味覚の不思議というか、味覚のいい加減なところは気分やシチュエーションで味わいが大きく左右されることだと思う。
30年ほど前、沖縄の久米島に行った時に泊まっていた民宿でダイバー同士で酒盛りになった。ダラダラとビールを飲み尽くして泡盛しか飲むものがなくなってしまった。
当時、本土では今ほど泡盛がポピュラーではなかった。芋や麦といった本格焼酎だって東京ではほとんど普及していなかったから、クセのある泡盛に戸惑いながら渋々飲み続けた。
マズいなあ~と思っていた泡盛が酔いも手伝って、ある瞬間からやたらと美味しく感じ始めた。それからは毎晩泡盛宴会になった。
東京に戻って、エスニック料理屋で泡盛をメニューに見つけたので得意になって飲んだのだが、現地で感じた美味しさとは違う。その後、当時は珍しかった沖縄料理屋で再チャレンジしたが、何かが足りない。
気候風土もそれなりに関係あるのだろう。細かく言えば水割りにする際の水の質が違うから味も変わるという見方もある。
でも、私の味覚はそこまで繊細ではない。結局は気分の問題なんだろう。今も沖縄に行けば毎晩毎晩泡盛しか飲まないが、東京ではほとんど飲まない。
料理も同じ。沖縄料理が時々食べたくなるのだが、現地にいる時との気分の違いのせいか大満足することはない。
ちょっと前の話だが、スペイン料理屋に出かけた。さほどかしこまる必要もない総勢4人での集まりだったので、なんとなくスペイン料理である。
昨年、マドリッドやトレドに旅行した際には、毎日毎日スペイン料理をせっせと食べていた。日本料理屋には目もくれずにアレコレ食べた。
イタリアに行けばワシワシとイタリア料理ばかり食べるし、香港に行けば中華料理ばかり、韓国でも韓国料理ばかり、バリ島でも現地のモノばかり食べる。
外地に出かければたいていは現地の料理を満足しながら嬉々として食べる。
この日訪ねたスペイン料理屋さんは「スペインクラブ」という銀座の店。1階がカジュアルなスペインバルで2階は少し重厚感のあるレストランになっている。
人数も多かったので、生ハムなどの前菜、アヒージョ、パエリアなどの定番料理以外にもアレコレ食べた。
一般的に美味しい店だと思う。雰囲気も良くてオススメである。一応、何度かスペインに行っている私が言うのだからマト外れではないはずである。
でも、どうもウホウホと感激しない。一生懸命考えてみたが理由はただ一つ。
「ここはスペインじゃない」。
アホみたいな話だが、それだけが理由である。私の単純馬鹿野郎ぶりの極みみたいな話である。
それっぽいオッサン達に「アルハンブラの思い出」を弾いてもらっても、チップの金額の心配ばかりでちっともウットリできない。どうも収まりが悪い。
それを言っちゃあおしまいよ~の世界である。料理を作っている人や雰囲気作りに奮闘しているお店の努力には申し訳ない限りだ。でも、それが私の味覚の限界だ。
思えば普段から私がウマいウマいと騒いでいるのは寿司にウナギ、洋食といった東京を代表するようなものばかりだ。
寿司は、コハダや昆布ジメなど、いわゆる仕事をしたネタが好きだし、ウナギはもちろん蒸したヤツ専門で「ひつまぶし」は食べない。洋食だってオムライス発祥の店とかカツレツ発祥の店といった看板に惹かれる。
要は東京の土着料理的なものだからウホウホ喜んでいるのかもしれない。自己分析してみたら、つくづく自分の思い込みの激しさを痛感する。
信州蕎麦は長野で食べるからウマい、皿うどんは長崎で食べるからウマい。ちゃんちゃん焼きは北海道だからウマい。味噌カツも名古屋だからウミャ~と感じるわけだ。
ということで、私がこのブログで書いている食べ物の寸評など実にテキトーだということを改めて宣言したい。旅先で食べたモノなどはその際たるものである。
「そこにいる」ことだけが最上の調味料になってしまっているわけだ。
近いうちに娘と二人で旅行に行く話が持ち上がっているのだが、ハワイならジャンクな肉料理、タイのバンコクあたりならタイ料理、香港なら中華料理ばかりウホウホ食べることになるだろう。
そして、そのすべてをもっともらしくウマい!と断定するハズだ。
つくづく脳天気な人間だと思う。それはそれで幸せなことかもしれない。
東京出身。富豪になりたい中年男。幼稚園から高校まで私立一貫校に通い、大学卒業後、財務系マスコミ事業に従事。霞ヶ関担当記者、編集局長等を経て現在は副社長。適度に偏屈。スタイリッシュより地味で上質を求め、流行より伝統に心が動く。アマノジャクこそ美徳が信条。趣味は酒器集め、水中写真撮影、ひとり旅、葉巻、オヤジバンドではボーカル担当。ブログ更新は祭日以外の月曜、水曜、金曜。 ★★★スマホでご覧頂いている場合には画面下の「ウェブバージョンを表示」をクリックしてウェブ画面に飛ぶと下側右にカテゴリー別の過去掲載記事が表示されますので、そちらもご利用ください。
2016年2月29日月曜日
2016年2月26日金曜日
葉巻と巨乳の話
某所で飲んでいた時、バカでかくてキラキラの葉巻カッターを持参しているオッサンを目撃した。人の嗜好にアレコレ言うのもナンだが、ニッポンの葉巻文化はどうにもスタイリッシュ?に走りすぎている。
もうちょっとフツーに、カジュアルに葉巻を楽しむような風潮にならないものだろうか。
昭和の宰相・吉田茂は着物、白足袋に葉巻がトレードマークになっていた。大正、昭和の頃の写真を見るに連れ当時のオジサマ達の葉巻姿は今と違って実に自然に見える(画像はネット上から拝借しました。すいません)。
私が葉巻に目覚めたのは20代の終わり頃、カリブ方面に頻繁に潜水旅行に出かけたことがきっかけだ。
現地のおっちゃん達が道端で葉巻をウマそうにくゆらしている姿を見て興味を持った。「おっちゃん達のユルい感じの葉巻」が原点だから、ついカッチョ良すぎる葉巻環境にブツクサ言いたくなる。
そうはいっても、やはり夜の街でスーツに身を包んで葉巻をふかしていたらキザ男なんだろう。スカした野郎だ、気取った野郎だと思われても仕方がない。
でも、あの独特なユッタリ感に身を浸せる快感は捨てがたい。せめてもの抵抗?としてライターや灰皿などの葉巻グッズにはこだわらないようにしている。
火をつけるのも百円ライターで構わないし、灰皿だって何でもいい。小さいパンチカッターをキーホルダーにぶら下げているからカットする際もちょちょちょいである。
銀座あたりだと葉巻を見た途端にせっせとそれっぽいライターや灰皿を用意してくれる。あれはあれで小っ恥ずかしい気分になる。
さりげない感じでプカプカしたいのに、必要以上に大袈裟にされると野暮ったくなっちゃう。
野暮な言動ばかりの私だが、これでも粋と野暮を日々の行動の基準にしたいと思っている。だからバカでかい葉巻カッターや妙にカッチョ良い灰皿なんかは苦手だ。野暮ったい。
粋と野暮の定義や境目は分かったようで分からない微妙なものだが、突き詰めれば「小さいか大きいか」という点に集約できる側面もある。
「小体な店で小粋なおねえさんと小鉢を突つく」。
これ全部「小」である。小ざっぱり、小気味良いの「小」である。「大」なるものは野暮という基準だ。
おそらく江戸の町人のやせ我慢みたいな心理もあったのだろうが、大きいこと、デカいことは野暮で、小さいことは粋とみなされた。家の表札なんかも小さければ小さいほど格好良しとされる風潮まであったらしい。
確かに小料理屋には行きたいが、のれんに「大料理」と書かれていたら背を向けたくなる。
私の会社の近所の喫茶店にしょっちゅう座っている落語家の小三治師匠も人間国宝なのに「小」三治だ。その昔、わが社の近所をぶらぶら歩いていた「小さん師匠」も落語業界の最高峰なのに「小」のままだった。
大は小を兼ねるのは確かだが、だからこそ、その大ざっぱな感じが野暮ったさの裏返しになることもあるわけだ。
なんだか分かったようなことを書いたが、あくまでモノの見方の一例である。エラそうに書き進めるとオッパイの大きい女性に嫌われそうである。
巨乳は野暮、貧乳は粋。そんな事実はありませんので悪しからず。
とはいえ、巨根は野暮だと思います。
2016年2月24日水曜日
黒い靴
スーツを着ている時は革靴を履くが、この世界にもあれこれと掟のようなものがある。
誰が決めたかは知らないが、スーツにローファーやスリッポンはダメというのが決まりだ。石田純一なら別だが、確かに普通のスーツを普通の人が着る分にはヒモ靴かモンクストラップが定番である。
靴の色にもいろいろと厄介なルール?みたいなものがある。そんなものに縛られ過ぎるのもカッチョ悪いが、一定の法則として知っておいたほうがいい。
ベルトの色に合わせる。まあ、これは理にかなっている。とくに茶系の靴が好みならベルトだけ黒いとバランスが悪い。
スーツのボタンの色に合わせる。なんだか神経質野郎みたいなルールだが、伊達男の世界ではそんな言い伝え?がある。正直、どうでもいい話だと思う。個人的にはそんなことを考えて靴を選ぶことはない。
さて、紳士靴の究極といえば黒だ。その反面、究極の無難ともいえる。就職面接のために初めて買う靴もオシャレ番長みたいなオジサマが履いているジョンロブも定番の色は黒である。
実は靴が大好きな私が苦手なのが黒い靴だ。苦手といっても嫌いという意味ではない。綺麗に磨いた黒靴を履くと気持ちもシュッとするのだが、なんとなく楽しくない。
小学校の頃、制服に合わせて靴も指定の黒の革靴を履かされた。靴下も黒限定である。幼い頃からそんなコンサバちゃんだったから黒の革靴にどことなく抵抗感があるのかもしれない。
とはいえ、王道の黒である。こだわりのありそうな黒靴を履きこなしている紳士を見ると自分も見習おうと思う。でも、いざ黒靴を履いていると得体の知れないアマノジャク精神が邪魔をする。
面白みがない。無難すぎる。そんな感覚に陥る。そもそも靴の色を面白いとか面白くないなどと考えていることがバカみたいだが、そうはいっても、その日1日の私の動きはすべて靴が支えている。気分の良い靴を選びたい。
出かける前にシューズクローゼットを開くと、愛する靴達がいっせいにアピールしてくる。「オレを選べ」「今日はボクが最高だ」等々、私を悩ませる。
スーツ用に私が持っている靴の7割方は焦茶系である。残りはバーガンディー(ワインレッド)と黒。奇抜なのは苦手なので紺や緑系統までは手が出ない。
黒い靴は最下段に入れてある。目線の近くにあるのはお気にいりの焦茶系ばかり。必然的に「履いてくれ~!」とアピールしてくる。で、ほとんどが茶系の靴を履く。スーツの色に合わせて茶色の濃淡は考えるが、黒の出番は少ない。
グレー系のスーツばかり着ているなら茶系が定番だから仕方がないが、紺系のスーツだったらビシっと黒い靴でキメるのも悪くないのに、ついつい茶系を選んでしまう。
執着心が強いB型の特徴だろうか。ホントのオシャレなら先入観抜きにいろいろ取っ替えひっかえするのだろうが、たいていはいくつかのお気に入りの茶系ばかり選んでしまう。
色の選択にはさまざまな心理や意味合いが潜んでいるらしい。靴という一部分のパーツだけで色彩心理うんぬんを考えるのもどうかと思うが、黒を避けてしまう何らかの理由があるのだろうか。
まあ、当たり前のように黒い靴を履くことに抵抗があるのだろう。「オレだって足下には気を遣ってるんだぜ」的なイジらしいアピールみたいな感覚だ。ある意味、自意識過剰である。
10年ぐらい前までは着るモノや身につけるモノにこだわっているのは男としてカッチョ悪いと思い込んでいた。
10代、20代の頃はオシャレにも関心があったが、渋い大人を目指したくなった頃に必死に着るモノにこだわっていた自分がイヤになった。
少しばかり無頼な雰囲気に憧れていたから、あえて無頓着な雰囲気を醸し出そうとしていたわけだ。でも、そんな考えは若いうちにしか通用しない。いい歳したオジサマがダラけた格好をしていると単にモッサイだけである。
実際に、意識して世の中を眺めてみると、それ相応の御仁はキチっとした装いで靴もキリっと履きこなしている。汚いヨレヨレ靴を履いている人は「それなり」である。
なんだか話が逸れてしまった。靴の色の話だ。
なんだかんだ言って黒い靴をキッチリ履きこなすのは紳士の嗜みかもしれない。
なんとなく黒を避けちゃうような色気づいた感覚では「素敵なダンディー・ジェントルマン」(なんだそれ?)への道は遠い。
っていうか、いつから私は「素敵なダンディー・ジェントルマン」を目指すようになってしまったのだろう。
なんだか迷走している。
2016年2月22日月曜日
安ウマ 飲酒文化 水道橋 でん
「富豪記者」という看板を掲げているせいでヘンテコな呪縛から逃れられない。勝手に自称しているだけなのにバカである。
「富豪っぽいかどうか」。何かを書こうと思ってもそんな基準?が頭の隅に浮かぶ。だからコンビニ弁当の寸評みたいなネタはついつい却下することになる。
「いつも美食にふけっている金満ヒヒオヤジ」。そんなイメージが強くなるのは正しくないので、今日はB級グルメみたいな話を書く。
そもそもB級グルメって変な言葉だと思う。BがあるならC、D、E級もあって然るべき。
作り手は一生懸命ウマいものを作っているわけだから、B級などと言わずにせめて「安ウマ」みたいな言い方をしたほうが良い。
とかなんとか、そんなことまでイチャモンつけちゃうのが中高年の悪いクセである。
安ウマの代表格といえば餃子は外せない。ご本家・中国では水餃子が主流だが、日本では焼き餃子こそが王道だ。水餃子はぬるぬるスベって箸で持ちにくいから私も焼き餃子派である。
醬油に酢とラー油を好みの割合で混ぜ合わせる時のあの高揚感?がまた楽しい。
写真は上野の人気店「昇龍」の餃子。かなり大きくタネもぎっしり。ファンが多いのもうなずける。
ガード下の本店は行列が出来ることで有名だが、ほんの目と鼻の先にある2号店は知名度がないみたいでスンナリ入れる。
餃子を並んでまで食べたくない人には有難い。餃子の味の好みは千差万別だし、ここよりウマい店もあるが、ここの餃子はサイズ感、身の詰まり具合が魅力的だ。
ビールと交互に口の中に放り込んで余計なウンチクなど忘れて「上野の味」を堪能するのが正解だ。
B級、いや、安ウマの聖地が上野界隈である。オシャレとかファッショナブルといった要素に潔く背を向けているところがいい。ホンモノの東京って感じである。
こちらは餃子とともに食べた焼きそば。ゴテゴテと野菜が入っていない昭和の大衆食堂的一品。ウマいマズいを超越したビールのための焼きそばである。
お次はモツ焼の話。安ウマ界のヤンキースみたいな名門的存在だ。いまでこそ若い女性でも入りやすいモツ焼き屋が増えたが、本来は疲れたオッサン達が何とか首をくくらずに生きるための止まり木である。
最近見つけた水道橋の「でん」という店がとっても良い店だった。安いしウマいしメニューも豊富。徒歩圏に住んでいたら週に8回ぐらい通っちゃいそうだ。
マカロニサラダがウマい大衆酒場は何を食べてもウマい。これは真理である。煮込み系も揚げ物系も正しくウマい店だ。生卵とセットになっているのはレバトロユッケなる麻薬のような一品。
割りモノの焼酎はシャリキン状態、すなわち金宮焼酎がシャーベット状で出てくる。氷が溶けて薄まらないためのこだわりの提供方法だ。
レモンサワーはジョッキのふちに塩がまぶしてある。日本版ソルティドッグである。オシャレ感はゼロ。実用一辺倒?の塩まぶしである。
こういう店でグヘグヘ飲み食いしていると心の底から「日本のオジサン」で良かったと痛感する。
ミルウォーキーのオッサンとかウラジオストックのオッサン、はたまたジャマイカのオッサンとしてこの世に生まれていたら味わえない世界である。
冗談はさておき、現代ニッポンの幸せは飲酒文化の多様性に象徴されていると思う。
国酒である清酒を例にとっても日本中の杜氏が切磋琢磨して職人技の集大成である逸品を仕上げる。焼酎だって麦、芋、コメ、黒糖などそれぞれに逸品がある。
ウイスキーだって本場のコンクールで優勝しちゃうような極上品を作る。ワインをはじめとする洋酒は世界中からありとあらゆる銘柄の商品が輸入され、選びきれないほど選択肢に溢れている。
ホッピーなど大衆的なジャンルにしても「〇×サワー」とか「△〇ハイ」の種類の多さは算定不能なほどだ。
もっといえば、燗酒する場合の温度にこだわったり、ヒレ酒、骨酒のようなアレンジの仕方、割りモノ焼酎のシャリキンみたいな飲み方など、どんなシチュエーション、どんな嗜好にも合わせられる凄まじいスペクタルな?世界が普通に展開されている。
なんだか話がとっちらかったが、現代ニッポンの酒飲みは世界レベルで幸せな環境にあることは間違いない。
2016年2月19日金曜日
ゾワゾワする気分
何かが足りない。最近とみにそんなことを思う。ドーパミンとかセロトニンとやらの成分かもしれない。
難しいことは分からないが、自分の精神状態、心理状態がちょっとばかりグズグズしている。なんだかスッキリしない。
まあ、中年になれば日々スッキリシャッキリ暮らしている人などいない。とはいえ、中年の場合は気をつけないと割と簡単に心の病になるらしいからアドレナリンが出まくるような努力をしないとなるまい。
肉体的には快調だが、時々、脳に幕がかかったような感じになってタチの悪い脚のムズムズ感なんかも強まる。プチ更年期なんだろうか。
散歩に入浴、読書にエロ動画。このあたりに励めば気分を変えられるのだが、そんなことすらまったくやる気が起きないほどベロ~ンと動けなくなる時が増えた。
ベロ~ン問題。今後の私の課題である。
話を変える。
最近、自分でもちょっと変だなあと思うのが、やたらとモノをストックするようになったことだ。
病的なほどではないが、一人暮らしにしてはやや過剰な買い置きをする。少しずつ度合いが強まってきたから、数年後には病的なレベルに進むのかと密かに心配している。
行き着く先はゴミ屋敷に住む偏屈老人だったりして。ちょっと問題である。
都会暮らしだから近所にコンビニもスーパーもあるし、便利なネットスーパーの宅配も使いこなしているから日用品をストックする必要はない。
頭ではわかっているのに、食料品をはじめ、洗剤や柔軟剤、ハンドソープに歯ブラシやゴミ袋、割り箸、はたまた使う機会もないコンドームまでいっぱいストックしている。
籠城できるほどだ。誰も攻めてこないが。
冬には滅多に食べないソーメンなんかもストックが少ないことに気付くと大量に買ってしまう。もう買わないと心に決めたカップ焼きそばもナゼか常時5個ぐらいストックしていないと落ち着かない。
先日もギターのピックを8個も買ってしまった。すでに自宅にはいくつもあるし、肝心のギターは1本しかないのにバカみたいだ。
ストック病という言葉があるらしい。私ぐらいのレベルなら可愛いものだが、世の中には病的な状況の人も結構いるそうだ。
原因は不安の裏返し、達成感の欠如、はたまた愛情不足だとか。そりゃあ誰だって何らかの不安を抱えて生きている。いちいちストックしたって解決しないのに不思議だ。
私の場合、「意地」みたいな心理が影響しているのだと思う。独身生活に何ら不都合はないぜ、満ち足りているぜ!と自分自身に暗示をかけているのかもしれない。
御苦労なことである。そんなことを心の底で考えながら暮らしているのなら、それ自体、心が歪んでいる証拠みたいなものだ。危ない危ない。
時々遊びに来る娘が、ストックの多さに半ば呆れている。お菓子やジュース類もやたら多めに用意してあるが、あれは私の娘に対する「エエカッコしい」だろう。
父ちゃんとこは快適やで~。いつでも遊びに来いや~という魂の叫び?が原因だ。そんなところでハッスルしたって仕方がないのにアホである。
この頃よく聞く「断捨離」とは真逆のライフスタイルだ。断捨離は、人生や日々の暮らしに不要なモノを断ったり捨てることで、執着から解放されて快適な人生を手に入れようという発想だ。
もっともらしい言いぐさだが、文明社会で煩悩の沼に浸かって生きている以上、そんなご立派な生き方は簡単ではない。いや、そんな生き方をしたいとも思わない。
人生が狂わない程度に物欲や執着心と駆け引きしながら生きているほうがよっぽど楽しい。そっちのほうが文明人っぽいのは確かだろう。
どうせなら愛欲に執着して、恋人や愛人をストックしちゃうぐらいの傑物になりたいものである。
2016年2月17日水曜日
ヒレ派かロース派か あげづき ぽん多
トンカツを愛する人間にとってヒレを選ぶかロースを選ぶかは一大事である。どちらが王道でどちらが邪道というわけではない。どっちも美味しい。
私はヒレ派だ。ロースだとちょっとクドくてゲンナリすることがある。年のせいではない。若かりし頃、焼肉屋でカルビばかり食べていた頃もトンカツはヒレ派だった。
豚肉の美味しさは脂身にあることは百も承知だ。豚しゃぶもバラ肉を好むし、ポークソテーの端っこの脂身も宝物のように大事に食べる。
トンカツの場合、ロースだと端っこの脂の部分も衣をまとって揚げられている。「脂on脂」である。ちょっとやり過ぎみたいに思える。
「炭水化物on炭水化物」の代表である“焼きそばパン”に通じる過剰な攻撃にたじろいでしまうわけだ。ヘンテコな例えですいません。
この画像は湯島の「蘭亭ぽん多」の特製とんかつ。注文の際、ヒレカツは用意していないと言われドン引きしかけたが、親切な店主が脂身のないロース肉だと解説してくれた。
いわゆるロースの芯の部分だけを使っているのだろう。火の通り具合も絶妙で噛み応えもしっかりしていた。
グワシッって感じでキメ細かな肉の線維を噛みしめる喜びに思わず顔がほころぶ。一般的なロースカツとは別個の料理だと思う。高いからしょっちゅう行けないのが残念だ。
こちらは神楽坂の「あげづき」の特ヒレカツ。3年ぐらい前はふらっと入れる店だったが、最近、ミシュランに載ったせいで鬼混み状態。物凄くウマいけど気軽に入れないのが残念だ。
東京中のトンカツを食べたわけではないが、高田馬場の「成蔵」と並んで世界トップレベル!のトンカツであることは確かだと思う。
お次は水道橋にある「かつ吉」のヒレカツ。新丸ビルや日比谷や渋谷に支店を持つチェーン店だが、旗艦店らしき水道橋店は店内も広く一品料理も多い。
トンカツの名店と呼ばれるのは、たいてい“トンカツ一本勝負”みたいな小さな店が多いが、大型店だからといって決してあなどれない。酒もゆったり飲めるし気が利いたツマミもアレコレ用意されていて便利な店だと思う。
この画像は神保町の「新潟カツ丼 タレカツ」という店でのひとこま。毛色の変わった店にも行ってみようと訪ねてみた。
私は昔からソースマンである。東京人だからカツ丼は卵とじしか知らなかったが、高校生ぐらいになって北関東でポピュラーなソースカツ丼を知った。ウマくて悶絶した。
タレカツというからにはソースカツ丼みたいな味付けかと思ったのだが、この店のタレは甘辛醬油だれ。
甘味があるのでワシワシぺろっと食べたが、やはり醬油ベースの風味が強い。ソースマンの私にとっては今ひとつだった。
こちらは浅草の人気店「ゆたか」のヒレカツ。ちょっと火が通り過ぎ。前に食べた時はそんなこと無かったので、この日がたまたまだったと思いたい。
さてさて、ロース派の人達からヒレカツが敬遠される理由はパサつきだ。パサつくのは火が入り過ぎちゃったことが原因である。
ロースだって火が通り過ぎたら同じことなのだが、あちらは端っこの脂身の部分があるせいで身がパサついてもごまかせちゃうわけだ。
ヒレ派としては、この問題をクリアするには人気店、有名店に出向くのがてっ取り早い。なんだかミーハーちゃんのようでイヤだが、そういう店ならヒレカツの揚げ過ぎ問題を心配しないで済む。
で、結論。
「ちゃんとした専門店で、ちょっと強気な価格設定でも客足が絶えないような店」という前提条件を満たせば、トンカツは断然ヒレだと思う。
2016年2月15日月曜日
色恋バイオリズム
男性にも生理があるらしい。
ホンマかいな?って話だが、俗に睾丸周期と呼ばれるもので、1か月に1度骨盤が開いたり閉じたりする周期に伴うものなんだとか。
骨盤が閉まっているときは身体も気分も元気ハツラツで睾丸では精子がガンガン作られる。骨盤が閉じているときは気分が落ち込み精子の製造も休止状態になって勃起力も落ちるそうだ。
長年生きているが、そんな話は知らなかった。言われてみれば思い当たるフシもあるが、そんなシステマチック?な現象だったとはビックリである。
でも、自分の骨盤が開いたり閉じたりするタイミングを自分で知ることは出来るのだろうか。自覚症状はまったくないからチンプンカンプンである。
もし、そんな周期を自分で把握できたら仕事をはじめすべての行動をうまく制御できそうだ。月に一度出血するのはイヤだが、何らかの兆候があれば有難い。
女性の生理と同じで、男の周期も思春期や若造の頃はまだ安定していないらしく、そのせいで若造時代はアホみたいに闇雲に発情しちゃうみたいだ。
私と同年代でも四六時中、発情している男がいるが、ああいう面々は特殊な骨盤を持っているのだろうか。謎である。
この周期の話は、あくまで1か月に1度という次元だが、個人的にはそれとは別に年単位、季節単位で発情周期?が変わるような感覚がある。
たとえば、一昨年は「交尾欲求」!がやたらと強かったが、昨年はソッチ方面の欲求が収まっていたといったパターンだ。
実際には年単位というより、3か月ぐらいの刻みで欲求の度合いが大きく変わるような気がする。
この場合、骨盤の周期とは関係ないわけで、どんな理由が欲求の波に影響をもたらしているのか不思議だ。
気候のせいだろうか、仕事のせいだろうか、自分の体調のせいだろうか、周囲の女性のせいだろうか、ストレスも影響しているのだろうか。これまた謎である。
まあ、そうは言っても冒頭で紹介した「睾丸周期」以外には男の性欲を左右するキチンとした理由はない。
いくつになっても発情しているオッサン達は男として正しい道を歩んでいるわけで、数ヶ月周期で性欲が薄れたなどとホザいているようではダメである。
欲求の強さ弱さは別として男は基本的にいつでも発情可能である。種の保存本能だ。極端にいえば嘆き悲しむような場面でも反応できちゃうことがチョッピリ情けない。でもそれが現実である。
そんな本能的かつ制御不能?な欲求に振り回される男も、「燃えるような恋がしたい」「恋人が欲しい」といった欲求は性欲とは別なものとして認識している。
性欲と恋愛欲。同じようで別モノだ。「家庭を壊さないために恋愛はしないけど性欲は消せない」、「性欲はバリバリだけど恋愛する気はない」。どちらのパターンもある。
恋愛欲求は性欲と違って本能的なものではない。だから周期もまちまちだろう。結婚を機にその後の人生ずっと恋愛欲を封印する人もいれば、恋人や伴侶がいるのに恋愛したがる人もいる。
独身であればいつでもどこでも?恋愛欲求をさらけ出せるはずだが、いい歳して独身状態の人間のなかには恋愛を面倒だと思う人も多い。
ちなみに最近私がハマっている連ドラは「恋愛」へのスタンスが両極端な二つ。録画して欠かさず見ている。
TBSの「家族ノカタチ」で香取慎吾演じる主人公は、徹底的な個人主義で人との係わりを全面的に避けたがっている設定だ。当然、自分の時間を邪魔する恋愛には興味がない。
もう一方はテレビ東京の「東京センチメンタル」というドラマ。吉田鋼太郎扮する50才を超えたバツ3の男が寅さんのように毎週誰かに恋をする話。
両極端だけど、どちらにも凄く共感する。自分の時間を誰にも邪魔されたくない気持ちと恋に落ちてスキップしたくなる気持ち。この二つの気持ちがうまく混ざり合えば最高だと思う。
まあ、現実にはそんな都合の良い展開は起こりえない。自分の世界に没頭したければ色恋は難しいし、色恋に励みたければ自分の時間は削られる。
1日は24時間しかない。仕事はもちろん、何時間も寝なきゃならないし、もろもろ雑用もあるし、自分の身体は一つだけだし、タイムマネジメントは結構大変だ。
そう考えると「恋したいな~」などと言えるのはよっぽど暇な時なのだろうか。いやいや、そんなことではいけない。時間を作ってでも色恋の沼に沈みたいものである。
とかいいながら、恋愛周期よりも「とんかつ周期」や「夜の湯島散策周期」が次々に私に押し寄せてくるから、スキップする機会はなかなか作れそうにない。
2016年2月12日金曜日
オムライス迷走 たいめいけん 煉瓦亭
「ふわとろ系」がオムライス業界を席巻してから30年になる。たぶん。
もちろん、それ以前から存在したのだろうが、一般化したのは伊丹十三監督の映画「たんぽぽ」がきっかけだろう。1985年の作品だ。
冒頭の画像はふわとろ系の代名詞のようになっている日本橋「たいめいけん」のたんぽぽオムライスである。
この一品がわざわざ映画のタイトルを冠していることからも「30年説」は妥当だと思う。
ニッポンの洋食の本場である東京で育った私自身、ふわとろ系を食べるようになったのは大人になってからだ。
オムライスといえば「薄焼き卵&ケチャップ」が定番だった。下手な店では薄焼き卵が焦げていることも珍しくなかった。
ドミグラスソース、トマトソースなどを使うオムライスも昔は存在しなかった。ケチャップ一辺倒。きっとふわとろ系の普及によってソースも変化してきたのだろう。
実は私は子供の頃、あまりオムライスを食べなかった。その理由はチキンライスをくるんでいた薄焼き卵があまり好きではなかったからである。
卵は大好きだ。でも薄焼きになった途端、得体の知れない皮みたいになっちゃって風味も何も感じない。
ちなみに茶巾寿司も食べない。金糸卵も昔から苦手だ。食感も感心しないし、味わいがない。ばらチラシを注文する時も金糸卵は減らしてもらう。
昔の王道のオムライスは当然「ふわとろ」ではなかった。薄焼きだから何となく「茶巾・金糸連合」の仲間みたいな感じがしていたので好んで食べなかったのだろう。
この画像は九段下のホテルグランドパレスのオムライス。ホテルレストランのオムライスは値段も高い代わりにホテルのシェフの矜持も絡んでいるからたいていは美味しい。
というわけで、今、ふわとろ全盛時代だ。私としては喜ぶべき状況だが、安易に時代に迎合したようなミーハーぶりに少し後ろめたい気分も感じる。
素直にふわとろに歓喜すればいいのに、伝統的なものに背を向けてしまったヘンテコな敗北感のような感覚がある。考えすぎか。
だから時々、単に水っぽいビチャビチャ系の「ふわとろモドキ」に遭遇するとイライラする。古典的な王道オムライスに回帰しようかと考えたくなる。
卵を「ふわとろ」に仕上げた一品とただのナマっぽい「出来損ない」は違う。自分で作るわけではないので詳しくは分からないが、真っ当なふわとろとダメダメなふわとろは別次元のモノだ。
先日、ふわとろ、薄焼きのいずれにも属さない「孤高のオムライス」を食べてきた。いうなれば「まぜまぜ系」だ。
銀座「煉瓦亭」の名物である。卵も米も具材も一緒になってフライパンで炒める独特の作り方で知られる。これがオムライスの元祖だという説もあるらしい。
何年かぶりに食べたのだが、これはこれで美味しい。卵かけご飯を思わせる優しい味わい。炒めメシだからチャーハンに近いのだろうが、実際にはリゾット的な食感が楽しい。
遠目では分からないが、アップにすると「まぜまぜ系」であることがよくわかる。
好き嫌いは分かれそうだが、誰もが勝手に頭の中でイメージするオムライスとは別の食べ物だ。そう思って食べればちゃんと美味しい。
なんだかんだ分かったようなことを書き殴ってきたが、最終的には自分の好みの路線を自分なりにしっかり認識しているかどうかがオムライス探究のキモだろう。
オムライスと一口に言っても実に奥が深い。卵をどのようにアレンジするかが最大のポイントではあるが、中に潜むチキンライスの出来も非常に大事だ。
卵に気を取られてライスが二の次になっていたら本末転倒だ。ふわとろの場合、上が柔らかいのだからライスまでベチャっとしていたら興醒めだ。
その一点こそが勝負の分かれ目だ。
結局、私の好みは卵うんぬんではなく、コメの炊き加減に尽きるみたいだ。
さんざん卵のことを書いてきたわりには中途半端な結論になってしまった。
はたしてオムライスって卵料理なのかコメ料理なのか、どっちなんだろう。
2016年2月10日水曜日
湯河原 山翠楼 幸運
週末、久しぶりに温泉宿に行ってきた。近場の温泉なら3~4か月に一度ぐらいは出かけているつもりだったが、1年近く御無沙汰していた。
場所は湯河原。思い立って出かける時は熱海や湯河原方面が多い。都内が空いていれば車で1時間半で着く。便利である。
画像はターンパイクから見た真冬の富士山。東名から小田原ターンパイクを使えば湯河原の温泉宿までほぼ信号無しで到着する。
近場でも仙石原や伊香保あたりににごり湯がウリの宿があるが、真冬だと雪や路面凍結のリスクを考えてついつい敬遠してしまう。
今回泊まったのは山翠楼。数年前に近所にある「海石榴」とともに北海道の温泉旅館運営会社の傘下に入った老舗だ。
昔からゆば料理をウリにしていたことで知られる。個人的にゆばにそんなに興味がなかったこともあって今回が初訪問。
ほんの数年前まではサウナがある温泉宿ばかり選んでいたのだが、最近は「部屋に付いている露天風呂に浸かりながら葉巻をふかす」ことが一大目的になった。
サウナの有無に関わりなく宿選びが出来るので、今後はもっとアチコチの旅館を訪ねたいと思っている。
山翠楼は海石榴よりは気軽な雰囲気で部屋数も多い。昭和の典型的な高級旅館という雰囲気だ。今は上の画像のような露天風呂がウリになっているらしい。
今回、珍しいことに部屋をアップグレードしてもらう幸運に恵まれた。シティホテルではホテル側の都合で上のカテゴリーの部屋に変更されることは珍しくないが、温泉旅館では初体験である。
日頃の行いのせいだ。たぶん。
露天風呂の付いた客室にもいくつか種類があるのだが、通されたのは最上級のデラックススイートと称される和洋室。
前室、副室、本間の他にも水周りにもゆとりがある。居心地が悪いほど広かった。かくれんぼ可能サイズと言えば的確だろう。
特筆すべきは庭の部分だ。この部分に余裕があると部屋専用の露天風呂も非常に快適になる。急ごしらえで物陰?に小さな露天風呂をつけたような宿も多いが、あれでは嬉しくない。
普段、あちこちで抽選やくじ引きに見放されている私である。運を取っておいたおかげで上等な部屋に泊まることが出来たみたいだ。
真冬の露天風呂は温泉好きには堪らない。のぼせかけても風呂のへりに腰掛けて涼めばすぐに寒くなる。結果、何度も何度も湯に浸かって、そのたびに「ウヘ~」と言いながらジンワリできる。
部屋に露天風呂があれば、ビールを飲んだり、週刊大衆のエロページを堂々と読んだり、とにかく明るい安村のモノマネをしたって問題ない。実に自由である。
今の季節、外気の中で楽しむには無理がある葉巻だが、風呂に浸かりながらブカブカできちゃうから極楽である。
肝心の夕飯は普通に美味しかった。酔っ払っていてあまり覚えていないのだが、小鍋仕立てのブリしゃぶがとてもウマかった。
名物のゆばも巻かずにブラブラ状態で出てきた。
旅館の夕食は言うまでもなく日本酒の友として最適だ。ちまちま出てくる先付けも刺身も、その他もやたらと品数が多いから、いちいち味見をするたびにグビグビして酩酊する。
持参したマイぐい呑みでウマい酒を飲んで、専用露天風呂で葉巻をプカプカする。時にはこういう時間を持ちたいものだ。夜の街で散財するよりはるかに癒やされる。
梅が咲いているうちにまた行きたい。
2016年2月8日月曜日
野菜を食べるために
野菜を食べない日々である。元々苦手だし、一人暮らしだから積極的に野菜と仲良くする機会はない。
青汁も毎日飲んでいる。サプリもあれこれ飲んでいる。血液検査の数値もとくに問題はない。それでも野菜を食べないとダメなのだろうか。
血液検査で異常がないなら野菜を食べる必要ってホントにあるのだろうか。血圧だって安定している。何の目的で野菜を摂らねばならないのか分からない。
ひょっとすると、国の農業政策や貿易政策のために騙されているのではないだろうか。ホントは野菜なんか食べなくても何ら健康には関係ないのかもしれない。
常識を疑え!って感じだ。もしそうだったらビックリである。そうであって欲しい。ライオンだってトラだって野菜を食べなくてもあんなに元気だ。
一応、世間にはびこる固定観念のせい?で野菜を食べないことがいっぱしの大人、いや、立派なオジサマとして何となく引っかかる。
カツ丼に載ってるグリーンピースを排除したり、ハンバーグの付け合わせのニンジンを残すと自分が子供じみた感覚の人間なのかと少しばかり気になる。
でも私が口をつけずに残しておけば次のお客さんに使えるだろうから良しとしよう。
食べたくないものを食べるのはイヤだ。許されるなら好きなものだけ食べていたい。
野菜という存在のせいで日々私の心はザワついている。
寿司屋、ウナギ屋。外食中心の私がとくに好きな路線である。共通するのは何か。そう、野菜が出てこないことである。
素晴らしいことだ。これらの店では、女性の連れがいても「ダ~リン、サラダ食べていい?」などとケッタくそ悪いことは言われずに済む。そんなものはメニューに無いのが普通だ。
さんざん、野菜を愚弄してしまったが、個人的に恨みがあるわけではない。こんな私だって時には自ら進んで野菜料理をオーダーすることもある。
自ら進んで、と書いてみたが本心は食べたいわけではない。その場の雰囲気に呑まれたり、カッコつける時だけである。
たとえば、京都の小料理屋でシッポリ飲んでいたとする。私のポジションはスカした顔で気取っている東おとこである。
おかみさんはまだ30代半ばで未亡人になった美しい人だ。店には2人だけ。空気が艶っぽい。
途切れ途切れの会話をつなぐように「かぶら蒸し、お食べやす・・・」と言われたとする。
そんな時に「野菜は嫌いだ」などとは口が裂けても言えない。「寒い季節にはこれに限るね」と応じながらウマそうに頬張らないといけない。
そういうシチュエーションばかりならきっと私は野菜をたくさん摂取するはずだ。そんなものである。
実際に、ちょっと渋めのカウンター割烹でスカして飲み食いしている時は、着物姿の綺麗なおかみさんがいなくても結構頑張って野菜を食べる。
板さんから旬のウマいものだと勧められたら断りにくいし、ついつい食材や料理についてチンケな知ったかぶりをしている以上、野菜が嫌いなことはナイショである。
まあ、そのような店の場合、野菜といえども普通よりかなり美味しく料理されているのも大きなポイントである。
渋々食べていたはずが、しみじみウマいと感じることも希にはある。
冒頭の画像は銀座の三亀で食べたかぶら蒸しである。この丸っこい素材がダシの魔力によって何ともホッコリする一品になっていた。
緑黄色野菜と呼ばれるジャンルではないが、カブだってバリバリの野菜である。ペロペロ食べたわけだから“自分で自分を誉めてやりたい”って感じである。
こちらはふろ吹き大根の鳥味噌乗せと新タケノコの揚げだしである。
湯島にある割烹「いづ政」で味わった絶品だ。ひれ酒とともにいとも簡単に私を天国に連れて行ってくれた。ふろ吹き大根の画像はやたらと濃そうな感じだが、実際には絶妙な味付けでウホウホ食べてしまった。
このお店、数年前に惜しまれながら店を閉じた銀座数寄屋通りの日本料理「出井」出身の親父さんが切り盛りする湯島の名店だ。
質の高い本格的な料理を豊富なメニューの中からアラカルトで注文できる。たいてい、高水準の店だったらコース仕立てで食べさせることが多いから、このスタイルはありそうで無い。貴重だと思う。
料金は高め。でも納得できるレベル。こういう店があるから「湯島通い」が続いているのだと思う。
なんだか野菜嫌いの話から逸れてしまった。
で、結論。
「野菜嫌い」を信念、いや生きざまとして数十年も貫いてきた私だが、人目を気にする時は、いとも簡単に野菜に媚びたりするヘタレっぷりが少し悲しい。
青汁も毎日飲んでいる。サプリもあれこれ飲んでいる。血液検査の数値もとくに問題はない。それでも野菜を食べないとダメなのだろうか。
血液検査で異常がないなら野菜を食べる必要ってホントにあるのだろうか。血圧だって安定している。何の目的で野菜を摂らねばならないのか分からない。
ひょっとすると、国の農業政策や貿易政策のために騙されているのではないだろうか。ホントは野菜なんか食べなくても何ら健康には関係ないのかもしれない。
常識を疑え!って感じだ。もしそうだったらビックリである。そうであって欲しい。ライオンだってトラだって野菜を食べなくてもあんなに元気だ。
一応、世間にはびこる固定観念のせい?で野菜を食べないことがいっぱしの大人、いや、立派なオジサマとして何となく引っかかる。
カツ丼に載ってるグリーンピースを排除したり、ハンバーグの付け合わせのニンジンを残すと自分が子供じみた感覚の人間なのかと少しばかり気になる。
でも私が口をつけずに残しておけば次のお客さんに使えるだろうから良しとしよう。
食べたくないものを食べるのはイヤだ。許されるなら好きなものだけ食べていたい。
野菜という存在のせいで日々私の心はザワついている。
寿司屋、ウナギ屋。外食中心の私がとくに好きな路線である。共通するのは何か。そう、野菜が出てこないことである。
素晴らしいことだ。これらの店では、女性の連れがいても「ダ~リン、サラダ食べていい?」などとケッタくそ悪いことは言われずに済む。そんなものはメニューに無いのが普通だ。
さんざん、野菜を愚弄してしまったが、個人的に恨みがあるわけではない。こんな私だって時には自ら進んで野菜料理をオーダーすることもある。
自ら進んで、と書いてみたが本心は食べたいわけではない。その場の雰囲気に呑まれたり、カッコつける時だけである。
たとえば、京都の小料理屋でシッポリ飲んでいたとする。私のポジションはスカした顔で気取っている東おとこである。
おかみさんはまだ30代半ばで未亡人になった美しい人だ。店には2人だけ。空気が艶っぽい。
途切れ途切れの会話をつなぐように「かぶら蒸し、お食べやす・・・」と言われたとする。
そんな時に「野菜は嫌いだ」などとは口が裂けても言えない。「寒い季節にはこれに限るね」と応じながらウマそうに頬張らないといけない。
そういうシチュエーションばかりならきっと私は野菜をたくさん摂取するはずだ。そんなものである。
実際に、ちょっと渋めのカウンター割烹でスカして飲み食いしている時は、着物姿の綺麗なおかみさんがいなくても結構頑張って野菜を食べる。
板さんから旬のウマいものだと勧められたら断りにくいし、ついつい食材や料理についてチンケな知ったかぶりをしている以上、野菜が嫌いなことはナイショである。
まあ、そのような店の場合、野菜といえども普通よりかなり美味しく料理されているのも大きなポイントである。
渋々食べていたはずが、しみじみウマいと感じることも希にはある。
冒頭の画像は銀座の三亀で食べたかぶら蒸しである。この丸っこい素材がダシの魔力によって何ともホッコリする一品になっていた。
緑黄色野菜と呼ばれるジャンルではないが、カブだってバリバリの野菜である。ペロペロ食べたわけだから“自分で自分を誉めてやりたい”って感じである。
こちらはふろ吹き大根の鳥味噌乗せと新タケノコの揚げだしである。
湯島にある割烹「いづ政」で味わった絶品だ。ひれ酒とともにいとも簡単に私を天国に連れて行ってくれた。ふろ吹き大根の画像はやたらと濃そうな感じだが、実際には絶妙な味付けでウホウホ食べてしまった。
このお店、数年前に惜しまれながら店を閉じた銀座数寄屋通りの日本料理「出井」出身の親父さんが切り盛りする湯島の名店だ。
質の高い本格的な料理を豊富なメニューの中からアラカルトで注文できる。たいてい、高水準の店だったらコース仕立てで食べさせることが多いから、このスタイルはありそうで無い。貴重だと思う。
料金は高め。でも納得できるレベル。こういう店があるから「湯島通い」が続いているのだと思う。
なんだか野菜嫌いの話から逸れてしまった。
で、結論。
「野菜嫌い」を信念、いや生きざまとして数十年も貫いてきた私だが、人目を気にする時は、いとも簡単に野菜に媚びたりするヘタレっぷりが少し悲しい。
2016年2月5日金曜日
フィル・スペクターとか
このところ昔の歌ばかり聴いている。昔の歌といっても聖子ちゃんやひばりではない。1960年代前半の洋楽である。
俗にオールディーズと呼ばれるアメリカンポップスが中心だ。私が生まれる前の音楽だから懐古趣味というわけではない。
プラターズの「煙が目に染みる」、コニーフランシス「カラーに口紅」、ポールアンカの「ダイアナ」等々、あの時代の曲である。
小学生の頃、初めて買ったレコードはアグネスチャンだった。その後、山本リンダに悩殺され、桜田淳子に思いを寄せる少年時代が過ぎた頃、ビートルズを知る。
数え切れないほどのビートルズの名曲の中で私が一番好きなのが「I Should Have Known Better」、邦題「恋する二人」である。
https://www.youtube.com/watch?v=wwo4VYWi8GA
超有名曲ではないが、ナゼかダントツに好きだ。こういうメロディーラインに無性に惹かれる。
「ミスターポストマン」も大好きだ。追いかけるようなボーカルとか、コーラスアレンジの面白い曲が大好きなので、最近もドライブする時はこの2曲をフンフンうなっている。
https://www.youtube.com/watch?v=xRdtlwVBQ8A
私が小学校の終わり頃に世の中に大旋風を巻き起こしたのが「アバ」、「ベイシティローラーズ」などである。
ベイシティローラーズの「二人だけのデート」が大好きで今も時々フンフン口ずさんでいる。この曲は元々カバー曲だ。原曲は下に貼り付けた60年代前半のヒット曲である。
★Dusty Springfield - I Only Want To Be With You
https://www.youtube.com/watch?v=TJMJSpOQEvk
60年代に一世を風靡した音楽プロデューサーであるフィル・スペクターの一連のヒット曲に感化されて誕生した楽曲なんだそうだ。
真打ち登場、フィル・スペクターである。ウォールオブサウンドと呼ばれるちょっとくもったような多重性のある演奏や特徴的なエコー、個性的なコーラスが織りなすカッチョいい世界を創り上げた人だ。
まだ存命中。すっかりオジイサンだが刑務所で暮らしているらしい。
代表的な2曲を貼り付けておく。
★The Ronettes - Be My Baby
https://www.youtube.com/watch?v=jrVbawRPO7I
★The Crystals Then He Kissed Me
https://www.youtube.com/watch?v=cE_jOD2Fxvs
ニールセダカやポールアンカなど白人の陽気なノリの曲とは少しニュアンスの違うロマンティックで切ないメロディーラインが印象的だ。以後いまに至るまで私は「それっぽい」曲に惹かれ続けている。
ロネッツやクリスタルズの髪型も時代を感じさせる。モリモリである。銀座あたりの夜のオネエサマ達の盛りまくった髪型が好きな私の性癖?に少なからず影響しているのかもしれない。
軌道修正。
さきほど紹介したベイシティローラーズをせっせと聞いていた小学校の終わり頃、「Don't Worry Baby」という曲にハマった。
後になって知るのだが、この曲はフィル・スペクター作品の象徴である「Be My Baby」に刺激されてビーチボーイズのブライアン・ウィルソンが一種のアンサーソングとして作った曲だとか。
★The Beach Boys- Don't Worry Baby
https://www.youtube.com/watch?v=3QCZ_bv9aLc
ベイシティローラーズを聴いていた頃に好きになった曲のルーツがフィル・スペクター系のオールディーズにつながっていたわけだ。自分としては不思議な連鎖のように感じる。子供時代の好みや感性はその後もずっと続くことを実感する。
余談だが、私が30歳を過ぎた頃、敬愛するハマショー師匠が発表したアルバムの1曲目が「Be My Baby」のカバーだった。
浜田省吾的ロックを想像して聴き始めた1曲目に何とロネッツのカバーである。天地がひっくり返るほどの衝撃を受けて痙攣するほど興奮した。
最近ギターを始めた私が早々に練習したのも「Be My Baby」である。一応、ストロークだけならなんとかそれらしく弾ける。
フィル・スペクターのウォールオブサウンドといえば、今は亡き大瀧詠一や山下達郎がバリバリの信奉者である。
もちろん、昔はそんな音楽的系統など知らなかったし考えもしなかった。1981年発売の大瀧詠一の大ヒットアルバム「A LONG VACATION」も今思えば“フィル・スペクター的なワクワク感”に満ちあふれていた。私が高校1年の頃だ。中毒のように聴き込んだ覚えがある。
同じ頃、佐野元春の「SOMEDAY」も大ヒット。あの曲もバリバリのフィル・スペクター的ウォールサウンドの流れである。
「SOMEDAY」は当時からブルース・スプリングスティーンの「ハングリーハート」にそっくりと言われていた。
もともとブルース・スプリングスティーン自身がフィル・スペクター作品の大ファンだと語っていたから、間違いなくそっちつながりである。
https://www.youtube.com/watch?v=lQSn26zCXYQ
大学生の頃、新宿・歌舞伎町のオールディーズ専門のライブハウスにしょっちゅう入り浸っていた。
当時、オールディーズが好きなどと言うとリーゼントに革ジャンでポニーテールの女の子を追いかけるような“異質”な面々が多かった。
そのライブハウスにも膝から下をキコキコ動かして踊るロカビリー族みたいなお兄ちゃん達がいっぱいいたが、当時の私はプロデューサー巻きで裸足にローファーみたいな格好だったから、ちょっと居心地が悪かったような想い出がある。
あれから30年、相変わらずそんな昔の曲を飽きずに聴き続けている。本心では私がボーカルを務めるオヤジバンドでもその頃の曲をやりたいのだが、基本的に昭和歌謡専門バンド?なのでなかなか実現しない。
せめて来年16才になる娘にニール・セダカの「Happy Birthday Sweet Sixteen」を弾き語りできるようにせっせと練習に励もうかと思う。
★Neil Sedaka "Happy Birthday Sweet Sixteen"
https://www.youtube.com/watch?v=E_42bv9c85w
2016年2月3日水曜日
下町ロネッツ
2016年、「湯島」が私を呼んでいる。おそらく単なる思い込みだが、どうもそんな気がする。
先月、散歩の際にバッタリ会った旧友に連れられ『湯島のスナック』デビューを果たしたことは最近このブログでも書いた。
スナックでテレサテンを歌った後に中学高校の4つ上の先輩がやっているバーにも出かけた。「湯島のスナック」も魅力だが、「湯島のバー」も未知の世界だ。顔見知りの店が出来ただけで妙に嬉しい。
その後、このバーには何度かお邪魔したが、蛇の道は蛇である。どんどん湯島情報が入ってくる。私にとって湯島を攻略するための前線基地である。
先日も中学の野球部の先輩(2つ上の主将)に35年ぶりぐらいに偶然会った。悪ガキ時代の昔話で盛り上がった。
湯島のような古い街は、一種の村社会のように地域のつながりや関係がしっかり構築されているイメージが強い。そういう中にちょこっと混ぜてもらうのが楽しい。
どうやら私は昔から「アウェーな感じ」が好きみたいだ。若い頃に銀座のクラブで感じた「馴染めていない居心地の悪さ」を楽しむ趣味?があるみたいだ。
初めて入った料理屋や寿司屋のカウンターにポツンと一人で座って大将とお互いの様子を見合うような何ともいえない空気感に身を置くことも案外嫌いではない。
M的な喜びだ。収まりの良い場所にいるだけでは刺激が足りない気分になるのだろうか。
ビミョーに変態である。
でも、アウェーな感じに惹かれるのはそういう心理が働いているのだと思う。
で、湯島である。何となく昔ながらの東京の情緒をそこかしこに感じる。個人経営の飲食店が元気な街は個性があって楽しい。
上野とほとんど同じエリアなのに「湯島と上野は全然違う」と力みながら解説する人がいっぱいいるのも面白い。
上野は台東区で湯島は文京区である。文京区に住んでいる私としても湯島を贔屓しなければいけない。
で、あちこちで湯島のスナックに行ったことを得意になって話していたら、いろいろと情報も入ってきた。
おっパブのオススメはどこそこだ、どこぞのカフェは知り合いがオーナーだ等々。やはり情報は騒いでいる方面に流れてくる。
キャバクラとは違う、いわゆるクラブっぽい店の情報も入手したので、冷やかしついでに覗きに行ったし、一見さんお断りを徹底しているチョッピリ高級なスナックにも連れて行ってもらった。
一気に「湯島ワールド」が開けてきた。目指せ湯島の帝王!である。
イケイケっぽい?バーにもひょんなことから飛び込みで入ってみた。
とある日曜日、浅草で食べ過ぎた帰り、地下鉄を上野駅で降りて運動不足解消を兼ねて歩けるところまで歩いて帰ろうと企んでみた。
志は立派だったのだが、たかだか10分ぐらい歩いて寒さに負けそうになった頃、ネオンの消えた休日の湯島スナック街でポツンと灯るバーの看板が目に入った。
若者向けっぽい看板だったので素通りしかけたが「シーシャあります」の表示が目に入った。水タバコのことである。
湯島で水タバコが楽しめるというトピックスは湯島探検中の今の私の心を射抜くには充分である。「やっぱり湯島はオレを呼んでいたんだな」とつぶやき、突入することにした。
イケイケの若者が好みそうな雰囲気の店だった。普段はまず入らないジャンルの店である。完全なるアウェーである。
日曜だったせいで客はいなかった。ガタイの良い黒人のマスターが一人、掃除機片手に奮戦中だった。聞けばオーストリア国籍のナイジェリア人。45歳のオジサンだ。
さっそく水タバコを用意してもらう。炭もフレーバーも上等品を使っていると力説される。聞いてもいないのに自分は不良外人じゃないと語ってくる。気の良さそうなオッサンだ。
プカプカしながら世間話に花を咲かす。なかなか面白い。やかましいだけのクラブミュージックがガンガン流れていたので、音楽を変えろと注文する。
70年代、80年代のイーグルスとかドゥービーとかにしてくれと頼んだらオヤジもそっちのほうが断然好きだという。そりゃあ45歳だったらそれが普通である。
で、初対面のナイジェリア人のオッサンと二人、ホテルカリフォルニアを大音量で聞きながらラフロイグをロックであおって水タバコをプカプカ。なかなかヘンテコな光景だった。
葉巻も置いてあった。水タバコもバッチリ美味しかった。料金も安い。ここ半年ほど普通の紙巻きタバコを我慢しているせいで煙がやたらと恋しい私にとって物凄く居心地が良かった。
その後、ロネッツの「Be My Baby」、クリスタルズの「Then He Kissed Me」などの60年代のオールディーズをガンガン流してもらった。
「湯島でロネッツを聴きながら水タバコをプカプカ」。なんともまあ夢のような時間だった。“下町ロネッツ”である。
ついでに言うと、別な日の会社帰りにふらっと入った湯島の焼鳥屋のオネエサンが間違いなく私にホレている眼をしていたから近いうちに再訪しようと思っている。
そんなアホな日常である。
2016年2月1日月曜日
普段使いの洋食 松栄亭 ぱいち
男性が155センチ、女性は143㎝程度。江戸時代の日本人の平均だ。ずいぶんと小柄である。
動物性タンパク質を摂らなかったことが大きな理由らしい。その後、明治維新をきっかけに欧米流の食生活に移行したことで日本人の体格は見違えて良くなったわけだ。
すなわち、今のニッポン人を作ったのは「洋食」ということになる。アッパレ洋食である。
「洋食」はそのネーミングから誤解されがちだが、レッキとした日本料理の一つのジャンルだ。
フランス料理、ロシア料理、イタリア料理等々、西洋料理が各国の国名を冠しているのに対して「洋食」は「西洋料理をルーツとした日本で生まれた料理」として別個の存在だ。
コメを使った料理はほとんどが日本生まれだとか。チキンライス、オムライス、ハヤシライス、カレーライス、ドライカレー、ドリア。すべて日本料理だ。
他にも芋のコロッケ、カキフライ、エビフライなんかも日本発祥だと聞いたことがある。
シチューなど元々西洋から伝わった料理にしてもパンではなくコメと合わせて美味しく食べられるように試行錯誤が繰り返されてきた。
ウンチクはこの辺にして、最近食べた洋食の話を書く。
先日、ここに書いた銀座の「みかわや」とは違い今日書くのは普通の値段の店だ。
高い店と高くない店の違いは、「ゆったり酒を飲める雰囲気かどうか」に尽きるのではと個人的に思っている。
1軒目は淡路町にある「松栄亭」である。そこらへんの定食屋ほど安くはないが、歴史のある洋食屋としては安い部類に入る。
冒頭の画像はこの店のチキンライスだ。良い意味で「偉大なる普通」と呼びたくなる。コメの硬さ、味の強さともに極めて的確。鶏肉は小ぶりなのがチラホラ。これも値段相応のバランスだろうか。
目ん玉ひんむいて「ウ、ウ、ウマい!!」と叫ぶような味ではない。でも、ジンワリとしみじみ美味しい。
ランチはもちろん、夜にビールやワインのツマミとしてもいける。酔っ払った後にシメで出てきてもウマそうだ。朝飯でもOKだろう。
この店の名物が「洋風かき揚げ」。なんでも夏目漱石が好んだとも言われる不思議な一品だ。
好き嫌いが分かれそうな料理である。昭和の頃に少年時代を過ごした醬油よりソース派の人だったら大いに気にいると思う。
いま思えば昔はよくわからない揚げ物をしょっちゅう食べていた気がする。ソースと揚げ物の油分が融合するアノ独特なウマ味が印象的だった。
前の晩の天ぷらを次の日になってレンジでチンしてソースをかけて食べたりした。B級、C級などというジャンルとも違うヘンテコなウマさだった。
この店の洋風かき揚げもソースを味わうための料理だと感じた。割ってみると卵を使ったツナギとタマネギと時々肉っぽい塊が適度に混ざり合っている。
何にも似ていない。洋風かき揚げというネーミング以外に呼びようがないシロモノだろう。これはこれで悪くない。
話は変わる。
こちらは浅草にある「ぱいち」のタンシチューだ。「下町の洋食屋」の風情が心地良い気軽な店だ。ウリはシチューである。
囲炉裏の場で吊されそうな鍋で出てくるあたりが「洋食イコール日本料理」を実感させてくれる。画像だとマズそうだが実際にはグツグツ状態でやってくるから目でも楽しめる。
良い意味で味が濃い。これぞ東京の正しい味だと思う。もちろん、ただしょっぱいわけではない。バランス良く濃い。旨味が濃い。
肉もドッサリ入っているが、ニンジンや芋もしっかり入っているのが個人的にはちょっとイヤだ。でもシチューソースは圧倒的にウマい。ご飯にぶちかけて食べたくなる。
こちらはカニクリームコロッケ。こちらも味が濃い。濃厚と言うより強くて濃い感じだ。ウスターソースをちょろっとまぶして口に放り込む。途端に幸せがやってくる。ビールにやたらと合う味だった。
今日書いた2軒は普段使いできそうな価格が嬉しいが、強いて言えば酒のラインナップが乏しい。
酒なんかダラダラ飲まずに江戸っ子だったら長ッ尻しないでとっとと食えという趣旨なのだろうか。それがちょっと残念である。
でも、レストランによっては「ウチは飲み屋じゃねえよ。そんなに飲みたきゃヨソに行っとくれ」という想いがあることも珍しくない。
まあ、いっさいアルコールが置いてないわけではないので大きな問題ではない。
さて、まとめに入ろう。
いにしえの日本人の体格発達に貢献したのが洋食である。いまさら身長が伸びるはずもない180センチ近い私が食べまくるとどうなるか。体重がグングンと発達してしまう。
由々しき問題だ。
でも、まだまだ行ってみたい店がアチコチにあるから困ってしまう。
動物性タンパク質を摂らなかったことが大きな理由らしい。その後、明治維新をきっかけに欧米流の食生活に移行したことで日本人の体格は見違えて良くなったわけだ。
すなわち、今のニッポン人を作ったのは「洋食」ということになる。アッパレ洋食である。
「洋食」はそのネーミングから誤解されがちだが、レッキとした日本料理の一つのジャンルだ。
フランス料理、ロシア料理、イタリア料理等々、西洋料理が各国の国名を冠しているのに対して「洋食」は「西洋料理をルーツとした日本で生まれた料理」として別個の存在だ。
コメを使った料理はほとんどが日本生まれだとか。チキンライス、オムライス、ハヤシライス、カレーライス、ドライカレー、ドリア。すべて日本料理だ。
他にも芋のコロッケ、カキフライ、エビフライなんかも日本発祥だと聞いたことがある。
シチューなど元々西洋から伝わった料理にしてもパンではなくコメと合わせて美味しく食べられるように試行錯誤が繰り返されてきた。
ウンチクはこの辺にして、最近食べた洋食の話を書く。
先日、ここに書いた銀座の「みかわや」とは違い今日書くのは普通の値段の店だ。
高い店と高くない店の違いは、「ゆったり酒を飲める雰囲気かどうか」に尽きるのではと個人的に思っている。
1軒目は淡路町にある「松栄亭」である。そこらへんの定食屋ほど安くはないが、歴史のある洋食屋としては安い部類に入る。
冒頭の画像はこの店のチキンライスだ。良い意味で「偉大なる普通」と呼びたくなる。コメの硬さ、味の強さともに極めて的確。鶏肉は小ぶりなのがチラホラ。これも値段相応のバランスだろうか。
目ん玉ひんむいて「ウ、ウ、ウマい!!」と叫ぶような味ではない。でも、ジンワリとしみじみ美味しい。
ランチはもちろん、夜にビールやワインのツマミとしてもいける。酔っ払った後にシメで出てきてもウマそうだ。朝飯でもOKだろう。
この店の名物が「洋風かき揚げ」。なんでも夏目漱石が好んだとも言われる不思議な一品だ。
好き嫌いが分かれそうな料理である。昭和の頃に少年時代を過ごした醬油よりソース派の人だったら大いに気にいると思う。
いま思えば昔はよくわからない揚げ物をしょっちゅう食べていた気がする。ソースと揚げ物の油分が融合するアノ独特なウマ味が印象的だった。
前の晩の天ぷらを次の日になってレンジでチンしてソースをかけて食べたりした。B級、C級などというジャンルとも違うヘンテコなウマさだった。
この店の洋風かき揚げもソースを味わうための料理だと感じた。割ってみると卵を使ったツナギとタマネギと時々肉っぽい塊が適度に混ざり合っている。
何にも似ていない。洋風かき揚げというネーミング以外に呼びようがないシロモノだろう。これはこれで悪くない。
話は変わる。
こちらは浅草にある「ぱいち」のタンシチューだ。「下町の洋食屋」の風情が心地良い気軽な店だ。ウリはシチューである。
囲炉裏の場で吊されそうな鍋で出てくるあたりが「洋食イコール日本料理」を実感させてくれる。画像だとマズそうだが実際にはグツグツ状態でやってくるから目でも楽しめる。
良い意味で味が濃い。これぞ東京の正しい味だと思う。もちろん、ただしょっぱいわけではない。バランス良く濃い。旨味が濃い。
肉もドッサリ入っているが、ニンジンや芋もしっかり入っているのが個人的にはちょっとイヤだ。でもシチューソースは圧倒的にウマい。ご飯にぶちかけて食べたくなる。
こちらはカニクリームコロッケ。こちらも味が濃い。濃厚と言うより強くて濃い感じだ。ウスターソースをちょろっとまぶして口に放り込む。途端に幸せがやってくる。ビールにやたらと合う味だった。
今日書いた2軒は普段使いできそうな価格が嬉しいが、強いて言えば酒のラインナップが乏しい。
酒なんかダラダラ飲まずに江戸っ子だったら長ッ尻しないでとっとと食えという趣旨なのだろうか。それがちょっと残念である。
でも、レストランによっては「ウチは飲み屋じゃねえよ。そんなに飲みたきゃヨソに行っとくれ」という想いがあることも珍しくない。
まあ、いっさいアルコールが置いてないわけではないので大きな問題ではない。
さて、まとめに入ろう。
いにしえの日本人の体格発達に貢献したのが洋食である。いまさら身長が伸びるはずもない180センチ近い私が食べまくるとどうなるか。体重がグングンと発達してしまう。
由々しき問題だ。
でも、まだまだ行ってみたい店がアチコチにあるから困ってしまう。