東京出身。富豪になりたい中年男。幼稚園から高校まで私立一貫校に通い、大学卒業後、財務系マスコミ事業に従事。霞ヶ関担当記者、編集局長等を経て現在は副社長。適度に偏屈。スタイリッシュより地味で上質を求め、流行より伝統に心が動く。アマノジャクこそ美徳が信条。趣味は酒器集め、水中写真撮影、ひとり旅、葉巻、オヤジバンドではボーカル担当。ブログ更新は祭日以外の月曜、水曜、金曜。 ★★★スマホでご覧頂いている場合には画面下の「ウェブバージョンを表示」をクリックしてウェブ画面に飛ぶと下側右にカテゴリー別の過去掲載記事が表示されますので、そちらもご利用ください。
2016年10月31日月曜日
尻カメラとドカ食い
自分のことをエラいなあ~と感じるのがこの季節である。10月生まれなので毎年この時期になると身体のアチコチを検査する。
無頼派を気取りたいくせに、自ら進んで口や尻にカメラを突っ込まれに行くのだから実にエラいと思う。大真面目ちゃんである。
胃や大腸の内視鏡検査というとさも大変そうだが、私が通っているクリニックは強力鎮静剤でコテっと寝かしてくれるから痛くも痒くもない。
それどころか、その鎮静剤が物凄く気持ちよくて毎年毎年検査前はウキウキしちゃうほどである。
注射されて2分もすればフワ~となって必死に抵抗してもフガフガ言いながらストンと落ちる。熟睡だ。
気付いた時には検査用の個室に私一人横たわっている。機材も撤収済みである。鎮静剤のせいでフワフワした気分のままボンヤリする。ホントに検査したのか?と思うほどあっけなく終了する。
毎年、胃カメラを突っ込む際には、まずは喉の周辺もしっかりチェックしろ、尻にカメラを突っ込む際には前立腺周辺も確認してくれなどとワガママを言わせてもらうので何かと安心である。
血液検査もやってもらい、ついでに肺のCT検査の予約代行もお願いする。今年は以前から存在する胆のうポリープの状況をチェックするため腹部のMRIも手配してもらった。
1週間ほど経ってからすべての結果を電話で解説してくれる。実に便利だ。でも、毎年サボらずにキチンと通っている私がとにかくエラいのは確かだ。
フワフワ気分のまま検査終了。手ぶらで帰るのも面白くないから寝付きが悪いときに愛用?している安定剤やら余計なクスリの処方箋ももらう。
この後が私にとってウヒョウヒョの時間である。例年、検査終了は午後早めの時間だ。朝早くから下剤を飲んで3時間ほどかけて腸をクリアにして検査に臨むから当然、朝飯は抜きである。
というわけで、「午後のドカ食い」というご褒美が検査日の恒例行事である。クリニックは銀座一丁目だから近隣のウマい店が私を呼んでいる。
いつもなら鎮静剤のフワフワが残った状態で生ビールをカ~と飲むのが定番なのだが、今年は大腸の小さいポリープを取られたので1日だけアルコール禁止を厳命されてしまった。
今年のご褒美ドカ食いは銀座「煉瓦亭」の「チキンライス大盛り」と「海老のコキール」である。以前ならこれに加えてクリームコロッケなんかも食べられたのだが、さすがに全身劣化中なので2品だけにした。
「大盛り」の嬉しさは最初の一口二口はもちろん、中盤戦まで残りの量のペース配分を一切考えることなくガッつけることである。それに尽きる。
大盛りの食べ物といえば、味は二の次で見た目の凄さだけがウリの店が多い。その手の店は学生向けだったりするのでダンディー系?中年紳士である私には居心地が悪い。
その点、大人の客が集う老舗洋食屋の正しい王道系チキンライスを大盛りバージョンにしてもらうのは何となく収まりが良い。気分がアガる。
検査後のドカ食いといえば、過去にはパレスホテルやグランドパレスといった「ピラフの殿堂」で大盛りピラフをガッついたこともある。
ホテルのピラフはそれなりの値段を取ることもあって普通サイズでも結構なボリュームがある。それをあえて大盛りにすることで「自ら積極的に健康管理しちゃってるもんね」へのご褒美にするわけだ。
普段は絶対に朝飯を抜かない。おまけに朝からヘビーに食べる習慣がある私にとって午後まで何も口にしないことは拷問に等しい。
そんな状況で頬張るチキンライスのウマさったらバンザイ三唱、マンセー!である。細かな味など二の次?だ。死ぬほど空腹で頬張るチキンライス&ホワイトソースこってりのコキールである。
この瞬間だけは毎週でも内視鏡検査を受けてもいいと思えるぐらい幸せである。
後日出かけたMRI検査は職場に近い池袋の検査専門クリニックだ。その日も朝飯抜き、昼前に終わる予定だったので何を食べようか悩みながら検査室へ。
CT検査は慣れているのだが、MRIをやる際のアノ狭い空間に閉じ込められる閉塞感が大嫌いである。頭の中で検査後には何をドカ食いしようか考えながら気を紛らわす。
以前、脳ドックの際に頭を全部器具で覆われた際に閉所恐怖症的にパニックになった悪夢が脳裏をよぎる。
http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2010/10/blog-post_11.html
この日の検査台は脳ドックほど閉塞感は無いのだが、それでも結構ヤバい感じである。腹部を固定されたついでに腕も軽く拘束されて狭いスペースで身動きできずに20分もの間、イヤな機械音に包まれる。
放っておくとパニックになりそうだから必死に食べ物のことを考える。しかし、しかし、ここは池袋である。検査が終わった後にいそいそ出かけたい店がない。ワクワクする店がまるで思い浮かばない。
大勝軒でチャーシュー麺を食べようか、デカ盛りナポリタン専門店に行こうか、ゴーゴーカレーでトッピングしまくろうか、浮かんでくるアイディアは、どれも「検査終了後のハレの気分」を飾るにはイマイチである。
池袋という街に恨めしい気分になっていたら検査が終わっていた。イライラしたおかげで閉所パニックにならずに済んだようだ。
やるじゃないか池袋!ありがとう池袋!である。
で、結局職場に戻って至近距離にある街場の中華定食屋に行く。「肉もやし焼きそば大盛り」を食べようと企んでいたのだが、たまたま我が社の幹部社員がランチ中だったので、見栄を張って、というか痩せ我慢して「並盛り」をオーダーしてしまった。
そんなところで「上品な副社長」のフリをしたところで何も意味はない。マヌケだ。大盛りを食べなかった欲求不満の渦の中で1日を過ごすことになった。バカである。
今日はちゃんと検査に出かけてエラいという自慢話を書きたかったのに、結局、ドカ食いの話が主題になってしまった。
食欲の秋である。
2016年10月28日金曜日
銀座 夜の蝶のセンス
電子メールが一般に普及したのは。ほんの20年ぐらい前のことだ。たった20年で連絡手段は大きく変わった。昭和の頃に若者だった人間にとっては隔世の感がある。
ネオン街のオネエさま方からの営業スタイルもメール時代になって大きく変わった。
昔は当然、電話か手紙。ケータイも普及していなかったから、営業電話も当然職場にかかってきた。頻繁に電話を取り次ぐ女性社員からイヤミを言われたことを思い出す。
あの頃のオネエさま方は今より大変だったと思う。今は狙いを定めたお客さんにメールで直接アハンとかウッフンなどと営業攻勢が出来るわけだからラクちんである。
相手の名前部分だけを変えた定型文の一斉送信みたいなメールを送ってくるセンスの無いホステスさんも増えた。あれはいかがなものだろう。
それ以外に自分の名前を書いてこないファンキーな営業メールも届く。一体誰なんだろう。何がしたいのだろう。ご苦労なことである。
一度か二度席に付いただけの見覚えのない女性から毎月定期的に送られてくる近況報告みたいな営業メールもある。
迷惑メールに指定してあるので邪魔にはならないのだが、月に1回は迷惑メールフォルダを点検するので、その手のヘンテコメールがいつまでも届いていることは分かる。
まあ、ある程度の期間ならともかく、2年3年、いや、それより前にチラっと同席しただけでそれっきりなのに、懲りもせず親しげな文面を送りつけてくる神経が不思議だ。
普通に仕事が出来るオネエさま達はさすがにそんなマヌケなことはしない。出過ぎず引っ込みすぎず、こちらのリズム?を勘案して適度な距離感を保って接してくれる。
男なんて単純な生き物なんだから、そんな調子で上手に持ち上げてくれたらチョロいものだと思う。私としては距離感を縮めたい衝動に駆られることもあるが、そこから先は“神のみぞ知る”である。
まあ、こちら側に都合が良いことばかり言うつもりはないが、あまりに低レベルの営業攻勢が多いと、ついつい若い人達の非常識ぶりに腹を立てたくなる。
偏屈オジサマとしての本領発揮?である。
銀座のホステスさん達を例に取ると、やはりマトモな人とダメな人との二極化は激しい。
夜の世界に限らずどこの世界でも同じだろう。銀座の場合、プロ意識の高い人が多い街だからダメダメな人のダメっぷりが目立つのかもしれない。
こちらも別に高尚な話をしにいくわけではない。だから夜の蝶達に難しい注文を付ける気はない。それでも、あまりにモノを知らない人に当たっちゃうとさすがにシラける。脱力感すら覚える。
気配りが出来ない人も困る。真剣さがあれば自然に気配りはできるはずだ。気が利かないということは真剣さが足りないのと同じ。これまたどこの世界のどんな場面にも当てはまる。
サービス業の総本山みたいな世界だから、ダメダメな人に遭遇しちゃうと、その店自体のイメージが悪くなって、結局は足が遠のく。
どんな世界にも通じる話だろう。極端にレベルが低い人材がいると、他の人の頑張りは帳消しになって結果的にその組織全体にダメージを与える。そんなものだと思う。
オネエさま達が接客のプロなら、こちらは接客されるプロ?である。長年のクラブ活動で女性陣からいろいろなことを学ばせてもらった。
センスの良い応対をされると素直に嬉しいし見習おうと思う。「袖振り合うも多生の縁」である。男女を問わず係わった人の気分が良くなることは誰にとっても喜びである。
地球上には73億人もの人がいる。その中で何かしらの接点があって言葉を交わすことは奇跡みたいな話だ。だったらお互い気分良く過ごしたいものだ。
なんだか今日は年寄りくさい持論に終始してしまった。
エラそうに評論家ヅラして接客センスだの何だのブツクサ言ってるようでは、私に春がやってくるはずもない。夜の街を舞台にしたスペクタルな色恋劇から縁遠くなるばかりである。
もっと本能のままに行動してオネエさま達に惑わされるべきだと改めて思う秋の夜である。
2016年10月26日水曜日
革命的にウマいコンビーフ
半世紀も生きてくると、さまざまなことを分かったつもりになる。私もそうだ。たいていのことは知ってるぜ的な傲慢な態度を取りがちである。
一種の老害かもしれない。
他人様の話を聞く際に、なんでもかんでも「そんなこと知ってるよ」みたいな態度をとる中高年は多い。ヤボだと思う。
「へー!そうなんだ!」と相づちをうつのか、「ああ、あれね」と冷めた口調で応じるかではその場の空気が大きく変わる。
受け答えの際にいちいち「でも」や「だって」と言いながら話し始めるダメなヤツと同じで、中途半端な知ったかぶりはかえってバカっぽい。
いっぱしの大人だったら、年下や若い人の話には「へー!そうなんだ!」と対応するぐらいがちょうど良い。相手が気分よく話せるように配慮するのがイキってものである。
おっといけない。何だか説教くさい書きぶりになってしまった。
今日のテーマは「分かったつもりでちっとも分かっていなかったこと」である。
ちょっと大げさだが、最近とある食べ物を知って目からウロコが3トンぐらいこぼれ落ちた。
コンビーフである。たかがコンビーフ、されどコンビーフである。
コンビーフと聞いて思い浮かぶのは「缶詰」や「非常食」である。へたすると「得体の知れない肉?」というイメージすらある。
私自身、わざわざ率先して食べた記憶はない。我が家のストック棚に並べたこともない。はっきり言えば興味がなかった。
そんな私の固定観念をコッパミジンに吹き飛ばしたのが「腰塚のコンビーフ」である。半信半疑で口にした瞬間、バク転しそうになるほどウマかった。
いままでこのコンビーフを知らなかったことを猛烈に後悔した。人生の10分の1ぐらい損していたような気持ちになった。
大げさだ・・・。
ネット通販やお取り寄せの世界では有名らしい。「腰塚」とは文京区千駄木にある精肉店である。
時々出かけるお寿司屋さんへの道すがらいつも客の姿が絶えない肉屋の前を素通りしていた。でも、そこに大人気商品が存在することは知らなかった。
谷中銀座の外れに「よみせ通り」という散歩が楽しい商店街がある。その一角に割と立派な店構えで「いろいろウマいもんありまっせ~」という雰囲気を漂わせているのが「腰塚」である。
精肉以外に自家製のハムやソーセージ、加工肉などのオリジナル商品がいろいろと揃っている。その中でも大人気なのがコンビーフだ。
缶詰ではなく、真空パックみたいな容器に入って400グラムで1600円ぐらいである。アホみたいに高くないのも魅力だ。1人だったら5回分は楽しめる。
この美味しさを文章で表現するのが実に難しい。端的に言うなら「今まで食べていたコンビーフは何だったんだ?」である。
腰塚のコンビーフは味わいが実に豊かだ。ウマ味たっぷり。サッパリしているわけではないが独特の脂感?がまた良い。ほぐし肉から滲んだ脂は容器をベトつかせるほどだが、決してクドくない。
脂っぽい牛肉が嫌いな私が言うんだからホントである。
そのまま食べて良し、フライパンで軽く火を通してもウマい。個人的には冷蔵庫から出してレンジで10秒か15秒ぐらいチンして「常温より少しだけヌルい」ぐらいで炊きたてご飯に載っけて食べるのがオススメだ。
ネット上では卵かけご飯とのコラボを勧める意見が多く、店のホームページでもこんな画像でアピールしている。
一応、私も試してみたが、卵黄との相性は悪くないものの、せっかくの味が曖昧になっちゃう印象があった。個人的にはそのまま食べるのが一番だと思う。
マメに料理する人なら楽しみ方は無限大だろう。ちなみに、小量のマヨネーズと醬油をチロっと垂らして食べるのも悪くなかった。
硬めに炊いた米と一緒にタマネギのみじん切りなんかを加えてコンビーフチャーハンを作ったら間違いなく悶絶するはずだ。
そんなものを作っちゃったら他に食べたいものがなくなって重度の引きこもりになりそうだから我慢している。
明日の朝も食べよう。
2016年10月24日月曜日
くだらない画像
携帯やスマホのカメラ機能が向上したせいで、なんでもかんでもパシャパシャ撮影する時代になった。アナログ人間である私ですらバス停の時刻表やネット上で使うさまざまなパスワードなどを画像保存している。
ブログを始めて10年近くになるので、割と頻繁に食べたものやちょっとした風景を撮影する。気付けばどうでもいい画像が溜まってしまう。
見返してみると「なぜこれを撮ったのか」的なヘンテコ画像が結構ある。
今日はいつも以上に「どうでもい話」です。怒らないでください。
岸部シローである。ブロマイド屋の店頭でオモチャにされている姿が実にシュールだった。
かなり昔の写真だが、若い人の中には知らない人もいるだろう。いろいろ大変だった人だ。知りたい人はWikipediaでどうぞ。
こちらは某所の銭湯に掲示されていた注意書きである。「極端に不潔」という言葉の定義が気になってナゼか撮影。
一体どれぐらい汚れていると該当しちゃうのだろう。それを誰がどうやって判定するのだろう。謎だ。
食べ物屋さんのメニューもよく見ると楽しい。アバンギャルドという表現が合っているかもしれない。意表を突いた言葉に驚くとつい撮影したくなる。
ビーフシチウにタンシチウである。シチューではない。「シチウ」だ。20回ぐらい口に出して発音してしまった。ポークチャップならぬ「ポークチャプ」もさりげなく紛れ込んでいて可愛い。
これは下町の商店街を散歩していた時に見かけた定食屋の店先の看板である。書体が実にステキだ。これぞ昭和の香りである。
はじめは「もやしいため」と「ハンバーグ」が同じ値段だという事実が妙に気になっていたのだが、それ以外にもこの狭い範囲に謎がいっぱいある。
「とんかつ並」の値段が決められないのはさておき、塩ジャケ、いや「塩サケ」は“時価”である。途端にこの店イチ押しの高級品に思えてくる。
ここの店主は濁点、すなわち音が濁るのが苦手らしい。「湯豆腐」「肉豆腐」はあくまで「湯トーフ」「肉トーフ」だし、極めつけは「ハムエックス」である。
ハムX!!って感じでヴィジュアル系バンドがポーズを決めそうな雰囲気が漂う。
そんなくだらないことを考えながら散歩するのが楽しい。
この画像はAmazonでお米を探していた時のもの。山形産の「つや姫」が私のお気に入りだ。小分けでパックされた商品を検索していたら、セクシー系DVDが表示された。クリックしたくなったが、閲覧履歴に残るのもシャクだから頑張ってスルーした。
どうでもいい画像ばかりでスイマセン。2枚目のマネキンはあまりにセクシーで撮影してしまった。3枚目はカラオケの画面。友人が歌っていた。私が選曲したわけではないことを力説しておきたい。
キリがないのでこの辺で打ち止めにします。
最後は私が勇気づけられた某居酒屋の安っぽいメニューである。
私の好きな赤いウインナーはどうやら「野菜」のカテゴリーに入るらしい。人工着色料がブリブリで身体に悪いと思っていたのだが間違いだったようだ。
少なくともこの店で食べる時には「野菜」である。気兼ねせずにいっぱい注文しようと思う。
2016年10月21日金曜日
銀座の夜の物語
このところ銀座のネタを書いていないとお叱りを受けたので今日は銀座の話である。6~8丁目界隈の夜の世界だ。
隠居の家相の家に住んでいるせいで?頻繁には出没しないが、相変わらず時々パトロール、いや、檀家まわりに出かける。
とはいえ、昔感じたワクワク感がどうも足りない。まあ、こちらが歳を重ねたから仕方ないことだろう。
夜のクラブ活動に関して30代の頃に感じた「アウェーな感じ」「神秘的な感じ」は若者にとってウキウキすることと同じ意味だった。
今では日本茶をすすりながら葉巻をふかす怪しい50代のオジサマになってしまった。気合いも入らないし、奮闘努力する機会もなくなってしまった。いかんいかん、もっと弾けないと老け込んでしまう。
若い頃、銀座で飲んでいる人々を観察するのが好きだった。人間ウォッチングである。カッチョいいオジサマを見れば憧れたし、ゲスなオヤジを見れば反面教師にした。
こちらが歳を重ねたせいもあるのだろうが、ここ数年、銀座のお客さん全体が若返ったように感じる。見習いたいようなシブいオジサマを見かけることが減った。
昔はやたらと雰囲気の濃い初老の面々が独特の存在感を放っていた。中年クラスは少数派だったような気がするが最近は薄い雰囲気?のオジサマ達が中心的な客層に見える。
昭和感がムンムンだった世界も様変わりしたのだろう。あの街独特の重厚感を感じさせる店も少なくなってきた。
夜の世界は時代を映す鏡だからそれも時流なんだろう。
なんだかシミったれた懐古調になってきたので軌道修正。
モテる。モテない。夜の世界の客も大きく二つに分かれる。当然、男だったらモテたい。ただ、モテたいのにモテない行動をとってしまうのも男の哀しいサガである。
私も一応「記者」を名乗っている以上、モテるオジサマの秘訣を長年にわたって取材?してきた。
秘訣といっても大したことはない。活字にしちゃえば簡単なことである。
威張らない
自慢しない
悪酔いしない
金払いが良い
触らない
実に単純である。でも、その単純なことがなかなか出来ないのが世の常である。
私の場合、威張るほどの凄い実績がないから威張らない。自慢するほどのネタがないから自慢もしない。酒が強くないから悪酔いもしない。ツケが嫌いで毎回カードを使うから支払いで揉めたこともない。そして根性がないから触らない。触れない。
ということはモテモテである!モテモテのはずだ!そう思い込むことにする・・・。
私のヘタレぶりはさておき、話を聞くにつれ、威張りちらすオッサンの多さに驚く。威張りちらしたあげく夜の蝶達にキツくあたりまくってグヘグヘ飲んでいる人が結構多い。
相手が強く出られない立場なのにエラそうに接するのはアホである。きっと昼の世界で誰かに威張りちらされてヘーコラしている反動なのだろう。
自慢タラタラもある意味侘びしい。「安倍晋三とメシ食ったことあるんだぞ」「オレの部下は2千人だぜ」「ファーストクラスしか乗ったことがないぞ」、はたまた「女房の妹の旦那の親戚が松本伊代だぞ」みたいな意味不明なモノまでさまざま。
あの心理は何なんだろう。「うわー凄いですね!」と言われたい一心なんだろうか。
昔、ある人から「銀座で飲んでるヤツの半分は自慢話を披露したいだけ」と聞いたことがある。あながちマト外れではない。
まあ、私の場合も「昔はモテたんだぞ」ぐらいの不毛な?話題を展開することがある。あれも自慢といえば自慢みたいなものだ。
中高年なら誰もが思い当たるだろうが、武勇伝にもならない程度の若い頃の話を“盛った”状態で得意になって語りたがる。あれも度が過ぎるとカッチョ悪い。
男ならたいてい虚勢を張りたい気持ち、自分を大きく見せたい心理があるものだが、いっぱしの年齢になってまでそんなことに躍起になるのは単なるヤボだ。
触る、触らないの話はごく当たり前の話だ。勇気と根性がない私だって、密室で二人きりなら触ろうと努力?する。あくまでTPOが大事である。
ちなみに、触る触らないとは別に口説く、口説かないとなると違った意味が出てくる。
ぐいぐい口説いてくる客。これって夜の蝶達にとっては案外ウケがいいらしい。そう書くと女性陣が口説かれたがっているようだが、そういう意味ではない。
要するに口説きモードになっている客ほど次につながりやすいという理屈である。
オネエサマ達からすれば扱いやすいという意味だ。思わせぶりな態度をされると舞い上がっちゃう男の習性を考えれば納得できる。
潤んだ瞳で見つめられて「社長さんのこと好きになっちゃいそうです!」とか言われたら、たいていの社長さんはハッスルしちゃう。
「好きになっちゃいそうです」という日本語は「今現在ちっとも好きではありません」という意味である。女性陣は決してウソはついていない。
それでも男は舞い上がる。「あのコ、オレに気があるんだな。グヘへ~」である。
そして夢見るオジサマ達は身だしなみを整え、加齢臭に気を配り、弱っていた気力を振り絞り、夜ごと夜の街に出ることでニッポン経済を支えているわけである。
2016年10月19日水曜日
ウナギスト、ウナガー いちのや
鰻を愛するウナギスト?ウナガー?として頻繁にあの香ばしい香りを求めてさまよっている。
さまようと言っても、たいていはお気に入りの店に行くのでなかなか新規開拓には至らない。
過去に何度もテキトーに入った店で討ち死にしている。人生後半戦だから確実にウマい店にしか行きたくない。
先日、久しぶりにオヨヨなウナギに遭遇した。旅先という油断のせいもあってか“プチ失敗”である。
デカい卵焼きを載せたウナ丼が名物という某所の老舗に行ってみた。雑誌に載っていた写真に惹かれたのがきっかけだ。
いまいちだった。個人的な感想なので異論もあるだろうが、考えてみれば中途半端である。蒲焼きと卵が喧嘩しちゃっている感じ。
ウナギをくるんだ「う巻き」は好きだが、この丼モノはどっちつかず。ウナギ自体がちゃんと調理されているのに淡い卵焼きの味が混ざって全体の味わいがボンヤリしちゃっている。
結局、私の好みは「普通」とか「王道」といったコンサバ路線なんだろう。
先日、ウマいと評判の鰻屋さんに連れていってもらった。私のウナギ偏愛ぶりを知っている人が強力に推薦してきたので期待に股間、いや胸を膨らませて訪ねた。
西麻布にある「いちのや」がその店。川越に本店を構える老舗である。西麻布交差点近くに構えるこの店は、割と席数も多く個室もカウンター席もあって使い勝手が良さそうだ。モダン過ぎない雰囲気も悪くない。
本格的なウナギを出す店にしては一品料理が多い。それを断罪するグルメ評論家もいるようだが、個人的にはこういう店が好きだ。
ウナギを待つ間に気の利いたツマミでチビチビ酒を飲める店のほうがウナギ以外なんにも無い殺伐とした店より良心的だと思う。
上モノの肝焼きである。メニューには肝焼きが2種類表示されている。高いほうは店で捌いたウナギの肝だとか。この日は在庫があったので迷わず頼む。
サイズ感、味わいともにバッチリだ。タレが甘すぎる印象があったが、それがこの店の路線なのだろう。
う巻きにうざく。いずれも丁寧に仕上げられていて美味しかった。白焼きもバッチグーだった。一品料理を数多く揃えている店だと肝心なウナギが雑なケースもあるが、この店はそういう心配がない。
酒もそれなりに揃っていて、「メシ鰻」だけでなく「酒・鰻」を存分に楽しめる店だと思う。ただ、アルコール類の値段設定はちょっとビミョーだった。
鰻重もふんわりウナギにニンマリできる。やはりちょっと甘めの味付けなので好みが別れるかもしれないが、ウナギ自体はキッチリ丁寧に仕上がっている。
私にとっては立地がちょっと問題である。若い頃は六本木界隈をぶりぶり闊歩していた私だが、今ではナゼか「西麻布」とか言われるとゾワゾワ?した気分になってしまう。
まったく意味のないヘンテコな固定観念なのだが、「鰻は古い街で食べたい」という呪縛にとらわれている。
結局、どうでもいい思い込みのせいで自分の行動範囲を狭くしているのだからマヌケである。
2016年10月17日月曜日
パレスホテルのマロンシャンテリー
流行の最先端やハヤリものにナゼか拒否感がある。偏屈と言われればそれまでだが、なんとなく踊らされているような居心地の悪さを感じる。
若い頃はそれなりに流行を追っかけた。着るものにしてもデートに使う店にしてもハヤリものに敏感だった。それが都会の人間にとって当然のことだと思っていた。
いま思えば滑稽だが、若さとはそういうものだろう。そのうち自分にとっての取捨選択が進んで好みや意識も固まってくる。
いい歳して流行を追いかけるのもどうかと思うが、それはそれで感性が柔軟な証しだから、ある意味立派なのかもしれない。私はイヤだが・・・。
若い頃、それなりに流行を気にしていたとはいえ、私にはアマノジャクなところがあるので、大ヒット映画「ET」を見たがる彼女を説き伏せて武田鉄矢主演の「刑事物語」を見ていた。
当時、アメリカ大リーグのチーム名の入ったテカテカ素材のスタジャンがハヤったのだが、王道のヤンキースやドジャースではなく、ピッツバーグ・パイレーツあたりのシュールな?やつをわざわざ探したりもした。
ワラビーのショートブーツが人気だと聞けば、一応は買ってみるものの、あえてウェスタンブーツばかり履いていた。
クルマに乗るようになっても「ソアラ」より「レパード」だったし、「パジェロ」より「サファリ」だったし、「ゴルフ」より「オペル」だったし、「ベンツ」より「ジャガー」だった。
ウィンドサーフィンが大ブームになった頃にダイビングを始め、仲間がゴルフに燃えている頃には、カヌーを買ってわざわざスクールにも通った。
カフェバーだの洒落たイタリアンだのカッチョイイ店にも行くには行ったが、勝負どころ?ではエスニックや天ぷら屋を目指した。
ティラミスやパンナコッタが突然流行して世の中が大騒ぎしていた時も、あえて老舗の甘味処で白玉ぜんざいを頬張ることに喜びを感じた。
まだオープンして間もなかったディズニーランドに行きたがるワンレンボディコンのオネエサンを浅草花やしきに連れていってブーブー文句を言われたこともある。
そんな日々を過ごし、気付けばトロより赤身を好み、鰻だったら蒲焼きより白焼きを好み、ロースカツよりヒレカツを愛する大人になった。
気ままな独り者として住む場所を探す際も青山六本木方面や恵比寿目黒方面には興味が湧かずに、麹町四ッ谷界隈に惹かれつつ、小石川あたりに腰を落ち着けて「谷根千」や「湯島」あたりを散歩することが妙に楽しい日々だ。
今後、どんなジイサンになっていくのか我ながら興味深い。
今日は書こうと思った話から大幅に脱線してしまった。いつものことだが・・・。
今日書きたかったのは丸の内のパレスホテルの話だ。カッチョイイ外資系ホテルが乱立しはじめた東京のホテルの中で、独特の存在感がある憩いの場所だと思う。
パレスホテルは昭和30年代の開業である。確かホテルオークラよりも古い。住所だって「丸の内1-1-1」である。王道である。そんなウンチクだけで私としては贔屓したくなる。
数年前に全面建て替えしてモダンになったが、とんがった感じではなく上質な落ち着き感が漂う。ハヤリものと一線を画すような雰囲気が好きで時々出かける。
ある日、15才の娘が物凄く落ち込んでいた時のこと。大人ならヤケ酒という対処法があるが、子どもなら「ヤケスイーツ」だろうと思ってパレスホテルに連れていった。
目的は名物のマロンシャンテリーである。いまどきのスイーツしか知らない娘のためにニッポン洋菓子の元祖とも言える絶品を食べさせようという素晴らしい親心である。
パティシエはもちろん、スイーツなどという呼称もなかった時代から燦然と輝く珠玉の一品である。
由緒だの伝統だの歴史とか言われるとすぐに降参してしまう私が世の中で一番ウマいと思う洋菓子である。大げさだ。
でも、間違いなく本場ウィーンで食べたザッハトルテより5億万倍ぐらいウマいのは確かだ。
娘も目を丸くしながら食べていた。思えば、ここ数年は娘が目を丸くするのを見たい一心でいろんなものを食べさせてきたような気がする。バカ親である。
落ち込んでいた娘の表情もそこそこ晴れやかになり、帰り道で立ち寄ったコンビニでも甘いものをいくつも買ってもたせた。
なんて素敵なパパなんだろう。誰も言ってくれないから自分で書いておく。
でも、スタイルを気にし始めている娘としては、父親からのウマいもの攻勢にビビることが増えてきた。私にとっては切ない話である。
「親の心子知らず」。そんな言葉が身に染みる秋である。
2016年10月14日金曜日
B型だから仏像を買う
女こどもじゃあるまいし、血液型を気にすることはないが(女こどもの皆様スイマセン・・・)、B型の特徴を聞くとそれなりに自分に当てはまることが多い。
興味を持ったことに妙に集中するのもそのひとつだ。
先月、京都で仏像巡りをしてきたのだが、それ以降も仏像に魅せられている。気品のある表情や姿形、歴史に惹かれる。
ガラにもなく国立博物館にも足を運んでいる。曜日によっては夜の8時まで観覧できるから有難い。国宝だの重要文化財だのそんな有難い仏像がゴロゴロある。
お寺と違って博物館では至近距離で鑑賞できるし、横や後ろから眺めることが出来るのが嬉しい。お賽銭も不要だ。
東京はさすがである。博物館や美術館のラインナップは相当なものだと思う。仏像に限らずあらゆる芸術品や世界の名画の他、やたらと貴重なモノをごく気軽にひょっこり見に行ける。
ヨーロッパを旅すると、誰もがなんちゃら美術館やナンチャラ博物館を覗きに行くが、ニッポンの東京様も世界的に凄いと思う。見なきゃ損!だ。
国立博物館で開催中の特別展は、その名も「平安の秘仏―滋賀・櫟野寺の大観音とみほとけたち」である。
重要文化財の宝庫と言われる山里の古刹から20体もの貴重な仏像が集まっている。壮観だ。信心のない私でもついつい手を合わせたくなる。
仏像鑑賞などというとお堅いイメージもあるが、音声ガイドが実に素晴らしかった。ナビゲーターは「いとうせいこう」と「みうらじゅん」である。
こういう場所の音声ガイドは、たいてい渋い声の俳優なんかが格調高く四の五の語っているのが普通だが、聞こえてくるのは私が敬愛するエロ大王「みうらじゅん」師匠のシュールな解説である。
平安の秘仏に圧倒されながら耳に響いてくるのは師匠の語る「和尚さんの個性的なキャラ」の話である。面白かった。
別な日、日本橋の三井記念美術館に足を運んだ。こちらでは「松島・瑞巌寺と伊達政宗」展を開催中だ。
伊達政宗さんにあまり興味はないのだが、瑞巌寺の秘仏「五大明王像」が寺以外で初めて公開されるとかでいそいそと出かけた。不動明王をはじめとする恐い顔の仏像達である。
貴重な屏風や欄間、武具などを素通りして仏像コーナーに直行。しばし眺める。平安時代の作。本来は33年に一度だけ開帳される秘仏だとか。
5人?揃って完全な状態なのが凄いことである。平安時代だ。1千年も前の話である。気の遠くなるような歳月をずっと恐い顔で過ごしている仏像の大変さに頭が下がる。
五体の仏像と別に置かれていた「不動明王三尊像」も印象的だった。脇に控える童子像の表情が非常に柔らかく、ホッコリした気分で見入った。
ちなみに、その場にたたずんで童子像の意味や由来を調べていたら係員からスマホ利用を注意されてしまった。短気な私は不動明王もビックリの恐い顔を作ってキレ気味に退室するハメになった。短気は損気である。
別な日、谷中(千駄木)の「乃池」に寿司を食べに行ったついでに仏像フィギュアを衝動買いしてしまった。
入仏供養というか開眼しているわけではないので、あえて仏像フィギュアと呼ぶ。前々から気になっていた専門ショップである。全国の有名な仏像のミニチュア版が勢揃いしている。
私が購入したのは国宝第一号・広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像のミニチュアだ。20センチ弱の愛らしいサイズだが、指先の微妙な加減が上手く再現されている。
もともとこの像は、繊細な指先の表情がひとつのウリである。思索にふけるポーズである。小さいながらもこの部分が再現されているから萌え萌えである。
どこに置こうか迷ったが、寝室に置いてある腰ぐらいの高さの本棚の上に鎮座してもらった。毎晩毎晩ベッドに横になった私を見下ろす。
グーグーいびきをかいて惰眠をむさぼる私の行く末を毎晩毎晩考えてくれているようで何とも有難い。
そのうち、もう少し大きいバージョンも購入しちゃいそうである。
2016年10月12日水曜日
揚げ餅ポタージュ、豆菓子、ジェラート
いま一番幸せなことが「コーン揚げ餅ポタージュ味」をボリボリ食べることである。
新潟のせんべい屋さん「瑞花」の商品なのだが、9月始めから年内いっぱいぐらいまでの期間限定商品だ。
今シーズンの販売開始翌日にさっそく銀座の直営店に出かけて大量にオトナ買いをしてきた。待ちくたびれていたので大興奮である。
軽い食感で強すぎないポタージュ風味が絶品。世の中に溢れるポタージュ系のお菓子がもともと好きなのだが、この商品はわざとらしくない味付けが抜群である。
家で茶をすすりつつ、これをボリボリ楽しみながらテレビでバカげたコント番組を見ているのが至福の時間である。
お茶をすすりながら菓子をつまむようになったのは割と最近だ。これも加齢の症状なんだろうか。まあいいや。
最近、やたらと豆菓子が好きになった。中の豆より外側のコーティング部分の意味不明な食感や、甘いんだか辛いんだか分からない味わいに妙に惹かれる。
街を歩いていて、豆菓子を見かければ迷わずに買う。いろんな味のミックスが基本だが、単一銘柄?のラインナップも捨てがたい。
単一銘柄だと甘い豆菓子にそそられる。あずきミルク味や黒ゴマきなこ味、キャラメル味とか和三盆がコーティングされたヤツなんかもタマランちんである。
酒も好きなクセに甘いモノも好きだからちっとも痩せない。われながらよくこの程度のデブで済んでいると思う。
ファミリーマートの「口どけ贅沢プリン」は冷蔵庫にいくつも常備してあるし、この夏は「たねや」の水ようかんにもお世話になった。あんなにウマいものをどうして秋になると売らなくなるのか不思議で仕方がない。
先日、渋谷のカフェでスイーツデートをした。なんだか乙女チックである。娘に引っ張られて渋々出かけたのが真相である。
周りは若い女性ばかり。居心地が悪いったらありゃしない。目的はパンケーキである。そんなものちっとも食べたくなかったのだが浮世の義理である。
抹茶系と栗系である。味はフツーだった。というより、普通のパンケーキ以外食べたことがないから何とも言えない。
一個1300円ぐらいだったから娘にとっては大変だ。そりゃあ父親を連れて行くのも当然だろう。オトナにとっては5千円の鰻重を注文するぐらいの感覚だろうか。
パンケーキ二つに小洒落たドリンクとナンチャラ紅茶だけだったのに5千円以上払わされた。銀座のクラブみたいに意味不明な料金設定である。
高い値段の甘味と言えば、我が家に程近いジェラート屋さんの季節限定商品「完熟マンゴーソルベ」には驚いた。
真夏のある日、小石川植物園の近くにある「スペールフルッタ」という最高にウマいアイスクリーム屋さんで遭遇した。
確か1000円以上したと思う。値段に卒倒しかけたが、完熟マンゴーの風味が150%味わえるその超絶的な味のほうに卒倒した。夏の一時期限定なので来年も忘れずに食べたい。
この店、普通のアイス(ジェラート)は350円ぐらいの値付けである。安くはないがベラボーにウマい。頻繁にメニューが入れ替わるのだが何を選んでも全部あきれるほどウマい。
店名の通り、果物系はもちろん、カマンベール、パンナコッタ、黒ごま、マスカルポーネあたりも一口食べただけで途端に目が丸くなる。
いわゆるポイントカードが苦手な私なのだが、この店だけは別だ。コンビニなんかで「Tポイントカードはお持ちですか?」と聞かれても返事もせずに横を向く態度の悪いオヤジなのに、このジェラート屋さんでは、毎回ちまちまとスタンプを押してもらう。
スタンプが一杯になると一個タダになる。いつも妙にハシャいでしまう。
1000円オーバーのジェラートを食べる時は富豪気分なのだが、スタンプカードに一喜一憂している自分を思うと、やはり富豪への道は遠いと思う。
2016年10月7日金曜日
清酒、ウイスキー、トマトホッピー
秋は酒がウマい季節である。
春も冬も夏もウマいのだが、それはさておき、秋はいつにも増して酒が恋しくなる。
こんな色っぽい生イクラを前にしたら頭の中は酒、酒、酒である。
やはりこういうツマミには日本酒である。大和魂!である。これからの季節は燗酒もタマらんちんだ。ジンワリする。
「塩辛と熱燗」みたいな組み合わせに悶絶するたびに心底この国に生まれた喜びを感じる。
日本人にとって酒は特別なものだ。なんだか大げさな書きぶりだが、神道の世界では酒は神聖なものである。
酒を創ったのも神様だし、お供えするのも酒である。お清めに使われるのも酒だ。
神道の考えでは、お供えした酒は御神酒である。それを飲むと霊験あらたかなものを身体に取り込むことになり神様と一体化するわけだ。
なんとメデタイことだろう。バンバン飲まないといけない。
一説によると「酒」の語源は災いを避ける「避け」だという話もある。呑兵衛にとっては素敵なエピソードだ。
酒とつきあい始めて35年ぐらいになる。もしもこの世に酒がなかったらと考えると私の35年が途端に色あせるように思えるから不思議だ。
つくづく健康の有り難さを感じる。酒がウマいなあと思えること自体が健康のバロメーターでもある。適度に節制して長く付き合いたいものである。
さて、清酒以外にもあれこれウマい酒を楽しめるのが現代社会の恩恵だ。食べ物や気分に合わせて焼酎やウィスキー、ワイン、なんちゃらサワーまで選択肢はたくさんある。
この頃、昔よりもウィスキーが美味しく感じる。寝酒のつもりでマッカランや竹鶴をロックでチビチビするのだが、チョット一杯のつもりが止まらなくなることがある。
普段、ウィスキーといえばバーやクラブで水割りを飲む機会が多い。正直言って水っぽくてウマくないなあと思うことが多い。水で割ってる以上あたり前なのだが、ああいう場所では水割りが丁度いい。
カッコつけたりおだてられたりしながらヒャア~ホホ言いながら飲むわけだからロックでは飲み過ぎてヘロヘロになる。
寝酒なら文字通り後は寝るだけだ。舐めるように味わうロックが愛おしい。一日の終わりに鎧兜を脱いでシークレットブーツも脱いでカツラも外して裸族みたいな格好でひっかけるあの一杯は心地良く身体に染みる。
なんだかこんな事を書いているだけでウィスキーの香りが恋しくなってきた。
ついでにもうひとつ。
最近になって時々グビグビ飲んでいるのが「トマトホッピー」である。はじめてメニューにその名を見かけた時はゾっとした。でも試してみると悪くない。結構イケる。
焼酎のトマトジュース割りをホッピーで割るシロモノだ。割りモノを割りモノにする手の込んだ一品である。
青リンゴサワーとかカルピスサワーに比べると「俺って身体に良い酒を飲んでいるんだぜ」的な高揚感?がある。
まあ、一種の言い訳みたいなものである。「言いわけ酒」だ。演歌のタイトルみたいだ。
世のオジサマ達はたいていが成人病かプチ成人病だから飲み屋に行っても案外ヘルシーなメニューに目が向く。そんな心理をくすぐるのがトマトホッピーかもしれない。
今年も11月にわがオジサマバンドの素晴らしいライブが南青山で開催されるのだが、ここ数ヶ月、練習終わりの飲み会ではトマトホッピーが主流だった。
最初は誰もが恐る恐る注文していたが、今ではそのブキミさを話題にすることもなく、ごく普通のドリンクに昇格している。
そのうち青汁ホッピーとか野菜ジュースホッピーのような新メニューが登場しても躊躇せずに注文するような気がする。
2016年10月5日水曜日
お高い洋食の魅力
私にとって「東京料理」といえば洋食だ。いわゆるニッポンの洋食である。寿司やウナギも大好きだが、あちらは「江戸」である。「東京」だと洋食が頭に浮かぶ。
ヘンテコな区分けでスイマセン。
クリームコロッケやタンシチュー、ハヤシライス、オムライスあたりである。東京が近代化された後にハイカラと称されていたのが洋食だ。
洋食の場合、気軽な定食屋っぽい店と高級路線の店に分類される。ただ、かなり高級路線の店でもフレンチやイタリアンあたりに比べると、何となくスペシャルな印象?に乏しいのが現状である。なんだか残念だ。
メニューの分かりやすさのせいだろうか。オムライスなんかは喫茶店でも食べられるメニューだから特別な感じにはなりにくい。
フレンチで見られるような「聞いたことのないメニュー、どんな料理だか想像つかないようなネーミング」は一種の魔力である。
外食の大事な要素といえば非日常性だろう。舌を嚙みそうなネーミングの料理が出てくることは演出効果として大きい。
そういう意味ではハヤシライスやオムライスだと分が悪い。いにしえのハイカラ時代は遠く過ぎ去り、すっかり料理として一般化したせいで、卒倒するほどウマい洋食だとしても「スペシャルだぜ!」という雰囲気になりにくい。
そんな不憫な感じ、不当な地位に甘んじている感じも私が洋食をこよなく愛する理由である。一種の判官ビイキみたいなものだ。
それ相応の洋食屋で味わう料理の美味しさは、大げさに言えば日本人の味覚に完璧に寄り添った完成品だと思う。
今やすっかり日本オリジナルである。洋食の派生系であるトンカツを例に取れば、多くの店が民芸調の造りだし、一緒に食べるのはパンではなくご飯である。もともとが西洋料理だったとは思えない進化だ。
日本人の類いまれなる応用力の象徴が洋食というわけである。
好きすぎて力説してしまった・・・。
資生堂パーラー銀座本店の「ミートクロケット」と「オムライス」である。コロッケと名乗らないあたりがニクい。そこはかとなく老舗高級洋食店の矜持を感じる。
真偽は定かではないが、その昔、芋系をコロッケと呼び、クリーム系はクロケットと称した時代があったという話を聞いたことがある。
こちらのクロケットはまさにそれ。ハムなどが入った上質なクリームコロッケだ。一口かじればウットリする。変な話、ご飯もパンも要らない。これだけを口の中に入れていたい。
オムライスは最近主流になってきたフワとろ系ではなくオーソドックスな路線だ。かといって普通の薄焼き卵とは一線を画した繊細な卵料理と表現したくなる仕上がり。素直にウマい。
こちらは舌平目のフライ。タルタルソースもバンザイ三唱したくなる味だった。バンズに挟んで「富豪フィレオフィッシュ」にしたい衝動にかられたことはナイショである。
銀座の資生堂パーラーといえば、どことなく「気軽に入れない洋食屋」の代表だ。オムライスやカレーがウリなのに不思議な話ではある。ちなみにメニューには1万円のカレーも存在する。あえてカジュアル化には背を向けているわけだ。でも、それはそれでニッポン洋食業界にとっては必要な“仕掛け”かもしれない。「ハレの日の洋食」というジャンルは世の中にしっかり根付いていて欲しい。
こちらも銀座にある人気店「南蛮銀圓亭」だ。資生堂パーラーほど敷居が高い雰囲気はないが、喫茶店・定食屋路線の洋食屋さんとは別のロマン?ある洋食屋さんだ。
ここは居心地のよいカウンター席もあるので、ちょっと嬉しいことがあった時などにふらっと一人で出かける。小皿料理が数多く揃っているので、それをツマミに最後にシチューをドンと食べたりする。
銀座だと他にも「みかわや」が”ハレの日の洋食”を代表するお店だ。ここも高レベルの洋食が堪能できる。
幸か不幸か、値段がちっとも手軽ではないので頻繁には行けない。ある意味、その渇望感も私にとっては大事な調味料みたいなものである。
富豪なら値段を気にせず食べ散らかしに行けば良さそうなものだが、私の場合は「富豪になりたい」と叫んでいるだけのエセ富豪なのでなかなか難しい。
でも、いつの日かホンモノの富豪になったとしても、高級路線の洋食屋さんには時々行ってドキドキするほうが楽しいと思う。
2016年10月3日月曜日
ゲロッピー
ゲロを吐かなくなった。いきなりだが今日はゲロの話です。ゲロだらけです。
10代の頃は飲むたびに吐いていたような記憶がある。
20代の頃も似たようなものだ。しっかり飲めばいつでもゲロ太郎だった。
社会人になって割と早い段階で社内の急激な世代交代のせいで年齢に見合わない役職に就いた。そのせいもあってやたらと仕事の会合が多く、若造である私はバンバン飲まされた。
あの頃は身体で受け止めるように飲んでいた気がする。帰宅した途端、真っ先にトイレに駆け込んでゲゲゲのゲーだった。
30代ぐらいでようやくコントロール出来るようになったが、それでも結構な頻度でゲロッピーになっていた。
40を過ぎたあたりでようやくゲロ激減生活になったように思う。バカみたいだ。
今年も、いや昨年もゲロッピーになった記憶がない。良いことである。こんな歳になってゲーゲーするのもカッチョ悪い。
と言いながら、脱ゲロに成功した今になってゲロ男だった時代を懐かしむ思いもある。無鉄砲に飲めなくなったという現実は“大人的予定調和”の極みである。無難に収まってしまった感じがちょっとだけ淋しい。
とはいえ、ゲロゲロゲロッピーの辛さは今の私にはキツい。体力的に相当消耗する。私の場合、一線を越えると一度のゲロではスッキリせず、朝まで何度もトイレに籠もって胃液しか出ないのにオエオエしちゃう。翌日はヘロヘロだ。
一応、昔から紳士を自認?していた私は、基本的に人前で暴発ゲロをぶっ放したことはない。ちゃんとコッソリ吐く。
時には友人と「連れゲロ」することもあったが、少なくとも路上にぶちまけたりすることはなかった。
昭和のあの頃は所構わず吐きまくるバカがいっぱいいたから私などは上品なほうだったと思う。
高校の終わり頃だったか、男女混合で旅行に行った時のこと。みんなでカードゲームをやっている横で酔って寝ていた友人が仰向けで寝たまま天井に向かって寝ゲロを爆発させたことがあった。
まさに阿鼻叫喚の世界である。寝ゲロが降りかかった女の子が悲鳴とともに瞬時に服を脱ぎだし「ゲロとストリップ」という一大スペクタルショーが展開された。青春の1ページである。
さて、若い頃は酒の力を借りて女のコをナントカしちゃおうと頑張ったりもした。でも結局しょっちゅう返り討ちにあった。すなわち、こっちが先にベロベロになっちゃうパターンである。
そういう時も当然、こっそりトイレで身軽?になってから戦いの場に戻った。無駄な消耗戦である。負け戦ばかりだった。
あの情熱はどこから湧いてきたのだろう。
今ではホロ酔い程度で満足して、とっとと帰ってガーガー寝てしまう。
自慢じゃないが女性からの誘いを断ったことさえある。
訂正します。ちょっと自慢でした。
というわけで、アイドル歌謡の歌詞だったら「サヨナラの数だけ大人になった」とか「涙の数だけ大人になった」となるところだが、私の場合は「ゲロの数」だけオトナになったわけである。
今は昔より酒量も減ったが、考えてみれば昔のほうが健康だったのかもしれない。ゲロを吐くという行為は自己防衛機能だ。身体がダメ判定をシビアにくだすことである。
不要と判断されたアルコールその他が身体から強制排出されるわけだ。悪い話ではない。吐かずに済んでいる今はすべてを体内に吸収している。
強制排出機能?は加齢とともに鈍感になり、その分「沈黙の臓器」である肝臓たちが毎晩毎晩フル稼働しているのだろう。漠然とそんな気がする。
今は飲み過ぎると次の日の夕方までスッキリしない。ようやく酒が抜けたと思えても身体の底に澱(おり)が溜まったような気がする。
朝までエンドレスで黄色い胃液まで出しまくっていた若い頃は、午後になれば突然すっきりした。そうなるとデトックス完了みたいな気分になってトンカツをドカ食いするのがいつものパターンだった。
高校生の頃、友人から教わった素敵なフォークソングがある。タイトルは「教訓Ⅱ」。作詞は「なぎら健壱」である。
サビが大好きで、昔は吐きながらよくこのフレーズを口ずさんでいた。
♪ 青くなって~ もどしなさ~い
吐きなさい あげなさ~い ♪
もう私には縁遠い歌になってしまったが、これからまだまだゲロゲロゲロッピー生活を送る若者達に捧げたい。