2022年3月30日水曜日

生まれ変わり

 

私はプチ歴史好きである。このブログでもそんな話を幾度となく書いてきたが、もちろん高尚な学術的研究みたいな次元ではない。歴史上の人物のスベった転んだみたいな話や江戸時代の習俗みたいな話に興味がある。

 

裏面史という意味では遊女にまつわる話は避けて通れない。古来より春を売る商売は存在し、その社会的位置付けも時代と共に大きく変わったようだ。

 

遊郭、花魁、白拍子、岡場所、飯盛り女、夜鷹などそっち系の言葉が出てくると興味がぐんぐん湧いてしまう。時代と遊女の関わりの話は興味が尽きない。

 


 

そんな題材を扱った本なども目にするとつい買ってしまう。吉原の花魁が時のファッションリーダーだった華やかな話の裏で、亡くなった遊女は寺に投げ込まれていたみたいな哀しい話もある。

 

性の問題というとどうしても裏側に隠されてしまうが、国が始まってから今に至るまでどんな時代にもそれぞれ性文化があった。そこから生まれた表の芸術や文化もあるわけで、裏の部分にフタをして知らん顔するのはおかしな話だと思う。

 

その昔まだ若かった頃、江戸時代の遊女の生まれ変わりだと強く信じている女性と親しくなったことがあった。詳しくは書きようがないのだが、普段はごく普通のおとなしい性格なのに状況に応じて別人格が顔を出す。

 

その人いわく、昔の遊女絡みの話を読んだり聞いたりすると無意識のうちに涙が止まらなくなるのだという。本人の思い込みによるところが大きいというのが私の率直な印象だった。


とはいえ、男性とキスすることに抵抗があるなど昔の遊女と共通するようないろいろな習慣の話もしていたから、ひょっとしたら生まれ変わり説もあり得るかもと感じた。

 

そういう方面の話が嫌いではない私にとっては、そうした話をあり得るかもと捉えるほうが楽しい。単に眉唾モノと片付けるだけでは退屈だ。


輪廻転生、Reincarnationなどの言葉で語られるように生まれ変わりをめぐる不思議な話は世界中に存在する。ただの妄想とは言えないような事例も数限りなく報告されている。

 

先週で最終回を迎えてしまったドラマ「妻、小学生になる」を毎週物凄く楽しみにしていた。しょっちゅう泣いた。10年前に死んだ妻が10歳の少女になって帰ってくるという奇天烈な話だったのだが妙にハマった。

 

生まれ変わりではなく、死んだ妻が一時的に小学生に憑依していたという設定だったのだが、冷静に考えればバカみたいな話だ。でも私は何の違和感も覚えずに真剣に見てしまった。とても良いドラマだった。

 

そういう非科学的な話は一笑に付されることが多いが、世の中には不思議な話はいっぱいある。オカルト的な話を闇雲に信じているつもりはないが、それなりに不思議な体験もしてきたから、人知の及ばないことがあっても驚くほどでもない。

 

だから遊女の生まれ変わりを自称する人の話を頭ごなしに否定する気もなかった。ひょっとしたらそんな話があってもおかしくない。いや、そんな話があったほうが世の中「いとをかし」だと思う。

 

なんでもかんでもドライに気軽に効率ばかりが優先される今の時代にあって、昔の遊郭文化にみられたような「面倒くさいこと」「妙なしきたり」「暗黙のルール」みたいなことはどんどん失われていく。

 

厄介より簡単なほうが有難いが「厄介の効用」もあながち捨てたものではない。厄介さの中から学ぶ事柄は多い。それこそ学校や教科書では教えない大人の嗜み的なことはその多くが非合理的な習慣や不条理な経験によって身に付くものだろう。

 

そういう意味でも昔の遊郭文化を始めとする性産業の裏面史的な話を知るのは大人としての知的好奇心、いや痴的好奇心が刺激されてなかなか面白い。

 

今日はそんな話を書いたついでに10年前に考察した昔の吉原と現代の銀座のヨモヤマ話を織り交ぜたアーカイブも載せておこうと思う。

 

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2012/02/blog-post_27.html

 

いつの時代も男として生きている以上、イキとヤボを気にしながら世の中を渡っていきたいものだ。

 

 

 

 

 

 

 

2022年3月28日月曜日

8年前と11年前の話

 今日は更新が間に合わなかったので過去ネタを二つ載せます。



宗教とか畏怖の念とか

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2014/04/blog-post_9.html



ラブレター

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2011/10/blog-post_19.html





2022年3月25日金曜日

匂わせ


「匂わせ」なる行動がSNSなどで話題になる。何となく気付かせるようにほのめかすことである。若者がそれとなくリア充デートをしていることを間接的に自慢するような話だ。

 

人間、誰だって自慢したい気持ちはあるからこういう現象も別に不思議ではない。匂わせる程度にしておくなら可愛いものである。

 

思えば若者に限らず、オッサンオバハンだって何かを発信する時には「リア充アピール」をしたくなるものだろう。わざわざ不幸自慢をする人は珍しい。

 

幸せなら結構なことだ。そんなリア充にカリカリしたりイライラするのもバカらしい。素直に「いいね!」をポチっとすればいいのだろう。

 

「匂わせ」が話題になるのは有名人と付き合っている女性が投稿画像の端っこにそれと分かるようなグッズを置いたり、ペアの小物を持っていることをさりげなくアピールするような時だ。

 

まあ、それを必死に探し出して糾弾する有名人のファン達のストーカー的な気質は気持ち悪い。ちょっと怖い。ネットの世界の殺伐とした感じを象徴する話だ。

 


 

こんな画像も匂わせに該当するのだろうか。単にトロタクが写っているより臨場感があって良いと思うのだが、見る人が見ればいやらしい話に変わってしまう。

 

こんなストレートな画像ではなく、もっと間接的な画像を「匂わせ」と呼ぶのだろうか。たとえば、カジュアルなビストロでボトルのシャンパンが映り込んでいるケースだ。そんな店で一人でボトルのシャンパンを飲むヤツはいないだろうから誰か連れがいるという意味合いになるわけだ。

 


 

続いては私がドカ食いをしている画像だ。一人でこんなに注文するはずがないという意味で連れがいるという意味になる。もちろん、連れは男かも知れないし、家族かも知れないが、有名人だったらこんな画像でも“お忍びデートか?”とか疑われるわけだから大変だ。

 

もっとも、私の場合、若い頃だったらこのぐらいの量のメシを一人でしっかり食べられたから断固一人メシだと言い張るのも一興かもしれない。

 


 

私もFacebookなどにちょこちょこどうでもいい話を載せるが、女性と一緒の時はそれを隠すこともない。女性と一緒に食事をすることぐらいオトナだったら誰にでもある話だからとくに意識しても仕方がない。

 

もちろん、あえて自慢気に「デート中だぜ!」みたいな話になることもある。でも、しょせんは何かしらのシガラミがある相手か夜の同伴に付き合わされているだけだったりするので、どちらかといえばウケ狙いの文章をセットで載せる。

 



 

SNSに載せる画像なんてしょせんスマホサイズで一瞬だけ見られるものだ。必死に美しく撮ろうが見せられるほうはじっくり吟味するほどヒマではない。

 

ウナギを食べに行ったとする。すっかり高級品になっちゃったから鰻重の画像はそれだけで「リア充」みたいな存在感がある。でもそれえだけだと面白くない。せっかくなら「匂わせ」を通り越して綺麗どころに出演してもらった方が画像として楽しい。

 

題して「ウナギとうなじ」である。

 



 

このシリーズはもう10年ぐらい前から機会があるたびに撮らせてもらっている。バカである。まあバカなことをしているほうが人生は楽しいから仕方ない。

 

でも人によってはこういう画像を「オレって女性を連れて高いウナギを食べに行けちゃうんだもんね」という自慢ネタだと思われる恐れもある。心外だ。

 

そういう時は私自身がしっかりうなじを披露して画像に収まってみる。結果、うなじという部位は女性だからこそ魅力的に見えるという真理に気付くことにもなる。

 


 

なんだか話がまとまらなくなってきた。匂わせというSNS全盛時代の現象を書いていたつもりが脱線してしまった。

 

匂わせイコールほのめかすことである。私のような単細胞男だと単に気付かないから、ほのめかすよりそのものズバリでアピールをしてもらったほうが有難い。

 

「いま楽しくデート中です。食事の後はムホムホな展開に持っていくつもりです。皆さん応援してください」といったドストレートな投稿を読みたいものである。

 

そんな明るく爽やかな投稿にはこんな画像を使って欲しい。

 


 

そんなアッケラカンとした話ばかりになれば世の中の空気はもっと大らかになるような気がする。

 

それにしても私のストック画像のヘンテコぶりに我ながらシャバダバな気持ちになる。まあいいか。






2022年3月23日水曜日

連敗は続く

 

社会人になって30ウン年。思えば社会は随分と変わった。革命的に変わったのがタバコをめぐる環境だろう。喫煙者のまま時代に取り残された私にとってはITの進化よりもその変化の凄さを痛感させられる。

 

私がタバコに手を出したのは1980年ぐらいだ。当時の成人男性の喫煙率は8割近かったと思う。8割って凄い。病人とか変人以外は全員スパスパしていたわけである。

 

いまや25%ぐらいの喫煙率だから、私のような時代遅れの人間は実に肩身が狭い。まるで犯罪者のようである。

 

だったらヤメろと言われそうだが、嗜好品だからなかなか簡単にやめられない。コーヒー、酒あたりは迫害を受けていないから実に羨ましい。

 

まあ、そんな愚痴を書いたところで時代の趨勢にまったく影響はない。ブツクサ言いながらコッソリ喫煙生活を続けるしかない。

 

職場が禁煙だから、時たま流し場の換気扇の下で隠れてタバコを吸う。大のオトナとして実に残念な姿である。シャバダバである。

 

仕事を終えて一杯やろうと思う時は当然タバコが吸える店に入りたい。でもそれが無い。なかなか無い。滅多に無い。トキやニホンオオカミを探すぐらい見つけるのに難儀する。

 

年々、喫煙可能な飲食店を探すのが大変になってきたのは事実である。最近も連敗!!続きである。

 

タバコが吸えてそれなりにウマいものも食べられる居心地の良い店はいくつか知っているのだが、そこじゃない店に行きたい時もある。

 

某日、わが社がある京橋からぶらぶら歩いて銀座一丁目界隈を散策。目的は喫煙な店を探す一点である。どこもかしこも禁煙マークを誇らしげに貼ってある。結局、4丁目のほうまで辿り着き、「全席タバコOK」という大きな貼り紙が魅力的な沖縄料理屋に吸い込まれた。

 


 

タバコを吸いながら一杯やれれば大満足のはずが、入ったら入ったでワガママな私はウマいものが食べたくなる。ラフテー、アーサの天ぷら、豆腐よう、ジーマミ豆腐あたりを並べて泡盛を飲んだのだが、正直どれもいまいち。ちょっと残念だった。

 

別な日、茅場町周辺をぶらぶら。相変わらずタバコが吸える穴場探しである。足がかなり痛くなるまで歩き回ったがピンと来る店が無い。

 

仕方なくチェーン店のモツ焼屋に入る。バイスサワーやホッピーを片手にもろきゅうや串焼きをかじりながら過ごす。マズくはないけどウマくもない。赤いウインナーを久しぶりに食べたことぐらいが収穫?だった。

 



 

わが家の近くにあるタバコの吸える快適な店か銀座にあるタバコが吸える快適な店に行けば良かったと後悔する。本当に後悔ってヤツは後からじわじわやってくる。不思議なもので最初はタバコが吸えるだけで有難かったのにだんだん感謝の心を忘れてしまう。人間の業みたいな世界である。

 

別な日、喫煙者歓迎の大衆酒場が人形町にあったことを思い出して仕事を終えてわざわざタクシ-で向かう。そこならそこそこウマい一品料理もあるから知らない店に突撃して撃沈するような悲惨な事態は避けられる。

 

で、数ヶ月ぶりに訪ねたその店は喫煙スペースが新たに用意された変わりに席では吸えないシステムに変わっていた。ジェジェジェ!である。アッパーカットを食らった4回戦ボクサーのように崩れ落ちそうになった。

 

悩んだが結局その店で妥協せずにブラブラと散策。タバコはやはり座って吸いたい。その後「タバコ吸えます」という店がいくつか目に付いたので余裕を持って店構えなどを吟味しながら歩く。

 

結局、下町っぽい渋い風情の店に決める。軒先に出ていた自慢メニューに惹かれてノレンをくぐってみた。客は誰もいない。ドンヨリした雰囲気。おまけにカビ臭い。ハズレを引いた予感大だったが、歩き疲れていたので、つい生ビールを頼んでしまった。

 

もう後には引き返せない。でも、軒先に誇らしげに書かれていた自慢メニューに期待してスパスパしながらビールをグビグビ。注文を取りに来た店主に例の自慢メニューを頼んだら「今日はありません」と衝撃の返事が返ってきた。

 

あまりのショックに金縛りに遭いそうになった。仕方なく怪しげな刺身と怪しげな豆腐料理とマカロニサラダを注文した。マカロニサラダがごく普通だったことに救われた夜だった。

 


 

タバコを吸わない人からすれば実にバカげたくだらない話にしか思えないはずだ。でも仕事終わりに一服しながらゆっくり一献傾けたい気持ちが分かる少数派の人には理解してもらえる切ない話だと思う。

 

4月に入ったらわりとすぐに引っ越しである。最近、時間があれば新居の周辺を散策している。目的はもちろん喫煙可能な飲食店探しである。なかなか見つからない。ツラい。





2022年3月18日金曜日

10年ひと昔の話


10年ひと昔と言われるが、このブログも長年書いてくると10年ぐらい前に書いていたことと今の自分が書いていることの違いを実感する。

 

10年前のほうが勢いがあるというか、エネルギッシュな感じがする。40代半ばと50代半ばの違いなのだろう。なんだか負けた気がして悔しい。

 

人間の細胞は日々生まれ変わっている。半月前と今とでは半分ぐらい細胞が入れ替わっているという話を聞いたことがある。そう考えると10年前なんてまるで別人だったのかも知れない。

 

当時は離婚問題などもあって今思えばたいしたことではなかったように感じるが、そのテーマに直面しているときはやはり葛藤もそれなりにあったのだろう。そんな心理が影響しているような書きぶりが多い。

 

なんとなく悶々としているようなウジウジしているような感じだ。自分の殻を破りたいような感覚で必死に書き殴っているような話が多かった気がする。

 

いまなんてアレがウマいとかダルくて仕方がないとか実に平和なネタばかりである。これはこれで幸せだが、やはり人間は何かしらの壁や葛藤に直面しないと脳ミソや感情をフル稼働させることは出来ないのかもしれない。

 

次に紹介する話などは自分が中高年という世代になったことでの焦りというか、現実に歳を重ねてきたことによる焦燥感が強い。もがいている感じが出ていて今読み返すと我ながら「若かったなあ」と感慨深い。

 

茨城のり子さんの誌を引用しているが、この頃はわりと名言や人生訓みたいなものに敏感に反応していた。こういう自分を奮起させるような姿勢は今の自分にはちょっと足りない。

 

★中年雑記

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2012/05/blog-post_28.html

 

次に紹介する話もマザーテレサの言葉を引用している。その当時、東日本大震災の直後に感じた無常観や人生観の変化を自分の中でなかなか整理しきれなかった記憶がある。

 

大袈裟に言えば、人生後半戦を迎えて「生き方」みたいなことを真面目に考えてみたくなったのかもしれない。ボンヤリ惰性で生きてきた前半生を振り返ってやはり焦燥感に駆られていたように思える。

 

★解脱したい

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2011/11/blog-post_30.html

 

そして10年ほどがあっという間に過ぎ、今の自分を俯瞰してみると、とくに何も変わったところはない。焦燥感みたいなものにもすっかり慣れている。老け込んじゃったのだろうか。それとも達観しただけだろうか。

 

まあ、当時感じていたような悶々、葛藤みたいな要素はだいぶ無くなってきているからそれはそれで幸せなことではある。あとはエネルギッシュに行動するよう自分にい聞かせることが大切だろう。

 

次に紹介するのも自分がソコソコ元気ハツラツだったから遭遇した話だ。このぐらいのノリで今後も世の中を渡っていければ楽しそうだ。

 

★ラブラブ活動と景気

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2011/10/blog-post_17.html

 

なんだかバカげた話ではあるが、世の中の空気や景気、高揚感なんてしょせんはフシダラさと大きく関係している。七面倒くさい話をウダウダ書いているよりアッケラカンとポジティブ指向でいることが一番大事だと思う。





2022年3月16日水曜日

ヘドロマヨ醤油とか


人には言えない変な食べ方。誰もが一つや二つはあるはずだ。納豆に砂糖を入れて食べる人の話を聞いて驚いたのだが、そんなパターンはいろいろあるのだろう。

 

餃子をパンに挟んで食べる人もいるらしい。なんだか不思議な光景が頭に浮かぶ。試したことはないからブツクサ言えないが、好きな人にとっては単にウマい食べ方なのだろう。

 

カップヌードルにお酢をドバドバ入れて食べる知り合いもいた。一種の性癖みたいなもので他人がとやかく言う話ではないが、そういう個性的な食べ方はあまりオモテに出てこないから実に興味深い。

 

世界中で日々こっそりと想像を絶するようなヘンテコな食べかたを繰り広げてニンマリしている人が大勢いるのだろう。

 

私がヘンテコな食べ方に初めて衝撃を受けたのが「巨人の新浦投手」だ。私が小学生の頃の話である。確か月刊ジャイアンツというファン向けの雑誌に書かれたいた話だ。

 

「ご飯にサイダーをかけて食べる」。新浦投手の好物だとか。衝撃である。サイダー好きの子供だった私でも試そうとは思わなかった。それ以来ウン10年もその話を覚えているのだが、いまだに試す勇気がない。

 

私にもそれなりに変な食べ方をしてきた経験はある。子供の頃に好きだったのが、「麦茶のお茶漬け」だ。夏になるとしょっちゅう食べていた。

 

ご飯に冷たい麦茶をかける。具は決まって瓶詰めのなめたけだった。大人になってからは食べていないが、ドンブリで食べるほど好きだった。

 

いま思えばせっかくのご飯に冷たい麦茶をかけちゃうのはヘンテコだが、猫舌のお坊ちゃん!?にはとても魅力的な食べ物だった。夏になったら久しぶりにトライしてみよう。

 

やはり小学生の頃、ご飯に普通のお酢をドバっとかけてそれだけを食べるのも好きだった。いま思えばツンツンきそうで気持ち悪いが妙に美味しく感じた。何杯もオカワリをした。

 

今もお酢は大好きで、いわゆる中華料理屋の焼きそばにはアホみたいに酢を投入したくなる。お酢をかけない五目焼きそばなら食べたくない。お酢が主役になるぐらい投入するのがカギだ。

 


 

酢といえばタラコである。とくに生のタラコだったら絶対に酢にビチョっと浸して食べたい。この画像、タラコの手前の小皿には酢が用意してある。タラコをひたひた浸すためだ。

 

以前、Facebookでこの食べ方を紹介したら多くの友人から奇人扱いされたが、一人だけ子供の頃からそうやって食べるのが標準だと私を支持してくれた人がいた。凄くホッとした覚えがある。

  

子供の頃の懐かしい味としては「次の日の余った天ぷら」も捨てがたい。家庭の天ぷらはたいてい衣が多めでブワっとしている。余った残り物は次の日になるとブワッとどころがグチョグチョシンナリ状態になっている。

 

これを電子レンジで温めると得も言われぬデロデロベショベショ状態に進化を遂げる。こうなったら天つゆではない。ウスターソースである。デロベショな天ぷらモドキから滲み出る油とウスターソースの融合が食べ盛りの少年だった私には刺激的だった。

 

いまは絶対に食べたくない・・・。

 

そして真打ちみたいな食べ物が「ヘドロマヨ醤油ご飯」だ。少年時代の好物だった。なんなら今でも嫌いではない。元々はハムにつけるタレだったのが、熱いご飯に塗りたくって混ぜ合わせて食べると最高だ。

 




 

以前、ハムの食べ方を書いた際にこのブログに載せた画像だ。醤油にマヨをどっぷり投入して混ぜ混ぜする。そこにハムをピチョっとつけて食べるわけだが、ポイントはヘドロマヨ醤油がついたハムをご飯にバウンドさせることである。ご飯が悩ましい味に変わる。

 

それが高じてハムを二の次にしてタレ部分だけをご飯に混ぜ合わせてそれだけで食べることも多かった。未体験の人にはぜひ試していただきたい。

 

世の中にはもっと凄い食べ方を人知れず実践している人は多いはずだ。私の食べ方など極めて真っ当で常識的で上品すぎるぐらいだろう。

 

この歳になると新たな冒険をすることがなくなった。奇天烈な食べ方の中には目からウロコみたいな美味しいものもあるはずだから皆さんが隠している秘技なども教えてほしいものだ。

 

 



2022年3月14日月曜日

3回目の副反応は?


またコロナのネタで申し訳ないが、3回目のワクチン接種に行ってきた。ネットで予約できたのは茅場町の耳鼻咽喉科だ。受付してから3分ぐらいで注射してくれた。優秀だ。

 

ワイシャツをめくって腕を出すだけではダメで肩まで露出しろと言われてたじろぐ。結局、ネクタイを外しスリーピースのチョッキやワイシャツも脱ぐはめになってイライラしたのだが、これが正解だった。

 

今回は接種した場所がやたらと痛くなったので肩に近いところに注射してくれたことは大正解だった。腕側だったらもっとシンドかったと思う。

 

午前11時に注射をうって、夕方からボーっとしてきたので少し早めに帰宅した。まだ熱は上がっていない。軽い頭痛とちょっとダルさを感じたぐらいだったので、普通に食事してノンビリと映画鑑賞タイム。

 

いにしえの大ヒット映画「ミート・ザ・ペアレンツ」のパート12を一気に見る。ロバート・デニーロとダスティン・ホフマンが真剣にコメディに徹していて楽しめた。

 



12時ぐらいに寝室へ。熱は37度台前半でダルさはやや強まってきた。注射した箇所はやたらと痛い。とっとと寝る。

 

明け方5時ぐらいに目が覚める。全身が痛い。頭も痛い。熱は38度台後半。寝ているうちに副反応がしっかり出始めていた。ロキソニンを飲んで寝直す。

 

その後、2時間おきぐらいに目が覚めるが、相変わらず全身が痛い。頭も痛い。会社は休むことにする。その後も寝続けて気付けば午後2時。都合14時間ぐらい寝たことになる。異常だ。

 

やたらと眠気が強かったのが今回の特徴だ。昨年の2回の接種ではいずれも眠気が強まった記憶はない。全身の痛みばかりがキツかった。

 

前回までのファイザーと今回のモデルナで副反応がどう違うのか比べてみると眠気が強いかどうかが特徴みたいだ。もちろん個人差はあるだろうが私の場合はひたすら眠かった。

 

ゆるゆる起き出した午後、熱は38度前後。やることもないからテレビをボーッと見る。あんなに寝たのに気付けばしっかりうたた寝をしていた。

 

夜が近づくにつれ熱は37度半ばで安定してくる。さほどキツい感じはない。全身の痛みも夕方になってからはピークの半分程度に治まってきた。

 

その後、4月に引っ越し先に決めた物件の契約をめぐって仲介業者との間でトラブルが生じたので珍しくぶりぶり怒る。そのせいかちょっと熱が上がる。

 

その後、ナゼかジャンクフードが恋しくなってウーバーでマック。ビッグマック、サムライマック、ダブルチーズバーガー、フィレオフィッシュなど。

 

相変わらずパンを外したり、もったいない残し方をしながら味わう。半分気が抜けたようなマックのコーラはあれはあれでウマい。

 

そして昨日に引き続き「ミート・ザ・ペアレンツ」のパート3を見る。初回作が2000年、パート32010年だから同じキャストで描かれた10年後である。パート2,パート3になるとたいていの映画は面白くなくなるが「ミート・ザ・ペアレンツ」に関してはパート3が一番面白かった。

 

映画が楽しかったおかげですっかり副反応も治まったかと思ったが、熱をはかるとまだ37度5分。全身の痛みは8割がた無くなり感覚的にはシンドくなくなっていたが案外しつこい。

 

その後、本を読んだりしてノンビリ過ごしながら夜12時過ぎに寝た。前日あんなに寝て午後に昼寝までしたあげくに普通の時間に寝付けたわけだからやはり普通ではない。

 

で、朝5時半ぐらいにトイレに行きたくて起きる。全身の痛みは完全に消滅。気分も悪くない。熱を計ったらまだ375分。しつこい。少しフラつくような感覚もあったのでゆっくり出社することにして二度寝。

 

その後8時ぐらいにちゃんと起きる。熱は37度台前半。感覚的には普通に戻っているのだが、体温計の表示だけが普通に戻らない。体温計がなければたぶん普通に行動していただろう。

 

ノンビリ食事をしてダラダラとワイドショーを見て風呂に入ったりしていたら10時ぐらいになった。再度熱を計ったらようやく平熱だった。気分も悪くない。

 

結局3回目のワクチン接種の副反応は2日間ほど私の身体に影響した。前回と前々回は確か接種後24時間ぐらいで普通に戻ったような覚えがあるから、やや重めだったことになる。

 

交差接種のせいか、オミクロンになってからあまり時間が経っていなかったからか理由は分からないが、この程度で抗体がちゃんと出来てくれるなら仕方ない。

 

国は4回目の接種を夏頃から始めたいようだが、副反応が意外にキツいワクチンを頻繁に身体にぶち込むより感染した時の治療薬をとっとと普及させて欲しいと思う。

 

世界中でワクチンの「その後」を知っている人はいない。5年後10年後に「あんなもの接種しなきゃ良かった」みたいな事態が生じないことを願うばかりだ。

 

 

 

 

 

2022年3月11日金曜日

放浪生活、共同生活


4月中旬ぐらいに引っ越すことにした。10年ほど前にシングルライフ生活を始めてから4度目の引越になる。なんだか放浪の民みたいでビミョーだ。

 

でも新天地に移ると気分も変わるし、いろいろリセットされるような気がして慣れてくると案外悪くない。今度は娘と同居という画期的な暮らし方になる。

 

成人した娘と今になって一緒に住むのはどんな感じになるか想像できないが、普段から頻繁に会っているし、しょっちゅう旅行にも行くのでとくに問題はないはずだ。

 

物件探しで最初に決まりかけたのは勝どき橋にほど近いマンションだ。職場からあまり遠くないエリアで探したので高層マンションばかりが候補にあがる。でも私は高いところが苦手だ。人様が暮らす場所ではないと思っている。今の住まいである5階だってあまり嬉しくない。

 

低層マンションが少ないエリアだから仕方ないが、その勝どきのマンションは7階。妥協出来なくはない。隅田川沿いに建っていて眺めが最高だった。川向こうには築地市場の跡地や浜離宮があり、斜めを見れば東京タワーもある。

 

隅田川沿いの遊歩道を散歩するのが好きな私にはもってこいだが、いかんせん職場からちょっと遠くなる。タクシーも拾いにくい立地だったし、他の物件もあれこれ調べてみた。

 

で、決めたのが中央区内某所のマンション。総合的な便利さで他よりも気に入った。娘も気に入ったようだし、収納も多く使い勝手が良さそうな間取りだから物が多い私に適していると思う。

 



今の住まいからは歩いて15分ぐらいだろうか。同じような生活圏である。すぐ近くにコンビニがいくつもあるし、徒歩圏に飲食店もいくつもある。都心暮らしの便利さは維持できるのが助かる。ちなみにこの画像は次の住まいとは関係ない物件。

 

問題はいま使っている徒歩1分の美容院、徒歩30秒のお寿司屋さん、徒歩3分の焼鳥屋さんから遠くなることである。たいした問題ではないがわりと大した問題である。

 

以前までは方位がどーだとか引っ越し時期があーだとかを一応気にしていた。怪しい霊感占い師にみてもらうことが常だったが、それももうやめた。あれを気にしているより自分が持つオーラやパワー!?を信じることにした。

 

半世紀以上、大過なく過ごせてきたわけだし、ああいうものを頼らないでも充分にハッピーに生きてきたわけだからヘタに影響されないほうが精神衛生上も良いはずである。

 

さて、娘との共同生活である。楽しいだろうが大変でもある。裸族みたいにウロウロ出来ないし、汚い姿をさらすわけにもいかない。タバコも吸いまくれないし、飲んで帰った後に牛丼特盛りを食べる姿も見せられない。

 

変な話、予定のない週末に土日とも風呂に入らないことがあるのだが、そんな汚物みたいな父親像を見せるわけにもいかない。ここに書けないような諸々の行動だって自制しないとならない。

 

そうは言ってもすべて当たり前の状態に軌道修正するだけである。野放図だった暮らしがマトモになると思えば良いことだろう。

 

思えば私の祖父は家にいても常に居住まいを正していた。寝間着姿でウロウロすることもなかったし、着るものだけでなく、髪やヒゲもキチンとしていた。80を過ぎて亡くなるまでその姿勢を崩さなかった。

 

やはり昔の人はちゃんとしていた。私など足元にも及ばない。あの姿勢を見て育ったわりに低レベルな自分の日々の姿を恥ずかしく思う。今回の引っ越しを機に家にいるときも少しはマトモな姿で過ごすようになれば私の人間力も上がるかもしれない。

 

あとは頑張りすぎないことだろう。これまでは娘が泊まりに来れば私は頑張ってサービス全開モードになっていた。食事の世話、スイーツの準備、部屋の温度管理、寝間着の心配など娘が小さい子供だった頃と同じような感覚でアレコレ小うるさく気を遣う。

 

一緒に暮らしたらもっとテキトーにやらないといけない。娘にとって煩わしいだけでなく私がきっとバテる。掃除、洗濯、洗い物なども全部自分でやらないと気が済まない性格だから、そんな習慣を適度に見直さないと何かと問題だろう。

 

娘の20年の人生のうち半分ぐらいの時間を一緒に暮らさなかった。これは私の責任である。今更ながらここから先の共同生活の時間を有意義なものにしたいと思う。

 

いつか私が死んだ時、娘の記憶の中の私はどのように思い出されるのか。ダメダメ父ちゃんなのかリスペクトされる父親なのか。当然後者のほうが嬉しい。そうなることを目指してみよう。





2022年3月9日水曜日

肩に小錦が乗っている


今日、3回目のワクチン接種に行ってくる予定だ。2回目から半年経たないと予約できないということだが、半年経過ピッタリの日に予約が取れたのでさっそく申し込んだ。過去2回はファイザーだったが抗体量が増えるらしいからあえて交差接種のモデルナを選んだ。

 

なぜ急いで予約したかというと、最近かなり厄介な倦怠感に襲われているせいだ。ワクチンをうったから倦怠感が治まるわけではないが、さすがにもう感染したくないという一心である。2回もかかれば充分だ。

 



昨年春に感染した後しばらくは倦怠感を感じることがあった。ただ、この歳になると倦怠感はしょちゅうあるし、さほど酷くはなかったので後遺症だとは考えずに気にしないでいた。

 

その後、半年ぐらい経ったら倦怠感を感じることが減ってきた。コロナの後遺症だったのか、単なる更年期か、単なるサボリ病か、正直判然としなかったのが実情だ。

 

だいたい、昭和の男子にとって倦怠感ウンヌンをがたがた語るのはカッチョ悪い。それが常識だ。熱があるとか痛みが強いとか具体的に症状がハッキリしているなら別だが「ダルい」だけで四の五の言うのはカッチョ悪い感覚がある。

 

ダルいから休みます。ダルいから中止します。そんなフザけたことは通用しないというのが世代的?には常識だろう。良いか悪いかは別として昔ながらの大人にはそんな感覚がある。

 

そして今年1月終わりに再感染した。医者にはかからなかったが、症状から見てオミクロンだったのは確かだろう。高熱と喉や全身の痛みはまあまあキツかった。

 

で、その後、忘れていたはずの倦怠感が再発している。前回より確実に重くなってしまった。さすがに倦怠感をぐだぐだ言うようになってしまった。何だか負けた気がする。

 

前回の倦怠感が治まっていたところに再感染後またダルダル状態が襲ってきたわけだから、さすがに今回はコロナの後遺症と判断せざるをえない。

 

一週間に少なくとも3日間はかなりダルい。なかなか厄介だ。昨年感じていた倦怠感は「何となく」という形容詞付きで片付けられたが、今回のはしっかり重い。正直シンドイ。

 

しっかり睡眠をとったのに起きようとしてもベッドに押しつけられるような圧を感じてしばし動けない。フラつくわけではないが、何か思いものが頭に乗っかっている感じだ。

 

その昔、巨人にいた助っ人ピッチャーのヒルマンが登板を避け続けていた際に「肩に小錦が乗っているようだ」とヘンテコな言い訳をかまして大バッシングを浴びた。

 

いまの私は当時のヒルマンの気持ちが分かる。私も全身に小錦が乗っかっているような気分になるから今更ながら彼にシンパシーを感じる。

 

世の中、コロナ後遺症の倦怠感で困っている人はかなり多いらしい。いまも日々、万単位の感染者が出ているわけだから、この先、数十万、数百万単位の人がダルダル病で困る事態も起こりえるわけだ。

 

私などは管理職だし社内もリモートが多いから、倦怠感がヒドい日にサボらせてもらったり出社が午後になってもさほど悪目立ちはしないのが幸いだ。これが若い世代だったら問題はより深刻だろう。

 

私のような世代の上司からは「なに?ダルいだと?熱がないならさっさと働け」と言われかねない。それでも通常通りに働けなければ戦力外通告という事態もあり得る。結構大変な話だと思う。

 

もちろん若くない世代だって頻繁に重い倦怠感に襲われていたら仕事が成り立たないはずだ。そう考えると案外ニッポン経済にとってもこの問題は厄介な課題になるかもしれない。

 

確かに今のコロナは重症化しにくいし、亡くなるのも高齢者中心である。世間の雰囲気はそろそろインフルエンザ程度の認識になってきている。それはそれで間違いではないが、厄介な後遺症の行方はまだまだ不透明である。

 

なんてったって世界で感染が始まってからわずか2年である。後遺症に関する分析や研究はどうしたって二の次になる。運良く後遺症の無かった人やそもそも感染していない人にとっては興味も関心も低くなる。

 

私の場合、前回は半年程度で何となく改善に向かったから今回もその前例通りに治まることを期待している。三週間ほど前から漢方の「補中益気湯」を1日2回飲んでいるがまだ効果は感じない。

 

やはり感染しないのが一番だと思います。




 

 

 

 

 

2022年3月7日月曜日

愛すべき焼鳥


どのジャンルの料理もそうだが、焼鳥の世界も幅が広い。下町の商店街で売っている一本50円ぐらいの焼鳥から銀座あたりのシャレオツな店で出てくる一本800円ぐらいの焼鳥まで実にさまざま。

 

基本的には大衆向けの料理だが、大衆過ぎてもあまり美味しくないから困る。かといってウマくても高級過ぎるのもちょっと違う。

 

ちょうどいい焼鳥。これが一番だ。まあ、人によってその基準は違うのだろうが、あくまでしみじみ味わってうなずくようなレベルの焼鳥が愛しい。

 

大衆酒場で出てくる安さだけをウリにした焼鳥の場合、味わうというよりただ頬張って噛むだけのことが多い。ウマいマズいの枠外の存在である。主役には程遠い。

 

やはり雑多なメニューの居酒屋料理の中の一品より焼鳥専門店でこだわって提供される焼鳥が「ちょうどいい焼鳥」における基本線だと思う。

 



 

私がちょくちょく訪ねる自宅近くの焼鳥屋さんはまさに「ちょうどいい」のひと言だ。いや、名店と呼んでもいい。タバコだって吸えちゃう。

 

安過ぎないけど高くない。味は高級店に負けず劣らずのレベル。レバー、ハツ、砂肝あたりの内臓系が美味しいことが名店の証だ。ついでにいえばササミやナンコツのレベルが高いのも嬉しい。

 

ササミやナンコツは焼鳥業界?ではスター的な存在ではない。脇役だ。でもこれらがウマい店は何を頼んでも間違いがない。

 

このお店、コロナ前は連日大混雑でふらっと一人で出かけても満席で断られることが多かったが、コロナ禍で一気に入りやすくなり、この2年ほど私の晩酌場所として欠かせないお店になった。

 

ところが、世の中の人の動きと合わせるように、まん防下にあっても客足はしっかり戻り始めており日によっては満席で入れないこともある。

 

近いうちに引っ越す予定だが、そう遠くない距離での移動なので今後も通うことになりそうだ。

 

先日、京橋の老舗有名店「伊勢廣」に行く機会があった。ホテルニューオータニなどに支店も出している東京の名門焼鳥屋さんである。

 

職場から近いのに過去に一度しか行ったことがない。コースが基本というコンセプトが苦手なので足が向かないのだが、この日は連れがいたので久しぶりにノレンをくぐった。

 

いつのまにか建て替えてやたらと綺麗かつ雰囲気の良い空間に生まれ変わっていた。これは接待やデートなど用途を問わず使えそうだ。

 




 

そもそも好きなものしか食べたくない私は焼鳥に限らずコース料理を敬遠しがちだ。ワガママなのか偏屈なのか、おそらく両方だと思うが、この日の焼き鳥フルコースはそんな私の思い入れを反省したくなる素晴らしい内容だった。

 

でもやっぱり私にはちょっと量が多いから、コース前提のこの店には大食漢の同行者が一緒じゃないと行く機会は無さそうだ。

 

「ちょうどいい焼鳥」と表現するより「ちょっとアッパーな焼鳥」というジャンルである。とはいえ、イマドキのキンキラな高級店とは違い質実剛健な雰囲気が色濃いのが心地よい。変わりダネを使った創作系みたいな串が一切ないところも老舗の矜恃のようで悪くない。

 

どの串も実に丁寧な仕上がり。丁寧さという部分が焼鳥の品格?を決める最大のポイントだと思う。テキトーな店だとねぎまのネギが生焼けや焦げ過ぎでゲンナリするが、そういう心配はまったくない。

 

ねぎまもネギのウマさが際立っていた。これでこそわざわざネギを活用する意味があるって感じだった。砂肝の焼き加減も絶妙、あまり好きではない手羽先も想像以上に美味しくて残さず食べた。

 

素材の良さはもちろん、プロが丁寧に職人技に徹していることが人気店であり続ける最大の理由なんだろう。焼鳥マニアでもない私でも素直にそう思った。

 

たかが焼鳥、されど焼鳥。考えてみれば焼鳥の世界は実に奥が深い。焼鳥屋さんはもはや国民食だ。日本中に専門店が星の数だけあるわけだからアチコチで連日日本人に憩いを与えている存在だ。

 

焼鳥文化が成熟した国に生まれて良かったと改めて感じる次第である。

 

 

 

 

 

2022年3月4日金曜日

アーカイブです

 バタバタしていて更新が出来なかったので過去ネタを一つ載せます。


大は小を兼ねるのは世の中の真理ではありますが、あえて小にこだわるのもアリという話です!


葉巻と巨乳の話

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2016/02/blog-post_26.html?m=1





2022年3月2日水曜日

甘さと無軌道な暮らし


 

甘いモノを食べたい気分になることが増えた。厄介な倦怠感に襲われるコロナの後遺症のせいか、そもそも味覚がお子ちゃまなのか原因は分からないが、今朝もウーバーで朝マックを注文し、ホットケーキを食べたほどだ。

 

幸いにも家系的に糖尿の傾向はないので昔から何も気にせず甘いモノを食べてきた。いい歳したオジサマになるとスイーツを敬遠する人が多いが、誰だって子供の頃は嬉々として甘いモノを食べていたわけだから今さら裏切ってはいけない。

 

大学生の娘のおかげで普通なら味わえないようなスイーツを口にすることは多い。これはこれでラッキーなことだと思う。

 


 

これは先日、小田原の町外れで出会ったピスタチオ専門スイーツ屋さんで買った品々だ。娘がインスタか何かでチョチョっと見つけた。

 

私は昔からピスタチオが好きだ。日本にまだ普及していない頃からピスタチオアイスのウマさを声高に叫んでいたほどだ。いつのまにピスタチオ関係のスイーツが一般に普及した今の状況は夢のようである。

 

小田原のお店ではシェイクが絶品だった。1000円近くしたから手頃ではないが、それだけの値打ちを感じさせる美味しさだった。

 

ピスタチオのシュークリームやピスタチオプリンも安くはないのだが期待を裏切らない味だった。東京にあったらしょっちゅう買いに行きそうなお店だった。

 



 

娘のおかげでイマドキのハヤリ系スイーツを食べる機会もある。あんバタートーストなる一品をムホムホ食べるオジサマは少数派だろう。あくまで若者、それも女子専用みたいな気がするが、オジサマだってちっちゃな子供の成れの果てである。

 

若くなったつもりで食べてみた。悪くない。いやウマい。そりゃあトーストの上にとけたバターとあんこである。マズいはずがない。子供の頃、あんパンを貪りたべたDNAが喜ぶ味である。

 

まあ、毎日食べたいとは思わないし、わざわざウチで自作しようとも思わないが、これはこれで充分に満足感に浸れる。娘と一緒の時ぐらいじゃないと恥ずかしくて注文できないのが問題ではある。

 


 

それにしても、ふとした時に甘さが恋しくなることが増えた。職場で舐めている飴も梅干し系だったものが、ミルク味やらあずき味みたいなベタなものに変わってきた。

 

慢性的に疲れているような気分になっているから甘いモノを欲しくなるのだろうか。謎である。時々、ウーバーイーツで頼むドーナッツもただただ甘いだけなのだがついつい頼んでしまう。

 

上の画像は「クリスピークリームドーナツ」の6個入りの残骸である。実にヒドい。罰当たりな食べ方である。それぞれ二口ぐらいで残してしまう。「後で食べよう」といつも心に誓うのだが、そんな場面は訪れず結局は捨ててしまう。

 

食品ロスの極みだと思う。デリバリーのピザの具材だけフォークでそぎながら食べてパイ生地をすべて残す時より罪悪感がある。

 

ピザの生地残しや、ケンタッキーフライドチキンの衣や皮を捨てる行為は健康目的という大義名分が成り立つが、ドーナツの場合、食べ残しは単なるワガママ、贅沢であり罰当たりな行為だ。

 

分かってはいるのだが、一人暮らしという環境のせいでそうした神をも恐れぬ非人道的な行為を堂々とこなしてしまう。大いに反省しないといけない。

 

というわけで、この春からは娘と二人暮らしをすることを具体的に検討中だ。

 

娘とはいえ、日々の暮らしに人の目が加わるわけだから私の無軌道ぶりも少しは改善されるはずだ。