東京出身。富豪になりたい中年男。幼稚園から高校まで私立一貫校に通い、大学卒業後、財務系マスコミ事業に従事。霞ヶ関担当記者、編集局長等を経て現在は副社長。適度に偏屈。スタイリッシュより地味で上質を求め、流行より伝統に心が動く。アマノジャクこそ美徳が信条。趣味は酒器集め、水中写真撮影、ひとり旅、葉巻、オヤジバンドではボーカル担当。ブログ更新は祭日以外の月曜、水曜、金曜。 ★★★スマホでご覧頂いている場合には画面下の「ウェブバージョンを表示」をクリックしてウェブ画面に飛ぶと下側右にカテゴリー別の過去掲載記事が表示されますので、そちらもご利用ください。
2012年2月29日水曜日
増税の正体
一見、とっつきにくいからワイドショー的には盛り上がらない「社会保障と税の一体改革」問題。当初は「税と社会保障のーー」と表現されていたものが、安易なポピュリズムで看板替えして現在に至っている。
増税イメージを払拭したい思惑で「一体改革」と強調されてきたわけだが、お粗末な、というか何ともブザマな事態に陥り始めた。
「一体」改革と言いながら、消費税増税関連法案などから、社会保障改革法案の一部を切り離す方針を政府が打ち出した。
おいおい、それじゃあ単なる「純増税法案」になってしまう。馬脚を現すというか、稚拙というか、インチキ丸出しというか、実に締まらない話だ。
「カレーライスのカレー抜き」みたいなトンチンカンぶりだ。
増税に取り憑かれた政権だから、理屈も何もあったものではない。
というわけで、今日は久しぶりに税金の話を書く。タチの悪い世論誘導と現実を見ない一部階層へのイジメが酷いから、どうしても書きたくなった。
どうも最近の税・財政をめぐる世論や議論の進み方に違和感を覚えて仕方がない。
消費税増税やむなし。既にこんな空気が支配的だ。確かに足し算引き算すれば、財政状況が危機的状況なのは猿でも分かる。消費税の税率アップは一種の必然ではある。
問題は、その前提となる現状のいびつな税制にフタをしたまま話を進めようとしている点だ。増税するにしても、変な制度の上に乗っけるようでは、いびつさが増すだけだろう。
いきなりだが、「税金」って何だろう。罰金でもなければ寄付金でもない。言うなれば、国民が国民でいるための会費だ。
負担額の多寡はあっても「等しく皆が負担する」という根本的な定義が貫かれて然るべきだと思う。
現行の所得税制度の下では、まっとうな大学を出て、名の知れた企業に就職して、家庭を持って、子供を作って、クルマも持って、マイホームまで持てるような人でも、所得税をろくすっぽ払わない事態が生じる。
基本的な課税最低限は、300万円台前半だったはずだ。それだって考えてみればどうなんだろう。ガッポリというわけにはいかないだろうが、少しぐらい負担したっていだろう。
年収500万円を越えていても、各種控除の恩恵を受けて、所得税が数万円なんて例は珍しくない。
財務省・国税庁の統計によると勤労者の平均年収は400万円台前半。すなわち、家族構成とか控除の有無にもよるが、平均的な年収階層の人でも、大げさに言えば、ロクに所得税を納めなくても済んでしまっている。
そのしわ寄せは、中堅・高所得者層に集中する。ひと握りの所得階層の人が所得税の大半を負担していること自体、歪んだ話だと思う。
所得税という言葉自体がインチキだ。「一部の人への罰金」と称した方がよほどしっくりくる。
で、そんなヘンテコリンな状況でも、政府としては、圧倒的多数である「平均的な階層以下の人々」に選挙でおもねることしか考えないから、所得税の歪みを放置したまま消費税に活路を見出そうとしている。
消費税は、ビンボーだろうとヤクザだろうと、お金が動けば税収につながるわけだから、国家にとっては実に取りやすい。
ちなみに中堅、高所得社会層の人達からも比較的消費税は嫌われていない側面がある。なぜなら単一税率が持つ公平性に、日頃、偏った負担を強要されている人々が魅力を感じるからだ。
所得税、贈与税、相続税あたりでは累進税率というワケのワカラン理屈で、収入が増えれば同じ税制なのに高税率が適用される。この構造的な不公平感に比べて、消費税は一律税率だから、なんとなく「信用できるヤツ」みたいな印象を持たれているわけだ。
低所得者に不利になるという、いわゆる「消費税の逆進性」なんてものにしても、屁理屈であり金持ちイジメのための、まさに「ためにする議論」だと思う。
同じクルマを買うにしても、低所得者が選ぶクルマとお金持ちが選ぶクルマは、おのずと価格自体が大きく違う。一律税率だからといって、充分、応能負担による税負担格差は生まれる。
購入するもの、消費するものの価格自体が厳然とクラス分けされている以上、逆進性うんぬんはくだらないこじつけにも見える。充分公平だ。
そんな事情もあって、中堅、高所得者層にとっては、消費税は「悪くない税金」なのだが、これは、あくまで、所得税とかの不公平是正がなされればの話。いわば条件付き支持でしかない。
いま、“のだめ政権”が進める消費税の増税は、単なる「純増税」であり、社会保障制度の見直しなども含めれば、純粋に、一定収入以上の階層だけを狙い打ちにした「取れそうなところから取る思想」に基づいた愚策だ。
しょせん、労働組合の支持を母体にする政権だけに、低い方からの負担増はまったく発想にない。「低い方」といっても、冒頭に書いたように、「普通の人達」からも負担を求めない摩訶不思議な感覚だ。
弱者を救済するのは政治の使命だ。そんなことは百も承知だが、所得階層で見れば、「普通の人」までを弱者として扱うわけだから馬鹿げている。
「税金って何だろう」と言いたくなるのはこのあたりの歪みがひどいからだ。そこそこ以上に稼いだ人への罰金にも似た性格に成り下がっているのが実情だろう。
消費税の税率が上がれば、所得階層にかかわらず税金を負担するという本来あるべき「税金の正しい状態」に近づくことになるわけだが、ここでも民主党政権のアホなおもねりは暴走する。
「低い方」の所得階層には消費税の増税分を還付だか給付だかによって、返しましょうという制度を盛り込む予定だ。
「普通の人」を含む収入が多くない人達には意地でも税金を納めさせない政策だ。こうなると「税金」はやっぱり稼いだ人への「罰金」と読み替えたくなる。
もちろん、低所得者層への配慮は政策上必要だろう。そのためには、食料品等の生活必需品へのゼロ税率導入で済む話だと思う。
ごくごく平たく書いてきたが、これが既定路線化されている増税の真相だ。言うなれば「増税の正体」だ。税金を「頑張っている人への罰金」と定義する愚策だ。
ついでにいえば、そもそも中堅・高所得者層と言ってひとくくりに敵対視の対象にされることもおかしい。
新しい子ども手当なんかもそうだが、年収1500万円とか2千万円あたりで、世の中のすべての制度は「逆足キリ」されるのが常だ。
それ以上の階層は一律で、本来受けられるべき政策的な恩典を奪われる。年収1500万円の人でも、年収10億円の人でも同じ扱いという点がケッタイだろう。
たかだか年収1500万円ぐらいで「金持ち」と言えるだろうか。このあたりの収入階層が実社会では踏ん張っている人達だと思う。にもかかわらず、スーパーリッチと同じ範疇に加えられ、行政サービスのカヤの外に置かれる。
バカみたいな話だ。
多勢に無勢とはまさにこのことで、所得階層が「普通の人」以下が大多数を占める現状では、こうした中堅所得者はただ泣き寝入りするだけ。
メディアにしても、しょせんは大衆受けの良い切り口でしか物事を語らない。その結果、社会を支える中心的役割を果たす階層がイジメられている。
年収ウン億円クラスのスーパーリッチともなれば、海外移転も簡単だし、節税策の引き出しもたくさんある。
誰もが名前を知るようなクラスのお金持ちの中には、給与なんてもらわない人達も多い。無駄に高額な所得税を払うよりも、すべて収入は株主配当として、給与よりも低い税率を適用するわけだ。
ビンボー優遇、スーパー金持ち優遇の狭間で痛い目に遭っているのが中堅所得者層だ。主に中小企業経営者がこの階層に該当する。
日本の活力を支える中小企業をこんな形で冷遇し、イジメ続ければ国の活力なんて無くなって当然だと思う。
2012年2月27日月曜日
吉原 意気地
「吉原」と聞いて現代人が連想するのは、ソープランド街だろう。とある一角に大衆店、高級店などが入り乱れる光景は一種異様だ。
変な話、あの街に漂う「気」がドンヨリと淀んだ感じは独特だ。さすがに、古くから情念、怨念が渦巻いた場所だからだろうか。
その昔、病気になった遊女はほったらかしにされたり、死んだ後は寺に投げ込まれたり、そんな悲惨な裏面史抜きには語れない街だから、重い「気」が漂っていても不思議ではない。
もちろん、暗いイメージは現代の話。江戸期の吉原といえば、娯楽の乏しかった時代の最大、最先端の歓楽街・社交場だった。現在イメージされるネガティブなイメージとはまったく異質なエンターテイメントエリア?だった。
陰惨なイメージがつきまとう売春街という感覚ではなく、着るもの、髪型などのファッションをはじめ、すべての流行・文化の発信基地の役割をしていたのが吉原だ。
一説によると、集う男たちも、半数以上が遊郭に上がらず、ただブラブラするだけだったという話もある。散策するだけでも充分楽しいエリアだったことが想像できる。
遊郭を舞台にした吉原遊び自体が、何かとハードルが高く、町人が気軽に楽しめるものではなかった。品川や根津あたりの岡場所と呼ばれる非公認の歓楽街が大繁盛していたのも、吉原の格が高く、面倒が多かったことが理由だ。
今も残る座敷遊びのアレコレも元を正せば、すべて吉原が起源だし、極端に言えば、今の時代の銀座のクラブの仕組みにすら吉原の影響は残っているようだ。
銀座のクラブの特徴のひとつが、俗に係と呼ばれる担当ホステスがずっと固定される点だろう。永久指名とでも言うのだろうか、よほどの事情がない限り、係という立場は不変だ。
係が休んでいる時に店に行っても、その客の売上げは係の売上げにカウントされるし、ヘルプの女性の同伴出勤に付き合っても、店に行けば、その客の売上げはやはり係の売上げとなる。
確かなことは分からないので、あくまで想像だが、このシステムは江戸時代の吉原の流儀にルーツがあるのだろう。
飲食店などでよく使われる言葉に「裏を返す」という表現がある。平たく言えばその店への二度目の訪問を指す。語源は、遊郭での遊女の名札だとか。客と会っている遊女の名札が裏返されることに起因しているわけだ。
一度馴染みになった遊女とはその後も付き合い続けるのが暗黙のルールだったらしく、粋だの野暮だの意気地(いきじ)などという価値基準は、この辺のルールに関しても厳しかったようだ。
飲む、打つ、買うの「買う」の部分だ。この部分だけお金の支払いが強調されていることからも分かる通り、歓楽街ではお金にまつわる態度が、粋か野暮の判断にも大きく影響した。
以前、読んだ本に書かれていたのだが、吉原でとかく不人気だったのが下級武士。気位ばかり高く、カネ払いは悪く、門限が厳しいため時間にせわしなく、おまけに払った分のモトを取ろうとガツガツしていたそうだ。
現代の歓楽街もまったく同じだろう。「オレは高い金払ってんだかんな!」と威張り散らす客が嫌われるのは当然だ。
はたから見聞きしても、出入り禁止にすればいいようなバカ客がたくさんいるが、そこは、イマドキの水商売の弱いところで、ついついバカを増長させている。
昔の吉原は、野暮が過ぎる客は、遊女はおろか、下働きの若い衆や茶屋からも無視され、見世(店)に上がらせてもらえないこともあったらしい。
そこまで徹底すればこそ店の格も保たれるし、野暮じゃない客のいじましい苦労?も報われるというものだろう。
今の時代の銀座あたりでも見習って欲しい話だが、現代ではそんな意気地(いきじ)や矜持を求めるのは難しいのだろうか。野暮天ばかりが平気でウロウロできるようになれば、あの街に魅力ななくなる。
そうなれば、私も散財しなくなるから、それはそれで結構なことかもしれない。
話がそれた。
粋だ野暮だに厳しく、文化の源だった吉原は、ある意味、江戸の男にとっては、修練の場だったとも言える。男を磨くというか、たしなみとか情緒、気っ風みたいな要素を学ぶ場所だったのだろう。
見栄の張り方、気配りや我慢の加減など諸々だ。我慢の加減などと書いたが、粋という発想は、簡単に言えば我慢と似た感覚だと思う。
ゆるんでいる時間だ。エゴ、我欲をむき出しに出来たらどんなに楽だろう。でも、それこそが野暮の極みであり、ひたすら忍従?の道を歩むのが粋な男である。
東京生まれの東京育ちである私は、野暮ったいことは避けたい意識がとても強いのだが、意に反して、年を重ねるうちに野暮度合いが強まってきたことを感じる。
銀座のクラブでも、ついつい腰が重くなり、長っ尻になることが増えたし、ただでさえXLに見られがちな居ずまいも、どんどんだらしなくなっている気がする。
もちろん、変な虚勢を張ったり、威張りちらすほどアホではないから、気に入らないことがあれば、ニッコリ笑って二度と行かない程度の粋?はまだ健在だ。
私が「部活」と称して喜んでいるあの世界が、男を磨く鍛錬の場としての要素がもっと強まってくれれば嬉しいのだが、年々、そういう空気が薄れているような気がする。
こっちが単に年を取ってしまったのか、あの世界が堕落してきたのかは分からないが、少し寂しい気もする。
なんてことを書くと、ちょっとカッコつけ過ぎだ。実際は、ただの酔漢太郎ではある。
話がとっちらかってきたからこの辺にしよう。
それにしても、もしタイムマシンで江戸時代に行けるなら、隆盛期の文化発信基地だった吉原散策をしてみたいと思う。
人気ドラマだった「JIN -仁-」のようにタイムスリップものの映画を吉原を舞台に作って欲しいものだ。野暮な男が江戸時代の吉原にワープして、日ごとに粋人に進化していくようなストーリー。大ヒット確実だと思う。
変な話、あの街に漂う「気」がドンヨリと淀んだ感じは独特だ。さすがに、古くから情念、怨念が渦巻いた場所だからだろうか。
その昔、病気になった遊女はほったらかしにされたり、死んだ後は寺に投げ込まれたり、そんな悲惨な裏面史抜きには語れない街だから、重い「気」が漂っていても不思議ではない。
もちろん、暗いイメージは現代の話。江戸期の吉原といえば、娯楽の乏しかった時代の最大、最先端の歓楽街・社交場だった。現在イメージされるネガティブなイメージとはまったく異質なエンターテイメントエリア?だった。
陰惨なイメージがつきまとう売春街という感覚ではなく、着るもの、髪型などのファッションをはじめ、すべての流行・文化の発信基地の役割をしていたのが吉原だ。
一説によると、集う男たちも、半数以上が遊郭に上がらず、ただブラブラするだけだったという話もある。散策するだけでも充分楽しいエリアだったことが想像できる。
遊郭を舞台にした吉原遊び自体が、何かとハードルが高く、町人が気軽に楽しめるものではなかった。品川や根津あたりの岡場所と呼ばれる非公認の歓楽街が大繁盛していたのも、吉原の格が高く、面倒が多かったことが理由だ。
今も残る座敷遊びのアレコレも元を正せば、すべて吉原が起源だし、極端に言えば、今の時代の銀座のクラブの仕組みにすら吉原の影響は残っているようだ。
銀座のクラブの特徴のひとつが、俗に係と呼ばれる担当ホステスがずっと固定される点だろう。永久指名とでも言うのだろうか、よほどの事情がない限り、係という立場は不変だ。
係が休んでいる時に店に行っても、その客の売上げは係の売上げにカウントされるし、ヘルプの女性の同伴出勤に付き合っても、店に行けば、その客の売上げはやはり係の売上げとなる。
確かなことは分からないので、あくまで想像だが、このシステムは江戸時代の吉原の流儀にルーツがあるのだろう。
飲食店などでよく使われる言葉に「裏を返す」という表現がある。平たく言えばその店への二度目の訪問を指す。語源は、遊郭での遊女の名札だとか。客と会っている遊女の名札が裏返されることに起因しているわけだ。
一度馴染みになった遊女とはその後も付き合い続けるのが暗黙のルールだったらしく、粋だの野暮だの意気地(いきじ)などという価値基準は、この辺のルールに関しても厳しかったようだ。
飲む、打つ、買うの「買う」の部分だ。この部分だけお金の支払いが強調されていることからも分かる通り、歓楽街ではお金にまつわる態度が、粋か野暮の判断にも大きく影響した。
以前、読んだ本に書かれていたのだが、吉原でとかく不人気だったのが下級武士。気位ばかり高く、カネ払いは悪く、門限が厳しいため時間にせわしなく、おまけに払った分のモトを取ろうとガツガツしていたそうだ。
現代の歓楽街もまったく同じだろう。「オレは高い金払ってんだかんな!」と威張り散らす客が嫌われるのは当然だ。
はたから見聞きしても、出入り禁止にすればいいようなバカ客がたくさんいるが、そこは、イマドキの水商売の弱いところで、ついついバカを増長させている。
昔の吉原は、野暮が過ぎる客は、遊女はおろか、下働きの若い衆や茶屋からも無視され、見世(店)に上がらせてもらえないこともあったらしい。
そこまで徹底すればこそ店の格も保たれるし、野暮じゃない客のいじましい苦労?も報われるというものだろう。
今の時代の銀座あたりでも見習って欲しい話だが、現代ではそんな意気地(いきじ)や矜持を求めるのは難しいのだろうか。野暮天ばかりが平気でウロウロできるようになれば、あの街に魅力ななくなる。
そうなれば、私も散財しなくなるから、それはそれで結構なことかもしれない。
話がそれた。
粋だ野暮だに厳しく、文化の源だった吉原は、ある意味、江戸の男にとっては、修練の場だったとも言える。男を磨くというか、たしなみとか情緒、気っ風みたいな要素を学ぶ場所だったのだろう。
見栄の張り方、気配りや我慢の加減など諸々だ。我慢の加減などと書いたが、粋という発想は、簡単に言えば我慢と似た感覚だと思う。
ゆるんでいる時間だ。エゴ、我欲をむき出しに出来たらどんなに楽だろう。でも、それこそが野暮の極みであり、ひたすら忍従?の道を歩むのが粋な男である。
東京生まれの東京育ちである私は、野暮ったいことは避けたい意識がとても強いのだが、意に反して、年を重ねるうちに野暮度合いが強まってきたことを感じる。
銀座のクラブでも、ついつい腰が重くなり、長っ尻になることが増えたし、ただでさえXLに見られがちな居ずまいも、どんどんだらしなくなっている気がする。
もちろん、変な虚勢を張ったり、威張りちらすほどアホではないから、気に入らないことがあれば、ニッコリ笑って二度と行かない程度の粋?はまだ健在だ。
私が「部活」と称して喜んでいるあの世界が、男を磨く鍛錬の場としての要素がもっと強まってくれれば嬉しいのだが、年々、そういう空気が薄れているような気がする。
こっちが単に年を取ってしまったのか、あの世界が堕落してきたのかは分からないが、少し寂しい気もする。
なんてことを書くと、ちょっとカッコつけ過ぎだ。実際は、ただの酔漢太郎ではある。
話がとっちらかってきたからこの辺にしよう。
それにしても、もしタイムマシンで江戸時代に行けるなら、隆盛期の文化発信基地だった吉原散策をしてみたいと思う。
人気ドラマだった「JIN -仁-」のようにタイムスリップものの映画を吉原を舞台に作って欲しいものだ。野暮な男が江戸時代の吉原にワープして、日ごとに粋人に進化していくようなストーリー。大ヒット確実だと思う。
2012年2月24日金曜日
乱食の日々
12月、1月あたりの胃の不調もなんとか脱出して中々良い感じだ。医師処方の制酸剤・パリエットと、大田漢方胃腸薬ならびに太田胃散各位のおかげだと思う。
いや、薬よりも、揚げ物とか脂ギトギトとか刺激物を避けてきた努力の賜かもしれない。
で、トンカツを解禁してみた。許されるものなら1日3食トンカツでも構わない私だ。死ぬ前に最後に食べたいものもトンカツだ。
まあ、死ぬ直前という弱った状態であんなものが食えるかは微妙だが、健康のまま突然、最後の食事を迎えるのならトンカツを選ぶ。
某日、銀座のトンカツ屋「平田牧場」に行こうと胸をわくわくさせていたのだが、運悪く満席。仕方なく、絶対空いているはずのトンカツ屋に足を向けた。
交詢ビルにある「かつぜん」がその店。フランスのタイヤ屋が作った本で星が付いた店らしい。値段のせいもあってふらっと行ってもたいてい空いている。
その日も、他に客の姿はなく貸切状態。これはこれで落ち着かない。シンミリする。
夜はコースが中心だが、あえてアラカルトでアレコレ注文。トンカツ前にウダウダ酔いたいから、月見とろろとか、サラダっぽい一品とか、カキフライなんかで焼酎をグビグビ。
こちらのトンカツは一番安いもので4千円ぐらいする。一番高いのは確か6500円だ。
6500円のトンカツだ。マックの100円バーガーなら65人が食べられる値段だ。牛丼でも25人ぐらいまかなえる。
そう考えるとバカみたいだ。
でも、私の場合、値段の相対評価を自分に都合良くやってのけるクセがある。たとえば、あまり好きではない霜降り牛のステーキを比較対象にしてみよう。
いっぱしの店ならステーキで6500円なんて珍しくない。銘柄牛だったら平気で1万円以上するし、銀座あたりでは、5万円ぐらい取る店だって存在する。
我が家の近所にある「肉の万世」のファミレスでも確か6500円ぐらいのステーキがメニューにある。
牛より断然豚が好きな私としては、そんな比較をしながら徐々に「6500円のトンカツ」を注文する自分の見識?に納得し始める。
そこそこの中華に行って、フカヒレの姿煮を頼んだら、腹一杯にならないクセにもっと高い値段だったりする。
本マグロの大トロの握りを高級寿司屋で頼んだら、2~3貫で6千円ぐらいかかるはずだ。
「言い訳」は次から次に出てくる。かくして、「6500円のトンカツ」に対する私のビビった根性は影を潜めて、意気揚々と注文してしまう。
そんでもって、がっついてみた。そりゃあウマいのは当然だが、ついつい値段が頭をよぎる。2500円も出せば間違いなく大満足できるトンカツはあちこちで食べられる。
前述した「平田牧場」が満席で、こちらがガラガラなのは仕方がない話だ。この日は最後まで他にお客さんがいなかったから、言うなればハリウッドスターばりに店を一軒借り切って、専属シェフに調理して貰ったと思えば安いのだろう。
接客も丁寧、突き出しも豪華、一品料理もあって、トンカツも水準以上。価格を気にせず、静かにしっぽりトンカツを食いたいという人ならばオススメだろう。はたして、そういう人はいるのだろうか。
さて、トンカツに続いては、またまたウナギだ。
先々週、このブログで日本橋・伊勢定のウナギをがっついた話を書いた。私の変なクセのひとつが、官能的なウマいものを食べると、しばし同じものが食べたくなるところだ。
ヒキガネが引かれるような感じだ。
某日、私が好きなウナギ屋さんである「大江戸」に行った。日本橋の外れ、老舗っぽい風情漂う店だ。
正面の重厚な玄関は座敷専用。その右手に貧乏な人のための?入口がある。こちらから入る「食堂」が私のお気に入りだ。
この日の目的は「ご飯が見えない鰻重」だ。「かつぜん」の最上級トンカツぐらいの値段を覚悟すれば、注文してから1時間ほどかけて調理される、この店の最上である「極上鰻重」が楽しめる。
ウナギのキモの山椒煮とか、イクラおろしとか、寒ブリの刺身なんかをツマミに熱燗をグビグビ。
そして、お決まりの白焼き登場。冷酒に切り替える。この日は〆張鶴の純米吟醸。至福。これを書いている段階で今日にもまた行きたくなるほどだ。
そして、極上鰻重様が運ばれてきた。ウナギの両端が折り返してあるのがニクい。このウマさを活字で表現するほどのボキャブラリーがないことが悲しい。
どう言い表そうか。3人前ぐらい食べられそうな味とでも言っておこう。
トンカツ、ウナギその他もろもろの暴飲暴食にも、私の胃はしばらく優しく接してあげてきた甲斐あって悲鳴をあげない。完全復活だ。
というわけで、次は刺激物を摂取しないとなるまいと思って、某日、インド料理屋に突撃した。
麹町にある老舗「アジャンタ」だ。ここ10年ぐらいでアチコチ氾濫状態になったインド料理屋とは一線を画すメニューの豊富さ、味わいの複雑さがウリだ。
まずはタンドリーチキンとビール。口、喉、食道、胃、それぞれの皆様に対して辛さへの備えを通知する。
この日頼んだカレーは、チキン系、マトン系、エビ系の3種類。辛いけどウマい。炊き込みご飯である「チキンビリヤニ」にカレーをまぶすも良し、ナンと合わせてビールをグビグビ飲むも良し。首から汗が出るような感覚が楽しい。
スーパー膨満感。カレーが恐いって叫ぶぐらい満腹になる。その後、胃腸が怒る気配はない。実に穏やかに私の乱食を受け止めている。
本当に心強い相棒だと思う。大事にしてやらねば。
たまには、おかゆでも流し込んでやりたいと思うのだが、そうもいかない。
日々、ヤツの踏ん張りに私の幸せは守られている。
いや、薬よりも、揚げ物とか脂ギトギトとか刺激物を避けてきた努力の賜かもしれない。
で、トンカツを解禁してみた。許されるものなら1日3食トンカツでも構わない私だ。死ぬ前に最後に食べたいものもトンカツだ。
まあ、死ぬ直前という弱った状態であんなものが食えるかは微妙だが、健康のまま突然、最後の食事を迎えるのならトンカツを選ぶ。
某日、銀座のトンカツ屋「平田牧場」に行こうと胸をわくわくさせていたのだが、運悪く満席。仕方なく、絶対空いているはずのトンカツ屋に足を向けた。
交詢ビルにある「かつぜん」がその店。フランスのタイヤ屋が作った本で星が付いた店らしい。値段のせいもあってふらっと行ってもたいてい空いている。
その日も、他に客の姿はなく貸切状態。これはこれで落ち着かない。シンミリする。
夜はコースが中心だが、あえてアラカルトでアレコレ注文。トンカツ前にウダウダ酔いたいから、月見とろろとか、サラダっぽい一品とか、カキフライなんかで焼酎をグビグビ。
こちらのトンカツは一番安いもので4千円ぐらいする。一番高いのは確か6500円だ。
6500円のトンカツだ。マックの100円バーガーなら65人が食べられる値段だ。牛丼でも25人ぐらいまかなえる。
そう考えるとバカみたいだ。
でも、私の場合、値段の相対評価を自分に都合良くやってのけるクセがある。たとえば、あまり好きではない霜降り牛のステーキを比較対象にしてみよう。
いっぱしの店ならステーキで6500円なんて珍しくない。銘柄牛だったら平気で1万円以上するし、銀座あたりでは、5万円ぐらい取る店だって存在する。
我が家の近所にある「肉の万世」のファミレスでも確か6500円ぐらいのステーキがメニューにある。
牛より断然豚が好きな私としては、そんな比較をしながら徐々に「6500円のトンカツ」を注文する自分の見識?に納得し始める。
そこそこの中華に行って、フカヒレの姿煮を頼んだら、腹一杯にならないクセにもっと高い値段だったりする。
本マグロの大トロの握りを高級寿司屋で頼んだら、2~3貫で6千円ぐらいかかるはずだ。
「言い訳」は次から次に出てくる。かくして、「6500円のトンカツ」に対する私のビビった根性は影を潜めて、意気揚々と注文してしまう。
そんでもって、がっついてみた。そりゃあウマいのは当然だが、ついつい値段が頭をよぎる。2500円も出せば間違いなく大満足できるトンカツはあちこちで食べられる。
前述した「平田牧場」が満席で、こちらがガラガラなのは仕方がない話だ。この日は最後まで他にお客さんがいなかったから、言うなればハリウッドスターばりに店を一軒借り切って、専属シェフに調理して貰ったと思えば安いのだろう。
接客も丁寧、突き出しも豪華、一品料理もあって、トンカツも水準以上。価格を気にせず、静かにしっぽりトンカツを食いたいという人ならばオススメだろう。はたして、そういう人はいるのだろうか。
さて、トンカツに続いては、またまたウナギだ。
先々週、このブログで日本橋・伊勢定のウナギをがっついた話を書いた。私の変なクセのひとつが、官能的なウマいものを食べると、しばし同じものが食べたくなるところだ。
ヒキガネが引かれるような感じだ。
某日、私が好きなウナギ屋さんである「大江戸」に行った。日本橋の外れ、老舗っぽい風情漂う店だ。
正面の重厚な玄関は座敷専用。その右手に貧乏な人のための?入口がある。こちらから入る「食堂」が私のお気に入りだ。
この日の目的は「ご飯が見えない鰻重」だ。「かつぜん」の最上級トンカツぐらいの値段を覚悟すれば、注文してから1時間ほどかけて調理される、この店の最上である「極上鰻重」が楽しめる。
ウナギのキモの山椒煮とか、イクラおろしとか、寒ブリの刺身なんかをツマミに熱燗をグビグビ。
そして、お決まりの白焼き登場。冷酒に切り替える。この日は〆張鶴の純米吟醸。至福。これを書いている段階で今日にもまた行きたくなるほどだ。
そして、極上鰻重様が運ばれてきた。ウナギの両端が折り返してあるのがニクい。このウマさを活字で表現するほどのボキャブラリーがないことが悲しい。
どう言い表そうか。3人前ぐらい食べられそうな味とでも言っておこう。
トンカツ、ウナギその他もろもろの暴飲暴食にも、私の胃はしばらく優しく接してあげてきた甲斐あって悲鳴をあげない。完全復活だ。
というわけで、次は刺激物を摂取しないとなるまいと思って、某日、インド料理屋に突撃した。
麹町にある老舗「アジャンタ」だ。ここ10年ぐらいでアチコチ氾濫状態になったインド料理屋とは一線を画すメニューの豊富さ、味わいの複雑さがウリだ。
まずはタンドリーチキンとビール。口、喉、食道、胃、それぞれの皆様に対して辛さへの備えを通知する。
この日頼んだカレーは、チキン系、マトン系、エビ系の3種類。辛いけどウマい。炊き込みご飯である「チキンビリヤニ」にカレーをまぶすも良し、ナンと合わせてビールをグビグビ飲むも良し。首から汗が出るような感覚が楽しい。
スーパー膨満感。カレーが恐いって叫ぶぐらい満腹になる。その後、胃腸が怒る気配はない。実に穏やかに私の乱食を受け止めている。
本当に心強い相棒だと思う。大事にしてやらねば。
たまには、おかゆでも流し込んでやりたいと思うのだが、そうもいかない。
日々、ヤツの踏ん張りに私の幸せは守られている。
2012年2月22日水曜日
発信力 言葉の力
光市母子殺人事件にようやく司法の最終判断がくだった。一連の裁判を通して社会へメッセージを発信し続けた遺族の本村洋さんの「言葉の力」にただただ圧倒された。
事件から13年、本村さんが感じていた無力感、怒り、寂寥感は想像を絶する。20代前半で突如、何の落ち度もないままに未来を断ち切られたわけだから自暴自棄になってもちっともおかしくない。
それでも本村さんはご存じの通り、被害者並びに家族の権利拡充に奔走。犯罪被害者等基本法の制定、被害者参加制度の導入などにつながった。
事件当初から、本村さんが発する声には力がみなぎっていた。心の底からの叫びが持つ迫力や説得力に満ち満ちていた。
最高裁の最終判断を控え、口を閉ざしていた本村さんが、おとといの結果を受けて、どのような言葉を発信するのか、自ずと世間は注目した。
いくつか引用してみる。
●「今回、死刑という判決が下され、遺族として大変満足している。ただ、決してうれしいとか喜びとかは一切ない。厳粛な気持ちで受け止めないといけないと思っている」
●「20歳に満たない少年が人をあやめたとき、もう一度社会でやり直すチャンスを与えることが社会正義なのか。命をもって罪の償いをさせることが社会正義なのか。どちらが正しいことなのかとても悩んだ。きっとこの答えはないのだと思う。絶対的な正義など誰も定義できないと思う」
●「私が色々な方と手を携えてやった活動が正しかったか、正しくなかったかは私が言うことではなく、歴史が判断することだと思うが、何もしなければ始まらない。小さな一歩でも始めれば、社会が変ると実感できた。司法制度を変えることができたのは良かったと思う。今後は、市井の会社員なのできちんと仕事をして、納税をして、一市民として社会の役に立てるようにしたい。特に社会に出て、活動することは考えていない」
●「この判決に勝者なんていない。犯罪が起こった時点で、みんな敗者だと思う。社会から人が減るし、多くの人が悩むし、血税を使って裁判が行われる。結局得られるものはマイナスのものが多い。そういった中から、マイナスのものを社会から排除することが大事で、結果として、妻と娘の命が今後の役に立てればと思う。そのためにできることをやってきたということを(亡くなった2人に)伝えたい」
本村さんの言葉には首尾一貫して、単なる感情論、復讐の発想とは別個の信念に基づいた深みがある。
私自身、事件が注目されはじめた頃、何度もテレビから流れる本村さんの話を聞いて、法律関係とか文学方面の仕事をしている人かと思ったのだが、理科系のエンジニアだそうだ。
今思えば、単純に職業分類みたいな刷り込みでそんな勘違いした自分の浅はかさを恥ずかしく思う。
作られた言葉でもなく、飾った言葉でもなく、取り繕ったり、媚びたりするような言葉ではない、魂が発する言葉だったのだろう。そこに職業も年齢も関係ない。ただ精一杯に信念を主張し、不合理を問いかけた言葉だったわけだ。
また引用になってしまうが、おとといの会見では、被告側の弁護団に対しても次のように発言している。
● 「殺意の否認は非常に残念だが、逆風の中で熱心に弁護されたことは立派なことだと思う。被告にとっても、最後まで自分の命を助けようと足を運ぶ弁護士と接することで感謝の気持ちが芽生え、反省の一歩になる。弁護のテクニックなどでいかがかと思うことはあったが、弁護士の役割を果たされたと思う」
凡人の発想では、恨み辛みだけを吐露したい気持ちだってあっただろうと思いたくなる。それでも本村さんの軸はぶれない。被告に罪の重さ、命の尊さを思い知らせて贖罪意識を持たせたい、無念の死に少しでも意味を見出したい一心に支えられていた。
本村さんの発信力には、以前から政治の世界からも注目が寄せられている。与野党問わず、政界進出を勧める動きがある。
うさん臭く集票目的のためだけに利用しようという思惑も見え隠れするが、本村さんの言葉を聞く限り、魑魅魍魎の思惑に振り回されるような人ではないだろう。それでも本村さんがそれを必要な使命と感じてその道を選べば、卓越した発信力に更に磨きがかかるのだろう。
政治に限らず、あれだけの発信力のある人だから公的な活動に携わって欲しいという声は各方面から絶えないはずだ。これからも何かと騒がしい思いをされるのだろう。
「自分の言葉」で語ることが苦手な大人ばかりが幅を効かす世の中だから、本村さんの存在感が際立つのも当然だ。「市井の会社員」として静かに暮らすことはなかなか大変だろうと思う。
またまた引用になってしまうが、本村さんが、4年前の差し戻し控訴審判決の際に語った言葉がとても印象的なので紹介したい。
●「どうすれば死刑という残虐で残酷な刑が下されない社会にできるか。それを考える契機にならなければ、私の妻と娘、そして被告人も犬死にです」
単なる怨念を超えた重い叫びだ。闇雲に復讐に執念を燃やすのではなく、死刑制度をめぐる表層的な是非論をも超えた、身震いするほど冷静な洞察だと思う。
それにしても13年という歳月はあまりに長い。この結論を得るまでにこれほどまでに年月が必要だったのか、これだけの年月をかけなければ、数々の被害者救済制度は確立されなかったのか、これまた難しい課題だ。
事件から13年、本村さんが感じていた無力感、怒り、寂寥感は想像を絶する。20代前半で突如、何の落ち度もないままに未来を断ち切られたわけだから自暴自棄になってもちっともおかしくない。
それでも本村さんはご存じの通り、被害者並びに家族の権利拡充に奔走。犯罪被害者等基本法の制定、被害者参加制度の導入などにつながった。
事件当初から、本村さんが発する声には力がみなぎっていた。心の底からの叫びが持つ迫力や説得力に満ち満ちていた。
最高裁の最終判断を控え、口を閉ざしていた本村さんが、おとといの結果を受けて、どのような言葉を発信するのか、自ずと世間は注目した。
いくつか引用してみる。
●「今回、死刑という判決が下され、遺族として大変満足している。ただ、決してうれしいとか喜びとかは一切ない。厳粛な気持ちで受け止めないといけないと思っている」
●「20歳に満たない少年が人をあやめたとき、もう一度社会でやり直すチャンスを与えることが社会正義なのか。命をもって罪の償いをさせることが社会正義なのか。どちらが正しいことなのかとても悩んだ。きっとこの答えはないのだと思う。絶対的な正義など誰も定義できないと思う」
●「私が色々な方と手を携えてやった活動が正しかったか、正しくなかったかは私が言うことではなく、歴史が判断することだと思うが、何もしなければ始まらない。小さな一歩でも始めれば、社会が変ると実感できた。司法制度を変えることができたのは良かったと思う。今後は、市井の会社員なのできちんと仕事をして、納税をして、一市民として社会の役に立てるようにしたい。特に社会に出て、活動することは考えていない」
●「この判決に勝者なんていない。犯罪が起こった時点で、みんな敗者だと思う。社会から人が減るし、多くの人が悩むし、血税を使って裁判が行われる。結局得られるものはマイナスのものが多い。そういった中から、マイナスのものを社会から排除することが大事で、結果として、妻と娘の命が今後の役に立てればと思う。そのためにできることをやってきたということを(亡くなった2人に)伝えたい」
本村さんの言葉には首尾一貫して、単なる感情論、復讐の発想とは別個の信念に基づいた深みがある。
私自身、事件が注目されはじめた頃、何度もテレビから流れる本村さんの話を聞いて、法律関係とか文学方面の仕事をしている人かと思ったのだが、理科系のエンジニアだそうだ。
今思えば、単純に職業分類みたいな刷り込みでそんな勘違いした自分の浅はかさを恥ずかしく思う。
作られた言葉でもなく、飾った言葉でもなく、取り繕ったり、媚びたりするような言葉ではない、魂が発する言葉だったのだろう。そこに職業も年齢も関係ない。ただ精一杯に信念を主張し、不合理を問いかけた言葉だったわけだ。
また引用になってしまうが、おとといの会見では、被告側の弁護団に対しても次のように発言している。
● 「殺意の否認は非常に残念だが、逆風の中で熱心に弁護されたことは立派なことだと思う。被告にとっても、最後まで自分の命を助けようと足を運ぶ弁護士と接することで感謝の気持ちが芽生え、反省の一歩になる。弁護のテクニックなどでいかがかと思うことはあったが、弁護士の役割を果たされたと思う」
凡人の発想では、恨み辛みだけを吐露したい気持ちだってあっただろうと思いたくなる。それでも本村さんの軸はぶれない。被告に罪の重さ、命の尊さを思い知らせて贖罪意識を持たせたい、無念の死に少しでも意味を見出したい一心に支えられていた。
本村さんの発信力には、以前から政治の世界からも注目が寄せられている。与野党問わず、政界進出を勧める動きがある。
うさん臭く集票目的のためだけに利用しようという思惑も見え隠れするが、本村さんの言葉を聞く限り、魑魅魍魎の思惑に振り回されるような人ではないだろう。それでも本村さんがそれを必要な使命と感じてその道を選べば、卓越した発信力に更に磨きがかかるのだろう。
政治に限らず、あれだけの発信力のある人だから公的な活動に携わって欲しいという声は各方面から絶えないはずだ。これからも何かと騒がしい思いをされるのだろう。
「自分の言葉」で語ることが苦手な大人ばかりが幅を効かす世の中だから、本村さんの存在感が際立つのも当然だ。「市井の会社員」として静かに暮らすことはなかなか大変だろうと思う。
またまた引用になってしまうが、本村さんが、4年前の差し戻し控訴審判決の際に語った言葉がとても印象的なので紹介したい。
●「どうすれば死刑という残虐で残酷な刑が下されない社会にできるか。それを考える契機にならなければ、私の妻と娘、そして被告人も犬死にです」
単なる怨念を超えた重い叫びだ。闇雲に復讐に執念を燃やすのではなく、死刑制度をめぐる表層的な是非論をも超えた、身震いするほど冷静な洞察だと思う。
それにしても13年という歳月はあまりに長い。この結論を得るまでにこれほどまでに年月が必要だったのか、これだけの年月をかけなければ、数々の被害者救済制度は確立されなかったのか、これまた難しい課題だ。
2012年2月20日月曜日
幼なじみ
なんともなしに旧友と飲む時間は実に愉快だ。利害関係もなく、上下の関係もなく、ただただバカ話でホロ酔いになる。
癒されると言っては大げさかも知れないが、それに近い感覚がある。
先日、久しぶりに会う旧友たちと飲んだ。連日の飲みすぎで内臓がお疲れ気味だったのだが、ああいう集まりだと、俄然元気になる。
中学、高校時代の友人達だったのだが、偶然にもそこに集まった5人は、小学校はおろか、幼稚園から一緒だったことに気付く。
幼稚園児といえば、4歳とか5歳だ。言ってみれば、まだ人間にもなっていない存在だ。そんな時から付き合いがあることは不思議な縁なのだろう。
中学、高校時代、それぞれが密接に付き合っていたわけではない。それでも、この年になって集えば、共有した時間のおかげで、ギクシャクした空気とは無縁の宴会になる。
幼稚園の頃の世相といえば、その後、私が通うことになる(ウソです)東大で安田講堂事件が起きたり、沖縄返還をめぐってテンヤワンヤだったり、三島由紀夫がハラキリしたり、そんな混とんとした時代だった。
無論、幼稚園児がそんな時代の空気を知るよしもなく、みんなスクスクと大きくなっていく。思春期を迎え、恋をして、社会人になり、いろんな目に遭い、結婚して、子供を作って、離婚した。
この日の5人のうち4人が神に誓ったはずの生活を破たんさせた経験を持っていた。キリスト教教育を幼稚園時代から受け続けるとそういう特徴になるのだろうか。
同じ再婚組でも、嫁さんが精神的にヤバい状態で、本気で殺されそうになっている友人がいる一方で、来月にも子どもが誕生するハッピーな友人もいる。
人生後半戦、なんとも複雑な様子だ。
別な友人は、とっとと子どもが巣立っているため、老後の人生設計を練っているし、別な友人は、幼い子どもを思って自らの相続税対策に知恵を絞っている。
人生いろいろだ。
それぞれの友人から漏れ聞こえてくる他の友人達や恩師達の行状にも驚く話が多い。
乳児をおぶってキャバクラに飲みに行く友人がいるとか、バツ3だかバツ4になった上で、懲りずに19歳の外国人と暮らして毎日ヒーヒー言ってる友人もいるらしい。定年間近の恩師が、どこかで知り合った70過ぎのお婆さんと肉体関係を結んで、その後もオネダリされて困っているとか。みなさんハツラツ?としている。
誰もがこの年になれば、健康診断で「要再検査」の烙印を押されたり、どこかしら痛かったり痒かったり、血圧がどうの、血糖値がどうの、毛髪がどうの、EDがどうしたといった問題を抱えている。
私を例にとると、二十歳ぐらいまでは開脚180度が可能だった。脚を前後に広げてぺたっと地面に接地するほど身体が柔らかかったのだが、今では背中を掻こうと手を伸ばすだけで、筋肉がつったりする。
放っておいても快調でいられる年齢ではないのだろう。節制とか鍛錬をそろそろ日々の課題にしようかと真面目に考えたくなった。
自宅の近くにムエタイのジムが出来たから通ってみようか。それともテニススクールにでも行って、有閑マダムに流し目を送ろうか。何でもいいから身体を鍛えることにトライする年にしようと思う。
話がそれた。
老境と呼ぶにはあまりに早いが、かといって、ゆるやかな老化をひょんなところで実感する年齢になって、子どもの頃の友人と集うのは、一服の清涼剤みたいなものかもしれない。
それぞれが、仕事でもプライベートでも、肉体的にも精神的にも厄介事ばかりに囲まれる年代だ。われわれの世代に対して世間様が要求してくることも何かとシビアだ。
描いた夢と叶わぬ夢が同じ意味であることにはとっくに気づいているし、ため息をつくこと自体も減った。そうはいっても、安易な達観とか、あきらめの感情を持つほど枯れているつもりはない。時たま顔を出す若造みたいに鋭敏な部分に怖さも覚えるが、それを肯定する快感も捨てたくない。
それでも、厄介事を前にすれば、結局は鈍く淀むような感覚に自分を追いやりたくもなる。もがくべきかと悩んでも、もがいた末に手にする現実を消極的に想像して、その思った以上の小ささにうろたえ、迷路の出口を見つけられずにいる。
そんな年頃?の渦中にある。
ずいぶん、ウダウダ書きなぐってしまった。
なんだかんだ言って、まだまだ気を張って攻めていないとならない年代ではある。
無邪気で破天荒で、怖いもの知らずだった時代をリアルタイムで共有していた友人達と会えば、束の間、子どもの気分に戻る。
翌朝のだるさで、結局は加齢を痛感して、現実に引き戻されるのだが、なんだかんだ言ってエネルギーをもらえているような気がする。
今週末、中学高校時代の同期会が行われる。一部の幹事の尊敬すべき努力の甲斐あって、上手く運べば全体の3分の2ぐらいが集まりそうな状況らしい。この年になってそれだけ集まるのは凄いことなのかもしれない。
せいぜい元気でハツラツなフリでもしようと思う。
癒されると言っては大げさかも知れないが、それに近い感覚がある。
先日、久しぶりに会う旧友たちと飲んだ。連日の飲みすぎで内臓がお疲れ気味だったのだが、ああいう集まりだと、俄然元気になる。
中学、高校時代の友人達だったのだが、偶然にもそこに集まった5人は、小学校はおろか、幼稚園から一緒だったことに気付く。
幼稚園児といえば、4歳とか5歳だ。言ってみれば、まだ人間にもなっていない存在だ。そんな時から付き合いがあることは不思議な縁なのだろう。
中学、高校時代、それぞれが密接に付き合っていたわけではない。それでも、この年になって集えば、共有した時間のおかげで、ギクシャクした空気とは無縁の宴会になる。
幼稚園の頃の世相といえば、その後、私が通うことになる(ウソです)東大で安田講堂事件が起きたり、沖縄返還をめぐってテンヤワンヤだったり、三島由紀夫がハラキリしたり、そんな混とんとした時代だった。
無論、幼稚園児がそんな時代の空気を知るよしもなく、みんなスクスクと大きくなっていく。思春期を迎え、恋をして、社会人になり、いろんな目に遭い、結婚して、子供を作って、離婚した。
この日の5人のうち4人が神に誓ったはずの生活を破たんさせた経験を持っていた。キリスト教教育を幼稚園時代から受け続けるとそういう特徴になるのだろうか。
同じ再婚組でも、嫁さんが精神的にヤバい状態で、本気で殺されそうになっている友人がいる一方で、来月にも子どもが誕生するハッピーな友人もいる。
人生後半戦、なんとも複雑な様子だ。
別な友人は、とっとと子どもが巣立っているため、老後の人生設計を練っているし、別な友人は、幼い子どもを思って自らの相続税対策に知恵を絞っている。
人生いろいろだ。
それぞれの友人から漏れ聞こえてくる他の友人達や恩師達の行状にも驚く話が多い。
乳児をおぶってキャバクラに飲みに行く友人がいるとか、バツ3だかバツ4になった上で、懲りずに19歳の外国人と暮らして毎日ヒーヒー言ってる友人もいるらしい。定年間近の恩師が、どこかで知り合った70過ぎのお婆さんと肉体関係を結んで、その後もオネダリされて困っているとか。みなさんハツラツ?としている。
誰もがこの年になれば、健康診断で「要再検査」の烙印を押されたり、どこかしら痛かったり痒かったり、血圧がどうの、血糖値がどうの、毛髪がどうの、EDがどうしたといった問題を抱えている。
私を例にとると、二十歳ぐらいまでは開脚180度が可能だった。脚を前後に広げてぺたっと地面に接地するほど身体が柔らかかったのだが、今では背中を掻こうと手を伸ばすだけで、筋肉がつったりする。
放っておいても快調でいられる年齢ではないのだろう。節制とか鍛錬をそろそろ日々の課題にしようかと真面目に考えたくなった。
自宅の近くにムエタイのジムが出来たから通ってみようか。それともテニススクールにでも行って、有閑マダムに流し目を送ろうか。何でもいいから身体を鍛えることにトライする年にしようと思う。
話がそれた。
老境と呼ぶにはあまりに早いが、かといって、ゆるやかな老化をひょんなところで実感する年齢になって、子どもの頃の友人と集うのは、一服の清涼剤みたいなものかもしれない。
それぞれが、仕事でもプライベートでも、肉体的にも精神的にも厄介事ばかりに囲まれる年代だ。われわれの世代に対して世間様が要求してくることも何かとシビアだ。
描いた夢と叶わぬ夢が同じ意味であることにはとっくに気づいているし、ため息をつくこと自体も減った。そうはいっても、安易な達観とか、あきらめの感情を持つほど枯れているつもりはない。時たま顔を出す若造みたいに鋭敏な部分に怖さも覚えるが、それを肯定する快感も捨てたくない。
それでも、厄介事を前にすれば、結局は鈍く淀むような感覚に自分を追いやりたくもなる。もがくべきかと悩んでも、もがいた末に手にする現実を消極的に想像して、その思った以上の小ささにうろたえ、迷路の出口を見つけられずにいる。
そんな年頃?の渦中にある。
ずいぶん、ウダウダ書きなぐってしまった。
なんだかんだ言って、まだまだ気を張って攻めていないとならない年代ではある。
無邪気で破天荒で、怖いもの知らずだった時代をリアルタイムで共有していた友人達と会えば、束の間、子どもの気分に戻る。
翌朝のだるさで、結局は加齢を痛感して、現実に引き戻されるのだが、なんだかんだ言ってエネルギーをもらえているような気がする。
今週末、中学高校時代の同期会が行われる。一部の幹事の尊敬すべき努力の甲斐あって、上手く運べば全体の3分の2ぐらいが集まりそうな状況らしい。この年になってそれだけ集まるのは凄いことなのかもしれない。
せいぜい元気でハツラツなフリでもしようと思う。
2012年2月17日金曜日
銀座のクラブ 暗黙のルール
俗に「知らぬが仏」と言われるが、あまり自分に関係のない世界の話に聞き耳をたてるのは趣味がよろしくない。
覗きたい気持はあっても、知ったかぶりほど格好悪いことはないので、やはり知らぬが仏で通したほうが無難なことは多い。
何を書きたかったのかというと、銀座のクラブ活動、略して「部活」を通じて聞こえてくる話だ。なかなか興味深かったので、あれこれ詮索したくなってしまった。
そちらの世界で働いているわけではないし、現実的な世知辛い事情に詳しくなっても仕方がない。呆けた顔で魔界をさまよっていたほうが本来はスマートだ。
でも、ついつい覗きたくなって、聞き耳をたててしまう。いろんな「銀座ルール」がある。ちらちら見聞きするそんな話題のせいで、酔っぱらっていても、変なところが気になったりする。
やはり、知らぬが仏なのかも知れない。
世の中には、銀座のママさんが書いた本が予想以上に出回っている。男向けに書かれた内容ならば、スマートに見られるにはどうしたらいいかなど、役に立つ?こともあるようだ。
これがその道を目指す女性向けに書かれた内容だったりすると、男にとっては心臓に悪い話ばかりだ。
「男を落とすメール術」だとか「お客からお金を引き出すテク二ック」とか、そんな感じになる。あな恐ろしやって感じだ。
知らぬが仏だろう。
俗に「銀座ルール」というものがある。同伴強制日に客がつかまらなかったらペナルティーだとか、遅刻や休み方によってはペナルティーが膨らむとか、慰安旅行に行かなくても旅行費用を強制的に天引きされるとか、退店する月の給料がなんだかんだ言って支払われないとか、実にさまざま。
同じ欠勤するにしても、一定時刻を過ぎた連絡にはペナルティーとか実に細かいらしい。せっかくの同伴客をつかんでも、事前連絡がなければ同伴扱いにならないとかキリがないほどだ。
待遇面以外にも無数に「ルール」が存在する。
乾杯する時のグラスは相手より低くしろ、タバコにはライターよりマッチで火を付けろ、ソフトドリンクを飲む時でもストロー禁止、ウーロン茶も水で割ってウイスキーの水割りのような色にしろ等々。
もっと突っ込んだところでは、ヘアメイクをセットする前に銀座で客と会っていたらNGとか、電車や飛行機で客と隣合わせに座っちゃいけないなんてスンゴイ話も聞いたことがある。
いははや、楽しくお相手してくれる女性陣も何かとがんじがらめで苦労しているようだ。
こうしたルールは、当然、経営側に有利に作られている。ひと握りの勝ち組ホステスさんが、凄まじい金額を稼ぎ出せる一方で、やる気のないヘタレ女性が駆逐されるために築かれてきた一種の文化・伝統なのかもしれない。
あの街があの街であるためには、ヨソの街よりも多岐にわたって厳しいルールが存在することも必要なんだろう。
そんなハードルを乗り越えて、涼しい顔をしているオネエサマがたがいればこそ、プロとしての接客という伝統が継がれていくのだと思う。
どんな世界も生き残っていくのは大変だ。まさに実力主義だけの世界だからこそ、シビアな話も良く聞く。最近は世相を反映した世知辛い話題を耳にすることが多い。
女性陣にとっては気の毒な話でも、経営という点から見ると、「ルール」という名のもとにさまざまなコスト削減を押し通しているそちら業界の経営者が実にうらやましい。
経営する上でもっとも頭が痛い人件費コストを、労働基準法なんてまるで無視して削っちゃうんだから凄い。大半の経営者があやかりたいと思うはずだ。
出勤調整なんて最たるものだろう。その分、人件費コストが丸々浮く。有給休暇などという概念はそこには存在しない。「今日は来ないでくれ。その分の日給は払いません」。なんとも強気だ。
そこまでいかなくても、苦しくなったら強制同伴日などを追加して頑張ってもらい、ダメならペナルティーで給料を多く差っ引く。
被雇用者に対する不利益条項を同意無しで追加し、不遡及の原則など知ったこっちゃない感覚でルールをいじるのだから豪快な話ではある。コンプラうんぬんとは無縁だ。
売掛金の未回収は、丸々全額をホステスから天引きする。休まず働いたのに給料日にいろいろ差し引かれ、支給額ゼロなんて話もあるらしい。
「ルール」が巧妙に機能しているわけだ。一般企業の経営者がそんな荒技を使えたらウホウホだろう。
ちなみに、最近の不況を反映して、昔は無かった店とホステスとの賃金紛争も起きているらしい。
売り掛けの肩代わり、大幅な罰金の天引きとかを不法行為として、未払い賃金請求という形で司法に訴えるケースが出てきたわけだ。
「ルール」なんか気にしない“ユニオン大好き”な女性が増えてくるのだろうか。それもそれで時代なんだろうか。
司法判断がどうなるかは契約形態次第で微妙ではあるが、法律論争となれば、ホステスの立ち位置が「被雇用者」と位置付けられれば、圧倒的に労働者側に有利だ。
こういう動きが増えれば、店とホステスとの間の契約スタイルがギチギチしたものになっていくことは確かだろう。
経営サイドにすれば、雇用ではなく、請負とか委託にすることで、あくまでホステスを個人事業者と位置付ける。すなわち、労働基準法のラチ外に置けば心配事はなくなる。
ただ、遅刻イコール罰金などという常識がついて回る以上、いま話題の「名ばかり管理職」の労働紛争と同じで、契約書面の形式より実質が判断され、経営側が窮地に立たされる恐れもなくはない。
少なくとも、契約関係が曖昧なままだと、食えない弁護士とかの士業センセイあたりから、ホステスさんの未払い賃金紛争を仕掛けられてもおかしくない。
そうなりそうなら今度は、店とホステスとの契約方法を上手に指南する専門家なんかも引く手あまたになるのだろう。
うたかたの夢を求めてあの街を徘徊する男たちにとっては、まさに「知らぬが仏」の話ではある。
覗きたい気持はあっても、知ったかぶりほど格好悪いことはないので、やはり知らぬが仏で通したほうが無難なことは多い。
何を書きたかったのかというと、銀座のクラブ活動、略して「部活」を通じて聞こえてくる話だ。なかなか興味深かったので、あれこれ詮索したくなってしまった。
そちらの世界で働いているわけではないし、現実的な世知辛い事情に詳しくなっても仕方がない。呆けた顔で魔界をさまよっていたほうが本来はスマートだ。
でも、ついつい覗きたくなって、聞き耳をたててしまう。いろんな「銀座ルール」がある。ちらちら見聞きするそんな話題のせいで、酔っぱらっていても、変なところが気になったりする。
やはり、知らぬが仏なのかも知れない。
世の中には、銀座のママさんが書いた本が予想以上に出回っている。男向けに書かれた内容ならば、スマートに見られるにはどうしたらいいかなど、役に立つ?こともあるようだ。
これがその道を目指す女性向けに書かれた内容だったりすると、男にとっては心臓に悪い話ばかりだ。
「男を落とすメール術」だとか「お客からお金を引き出すテク二ック」とか、そんな感じになる。あな恐ろしやって感じだ。
知らぬが仏だろう。
俗に「銀座ルール」というものがある。同伴強制日に客がつかまらなかったらペナルティーだとか、遅刻や休み方によってはペナルティーが膨らむとか、慰安旅行に行かなくても旅行費用を強制的に天引きされるとか、退店する月の給料がなんだかんだ言って支払われないとか、実にさまざま。
同じ欠勤するにしても、一定時刻を過ぎた連絡にはペナルティーとか実に細かいらしい。せっかくの同伴客をつかんでも、事前連絡がなければ同伴扱いにならないとかキリがないほどだ。
待遇面以外にも無数に「ルール」が存在する。
乾杯する時のグラスは相手より低くしろ、タバコにはライターよりマッチで火を付けろ、ソフトドリンクを飲む時でもストロー禁止、ウーロン茶も水で割ってウイスキーの水割りのような色にしろ等々。
もっと突っ込んだところでは、ヘアメイクをセットする前に銀座で客と会っていたらNGとか、電車や飛行機で客と隣合わせに座っちゃいけないなんてスンゴイ話も聞いたことがある。
いははや、楽しくお相手してくれる女性陣も何かとがんじがらめで苦労しているようだ。
こうしたルールは、当然、経営側に有利に作られている。ひと握りの勝ち組ホステスさんが、凄まじい金額を稼ぎ出せる一方で、やる気のないヘタレ女性が駆逐されるために築かれてきた一種の文化・伝統なのかもしれない。
あの街があの街であるためには、ヨソの街よりも多岐にわたって厳しいルールが存在することも必要なんだろう。
そんなハードルを乗り越えて、涼しい顔をしているオネエサマがたがいればこそ、プロとしての接客という伝統が継がれていくのだと思う。
どんな世界も生き残っていくのは大変だ。まさに実力主義だけの世界だからこそ、シビアな話も良く聞く。最近は世相を反映した世知辛い話題を耳にすることが多い。
女性陣にとっては気の毒な話でも、経営という点から見ると、「ルール」という名のもとにさまざまなコスト削減を押し通しているそちら業界の経営者が実にうらやましい。
経営する上でもっとも頭が痛い人件費コストを、労働基準法なんてまるで無視して削っちゃうんだから凄い。大半の経営者があやかりたいと思うはずだ。
出勤調整なんて最たるものだろう。その分、人件費コストが丸々浮く。有給休暇などという概念はそこには存在しない。「今日は来ないでくれ。その分の日給は払いません」。なんとも強気だ。
そこまでいかなくても、苦しくなったら強制同伴日などを追加して頑張ってもらい、ダメならペナルティーで給料を多く差っ引く。
被雇用者に対する不利益条項を同意無しで追加し、不遡及の原則など知ったこっちゃない感覚でルールをいじるのだから豪快な話ではある。コンプラうんぬんとは無縁だ。
売掛金の未回収は、丸々全額をホステスから天引きする。休まず働いたのに給料日にいろいろ差し引かれ、支給額ゼロなんて話もあるらしい。
「ルール」が巧妙に機能しているわけだ。一般企業の経営者がそんな荒技を使えたらウホウホだろう。
ちなみに、最近の不況を反映して、昔は無かった店とホステスとの賃金紛争も起きているらしい。
売り掛けの肩代わり、大幅な罰金の天引きとかを不法行為として、未払い賃金請求という形で司法に訴えるケースが出てきたわけだ。
「ルール」なんか気にしない“ユニオン大好き”な女性が増えてくるのだろうか。それもそれで時代なんだろうか。
司法判断がどうなるかは契約形態次第で微妙ではあるが、法律論争となれば、ホステスの立ち位置が「被雇用者」と位置付けられれば、圧倒的に労働者側に有利だ。
こういう動きが増えれば、店とホステスとの間の契約スタイルがギチギチしたものになっていくことは確かだろう。
経営サイドにすれば、雇用ではなく、請負とか委託にすることで、あくまでホステスを個人事業者と位置付ける。すなわち、労働基準法のラチ外に置けば心配事はなくなる。
ただ、遅刻イコール罰金などという常識がついて回る以上、いま話題の「名ばかり管理職」の労働紛争と同じで、契約書面の形式より実質が判断され、経営側が窮地に立たされる恐れもなくはない。
少なくとも、契約関係が曖昧なままだと、食えない弁護士とかの士業センセイあたりから、ホステスさんの未払い賃金紛争を仕掛けられてもおかしくない。
そうなりそうなら今度は、店とホステスとの契約方法を上手に指南する専門家なんかも引く手あまたになるのだろう。
うたかたの夢を求めてあの街を徘徊する男たちにとっては、まさに「知らぬが仏」の話ではある。
2012年2月15日水曜日
お燗酒バンザイ
こう寒いと、やっぱり熱燗でキュ~っと一杯やりたくなる。夏場にキンキンに冷やした酒を飲むのもいいが、冬の燗酒には勝てない。
あくまで常温である「冷や」が基本という年輩の人も少なくないが、寒い季節は燗酒に無性に惹かれる。
燗上がり、燗栄えという言葉があるように、お燗することで、より旨さを感じる酒も多い。
一説によると日本人は300年ぐらい前から寒い冬には燗酒に親しんできたらしい。ここ2~30年で広まった冷酒(冷やではない)が幅をきかす今では、お燗酒の肩身が狭い感じもあるが、文化的側面から見れば、燗酒のほうが正当派。
大げさに言えば、燗酒を愛でるのはオトナのたしなみと言えよう。
燗酒に使う言葉がまた良い。常温である「冷や」を分岐点に冷たい方に向かっては、涼冷え、花冷え、雪冷えなどと、酒の温度ごとに呼び方がある。
温度が上昇するにつれ、人肌燗、ぬる燗、上燗、熱燗、飛び切り燗などと言い表す。
細かな定義までは知らないが、先人たちが酒の温度にこだわってアレコレと楽しんできたことがうかがえる。
今の時代、夏場でも冷房で冷え切った身体を癒す時は熱燗がオススメだ。私も夏場には冷房を浴びた1日のシメにおでん屋あたりで熱燗を楽しむ。
冬であれば尚更だ。わざわざ熱燗を楽しむためだけに行く店だってある。レンジでチンも結構だが、そこはやっぱり、燗の付け方にこだわった店が嬉しい。
銀座のおでん屋の有名処である「やす幸」、「おぐ羅」あたりでは、錫のヤカンにこだわり、注文の都度、お燗番の板さんが飲み頃の温度を自ら猪口に注いで確かめてからグラスに注いでくれる。
これが呆れるぐらいにウマい。酒自体は、確か白鹿が1種類だけだ。勇名轟く銘柄酒もぶっ飛ぶぐらいウマい。
おでんやツマミもウマいが、私の場合、こうした店では、燗酒が主役で、食べ物はあくまで従者のような感じに思える。
錫(だと思う)のやかんを使うだけで不思議と極上の酒になる。やかんではなくても、意識の高い店では錫の「ちろり」もよく見かける。
錫がどんな作用で燗酒を変身させるかは知らないが、器の効用は無視できない。陶器の器に入れた水が腐りにくいとか、古くから器をめぐっては、いろいろな通説がある。
私自身、備前焼の徳利に事前に割水をした焼酎を数日寝かせて飲んでみて、そのウマさにビックリしたことがある。
燗酒の場合は、錫がイチオシみたいだが、他にもオススメの器やオススメの燗の付け方をご存じの人は是非教えてください。
このブログで何度も書いているが、私の場合、冷酒に合うツマミコンテスト?では、昔からウナギの白焼きがナンバー1だと信じて疑わない。
さて、燗酒の場合には何だろう。油っぽいものは何となく違う気がする。ウナギの白焼きもその点で冷酒におまかせだ。
塩辛とかカラスミなんかが熱燗のお供に最高だ。「塩」がキーワードなんだろうか。イクラもいいけど、イマドキの醤油漬けより関東古来?の塩イクラが相性が良い。
上等なまぐろの正当な赤身とか、白身の昆布締めとか、サッパリ系の刺身も王道のツマミだ。刺身業界でもベトッとした脂を感じるものは、私の場合ついつい敬遠する。そっちは焼酎のアテとして活躍してもらう。
生ウニに塩をパラリと落としたのも燗酒向きかも知れない。ボタンエビの頭の味噌をチューチューしながら飲むのも燗酒がいい。
逆に燗酒にそぐわないものといえば、焼肉、お好み焼、チーズ系の食い物あたりだろう。あくまで主観なので、そういうのがお好みの人は気にしないでいただきたい。
でも、以前、ピザを食べながら燗酒を飲んでいる人と同席したが、見るからに合わない感じだった。
だんだん話に統一感や脈略がなくなってきた。
このわた、カニの内子、一般的なところではノリの佃煮とか、シラスおろし、ショウガたっぷりの冷や奴なんていうのも熱燗との相性抜群だろう。
塩っぽさで言えば、色が変わっちゃうぐらい漬け込まれたぬか漬けのキュウリとか茄子なんかも捨てがたい。
数の子、子持ち昆布、タラコの炙ったの・・・、
うーん、どうも単純に酒を飲みたくなっているだけみたいだ。
実は、これを書いているのは夕方だ。「梅干しを見るとツバが出る」みたいな条件反射で、日が暮れると肝臓が私に話しかけてくる。
「親分、今日は何を飲みますかい?熱燗がよござんすねえ」。
毎日、そんな感じだ。この肝臓、調子に乗ると、「この後は銀座に出ませんかい?」とか余計なことを囁いたりするから困りものだ。
日々、自制心とニラメッコしている。
あくまで常温である「冷や」が基本という年輩の人も少なくないが、寒い季節は燗酒に無性に惹かれる。
燗上がり、燗栄えという言葉があるように、お燗することで、より旨さを感じる酒も多い。
一説によると日本人は300年ぐらい前から寒い冬には燗酒に親しんできたらしい。ここ2~30年で広まった冷酒(冷やではない)が幅をきかす今では、お燗酒の肩身が狭い感じもあるが、文化的側面から見れば、燗酒のほうが正当派。
大げさに言えば、燗酒を愛でるのはオトナのたしなみと言えよう。
燗酒に使う言葉がまた良い。常温である「冷や」を分岐点に冷たい方に向かっては、涼冷え、花冷え、雪冷えなどと、酒の温度ごとに呼び方がある。
温度が上昇するにつれ、人肌燗、ぬる燗、上燗、熱燗、飛び切り燗などと言い表す。
細かな定義までは知らないが、先人たちが酒の温度にこだわってアレコレと楽しんできたことがうかがえる。
今の時代、夏場でも冷房で冷え切った身体を癒す時は熱燗がオススメだ。私も夏場には冷房を浴びた1日のシメにおでん屋あたりで熱燗を楽しむ。
冬であれば尚更だ。わざわざ熱燗を楽しむためだけに行く店だってある。レンジでチンも結構だが、そこはやっぱり、燗の付け方にこだわった店が嬉しい。
銀座のおでん屋の有名処である「やす幸」、「おぐ羅」あたりでは、錫のヤカンにこだわり、注文の都度、お燗番の板さんが飲み頃の温度を自ら猪口に注いで確かめてからグラスに注いでくれる。
これが呆れるぐらいにウマい。酒自体は、確か白鹿が1種類だけだ。勇名轟く銘柄酒もぶっ飛ぶぐらいウマい。
おでんやツマミもウマいが、私の場合、こうした店では、燗酒が主役で、食べ物はあくまで従者のような感じに思える。
錫(だと思う)のやかんを使うだけで不思議と極上の酒になる。やかんではなくても、意識の高い店では錫の「ちろり」もよく見かける。
錫がどんな作用で燗酒を変身させるかは知らないが、器の効用は無視できない。陶器の器に入れた水が腐りにくいとか、古くから器をめぐっては、いろいろな通説がある。
私自身、備前焼の徳利に事前に割水をした焼酎を数日寝かせて飲んでみて、そのウマさにビックリしたことがある。
燗酒の場合は、錫がイチオシみたいだが、他にもオススメの器やオススメの燗の付け方をご存じの人は是非教えてください。
このブログで何度も書いているが、私の場合、冷酒に合うツマミコンテスト?では、昔からウナギの白焼きがナンバー1だと信じて疑わない。
さて、燗酒の場合には何だろう。油っぽいものは何となく違う気がする。ウナギの白焼きもその点で冷酒におまかせだ。
塩辛とかカラスミなんかが熱燗のお供に最高だ。「塩」がキーワードなんだろうか。イクラもいいけど、イマドキの醤油漬けより関東古来?の塩イクラが相性が良い。
上等なまぐろの正当な赤身とか、白身の昆布締めとか、サッパリ系の刺身も王道のツマミだ。刺身業界でもベトッとした脂を感じるものは、私の場合ついつい敬遠する。そっちは焼酎のアテとして活躍してもらう。
生ウニに塩をパラリと落としたのも燗酒向きかも知れない。ボタンエビの頭の味噌をチューチューしながら飲むのも燗酒がいい。
逆に燗酒にそぐわないものといえば、焼肉、お好み焼、チーズ系の食い物あたりだろう。あくまで主観なので、そういうのがお好みの人は気にしないでいただきたい。
でも、以前、ピザを食べながら燗酒を飲んでいる人と同席したが、見るからに合わない感じだった。
だんだん話に統一感や脈略がなくなってきた。
このわた、カニの内子、一般的なところではノリの佃煮とか、シラスおろし、ショウガたっぷりの冷や奴なんていうのも熱燗との相性抜群だろう。
塩っぽさで言えば、色が変わっちゃうぐらい漬け込まれたぬか漬けのキュウリとか茄子なんかも捨てがたい。
数の子、子持ち昆布、タラコの炙ったの・・・、
うーん、どうも単純に酒を飲みたくなっているだけみたいだ。
実は、これを書いているのは夕方だ。「梅干しを見るとツバが出る」みたいな条件反射で、日が暮れると肝臓が私に話しかけてくる。
「親分、今日は何を飲みますかい?熱燗がよござんすねえ」。
毎日、そんな感じだ。この肝臓、調子に乗ると、「この後は銀座に出ませんかい?」とか余計なことを囁いたりするから困りものだ。
日々、自制心とニラメッコしている。
2012年2月13日月曜日
諭吉を刷りまくれ
今日は食い気も色気もまったくないテーマです。
この画像は、私の財布に入っていたお札を並べたものです。
ウソです。わが社の新聞用ストック写真を借用しただけです。
さて本題。
収入が40万円しかないのに、支出が90万円以上。こんな家庭があったら、バカ丸出しである。特別な支出があったのならともかく、普通の日々をこういう感覚で過ごしていたら大バカだ。
足りない分は目先の借金で何とかしのぐ。ダラダラ借りていたら、借金累計が1000万円まで膨らんでしまった。でも、一応、資産が1000万円より少し多めにあるから、まだ借金は可能だ。
こんな考え方をしていたら、そりゃあ遠からず破たんする。
これが今のニッポン財政。
国の借金累計が1000兆円を突破。借金を可能にしている源である個人金融資産は俗に1400兆円と言われる。
表面上は、まだまだ借金可能!?な数字だ。とはいえ、個人金融資産は住宅ローンとかの債務を無視している数字だから実態は遙かに少ない。
事実上、借金と資産はトントン状態。この春にも借金が遂に資産を上回る。いよいよ、ニッポンは強いという神話が崩壊する。
だいたい、税収だけで公務員給与がまかなえないぐらいの構造なんだから、チマチマした策を練っても追っつかない。突拍子もない奇策でも断行しなければ改善はない。
消費税を増税することが、いつのまにか「当たり前のこと」として世間に浸透してきた。国のプロパガンダは凄いもので、あらゆる階層の有識者と呼ばれる面々が口を揃えて「増税やむなし」と叫ぶ。
「原発は安全」と言い続けてきたこの国の「宣撫工作」の巧みさは言うまでもないが、消費税大増税にも同じ臭いがする。
今日現在だって、日本中に放射性物質が飛びまくっているのに、「ただちに健康を害することはない」「冷温停止状態になっている」というフレーズを繰り返し、いつの間にか思考停止に導く。
今も毎日、都内でも昨年3月以前の水準より明らかに高い値の放射性物質が飛散している。すでにそれが「普通の日常」になってしまい、危険性の高い子どもがマスクもせずに公園で砂遊びだ。
「なんとなく、そんなもんだ」。こういう感覚が拡がることがとても不気味だ。
「消費税を上げないと、国がパンクして大変なことになりますよ」。この刷り込みは想像以上に早く広く浸透してきた。こんな屁理屈がニッポンの常識となってしまった。
論点がすり替わっている。国がパンクするのは、消費税を上げないからではない。財政構造をいじらないで放漫体質を続けていることが最大唯一の原因であり、消費税を上げたところで、どのみち追いつくものではない。
「借金総額と金融資産総額が逆転しちゃったら日本国債が売れなくなって破たんするから消費税を上げます」というもっともらしいロジックがひとり歩きしている。
ウソ八百です。
逆に言えば、消費税を8%に上げたからといって、ここまで書いたような状況は改善されないわけだから、ロジック自体がまやかし以外の何ものでもない。
極端な話、日銀がヤケッパチになって大量に新札を刷りまくるぐらいのことをしないとダメだろう。
インフレが起きるとかお決まりの反対論をぶっている場合じゃない。そんなもの、「夜に口笛ふいたらヘビが出る」とか、はたまた「コーラを飲み過ぎたら骨が溶ける」とかの類の迷信だったりするんだ。きっと。
私の周りにコーラの飲み過ぎで骨が溶けたヤツはいない。
多少のインフレで済むなら国家が破たんするよりマシだ。聞くところによると、ギリシャではゴミの回収がストップして異臭が漂い、教科書は中古品をネットオークションで探し、警察もアテにならないから凶悪事件が増えたとか。
なんともウツウツとした気分になる話だ。
ただ、ギリシャ国債はドイツとかが意地で支えるから、ありえないくらいのべらぼーな金利が守られ大儲け確実とかいうスンゴイ話もある。どうなんだか。
話がそれた。
我が国の首相の座に就いている「のだめ」は、一心不乱に消費税増税に取り憑かれている。歴史に名を残したいのか知らないが、ネガティブなこと、国民に痛みを強いる策を正面から語ることが格好良いことだと思い込んでいる。
もちろん、無節操なバラマキ政策ばかり叫ぶ政治家は無責任だし、現実的で厳しい政策から目をさらさないことは、ポピュリズムしか考えないイマドキの政治家にとって大事なことだ。
ただし、厳しい政策を訴えることに酔っているだけのピントのズレ方が問題だ。言いにくいことを言うという部分だけで、ただのエエカッコしいになっている間違いに気付いていらっしゃらない。
乱暴で極端な言い方をすれば、歳出の構造改革を暗殺されてでも断行するぐらいの気概こそが、今の時代のリーダーに求められている。
消費税増税の前になすべきことは枚挙にいとまがない。公務員天国にメスを入れることも大事だ。民間に準拠しているという公務員の待遇は、一体、民間企業のどのあたりと比べているのかと突っ込みたくなるほど手厚い。
スト権など労働権に制約があるとか四の五の言っているが、現実の民間の世界、とくに中小企業では、法律でアホみたいに保護されている労働者の権利が遵守されているところなど断じて存在しない。
そんなノリで経営が罷り通るはずもない。あっという間に潰れる。そんな普通なら潰れるような経営感覚で運営されているのがこの国の現状だ。
日本国債はその多くを日本の銀行、保険、証券各社が持っている。すなわち、間接的ながら国民それぞれが負担させられている。赤ん坊まで含めて一人800万円の借金がのしかかっている格好だ。
あえて再び暴論。どんどん新札を刷りまくりましょう。諭吉さんを刷って刷って刷りまくって流通させた方が、いまのチンタラぶりよりよっぽど有効だと思う。
今日は、とりとめもなく、こんなテーマに終始してしまった。
2012年2月10日金曜日
ウナギと変態
つくづく思うのだが、ウナギを今のスタイルに調理することを考えた人は偉人だと思う。ノーベル賞ものだ。
あのニョロニョロした姿態を喰ってしまおうと思った先人もエラいが、どこまでも美味に仕上げてやろうと研究をしてきた人々は本当に凄い。
ヌルヌルして変な顔のアイツをさばいて、開いて、骨を抜いて蒸したり焼いたり、おまけに例のタレだ。
生きている時の姿からは想像を絶する変貌ぶりだ。ただ単に焼くとか煮るとか、ミンチにするとか、衣を付けて揚げるとか、様々な調理法で食べる日本料理の中でも、あの“変化球”ぶりは画期的だ。
そして抜群にウマい。日本人の叡智の最たるものではなかろうか。あの発想と技術は無形世界遺産だろう。
冷凍パックに入っているウナギだってウマいし、安い弁当屋のウナギだってウマいし、ましてや専門店の手にかかった日にはバンザイ三唱の味だ。
前振りが長くなった。
久しぶりにウナギをわしわしと摂取してきた。日本橋の伊勢定本店。たまに使う店だ。
ホンモノのグルメさんであれば、より通をうならせるような専門店に行くのだろうが、私にも別な意味でこだわりがある。ウナギ以外一切出てこないようなストイック系?の店がちょっと苦手だ。
浅漬けのキュウリとか骨煎餅なんかをポンと出されて1時間も黙って座ってろなんて店は楽しくない。まあ、ホンモノを標榜するには、忙しい厨房で余計な酒肴とか一品料理などにかまけていられないのだろう。
もちろん、それも理屈だが、そうは言っても、夜に酒飲んでホゲホゲしたいオヤジ相手に気の利いたツマミぐらい用意してもよかろう。
100点満点の鰻重を出す店と、鰻重は80点だが、つまみもそこそこ用意してある店だったら、私は迷わず後者を選ぶ。いや70点ぐらいの鰻重でも、酒肴がアレコレあれば、そっちのほうがいい。
だいたい、私基準?というか、私の舌では、70点以上のレベルの鰻重であれば、90点も100点も大差ない。ある一定のレベルを超えていれば、タレの味、白米の炊き加減の好みはあるだろうが、ウナギ気分を十二分に満たしてくれる。
味覚なんて気分で大きく変わる。修行僧みたいな顔して100点満点のウナギを食べたって楽しくない。狭くて汚い店で恐いご主人の顔色を見ながらペコペコ食べるのも最悪だ。
なんか力説してしまった。すいません。
さて、伊勢定の話だった。デパートのレストラン街とかにもチェーン店を出すような大型店ではある。特徴がないと言ってしまえばそれまでだが、逆に適度な安定感はある。それで良し。
老舗の本店だけに、まったりと大人がくつろげる座席も選べる。ウナギでゆるりと一献というパターンには悪くない。
日本酒の品揃えが中々すごい。あれだけあれば選ぶのに苦労することはない。でも、この日は熱燗から始めた。
鯛のワタの塩辛と、妙にウマいしっとりした特製おからでチビチビ。ウナギ様への期待を高めながらウッシッシ。
白焼きが来るタイミングで冷酒に切り替える。相変わらず仲居さんに「口開け間もない酒はどれ?」と迷惑な質問をして、オススメの一杯を飲んだ後は、獺祭の大吟醸で通した。
このブログでも何度も書いてきたが、私にとって、冷酒のツマミナンバー1の座は、ここ20年ぐらいずっとウナギの白焼きで決まりだ。
喧嘩中の相手だろうと憎しみを覚える相手だろうと、生理的にイケ好かない相手だろうと、ウマい白焼きと冷酒を共にする場面があれば、竹馬の友かのような関係になれる気がする。
いま、仕事で裁判をいくつも抱えているから、今度、敵連中とウナギ屋に行ってみようか。すぐ和解だ。いかんいかん、ちゃんと闘わねば!
さて、生わさびをちょこんと載っけて、醤油をちびっと付けた白焼きを頬ばり、白焼きがまだ食道を通過中ぐらいのタイミングで、キリッとした冷酒を流し込む。
悶絶だ。スッポンポンで逆立ちしたくなるような組み合わせと言おうか。この楽しみのために、日頃はゴボウとかピーマンばかり食べている気がする。大ウソです。
肝串も登場。ヘタな店だと、ただ焦げちゃって苦いだけの肝が出てくるが、ここの肝串はモーマンタイ。一度に10串ぐらい食べたら身体がどう変化するのかを想像しながら1本だけ食べた。うっとりした。
小さく切った蒲焼きを玉子焼きで巻いたう巻きもやってきた。冷酒が進む。適度なツマミがあるからこそ、白焼きから鰻重につながっていく至高の時間を飽きずに過ごせる。
そして真打ち登場だ。この店のウナギは蒲焼き、白焼き、鰻重ともに大きさや厚みで6段階ほどラインナップされている。白焼きを一番デカいサイズで頼んだので、鰻重は上から3番目ぐらいのものにしておいた。
お重からシッポがはみ出して、折り返してあるほどのデカさも捨てがたいが、しっかり飲んでつまんだ後だから、このぐらいが適量だ。
ご飯の炊き加減が固めでバッチリだ。タレもやや甘いが無難にウマい。東京のフンワリしたウナギが米とタレとの三重奏で私をノックアウトする。
たとえ、どんなに難しく真面目な話をしている場面でも、ウナギ三昧なら私の脳みそは、ウナギの味覚を五感全てで受け止めるためだけに集中力を発揮する。
俗にカニを食べる時は人は無口になると言うが、私の場合、鰻重を前にした時の方がニンマリ無言でかっこんでいるような気がする。
女性のスカートの中が偶然見えてしまった時のように、抑えようとしても抑えられない変態のような不気味な微笑みがこぼれてしまう。
それがウナギの魔力だ。
それにしても、ヒドいまとめ方だ。失礼しました。
あのニョロニョロした姿態を喰ってしまおうと思った先人もエラいが、どこまでも美味に仕上げてやろうと研究をしてきた人々は本当に凄い。
ヌルヌルして変な顔のアイツをさばいて、開いて、骨を抜いて蒸したり焼いたり、おまけに例のタレだ。
生きている時の姿からは想像を絶する変貌ぶりだ。ただ単に焼くとか煮るとか、ミンチにするとか、衣を付けて揚げるとか、様々な調理法で食べる日本料理の中でも、あの“変化球”ぶりは画期的だ。
そして抜群にウマい。日本人の叡智の最たるものではなかろうか。あの発想と技術は無形世界遺産だろう。
冷凍パックに入っているウナギだってウマいし、安い弁当屋のウナギだってウマいし、ましてや専門店の手にかかった日にはバンザイ三唱の味だ。
前振りが長くなった。
久しぶりにウナギをわしわしと摂取してきた。日本橋の伊勢定本店。たまに使う店だ。
ホンモノのグルメさんであれば、より通をうならせるような専門店に行くのだろうが、私にも別な意味でこだわりがある。ウナギ以外一切出てこないようなストイック系?の店がちょっと苦手だ。
浅漬けのキュウリとか骨煎餅なんかをポンと出されて1時間も黙って座ってろなんて店は楽しくない。まあ、ホンモノを標榜するには、忙しい厨房で余計な酒肴とか一品料理などにかまけていられないのだろう。
もちろん、それも理屈だが、そうは言っても、夜に酒飲んでホゲホゲしたいオヤジ相手に気の利いたツマミぐらい用意してもよかろう。
100点満点の鰻重を出す店と、鰻重は80点だが、つまみもそこそこ用意してある店だったら、私は迷わず後者を選ぶ。いや70点ぐらいの鰻重でも、酒肴がアレコレあれば、そっちのほうがいい。
だいたい、私基準?というか、私の舌では、70点以上のレベルの鰻重であれば、90点も100点も大差ない。ある一定のレベルを超えていれば、タレの味、白米の炊き加減の好みはあるだろうが、ウナギ気分を十二分に満たしてくれる。
味覚なんて気分で大きく変わる。修行僧みたいな顔して100点満点のウナギを食べたって楽しくない。狭くて汚い店で恐いご主人の顔色を見ながらペコペコ食べるのも最悪だ。
なんか力説してしまった。すいません。
さて、伊勢定の話だった。デパートのレストラン街とかにもチェーン店を出すような大型店ではある。特徴がないと言ってしまえばそれまでだが、逆に適度な安定感はある。それで良し。
老舗の本店だけに、まったりと大人がくつろげる座席も選べる。ウナギでゆるりと一献というパターンには悪くない。
日本酒の品揃えが中々すごい。あれだけあれば選ぶのに苦労することはない。でも、この日は熱燗から始めた。
鯛のワタの塩辛と、妙にウマいしっとりした特製おからでチビチビ。ウナギ様への期待を高めながらウッシッシ。
白焼きが来るタイミングで冷酒に切り替える。相変わらず仲居さんに「口開け間もない酒はどれ?」と迷惑な質問をして、オススメの一杯を飲んだ後は、獺祭の大吟醸で通した。
このブログでも何度も書いてきたが、私にとって、冷酒のツマミナンバー1の座は、ここ20年ぐらいずっとウナギの白焼きで決まりだ。
喧嘩中の相手だろうと憎しみを覚える相手だろうと、生理的にイケ好かない相手だろうと、ウマい白焼きと冷酒を共にする場面があれば、竹馬の友かのような関係になれる気がする。
いま、仕事で裁判をいくつも抱えているから、今度、敵連中とウナギ屋に行ってみようか。すぐ和解だ。いかんいかん、ちゃんと闘わねば!
さて、生わさびをちょこんと載っけて、醤油をちびっと付けた白焼きを頬ばり、白焼きがまだ食道を通過中ぐらいのタイミングで、キリッとした冷酒を流し込む。
悶絶だ。スッポンポンで逆立ちしたくなるような組み合わせと言おうか。この楽しみのために、日頃はゴボウとかピーマンばかり食べている気がする。大ウソです。
肝串も登場。ヘタな店だと、ただ焦げちゃって苦いだけの肝が出てくるが、ここの肝串はモーマンタイ。一度に10串ぐらい食べたら身体がどう変化するのかを想像しながら1本だけ食べた。うっとりした。
小さく切った蒲焼きを玉子焼きで巻いたう巻きもやってきた。冷酒が進む。適度なツマミがあるからこそ、白焼きから鰻重につながっていく至高の時間を飽きずに過ごせる。
そして真打ち登場だ。この店のウナギは蒲焼き、白焼き、鰻重ともに大きさや厚みで6段階ほどラインナップされている。白焼きを一番デカいサイズで頼んだので、鰻重は上から3番目ぐらいのものにしておいた。
お重からシッポがはみ出して、折り返してあるほどのデカさも捨てがたいが、しっかり飲んでつまんだ後だから、このぐらいが適量だ。
ご飯の炊き加減が固めでバッチリだ。タレもやや甘いが無難にウマい。東京のフンワリしたウナギが米とタレとの三重奏で私をノックアウトする。
たとえ、どんなに難しく真面目な話をしている場面でも、ウナギ三昧なら私の脳みそは、ウナギの味覚を五感全てで受け止めるためだけに集中力を発揮する。
俗にカニを食べる時は人は無口になると言うが、私の場合、鰻重を前にした時の方がニンマリ無言でかっこんでいるような気がする。
女性のスカートの中が偶然見えてしまった時のように、抑えようとしても抑えられない変態のような不気味な微笑みがこぼれてしまう。
それがウナギの魔力だ。
それにしても、ヒドいまとめ方だ。失礼しました。
2012年2月8日水曜日
精力
いきなり「精力」などと書き出すと、下ネタみたいだが、言い換えればただの「スタミナ」である。もちろん、スタミナは、そっちのほうの力、すなわち「性力」にも関わる大事な話だ。
若い時には興味のなかったこの手の話題に自然と耳がダンボになる年齢になってきた。信じたり頼ったりするつもりはないのだが、気付けば、一生懸命摂取していたりする。
困ったもんだ。
先日、銀座のとあるクラブでひょんなことから、定番のオールドパーとは別に、変な酒を注文した。
「マカディア」なるリキュールだ。何かと話題の「マカ」が成分だ。南米原産の植物で、男性機能向上で知られる。
後日、この酒の小売り価格を知ってしまい、「部活」の場でのお勘定に青くなったから、心臓には悪い?酒だろう。
飲んでみてもちっともウマくないし、もちろん、何も変化は起きなかった。当たり前だ。あんな安いリキュールで元気になるようなら世の中危なくって仕方がない。
だいたい、一部の医薬品は別にして、精力剤とか、その手のサプリや食べ物とかは、心理的影響だけで効いた気がするだけだろう。
「その気になる」「思い込む」。そんな感覚で普段と変わった生体反応が出るのがバカな男の性質だと思う。
バイアグラあたりのニセモノが大量に出回っているらしいが、ニセモノと知らずに飲んだ男性が、バリバリ元気になって困ったなんて間抜けな話もある。
げにアホらしくも哀しき男のサガである。
ポパイのホウレンソウみたいな即効性などを期待する方が悪い。サプリとか食べ物での精力増進といえば、結局は、日頃の積み重ねによって、気付けば何となく効果があるのかも知れないというレベルだろう。
などと、エラそうに書いてみたが、最近、私自身、精力増強に効くと言われる食べ物を多めに摂るようになってきた。言行不一致だ。意識して摂取するというより、なぜか身体が求めているような感じ。
弱ってきているのか、はたまた使いすぎ?なのかは謎だ。
この冬は、やたらと牡蠣を食べている。効能もよく知らずに身体の求めるままに食べているのだが、ネットで特徴を調べたらざっとこんな感じ。
「牡蠣に多く含まれる亜鉛は、男性機能を若く保つ働きがあり、欠乏すると勃起障害の原因となります」。
そりゃ大変だ。今以上に食べないといけない。今夜も明日もあさっても食べることにしよう。
おまけに牡蠣に多く含まれるタウリンとやらは、血圧やコレステロール値を下げる効果があって、高血圧、動脈硬化の予防に役立つとか。
ちなみに、先日胃カメラ飲んだついでにやってきた血液検査では予想外の結果が出た。痛風になる尿酸値の急上昇を心配していたのだが、そっちは何と標準値に収まっていた。
その代わりに悪玉コレステロールと中性脂肪の数値が上昇していたのでこれからは「動脈硬化系」の心配をしようと思っていたところだ。
というわけで、牡蠣に助けてもらうことにしよう。アッチ?とコッチ、まさに一石二鳥だ。
さて、最近食べたスタミナ系食品の話を少し書こう。
神楽坂・本多横町そばの石畳界隈にある洒落た焼肉屋さん「翔山亭」を訪ねた。店のビルの入口周辺から既に風情があり、敷地内には小さな池に鯉が泳いでいる。接待にもデートにも使えそうな感じだ。
この店、希少部位を含めて上質な肉を揃えていて、肉好きなら満足のラインナップだと思う。
肉以外にタラバの脚とかも焼いて食べていたダラシナイ私だが、お疲れ気味だったこともあって、そのまんまのニンニクもホイル焼きにしてガツガツ食べた。
ニンニク様も亜鉛たっぷりだ。よくわからんが、アルギニンとか、そっち方面のパワーバリバリだ。風味付けのニンニクではない。丸でがっつりだ。
人様への臭いという迷惑を顧みず自分の滋養強壮のためだけに食べた。しっかり火を入れたホイル焼きは香ばしくてウマかった。
この店、冷麺がウリらしく、こちらも中々イケた。お酢をブリブリ入れなくてもスープが充分味わい深く、喉ごしのせいもあっていくらでも食べられそうな感じだった。
写真のビビン麺は、甘味が足りず、本来あるべき辛味が足りなかったのがやや残念。万人ウケを意識しすぎたのだろう。
焼肉屋さんは、若い頃は週に1回以上通ったが、最近は、1年に3,4回ぐらいしか行かなくなってしまった。スタミナ対策としてはダメだ。反省しよう。
スタミナ対策は何も下ネタ系の話ではなく、免疫力向上によって、健康を維持するという崇高な話だ。
ロッキーが大量に飲んでいた生卵だってそうだ。私も、プリン体を気にするあまり、キモ類を我慢する時はタマゴ方面?に喜びを見出す習慣がある。
コレステロール値の心配はあるが、適度に摂取したほうが身体に良いらしい。
タマゴで元気になる秘密はテストステロンという物質だとか。聞くところによるとこの物質、睾丸で作られる男性ホルモンだとか。
健康のために睾丸にも活躍してもらおう。
「睾丸」で「抗ガン」だ。
若い時には興味のなかったこの手の話題に自然と耳がダンボになる年齢になってきた。信じたり頼ったりするつもりはないのだが、気付けば、一生懸命摂取していたりする。
困ったもんだ。
先日、銀座のとあるクラブでひょんなことから、定番のオールドパーとは別に、変な酒を注文した。
「マカディア」なるリキュールだ。何かと話題の「マカ」が成分だ。南米原産の植物で、男性機能向上で知られる。
後日、この酒の小売り価格を知ってしまい、「部活」の場でのお勘定に青くなったから、心臓には悪い?酒だろう。
飲んでみてもちっともウマくないし、もちろん、何も変化は起きなかった。当たり前だ。あんな安いリキュールで元気になるようなら世の中危なくって仕方がない。
だいたい、一部の医薬品は別にして、精力剤とか、その手のサプリや食べ物とかは、心理的影響だけで効いた気がするだけだろう。
「その気になる」「思い込む」。そんな感覚で普段と変わった生体反応が出るのがバカな男の性質だと思う。
バイアグラあたりのニセモノが大量に出回っているらしいが、ニセモノと知らずに飲んだ男性が、バリバリ元気になって困ったなんて間抜けな話もある。
げにアホらしくも哀しき男のサガである。
ポパイのホウレンソウみたいな即効性などを期待する方が悪い。サプリとか食べ物での精力増進といえば、結局は、日頃の積み重ねによって、気付けば何となく効果があるのかも知れないというレベルだろう。
などと、エラそうに書いてみたが、最近、私自身、精力増強に効くと言われる食べ物を多めに摂るようになってきた。言行不一致だ。意識して摂取するというより、なぜか身体が求めているような感じ。
弱ってきているのか、はたまた使いすぎ?なのかは謎だ。
この冬は、やたらと牡蠣を食べている。効能もよく知らずに身体の求めるままに食べているのだが、ネットで特徴を調べたらざっとこんな感じ。
「牡蠣に多く含まれる亜鉛は、男性機能を若く保つ働きがあり、欠乏すると勃起障害の原因となります」。
そりゃ大変だ。今以上に食べないといけない。今夜も明日もあさっても食べることにしよう。
おまけに牡蠣に多く含まれるタウリンとやらは、血圧やコレステロール値を下げる効果があって、高血圧、動脈硬化の予防に役立つとか。
ちなみに、先日胃カメラ飲んだついでにやってきた血液検査では予想外の結果が出た。痛風になる尿酸値の急上昇を心配していたのだが、そっちは何と標準値に収まっていた。
その代わりに悪玉コレステロールと中性脂肪の数値が上昇していたのでこれからは「動脈硬化系」の心配をしようと思っていたところだ。
というわけで、牡蠣に助けてもらうことにしよう。アッチ?とコッチ、まさに一石二鳥だ。
さて、最近食べたスタミナ系食品の話を少し書こう。
神楽坂・本多横町そばの石畳界隈にある洒落た焼肉屋さん「翔山亭」を訪ねた。店のビルの入口周辺から既に風情があり、敷地内には小さな池に鯉が泳いでいる。接待にもデートにも使えそうな感じだ。
この店、希少部位を含めて上質な肉を揃えていて、肉好きなら満足のラインナップだと思う。
肉以外にタラバの脚とかも焼いて食べていたダラシナイ私だが、お疲れ気味だったこともあって、そのまんまのニンニクもホイル焼きにしてガツガツ食べた。
ニンニク様も亜鉛たっぷりだ。よくわからんが、アルギニンとか、そっち方面のパワーバリバリだ。風味付けのニンニクではない。丸でがっつりだ。
人様への臭いという迷惑を顧みず自分の滋養強壮のためだけに食べた。しっかり火を入れたホイル焼きは香ばしくてウマかった。
この店、冷麺がウリらしく、こちらも中々イケた。お酢をブリブリ入れなくてもスープが充分味わい深く、喉ごしのせいもあっていくらでも食べられそうな感じだった。
写真のビビン麺は、甘味が足りず、本来あるべき辛味が足りなかったのがやや残念。万人ウケを意識しすぎたのだろう。
焼肉屋さんは、若い頃は週に1回以上通ったが、最近は、1年に3,4回ぐらいしか行かなくなってしまった。スタミナ対策としてはダメだ。反省しよう。
スタミナ対策は何も下ネタ系の話ではなく、免疫力向上によって、健康を維持するという崇高な話だ。
ロッキーが大量に飲んでいた生卵だってそうだ。私も、プリン体を気にするあまり、キモ類を我慢する時はタマゴ方面?に喜びを見出す習慣がある。
コレステロール値の心配はあるが、適度に摂取したほうが身体に良いらしい。
タマゴで元気になる秘密はテストステロンという物質だとか。聞くところによるとこの物質、睾丸で作られる男性ホルモンだとか。
健康のために睾丸にも活躍してもらおう。
「睾丸」で「抗ガン」だ。
2012年2月6日月曜日
東大夢教授
相変わらずの乱読三昧の日々だ。本を読んでいる時間の「ワープした感じ」は捨てがたい。読んだ本の内容を2,3日後には忘れていることも珍しくないから、私にとっての読書は、そこから何かを得ようというものではない。きっとオンとオフの切り替え装置なのだろう。
酩酊して帰宅して風呂にすら入れないような状態でも、ベッドサイドに積んである本を適当に手にして目を通す。切り替え装置というより睡眠導入剤かもしれない。
電車移動の際とか、一息入れる喫茶店で読書に励むことは少ない。たいてい週刊誌でごまかす。読書は自分の部屋に限る。
最近、一風変わった本を読んだ。東大の総合研究博物館教授の遠藤秀紀氏のエッセイだ。
「パンダの死体はよみがえる」、「解剖男」などの著書で知られる遠藤教授は、爆笑問題とテレビで討論したり、畑違いのバラエティー番組で「鉄っちゃん」ぶりをレポート?したりと、何かとユニークな御仁だ。
エッセイのタイトルは「東大夢教授」。昨年出版された本だ。動物の遺体に隠された進化の謎を追究し、遺体化学というジャンルを切り開いた気鋭の解剖学者ならではの日常やエピソードがわんさか書かれている。
出版社の宣伝文句いわく「学問の快楽をヤケクソで伝導する遺体科学者の日々奮闘」だ。論文でもなく、解説書でもなく、エッセイだから、ある意味、突き抜けた筆致で著者の溢れんばかりの情熱や鬱憤?が描かれている。
マダガスカルやモンゴルの田舎町で、地元の人に奇異な目を向けられながらも現地の生き物を楽しく?解剖していくシーンなどは、具体的な情景を頭に浮かべてドキドキしてしまう。
ある種、スプラッター的?な描写も遺体科学者が手掛けると実に文化的な印象が残る。役目を終えたラクダを食料にしようとする現地人と協力し合って、いわば“生けジメ”にする場面も息を呑む迫力だ。
子どもの頃、理科の授業でカエルなんかの解剖を恐れなかったタイプの人なら全編すべて興味深い内容なんだと思う。
近所の税務署に確定申告に向かった遠藤氏、あわれ車にはねられて税務署の鉄柵に突き刺さった猫の無惨な遺体と遭遇する。遠巻きにする人達を横目にてきぱきと自ら処理。感謝する税務署員相手に税金をマケて貰う交渉?よりも猫の遺体をもらっていいいかと頼む。実にファンキーだ!
日々、遺体解剖に精力を集中したい筆者にとって、大学の事務的な作業や講義への不満なども面白おかしく書かれていて興味深い。
面白おかしいエピソードばかりとはいえ、底辺に流れるのは現在の国立大学への危機感だ。採算や効率化のみが美徳とされ、やれ闇雲にコストを削れ、収益を生み出せといった号令ばかりで、長期的視野での文化学術分野の研究がないがしろにされていることへの嘆きだ。
まさに現場感覚からの悲痛とも言える叫びといえよう。拝金主義ばかりが絶対視されれば、官立最高学府の意味は失われ、尊い研究が立ち行かなくなることに一貫して警鐘を鳴らしている。
思えば、国立大学の独立行政法人化が招いたのは、自由な研究にいそしむはずの世界に競争原理が持ち込まれたことでの混乱だ。企業などからの外部資金を獲得出来ないような分野は研究費が削られる市場原理が導入され、自ずと地味な研究対象は青息吐息になる。
無駄な箱モノ行政でもなければ、役人の天下り専用機関でもない大学が、それらと同じ目線で改革を迫られたこと自体が大いなる失政だったのだろう。
いい年した大人がケータイのゲームに夢中になり、少女アイドルの扇情的な踊りによだれを流し、テレビをつければお笑いタレントの悪ふざけだけが垂れ流される今の摩訶不思議な時代の空気だって、迷走する教育現場のもたらした副産物だろう。
官立大学に対してですら、その存在理由、役割、使命を無視したかのような運営が罷り通っているわけだから、「教養の危機」はかなり深刻な事態なんだと思う。
ちょっと脱線してしまった。話を戻す。
最前線の学者がこういう形で「ニッポンの学問」の歪みを世に問うことは凄く意義深いことだし、画期的だと思う。大臣を更迭された襟立て女代議士サマとか、パフォーマンスだけの事業仕分けに邁進するセンセイ達には是非読んでもらいたい。
そんな日本社会のひずみという観点から読んでも勉強になるし、解剖というチョットおどろおどろしい世界への好奇心だけで読んでも面白い一冊だと思う。
実は、遠藤氏、私とは小学校から高校まで同じ学校に通った。もちろん、頭の構造や高邁な姿勢という点で、私とは月とスッポンなので、仲良く遊んだのは小学校の時ぐらいだ。
小学校の頃、理科の授業中にいつも彼を相手にいたずらばかりしていた記憶がある。猛省だ。よりによって理科である。その後、解剖とか遺体科学という分野を切り開いていくお国にとって有為な人材に実に無駄なことをさせてしまった。
まあ、しょうがない、一見無駄に見えることも大事だという趣旨の話を彼自身どこかで書いていた気がする。
それにしても、同じ学校で小、中、高と過ごしたのに、どうして頭脳ってここまで差がつくのだろう。靴ばっかり磨いて、夜の「部活」に精を出す私と、40歳になってすぐに東大教授になる人物・・。いったい生物学的にどこが違うのだろう。
死んだら彼に解剖してもらって、その秘密を教えてもらいたいものだ。
酩酊して帰宅して風呂にすら入れないような状態でも、ベッドサイドに積んである本を適当に手にして目を通す。切り替え装置というより睡眠導入剤かもしれない。
電車移動の際とか、一息入れる喫茶店で読書に励むことは少ない。たいてい週刊誌でごまかす。読書は自分の部屋に限る。
最近、一風変わった本を読んだ。東大の総合研究博物館教授の遠藤秀紀氏のエッセイだ。
「パンダの死体はよみがえる」、「解剖男」などの著書で知られる遠藤教授は、爆笑問題とテレビで討論したり、畑違いのバラエティー番組で「鉄っちゃん」ぶりをレポート?したりと、何かとユニークな御仁だ。
エッセイのタイトルは「東大夢教授」。昨年出版された本だ。動物の遺体に隠された進化の謎を追究し、遺体化学というジャンルを切り開いた気鋭の解剖学者ならではの日常やエピソードがわんさか書かれている。
出版社の宣伝文句いわく「学問の快楽をヤケクソで伝導する遺体科学者の日々奮闘」だ。論文でもなく、解説書でもなく、エッセイだから、ある意味、突き抜けた筆致で著者の溢れんばかりの情熱や鬱憤?が描かれている。
マダガスカルやモンゴルの田舎町で、地元の人に奇異な目を向けられながらも現地の生き物を楽しく?解剖していくシーンなどは、具体的な情景を頭に浮かべてドキドキしてしまう。
ある種、スプラッター的?な描写も遺体科学者が手掛けると実に文化的な印象が残る。役目を終えたラクダを食料にしようとする現地人と協力し合って、いわば“生けジメ”にする場面も息を呑む迫力だ。
子どもの頃、理科の授業でカエルなんかの解剖を恐れなかったタイプの人なら全編すべて興味深い内容なんだと思う。
近所の税務署に確定申告に向かった遠藤氏、あわれ車にはねられて税務署の鉄柵に突き刺さった猫の無惨な遺体と遭遇する。遠巻きにする人達を横目にてきぱきと自ら処理。感謝する税務署員相手に税金をマケて貰う交渉?よりも猫の遺体をもらっていいいかと頼む。実にファンキーだ!
日々、遺体解剖に精力を集中したい筆者にとって、大学の事務的な作業や講義への不満なども面白おかしく書かれていて興味深い。
面白おかしいエピソードばかりとはいえ、底辺に流れるのは現在の国立大学への危機感だ。採算や効率化のみが美徳とされ、やれ闇雲にコストを削れ、収益を生み出せといった号令ばかりで、長期的視野での文化学術分野の研究がないがしろにされていることへの嘆きだ。
まさに現場感覚からの悲痛とも言える叫びといえよう。拝金主義ばかりが絶対視されれば、官立最高学府の意味は失われ、尊い研究が立ち行かなくなることに一貫して警鐘を鳴らしている。
思えば、国立大学の独立行政法人化が招いたのは、自由な研究にいそしむはずの世界に競争原理が持ち込まれたことでの混乱だ。企業などからの外部資金を獲得出来ないような分野は研究費が削られる市場原理が導入され、自ずと地味な研究対象は青息吐息になる。
無駄な箱モノ行政でもなければ、役人の天下り専用機関でもない大学が、それらと同じ目線で改革を迫られたこと自体が大いなる失政だったのだろう。
いい年した大人がケータイのゲームに夢中になり、少女アイドルの扇情的な踊りによだれを流し、テレビをつければお笑いタレントの悪ふざけだけが垂れ流される今の摩訶不思議な時代の空気だって、迷走する教育現場のもたらした副産物だろう。
官立大学に対してですら、その存在理由、役割、使命を無視したかのような運営が罷り通っているわけだから、「教養の危機」はかなり深刻な事態なんだと思う。
ちょっと脱線してしまった。話を戻す。
最前線の学者がこういう形で「ニッポンの学問」の歪みを世に問うことは凄く意義深いことだし、画期的だと思う。大臣を更迭された襟立て女代議士サマとか、パフォーマンスだけの事業仕分けに邁進するセンセイ達には是非読んでもらいたい。
そんな日本社会のひずみという観点から読んでも勉強になるし、解剖というチョットおどろおどろしい世界への好奇心だけで読んでも面白い一冊だと思う。
実は、遠藤氏、私とは小学校から高校まで同じ学校に通った。もちろん、頭の構造や高邁な姿勢という点で、私とは月とスッポンなので、仲良く遊んだのは小学校の時ぐらいだ。
小学校の頃、理科の授業中にいつも彼を相手にいたずらばかりしていた記憶がある。猛省だ。よりによって理科である。その後、解剖とか遺体科学という分野を切り開いていくお国にとって有為な人材に実に無駄なことをさせてしまった。
まあ、しょうがない、一見無駄に見えることも大事だという趣旨の話を彼自身どこかで書いていた気がする。
それにしても、同じ学校で小、中、高と過ごしたのに、どうして頭脳ってここまで差がつくのだろう。靴ばっかり磨いて、夜の「部活」に精を出す私と、40歳になってすぐに東大教授になる人物・・。いったい生物学的にどこが違うのだろう。
死んだら彼に解剖してもらって、その秘密を教えてもらいたいものだ。
2012年2月3日金曜日
銀座 おかやす
和服姿の綺麗なおかみさんがいて、カウンターの中では寡黙な板さんが丁寧に料理を作る。場所は銀座の片隅、こじんまりとカウンターが中心で、客の年齢層は高め。肩肘張らずに、ゆるりと一献傾ける―。
そんな店には頻繁に通いたい。というか、そんな店ってなかなか巡り会わない。有りそうで見つからないのが実情だろう。
と、書いてみたが、そういうイメージ通りの店も探せばある。今日はそんな話。
銀座7丁目、数寄屋通りの古い雑居ビルの5階に佇む「おかやす」がその店。
一昨年だったか、銀座に勤める女性に連れて行かれたのがきっかけで、ちょくちょく顔を出すようになった。
男同士でも女性連れだろうと、少人数ならどういう場面にもマッチする店だ。「おひとりさま」で過ごすのが好きな偏屈な私にとっては、ひとりのんびりカウンターでチビチビやるのもオツなもの。
新橋の芸者さん出身のおかみさんが開いたこの店、今のご時勢の中、着々とお客さんを増やし、時には満席で入れないこともある。
一人気ままに止まり木で酔いたい時は、どうしても和食を選ぶ。ワインバーなんてガラでもないし、スペインバルだって大勢でワイワイするための店だろう。
正当な日本料理なり懐石料理は面倒だし、寿司屋は生の魚中心だし、焼鳥屋さんは鶏肉ばっかり、おでん屋はおでんばっかり、居酒屋は落ち着かない。
飲食店選びをする上では当たり前の話なのだが、どれも気が乗らない時だって多い。
銀座あたりでゆるりと時間を過ごしたい時に、腹は減ったが、専門店に行く気分ではないことだってある。どの店に足を運ぶかは時に難問。そんなときに重宝するのがこの「おかやす」だ。
この店のメニューは懐が深い。酒の肴になりそうなものが揃っている。刺身に揚げ物、焼物、おでんに加えて、上質な干物もある、珍味もある、時にはビーフシチューとかスープカレーも登場する。
シメには本格的な皿うどんや五島うどん、味が染みこんだ焼きおにぎりも捨てがたい。
何年か前に長崎を旅した際に、「皿うどんにはソースをかける」というローカルルールを知って以来、ソースマンである私は皿うどんに目がない。
銀座でしこたま飲んだ後に電通通り沿いのリンガーハットでソースをジャブジャブかけた皿うどんを頬ばったことも数知れない。
そんな時に見つけた小粋な小料理屋さんで、絶品皿うどんがレギュラーメニューだと知った私の興奮を想像していただきたい。
天の啓示かと思った。
銀座の夜の最後がリンガーハットというのも何だか締まらないし、だいたい零時過ぎに皿うどんを食べては逆流性食道炎を悪化させる。
早い時間に皿うどんでウキウキして、ネオンの海を泳いだ方が理にかなっているし、健康的だ。
なんか「皿うどん賛歌」になってしまった。
この店、決して皿うどんだけがウリではない。キャベツに挽肉とチーズをトッピングしてオーブン焼きにする一品もウマいし、メザシやノドグロの干物もジューシーだ。
ポテトサラダも抜群。
肉豆腐あたりも酒飲みの晩酌を盛り上げてくれる。おでんを常備しているからこその一品だろう。
シラタキとピーマンのピリ辛炒めだって、ピーマンが嫌いな私のために、わざわざピーマンを拾い上げて隅のほうに追いやってくれたこともある。こういうカウンター中心の個人店の良さがイマドキは新鮮だったりする。
おかみさんのテンポも適度にゆるめだ。あまりキチキチ、キビキビされても落ち着かないから、良い加減だと思う。店が空いていれば他愛のない話に付き合ってくれるし、実に居心地が良い。
去年の秋頃だったか東京カレンダーという雑誌に掲載された。お店で掲載誌を見せてもらったのだが、雑誌の路線もあって、大袈裟なぐらいスタイリッシュに扱われていた。それもまた「いとをかし」ではある。実際は肩の凝らない雰囲気だ。
このブログで紹介したところで、混雑に拍車がかかることはないだろうから、誉めまくってしまっているが、お世辞抜きに顔なじみになったら抜群の居心地の店だ。
東京中、こういう店ばかりだったらいいのにと思う。
そんな店には頻繁に通いたい。というか、そんな店ってなかなか巡り会わない。有りそうで見つからないのが実情だろう。
と、書いてみたが、そういうイメージ通りの店も探せばある。今日はそんな話。
銀座7丁目、数寄屋通りの古い雑居ビルの5階に佇む「おかやす」がその店。
一昨年だったか、銀座に勤める女性に連れて行かれたのがきっかけで、ちょくちょく顔を出すようになった。
男同士でも女性連れだろうと、少人数ならどういう場面にもマッチする店だ。「おひとりさま」で過ごすのが好きな偏屈な私にとっては、ひとりのんびりカウンターでチビチビやるのもオツなもの。
新橋の芸者さん出身のおかみさんが開いたこの店、今のご時勢の中、着々とお客さんを増やし、時には満席で入れないこともある。
一人気ままに止まり木で酔いたい時は、どうしても和食を選ぶ。ワインバーなんてガラでもないし、スペインバルだって大勢でワイワイするための店だろう。
正当な日本料理なり懐石料理は面倒だし、寿司屋は生の魚中心だし、焼鳥屋さんは鶏肉ばっかり、おでん屋はおでんばっかり、居酒屋は落ち着かない。
飲食店選びをする上では当たり前の話なのだが、どれも気が乗らない時だって多い。
銀座あたりでゆるりと時間を過ごしたい時に、腹は減ったが、専門店に行く気分ではないことだってある。どの店に足を運ぶかは時に難問。そんなときに重宝するのがこの「おかやす」だ。
この店のメニューは懐が深い。酒の肴になりそうなものが揃っている。刺身に揚げ物、焼物、おでんに加えて、上質な干物もある、珍味もある、時にはビーフシチューとかスープカレーも登場する。
シメには本格的な皿うどんや五島うどん、味が染みこんだ焼きおにぎりも捨てがたい。
何年か前に長崎を旅した際に、「皿うどんにはソースをかける」というローカルルールを知って以来、ソースマンである私は皿うどんに目がない。
銀座でしこたま飲んだ後に電通通り沿いのリンガーハットでソースをジャブジャブかけた皿うどんを頬ばったことも数知れない。
そんな時に見つけた小粋な小料理屋さんで、絶品皿うどんがレギュラーメニューだと知った私の興奮を想像していただきたい。
天の啓示かと思った。
銀座の夜の最後がリンガーハットというのも何だか締まらないし、だいたい零時過ぎに皿うどんを食べては逆流性食道炎を悪化させる。
早い時間に皿うどんでウキウキして、ネオンの海を泳いだ方が理にかなっているし、健康的だ。
なんか「皿うどん賛歌」になってしまった。
この店、決して皿うどんだけがウリではない。キャベツに挽肉とチーズをトッピングしてオーブン焼きにする一品もウマいし、メザシやノドグロの干物もジューシーだ。
ポテトサラダも抜群。
肉豆腐あたりも酒飲みの晩酌を盛り上げてくれる。おでんを常備しているからこその一品だろう。
シラタキとピーマンのピリ辛炒めだって、ピーマンが嫌いな私のために、わざわざピーマンを拾い上げて隅のほうに追いやってくれたこともある。こういうカウンター中心の個人店の良さがイマドキは新鮮だったりする。
おかみさんのテンポも適度にゆるめだ。あまりキチキチ、キビキビされても落ち着かないから、良い加減だと思う。店が空いていれば他愛のない話に付き合ってくれるし、実に居心地が良い。
去年の秋頃だったか東京カレンダーという雑誌に掲載された。お店で掲載誌を見せてもらったのだが、雑誌の路線もあって、大袈裟なぐらいスタイリッシュに扱われていた。それもまた「いとをかし」ではある。実際は肩の凝らない雰囲気だ。
このブログで紹介したところで、混雑に拍車がかかることはないだろうから、誉めまくってしまっているが、お世辞抜きに顔なじみになったら抜群の居心地の店だ。
東京中、こういう店ばかりだったらいいのにと思う。
2012年2月1日水曜日
健康 嗅覚 クエ鍋
いまハヤリの風邪は結構長引くみたいで、私のまわりでも長期戦に苦しむ人は多い。
私自身、1週間以上、スッキリしない日が続いた。扁桃腺の爆発以外でこんなに長く体調不良が続いた経験はない。ついには鼻づまりの後遺症で嗅覚がまったく無くなった。
これはキツい。ウナギの香りを感知できない。女性の首筋あたりをクンクンしても何も香りを感じない。味覚もほぼ無くなる。大変な問題である。
そんな事態に陥ると、日頃の「節制」ははたして意味があるのだろうかと複雑な気分になる。
朝晩のうがいは欠かさない。インフルエンザの予防接種だって受けた。毎日飽きずに青汁を500ml飲んでいる。毎月1万円もするプロポリスとか黒酢の錠剤とかアレコレ飲む。会社の人間にもらった男のサイズ増大サプリっていうのも試してみた(これは関係ないか。。効果もなかった。。)。
考えてみれば、こうした日頃の正しい行いのおかげで、この程度の症状で済んでいるのかも知れない。そう思い直すことにする。
こういう甘えた考えがサプリ業界とかを潤わすのだろうか。
占いとか、おまじない、縁起担ぎと同じだ。あの時、お参りしたから、この程度で済んだ、あの占いの通りにしたから、最悪の事態は避けられた等々、ついつい、最低最悪にならなかった理由を強引にそっちに結びつける。
健康食品とかサプリの類なんてそんなものなんだろうか。なんか切ない。
ところで、正真正銘、健康に良い食べ物って何だろう。
野菜を食え食え言われても、生野菜なんてちっとも効果は無いらしいし、怪しげな中国産野菜を生で食べようものなら、どんな農薬を窃取しちゃうか分かったものではない。
おくら、ごぼう、ピーマン等々。唐突だが、そんなラインナップは尋常な神経では耐えられないほどマズいし、心からウマいなあ~と思うものは、ほぼ100%身体に悪い。
困ったものだ。ネバネバ系が良いと聞くが、私は東京人のくせに納豆が大嫌い。ネバネバでまともにウマいと感じるのは、とろろぐらいだ。
海草が良いといっても、そうそう大量に食べられるわけでなし、考えれば考えるほど迷宮に迷い込む感じだ。
極端に言えば、一般的に身体に悪いと言われているものを避ければいいのだろう。当たり前の話だが、これが結構難しい。
最近食べたもので、「非不健康系」を考えてみた。携帯に取り込んだ食べ物画像を見返してみても、キモとか魚卵ばっかりだ。
そんななか、燦然と輝いて見えたのがクエ鍋だ。肉より魚のほうが身体に良いらしい。おまけに鍋だから、漠然と野菜もワシワシ食べた。
場所は丸の内の「祢保希(ねぼけ)」。都内各地にある土佐料理の店だ。
クエの特徴は結構な時間鍋の中で火にかけても煮崩れしない点だ。肉っぽい魚みたいな感じ。滋味溢れ、どことなく猛々しくも正しい生き物を戴いている感覚になる。
この店、カツオのタタキが名物なのだが、この時期はカツオの代わりにメジマグロを使ってタタキを提供する。西日本では「よこわ」と呼ばれているようで、これがまたウマかった。時季外れの変なカツオを無理してタタキにするより断然ウマい。
土佐のタタキだから生のニンニクスライスもついてくる。カツオ以外にニンニクとマッチする魚は無いと思っていた私にとっては嬉しい驚き。
普通のポン酢で味わうタタキはもちろん、塩タタキも注文した。いくらでも食べられそうな感じ。
かなり値のはるクエに見向きもせずに「よこわのタタキ」ばかりムシャムシャと食べてしまった。ちょっと失敗か。割り勘だったら、間違いなく完敗だ。クエばかり食べた人のほうが経済的合理性にかなっている。
まあ、肉より魚、油を使うより煮るほうがいいなど、一般的な「身体に良い」条件を満たした食事だったから、素晴らしい時間だったのだろう。
酒という余計な液体をたくさん摂取してしったら意味はないのかもしれないが・・。
何を食べたら身体に良いのかというテーマは、そう考えると結局意味のないことかもしれない。
アルコールを適量でやめるわけはないし、酒抜きで精進料理を食べることなど罰ゲーム以外ではあり得ないし、結論としては、楽しく食べるか否かですべてが決まるのだろう。
今日は何を書きたかったんだろう。
とにもかくにも楽しく食べる時間、楽しく食べる相手、それだけを人生の最重要事項として吟味していきたい。
私自身、1週間以上、スッキリしない日が続いた。扁桃腺の爆発以外でこんなに長く体調不良が続いた経験はない。ついには鼻づまりの後遺症で嗅覚がまったく無くなった。
これはキツい。ウナギの香りを感知できない。女性の首筋あたりをクンクンしても何も香りを感じない。味覚もほぼ無くなる。大変な問題である。
そんな事態に陥ると、日頃の「節制」ははたして意味があるのだろうかと複雑な気分になる。
朝晩のうがいは欠かさない。インフルエンザの予防接種だって受けた。毎日飽きずに青汁を500ml飲んでいる。毎月1万円もするプロポリスとか黒酢の錠剤とかアレコレ飲む。会社の人間にもらった男のサイズ増大サプリっていうのも試してみた(これは関係ないか。。効果もなかった。。)。
考えてみれば、こうした日頃の正しい行いのおかげで、この程度の症状で済んでいるのかも知れない。そう思い直すことにする。
こういう甘えた考えがサプリ業界とかを潤わすのだろうか。
占いとか、おまじない、縁起担ぎと同じだ。あの時、お参りしたから、この程度で済んだ、あの占いの通りにしたから、最悪の事態は避けられた等々、ついつい、最低最悪にならなかった理由を強引にそっちに結びつける。
健康食品とかサプリの類なんてそんなものなんだろうか。なんか切ない。
ところで、正真正銘、健康に良い食べ物って何だろう。
野菜を食え食え言われても、生野菜なんてちっとも効果は無いらしいし、怪しげな中国産野菜を生で食べようものなら、どんな農薬を窃取しちゃうか分かったものではない。
おくら、ごぼう、ピーマン等々。唐突だが、そんなラインナップは尋常な神経では耐えられないほどマズいし、心からウマいなあ~と思うものは、ほぼ100%身体に悪い。
困ったものだ。ネバネバ系が良いと聞くが、私は東京人のくせに納豆が大嫌い。ネバネバでまともにウマいと感じるのは、とろろぐらいだ。
海草が良いといっても、そうそう大量に食べられるわけでなし、考えれば考えるほど迷宮に迷い込む感じだ。
極端に言えば、一般的に身体に悪いと言われているものを避ければいいのだろう。当たり前の話だが、これが結構難しい。
最近食べたもので、「非不健康系」を考えてみた。携帯に取り込んだ食べ物画像を見返してみても、キモとか魚卵ばっかりだ。
そんななか、燦然と輝いて見えたのがクエ鍋だ。肉より魚のほうが身体に良いらしい。おまけに鍋だから、漠然と野菜もワシワシ食べた。
場所は丸の内の「祢保希(ねぼけ)」。都内各地にある土佐料理の店だ。
クエの特徴は結構な時間鍋の中で火にかけても煮崩れしない点だ。肉っぽい魚みたいな感じ。滋味溢れ、どことなく猛々しくも正しい生き物を戴いている感覚になる。
この店、カツオのタタキが名物なのだが、この時期はカツオの代わりにメジマグロを使ってタタキを提供する。西日本では「よこわ」と呼ばれているようで、これがまたウマかった。時季外れの変なカツオを無理してタタキにするより断然ウマい。
土佐のタタキだから生のニンニクスライスもついてくる。カツオ以外にニンニクとマッチする魚は無いと思っていた私にとっては嬉しい驚き。
普通のポン酢で味わうタタキはもちろん、塩タタキも注文した。いくらでも食べられそうな感じ。
かなり値のはるクエに見向きもせずに「よこわのタタキ」ばかりムシャムシャと食べてしまった。ちょっと失敗か。割り勘だったら、間違いなく完敗だ。クエばかり食べた人のほうが経済的合理性にかなっている。
まあ、肉より魚、油を使うより煮るほうがいいなど、一般的な「身体に良い」条件を満たした食事だったから、素晴らしい時間だったのだろう。
酒という余計な液体をたくさん摂取してしったら意味はないのかもしれないが・・。
何を食べたら身体に良いのかというテーマは、そう考えると結局意味のないことかもしれない。
アルコールを適量でやめるわけはないし、酒抜きで精進料理を食べることなど罰ゲーム以外ではあり得ないし、結論としては、楽しく食べるか否かですべてが決まるのだろう。
今日は何を書きたかったんだろう。
とにもかくにも楽しく食べる時間、楽しく食べる相手、それだけを人生の最重要事項として吟味していきたい。