高年男にとっては細かな心理描写がとことん身につまされる。
「終わった人」というタイトル自体が深い。今の世の中、60代でも若々しく活躍している人は多い。「館ひろし」なんか66歳である。
とはいえ、会社勤めを唯一の世界観とするサラリーマン社会では「定年イコール終わった人」である。
「館ひろし」より若いのに、人として「終わった」というレッテルを貼られたら、そりゃあ様々な問題も起きる。
この本では、定年退職して手持ちぶさたになった主人公が、世間に浸透している画一的で決めつけたかのようなジジババ扱いに強い違和感を持っていることが随所に描かれる。
若者が理由もなく世の中に反抗する姿勢と似ているかもしれない。尾崎豊の「僕が僕であるために」の中高年版みたいな感じである。
50歳を過ぎたばかりの私でも主人公の心の動きが痛いほど分かった。大いに共感する一方、時に痛々しく感じる部分もあり、読み進むうちにハラハラしたり息苦しくなったり、まったく飽きずに読み終えた。
中年以上の人にとってはバイブルになってもおかしくない内容だと思う。
さきほども少し書いたが、これからの高齢化社会は「中高年の反抗」が大きなムーブメントになるような気がする。
昭和と今とを比べれば年齢に対する感覚は随分と変わってきた。若々しくなったのか幼稚化したのかは分からないが、どっちにしても大きく変わった。
昭和の頃は66歳で「館ひろし」みたいな人は世の中に存在していなかった。
ちなみに私が「館ひろし」ばかり引き合いに出すのは彼に恨み?があるからである。
http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2009/06/blog-post_03.html
今も時々「館ひろし」を銀座の酒場で見かけるが相変わらずカッチョいい。ダンディーオーラを振りまいている。あの年齢であの雰囲気をキープするのもきっと大変だと思う。
話がそれてしまった。
確かに昭和の頃は60歳も過ぎれば「ご隠居さん」みたいなイメージがあった。ギラギラした感じなどとはまったく無縁で、まさに「終わった人」だと思われていた。
サザエさんの父親である波平の年齢設定をご存じだろうか。54歳である。「柳沢慎吾」と同じ年である。「佐藤浩市」より年下である。
妻フネにいたっては48歳だ。「鈴木京香」と同じ年である。「小泉今日子」より年下である。
そのぐらい年齢の感覚は時代と共に変化している。にもかかわらず今も社会の空気は60歳を過ぎた程度で男達を「終わった人」として扱う。
そして、終わったつもりはないのに終了宣告された男達は、やれカルチャースクールに通え、陶芸を始めろ、朝からジムに行け、ボランティアに励め等々、紋切り型の生き方こそ年寄りの生き甲斐みたいな風潮にさらされる。
もちろん、そういう活動に邁進したい人はどんどん励めば良いが、そうじゃない人も相当いるはずだ。
高齢化が益々進むことで「年寄りは誰もが無条件にこうあるべき」みたいな押しつけを嫌う人も増加するだろう。
かといって、どうしていいか分からないジレンマに陥って悶々とする年寄りもワンサカ増えるような気がする。
ヘンテコな想像だが、行き着く先は「不良老人」だろう。世間への反発がツッパリやヤンキーやらの不良少年を生むのと同じ構図である。
その昔、イカれた格好でブイブイ騒いでいた暴走族は今の60代ぐらいの世代が10代の頃に生み出したものだ。
リーゼントは毛量の関係で無理でも、ソリ込みは自然に入っているし、ボンタンズボンに身をまとい、昔のツッパリ達が愛用した変なサングラスをかけて「ナメんなよ!」と大真面目に叫ぶジイサンが街を闊歩する日も近いような気がする。
リーダーはもちろん「館ひろし」で決まりだ。
2016年9月12日月曜日
プチ常連の店
外食する機会は多いが、顔なじみの店ばかりに行くのも面白くない。たまには新規開拓したくなる。
付き合いでの会食なら初めて訪ねる店に行くことも多いが、仕事の話が絡めばノンビリ過ごす気分にならない。
居心地の良さそうな店でも、連れて行ってくれた人がその店の常連だと何となく再訪する気にはならない。
で、おそるおそる一人フラフラと新規開拓に挑むのだが、ハズしちゃった時のショックが大きいので、昔ほどマメに探検できなくなった。
積極的に新規開拓しなくなったのは、億劫になったからだけでなく、居心地の良い店がいくつかあることも影響している。
月に2度3度通うような店もある一方で、数ヶ月に一度ぐらいの頻度でふらっと訪ねる店もいくつかある。今日はそんな「プチ常連」みたいな店の話。
その手の店に行くときはたいてい一人だ。止まり木感覚である。口数少なくノンビリしたい時が多い。
初訪問の店だと落ち着かないし、ヘビーローテーション?で通っている店だと何となく無駄話に花を咲かせてしまう。
プチ常連の店はしっぽり飲みたい時に最適である。しっぽりなどと言うと聞こえがいいが、要するにグデ~と放心状態でいたい時に使い勝手が良い。
この写真は銀座のおでん屋「おぐ羅」。抜群にうまいサンマの塩焼きで一献という至福の時間である。
もう随分前の話だが、こういう店でシッポリ飲むような中年男になりたいと思って割とマメに通った。今では店主から愛想のひとつも言われるが、はじめの頃はどことなく気張って座っていたような気がする。
実は子どもの頃からおでんが好きではない。でもそれでは正しい中年男?にはなれないと思ってせっせと通った。おでんが目的というより店の風情、雰囲気に惹かれたのだと思う。
中年紳士ともなれば鳥貴族やワタミでガハハハ飲むよりも、パッと見、敷居が高そうな小料理屋なんかで悠然と杯を傾けるほうが正しい気がする。いや、それが正しい。
そういう意味では、「分かったような顔をした中高年の巣窟」?みたいなこういう店は貴重な存在である。わが社がある池袋にはまず存在しないタイプの店だ。私がわざわざ銀座村に出没してしまうのも、こうしたオトナ向けの店が多いからである。
決して7丁目8丁目界隈の麗しい女性陣に引き寄せられているのではない。「正しい食、正しい止まり木」を求めているだけだ。
一応そういうことである。
こちらは同じく銀座にある日本料理の「三亀」。真っ当な日本料理を肩肘張らずに楽しめる。
居酒屋とは次元の違う揚げ出し豆腐などをツマミにカウンターでカピカピ飲んでいると心まで弛緩してくる。
こちらの店も頻繁に出向くわけではないので顔を覚えられている程度である。さきほどの「おぐ羅」もそうだが、そうした「プチ常連」ぐらいのポジションが居心地が良い場合もある。
私は極めてお人好しだから、ヘタに常連扱いされると申し訳ない気分になって大量に料理や酒を注文して勝手に苦しむことがある。
ちょっとばかり顔馴染み程度だと、こっちとしてもそんなに必死にならずに済む。まあ、一種の自意識過剰みたいな話だが、私にはそういうバカなところがあるので仕方がない。
某下町の某寿司屋にも思い出したように出かけるのだが、ウマいツマミでホゲホゲ飲んでいると握りが4貫ぐらいしか食べられない。
そういう時にいつも私の脳裏をよぎるのが「ケッ、こいつはビンボーなんだな」と店の人に思われないかという不安である。
バカみたいだ。いやバカだ。
そういう店に限って現金しか受付けないから、ブラックカードを出して見栄を張るというアホみたいな作戦も通用しない。「つりは要らないよ」などと気どるのも年配の大将に対してちょっと失礼だ。
結局、余計な弁明など出来ずに「プチ貧乏オーラ」をまとってスゴスゴ店をあとにすることになるわけだ。Mな私はそんなやるせない感じも嫌いではない。
最近出没するようになった湯島界隈で出色の存在が日本料理の「いづ政」だ。安い店ではないが非常にウマい料理を味わえる。高級路線といえども敷居が高いわけでもなく窮屈な感じはない。
一応、顔馴染み程度にはなっているので個人的に居心地は抜群だ。極端に混雑することも少ないのでゆったり飲み食いできる。
特製カツオのたたきと松茸の卵とじである。財布を無くしたり失恋した直後だろうと笑顔になれそうなウマさである。
この店は濃厚な鳥味噌が載ったふろふき大根が抜群なのだが、毎度あれこれウマいものを試しているので、なかなかそこまで辿りつけない。ご飯モノも注文したことがない。
さすがに誰かと一緒に行かないと注文できる量には限りがある。いろんなものを食べたいのなら二人以上の時にシェアするのが手っ取り早いのは当然である。
やはり「一人しっぽり」を気取りたいなら、珍味と刺身ぐらいで酒を2合ほど飲んで小一時間で引き上げるぐらいの割り切りが必要なんだろうか。
あさましくアレコレ食べたがっているようでは「渋いオジサマ」への道は遠い。
2016年9月9日金曜日
ラーメンの謎
国民食ともいえるラーメンだが、どうも私とは相性が良くない。心底ウマいと思えるラーメンに出会った記憶がない。由々しき問題である。
ラーメンが嫌いなわけではない。時々無性に食べたくなる。
でも、ファストフード系だったらどちらかといえば牛丼のほうが好きだし、高校生の頃、友達とラーメン屋に行っても、ひとりでスタミナ丼などのご飯類を注文していた。
おそらく「ラーメン愛」が足りないから、ラーメンの神様が私にイジワルしているのだろう。絶品ラーメンに遭遇しないように操作?しているようだ。
私の旧友が詩的かつ哲学的なラーメンブログを開設しているのだが、クソまずそうなラーメンだろうと真摯に向き合っている(http://blog.livedoor.jp/kin_nosuke/)。
おそらくラーメンに対する「愛」が強いのだろう。愛さえあれば、時には絶品ラーメンにも出会えるはずである。
私の場合、基本的に昼飯を食べないから、ラーメン屋の暖簾をくぐるのは酔っ払っている時ばかりだ。シラフで食べようとしない点がダメである。やはり愛が足りない。
混雑している店はイヤだから必然的にガラガラの店に入る。まるでダメである。愛が足りないどころか、脳が足りない感じだ。
ラーメンに限らず、ガラガラの店でウマいものを食べようという魂胆が甘っちょろい。
そんなわけでウマいラーメンに出会わないのは自業自得だと気付いて、最近はそこそこ混んでいる店にも入るようになった。
それでもゼヒまた食べたいと思えるラーメンには出会えていない。ラーメンの神様はいまだにフラチな私を許してくれないようだ。
先日入ったのはミシュランガイドにも載ったとかいう人気店。ちっとも美味しくなかったので店名は伏せる。東京23区の真ん中より少し西側にある。
ただただショッパイ。味が濃すぎる。
隣のオニイチャン二人連れはウマいウマいと語り合っていたから、私が間違っているのかと思って冷静に何度もスープを飲んでみた。
鶏スープが自慢らしいのでサッパリ系を想像していたのだが醤油味と塩分が濃すぎる。スープを全部飲んだら気持ち悪くなるレベルだ。
ミシュランガイドに載せようと思った人はよっぽど塩分が足りない人なのだろうか。長距離を走って汗ダラダラになった直後に食べたとか、さもなければ口の中に砂糖を1時間ぐらい入れた後に食べたとか、そんな状況だったらこの店のショッパサも有難く感じるだろう。
別の日、某下町(谷根千エリア)で寿司をつまんだ後、前から気になっていたラーメン屋に入ってみた。いつも賑わっている塩ラーメンがウリの店だ。
壁には有名だか無名だかわかんない人達の色紙がいっぱい。「味のバランスが絶妙でした!」「ウマさが脳天に突き刺さりました!」みたいなコメントも添えられていた。期待大である。
居ずまいを正して食べてみた。さっき書いたミシュランに載った店のようにゲンナリはしなかったが、やはりショッパイ。私は生粋の東京人だから濃いめの味が好きなのだが、それでもキツい。
隣に座っていた妙齢の女性はスープを全部飲み干していたが、ついつい「腎臓に悪いですよ」と声をかけたくなったほどだ。
ちなみにこの2軒だが、「食べログ」の評価は「3.8」と「3.6」である。やはりちっとも参考にならない。私の感性がヘタレているのか、それとも「食べログ」にわざわざ書き込む人達の味覚が偏っているのだろうか。
そんな私が愛しているラーメンがこれだ。大きなスーパーなどで見かける「喜多方らーめん あっさり醤油味」である。似たような商品も多いが、あくまでこの袋のヤツが最高である。
あくまで味の嗜好は人それぞれだが、そこらへんのラーメン屋に行くなら私としてはこっちのほうが幸せである。麺の食感がとくに気に入っている。
即席麺というかチルド麺というジャンルだが、近頃のこの手の商品の中でもとくに美味しいと思う。
標準茹で時間は3分だが2分で充分だ。チャーシューも買ってきて、ネギをドッサリ入れてコショウをブリブリかけて食べるのが私のお気に入りの食べ方である。
最近のスーパーは刻みネギも売っている。便利である。これを全部ラーメンに入れちゃう。途中でちょっと飽きてきたら、お酢を入れて味の変化を楽しむ。
「4.22」ぐらいの点数をつけたくなる。
ラーメンの神様から見放されている私の個人的な意見である。世の中のラーメン通の人達からは「ケッ」と言われそうだが、屁のカッパである。
今日は富豪っぽい話どころか、刻みネギを賞賛するぐらいチマチマした話になってしまった。まあいいか。
でも、ラーメンにトッピングするチャーシューにこだわれば贅沢気分も味わえる。高級スーパーでよく見かける塊ごと売っているちょっと高級なチャーシューを買うことをオススメしたい。
カットせずに塊のままかじりながら麺をすする。実に豪勢である。チャーシューがいつまでも無くならない。そこらへんのラーメン屋では体験できない贅沢である。
チャーシューの話がシメになってしまうあたりが私の「ラーメン愛」の限界である。
2016年9月7日水曜日
グダグダを退治しよう
先週、我が家が「隠居の相」だという話を書いた。鵜呑みにするのも大人げないのだが、ここ半年ぐらい割とグダグダと活気が湧かない日々を過ごしているので具体的に対抗策を練ることにした。
「そんなの気のせいだよ」という言葉は一般的に無意味だとか根拠がないとかネガティブな意味合いで使われる。確かにそうかもしれないが「たかが気のせい、されど気のせい」である。
やる気、気持ち、気分、活気、生気、運気、根気、気力。人間の行動に「気」が果たす役割は大きい。目に見えないからといって軽視すべきものではない。
「気」をアゲアゲにすることは大事なことである。
まあ、グダグダした気分を退治するために知恵を絞ろうと考えていること自体、グダグダぶりが深刻ではない証拠である。ホントにダメだったら対抗策など考えもつかずにウツウツ暮らしているはずだ。
そう思い込むようにしよう。
風水的には赤い花を部屋に置くと良いらしい。運気を維持したり高める効果があるんだとか。ホンマかいなと言いたい気分もあるが、植物を置くことは我が家にとっても良いアクセントになる。
とはいえ、私はモノグサ太郎だから花はすぐ枯らしてしまう。ということで、赤いものなら何でも同じだろうとアンスリウムとやらを置いてみた。赤い葉っぱがウリである。
結構、長い間、赤い色をキープしてくれているので便利である。週に2度ほどちゃんと水もあげている。最近では可愛く思えるようになってきた。
ヤツがダメになる頃にはポインセチアなんかも出回り始めるだろうから、今後しばらくは赤色に頼ってみようと思っている。
続いては漢方薬である。心療内科でも勧める「気力を向上させる漢方」があると聞いて早速飲み始めてみた。
その名も「補中益気湯」である。名前がいい。何かを補い気力を益す(増す)らしい。単純というか短絡的な私はこの名前が気に入った。
ネットで調べたらメーカーによって配合されている生薬に違いがあるらしく、より基本に忠実な成分で作られている商品を選んでみた。
まもなく飲み始めてから1週間になる。漢方だから即効性はないはずだ。秋も深まる頃には冷静に自覚症状の変化を考察してみようと思う。
それにしても日々グビグビ飲んでいる青汁をはじめ、年齢とともにサプリの類いも随分飲むようになった。若い頃には無縁だったものばかりだ。
DHAやセサミン、リジン、プロポリス、ビタミンC、しじみエキスなんかも飲んでいる。それ以外にハゲ予防の薬や逆流性食道炎予防の薬、血圧を下げる薬を欠かさず摂取している。
なんだか「薬物中毒野郎」みたいである。
それ以外にも不定期とはいえ、太田胃散は心の友だし、飲み過ぎそうな日に頼る無敵の薬「ミラグレーン」、寝付けない夜は安定剤の「デパス」を使うし、割と高価な目薬も愛用しているし、アッチが元気になる薬だって時々こっそり飲む。
なんだか自然の摂理にトコトン抵抗しているような感じである。物好きである。ご苦労なことだ。
一連の薬やサプリの金額をざっと計算してみたら、思った以上に高額だったのでちょっとビックリした。しっかり稼がないと大変である。でも、それって何だかヘンテコな生き方のようにも感じる。
話がそれた。
グダグダ退治の話だった。
やっぱり何より大切なのは運動だと頭では分かっているのに、身体を動かすのは億劫である。ハードな散歩がせいぜいだ。
ハードな散歩には旅に出るのが一番である。毎月のように旅に出れば健康面では最高なのだろうが、さすがにそこまで時間は取れない。
でも、数ヶ月に一度は週末を使って見知らぬ土地を2~3日黙々と歩くような計画を立てようかと思案中だ。
今月後半には京都に行くつもりだ。さっそく「京都仏像めぐり」のような本を買った。どれも似たような話しか書いていないのについつい何冊も買ってしまった。散財である。
やはり、健康的かつ快適で気力に満ちた日々を送るためには「先立つもの」が大事である。せっせと貯金に励まねばと余計なことに気付いた今日この頃である。
2016年9月5日月曜日
老舗フェチ うなぎ「高嶋家」
平和で豊かな時代の最大の幸せは「食」を楽しめることだろう。不遇の時代なら「生きるための食事」に必死で「楽しむための食事」など夢の話である。
先日、スーパーで売っていたカットフルーツのスイカを見てそんな感慨にふけってしまった。
あらかじめ食べやすくカットされているだけでなく、種がほとんど無い。もちろん、しっかり甘くてウマい。考えてみれば実に贅沢な一品だ。今風に言えば「贅沢すぎる」と表現したくなる。
飢えに苦しむ人が地球上に大勢いるだけでなく、時代をさかのぼれば日本だってロクに食えない悲惨な時代は幾度となくあった。そう考えると今の時代に生まれたことは宝くじに当たったぐらい幸運なことだ。
そんなことを思いながらも日々、好き勝手な暴食を続けている私は、いずれ「千と千尋の神隠し」のお父さんのように豚に変えられてブヒブヒした姿をさらすことになるのだろうか。
さてさて、今日も「楽しむための食事」についてだ。
家メシ、外メシで比べれば、当然、外メシのほうがレジャーの要素が強い。
外食の魅力自体が非日常性であり、そこに出かけてその場で感じる雰囲気に大きく影響される。
平たく言えば「空気感」である。供される食べ物の味と同じぐらい大事な要素かもしれない。
空気感を心地良く味わえるのが「老舗」である。オシャレでモダンな店でも非日常性は味わえるが、あまりカッチョいい店だと雰囲気自体がわざとらしい感じでソソられない。
ということで老舗の話である。
老舗が持っている雰囲気自体が客を喜ばせる。雰囲気、空気感を食べに行くようなものかもしれない。
江東区にある馬肉の「みの家」、お茶の水に程近いウナギの「明神下神田川」あたりは、店の風情そのものに趣があってワクワクする。
古いだけでなく、改築していようとも「老舗」というキーワードだけでアホな私はその店を贔屓したくなる。
東日本橋あたりの合鴨の店とか淡路町にあるあんこう鍋の老舗「いせ源」、銀座にある洋食の「煉瓦亭」、麻布十番の蕎麦「更科堀井」や新宿のカレーの元祖「中村屋」にも惹かれる。持ち帰りでも銀座木村屋のあんパンだったら何となく気分が上がる。
デパ地下の和菓子売り場に行っても、ついつい重厚感を押し出している老舗の商品を選んでしまう。ある種のミーハーである。
本当に味が分かる人はそんな「雰囲気」に左右されずにウマいマズいを判断するのだろうが、私の場合、その店の味が“標準”に毛が生えた程度でも老舗だと聞けばウホウホ喜ぶ。
ミーハーなことを嫌って、どちらかといえば斜に構えた目線を心がけているくせ「老舗」と聞くとスリスリしたくなってしまう。いわば、私の弱点みたいなところだ。
もちろん、老舗の中にもちっとも感心しない店はある。日本料理屋、蕎麦屋、天ぷら屋、洋食屋、どんなジャンルにも老舗という看板だけがウリで、実態は凄くマズい店はいくつも存在する。
「老舗ファン」の私が言うのだから間違いない。
老舗に限らず「有名店」と呼ばれる店だって当然ながらすべてがウマい店だとは限らない。行列店の商品が驚くほどマズイいことだってある。
老舗といえども観光地的?な路線になってしまった店と厳しい精進を続ける店と二極化しているのだろう。
先日、日本橋、というか人形町に程近いウナギの「高嶋家」に出かけた。日本橋周辺でウナギといえば「大江戸」か「いづもや」にちょくちょく出没するが、この店は初訪問。
昭和の雰囲気が色濃い古い建物が嬉しい。やはりウナギを食べる時はモダンな構えの店だと気分が上がらない。
まるで意味のないこだわりだが、老舗感プンプンの店だと、それ自体が調味料みたいな役割になる。
う巻き、うざく、白焼き、鰻重。どれも非常に丁寧に仕上げられていた。きっちり誠実に作られていることは一見の客でも分かる。
老舗という看板にアグラをかいちゃうとこうはいかないのだろう。まさに、正しくちゃんとした鰻料理を味わえた。
老舗フェチのようにアレコレ書いたが、まだまだ行ったことのない店はゴマンとある。もっとマメに探検したいものだ。
2016年9月2日金曜日
頑張れソース焼きそば
ラーメン、うどん、そば、パスタ等々。麺類の誘惑はデブを悩ませる。食べやすさもあってツルツルズルズル吸い込んでしまう。おかげで胃が脳に満腹指令を発するタイミングを逃してデブが加速する。
おっといけない、今日はデブの話ではなく、麺の話だった。
まさに群雄割拠の麺業界?だが、ちょっと気になるのがソース焼きそばの立ち位置だ。
ラーメンやつけ麺はスター扱いされているのにソース焼きそばは同じような麺なのに厳しい立場に置かれている。
焼きそば業界?においても、威張っているのは中華料理屋で出てくる五目やきそば、海鮮焼きそばなど、お酢をかけたくなるほうである。
画像は銀座・維新號で食べた焼きそばである。具が中にサンドイッチのように挟んである。両面を支えるのはパリッと焼かれた麺だ。こうなるとスター級?の料理になる。
というわけで、焼きそばは焼きそばでもソース焼きそばは誰もが大好きなはずなのに、「麺ヒエラルキー」の底辺にいるような可哀想な立場にいる。
カップ麺、もしくは縁日の出店でガラの悪いアンチャンが作っているイメージのせいなのだろうか。家で食べるものというイメージも影響している。
先日、週刊誌をぱらぱらめくっていたら、「焼きそば専門店」という記事を見かけた。日の当たらない存在?のソース焼きそばにも専門店があるらしい。ちょっと興奮する。
2軒紹介されていたのだが、1軒は職場からさほど遠くない高田馬場である。「真打みかさ」という店だ。さっそく行ってみた。
繁華街から離れた周りには店舗など無い路地でポツンと営業していた。カウンター10席ほどのお店で、メニューはビールと焼きそばだけである。
実に潔い。おまけに大盛りの注文もできないようだ。ただただ「焼きそば 800円」のみ。これで繁盛しているわけだから利益率は凄そうだと余計なことが頭に浮かぶ。
肝心の味は普通に美味しかった。焼きそばが好きなら素直にニコニコする味。際だった特徴があるわけではないが、ウマいラーメンほど奇をてらっていないのと同じ。誠実に作られた正しいソース焼きそばといった印象だ。
少し平べったいような太麺に具はキャベツ、ネギ、もやし、大きめにカットされたパンチェッタのような形の豚肉、そして半熟の目玉焼きが乗っかる。
カウンターの上には紅ショウガと揚げ玉が用意されている。取り放題だからデブにとっては有難い。
日頃、オトナの居ずまいだとか、鮨屋の在り方とか、正当な日本料理のダシの加減はあーだのこーだのと分かったようなことを言いたがる私だが、実態はB級グルメと呼ばれるガッツリ系の食べ物を嬉々としてガッつく「お子ちゃま味覚太郎」である。
本格的なソース焼きそばを半熟目玉焼きをグチュグチュ混ぜながら頬張るのは涙チョチョぎれ(古い)の至福の時間である。
ラーメンが麺の世界における番長だとしたら、ソース焼きそばは“裏番”みたいな存在かもしれない。普段は表に出てこないのだが、いざとなったら誰もがひれ伏す感じだ。
意味不明でスイマセン。
俗にB級グルメと呼ばれる手軽でウマい食べ物の特徴は「潔さ」だと思う。ズバっと直球勝負という感じが魅力である。面倒な理屈抜きに口の中を幸福にしてくれる。
ウンチクをちらつかせながらちょっと気取って高級料理店で過ごす時間もいっぱしのオトナには必要だが、鎧兜を脱いだ時には「気軽にガッツリ」が最高である。
こちらは水道橋の豚丼専門店「丼達」で食べた豚丼と代官山の「ALOHA TABLE」というカフェで食べたロコモコ丼である。
いずれも直球勝負である。ソース焼きそばもそうだが、ガッツリ安ウマ系の食べ物は男心をくすぐる。問題があるとすれば、ほんの数分で食べ終わってしまうことである。
ガツガツあっという間に食べてしまう行為はデブを更なるデブに進化させる。まさに魔力である。実に恨めしい。でも愛さずにはいられない。