2015年12月30日水曜日

年の終わり


日記を12月末まで続けられる人はわずか1割だとか。何年も日記を続けていれば、いずれ読み返したときに単純に面白いし、何かと参考になる。でもメンドーなのも確かである。

私自身、過去に何度も日記に挑戦して、その都度挫折してきた。

年が明ければ、このブログも9年目になる。途中で何度かやめようかとも思ったが、一種の日記みたいな効果があって何となく続いている。

数年前の同じ時期に何をしていたのか、どんなことを感じていたのか。その話を書いた頃の自分自身の背景も思い出すからなかなか面白い。

ちっとも進歩していないことに唖然とすることも多いが、それはそれである。若者じゃないからさすがにグングン成長するはずもない。

ということで、今日が今年最後の更新です。

例年のように年末になると、来年はこうしよう、ああしようといった話を書いているが大体なにも変わらず月日だけが過ぎていく。

何年か前に「偏屈は良くないから笑って過ごそう」と決意を書いたが、今年の私は偏屈に加速がかかった1年だったように思う。

50歳の大台を越え、泰然自若に過ごしたいものだが、どうも偏屈ジジイへの階段を順調にステップアップしている。ちょっと問題である。

変な話、最近は出前の注文を幾度となくキャンセルしている。インターネットの出前専用サイトでは、出前してくれるさまざまな店を配達時間の早い順に選ぶことが出来る。

待ち時間は短いほうが嬉しいから、その基準を元に店を選ぶのだが、真面目な店とインチキな店の差が激しいのが困りものである。

待ち時間30分という店を選んでも、ヘタすると1時間ぐらい平気で待たされることがある。真面目な店は予定時間を遅れそうになると電話してくる。インチキな店はうんともすんとも言ってこない。

すべての店が不真面目なら私も我慢するのだろうが、真面目な店が結構あるからインチキな店に無性に腹が立つ。

で、長々と待たされると「インチキするな!」と怒りの電話をかける。当然キャンセルを伝える。「もう出ました」と言われてもダメだ。

我慢が足りないと言われればそうなのだろうが、最低限のルールは守ってもらいたい。

そういう事態に陥ると死ぬほど空腹である。でも空腹に負けてインチキを許すのは武士として許しがたい(武士じゃないけど)。そんな横暴を許したらその店は今後もインチキを続ける。

反省を促すため、その後の被害者をなくすため、などと勝手に力みながら空腹に耐えかねて仕方なくカップ麺をすすったりする。

短気は損気である。

自分で言うのもなんだが、私は結構温厚なほうだ。いちいちカッカしないし、瞬間湯沸かし器的にキレたりもしない。

でも、自分でもあんまりよく分かっていない自分なりの「基準」があって、それに触れると途端に寛容な心が消え去る。インチキっぽいことや最低限のルールが守られないことが大の苦手だ。

タクシーを拾った際、わりと単純な道のりを知らないことを悪びれずに済まそうとする運転手にあたると迷わず降りる。

プロならプロの対応をしてほしい。じゃないと真っ当なプロが可哀想だ。単純な道のりなのに、細かくこちら側が指図しないとならないなら、プロと同じ料金を払うのは理屈に合わない。

高校野球のお粗末なエラーには同情するが、プロ野球のチンケなエラーには腹が立つ。プロならプロらしくしてほしい。珍プレーなどと笑っている場合ではない。張本さんのようにみんなで喝!を連発しないといけないと思う。

席が空いているのになかなか案内しないファミレスの店員とか異常なまでにマニュアル的な応対しか出来ない若者とか、いい歳して「考えることを放棄したようなヤツ」には腹が立つ。

先日もつまらないことで腹を立ててしまった。コンビニでの勘定の際に、店長がレジの処理の仕方を新人に教えている。新人に自ら作業させようと店長は横に立ったまま手を出さない。新人はチョンボするからやたら時間がかかる。待たされている私のことはお構いなし。

私じゃなくても怒るはずだ。こういうナメた行動には激しくイラつく。「なんでオタクの研修にオレが付き合わされるんだ?」わりと大きな声で言ってしまった。

気まずいからそのコンビニに行けなくなってしまった。不便でしょうがない。でも、それもこれも社会のため?である。

実にチンケなことで腹を立てている。書いていて少し残念な気持ちになる。小さい小さい。もっとデンと構えないといけない。

イベントっぽいものが好きではないので、偏屈だからハロウィンのバカ騒ぎを鼻で笑い、クリスマスのイルミネーションも「ケッ!」とやり過ごした。

年が明けたら早々にやってくる「恵方巻き騒ぎ」にも今からイライラしている。あんなものは関西のお座敷遊びから派生した下品な座興である。

2月のバレンタインデーも鬱陶しい。世の中がチョコレート一色になるバカげた風習は日本独自のヘンテコな習慣である。

義理チョコをもらって喜んでいる世の中のオッサン達にも張本さんから「喝!」を入れて欲しい。

さてさて、偏屈が人様から喜ばれたり、有り難がられることはない。当然である。偏屈なヤツはメンドーである。私自身、偏屈なヤツと付き合いたいとは思わない。

でも、今の世の中「正しい偏屈」が不足しているのも確かだ。一つの流行にいっせいに飛びつく。テレビや雑誌に出てたからといって無条件に信じる。なんだかな~って感じだ。

オレオレ詐欺なんて昔はなかった。あんなものが珍しくない世の中になったこととイマドキの世相は無関係ではないと思う。

なんでもかんでもストレートに受け止めるのは単なる「幼稚さ」である。大人だったら適度に斜に構える心掛けは必要だろう。

偏屈な自分を反省しようと思っていたのに、書いているうちに偏屈推進論みたいになってしまった。

まあいいか。結局、偏屈を直す気などちっとも無いのかもしれない。今後はドンヨリしない程度に偏屈に磨きをかけよう。

楽しく笑顔で偏屈に!

ちょっと難しそうだけどそんな路線を目指すことにする。

来年もよろしくお願いいたします。


★新年は1月6日から更新する予定です。

2015年12月28日月曜日

寿司嫌い 糸賀 鮨源

年末はお寿司屋さんばかりに出没していた。他に行くのはカウンターの和食屋、鰻屋、焼鳥屋など。年々、外食の傾向がドメスティック一辺倒になっている。

私にだって麗しき女性をイタリアンやフレンチの洒落た店にエスコートしていた日々もあった。ずいぶん昔の話ではある。考えてみれば、前の世紀の出来事である。

まあいいや。

お寿司屋さんのカウンターでフニャフニャ過ごすのが好きなくせに最近はあまり食べられなくなった。残念なことだ。

でも、酔っ払った深夜に牛丼の特盛りをあっという間に完食する私である。物理的にまだドカ食いが出来る。お寿司屋さんでチョロチョロしか食べないのが不思議である。

ひょっとすると寿司が嫌いなのかもしれない。

若い頃も寿司屋の帰りにフィレオフィッシュを食べる変なクセがあったし、今もツナサラダの軍艦巻きという邪道丸出しの一品が大好物である。

寿司よりも寿司屋の空間にいることが好きなのだろうか。

冒頭の画像は新橋の「糸賀」というお寿司屋さんに連れていってもらった時の1枚。香箱ガニやら珍味を並べてマイぐい呑みで熱燗をチビチビ。至福の時間だった。

SL広場から程近い場所に構えるこの店は、周辺の猥雑な感じとは一味違って適度に凜とした空気が漂う。とはいえ、気さくな大将のおかげで窮屈な雰囲気は無い。初回でも居心地の良い店だった。


ツマミと握りそれぞれにその日のおすすめが書かれた紙が用意されている。客にとって有難い配慮だ。酒飲みにとっても嬉しい一品が揃っているし、頻繁に通いたくなる店だと思う。

問題があるとしたら混雑ぶりだ。遅めの時間なら空いていると聞いたので、後日、9時半ごろふらっと立ち寄ってみたが、席が空く気配なし。

その後、今度は2日後の予約をしようと電話したものの満席とのこと。良い店の証拠だろうが、気ままにふらっと行っても入れる可能性が低いのが残念。


話は変わる。毎週のように行く高田馬場「鮨源」で摩訶不思議な一品を食べた。以前、隣に座っていたお客さんが注文していたのを見て気になっていたヘンテコシリーズである。

「いくらの裏ごし」である。生イクラのエキスだけで一種の生卵かけご飯にしてしまうシロモノだ。



生イクラは日が経つにつれ皮が固くなってしまう。味自体はバッチリなのにネタとして使いにくくなるから裏ごしして中身だけを抽出したんだとか。

裏ごししたイクラにちょろっと醬油を垂らして寿司飯と混ぜて食べてみた。TKGである。素直に美味しい。でもイクラの食感をまったく感じない変な寂しさがある。ちょっと面白い経験だった。

お寿司が大好きなら回転寿司にだって行きそうなものだが、まったく行く機会はない。一応、小さい子どもを持つ家庭人だった当時は何度も行ったが、子ども抜きで行ったことはない。

やはり寿司が嫌いなのだろうか。

つい先日、銀座にある北海道直送モノがウリのお寿司屋さん「九谷」に出かけた。

同年代オヤジと差しつ差されつの会だったのだが、握りを10貫ほど食べた連れに対して、ツマミ以外に私が食べたのはタラコの握りとウニの手巻きだけだった。

上等な寿司ネタがワンサカ揃っているのに美味しいツマミをあれこれ並べて酒を飲むほうが楽しい。ダメな客であり、無粋な話である。


10月の終わり頃だったか、寿司の人気店だけを毎週紹介しているBSの番組にこの店が取り上げられた。

その番組は、「吉田類」みたいなオジサンが嬉しそうに酒を飲む番組ではなく、店主のオススメの握りを10貫ほど紹介するもの。

いつも気の利いたツマミを出してもらって酔っ払っていた私としては、次に行った時には握りをたくさん食べようと決意?するほどウマそうな寿司が画面一杯に広がっていた。

で、久々に訪ねたのに、私が食べた握りはウニとタラコだけである。実にもったいない話だ。来年あたりは寿司屋における注文の仕方を虚心坦懐に考え直したほうがいいかもしれない。

日頃、私がエラソーに否定している「おまかせ」にして、黙って出されるものを食べるようにすれば握りも10貫以上食べられるはずだ。

そっちのほうがよほど真っ当で粋な客である。

若い頃、お寿司屋さんのカウンターで格好良く過ごせる大人になりたくて、いろんな店で人間観察に励んだ。良い見本、悪い見本それぞれいろいろ見てきた。

カッチョ悪いと思ったのは「分かったような顔でエラそうにウンチクを語るくせに酒ばかり飲んでロクに食べない客」である。

今の私の姿である。ガーン!って感じだ。人様の様子をあれこれ気にする前に、自分をそれなりに律しないとダメみたいだ。

「オレの振りふり見て我が振り直せ」。
来年のスローガンにしようと思う。

2015年12月25日金曜日

越路吹雪の凄さ


今年の紅白のトリはマッチと聖子ちゃんだそうだ。正直言って意味不明である。NHKも目玉が無い紅白を盛り上げようと苦心したようだが、なんだかパっとしない。

紅白を今年限りで「卒業」する森進一に彼のヒット曲をメドレーで歌わせたほうがよっぽど見応えがありそうだ。

まあ、いいや。

今日は昭和の歌について書いてみたい。マッチも聖子ちゃんもそれなりに人気があったが、昭和歌謡というジャンルは彼らより少し前の世代までが一般的だと思う。

沢田研二やピンクレディーぐらいまでじゃなかろうか。昭和30年代半ばぐらいの石原裕次郎や美空ひばりあたりから五木ひろし、都はるみといった演歌勢、布施明、尾崎紀世彦、ちあきなおみなどの歌唱力系、西城秀樹、山口百恵などのアイドル元祖系が第一線で活躍した時代が昭和歌謡の中心的な時代だろう。

ヒット曲といえば、子どもから年寄りまでみんなが知っていた。今の時代は100万枚のセールスといっても全世代が共通して知っている歌は存在しない。

今の時代にも名曲はいくらでもあるのだろうが、全世代みんなが口ずさめたという点では昭和歌謡のインパクトは独特だ。

昭和歌謡の大スターは裕次郎、ひばりを筆頭にいろいろな人の名前が挙がるが、少し特異なポジションにあるのが「越路吹雪」である。


昭和歌謡というジャンルを超越した傑物である。シャンソンの女王と呼ばれていたが、そんな括り方では済まないエンターテイナーだ。ジャズもこなすし、言ってみればジャンル自体が『越路吹雪』である。

「愛の賛歌」「サントワマミー」「ろくでなし」などの代表曲は元々フランスの曲だが、“翻訳したカバー曲”というイメージではない。越路吹雪自身のオリジナル曲かと思えるほど独自の世界を作り上げている。

たとえば、この曲の表現力の凄さには圧倒される。大袈裟に言えば、誰にも似ていない、誰にも真似できない、まさに孤高の存在だと思う。


https://www.youtube.com/watch?v=2cPKNwaHuUU

私がまだ幼い頃、母親がしょっちゅう聴いていたのが越路吹雪だった。子供心には「ド派手で恐そうなオバサン」という印象しかなかったが、大人になるに連れその凄さを痛感するようになった。

昭和40年代、高度成長期で少し余裕の出てきた日本人に「オシャレな欧州の気分」を体現して見せた人だったのだろう。

不世出の傑物のわりには裕次郎やひばりに比べて後世の扱われ方は少し地味に過ぎる。きっと彼女の放つ空気が独特だったせいだ。

すべての大衆を引きつけるオーラというより、良い意味でのスノッブな雰囲気が漂っていたから、熱狂する人とそうでない人の温度差が大きかったのかもしれない。

ウィキペディアの受け売りだが、過去に何度も出場していたNHK紅白への復帰要請に対して「ジーンズ姿の歌手と並んで出るのはイヤ」という理由で断り続けたという。

あの時代の大スターの矜持みたいなエピソードだと思う。悪くない話だ。

当時、スターといえば親近感をウリにするのではなく、文字通り星のように手が届かない存在だった。だからこそ今と違ってスターという言葉が一般的だったわけだ。

次に貼り付けたのは「愛の賛歌」である。まさに圧倒的だ。こんな表現力豊かな歌い手は人間国宝級だろう。

https://www.youtube.com/watch?v=qaUIQ3t7mPo

私自身、この歌が大好きである。カラオケ宴会の際にはウケ狙い?でよく選曲して身振り手振りを交えて熱唱する。

「愛の賛歌」は、今をときめく?シンガーソングライターの斉藤和義がライブなどでカバーして熱唱することでも知られる。

50歳近辺の彼の年齢からすると私と同じように子ども時代に「ド派手で恐そうなオバサン」のこの歌に圧倒されたのだろう。

そういえば、今は亡き忌野清志郎も「サントワマミー」をロック風にアレンジしていた。激しいロックバージョンになっているのに、気のせいか越路吹雪のパワーには及ばなかったように感じる。

カバーされればされるほど、本家の凄さが際立つ。そういう意味では、越路吹雪の名曲が現代のミュージシャンによってどんどんカバーされて欲しい。

コンサートやライブではなく、あくまでリサイタルという言葉が似合った傑物・越路吹雪。彼女の熱唱を手軽に見られるYouTubeの存在がつくづく有難い。

平和な年の瀬である。

2015年12月21日月曜日

おやすみ




だらしないことに体調を崩して寝込んでしまい、1回分は書き置いてあったつもりの原稿も存在しなかったため、申し訳ありませんが今日は更新をサボります!すいません。。。。





2015年12月18日金曜日

ぐり茶 ポタージュ揚げ餅、Amazon


日常生活に不可欠なインターネットが普及したのは、わずか20年前のことだとか。結構ビックリである。

20年前、私はすでに大人だったが、インターネットに無縁な生活を過ごしていたわけだ。

思い返してみれば、アナログな日々だった。懐古趣味はないが、あの時代はあの時代で何も不便は無かった。今が飛躍的に便利になったかというとよく分からない。

でも、物凄く便利になったのだろう。その渦中にいると気付かないが、20年以上前に比べるとライフスタイルの多くが変わったのは確かだ。


買物の多くがネットで済んでしまう。これは画期的だ。私自身、ネットスーパーを頻繁に利用する。

かさばるモノ、重いモノ、紳士がスーツ姿で持ち歩くのが恥ずかしいモノ?など、ありとあらゆるものが買える。指定した時間帯に玄関先まで持ってきてくれるのだから有難い。

画像のティーバッグは私がしょっちゅうネットで購入する商品だ。ずいぶん前に伊豆方面に旅行した際にお土産屋さんで買って妙に気に入ったものだ。

気に入ったらメーカー名や商品名を控えておけば、まず間違いなくネット上で販売されている。あとは欲しい時に注文すれば済む。

唐津や信楽、常滑あたりの作家モノの急須をいくつも持っているくせに、このティーバッグを知ってしまってから使わなくなってしまった。

「ぐり茶」は苦みがないのが特徴だ。ティーバッグで濃い目にお茶成分を抽出するのにもってこいである。

熱い湯を入れた湯飲みの中で20回ぐらいジャブジャブしてから2~3分適当にフタをして蒸らしてから飲むと抜群である。ティーバッグでいれたお茶だとは思えないレベルだ。

お茶が飲みたい、でも急須にお茶っ葉を入れると後々メンドーだ。かといってティーバッグのお茶はまずくてイヤだというモノグサな人にはオススメである。

デパ地下でエラそうに売られている高級ティーバッグもいくつも試してみたが、それらより遙かに安くて味わいも豊かだ。


お次はお菓子である。滅多に菓子など買わない私が最近アホみたいにハマっているのがコーンポタージュ味の揚げ餅である。

いつだったか、お土産でいただいたのがきっかけ。こういうモノは普段食べないので放置していたのだが、家に遊びに来た娘に食べさせたついでに一口頬張ってみたら目ン玉が飛び出るほどウマくてビックリした。

http://www.zuika.jp/shop/item_detail?category_id=398193&item_id=1794254

ありがちなポタージュ風味のスナック菓子は化学調味料っぽい?後味が残念だが、この揚げ餅はポタージュ風味があざとくない。実に自然だ。揚げ餅自体も軽やかで油っぽい感じもない。優しい味わいである。

銀座・並木通りに直営店があるのを見つけ何度も買いに行った。もちろん、ネットでも買える。ちなみにネット通販のページを見ていたら、これが季節限定商品だという重要な秘密を知ってしまった。

12月までの販売だとか。大変である。大いに慌てている。賞味期限は1~2か月程度だから、どんなに買い占めても春の声を聞く頃にはオサラバである。

この手の煎餅って冷凍したら数ヶ月は風味が維持されたりしないものだろうか。今の私にとって今世紀最大の難問である。


葉巻もネットで購入することが多い。種類にもよるがキューバ産の葉巻が日本の半額ぐらいで買えることも珍しくない。

葉巻通販業者の中には、通関の際に必要な税金をごまかすためにアレコレ工夫してくる業者もいる。

私は真面目な納税者なので、そういう業者を選んでいるわけではない。たまたま結果的に私の意に反して!税関をスルーしちゃうことが過去にはあった。

税関で引っかかる、いや、税関でキチンと処理される場合、注文から到着までの日数は1週間はかかる。真っ当な通販業者は湿度管理に配慮した梱包をしてくれるので1週間以上かかっても葉巻の状態は悪くない。

海外の適当な国際空港で売られている乾燥しちゃった葉巻よりもよっぽど間違いがない。


さて、ネットで買物と言えば、Amazonである。私もなんちゃら会員に登録しているから、ものによっては注文した当日に普通に届く。もう慣れっこになったが、考えてみれば凄い話だと思う。

最近、買ったのはコーヒーメーカー用の専用カートリッジやギターの弦、特殊な形状の電池、盛り塩用のそれっぽい塩、職場で使うひざかけ、それ以外には仏像入門から小説まで脈略のない本があれこれ。そんな感じである。

本屋さんでぶらぶらしながら好みの本を見つける楽しみは捨てがたい。でも、ネット上では特定の本を選んだ場合にそれと関連するオススメ本を表示してくるから、あの機能を使えば結構「ぶらぶら感」も楽しめる。

最近は小説を読むにしてもすっかり短編ばかりになった。本屋でズラッと並んだ棚から一目で短編集かどうかを探すのは無理だが、ネット上では「短編」とキーワードを入れれば簡単に絞り込める。


気になる作家の本を探そうにも本屋だと出版社別に陳列棚が別れているが、ネット上ではそういう問題もない。実店舗での小売りの世界はジャンルを問わず今後が本当に大変だと思う。

ついでにいえば、ネット上では過去の購入履歴から私に関する「傾向と対策」が勝手に研究されて、何となく私が興味を持ちそうな商品を表示してくる。だからついつい衝動買いもしてしまう。

インターネットとクレジットカードがこの世に無ければ、私の預貯金残高が今のようにスカスカになることはなかったはずだ。

便利になるってお金が無くなることと同じ意味なのだろうか。

2015年12月16日水曜日

疲れてるとき~


「悲しいとき~」って叫びながらネタを披露するお笑いコンビがいた。どこにいっちゃったんだろう。

あの口調を真似ながら、最近私が頭の中で叫んでいるのが「疲れてるとき~」である。疲れるようなことをしているつもりはないのだが、年齢のせいもあってバテやすい。

正確に言うと、疲れがとれにくい。身体の調子が悪いわけではない。血液検査の結果は、シングル生活になって以降ずっと良い状態だ。中年男特有?のウツウツした気分もない。

でも、疲れがとれない。おそらく、適度な運動だの体重を落とすだの、誰でも思いつく事に励めば改善するはずだ。とはいえ「アマノジャッキー」としては、そんな当たり前の努力に励むのはシャクだ。



季節のせいもあるが、疲れを実感すると食べたくなるのがカキである。疲労回復に効果のある食材の代表格だ。

肝機能も改善してくれるし、アッチのパワーまで強化してくれる凄いヤツである。もっと日常的に食べないといけない。

タルタルソースをヤケクソみたいに載せたカキフライは水道橋にある「菩提樹」というトンカツ中心の洋食屋で食べた。

この店、やたらとゆったりした造りで、基本はトンカツ屋さんなのに気の効いたツマミが揃っている。おまけに各種の揚げ物が1切れから注文できる。「揚げ物で酒」という際にはバッチリの店だ。

トンカツのウマい店はアチコチにあるが、トンカツとエビフライぐらいしかメニューにないのが普通である。そういう店はノンビリ飲める雰囲気でもない。

こちらの店はビックリするほどウマいわけではないが、トンカツ方面?を酒のツマミで楽しむ店としての総合力は素晴らしい。そういう観点では都内屈指の店だと思う。


ちなみにここのハンバーグの美味しさは知る人ぞ知るレベルだ。ちょっとビックリする。

話がそれた。カキの話だった。2番目の画像は高田馬場・鮨源でひんぱんに注文する吸い物仕立てのカキだ。

この店では常に産地の異なる数種類の上等なカキが用意されている。生で食べるお客さんが多いが、私の場合、いつも疲れている?ので、念のため加熱調理してもらう。

焼きにも揚げにも応じてくれるのだが、出し汁に浮かぶ「カキのお吸い物」が私にとっての癒やしメニューである。

ちなみにカキでアッチのパワーが増大した覚えはないが、効果を実感する人などホントにいるのだろうか。謎である。

個人的にトロロを食べようが、ウナギを食べようが、馬肉を食べようが、ちっともソッチの変化を感じたことは無い。眠れる森の美女みたいなものである。。。

話が逸れた。

さて、元気の源になる成分のなかでも大事なのが鉄分である。不足するとフラフラするらしい。


で、レバカツである。これもたまに無性に食べたくなる。思えば、レバカツを求めている日も「疲れてるとき~」と頭の中で叫んでいる。

豚レバはとくに鉄分が豊富らしい。ほうれん草の6倍、牛レバの3倍だとか。優秀である。この画像は巣鴨の名門?大衆酒場「千成」でのひとコマ。この店は「イカメンチ」が絶品なのだが、バテているときはレバカツだ。

レバカツといえば、モツ焼き屋を始めとする大衆酒場以外ではまず見かけない。だからこの画像でも下町の大衆酒場御用達の「バイスサワー」が写っている。

大衆酒場におけるチャンピオン級のメニューがレバカツだ。ハムカツも仲間みたいなものだが、アイツのほうがどこか爽やかである。レバカツには無頼な気配が漂う。

レバカツ。こればかりは銀座あたりの小粋な料理屋で出されたら興醒めだ。入りにくそうな無頼な大衆酒場で出てくるべき食べ物だ。

なんか変な思い込みでスイマセン。

なんだかんだ言って、疲れているならとっとと家に帰っておとなしくすればいい。元も子もない話だが、それが正解である。

もちろん、たまにはそういう日もある。でも、夕飯の問題やアルコールの問題を考えると、独り者はついついフラフラしてしまう。ビミョーである。

「家庭料理っぽいものを食べたい」。疲れを感じると、一応そんな殊勝な気分にもなる。寒い季節などは尚更そんな気持ちになる。

家庭人?だった時は家庭料理なんて興味がなかった。そんなもんである。でも、考えてみれば、寅さんにおばちゃんが作るような古典的な家庭料理って実際にはウマいわけではない。「ホッとする味」という特殊なジャンルの食べ物だろう。

私自身、母親の手料理で懐かしく思い出すのは、煮っ転がしやお浸しなどなどではない。ドリアとかハンバーグとかタラコスパゲッティーとか、ジャンク系?のものだ。

結局、「家庭料理っぽい」って一口に言ってもよく分からない。定義付けは難しいかもしれない。


この画像は銀座の日本料理屋店「三亀」。仰々しくない雰囲気でキッチリした料理が楽しめる。海老しんじょう、タケノコの煮物、ブリかまである。カウンターでやたらとくつろぎながら過ごした時のラインナップだ。

どことなく「家庭料理っぽい」と言えばそれっぽい。なんだかホッコリする。とはいえ、家庭料理ならこんなに真剣にダシをとらないし繊細な味付けにもならないだろう。

「家庭料理っぽい」ものを求めて来たわりには、結局普通の家庭では食べられないプロの味にウホウホ言って過ごす。

その他にもウマい一品をつまみつつグビグビ。調子に乗ってすっかり肝臓までフル稼働。

オマケに銀座である。とっとと家に帰るどころか、気付けば綺麗どころにお世辞言われて鼻の下を伸ばして午前様である。

やはり、まっすぐ家に帰って写経したり、哲学書を読んだり、はたまた盆栽なんかにチャレンジするようなドッシリとした時間を過ごさないといけない。

それも疲れそうでイヤだ。

2015年12月14日月曜日

「浮き様」になりたい


12月になると街中がキラキラとネオンの光で溢れる。今年もあの季節がやってきた。

忠臣蔵の季節である。12月14日は赤穂浪士が討ち入りを果たした日だ。

300年以上も前の歴史的事件が大元である。大石内蔵助をはじめとする赤穂藩の元藩士47人が主君の敵討ちのためにハッスルする話である。

毎年のように作られる映画やドラマで出てくる感動的なエピソードはほぼ100%が作り話らしい。そんなことは百も承知だが、私は忠臣蔵が大好きである。単純明快に楽しい。痛快である。


毎年、世の中がクリスマスで浮かれ始めると条件反射のように忠臣蔵が恋しくなる。今年はBSで再放送していた10年前のドラマスペシャルが印象的だった。

大石内蔵助は松平健、吉良上野介は伊東四朗が演じ、浅野内匠頭は沢村一樹が大真面目に演じていた。下級藩士役でやたらと初々しい要潤が頑張っていた。


さて、忠臣蔵には勧善懲悪モノの要素が完ぺきに網羅されている。「堪え忍んで悪役に仕返しをする」というストーリーは、仮面ライダーやガッチャマンにも通じるヒーローものの王道だ。

実際には、討ち入りを果たしたのは、死んだ主君とは面識すら無い下級武士が中心で、再就職に向けたパフォーマンスだったという見方もある。

それ以前に「主君の仇討ち」という美談自体が単なる「言い訳」でしかないという見方もある。

現に討ち入りのリーダー・大石は断絶させられた浅野家を再興するために奔走していた。それが叶わなかったから討ち入りに方針転換。すなわち、お家再興が許されていたら討ち入りはしなかったということ。

吉良が憎いとか、亡き殿のためとかではなく、職場を失うハメになった処分への抗議として過激な行動に走ったという話だ。

あくまで幕府に抗議したかったものの、勝ち目もないし、お上にタテつくことが許されなかった時代である。サムライ政権である幕府が奨励していた「忠誠心」を逆手にとったわけだ。政府に対する強烈な皮肉である。

寝込みを襲われた吉良ジイサンは堪ったものではない。名君だったという説もあるが、後世の映画やドラマでは悪役の代表格になってしまった。スーパーヒールである。

「デスノート」に出てくる「キラ」というキャラクターも恐らく吉良上野介からネーミングされたのだろう。違っていたらゴメンナサイ。

まあ、忠臣蔵の何たるかを語ればキリがない。エピソードの大半が作り話だろうと個人的には構わない。映画やドラマでは、あくまで痛快なヒーローものとして描いてもらいたい。

浅野の殿様はシュッとした若い二枚目俳優、奥さん役はこれまた美人女優じゃなきゃダメだ。当然、大石役はドッシリと構えた味のある中年の演技派、吉良役は悪人顔の老獪なベテランで決まりである。このルール?は絶対守らないと成り立たない。

忠臣蔵の定番シーンはいくつもあるが、大石が遊郭で遊び呆けるシーンもそのひとつ。討ち入りなど考えてもいないというフリをするため、夜な夜な遊んでいる設定だ。

たいてい、目隠しをされて鬼ごっこみたいなことをしている。遊女達に「浮きさま~」と呼ばれてデレデレしている。浮かれた浮きさまである。

私は昔からあのシーンが好きである。「バカなフリをしながら実は用意周到に計画を練っている」というのが格好良い。

大石役の俳優の見せ場でもある。遊郭で遊びながら時折チラっと見せる真剣な眼差し、あるいは遊郭の帰り道に悪い衆に囲まれてもチョチョっと退治しちゃう感じがステキだ。

男なら憧れてしまう。何か壮大なはかりごとを考えているのに、それをオクビにも出さずに夜の街でイキに過ごす。なんかカッチョいい。

綺麗どころに囲まれてデレっとしているくせに、時折、力強い目で遠くを見つめる。帰り道に暴漢に襲われそうになっても、アッという間に蹴散らしちゃう。

よし、私もこれからはその路線を目指してみることにしよう。

まずは「壮大なはかりごと」を作ることから始めなきゃならない。でも、仇討ちをしなきゃならない「亡き殿」もいないし、職場も失ってないからモチベーションの点で難しい。困ったものだ。

仕方がないから、まずは「浮きさま~」と呼ばれることから始めよう。それなら難しくなさそうだ。

これからの季節はネオン街に出没する機会は増えるから、知り合いには「浮きさま」と呼んでもらうことにする。

「サンタさん」とか呼ばれて散財させられるよりはマシだと思う。

2015年12月11日金曜日

冷凍食品に唖然とする


最近の幼稚園は、子どもに持たせるお弁当に冷凍食品を入れたら怒るらしい。食育がどうしたこうしたという趣旨なんだとか。

御苦労なことである。

まあ、わが家(かつて)でも子どもの弁当に冷凍食品を使ったことなど無かった。でも、共働きの家庭などでは、たまには手抜きのおかずを入れることもあるだろう。

全面禁止みたいな極端な話はヒステリックでバカみたいだ。いや、バカだ。

手抜きを問題視するなら無洗米を使ったり、弁当箱を食洗機で洗うのもダメという話になる。アホらしい。冷凍食品を闇雲に敵視?するのはちょっとピントがずれていると思う。

などと、冷食擁護派みたいな論陣を張ってみたが、実は最近、私の中で冷凍食品ブームが到来している。

一人暮らしをしているから仕方なく冷凍食品でシノいでいるわけではない。「今日は冷凍食品でいいや」ではなく「今日は冷凍食品じゃなきゃイヤだ」と思うぐらいウマい商品が珍しくない。


「冷凍食品イコールだめな食べ物」。確かにそんなイメージは私達の世代にはしっかり染みついている。いや、結構幅広い年代に染みついている。

非常食の乾パンみたいな位置付けで捉えている人もいる。私もそうである。基本的に認めていなかったし、20代の頃に一人暮らししていた時でも冷凍食品に手を出すのは人として正しくないなどと思い込んでいた。

浅はかだったと思う。

そりゃあ、毎日毎日、冷凍食品ばかり食べていたらヘンテコだが、そういう話ではない。

コンビニ弁当と冷凍食品。いずれもそれを食べたことを大っぴらに言いたくないというか、誰かに話すにしても妙に卑下しながら語るような「日陰者」みたいな存在である。

コンビニ弁当は確かにビミョーな点がある。ソース焼きそばの場合、紅ショウガまで一緒に電子レンジでチンされて、フタを開けたときにそれが不快な臭いになったりする。

だいたい、伸びちゃうから作り置きの麺類が美味しいはずがない。頑張って進化しているが、どうしても「冷めちゃった料理」だ。それでも10年、20年前よりははるかに美味しくなったことは認める。

しかし、コンビニ弁当がどう頑張ろうと冷凍食品の美味しさの進化にはかなわないと思う。あまりの美味しさに時々ビックリする。

ちなみに私がここで声を大にしている冷凍食品は「チャーハン、ピラフ、パスタ」ぐらいで、その他のおかず系のものは知らない。そっちは今後研究していこうと思う。

2~3年前、冷凍食品のパスタ類がメーカー同士で激しい競争を繰り広げどんどん進化していると聞き、いくつか食べてみた。正直ビックリした。

乾麺を茹でて、出来合いのちょっと高級なレトルトパスタソースと和えて食べるよりも、断然冷凍パスタのほうが上だった。

その後、風の噂?で冷凍食品業界におけるチャーハン戦争が凄いことになっていると聞いた。でも何となく食べる機会もなく過ごしていた。

今年のとある日、遅ればせながら「イマドキの冷凍チャーハン」を食べた時の驚きは予想以上だった。

ここ数年、自宅でデリバリーを注文する際、中華料理ならチャーハンも頼んでいたが、数え切れないぐらい食べてきたそれらのチャーハンのどれよりも冷凍チャーハンのほうが圧倒的にウマい。

気付けばさまざまなメーカーの商品を試した。変な話、マズいチャーハンを探すことが難しいぐらいみんな美味しい。

2~300円で2人前である。デリバリーやコンビニ弁当系のチャーハンと比べると破格に安いのにウマい。日陰者にしておくにはもったい存在だと思う。

核家族化が進み、共働きが進み、おひとりさまも増加した現代社会がもたらした副作用というか効能というか、起きるべくして起きた現象だと思う。

思えば、私が子どもの頃はレトルトカレーだってボンカレーぐらいしか無かった。今では帝国ホテルを筆頭に高級ホテルもレトルトカレーを発売し、高級スーパーには1食1000円を超える値段のレトルトカレーが平然と並んでいる。

カップ麺も然り。昔と違って最近ではご当地ラーメンや高級志向の商品も出ている。冷凍食品も時代の流れとともに「とりあえずの非常食」みたいなイメージから「わざわざ食べるウマいもの」に着実に変わってきたわけだ。

チャーハンだけでなく、先日食べてみたピラフにもウットリした。牛乳の明治が開発した「チキンときのこのピラフ」は、コメの硬さは完ぺきだったし、ミルクとバターの風味がまとわりついてきて実にウマかった。
願わくばチャーハン、ピラフそれぞれ、高級バージョンが出てきて欲しい。現状では低価格路線を維持するためなのか、具材が乏しいのが残念な点である。

レトルトカレーのように価格帯にバリエーションが出てくればもっと凄い商品が出てくることは確実だ。

ちなみに、「チキンときのこのピラフ」にアレコレとトッピングを加えてみたらアホみたいにゴージャスで物凄くウマいピラフが出来た。昔からピラフを愛するピラファーである私が悶絶したぐらい最高だった。

画像を撮り忘れたのが残念である。

スーパーで買ってきた結構上等なぶつ切り鶏肉と冷蔵庫にあったセブンイレブンの「金のソーセージ」も細かくカットして、ついでにマッシュルームを適量加えて適度に味付けして冷凍ピラフと合体させた。

完ぺきだった。

そのまま加熱して食べられるという冷凍食品の良さからは外れてしまったが、家にいながら高級レストラン顔負けのピラフがあっと言う間に出来てしまった。

今日の話を読んでいる読者の皆様の多くが、冷凍食品の話など侘びしい独り者の戯言と感じているかもしれない。

でも、そう思って手を出さないのはちょっともったいない!。熱く語りたくなるぐらい冷凍食品にはワクワク感がある。少し具材を追加したり少しアレンジしたら「冷凍食品ごときで食事を終わらせてしまった」という罪悪感?も解消できる。

冷凍チキンライスに別途ユルユルに作ったオムレツを載せればフワフワオムライスが出来るし、ビーフピラフだったら別途ステーキや焼肉をドカンとトッピングすれば一気にゴージャスな一品になる。

極端な話、もし私が料理上手な女性と暮らす日が来るとしても、冷凍食品のチャーハンやピラフは愛し続けると思う。

2015年12月9日水曜日

麻布十番で焼肉 兜


牛肉をしっかり食べる機会が無くなった。ちょっと極端かもしれない。

長生きする人はたいてい最晩年までステーキなんかを好物にしているから、私の場合は早死にしちゃうのだろうか。大丈夫だろうか。

まあ、そうは言いながら酔っ払った時の牛丼は相変わらず禁止できないでいる。だからたぶん大丈夫だ。

酔っ払いが深夜に食べるものといえばラーメンが王道だが、私の場合、牛丼屋に足が向くことが多い。それも「特盛り」で注文する。おまけに余裕で完食する。

先日も酩酊状態で歩きながら、牛丼の誘惑に負けないよう松屋、吉野家、すき家などの看板が目に入らないように歩いていた。


ところが、とあるジャンクっぽい店の前に「牛うま煮丼」というメニューを見つけ、なんとなく入店。「並」ではなく「大」を注文しちゃう悪いクセはどうしても直らない。

普段、酒を飲んでいる時にはさほど食べないから、「酩酊牛丼」というクセさえなければ私も「向井理」のようにシュっとした体型になれるのに残念である。

というわけで、私が食べている「牛肉」はハヤリの熟成ステーキみたいな肉ではなく、バラ肉ばかりだ。出がらしになっちゃったような肉だからワシワシ食べられるのかもしれない。

なんか冴えない話である。

某日、久しぶりに焼肉屋に行く機会があった。馬肉とか鶏肉ではない。いわゆるキムチやナムルがある焼肉屋である。

30代の半ばぐらいまでは頻繁に焼肉を食べていた。20代の頃は、おそらく私の身体の3分の2ぐらいは焼肉で形作られていたはずだ。若いうちに一生分の焼肉を食べちゃったようで、その後はすっかり焼肉とは縁遠くなっている。

この日訪ねたのは麻布十番の「兜」という店。真っ当な牛肉を正面から食べることが苦手になってきた私から見てもなかなか良い店だと思った。

麻布十番の商店街から少し逸れた隠れ家感、適度な高級感、普通のテーブル席でもパーテーションをうまく使って個室風に仕切れる造作。麻布十番というオシャンティー?な土地柄を反映した使い勝手の良さそうな焼肉屋さんだ。



肝心の味も素直に美味しかった。厚切り極上牛タンなる、ちょっと仰々しいネーミングの一品もウマかったし、トモシビと称するランプ肉のあたりも正しい赤身肉の旨味が感じられた。

なによりも飲み物と一品料理のメニューが豊富だったことが「酒中心」のオジサマ的には嬉しかった。ワインが好きな人なら選ぶのがメンドーになるほどだ。

野菜無しで肉だけで勝負している牛すじ煮込みなどスープ類が美味しかったので、ジンワリしたい寒い季節にはオススメだ。

しつこい系の肉は、ザブトンと呼ばれる部位を食べたが、オジサマには一切れで充分である。20年前なら15切れ、30年前なら30切れは余裕で食べられたはずだ。

「脂っぽい肉への欲望」は30年で30分の1まで減少したわけである。


結局、ホルモンとかミノを良く焼いて酒のツマミにかじってるのが幸せになっちゃったから少しカッチョ悪い。ワイルドな男とは呼べない。

焼肉屋でヒーロー?みたいなメニューは「極上霜降りなんちゃら」である。値段も他よりもエバっている。富豪を名乗りたい私としては、そういう逸品を注文すべきなのだが、単価の安いミノやホルモンのほうを多めに選んでしまう。

無理してやってきたビンボーな客だと思われそうで残念だが、結果的に財布に優しいからバンザイである。

ちなみに、まっとうな焼肉屋で食べる焼肉は無条件に美味しい。でも、近頃はちょろっとしか食べられないから、いつも食べ終わった後にビミョーな敗北感につながる。

「焼肉をガンガン食べられなくなった自分」。これってチョッピリ悲しい。無類の焼肉好きだったからこそ味わう屈辱感にも似たドンヨリ気分になる。

そんなことでストレスを貯めていたら早く死んじゃうから、なるべく焼肉は食べないようにしよう。

意味不明でスイマセン。。。

2015年12月7日月曜日

パンチラ問題 銀座のクラブ

某日、知り合いに連れて行かれた飲み屋はミニスカ姿の女性しかいない怪しい空間だった。断っておくが、私にとって「怪しい」は「嬉しい」と同義語である場合が多い。

同行者はそんな店でも難しい経済問題を語っていた。野暮である。仕方なく私も難しい顔をしてうなずく。でも頭の中はミニスカである。

ミニスカートの女性が魅力的に見えるのはナゼか。法人税減税の是非を語る同行者のほうを向いているフリして私の視線の先はミニスカである。

「パンチラへの期待」。これこそがミニスカが気になる男の心理だ。脚線美をどうこう言っても男の本音はそこではない。その先である。すなわちパンチラへの憧憬である。

分かりやすい例をあげてみよう。

「菜々緒みたいなスタイルの女性の短パン姿」VS「ちょっとブサイクでスタイルもイマイチの人の怪しげなミニスカ姿」。

9割の男が凝視したくなるのは後者である。短パンではパンチラは発生しない。エスプレッソもカプチーノもコーヒーであるのと同じで、ミニスカとパンチラも同じ穴のムジナである。

よく分からない話になってしまった・・・。

その店で私の前に座った女性から残念な話を聞いた。そこで働く女性は皆さん「見せパン」を着用しているという。

椅子の高さ、目線の位置のせいで前に座る女性の「禁断の三角地帯」が見えやすい。パンチラ天国みたいな世界だったのだが、女性陣もそれを見越して「見られてもいいパンツ」を着用しているわけだ。

「見られてもいいパンツ」って一体何なんだろう。許しがたい!男にとって敵である。見られたくないものを見ちゃった時に喜びを感じるパンチラの絶対的な公式から逸脱している。

「見せパン」の話を聞いてしまったせいで、その店での私の喜びは一気に消滅した。前に座る女性の三角地帯をちらちら見るのが楽しかったのに、二度と見る気が無くなってしまった。

強がりではない。そういうものである。

海で女性の水着を見てもいちいちムホホ~!とはならない。それと同じある。見られても困らない、見られても恥ずかしくないのなら、こっちも「別に」って感じである。


結局、男がパンチラに惹かれるのは、相手の「恥ずかしさ」や「困惑」を見ることに萌えるからなんだろう。

だから、偶然や不意打ち、突発的というアクシデントとしての要素こそが大事になる。いわば「一瞬の輝き」である。

その昔、ランジェリーパブというヘンテコな商売が流行った。魔都・池袋に会社がある関係で何度か出かけた。女性社員にまで連れて行けとせがまれた。

ランジェリーパブはその後、どんどん過激になり、今ではピンサロみたいな方向に変化していった。

ナゼか。

面白くなかったからである。

当時のランジェリーパブは、文字通り下着姿の女性が普通に酒の相手だけをする店で、いわばキャバクラの女性の衣装がキラキラした下着に替わっただけだ。だから女性客だって来ていた。

店に入ってから3分、いや5分は感動する。目に入るのは大勢の下着姿の女性達である。さすがにウホウホ気分になる。

でも、5分もすると目が慣れてしまう。あくびも出てくる。女性にとって下着姿は単なる衣装であり、男性に見られても困らないし恥ずかしいわけでもない。

チラリズムに喜びを感じる男の心理とはまったく噛み合わない形態だ。だからあの頃のような健全?なランジェリーパブは絶滅したのだろう。

ちなみに「チラリズム」という言葉の語源はアノ「浅香光代」なんだとか。ビックリ仰天である。


今ではコワモテの女傑イメージだが、若い頃の剣術芝居の立ち回りの際に、チラチラと太股を見せる姿が大人気となり、新聞記者が「チラリズム」と命名したそうだ。

話がそれた。

男がパンチラを求めるのは、結局、パンツを見たいのではなく、「困惑」「羞恥」を見たいという哲学的かつ変態的欲求が原因である。

見る側、見られる側の双方が「想定外」の状態だからこそ威力を発揮するのである。

その証拠にムフフな場面を終えた後の帰り際にパンツを着用する女性の姿を見てもパンチラを見たときのドッキリ感はない。世の東西を問わずすべての男性が同意するはずである。


それにしても、こんなテーマを延々と熱く語っている私はどこか変なのだろうか。この問題を分析、解明したところで私の未来が開けるわけではない。

まだまだ語り尽くせぬほどパンチラ問題については意見があるが、キリがないからこのあたりで終了する。

結論。パンチラとは、想定外の一瞬の輝きだ。見せパンに惑わされたら負けである。

2015年12月4日金曜日

時代は色ボケ!


先日、70歳の知人と飲んだ。仕事上の付き合い酒は楽しくないのが普通だが、その日は相手の「武勇伝」をいろいろ聞かされて大いに刺激を受けた。

70歳といえども現役バリバリである。もちろん、アッチ方面の話である。素直に尊敬する。

若い頃、いや40歳ぐらいまでは、中高年、とくに還暦も過ぎたオッサンが女性を追っかけて交尾活動を目指す姿を軽蔑していた。

「いい歳してアホか」「みっともない」等々、一般的な否定論者のような言葉を発していた。でも、自分が年を重ねるごとに「頑張ってるヤンチャなおっさん」を支持したくなってきた。

少年時代には50歳、60歳にもなったら、すっかり弱っちゃって花鳥風月を愛でることぐらいが楽しみになるのだと思っていた。

もっと言えば、たかだか40歳ぐらいの人を「引退した人」というイメージで見ていた。子どもの頃、長島が38歳、王が40歳で現役を引退したせいで、勝手に40歳あたりを節目だと思っていたようだ。

バカみたいだ。

自分が40歳になった時、30歳の頃と大して変わっていない自分に慌てた。ちっとも進歩していないのは恥ずかしい。でも、頭の中で考えていることは18歳ぐらいの頃からほとんど変わらない。こんなことじゃマズいと感じた。

でも、人間の本質なんてものは30歳も40歳も大差が無いのだろう。思春期が終わった頃に形成された人間性はおそらく死ぬまで似たようなものだ。

もちろん、30歳の頃より、40歳になった頃の方があらゆる物事への視野が広がっていた。それなりに年相応の変化は経験していたのだろう。

そして40歳から50歳へと時間は進んだ。相変わらず頭の中で考えていることは若い頃と似たようなものだ。でも、やっぱり物事への視野は40歳の頃とは変わった。

本質は変わらないものの、視野や目線といった見え方や咀嚼の仕方は年齢とともに随分変わる。歳をとるとはそういうことである。

だから70歳のオッサンが女性を追っかけるのは、ある意味当然であり、男として正しい行動だと思う。

50歳ごときの私の頭の中からエロ煩悩が無くならないのも当然である。無くなるどころかそっち方面の煩悩は複雑化・高度化していく一方である。若い頃のほうがよっぽど爽やかだった。

「女性は人生をあきらめると下ネタを連発し、男は人生をあきらめると下ネタを言わなくなる」。

ネットか何かで見た格言?である。実に深い言葉だと思う。下ネタの数は元気さに比例するのかもしれない。

冒頭で書いた70歳の知人は、やたらと下ネタだらけの猥談に励んでいた。良し悪しは別としてエネルギッシュな証拠である。まさしく人生をあきらめていない。それどころか人生を謳歌している。

50歳程度の自分たちの世代でも「オトコ、終了」みたいな人は多い。確かにそういう面々は下ネタも話さないし、エロ系なこととは一切関係ないような顔をしている。

社会はそれを分別や常識と称して正当化する。でも、それって間違いだ。秩序は大切だが、人間の業に無理して逆らっても仕方がない。

日本の個人金融資産は1700兆円という途方もない金額だが、その6割以上を60歳以上の高齢者が持っている。

国の政策が語られる際には、必ずこの「高齢者のカネ」をどうやって流動化させるかが議論される。

手っ取り早い経済対策は、高齢者に楽しくお金を使ってもらうことである。子や孫への贈与に非課税枠を広げるのも結構だが、そんなくだらないことで高齢者がイキイキとお金を使うはずはない。

ズバリ、高齢者にどんどん色気づいてもらうほうが、よっぽど経済は活性化する。

冒頭で書いた70歳の知人がさんざん話していたのが「女性に対する浪費」である。
老後の経済的不安を口にする割には気前良く女性のためにお金を使う。

「クルマを買わされた」だの「ヨーロッパに連れて行った」だの、豪勢な話がポンポン出てくる。

アッパレである。

男の行動なんて大半が女性の歓心をかうのが目的だ。若造時代にカッコいい服が着たいとか、カッコいい髪型にしたいなどと思いはじめたら、そのコストは既に「女のため」である。

若い世代に元気が無い今、60歳以上の人がバリバリに色恋に励むことはニッポン経済にとって大いに意味のあることだ。

ずぶずぶの不倫までいくと殺傷沙汰に注意が必要だが、必ずしも肉体関係にこだわることもあるまい。

単純に「異性とドキドキする」ことが大事だ。それだけだってオシャレしたり、プレゼント買ったり、旅行の計画を立てる。

内需拡大である。

銀座あたりで活躍する金満ヒヒ親父の皆様にも「金満ヒヒジジイ」として末永く女性にお金を使ってもらいたい。

景気刺激策などと言葉にすると難解だが、個人消費なんてそんなものだと思う。「異性にモテたい」。古今東西、このエネルギーが経済活動の基本的な根っこである。

「老いらくの恋」「色ボケ」など、高齢者の色恋ネタは古くから否定されてばかりだったが、高齢化社会まっただ中の今、社会全体で意識を変えたほうが早道だと思う。

ということで、まだまだ私は若造です。

2015年12月2日水曜日

ライブ報告

先週の土曜日、私がメインボーカルを担当するオジサマバンドのライブが無事に終わった。

会場は六本木のライブハウス。今年も100名近くのお客様にお越しいただき大盛況だった。図々しく今後も続けていこうと強く決意した次第。

当日、お越しいただいた皆様、まことにありがとうございました!

今年でライブは4年連続になる。1年目は他のバンドがいくつか出演する中の一つとして参加した。友人達からのお世辞を真に受けてその後も続けることになり、2年目からは我々のバンド単独で奮闘している。



子ども時代からの同級生3名によるアコースティックバンドだが、昨年からはベースとドラムのサポートメンバーが加わって後半の数曲は重厚感仕様?にアレンジしている。

5人合わせて250歳である。だからどうしたって話だが、結構なオトナである。いや、オトナ以上かもしれない。その証拠にライブ翌日の疲労感が過去にないほど重かった。3日経ってもまだ腰が痛い。深刻である。

日頃の不摂生のツケである。たかだか50歳ぐらいでヘトヘトになっているようではダメだ。60歳を超えても永ちゃんとかハマショー師匠はあんなに元気である。

日頃、もっとスクワットしたり、散歩したり、女性のお尻を追っかけたりするべきだろう。大事な場面でもアクロバティックに組んずほぐれつしないと体力がどんどん落ちてしまう。

真剣に頑張ろうと思う。


さて、ライブ自体は例年来て下さっている方々から好意的な感想を随分いただいたので全体には良い感じにまとまったと自負している。

声も調子よく出た。今年は練習の際に例年以上に他のメンバーから歌い方や声の出し方にダメ出しをくらった。いつも泣きながらイジけていたのだが、今更ながらの歌唱指導のおかげで少しは進歩したのかもしれない。

他のメンバーも少しはトチったものの、逆にそれが会場の皆様に和んでもらう効果をもたらし、総合的には良い出来だったと思う。本番の緊張と興奮で狂いがちになるテンポも安定していたし、すべての面で毎年続けている成果が着実に出ていたと思う。

まあ、自画自賛ばかりでは進歩がないから、近いうちに反省会を開いて厳しい意見を言い合わないとなるまい。

今回、私にとって最大の難関がギターデビューだった。以前、このブログで、他のメンバーのソロ歌唱の際にバッキングでちょろっと演奏するだけだと書いたのだが、ホントはちょっと違った。

実際にはバッキングの他にサプライズ?的に私の弾き語りコーナーも用意してあった。

自分の知り合いには事前に言いまくっていたのでちっともサプライズ的な空気にはならなかったが、そのほうが結果的に気が楽だった。

「人様の前でギターを弾きながら歌う」

私にとっては歴史的大事件である。人生の一大事といっても大げさではない。

どれほどビビって、どれほど心細くて、どれほど逃げ出したくなったか。そんな繊細な私の心の動きを他のメンバーはおそらく知らない。

他のメンバーは思春期の頃からギターをいじっている。人前で演奏した経験だってある。私は「50の手習い」である。心臓ドッカンドッカンである。身体中のいろんな「部位」が縮こまるほどだった。

でも、自分のキャラ的にあまりビビりまくるわけにもいかない。必死に強がって過ごしていた。

だいたい、自分の弾き語りの曲以外に通常通りにボーカルに専念する歌がいっぱいある。そっちが私の大事な役割である。

開場・開演前のリハーサルでも、本心では「オレの弾き語りデビュー曲だけを100回やらせろ」と言いたかったのだが、そんなことはオクビにも出さずに全体のリハーサルに励んだ。

で、開演である。

前座と称して他のメンバーはステージに出て行ってしまった。楽屋には私ひとりである。

落ち着かないから芋焼酎・黒霧島をカッカっと飲む。ユンケルも飲む。喉スプレーもシュバシュバする、胃薬も飲む。怪しい薬物に手を出すミュージシャンの気分が少し理解できた。

本番が始まりステージに行く。1曲目、2曲目、なんとか順調に歌えた。それぞれの曲で歌詞を間違えたのだが、誰にも気付かれないようにサラっと流すことが出来た。このあたりが年の功である。オジサマでよかったと思う。

3曲、4曲と順調に進む。例年通り3曲目あたりから開き直りモードに入る。緊張感は消えないのだが、徐々に楽しくなってくる。

そしていよいよ私の弾き語りである。船越に似ていると言われるので船越コラージュにしてみた。


結論を言うとトチらなかった。それが事実である。人生初なのに一応スムーズに出来た。およそ200個の目玉に見つめられていたのに何とかなった。出来映えは別としてトチらなかったのは奇跡である。

とても喜ばしいことだが、そんな簡単に満足してはいけない。高い目標を持って精進しようと思う。

それにしても、中年になってから足を踏み入れたオヤジバンドの世界が確実に自分の人生に彩りを与えてくれていることが感慨深い。

「断らなさそうだ」という理由だけでボーカルに誘われ、いつの間にか深みのある趣味に発展して、おまけにギターまで始めてジャカジャカやるようになった。

自分の中では革命みたいな変化だと思う。そんな場を作ってくれたバンドメンバーには心から感謝である。

私が「弾き語りデビュー」した曲の歌詞を紹介したい。敬愛する浜田省吾師匠の「Walking in the rain」という曲だ。


I'm just walkin' in the rain
口笛吹きながら 襟を立て ずぶ濡れで
I'm just walkin' in the rain

I'm just walkin' in the rain
立ち止まり 何故かと尋ねても分らない
I'm just walkin' in the rain

どこか陽の当たる場所を
探したけれど 今も見つからない
So I'm walkin' in the rain
I'm just walkin' in the rain

何もかも 遠ざかる
I'm just walkin' in the rain

時々 誰かの温もり 慰められて泣きたくなるけれど
But I'm walkin' in the rain
I'm just walkin' in the rain

ひとりきりさ いつだって
I'm just walkin' in the rain

ひとりきりさ いつだって
I'm just walkin' in the rain


なかなか切ない歌詞である。シングル生活をしている私にはグッとくる内容だ。

やたらと「ひとりきり」を強調している歌詞だが、今回のステージでは真ん中にいる私を左右からサポートするバンドメンバーが卓越したギター演奏で要所要所をサポートしてくれた。

ちっとも「ひとりきり」ではなかった。有難かった。

「ひとりきり」などと気取っている暇はない。来年の春頃にバンド練習を再開したら、今年以上に歌もギターもスパルタ特訓が待っているはずだ。

ちょっとビビっている。

2015年11月30日月曜日

ぐい呑み


心が熱くなる。実に良い言葉だ。ボンヤリと暮らす日常の中で、心が熱くなる場面など滅多にない。

色恋沙汰なら最高だが、あればかりは相手のある話なので思ったようにはいかない。

熱くなり過ぎないようにブレーキをかけるのもまた楽しい。イジイジする気分は案外と気持ちがいいものだ。

前振りが長くなったが、最近、自分自身でブレーキをかけているのが「葉巻」と「ぐい呑み」である。

タバコを「休憩」してはや5か月。なんとか続いている理由はおそらく葉巻だ。頻繁にプカプカしている葉巻はニコチンの塊である。

吸い込まない、ふかすだけと言っても、粘膜からニコチンを吸収しまくっている。おかげでタバコの禁断症状も気にならないのだろう。


今日は葉巻の話ではなく「ぐい呑み」の話。ここ数年、治まっていたぐい呑み収集癖が復活しそうなので、必死にブレーキをかけている。

10年以上前だが、病的にぐい呑み収集に励んだ時期がある。病的と書くと大袈裟だが、実際にトチ狂ったように連日、高いものから安いものまで買い続けていた。

ある時期は、外食も控え、潜水旅行も控え、使える小遣いはぐい呑みや徳利収集だけに投入していた。

いま思えばアホらしいが、その時はそれが何より楽しかった。探している時の楽しさ、気に入ったものを見つけた時の喜び、気に入らないものを買っちゃった時の後悔まで面白がっていた。

都内の陶器専門ギャラリーに出かけるのはもちろん、全国の窯場めぐりに精を出し、各地の骨董市も覗いた。

備前や唐津には何度も行ったし、東海地方、関西、山陰、九州あたりに焼物だけを見に行った。

ネットオークションのチェックも日課になっていた。現代の人気陶芸家の作品だと骨董とは異なりニセモノを掴んじゃうことは希だ。

オークションサイトでお気に入りの作家の名前を登録して、新規出品があったら自動的に通知されるように設定していた。

コレクションが増え過ぎちゃったので、酔っ払うと気前よく人にあげちゃうことも多かった。後になって青くなったこともある。


幸か不幸か、熱はある時を境に治まるもので、ここ5~6年は収集癖もすっかり無くなり、自宅での晩酌の際にお気に入りのぐい呑みを楽しむ程度で済んでいた。

ところが、この秋ぐらいから「マイ・ぐい呑み」を持ち歩くことが増えた。いくつか持っているビジネスバッグには昔から常にぐい呑みを入れてあるのだが、プライベートで飲む際には手ぶらで行く機会が多く、なかなかマイ・ぐい呑みを使う場面がない。

ところが、最近は手ぶらだったとしてもスーツの胸ポケットに無理やりぐい呑みを格納して持ち歩くこともある。これからコートの出番となればポケットのサイスモ大きくなるからマイ・ぐい呑みの出番はもっと増えそうである。

なるべく新しいものは買わないようにしているのだが、ここ1,2か月、夕暮れの街をさまよっていると、ついつい器を売る店を覗いてしまう。

覗いてしまうと、欲しくなる。悪循環である。我慢しようと自分に言い聞かせる一方で、一期一会だ、出会いだ等々、屁理屈が頭に浮かぶ。

結局、コレクションがいくつか増えてしまった。ヤバい傾向である。危ない危ない。

マイ・ぐい呑みを持参してウマいものを食べに行くのがまた楽しい。ひとり酒だったら尚更である。ぐい呑みは酒を満たすと表情が変わる。そんな変化を眺めながら過していると気分もゆったりする。

初めて訪ねた料理屋さんなどで、ぐい呑み一つで会話が弾むこともある。カウンターを挟んで初対面の店主と客が小さな土の塊をきっかけに打ち解けるのも「いとおかし」だと思う。

ひとり酒やひとり旅の話ばかりだと、友達もいない偏屈人間だと思われそうだが、温泉旅館にひとりで出かける時の相棒にもぐい呑みはもってこいである。

小さいから邪魔にならないし、小さいからこそ可愛く愛おしい。風情の異なるぐい呑みを3つほど選んで温泉旅館に持参すると夕飯の時間が無性に楽しくなる。

気分は三蔵法師である。3つのぐい呑みはそれぞれ孫悟空、猪八戒、沙悟浄だ。とっかえひっかえ酒を注ぎ、料理ごとに使い分けて楽しむ。

特別な準備はいらない。ただぐい呑みを並べて酒を注いで調子よく酔っ払うだけである。実に簡単だが、その割に風流な気分にもなれて大人の遊び方としては悪くない。

そんなことを書いているだけで、温泉旅館に籠もりたくなってきた。温泉に浸かるというより、温泉旅館の上等な夕食をマイ・ぐい呑みとともに楽しみたい気分だ。

日頃はぐい呑みをポケットに一つだけ忍ばせているから、もっぱらひとり酒専門だ。ひとり酒も悪くないが、時には人恋しい時もある。

お気に入りのぐい呑みを二つ持参して、差しつ差されつの時間を過ごすのも悪くない。そんな艶っぽい時間を過ごすためにはひとり旅ばかりではダメである。

頑張ろうっと。

2015年11月27日金曜日

銀座 鮨わたなべ


飲食店の新規開拓はどことなく旅に似ている。なんとなく興味を持って、勝手に想像して、実際に行ってみて、楽しかったり、失敗だったり・・・。二度と行きたくない店もあれば、何度も行きたくなる店もある。

今日は、最近初めて入ってみたお寿司屋さんの話。短期間に何度もリピートしたから私にとっては良い“旅先”だったのだろう。


銀座5丁目、並木通りと中央通りの間にあるビルの3階に構える「鮨わたなべ」。入口までのアプローチがウマいものへの期待を膨らませてくれる。

店内はモダン過ぎたり、無機質過ぎることもなく、適度なドッシリ感があって大人がくつろげる雰囲気だ。カウンターの奥行き、椅子の間隔ともに余裕があって心地良い。

店主が若造ではない点がとくに良い。なんか変な言い方だ・・・。でも飲食店の場合、「こだわりがありそうなオッサン」がカウンターの向こう側でデンと構えていてくれると妙な安心感がある。

この店の大将は、キッチリした寿司職人の雰囲気がプンプン漂っている。いい感じに年を重ねた風貌で、弟子の立場だったらきっと恐そうである。そういう感じが良い。

かといって無愛想というわけではなく、しっかりそれぞれの客に目を配り、余裕のある応対をしている。

若い店主の店で時々感じる気負った感じ、力んじゃった感じはない。だから居心地が良いのだと思う。

肝心の食べ物は極めて正統派だ。ツマミにしても握りにしても、奇をてらったものではなく、オーソドックスなものが中心。ただ、それぞれの産地や質に相当なこだわりがあるようだ。

カツオ、アジ、タコ。こう書くとごく普通のラインナップだが、目ん玉丸くして驚いたり、変なうなり声を出すぐらい美味しかった。凄いことだと思う。

ツマミも酒盗や塩辛、筋子、なめろうなど酒飲みが素直に喜ぶものをサラっと出してくれる。他にも香箱ガニは湯葉と和えて出したり、一夜干しの焼き物も出てきたり、短期間に続けて行ったのだが飽きちゃうことはなかった。

真っ当なお寿司屋さん。単純な言い方だがそれが一番的確かもしれない。ポツポツと無駄話を交わしていると大将のこだわりが随所に垣間見えて楽しい。

なんでもかんでも塩で食べさせようというヘンテコな風潮にブツクサ言う私にも激しく同意してくれた。でも、調子に乗った私がユズやダイダイ系も寿司屋には不要だと熱弁をふるったのに、大将は九州の出身で子供の頃からのユズ・ラバーだった。ちょっとシュンとする。

ネットの口コミによると、こちらの大将は江戸前仕事をウリにする名店の出身だそうで、実際に“仕事系”のネタがとても美味しい。

とくに印象的なのがアナゴや煮ハマグリなどに塗るツメだ。この店のツメはネタそのものと付かず離れずの絶妙な味わい。ツメ自体が突出するような感じがなかった。

コハダはもちろん、白身魚の昆布締めやヅケマグロの味の加減も強すぎず弱すぎず、いいあんばいだ。全体にもっと強い味を予想していたが、良い意味でさりげない風味だと感じた。バランスが良いのだろう。

イマドキのお寿司屋さんの中には、修行僧みたいな大将の気むずかしい空気がウリ?だったり、変にモダンで無理やりワインと寿司を組み合わせようとしたり、先日、このブログでも書いたような「おまかせ絶対主義」だったりと、「何だかなあ~」と言いたくなる店も少なくない。

それにくらべて、こちらの店は「ごく真っ当なお寿司屋さん」だと思う。「上質な普通」と言いたくなる。普通を上質に昇華させることは並大抵の技量では無理だと思う。

オシャレとかスノビッシュとか、本来はお寿司屋さんの世界に不必要な要素をしっかり排除している感じもかえってカッコイイ。

値段についても場所を考えれば真っ当だろう。平気で勘違いしたような値付けをする店が多いあの街では良心的なほうかもしれない。

アレコレと書いていたらまた行きたくなってしまった。

2015年11月25日水曜日

新橋がある幸せ まこちゃん


私の職場は池袋である。「富豪」という言葉にふさわしくないディープな街だ。池袋という魔界で働いているから「富豪」などという言葉を使いたくなってしまうのかもしれない。

松濤や一番町あたりだったら「松濤で働く“福”社長日記」とか「一番町ジャーナル」といった気取ったネーミングになったかもしれない。

大都会東京でも街ごとのカラーは厳然と存在する。新宿、池袋、渋谷。麻布、六本木、銀座。はたまた下北沢、中野、吉祥寺。ほかにも亀戸、錦糸町などなど。場所の名前を聞いただけでそれぞれの人が「特定のイメージ」を脳裏に描く。

マイケル富岡が歩いていそうな街、叶姉妹が歩いていそうな街、吉田類が歩いていそうな街、なぎら健壱が歩いていそうな街。なんとなくではあるが、その「なんとなく」こそが実際に東京を多種多様に彩っている。

で、本題。

今日は新橋について書く。「新橋がある幸せ」である。夜の新橋をほっつき歩いていると、いつも私の頭の中にはその言葉が浮かぶ。

「暖炉がある幸せ」とか「イングリッシュガーデンがある幸せ」みたいなそんな意味合いである。

東京にとって、いや、東京人にとって、いや、厳密にいえば東京のオジサンにとって新橋は聖地である。「新橋がある幸せ」である。

東京のカオスを象徴する新橋は、歴史のある料亭から違法風俗店まで何でもござれだ。大衆路線か高級路線かといった線引きが出来ない奥深さがある。

あの街のシンボルでもある「ニュー新橋ビル」を例に取っても、グルメな人々に高い評価を得ている江戸前寿司の名店と怪しげな呼び込みをするマッサージ屋が仲良く混在している。その近くにはエロ玩具を普通に売っている店もある。

カオスな新橋のエラい点として「怖くない」ことも見逃せない。実際には甘くない部分もあるだろうが、新宿的な怖さ、六本木的な怪しさは無い。オシャレな感じや高級な雰囲気をウリにしていない繁華街としては特筆すべき点だと思う。

そこまでベタ誉めするなら、日々、新橋をさまよえば良さそうなものだが、アマノジャクな私は新橋にはたまにしか行かない。

お隣の銀座にはちょくちょく出没するのに、新橋には逆に思い入れがあるのだろうか。ひょっとしたら「ふるさとは遠きにありて思ふもの」(by 室生犀星)みたいな感覚かもしれない。

新橋イコール大衆酒場である。大衆酒場イコールホッピーである。ホッピーイコールもつ焼きである。もつ焼きイコール「まこちゃん」である。いまや新橋に5店舗ぐらいあるみたいだ。

「まこちゃん」を知ったのは、吉田類の酒場放浪記である。BS―TBSはあの番組のおかげで何とかもっているという話を聞いたことがある。



もつ焼きは安定的にウマい。冒頭の煮込みの画像もまこちゃんである。レバフライやハムカツなどの大衆酒場の王道メニューが揃っていてオジサマ達を幸せにしてくれる。

ブリオーニやトムフォードのスーツを着た人が絶対にいないであろう新橋の大衆酒場は東京の「素」を感じる場所である。

カッコつけずに気取ることなくゲップしたりアクビしたり、爪楊枝でシーハーしながらお手軽に酔っ払える。磯野波平さんやマスオさん、アナゴさんだって新橋で飲んでいるような気がする。

オマケに「新橋で酔ったぜ」という有難い気分になる。こればかりは思い込みの強すぎる私だけの感覚だろうか。多分そうだ。

浅草の大衆酒場のように江戸情緒の残り香が少し漂うような雰囲気とは微妙に違うのが新橋の特徴だろう。

生粋の下町東京人だけが集まって醸し出す空気感ではなく、日本中から集まった人々によって作られたリアル東京が発するオーラみたいなものを感じる。「濃すぎない東京っぽさ」とでも言おうか。

私の場合、新橋をさまようと、ついつい煮込みとモツ焼きばかりだ。美味しそうな焼鳥屋も寿司屋も小料理屋もゴマンとあるのにちっとも開拓できない。

おまけに臓物ばかりじゃ豚に申し訳ないような気分になって、身の肉も食べようと豚丼専門店に突撃することもある。酔っ払い特有の考え方である。


ニュー新橋ビルに入っている「豚大学」の豚丼である。50歳を超えたような客は少数派みたいだ。そんなことは気にしない。温玉をぐちょぐちょにして豚丼にドッヒャーとかけて食べるのもタマランチンである。

某日、煮込みにホッピーでホロ酔いになってから豚丼ガッツリという流れになった。その後、無性に葉巻が恋しくなってテクテクと銀座8丁目のシガーバーに向かった。

ほんの5分も歩けば、一気に街の気配が変わる。夜の銀座の空気に包まれる。この急激な変わりようもまた面白い。池袋や新宿だったら、どこまで歩いたって池袋や新宿のままである。

でも、「新橋モード」にどっぷり浸ってから銀座のシガーバーに行くと、なんとなく落ち着かない。「なにを気取ってやがる!バカ!」と自分を叱りたくなる。

やはり、新橋に出向いた夜は新橋で完結させるのが正しいのかもしれない。

2015年11月20日金曜日

つぶやくのは難しい


文章は短ければ短いほどエラい。乱暴な言い方だが、文章の世界における真理?である。短い文章の中に言いたいことの要点を上手に盛り込むことは難しい。

短文の名手。つくづく憧れる。昭和の文豪と呼ばれるような人達は誰もが短文の名手だろう。長年書き綴った個人的な日記が後々、文学的に高い評価を得ていることがその証だ。

以前、永井荷風と谷崎潤一郎が終戦前夜に疎開先の岡山ですき焼きを食べた逸話をテレビのドキュメンタリー番組で観た。

二人の文豪が残した日記からそれぞれの思いを紹介していたが、さらっと書かれたような短い日記の中に当人のさまざまな想いが想像できて興味深かった。

ということで、日頃、冗長になりがちな当ブログの反省?を込めて、今日はここ最近の身辺雑記を短文にまとめてみた。


★その1

医者の問診の際、常用薬を聞かれて「太田胃散」と答えたら軽くスルーされた。愛する太田胃散に対してリスペクトが足りない医者に腹が立つ。
でも、ハゲ予防薬を毎日飲んでいることを恥ずかしくて言いそびれた私もダメである。ハゲ予防薬に対して失礼なことをしてしまったと反省。




★その2

飲みすぎて気持ち悪くなってタクシーに乗りたくない時がある。そんな時にピッカピカのレクサスのタクシーにあたった時の喜びは、セクシーな女子とムフフになった時の喜びより大きい。いや、やっぱりセクシー女子のほうが嬉しい・・・。
でも「オンボロタクシーと同じ料金じゃ不公平だなあ」とか言ってチップを多めに置いていく自分のお調子者ぶりを後悔する。ついでに、そんなことを後悔する自分のセコさも後悔する。




★その3

スマホでメールを打つ際に老眼・近眼に加えて指がデカいから予測変換の候補一覧の違うところを押してしまう。「想像するだけで興奮する」と打ったつもりが、「相続するだけで興奮する」になっていた。自分が凄く不謹慎な人間に思えた。
ちなみに以前、元妻とのメールのやり取りの際に「扶養親族」を「不要親族」と間違えたことがある。「不要」になったのは誰なのか?オレか。。。




★その4

若い頃はカタカナが苦手な年寄りを小馬鹿にしていたが、どうも最近は自分もそっちの仲間入りである。「スワロフスキー」が思い出せずに「アダムスキー」と言ってしまった。それはUFOの種類である。
「あれあれ、なんだっけ、そうだ、ブレジネフ」と言ったこともある。昔のソ連の偉い人の名前だ。 「フ」しか一致してない・・・。


いろいろ書いてみたが、すべて実話である。アホみたいな日常が垣間見える。それにしても、やはり短文を作成するのは難しい。

ツイッターは140文字という制限があるらしいが、ここに書いた話はすべて字数制限をオーバーしている。

ツイッターを始める予定は無いが、あれを活用していれば短文能力を向上させる効果があるのかもしれない。

なんだかんだ言って、私は余計なことを書きすぎる傾向にある。上に列挙した出来事もオチをつけたがるからダラダラしてしまう。



★その5

10月にスペイン「トレド」を旅してきた私の話を料理屋の板前さんがフランスの「ルルド」と勘違いしているのに最後まで訂正できずに話を合わせた自分は優しい人間だ。



★その6

何となく恥ずかしくて使いにくい「オナニー」という言葉は、聖書に出てくる「オナン」という人の名前が語源だと知って驚く。世界中にいるだろう「オナン」という人の肩身の狭さに同情する。 


この2つのように簡潔明瞭にして余計なところに話を飛ばさないようにすれば正しい?短文になるのかもしれない。

ツイッターはやっていないのだが、Facebookにはマヌケな話をポツポツと投稿している。必然的に短文になるように意識しているので、あの感覚をもっと普段の文章にも活用すべきなんだろう。

ちなみにFacebook上で、最近わりとウケた投稿を引用してみる。



廊下ですれ違ったマンションの住人に挨拶して無視されたので「なんとか言えよ」と小声で毒づいたつもりが「どうもすいません」と切り返されてたじろぐ。


恥ずかしい話だが、実話である。年齢とともに感度が低くなったのか、心の中でつぶやいたつもりが普通の音量で口に出してしまったようだ。

それよりも、この投稿は短文の中に中年男が抱える世間への不満と様々な人生への葛藤や戸惑いが浮き彫りになっていて読む人の心を揺さぶる文章だと思う。

大ウソです。すいません。

でも、読み返してみると、短い言葉の中にスムーズに状況を描写できたような気がして我ながら悪くないと思った。

なんだか今日は身辺雑記が書きたかったのか、短文講座?だったのかよく分からない内容になってしまった。

2015年11月18日水曜日

銀座 鳥繁本店


肉の中でも鶏肉が一番好きなのに最近はなぜか焼鳥屋に行っていない。寿司、ウナギ以外には「モツ焼にホッピー」が定番?になっちゃったせいだろうか。

で、今まで10年以上、横を通り過ぎるだけで入ったことのなかった焼鳥屋に行ってみた。


銀座にある鳥繁本店。なぜかドライカレーが有名な老舗焼鳥屋だ。モダンにカッチョよく焼鳥を食べさせるイマドキの高級焼鳥屋とは一線を画したオジサマ達にとって居心地の良い店だ。

大衆的な価格の店ではない。でも、レトロっぽいというか、下町の雰囲気もあるような大人の男にとってシックリくる店だと思う。

ソムリエまで出てきちゃうようなオシャレすぎる焼鳥屋は落ち着かない、かといって煙モーモーでぎゅうぎゅう詰めの焼鳥屋もイヤだという場合、鳥繁はもってこいだろう。

接客も丁寧だし、喧騒も適度で肝心の焼鳥も普通に美味しい。値段には疑問を感じる人も多いだろうが、こればっかりは、いわば「銀座流」である。

おでんだって客単価1万円ぐらい取る店が珍しくない夜の銀座では、赤ちょうちん的な路線とは異なる焼鳥屋がゴロゴロしている。鳥繁はそうした系統の元祖みたいなものだろうか。

1本あたり500円ぐらいする。もっと高値の串もある。そうはいっても、1本あたりがかなり大きいので、小食の人なら5本ぐらいで充分、そうでなくても7~8本も食べれば満腹になる。

幸か不幸か、焼鳥以外のツマミがさほど用意されていないので、必然的に焼鳥を食べて、名物のドライカレ-で締めるパターンが基本である。

お酒もしっかり飲めば一人あたり7千円程度にはなる。値段だけみれば、晩酌ついでに焼鳥7~8本を楽しむコストとしては高い。

そうはいっても、食べ応えのある鶏肉で満腹になり、名物の銀のヤカンから職人芸のように注がれる燗酒で酔っ払うと、独特の満足感を味わえる。

銀座のお燗酒といえば、こだわりのヤカンでまろやかな味わいを演出する「やす幸」、「おぐ羅」あたりのおでん屋さんが有名だが、この店は「ヤカン+空中から注ぐ」パフォーマンスで酔客を楽しませてくれる。


鴨の串にこだわりがあるようで、鴨ロース焼きは肉厚で食感も良くジューシーで味わい深い一品。でも1本1400円もする。この日は初訪問だったし、このブログのネタ探しという側面がなかったら注文しなかったと思う。


こちらは鶉(ウズラ)。これまた店の自慢の一品らしい。通常の鶏とは違う食感で味もとても濃厚だった。でも、これも1串1500円である。

「富豪」と称するブログを書いている以上、注文しないわけにはいかない。そんな意味不明?な使命感がなかったら注文しなかったと思う。

そのほか、つくねやねぎ間、せせりなど一般的な焼鳥は普通に美味しく、真っ当で真面目な仕事ぶりを感じさせる。

デートに使うようなオシャレな感じはない、難しい相手を接待するような気張った感じもない、かといって、一人でどんよりタメ息つきながら演歌を聴いてイジケる感じもない。

うまく言えないのだが「ちょうど良い感じの店」だと思う。気心の知れた男の友人と差し向かいで飲むのも良い、3~4人で卓を囲んでも良い。キャピキャピしていない女性を連れてカウンターでしっぽりもアリだ。

ちなみに冒頭に画像を載せた名物のドライカレーは好みが分かれそうな一品だった。

あまり具が入っておらず、ご飯は硬めである。私にとっては最高である。グリーンピースなどロクデナシみたいな野菜が得意気に入っていたら興醒めだが、そういうふしだらな連中は見当たらない。

それより何よりベチャっとしていないことが素晴らしい。ボソボソ、ボリボリ、ポソポソ・・・。なんだかそんな書き方をするとマズそうだが、私にとってはそんな食感こそラブリー?である。

味付けも少し薄いぐらいで、それまで美味しく食べていた焼鳥の余韻をブチ壊すようなこともない。

大袈裟かもしれないが、正しい大人のためのジャンクフードである。軽い感じのせいで、飲んだ後にガッツリ食いをしてしまう罪悪感に襲われることもない。

酔っ払って食べるチャーシュー味噌ラーメンや牛丼特盛りはファンタスティックな味がするが、翌日の夕方ぐらいまで調子が悪くなる。その点、鳥繁のドライカレーなら安心だ。

「持ち帰り用・3人前」という禁断?のメニューがあることも知ってしまった。

そう遠くないうちにテイクアウトしたドライカレーをバーかクラブに持ち込んで葉巻をくゆらせながら、デザート?としてウホウホ食べている自分の姿が脳裏に浮かんでいる。

2015年11月16日月曜日

「イマドキ寿司屋」の弱さ


今年の夏以降、料理屋さんやお寿司屋さんを新規開拓する機会が多い。きっかけはタバコを「休憩」しているからである。

禁煙ではない。しばし忘れているだけである。葉巻をふかす機会は増えちゃったから、健康面ではまるでダメだ。

でも、知らない飲食店に入った時にタバコを我慢するアノ面倒な感じから解放されたことは大きい。手持ちぶさたにならずに済む。でも、その分、お酒のピッチが上がってしまうのは困りものである。

さて、今日は少しばかり辛口の批評を書く。先日、ふらっと入ってみたお寿司屋さんの話だ。一度だけ行った店を悪く書くほど無礼ではないので店の名前はナイショだ。

某日、思いたってそのお寿司屋さんに電話してみた。早い時間なら入れるとのこと。電話の対応も丁寧だったから良い店の気配が濃厚だ。

店に到着。場所は銀座。細い路地に風情のある店構え。店内も清潔で気持ちよい空間だ。まだ30代後半ぐらいに見える大将の挨拶も清々しい。

銀座に店を構えて応対も丁寧で店も清潔、これならマズいものを出される心配はない。

さっそく料理が出てきた。問題なのはイマドキの寿司屋ならではの「おまかせ」を大前提にしている点だ。

「おまかせ」自体は構わないし、そのほうが助かるお客さんも多いのが現実だ。でも、「おまかせ絶対主義」とでも言いたくなるような窮屈さが見えちゃうと、なんだかガッカリする。言葉は悪いが「底の浅さ」を感じる。

予約の電話をした段階で、嫌いなものはないかと確認された。それはそれで丁寧な対応かもしれないが、後から考えてみれば、客の顔を見る前からすべて店側の都合だけで仕切ると宣告されたようなものである。

「おまかせ」といえども、客側の気分やペースに応じて少しは臨機応変に対応してこそプロである。フレンチや懐石料理の店ではなく寿司屋である。銀座あたりでそれなりの値段の店を構える以上、そんなことは当然だと思う。

この日、温かい一品料理からスタートした。出てくるものはすべて美味しい。手も込んでいるし、味付けも絶妙だ。器だってこだわっている。

ビールからお燗酒に変える際には、私が持ち込んだ「マイぐい呑み」をわざわざお湯で温めてくれるなど気配りも凄い。良いお店だ。単純な私は上機嫌になってグビグビ飲み始める。

こういう流れになったら、握りよりツマミを多めにもらいたくなる。これって、ごく当たり前の客の心理だ。

で、大将にそんな気分を伝えるとともに、握りはどのぐらい出す予定かを尋ねてみた。

なんと12貫から15貫ぐらい出てくるらしい。

とてもじゃないが、そんなに要らない。握りはせいぜい7,8貫にして、その分、ツマミを多くして欲しいと頼んでみた。

丁寧な応対をする店だから、それに対して不満そうな反応をされたわけではない。でも、明らかに少し困ったような様子になった。

もちろん、店には店の段取りもあるだろう。それでも、ここはカウンターで店主と対峙する寿司屋であり、それも高級路線の店である。私の要求はトンチンカンではない。

私のそんな単純なリクエストへの大将の答えは「ちょっとお時間がかかってしまいますが・・・」というものだった。

この時、私の他にお客さんは2組。満席でバタバタしていたわけではない。少し不思議な気分になる。

それでも出てくる料理はウマいし、多少お酒も入っていたから、特別難しいことは考えずにノンビリ過ごす。

しばらくすると、私と同じ時間に食事をスタートさせたお客さんに握りを出し始めた。

ふむふむ、リクエストしなかったら、このタイミングで握りに移行するわけだ。確かにタイミングとしては順当だろう。などとボンヤリその光景を眺める。

そして、私には刺身が出てきた。普通に美味しい。その後も2,3種類の刺身が出てきた。

結局、同じ時間にスタートした他の客に出している握りのタネを私にはシャリ無しで出しているだけだった。

まあ、美味しい刺身だったので、それはそれで問題ない。ただ、「ちょっと時間がかかる」と言っていたのは何だったのか意味不明だ。

その後、突然、握りが目の前に置かれた。突然、ぽんと置かれて少し慌てた。「おまかせ」専門なら文句も言えないのかもしれないが、ちょっとビックリだ。

普通の感覚だったら「そろそろ握りますよ」とか「次からは握りになります」とか言いそうなものだが、若い大将は段取りで頭がパンパンになっていたのだろうか。

些細なことなのかもしれないが、客の心理なんて些細なことで乱れたりもする。美味しい寿司なのだが、私としては素直に美味しいと感じられない「偏屈オジサン」のスイッチが入ってしまった。

もちろん、文句を言うほど野暮ではないし、初めての店でそんな指摘をするほど親切?でもない。

続いてはトロが出てきた。私が苦手なトロである。握りに移行する段階でマグロは赤身しか食べないと伝えようと思っていたのだが、一方的な展開になっていたので伝えそびれた。

その後も、いくつか握りを食べた。ウマかったはずなのだが、私としては「店の都合」を食わされているだけという偏屈な気持ちがどうにも収まらない。

仕方なく、最後の3貫は好きなものを注文させてくれと大将に伝えてそうさせてもらった。

「店主はプロなんだから、おとなしく黙って出されたものを食え。」。そういう考えもアリだろう。でも、おこがましく言えば私だって客としてのプロである。自分なりの基準やこだわりもある。

カウンターで店主と向き合うという世界でも希な日本の食文化の華である寿司屋で、ただ出されたものを食べるだけなら実に味気ない。

極端な言い方をすれば、こっち側に座る客は、魚のことも寿司のことも何も分かっちゃいないとレッテルを貼られているような感覚にとらわれてしまう。

考えすぎだろうか。

ブロイラー飼育場に閉じ込められている鶏じゃあるまいし、窮屈で仕方がない。あれでは客も店も勉強にならないし、同じく客も店も育たない。

この店、ネットでの評判を調べてみたら絶賛の嵐だった。グルメサイトに書き込む人達の年齢層などを考えるとそういう結果になるのだろう。

決まったものを一方的に出せばいいのなら、仕入れロスも考えなくていいわけだから経営上も楽だと思う。

幅広く客の希望に応じようとする路線の店より圧倒的に有利だろう。ならば、そういう店と同等の値付けをしていること自体が疑問だ。半額ぐらいでいい。

魚に詳しくない、恥をかきたくない、同行者との会話に集中したい等々、さまざまな客側の理由でこういう路線の食べ方が支持されるのも理解できる。

でも、そんなスタイルだけで通そうとする店はあくまで特殊な形態であり、一般化してもらいたくない。「おまかせ」以外にリクエストされるのが苦手なら、はっきりそれを掲げてもらいたい。

分かっていれば私だってそんな店には行かない。そのほうがお互いイヤな思いをしないで済む。

ここ数年、都内の一等地で凄く若い職人さんがお寿司屋さんを新規開業する話を頻繁に耳にする。ひょっとすると「おまかせ絶対主義」みたいな風潮も影響しているのかもしれない。

もちろん、そうじゃない店もいっぱいあるだろうが、なんだか「若い店」を色眼鏡で見るようになってしまいそうだ。

こんな事を書いていると、すっかり自分が懐古趣味的偏屈ジジイみたいだが、そう思われたとしても、この“問題”についてはブツブツ言い続けたいと思う。

2015年11月13日金曜日

暁の頃 「きぬぎぬ」


ひとくちに夜と言っても、朝や昼に比べて時間帯が長い。大ざっぱに分ければ「宵」、「夜中」、「曙」の時間帯に分類される。

暗くなってから明るくなるまでの時間帯すべてが夜だが、宵の口と明け方ではまるで意味合いが違う。

妻帯者の帰宅時間をこの3類型に当てはめていろいろ想像すれば「夜の幅広さ」を実感できる。「曙」に帰宅したら家庭不和になる。

さて、「曙」の前の時間帯が「暁」である。私が好きな時間帯である。そんなシャレたことを言ったところで普段はイビキかいて寝ている時間である。

幼稚園から高校まで通った母校は学校名の最初が「暁」だったし、思えば母親の名前にも「暁」が使われている。

「暁」には縁があるみたいだ。イビキかいて寝ている場合ではない。

空が白んでくる少し手前の時間帯が暁だ。まだ暗い。でも朝は近づいているという時間だ。

井上陽水が『帰れない二人』で歌っていた♪ もう星は帰ろうとしてる 帰れない二人を残して ♪ といった雰囲気の時間である。

夜が終わっちゃう切なさが良い。何かを追いかけたくなるような、取り戻したくなるような時間だ。一人ぼんやりするも良し、誰かと一緒ならそれも良しである。

そんな時間まで誰かと一緒にいたのなら、その人とは親しい関係だ。深い夜の闇に溺れた時間が暁の訪れとともに過去になっていく。

名残り惜しい時間である。名残り惜しさという感情ほど人の心を揺さぶるものはない。そんな想いに浸るのには暁の時間帯は最適だ。

男女の熱い夜の余韻は暁の頃に一区切りつけるのが正しいと思う。だらだら明るくなるまで引っ張るのはヤボだと思う。

極めて個人的な意見です。

朝どころか昼までだらだら絡まっているのも刹那的で悪くはないが、やはり暁の頃に一区切りつけたほうがイキだ。

「きぬぎぬ」という言葉がある。実に色っぽい言葉である。以前、色恋小説の大家である吉行淳之介の小説を読んだ時に知った言葉だ。

「きぬぎぬ」は「後朝」と書く。まるっきり当て字だ。もともとは「衣衣」だったものが当て字に変化したらしい。

「衣衣」と「後朝」。二つ並べただけで色っぽい雰囲気が漂ってくる。そう思うのはスケベな私だけだろうか。

平安貴族の世界では、男が女の家を訪ねるのが色恋の基本だったそうだ。互いの身につけていた衣を重ねて布団代わりに夜を過ごす。

朝が来てそれぞれの衣を身につける。そんな意味を持つのが「衣衣」(きぬぎぬ)だ。その後「後朝」という文字を「きぬぎぬ」と読むようになった。かなり艶っぽい語源である。

なんとも風雅な話だと思う。

ちなみに、男が女の家を出て行く時間帯は曙ではなく暁の頃だったそうだ。それが一種の常識だったらしい。まだ暗く、星や月の灯りのもと去っていったわけだ。

文明の利器が何もない時代である。電話もない、メールもない。そんな状況の中で愛しい人と離れる名残り惜しい気持ちは現代人には想像できないほど深かったはずだ。

そんな名残り惜しさを暁の頃に感じてキュンキュンするわけだからなかなかロマンチックである。

実際、想いの深さを伝えるための「後朝の文」という手紙を送る習慣もあった。要は「サンキューメール」である。いや、そんな軽薄な言い回しではイメージが違う。いわば、想いの深さを伝える恋文である。

逢い引きの後の手紙は、届くのが早ければ早いほど、想いの強さや深さを表していたそうで、百人一首にもその類いのものがいくつもあるらしい。

いわば、名残り惜しいという感性が芸術につながったわけだ。

若い頃の話だが、情熱のひととき?を過ごした後、何があっても次の日の朝はギリギリの時間まで居座る人がいた。

夜中や明け方に帰った方が仕事に向かう上でも楽なはずだから、そのように勧めても絶対に帰らない。たとえ、こちらが帰りたくてもそんなことはお構いなしだった。

やはりこれも若い頃の話だが、逆に必ず帰る人もいた。夜を過ごした後、こちらが朝まで一緒にいてくれと頼んでも必ず明け方に帰っていく。

次の日が休みだろうと、いつも決まって暁の頃に身支度を始める。ビジネスライクに感じるほど徹底していた。

でも、不思議なもので、私が「後朝の文」を出したいような気分になるのは後者のほうだった。

きっと、必ず居座る人の方が私と親しく馴染んでくれていたはずなのに、私にとってはペースが合わずにテンポがずれちゃう人だと感じたのだと思う。

私自身が外泊が苦手だったせいもあるが、どこかのタイミングで一線を区切る習慣を維持するのはスマートだと思う。

情念の海に溺れて、節度も見境いもなく漫然と時間を過ごし、お互いに相手の見たくない部分まで見てしまえば、出るのは溜息ばかりである。

男女に限らず、人付き合いのキモって結局そのあたりに尽きるのかもしれない。

距離感の中でもつい見逃してしまうのが「時間的な距離感」である。その人と快適に一緒に過ごせるのはどのぐらいかという意味だ。

3時間か、24時間か、はたまた10日間なのか半年でも平気なのか。こればかりは人と人の相性だから試してみないと分からない。困ったものである。

さてさて話がまとまらなくなってきた。

私自身は「夜から暁まで」一緒にいられる人しか求めていないような書きぶりだが、決してそんなことはない。

暁まではもちろん、朝までだって有難い、2泊でも3泊でも嬉しい、たぶん1週間だって平気だ。もちろん「ちょんの間」だって大歓迎である・・・。

2015年11月11日水曜日

自慢合戦

  
このブログは週に3回の更新だ。我ながらよくネタが尽きないなあと少し感心する。

でも正直に言うと、ネタがなくて苦悶?することはしょっちゅうだ。そうそう目新しいことなど起きない。

それなりにファンタスティック?な事件事故?に遭うこともあるが、さすがにナイショである。披露できないのは少し残念である。

そういえば、5~6年前にここでは書けないファンタスティック?な内容だけに絞ったちょっと危ないブログを書いてみたことがある。

自分が特定されないように最大限の注意を払って誰にも知らせずに不定期で書いていた。でも、高尚な?下ネタばかりだったので宣伝もしないのに短期間で閲覧者がどんどん増えた。

見てくれる人が増えるのは有難いが、結構なペースで増えちゃったので、なんとなく怖くなってすべてを削除してやめてしまった。

やめずに続けていたらどうなったのだろう。ひょっとすると、そっち方面で大成していたかもしれない。

さてさて、「ばびろんまつこ」という偽セレブが逮捕されたというニュースを見た。富豪?っぽいライフスタイルをツイッターに自慢げに載せていた妙齢の美人女性が低レベルの詐欺師だったという話。

私もせっかくエセ富豪として日常のアレコレを書き殴っているのだから、誰かを騙すようなトッポイ行動に走りたいが、そんな商才は無い。残念?である。

考えてみれば、ツイッターやFacebookに飛び交っている情報の多くが「自慢合戦」みたいな投稿である。どちらかといえば男性より女性のほうが「リア充」をアピールするのに必死な感じである。

まあ、私だって人のことは言えない。このブログにも「ただの自慢ですね」という的確な?コメントをもらったこともある。

自分を良く見せたいというのは人間の根本的な欲求だろう。ネット上の話にあまり目くじらをたてても仕方ない。でも、時々、無理に頑張っている人のイタ~い感じの投稿を見るとさすがに寒々しい気分になる。

なんであそこまで必死になって虚飾に励むのだろう。「必死な感じ」が不自然過ぎると見ていて気の毒になる。

ゲップが止まらんとか鼻クソが溜まって困るとかヘソの穴から異臭がするとか、そういう普通の話?のほうが読むほうも共感できる。日常ってそんなにキラキラしているはずはない。

以前、とある観光地で必死になって自撮りに励んでいる一人の女性を観察したことがある。あれは誰もいないところでやるべきだとつくづく思った。

なんだか見てはいけないものを見てしまったような感じ。それまでボンヤリしていたのに、自撮りの時は別人のような表情を作り上げる。

周りに人がいてもお構いなし。自分の世界にドップリ入り込んで「素敵な自分」を作り上げることに夢中になっている。

家の中でやってるならともかく、公衆の面前だとチョット微妙である。通勤電車の中でメシ喰ったり、化粧したりする姿よりも見せられたほうはゾワゾワした気持ち?になる。

まあ、エラそうに書いたが、当人にとっては大きなお世話なんだろう。

ちなみに一人旅が好きな私も旅先では自撮りにトライする。一応、人のいない路地とかでコッソリ撮る。熱くなって何度も撮り直したりするから誰かに見られていることもあるだろう。

そんな画像は、やはり見る人が見れば滑稽に見えるらしい。一部の知り合いが私の旅先での自撮り画像をスマホの待ち受け画面にして爆笑してやがる。ちょっと腹立たしい。でも私自身、それを見せられるといつも吹き出す。

困ったものだ。でも、ギャグにしちゃった方がああいう画像は収まりがいいかもしれない。

なんだかんだ言って、誰だってカッコつけたい。人に良く思われたい。無意識のうちにそう思っている。それが世界的なSNS等の普及に一役買っていることは確かだろう。

普段は汚いカッコでカップ麺をすすっているのに、「トリュフやフォアグラなんか毎日食べてるぜ~」と言ってみたい心理。そんな人間の業みたいな感情がネット社会を支えているわけだ。

ネタがなくて困っていると言いながら、ダラダラと人間の心の闇?について書き殴ってしまった。

今日は実は「ゲロ」の話を書こうと企んでいた。いつの間にか、誰がどう見たって「若者」ではなく「オジサマ」になった私である。

それにともなってすっかりゲロを吐く機会が減ったという現実を哲学的かつ文学的?に洞察してみようと思ったのだが、すっかり違う話に終始してしまった。

ゲロの話を読みたい人などなかなかいないはずだから結果オーライである。



2015年11月9日月曜日

食べ比べ


食べる楽しみやウマいものを求めることって、結局は「食べ比べ」に行き着く。

ウマいとかマズいとかを四の五の語るのは、突き詰めれば何かと比べてみた結果である。

マックのてりやきバーガーをマズいなあと感じるのはモスのテリヤキバーガーが好きだからである。そういうことだ。

思えば、焼鳥屋であれこれ食べること自体が鶏の部位ごとの食べ比べであり、おでん屋も同じ味付けで異なる具材を食べ比べしている。

寿司も同じだ。握りの場合、シャリと渾然一体になる魚介類の味わいの違いを食べ比べしているわけだ。

楽しむための食事の場合、「比べる」ことが一種のキーワードなのかもしれない。


のどぐろの食べ比べである。いつも行く高田馬場・鮨源での一コマ。片や皮だけ炙った生の刺身、もう一方は塩をふって4日目だとか。

のどぐろの刺身は、悪く言えばちょっとビチョっとした柔らかさを感じることがある。塩をした刺身は適度に水分が抜けて食感が締まった感じに変化していた。

ハヤリの「熟成」という言葉が適当かどうか分からないが、「時の経過」という手間の大事さは鮮魚だって同じである。

2種類ののどぐろはいずれも美味しかった。ジュワッと脂ののりを楽しむ一品とウマ味が凝縮された締まった一品。どちらもアリだ。こういう食べ比べは楽しいし勉強になるから大好きである。


こちらは赤ウニとバフンウニの食べ比べである。エゾバフンはウニ界における不動のチャンピオンみたいな存在だが、秋の赤ウニも負けていない。少しマイナーでマニアックな存在だが好きな人には堪らない一品である。

面白いもので、シャリと一緒に味わう時とウニ単独で酒のツマミにする場合では味の印象が変わる。こればかりは好みである。いいかげんな言い方だが、その日の体調によってもどっちに軍配を上げるかが変わる。

ウニを複数用意してあるお店だったら少しずつ食べ比べさせてもらうと勉強になる。これ以上ウマいウニはないと大喜びした直後に、それ以上にウマいと感じるウニが出てきちゃったりする。

ウニに限らず、そんな経験をすると、つくづく自分の味覚なんてアテにならないと痛感する。それなりに殊勝な気分になる。

食べ物のウマいマズいを語る際には、この「殊勝な気分」が欠かせない要素だと思う。


イクラも今の季節は作りたての醬油漬けとまったくの生の状態のものを出してもらう。生のイクラに塩をまぶして即席塩漬けイクラを作って食べ比べしてみる。これまた楽しい。


寿司ばかりではない。ウナギの生醤油焼きと魚醤の付け焼きである。日本橋「いづもや」で楽しめる。酒飲みにとってはウットリの食べ比べである。

アホみたいにウナギが好きな私はこの2種類の他に普通の白焼きも注文してシメに蒲焼きも食べることがある。合計4種類の味だ。そういう日はデロデロに酔っ払う。


こちらの画像は題して「ウナギとうなじ」である。これもまたある意味「食べ比べ」みたいなもの?である。不謹慎でスイマセン。。。

いずれを食べる際にも「殊勝な気分」を忘れないことが大事である。オラオラではダメである。。。

おっと、いけない。話がそれた。

外食だけでなく、空腹バリバリの時に家で食べるレトルトカレーも「食べ比べ」である。日本風、インド風、タイ風などレトルトカレーもいろいろである。


空腹で頭がバカになっていると、どれにすべきか決められず、つい2種類を同時に食べてしまう。ご飯を中心にカレーが混ざり合わない形状の皿があったら同時に3種類のカレーを食べたい。そのうちチャレンジしてみよう。

「ゆで太郎」に行っても、ついつい温かい蕎麦と冷たい蕎麦を両方食べたくなるし、コンビニでおにぎりを買うにしても必ず種類の違うものを複数買ってしまう。1個だけでガマンしようと思っていても比べたくなるから無理である。


ついでに言えば、変な二日酔いの日に無性に食べたくなるカップ焼きそばも、コンビニの店頭で悩み続けたあげく二つ買ってきて両方食べちゃったりする。

これは食べ比べとはちょっと違うか。いや違わないか。いずれにせよバカである。


私の住むマンションの近くに抜群に美味しいアイスクリームの専門店がある。「スペールフルッタ」という店だ。値段はかなり高いのだが、ありえないほどウマい。

日替わりで10種類近くのフレーバーが楽しめるだけでなく、冷凍庫の持ち帰り商品には日々変わるストックがラインナップされるから常に知らない味に出会える。

時々、娘が遊びにくると必ず立ち寄って2人で4種類は注文する。これも食べ比べである。何を頼んでも甲乙付けがたいので親子揃ってデブに拍車がかかる。

ここまで書いてきて気付いたのだが、結局あれもこれも食べ比べしたくなるのは、「我慢ができないワガママなヤツ」だからだ。

今更ながら気付いているようじゃ情けないが、自分を律して節度を持って生きている人なら、私のようなムダな行動はしないだろう。きっと体脂肪率も低いはずだ。

反省しようと思う。

なんだか変な結論になってしまった。