東京出身。富豪になりたい中年男。幼稚園から高校まで私立一貫校に通い、大学卒業後、財務系マスコミ事業に従事。霞ヶ関担当記者、編集局長等を経て現在は副社長。適度に偏屈。スタイリッシュより地味で上質を求め、流行より伝統に心が動く。アマノジャクこそ美徳が信条。趣味は酒器集め、水中写真撮影、ひとり旅、葉巻、オヤジバンドではボーカル担当。ブログ更新は祭日以外の月曜、水曜、金曜。 ★★★スマホでご覧頂いている場合には画面下の「ウェブバージョンを表示」をクリックしてウェブ画面に飛ぶと下側右にカテゴリー別の過去掲載記事が表示されますので、そちらもご利用ください。
2019年4月26日金曜日
京橋 煙草 靴 牛タン
職場が京橋に移って1週間が過ぎた。なかなか落ち着かない。長年、同じ場所に通い続けていたわけだから、新天地に移ったことは新鮮だが、さすがにいろいろと勝手が違う。
オフィスからの眺めも慣れないし、一歩外に出ても、いまだに方向がよく分からない。まあ、そんな状態も新鮮で楽しいのだが、大問題なのが喫煙環境だ。
移転前は社屋内に空きスペースがいっぱいあったから、割とタバコを吸うのには困らなかった。
今回のオフィスが全面禁煙なのは仕方ないものの、ビルに外階段やベランダが無い。これがキツい。ちょろっと一服する場所がない。
おまけに、ビルの周囲も妙にノッペリとしていて、裏路地みたいな場所が見当たらない。人目に隠れて一服するのが厳しい。
徒歩2分の場所に善意の喫煙コーナーを見つけたので、なんとか悶絶死することは避けられたが、「タバコのために徒歩2分」という惨事が豊島区から中央区に移った象徴的なトピックだ。
京橋というエリアは日本橋と銀座の間に佇む良い意味で地味な街だと思う。中心部は再開発されて割と賑やかだが、少し入れば昔ながらの古美術商が点在してしっとりした印象がある。
イケイケっぽい雰囲気がないのが嬉しい。上質な大人の街などと言うとちょっと大げさか。でも個人的には凄く居心地の良い街だと思う。
気のせいか、街を歩く人々の靴がシュっとしている。まあ、魔都・池袋が比較対象だから違いがあるのも当然だろう。
いまどきの若い女性が履いているドテッとした靴が好きではないのだが、こっちエリアではあまり見かけない。キリっとした靴を目にすることが多い。
池袋との大きな違いは純粋にホワイトカラーの労働人口が多いという点だろう。パンクロッカーとかコスプレ姉さんを見かけることはないし、路上で大声で喧嘩している中国の人もいない。
界隈のウマそうな店、居心地の良さそうな店をネットなどで情報収集中だが、まだじっくり散策する時間が取れていない。連休明けから本格始動だ。
こちらは会社の人間とふらっと入ってみた居酒屋で出てきた茹で牛タン。妙にウマかった。ちょっと感動するレベルだった。
「舌菜魚」というお店。
右も左も分からない慣れない場所で、適当に入った店が当たりだと何だかトクした気分になる。これって旅行の感覚に似ている。
旅行気分で職場に通うことが出来たらハッピーである。憂鬱な顔して通勤するより精神衛生上も良い。
慣れてしまったらそうもいかないだろうから、せいぜいこの1,2か月は旅行気分が維持できるようにしたい。
★★次回の更新は5月8日からになります。
2019年4月24日水曜日
ピーナッツバター
子どもの頃に衝撃を受けたものの一つがピーナッツバターの美味しさである。
フィレオフィッシュのタルタルソースも初めて食べたときは感動したが、ピーナッツバターはそれ以上だった。
子どもだから知らなかったこともあるが、40年以上前はさすがに今ほど食べ物がバラエティーに富んでなかった。
マックシェイクにもビックリしたし、カルピスソーダの登場にも驚いたほどだった。マウンテンデューもウマかった。
話がそれた。
甘いパンといえばクリームパン、あんパンが中心だったが、まるで異次元の味わいがピーナッツバターだった。
親に頼んで買ってもらっても、異様な量を塗りたくって怒られた。そのことがまたピーナッツバターの尊さを“増し増し”にした。
あんパンやクリームパン、メロンパンと違って、あれは自分で塗らないとならない。そのメンドーな感じも悪くなかった。
今ではランチパックシリーズのせいで普通にそのまま食べられるようになったのは便利だ。
熱く語っている割には、オトナになってからはすっかりピーナッツバターとご無沙汰していた。
ところが、最近、Amazonプライムビデオで映画「三度目の殺人」を観たことで、がぜん私の中のピーナッツバター熱が高まってしまった。
役所広司が演じた男が拘置所だったか留置所にピーナッツバターを差し入れてもらうと喜ぶ設定だった。
映画のストーリーには無関係なのだが、役所広司がコッペパンにピーナッツバターを塗って美味しそうに食べる姿が妙に印象的だった。
おかげで一気に私の熱が高まったわけだ。
当然のようにまとめて数種類購入して楽しんでいる。日頃、パンを食べる習慣がないので、酔っ払って帰宅した深夜にスプーンでゴソっとすくってピーナッツバターだけを食べることもある。
つくづくパンと一緒に食べたほうが美味しいことを実感するのだが、つい手が伸びてしまう。
最近は「ピーナッツクリーム」という商品のほうが主流みたいだ。製法が違うらしい。
昔の人間としては、あくまでピーナッツバターと呼びたいが、実際に食べ比べてみるとピーナッツクリームのほうがイヤらしい感じで、甘さも官能的でウマいからシャクである。
フィレオフィッシュのタルタルソースも初めて食べたときは感動したが、ピーナッツバターはそれ以上だった。
子どもだから知らなかったこともあるが、40年以上前はさすがに今ほど食べ物がバラエティーに富んでなかった。
マックシェイクにもビックリしたし、カルピスソーダの登場にも驚いたほどだった。マウンテンデューもウマかった。
話がそれた。
甘いパンといえばクリームパン、あんパンが中心だったが、まるで異次元の味わいがピーナッツバターだった。
親に頼んで買ってもらっても、異様な量を塗りたくって怒られた。そのことがまたピーナッツバターの尊さを“増し増し”にした。
あんパンやクリームパン、メロンパンと違って、あれは自分で塗らないとならない。そのメンドーな感じも悪くなかった。
今ではランチパックシリーズのせいで普通にそのまま食べられるようになったのは便利だ。
熱く語っている割には、オトナになってからはすっかりピーナッツバターとご無沙汰していた。
ところが、最近、Amazonプライムビデオで映画「三度目の殺人」を観たことで、がぜん私の中のピーナッツバター熱が高まってしまった。
役所広司が演じた男が拘置所だったか留置所にピーナッツバターを差し入れてもらうと喜ぶ設定だった。
映画のストーリーには無関係なのだが、役所広司がコッペパンにピーナッツバターを塗って美味しそうに食べる姿が妙に印象的だった。
おかげで一気に私の熱が高まったわけだ。
当然のようにまとめて数種類購入して楽しんでいる。日頃、パンを食べる習慣がないので、酔っ払って帰宅した深夜にスプーンでゴソっとすくってピーナッツバターだけを食べることもある。
つくづくパンと一緒に食べたほうが美味しいことを実感するのだが、つい手が伸びてしまう。
最近は「ピーナッツクリーム」という商品のほうが主流みたいだ。製法が違うらしい。
昔の人間としては、あくまでピーナッツバターと呼びたいが、実際に食べ比べてみるとピーナッツクリームのほうがイヤらしい感じで、甘さも官能的でウマいからシャクである。
2019年4月22日月曜日
ちょっとサボりました
今日は更新が滞ってしまったので、過去のネタを二つ載せます。ゴメンなさい。
血液型はBです
http://fugoh-kisya.blogspot.com/2013/10/blog-post_30.html
川柳
http://fugoh-kisya.blogspot.com/2013/06/blog-post_10.html
2019年4月19日金曜日
移転の効果
気のせいか自分の「気」が少しづつ変わっているように思う。職場の移転がきっかけだ。
移転コストのうち、引越し代や移転先の造作などよりも高くついたのが廃棄費用である。いわば不要品の中にいたようなものである。
さすがに断捨離の効果はあるようで、どうしたってスッキリした気分になる。やはり動くことには意味がある。淀んだ「気」を振り払えるのは確かだろう。
で、考え始めたのが自分の家の引越しだ。いまは小石川エリアの静かな場所に住んでいるのだが、選んだ理由は職場に近かったことと子どもが遊びに来やすいという点だ。
今回の移転で職場が遠くなっただけでなく、最近は子供と外で会うことが多く、ウチに来る機会は減った。そうなると現在の場所に居続ける理由はないわけだ。
今のマンションに住み始めて4年が経つ。フロントサービスなんかもあって至極便利だし、周りには緑も多くて快適だ。
時々見てもらう謎の占い師さんには「隠居の家相」と指摘されたのだが、気にいった物件だったので躊躇なく住み始めた。
言われたことを気にしているせいもあるのだろうが、家にいると何となくドテ~っとダラけてしまう。
まあ、家なんてダラける場所ではあるが、まるで隠居ジイサンみたいである。家相のせいだとしたらちょっと問題だ。
一人暮らしだし、賃貸住まいだから、気軽に引っ越しができる立場である。人生後半戦だし、ジプシーみたいに放浪を気取るのも悪くない。
ちっとも富豪にならないし、いっそのこと「富豪記者」を「ボヘミアン記者」に変えてしまうのもアリかもしれない。
というわけで中央区で引越し先を物色中だ。中央区といえばタワーマンションばかりである。
高いところが大の苦手な私にとっては困りものである。そりゃあ30階とか40階に住めば、窓を開け放っても蚊が襲ってくることもないだろう。
でも私にとってのメリットはそのぐらいだ。エレベーターを待つのも嫌いだし、エレベーターに長い時間乗るのも恐い。
場所柄、低層のゆったりしたマンションは見つからないから、必然的に高層物件の下の方を中心に探している。
出来れば2階、せいぜい3階、頑張っても4階が希望だ。それなら階段も使える。
噂によるとタワーマンションにはアホみたいなヒエラルキーがあって、エレベーターで乗り合わせた高層階の住人は低層階のボタンが押されると舌打ちするとかしないとか。
ホントだったらビックリである。もしそんな事態に遭遇したら、舌打ちを10倍ぐらいやり返して途中階のボタンを全部押してダッシュで逃げようと思う。
京橋が職場だから銀座あたりに住んじゃうのもアリだ。自宅住所が「中央区銀座」になるのも結構ウケ狙いにはなる。
でも、「銀座」の住所表示で探せる物件はかなり少ない。築地や明石町あたりが中心だろう。あのあたりならタワーじゃなくても適当なマンションがありそうだ。
銀座エリアなら職場まで自転車通勤も可能だ。健康対策としても悪くない。でも、それならいっそのこと徒歩通勤可能な場所に住むほうが賢明かもしれない。
八丁堀、新富町あたりなら徒歩でも職場に行けそうなので、いろんな角度から楽しく検討中だ。
そんなどうでもいいことを考えているだけで気分は上がる。この歳になると、なかなか気分が上向きにならないから、そんなトピックにかこつけて運気を一気に上昇させようと思う。
2019年4月17日水曜日
タマゴ様
医者からコレステロール注意報を出されている私にとって大好きな「タマゴ様」との付き合い方は大きな課題である。
1日1個までという話は今や過去の遺物だ。2015年に発表された厚労省の指針みたいなヤツでは、タマゴを食べてもコレステロール値の上昇には関係ないというのが定説になった。
麺類やパン、お菓子などにもタマゴはブリブリ入っているから、1日1個などと言われたら困ってしまう。
1日1個という説の大元は、100年以上前の動物実験なんだとか。普段、野菜ばかり食べている草食のウサギにタマゴを食べさせたデータが基準だったらしい。
なんじゃそりゃ!っていうレベルの話である。ウサギもきっと迷惑だったはずだ。
というわけで、人間サマはタマゴを積極的に摂取しても基本的には大丈夫だとか。
とはいえ、体質的にタマゴでコレステロール値が上がりやすい人もいるらしく、また、タマゴは他の高カロリーな調味料とともに味わうことが多いから油断は禁物だろう。
私のようなコレステローラーにとって注意すべき存在のタマゴだが、敬遠しすぎるのは愚かだ。
タマゴの良い面に目を向ければ、肌質の向上や免疫力アップなどプラスの効果もいろいろあるらしい。
ましてや、男性ホルモンにも関係あるらしいから、中高年オジサマにとっては必需品と言っても過言ではない。
いつまでも適度に色気のある男でいようと思ったらタマゴとは上手に付き合うべきである。
そもそもコレステロールは、口から入ったものはほぼ身体には貯まらないという話もある。
問題なのは糖質であって、タマゴが目の仇にされるのはピント外れであることは確かなようだ。
まあ、そんなこといっても、極端に糖質制限するのもアホらしいから、何事もメリハリが大事なんだろう。
タマゴをブリブリ食べた日の次の日は控えるとか、その程度の心構えがあれば充分だと思うことにする。
馬肉のユッケだ。タマゴ摂取が多めの日にこういうものを食べる際は、卵黄を半分ぐらい食べずに我慢することがある。
悔しくてツラくて切ないのだが、末永くタマゴと付き合うためには必要な試練かもしれない。コレステローラーの宿命だ。
先日、とある会合で「死ぬ前に食べる最後の1品」を語り合ったのだが、私が即答したのはTKG、すなわち卵かけご飯である。
死ぬ前はおそらく弱っているだろうからヘビーな肉は食べられないはずだ。トンカツも厳しそうだ。冷やし中華も冬だったらちょっと違う。
ウナギもアリだが、死ぬ前に小骨が喉に刺さったりしてイライラするのもゴメンだ。
ドンブリに炊きたてのウマい白米を盛って、極上生卵を卵黄中心に2つぐらい載っけてムホムホ言いながらかっ込むのが最高だろう。
死ぬ前にドンブリ飯を食べようと考えているあたりが、私がちっともスリムにならない理由だと思う。
2019年4月15日月曜日
人生 野菜 我慢
いきなりだが、生きることって突き詰めれば我慢することだと思う。
というわけで、生きる上でもっとも楽しいことは我慢しないことである。すごい結論だ。
食べたいものだけを食べて生きられたら幸せだろう。つくづくそう思う。
私の場合、一人暮らしだから割と好き勝手な食生活である。とはいえ、身体のことを考えて時々は野菜を食べようと努力する。
野菜を食べるということは私にとって我慢以外の何ものでもない。
肉料理の皿の端っこに載っているニンジン、鍋の中でさも主役みたいな顔で威張っている白菜、カレーを食べたいのにナゼか混ざっているジャガイモ、麺を邪魔する存在でしかない五目焼きそばの野菜等々、我慢のオンパレードだ。
野菜不足を補うためにサプリをアレコレと飲み、毎日欠かさず青汁を飲んでいるから我慢は不要かとも思うのだが、どうなんだろう。
「ゴーヤチャンプルーください、ゴーヤ抜きで!」
「チンジャオロースください、ピーマン抜きで!」
堂々とそんな注文をしたいものだが、オトナの矜持?のせいで実行できないのが残念だ。
野菜が主役なら仕方ないが、“付け足し”で加えられている野菜が気になる。
新橋の某酒場で出てきた肉豆腐である。春菊が物凄く目障りだ。彩りのためだけに参加している感じが気に入らない。
カツ丼に載っかっているグリーンピースも意味不明だ。味に素敵なアクセントを加えるわけでもないのに、日本全国津々浦々で当たり前のように登場する。
カツ丼のフタを取ったときにフタの裏にヤツらがくっついて離脱してくれるとバンザイしたくなる。
同じ野菜でも薬味として活躍してくれるなら大歓迎である。というか、私は妙に薬味が好きである。野菜嫌いなのに薬味はドッサリ使う。
鍋にドカンと入っているネギは嫌いだが、薬味のネギならナゼか大量に食べる。我ながら不思議だ。
ラーメンのネギも昔は嫌いだったが、最近は好きになった。ネギラーメンだって食べられる。この点は私にとっては大いなる進化だ。
タマネギもデカいサイズで出てくると敬遠したくなるが、チャーハンに入っているような細々したヤツは好きだ。
この画像のようにゴリゴリとした野菜が入っていると、時間をかけて分別作業に励む。海外の炒めご飯系はゴリゴリ系に遭遇することが多い。要注意だ。
ヒドい時にはオクラがぶりぶりと混ざっていることもある。分別後に食べる頃には小盛りサイズになっちゃうから困りものだ。
寿司屋や鰻屋、焼鳥屋あたりに出かける頻度が高いのも野菜という邪魔者がデカい顔で出てこないからだ。
それ以外でもたいていの飲食店では、コース料理ではなく、ほぼ100%アラカルトで注文する。これも野菜を避けることが狙いだ。
天ぷら屋でコースなんか頼んだら半分は野菜になってしまう。温泉旅館でもアラカルトは現実的ではないから、時々シンドイ思いをする。
抜群に上質な懐石料理も私にとっては野菜との闘いという側面もある。
人様の目線があれば、野菜を美味しそうに食べて「さすがに旬の野菜は旨味が強いですね」などと思ってもいないことを口にする。
若い頃は何かと我慢する場面は多かったが、この歳になると無駄な我慢は避けたい。
我慢はストレスの元だ。ストレスは健康を害する。ということは、私にとって野菜は健康を害する存在という理屈になる。
こういう素敵な食べ物ばかりに囲まれて生きていければ幸せだ。
なるべくそうしようと思う。
2019年4月12日金曜日
ダウンちゃん中学生になる
今日は久しぶりに我が息子・ダウンちゃんの話を書く。気付けば12才になった。この春で中学生だ。
生まれた直後にダウン症と宣告され、お先真っ暗に感じたのも随分前のような気がする。
支援学校の小学部から中学にそのまま上がったので、とくに感慨は無いつもりだったが、小学校の卒業式で格好つけていっぱしの姿で卒業証書を受け取る姿にホロっときた。
親の私が思っているより、いろんなことが分かってきたみたいだ。最近でも元嫁サマから「あなたはあのコをなめている」と叱られる。
確かに一緒に暮らしていない分、着実に進歩している息子の姿をきちんと認識していないのかもしれない。反省だ。
先日、息子と2人で過ごした時も細かいことを自分でしっかりこなしていて感心した。以前より聞き分けも良く、物事の理解度も上がっている。
ダウン症だから仕方ない--。そんな私自身の固定観念は彼のためにはマイナスにしかならない。母親のほうがその点をちゃんと分かっている。
厳しくてもステップアップさせるように忍耐強くしつけることのほうが正しい愛情だ。
母親の判断で公文にも通い始めたが、私などはついつい「意味あるのかね」と言ってしまう。これではダメだ。投げやりが一番悪いことだろう。
分かってはいるのだが、常に一緒にいない私としては、ついつい甘やかしたい気持ちもあって叱咤激励ではなく何でもかんでも手助けしてしまう。
このブログでも、過去に何度かダウンちゃんをめぐる葛藤を書いてきた。励まされたり、同じ境遇の人達からいろんな声をいただいた。
https://fugoh-kisya.blogspot.com/2016/05/blog-post_16.html
私自身、エラそうなことをさんざん書いてきたが、結局は何も出来ていない。ダウン症の息子に適応力をつけさせるためにどんな努力をしたのかと自問自答してもロクな答えは出ない。
会った時も、好きなだけ散歩させて、ウマいものを腹一杯食べさせて、風呂でさんざん遊ばせて、好きなテレビを見させて、カルピスをどしどし飲ませて、じゃがりこを食べさせるだけである。
そう書いてみるとダメ親父である。彼の成長のために役立つ情報収集に励んだり、建設的なサポートをすることも大事だ。
ちょっと考え直さないといけない。そう思ってもついつい甘やかしてしまう。
幼い頃の散歩姿と小学校入学式の画像だ。上に載せた画像と比べると随分と成長した。健常児に比べるとはるかにゆっくりしたペースだが、着実に進化している。
それに比べて私はちっとも成長していない。それこそ、いきなり障害児の親になった頃のほうが、アレコレと思索にふけり、それ以上に情報収集とその整理に必死になっていた。今のほうが後退しているかもしれない。
まあ、後退などと書くのもシャクだから、あえて言うなら普通になったと言い換えてみたい。
「普通」。これってある意味では私にとっては進化だと思う。突然、障害児の親になった当初は普通でいられなかったわけだから確実に変わったと思う。
でも強がりではなく、ダウンちゃんとの12年の月日のおかげで、彼は彼なりに「普通」であり、親としてはそんな彼が「普通」に可愛いのは間違いない。
時に不憫に思えたり嘆きたくなる感情が沸き起こるのも、障害の有る無しにかかわらず、親としては「普通」のことだろう。
きっと息子が健常児だったとしても、私の性格上、教育熱心だったはずはない。おそらく今と同じように「普通」に甘やかしていただろう。
要は健常児だろうがダウンちゃんだろうが、たいして変わらなかったような気がする。
これからもダウンちゃんだからと構えずに、「普通」に子どもの成長に目を細めたり「普通」に悩んだりすればいいのだろう。
なんだかトピックもオチもない「普通」の話になってしまった。
2019年4月10日水曜日
大人の読書
周期的に寝付きが悪くなる。理由はさまざまだが、そんな時期はしっかり飲んで帰ってもなかなか寝られない。
眠気を誘うためには読書である。小難しい仕事絡みの本を読めば5分もあれば寝られそうだが、そんな苦行はゴメンだ。
適当な短編を中心にひとときの読書タイムに励む。パソコンやスマホを眺めていると光の刺激で脳が活性化するらしいから、電子書籍は避ける。あくまで紙である。
老眼鏡よりハズキルーペを使うことが増えた。老眼鏡はピントを合わせるだけだが、拡大鏡なら文字が大きく見えるからラクチンだ。
最近読んだ中で面白かったのがこの二つ。両方とも10年以上前の作品。短編だが、いわゆる連作形式で、一つの大きなテーマに沿って複数の話が盛り込まれている。
「千年樹」は文字通り、樹齢1000年の大木の元で繰り広げられてきた人間ドラマの話。ちょっとオカルトというか、ファンタジーの要素もある。
「終末のフール」は、数年後に地球が滅亡することが確定した中で起きる一般市民の日常の話。
地球滅亡などと聞くと突拍子の無い設定だが、あくまで残された時間が決まってしまった人間の生き方に焦点があてられていて興味深かった。
イマドキは本屋さんに行かなくても読みたい本が簡単に見つかる。「オススメの短編」といった感じでネット検索すれば、いくらでも情報が出てくる。
グルメサイトと一緒で、クチコミを参考に出来るのも助かる。大ざっぱな中身も分かるし、何よりほとんどが翌日に配達される。便利この上ない。
こういう本をめぐる環境の変化も平成という時代のトピックスだったと痛感する。
話を戻す。
いつも色恋を考えている?私としては中高年のそんな話が巧みに描かれている本に出会うと妙にワクワクする。
今年初めにNHKのBSで「モンローが死んだ日」というドラマをやっていた。妙に面白くて夢中になって見たのだが、この原作が小池真理子さんだった。
そのせいもあって、最近は小池真理子作品を集中して読んだ。世の中の高齢化にともなって、令和の時代は中高年の色恋がよりクローズアップされるはずだが、こういうジャンルを描かせたら天下一品だと思う。
ダンナさんである藤田宜永さんとは、ひょんなことから銀座で一緒に飲ませてもらったことがある。ダンディーなオジサマだった。藤田作品も中高年の色恋を味わい深く描いている。
つくづく希有なご夫妻だと思う。ふたりとも直木賞作家だ。才能と才能がぶつかり合って暮らしているわけだから、退屈しないだろうなあなどと勝手に想像している。
こちらは最近読んだ藤田宜永さんの本。気ままな独身中年男と不思議な感覚を持つ若い女性とのアレコレを描いた話。短編ではないが、サラッと読める分量だった。
男の身勝手さと幼稚性になんとなく共感してしまった。男にとって嬉しくない結末が実にリアルで面白かった。
面白い本に出会うとどんどん先が読みたくなって頭が冴えてしまうのが困りものではある。
睡眠導入用に本を開いたつもりが、面白かったら読後の興奮でベッドからモゾモゾ起き出してタバコを吸ったりして目が覚めてしまう。
まあ、それも悪くはない。
今度の10連休は旅先に本をいっぱい持ち込んで読書三昧と洒落てみようかと思っている。
2019年4月8日月曜日
なごり池袋
来週中には職場が移転する。引越しでバタバタの日々だ。池袋の今の職場に30年もいたわけだから荷物の整理も何かと大変だ。
日頃、いかにゴミの中で働いていたのかを痛感する。引越しは断捨離が大きな目的だから「悩んだら捨てる」を実行しているのだが、捨てるモノばかりである。
無駄な私物もやたらにある。変なアダルトグッズまで出てくる。移転先にわざわざ持っていくモノは少ないから、新天地ではかなりスッキリした気分に変わるはずだ。
さて、魔都池袋ともまもなくオサラバである。そんな事情もあってか、いつもより池袋界隈で飲み食いに励んでいる。
知る人ぞ知る池袋名物「ターローメン」だ。新珍味という60年以上の歴史を持つ街中華の老舗の名物料理である。
初めて食べた。昔から唯一無二の味だと聞いていたが、ちっとも興味がなかったので、池袋サヨナラ記念に食べてみた。
確かに唯一無二である。そう聞くと絶品のようにも聞こえるが、悪くいえば、マネしようと思わないような味である。
酸っぱくて少し辛いあんかけが麺を覆っている。スープというよりすべてがあんかけだ。そして強烈なニンニクの香りが醍醐味?である。
独特な味。そういう表現しか出来ない。好きな人は好きなんだろう。
こちらも人気の一品だとか。肉盛りチャーハンだ。特徴は味が濃いこと。濃いけど濃いなりにバランスが保たれていて、ガッツリ系が好きな人ならニンマリする味だと思う。
西口、北口あたりはチャイナタウンと化した池袋だが、本場系中華料理屋がひしめく中で、この店はいにしえの街中華の雰囲気。昭和ノスタルジーそのものだった。
こちらは東口の居酒屋さんで出てきたダチョウのユッケとタタキ。素直にうまかった。こういう一品をツマミに梅干しサワーをグビグビすると、何となく「嗚呼、池袋、池袋」とつぶやきたくなる。
意味不明でスイマセン。
西口の居酒屋「南国ファミリー」ともお別れが近づいている。何かスペシャルなウリや特徴があるわけでもないのに、個人的には“ツボ”だった店だ。
「池袋の居酒屋のオバチャン」というイメージそのもののオバチャンに愛想良くサービスされる程度のプチ常連だった。新天地でもこういう店を探さないといけない。
ホッピーの「中」をお代わりしてもこんな感じだったから、行くたびに酔っ払った。
ヘタな寿司屋より美味しいシメサバを始め、馬ユッケ、エビフライ、モツ焼などが私の池袋生活の必需品だった。
これはクジラの刺身。しみじみウマかった。
ぶりぶりのニンニク、ダチョウ、ホッピー、クジラ・・・。思いつくままに書いてみたら、そんな話ばかりになってしまった。
でも、そんな固有名詞が並んじゃうあたりが池袋そのものを表しているのかもしれない。
最後は今の職場の裏手、徒歩2分のところにある桜。ここの桜は個人的に思い入れがある。30年にわたって定点観測したような感じだ。
シンドかった時、楽しかった時、嬉しかった時、悲しかった時、折に触れてこの桜を眺めてきた。平成という時代をまるまるこの桜と過ごしてきたわけだ。
ダチョウやクジラの話よりも、桜の話でシメることにしたのが池袋への最後の気遣い?である。
2019年4月5日金曜日
春の酒
春とはいえ、花冷えの夜には燗酒がウマい。
というわけで、今日は酒にまつわるアーカイブを二つ載せます。
もっともらしい書き出しですが、何かとバタバタしていて、今日の分を書きそびれてしまったのが真相?です。
ゴメンなさい!
http://fugoh-kisya.blogspot.com/2012/02/blog-post_15.html
http://fugoh-kisya.blogspot.com/2008/06/blog-post_18.html
2019年4月3日水曜日
令和元年
令和。なかなかクールな響きだと思う。30年前に「へいせい」と聞いた時ほどの違和感はない。
中高年の人なら昭和から平成になった時のあの妙な感覚を覚えているはずだ。へいせい。良い悪いではなく、音の響きにカッチリした感じがなく、どことなく掴み所がない印象を受けた。
当時は昭和天皇崩御の流れでの改元だったから、新元号をめぐってお祭り的な騒ぎはなく、平成に決まった際もただただフムフムと難しい顔をして受け入れたような記憶がある。
あれから30年。「へいせい」に慣れた今では、新しい「れいわ」のほうが借り物みたいな感じがする。とはいえ、昭和人的には語尾の「わ」のおかげで、元号っぽさを感じる。
令和は万葉集に語源があるとか。梅の花がどうしたこうしたという意味合いがあるそうなので、桜より梅派である私としては好きになろうと思う。
たぶん、私の享年はこの元号になる。つまり「令和〇〇年没」となる可能性が高いから早めに馴染めるようにしたい!?。
決まってしまえば、テレビが騒いでいた新元号予想のアホらしさは一体何だったんだと思う。
安倍首相の「安」の字が入るだとか、あり得ないだろう。そんなベタなことが現実になっていたら日本中の右翼が首相官邸に押しかけて騒乱状態になったかもしれない。
徹底した秘密主義もあまり意味があるとは思えないが、天皇陛下の諡号(おくり名)としての意味合いを考えれば政府の厳重管理も仕方ないのだろう。
衆議院の副議長が政府の厳重な情報漏れ対策を巡って大げさに騒いだようだが、あのへんの正論モンスターっぷりが旧社会党系のピント外れの象徴みたいで、ある意味、わかりやすかった(笑)。
そんなどうでもいいことより、元号の候補にどのようなものがあったか、いくつの案から選ばれたのかといったプロセスの部分までかん口令を敷く必要があったのかは疑問だ。結局、「万和」「英弘」「久化」など他の候補は報道によって表に出たが、わざわざ隠匿する必要はあったのだろうか。
いま世界中で元号を使っているのは日本だけらしい。なかなか凄いことだ。グローバルな視点から不要論や廃止論も一部に根強いが、単にそんな理由で切り捨てる必要はないだろう。
世界には無いオンリーワンの習慣がこれほどまで国全体に染みこんでいることは、個性や独自性という点で、むしろ日本の格好良い部分として捉えたほうが建設的だ。
「令」の字が命令に通じるとか、中国あたりからは「令」は「零」と同じ音だから「平和ゼロ」に通じるといったチャチャが入っているようだが、どんな言葉を使おうとも揚げ足取りの声はでる。解釈をわざわざネガティブにするより、伝統的な慣習として染み渡っている元号制度の存在そのものを誇示しちゃえばいいと思う。
ついでにいえば共産主義者みたいに天皇制ウンヌンとかそっちの議論に闇雲に関連づけず、単に一つの時代のアイコンとして便利に使い分ければいいだけの話。
元禄文化、大正デモクラシー、大化の改新、明治維新、享保の改革、建武の新政、応仁の乱、大宝律令・・・、元号が特定の時代やトピックスを表す重要な“記号”になっているのは周知の通り。
まあ、そんな話を素人がつらつら書いたところでしょうがないので適当にしておく。
それにしても新元号の発表からわずか数分後にネットの検索トップページに「令和Tシャツ 1500円」が画像付きで表示されていたのにはビックリした。
そういう時代になったことを痛感した。
中高年の人なら昭和から平成になった時のあの妙な感覚を覚えているはずだ。へいせい。良い悪いではなく、音の響きにカッチリした感じがなく、どことなく掴み所がない印象を受けた。
当時は昭和天皇崩御の流れでの改元だったから、新元号をめぐってお祭り的な騒ぎはなく、平成に決まった際もただただフムフムと難しい顔をして受け入れたような記憶がある。
あれから30年。「へいせい」に慣れた今では、新しい「れいわ」のほうが借り物みたいな感じがする。とはいえ、昭和人的には語尾の「わ」のおかげで、元号っぽさを感じる。
令和は万葉集に語源があるとか。梅の花がどうしたこうしたという意味合いがあるそうなので、桜より梅派である私としては好きになろうと思う。
たぶん、私の享年はこの元号になる。つまり「令和〇〇年没」となる可能性が高いから早めに馴染めるようにしたい!?。
決まってしまえば、テレビが騒いでいた新元号予想のアホらしさは一体何だったんだと思う。
安倍首相の「安」の字が入るだとか、あり得ないだろう。そんなベタなことが現実になっていたら日本中の右翼が首相官邸に押しかけて騒乱状態になったかもしれない。
徹底した秘密主義もあまり意味があるとは思えないが、天皇陛下の諡号(おくり名)としての意味合いを考えれば政府の厳重管理も仕方ないのだろう。
衆議院の副議長が政府の厳重な情報漏れ対策を巡って大げさに騒いだようだが、あのへんの正論モンスターっぷりが旧社会党系のピント外れの象徴みたいで、ある意味、わかりやすかった(笑)。
そんなどうでもいいことより、元号の候補にどのようなものがあったか、いくつの案から選ばれたのかといったプロセスの部分までかん口令を敷く必要があったのかは疑問だ。結局、「万和」「英弘」「久化」など他の候補は報道によって表に出たが、わざわざ隠匿する必要はあったのだろうか。
いま世界中で元号を使っているのは日本だけらしい。なかなか凄いことだ。グローバルな視点から不要論や廃止論も一部に根強いが、単にそんな理由で切り捨てる必要はないだろう。
世界には無いオンリーワンの習慣がこれほどまで国全体に染みこんでいることは、個性や独自性という点で、むしろ日本の格好良い部分として捉えたほうが建設的だ。
「令」の字が命令に通じるとか、中国あたりからは「令」は「零」と同じ音だから「平和ゼロ」に通じるといったチャチャが入っているようだが、どんな言葉を使おうとも揚げ足取りの声はでる。解釈をわざわざネガティブにするより、伝統的な慣習として染み渡っている元号制度の存在そのものを誇示しちゃえばいいと思う。
ついでにいえば共産主義者みたいに天皇制ウンヌンとかそっちの議論に闇雲に関連づけず、単に一つの時代のアイコンとして便利に使い分ければいいだけの話。
元禄文化、大正デモクラシー、大化の改新、明治維新、享保の改革、建武の新政、応仁の乱、大宝律令・・・、元号が特定の時代やトピックスを表す重要な“記号”になっているのは周知の通り。
まあ、そんな話を素人がつらつら書いたところでしょうがないので適当にしておく。
それにしても新元号の発表からわずか数分後にネットの検索トップページに「令和Tシャツ 1500円」が画像付きで表示されていたのにはビックリした。
そういう時代になったことを痛感した。
2019年4月1日月曜日
銀座のクラブに漂う「気」
何だかんだと10年もこのブログを続けているのだが、閲覧数の上位は銀座の夜のネタが多い。“知る人ぞ知る世界”みたいなイメージがあるから興味本位で読む人が多いのだろう。
私も若い頃は「銀座の夜」と聞くと知的好奇心(痴的?)が湧いていろんなことを知りたがった。探究心バリバリだった頃もあった。
以前、このブログで若かりし頃に“寿司屋探検”に励んだ話を書いた。寿司屋のカウンターで悠然と構えていられる渋い大人に憧れていたから、結構無理してアチコチのノレンをくぐった。
恥もかいた分、さまざまなことを覚えた。気付けばいっぱしの?50代のオジサマになったわけだが、銀座のクラブ活動も似たような気分で探検していた感じだ。
30代ぐらいの頃は、自分の中途半端な年齢が退屈だった。若造ではないのに貫禄もない。早く成熟した渋い大人になりたかった。
一種の背伸びしたい心理である。高校生がタバコや酒に手を出しちゃう感覚と似たようなもので、銀座のクラブというオジサマの世界に興味シンシンになったわけだ。
元々が凝り性な性格だから、足を踏み入れた以上、その世界にちょっとは詳しいつもりになりたくてピーピーしながら通ったのが実情だ。
50代になって、あの街でもすっかり収まりの良い年齢になったが、その分、背伸びする感覚は無くなった。どことなく感じていたアウェーな気分も消えてしまった。
今はすっかり腑抜けた感じでグダグダ飲んでいる。シュッとした姿でいようと気張っていた頃とは大違いだ。明確な加齢である。
でも、そんな変化も悪くない。気張っていた頃も楽しかったが、肩肘張らずにホゲホゲと過ごすのも違った楽しさがある。
夜のクラブ活動にオジサマ達が惹かれる理由は人それぞれだろう。着飾った女性に囲まれることでウッシシというパターンが基本だろうが、あの空気感を味わうことが醍醐味でもある。
他のどんな飲食店とも違う世界だ。極端に閉鎖的ではないものの、クラブという名前の通り、ある意味で同好の士が集っている。
場末のスナックではないから、集う人々も現役で活躍している御仁ばかり。言葉は悪いが、いわゆる負け組的なドンヨリ感をまとっている人がいないのが特徴だろう。
世のオジサマ達は運気みたいなもの、すなわち「気」に敏感だ。銀座のクラブで楽しく飲んでいる面々は、必然的に上向きの「気」に包まれている。
そんな人達が集まれば全体に漂う「気」がドンヨリしているはずはない。これって大きなポイントだと思う。
私自身、馴染みの店でグダグダ過ごしていても、店に漂っている活気を浴びることで無意識のうちに気分が上向きになる。
「気」の大事さは年齢を増すごとに痛感する。放っておいても年齢とともに気力は衰えてくるわけだから、自分がいる場所も出来る限り「気」が良い場所を選びたい。
大衆酒場でハムカツをかじりながらホッピーを飲むのも大好きだが、大衆酒場だって運気の良い店とドンヨリした店に別れる。
ドンヨリ系の店で過ごしてしまうと、千鳥足になった帰り道で既に自分がネガティブモードに陥っていることに気付いたりする。
いうまでもなく、ネガティブな状態は精神面、肉体的にも害にしかならない。
なんだか話がそれてしまったが、自分が正真正銘のオジサマになったことで、改めてオジサマにとって銀座のクラブがどういう役割を持つのかが分かったような気がする。