2018年2月28日水曜日

おかあさんの歌の話


「狭量」。このところ、こんな言葉が頭に浮かぶ。狭量とは度量が狭いこと。要するに、考えが凝り固まって他の意見を受け入れられないという意味だ。

匿名で好き勝手なことが書き殴れるネット社会では、どーでもいい話に目くじらを立てたり、単なるあげあし取りが正義のように扱われる。

それに反応しちゃうこと自体が、かえって話をドロドロにして、逆に世の中に窮屈さを広めてしまう結果を招く。

なんだかヘンテコだ。

最近、「あたしおかあさんだから」という歌が“炎上”した。歌詞を載せると長くなってしまうので、文末に貼り付けさせてもらう。

おかあさんになったことで、独身時代に楽しかったことが何一つできなくなったということを具体例を並べて嘆いている?歌だ。

もちろん、ただ嘆くだけではなく、歌の最後では「でも子どもに出会えて最高に幸せだ」というオチで締めくくられている。

要はオチに持っていくための導入として「おかあさんはこんなに我慢している」という事例をたくさん並べているわけだ。

そうした我慢だらけの歌詞表現が、息苦しいとか、押しつけがましいだの、自己犠牲を強いているといった批判を浴びる結果になった。

私自身、初めて聴かされたときは、メロディーのトーンも相まって「純粋な母親応援歌」だと感じた。嫌悪感も違和感もなかった。少しジーンとなったほどである。

まあ、そう感じること自体が時代遅れだとか、昭和の人間ならではと言われてしまえば仕方ない。でも、この程度で炎上騒ぎになる世間の「ただならぬ空気」がブキミに思える。

歌詞に出てくる母親の我慢は率直に言って現実だ。そういうものだろう。驚くような内容ではない。父親だって似たようなものだ。

父親が歌の中に出てこないことを批判する声まであったらしいが、それこそ「言わずもがな」の世界である。だいたい、母親への応援歌として作られた以上、父親が出てこないことにイチャモンつけられたら作詞者としては堪ったものではない。

作詞した人やこれを歌った「だいすけお兄さん」まで謝罪に追い込まれたと聞いてちょっとビックリである。気の毒のひと言だ。

謝罪させた人々は、その謝罪によって何かを得たのだろうか。溜飲を下げて幸福な気分になったのだろうか。

昭和の大ヒット曲に「関白宣言」がある。さだまさしの代表曲と言ってもいい。一方的に夫が嫁さんに夫婦のルールを押しつける内容だ。

俺より先に寝てはいけない。メシはうまく作れ。いつも綺麗でいろ。俺より先に死んではいけない等々、男がゴリゴリと主張している。

あの時も世の中で論争を呼んだが、謝罪ウンヌンという話にはならなかった。炎上した「あたしおかあさんだから」との違いはどこにあるのだろう。

時代が違うというひと言で片付けるのは簡単だが、私としては「オチまでの長さ」が理由に思えてならない。

「関白宣言」の場合、一番の歌詞の中盤から後半にかけて嫁さんへのフォローをしっかり盛り込んでいる。

三番まである歌詞の最後の最後まで男の一方的な主張を続けられたらウンザリだろうが、早い段階でしっかりとフォローがあったから楽しく聴いていられる。

それに対して「あたしおかあさんだから」は最後の最後にホロっとさせる歌詞が出てくるまでは、これでもかっていうぐらい、母親の我慢ばかりが延々と羅列されている。

単純なことだが、この差がポイントなんだろう。

母親の我慢を4つ5つ並べたあたりで、「でも幸せ」という趣旨の言葉がチラリと入っていれば、聴き手側の心理も大きく変わっていたと思う。

大オチの前に小さいオチを入れておけば炎上しなかったように思える。作詞者が最後のオチを強調したかったのも分かるが、そこまで引っ張ろうとした戦略が裏目に出ちゃったわけだ。

まあ私がそんな分析をしたところで屁の突っ張りにもならない。

いずれにせよ、親の我慢なんて子育てにおいては当たり前のこと。程度問題とはいえ、我慢自体を否定しているかのような炎上騒動は気持ち悪い。



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「あたしおかあさんだから」



一人暮らししてたの おかあさんになる前
ヒールはいて ネイルして
立派に働けるって強がってた

今は爪切るわ 子供と遊ぶため
走れる服着るの パートいくから
あたし おかあさんだから

あたし おかあさんだから
眠いまま朝5時に起きるの

あたし おかあさんだから
大好きなおかずあげるの

あたし おかあさんだから
新幹線の名前覚えるの

あたし おかあさんだから
あたしよりあなたのことばかり

あたし おかあさんだから
あたし おかあさんだから

痩せてたのよ おかあさんになる前
好きなことして 好きなもの買って
考えるのは自分のことばかり

今は服もご飯も 全部子供ばっかり
甘いカレーライス作って
テレビも子供がみたいもの

あたし おかあさんだから
あたし おかあさんだから

苦手なお料理頑張るの
あたし おかあさんだから

こんなに怒れるの
あたし おかあさんだから
いいおかあさんでいようって頑張るの

あたし おかあさんだから
あたしよりあなたのことばかり

あたし おかあさんだから
あたし おかあさんだから

もしも おかあさんになる前に
戻れたなら 夜中に遊ぶわ
ライブに行くの 自分のために服買うの
それ ぜーんぶやめて
いま あたしおかあさん

それ全部より おかあさんになれてよかった
あたしおかあさんになれてよかった
あたしおかあさんになれてよかった
あたしおかあさんになれてよかった

だってあなたにあえたから


2018年2月26日月曜日

珍味に萌え萌え


季節のせいもあってか、私の中の珍味熱が高まってきている。酒の肴の話だ。

魚卵、はらわた、肝臓など、平たく言えばそういうシロモノである。

アンキモや白子、塩辛にカラスミやスジコ。書いているだけでヨダレが出てくる。

5,6年ぐらい前までは年がら年中珍味攻めをしていた。尿酸値も高値安定で痛風発作がいつ起きるかと脅えていたが、最近は偏執狂のような珍味攻めからは遠ざかっている。

さんざん食べたから飽きちゃったのかもしれない。でも、ウマいものはウマい。スイッチが入れば今も時には珍味の宴で盛り上がる。


鯛の塩辛、スジコ、ばくらい(ホヤとコノワタ)、ウニ、カラスミ、シマエビの頭である。高田馬場の「鮨源」で飲んでいた時の一コマ。

小皿をいっぱい並べられるのが嬉しい。珍味好きにとっては迷い箸になっちゃうことが幸せの証である。

こういうものをチョビチョビ食べながら飲む酒は単純にウマい。銘柄なんか気にせず何でもOKって感じだ。

珍味イコール不健康というのが世の中の常識だが、毎日毎日食べるわけではない。持病があるならともかく、そうでなければ神経質になるのは人生の損だ。


プリン体含有量がトップレベルを誇る?鶏のレバーだって時々ドカ食いする。刺身で食べられる鮮度のものを少しだけ炙ってもらいポン酢であえる逸品なのだが、月に2回ぐらいの頻度だからヘッチャラだ。

ウナギを愛する立場としては肝焼きは外せないし、イカのはらわたの刺身を食べるために函館に行くこともある。



先日の血液検査では総コレステロールと中性脂肪がチョッピリ基準値を超えていたが、5年、10年前よりすべての数値が良い状態だ。

珍味ラバーの大敵である尿酸値はここ数年ずっと基準値の範囲に余裕で収まっている。自分で自分をホメてやりたい。

コレステロールにしても、今の基準値が厳しすぎるという学説も根強い。だいたい血液検査そのものが空腹時でなければ正しく計れないらしいから、きっと私の健康状態はかなり良好だ。きっとそうだ。

そう思い込むことも健康維持には大事なポイントだろう。


毛ガニである。トッピングはもちろん、カニミソだ。カニの中でも毛ガニが一番好きなのだが、その理由はミソの味わいに尽きる。

緑色っぽくなっちゃうとイマイチだが、この色であれば老若男女古今東西を問わずウットリできる。こちらは目白の「鮨おざき」での一コマ。

この店で有難いのがイバラガニの内子だ。カニの内子の中でもイバラガニの内子を置いてある店は東京でも滅多にない。


綺麗なオレンジ色が特徴だ。塩漬けされた状態。内子業界の女王と呼んでもいい。ネットリとして濃厚でチビチビ味わいながら酒を飲むと“陶然”という言葉が浮かんでくる。

ご機嫌になれば免疫力は上がる。免疫力が上がれば健康になる。そういう解釈もできる。ひょっとすると長生きにつながる食べ物かもしれない。

そんな屁理屈をこねまわして、無理やり珍味類を擁護しちゃうのは、ホントは珍味にビビっていることの裏返しかもしれない。

塩分、プリン体、コレステロール。中高年が注意すべき要素がたっぷりだから、逆につい手を出したくなる。禁断の魔力だ。

ネオン街の怪しげなスナックみたいなものだ。いや、もっと言えば、顔や性格が悪くても床上手だから離れられない魔性の女のようである。

2018年2月23日金曜日

賞味期限との闘い


たいていの食べ物に設定されている賞味期限。なかなか厄介である。


「ちょっとぐらい期限切れでも大丈夫」。これは事実である。でも「ちょっとぐらい」の判断が難しい。

レトルト食品みたいに一度加熱されている商品なら1週間や2週間過ぎていたって、まず問題はない。

生モノや乳製品だと何となく神経質になってしまう。どこの家庭にも冷蔵庫には必ずと言っていいほどビミョーに賞味期限が切れた食品が入っている。

TKG、すなわち生卵かけご飯が大好物な私としては、生卵の賞味期限は大きな問題である。サルモネラ菌とかいう恐竜みたいな名前の菌との闘いである。

いつもは厳密に期限を守っている。1日~2日過ぎただけでも生食は断念するのだが、先日、ふと度胸試しみたいな気分で、賞味期限から1週間経った生卵を食べてみた。

「1週間」って結構な時間だ。168時間である。ビビりながら小皿に割ってしげしげと眺める。白身や黄身の色合いはいつも通りだ。鼻を近づけて全神経を集中して匂いを嗅ぐ。

まったく問題ない。視覚と嗅覚を信用してガッツリ食べてみた。いつも通り美味しい。その後、お腹が痛くなることもなかった。

調べてみたところ、食品衛生ナンチャラの決まりでは、生卵について冬場は産卵後50日ぐらいは生食が認められているそうだ。

いつ産んだのかは消費者には分からないが、養鶏場に10日も20日も保管されているはずもないだろう。

各スーパーは念のため賞味期限を2週間に設定しているが、かなり余裕を持っているわけだ。目玉焼きのように加熱する場合なら賞味期限をかなりオーバーしてもヘッチャラだということ。

「富豪」を目指している割には、セコい話題になってしまったが、ケチ自慢をしているわけではない。

食べ物類を多めにストックするクセがある私としては、頻繁に賞味期限とニラメッコしている。


お気に入りのラーメンである。スーパーに置いてある生麺タイプの中では一番ウマいと思っている商品だ。喜多方ラーメン本舗の逸品。

賞味期限切れで捨てるのは惜しい。期限切れから10日ほど過ぎても味はちっとも変わらない。お気に入りだから2週間ぐらい過ぎていても普通に食べる。

どのぐらい経っても大丈夫なのか、少しづつトライし続けようと考えている。記録?を更新し続けたら随時報告したい。

何だかんだ言って、「変な匂いがしなければ食える」。結局はそれが真実だろう。そのために嗅覚という機能があるわけだ。

人間だって同じだ。賞味期限が切れちゃうと加齢臭が出てくるのかもしれない。

中高年にもなると、自分がまだ「現役」かどうかを気にしがちだ。すなわち、男としての賞味期限が切れていないかという心配だ。

まあ、賞味期限が切れちゃっても「消費期限」はまた別モノである。味は落ちてもまだまだOKという考え方もある。

変な話になってしまったが、要は賞味期限といっても画一的に線引きする必要はないと言うことだ。

「賞味期限切れの男」。そう呼ばれたら哀しすぎる。

腐臭が漂ってこないように風呂にはマメに入ろうと思う。

2018年2月21日水曜日

昭和歌謡


昭和歌謡が若者の間で人気らしい。親の影響や動画サイトで身近になっていることが原因みたいだ。イマドキの歌も聴く一方で昭和の歌を新鮮に感じているようだ。


ちなみにこの画像は、高校生の娘とカラオケボックに行った時のものだ。歌ったのは私ではない。娘だ。ビミョーである。

ゴールデンボンバーの曲だが、歌詞の世界観がシュールで結構気に入ってしまった。

話を戻す。

電子音などで懲りまくった今の歌とシンプルで歌詞の世界をじっくり聴かせた昔の歌とでは、うどんとそばぐらいの違いがあるのかもしれない。

昭和歌謡を若い世代が新鮮に感じるのは、歌の中にある物語性が突出しているからだと思う。

ちあきなおみの「喝采」、太田裕美の「木綿のハンカチーフ」、「ルビーの指輪」や「5番街のマリー」あたりは、純粋に物語をメロディーに載せて聴かされている感じだ。

小説や映画を観た時のような余韻に浸れる。昭和の専業作詞家の構想力、創造力の凄さだろう。

背景の描写も巧みで、知らぬ間に物語の中に引き込まれる。まさにプロのワザだ。


♪いつものように 幕があき
恋の歌うたう私に 届いたしらせは
黒いふちどりが ありました
あれは三年前 止めるあなた駅に残し
動き始めた汽車に ひとり飛び乗った♪


「喝采」は最初の数十文字で一気に歌の世界が映像として頭に浮かんでくる。この導入は神ワザと言うしかない。

聴く人をその歌にどっぷり浸らせるには、やはり歌い出し部分がカギを握る。そのあたりの戦略が練りに練られた歌がいくつもあった。

石川さゆりの「津軽海峡冬景色」もその象徴だろう。♪上野発の夜行列車 おりた時から・・・。これだけで哀愁の世界にズッポリって感じだ。

♪五番街へ行ったならば
マリーの家へ行き
どんな暮らし しているのか
見て来てほしい♪

かの高橋真梨子がペドロ&カプリシャス時代に歌っていた「5番街のマリーへ」の導入部分だ。歌い出しを聴いただけで、マリーさんには幸せでいて欲しいと思う。

導入部分に限らず、わずかな言葉で情景がイメージできる名曲がたくさんあったのが昭和歌謡だと思う。



♪何も知らずに あなたは言ったわ
たまにはひとりの 旅もいいよと
雨の空港 デッキにたたずみ
手をふるあなた 見えなくなるわ
どうぞ帰って あの人のもとへ
私はひとり 去ってゆく♪
(テレサテン「空港」)



♪悲しいのでしょうと 夢の中
見知らぬ人の問いかけに
声も出せずにうなずいて
それはあなたがやっぱり好きだから
いじわるなあなたはいつでも坂の上から手招きだけをくりかえす
私の前には硝子坂
きらきら光る硝子坂♪
       (高田みづえ「硝子坂」)


♪あのひとから 言われたのよ
午前五時に 駅で待てと
知らない街へ ふたりで行って
一からやり直すため
あのひとから 言われたのよ
友達にも 打ち明けるな
荷物をつめた トランクさげて
また空いた汽車を 空いた汽車を見送った
        (麻生よう子「逃避行」)


♪あなたがかんだ 小指が痛い
昨日の夜の 小指が痛い
そっと唇 おしあてて
あなたのことを しのんでみるの
私をどうぞ ひとりにしてね
昨日の夜の 小指が痛い♪
     (伊東ゆかり「小指の思い出」)



♪バスを待つ間に 泪を拭くわ
知ってる誰かに 見られたら
あなたが傷つく
何をとり上げても 私が悪い
過ちつぐなう その前に 別れが来たのねどうぞ 口を開かないで
甘い言葉 聞かせないで
独りで帰る道が とても辛いわ♪
       (平浩二「バスストップ」)


なんだか私の好みを押しつけている感じだが、ここに羅列した歌が持つ妖艶な感じは、やはり昭和という時代ならではの空気感を感じる。

単なる懐古趣味ではない。アナログだった時代ならではの“メロウな情感”に充ち満ちていたのは確かだ。

アイドル歌謡だって実に上手に練られた歌詞で当時の若者を惹きつけた。私が思春期手前だった頃に胸を焦がしたのが「年下の男の子」である。

♪真赤なリンゴをほおばる
ネイビーブルーのTシャツ
あいつはあいつはかわいい 年下の男の子
淋しがりやで生意気で
憎らしいけど好きなの ♪

リンゴを見るたびにこの歌が頭の中で響いた。子どもだった私も当然のように自分に置き換えて、かなり年上の蘭ちゃんの歌う姿にドキドキしていた。

思えば、ピンクレディーの数々のヒット曲も、冷静に聴けば奇妙キテレツな歌ばかりである。「UFO」「透明人間」「モンスター」等々、ある意味でハチャメチャだが、そんな異次元感?が、その他のアイドルと一線を画す戦略だったのだろう。

昭和歌謡の衰退とともに台頭したニューミュージックやそこから派生した和製ロックの世界は、作詞者を当事者とした主観や主張が特徴だ。

いわば、内面から滲み出る葛藤みたいなものを描く世界である。創作された物語としての要素が強い昭和歌謡とは様相が異なる。

善し悪しではなく、歌を作る上でのアプローチが違うわけだ。イマドキの歌詞の世界がツイートや日記だとしたら、昭和歌謡の歌詞は短編小説みたいな路線だったのだろう。

ダラダラと書いてしまったが、とくにオチはない。昭和歌謡の世界観を今更ながらしみじみ噛みしめたい今日この頃である。

2018年2月19日月曜日

抱き枕 ハズキルーペ


確定申告を早々に終わらせた。税理士さんに頼んでいるので私自身が面倒なことをしたわけではない。

2カ所から給与収入がある関係で確定申告をするハメになるのだが、基本的には納付にはならず還付になる。毎月毎月、余計に源泉徴収されているわけだ。

日々、ピーピーしているから、とっとと返してもらいたい。

還付の場合は2月16日からの確定申告期間に関係なく年明けから申告できるのだが、税理士さんの手間もあるので、今頃の提出になった。

還付金は毎年ちゃんと貯金しようと思うのだが、いつのまにか消えてしまう。困った問題である。

ふるさと納税のワクをほぼピッタリに使い切っていたことに税理士さんが感心していた。私自身はもう少しワクが残っていると試算していたので、あくまで偶然である。

食べ物を中心に全国各地の自治体から返礼品をもらって暮らしているのだが、食べ物以外にも結構いいモノを手に入れた。


抱き枕である。デカいやつを大阪府和泉市からもらった。これがスグレもので日々の私の安眠をサポートしてくれる。長さがあるから抱きかかえるだけでなく、足も絡みつけられる。

なんだかミョーに落ち着く。眠りの質が深くなったような気がする。カバーも洗濯できるし、シングルライフの相棒として最適だ。


最近、やたらとTVコマーシャルを流している「ハズキルーペ」も手に入れた。静岡県藤枝市からの返礼品だ。

私のライバル?である館ひろしもご愛用の拡大鏡である。最近すっかり老眼が進んでしまった私にとっては便利なシロモノだ。

ちなみに館ひろしとの因縁?はこちら。
http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2009/06/blog-post_03.html

あの館ひろしがこういう商品の宣伝に登場するようになったわけだから、私が老け込むのも仕方がない。

話がそれた。

ふるさと納税の返礼品にすっかり詳しくなった私だが、コメやレトルト食品、ウナギに野菜ジュース、イクラやウニなど定番商品が決まってきた。

それぞれ数多くの自治体が無数に返礼品を用意しているが、個人的に好みが絞られてきた感じだ。


コメは「つや姫」が好きだが、最近のお気に入りは福岡県行橋市から送ってもらう「ゆく鴨米」だ。粒が大きく硬めに炊くとウマい。

「農薬や化学肥料を使わず、鴨が育てたコメ」なんだとか。よく分からないが、2合キューブの真空状態なので使い勝手も良い。

近頃では、無洗米をつや姫、普通のコメをこっちと使い分けている。私のエネルギーの源だ。

一種のブームみたいな雰囲気も手伝って、ふるさと納税の返礼品はまさに百花繚乱。選ぶのが大変だが、私にとっての基準は「小分け」されているかどうかだ。

コメだって一気に何十キロも送られたら味が劣化するだけだ。イクラだって同じ。1パックに1キロも入っていたら普通の家庭だったら困ってしまう。


さて、最近のヒット商品がこれ。ウニの瓶詰めである。ウニの瓶詰めも数限りない商品が返礼品にラインナップされているが、ウマいかどうかは食べてみるまで分からない。

イクラならハズレはさほど心配ないが、ウニの瓶詰めは加工品である。好みではない味にあたると一口食べてゲンナリする。

北海道の知内町から送られてきた画像の商品は、塩が強すぎず、生ウニの風味が残っていて非常に美味しい。

3つセットで冷凍で送られてくる。冷蔵庫に移して自然解凍するだけで、最高の酒のアテになる。炊きたてご飯のお供にもバッチリだ。

つくづく、いまどきの冷凍モノには感心する。ウナギや焼魚だってまっとうに美味しい商品がいくらでもある。

わが愛する松屋の牛丼の具だって、湯煎するだけでお店と変わらないレベルの味が楽しめる。静岡県富士宮市の返礼品である。

縁もゆかりもない場所だが、牛丼のためなら私の税金もきっと喜んでいるはずだ。

2018年2月16日金曜日

変態街道


「自分が変態じゃないかって心配になるんです」。こんセリフを耳にした。若い女性の発言だが、なんのことはない。単にしょっちゅうエロいことを妄想するというだけの話である。

汚いオッサンに襲われるぐらいの妄想だとか。しゃらくさい。その程度の妄想で変態だったら、世の中の男は間違いなく全員が変態大魔王である。


以前、このブログで紹介したことのあるイラストである。だまし絵というジャンルになるのだろうか。男の頭の中はエロいことばかり考えているという意味である。

さてさて、変態の定義は難しい。ある人にとっては普通のことが別な人からみれば異常に思える。趣味嗜好の世界だからマトモか否かの線引きは難しい。

男同士でセックスに励む、いわゆる男色にしても、今でこそ変態扱いの代表みたいなイメージだが、江戸時代までは割と普通の習慣だった。

「西郷どん」だってそういう話はあるし、戦国武将の間では一種の嗜みだったらしい。明治初期に、わざわざ男色を禁止する条例が出たぐらいだから、ポピュラーだったことは確かだ。

いま私が男にヤラれそうになったら「やめろ変態野郎!」と叫ぶだろうが、時代によっては、そんなセリフ自体が成り立たないわけだ。

要するに、それをする人間が多いか少ないかで変態の定義は変わってくる。

街を歩いている人すべてが全裸だったら、スーツを着ている私は立派な変態である。

スカトロや獣姦みたいなエゲつない系だって、それが多数派になれば誰もそれを変態とは呼ばないわけだ。

それはそれでチョット恐い。

一般的にノーマルなこと以外はすべて変態扱いされがちだが、ノーマルということ自体がよく分からないのも確かだ。

突き詰めれば、処女と童貞が初めて結ばれる時ぐらいじゃないとノーマルな姿とはいえないかもしれない。

無我夢中、猪突猛進ぐらいしかノーマルとは言えないだろうから、ちょっとでもエロい邪念で余計なことをしたらその時点でアブノーマル、すなわち変態の世界に突入である。

場数を踏んだら誰でも変態。そういうことだと思う。

ちなみに「正常位」という言葉もビミョーだ。ずいぶん乱暴な言い方である。他の体位は異常という意味である。四十八手を考えたら四十七が異常である。討ち入りしたくなるほど義憤に駆られる。

変態の定義を考えたところで結論は出ないが、結局はスケベ度合いの強い人を単に変態と呼んでしまうのが今の風潮である。

だから私も変態である。

これを読んでいる皆さんも変態だ。きっと。

さて、年相応に変態人生を歩んできた私としては、世の女性が隠し持っている変態性を垣間見るのが好きである。

記者としての技量を駆使して?いろいろな話を取材してきた。

縛られるのに興味がある、目隠しプレイに興奮する、コスプレが欠かせない等々、女性陣の中にもそれなりに「変なこと」に関心を持つ人は多い。

もっとビックリするような性癖を聞き出すことも結構あるのだが、話が脱線するので省略。

いずれにしても、そうした嗜好の芽が育つのは時代が平和であることの証だ。殺伐とした時代にソッチ方面がバラエティー豊かに花開くことはない。

平和の証である変態文化の成熟は喜ばしいことだが、世の中は窮屈な価値観を是とするから、そうした素敵な嗜好を高らかに宣言する人はいない。

もともと、暗黙の社会秩序のせいで、女性は自らのスケベ要素をあからさまに語ることはない。奥手のフリをしたり、フシダラではないように振舞うのが基本姿勢だろう。

そんな殻を破らせて本音を聞き出すのは楽しい。あわよくば実践に持ち込みたいという下心もあるが、それは隠して取材に励んでいる。

いわば「性歴詐称」を暴くジャーナリスト活動である。

まあ、それ自体が私の変態性の証かもしれない。

富豪記者ならぬ変態記者である。





2018年2月14日水曜日

若ぶることはイタいこと


なんだかエラそうなタイトルだが、妙に若作りしたオジサンに会う機会が重なったので、今日はそんな話を書く。

若々しく行動することは大事だ。老け込んだってトクすることはない。ただし、若々しくいることと若者のマネをすることは違う。ここを勘違いしているオヤジ達が多い。

似合ってない若者向けの服に身を包み、ハヤリの若者言葉まで使っているオジサンは気味が悪い。痛々しい。あれは単なる自己否定ではなかろうか。

年齢を重ねることに無駄な抵抗をするより、その年齢から滲み出る円熟した部分を肯定した方が格好いいと思う。

男女問わず、50代、60代、70代になっても他人から素敵だなあ、渋いなあと思われる人のことを思い返してみればわかる。

そういう人々に共通しているのは、年齢相応の品格みたいな空気を自然に醸し出している点だ。無理に若作りしているわけではない。

身につけるものしかり、身のこなしや話し方だって若者に迎合することなく、円熟した物腰で生きている。

無理に若作りしている中高年には心の余裕が感じられない。中高年にとって「余裕」こそが最大の武器である。その基本がおろそかになっているから不自然に見えてしまう。

デンと構える余裕。これが何より大切だろう。

そりゃあ、近づいて耳の後ろをクンクンすれば変な臭いがするかもしれないが、そればっかりは仕方がない。

男の目から見ると、妙にキンキラした美魔女と称されている若作りオバサンもブキミだ。あのブキミさは外見ばかりを若者風にしているからだと思う。

中高年になっても活躍している女優は美魔女とは呼ばれない。上っ面だけ若者をマネしているわけではないことが理由だろう。

黒木瞳や田中美佐子しかり、60歳前後の原田美枝子、樋口可南子、名取裕子だって皆さん、年相応に円熟した雰囲気が魅力になっている。

男が中途半端な美魔女をブキミに思うのと同じで、女性から見てもヘンテコな若作りオジサンは痛々しいだけだ。

もちろん、あえてオジサンくさい格好をすべきという話ではない。いくつになっても現役感は大切だ。多少の色気も必要だ。

とりあえずは若い頃より質の高いものを選び、自分なりのこだわりをキチンと押し通すべきだと思う。

私自身は「ダンディー」という言葉に惹かれる。そんな路線を目指したい。でも、ダンディーの意味や定義って何なんだろう。

ネットで「ダンディー」を調べてみたが、チンプンカンプンだ。よく分からないが、まあ、ダンディーといえばダンディーである。世間一般に漠然とイメージされるダンディーってやつである。

これ見よがしではない渋み、とでも表現すれば的確だろうか。適度な存在感の中に余裕と品格を感じさせる円熟味。そんな感じだろう。

肩の力を抜いて少しぐらい哀愁を漂わせるぐらいがちょうどいい。慌てず騒がず泰然自若でいながら、時々は“可愛こぶりっこ”するトッポさも持っていたい。

なんだかよくわからない話になってきた。

結局のところ、中高年の目指すべき路線は「中条きよしとかたせ梨乃」かもしれない。

http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2015/09/blog-post_4.html


2018年2月9日金曜日

寿司の変化球


昔より食が細くなったせいで、ダラダラ酒を飲んでいると肝心の食事にたどり着かないことが増えた。由々しき事態である。

お寿司屋さんのカウンターで調子よく飲んで、握りを一つも食べずに帰るのはヤボの極みだろう。

仕方なく2~3貫は食べるが、“仕方なく”ではもったいない。私にとってもお店にとっても不幸である。

というわけで、最近はツマミの合間に握りをもらうようにしている。おかげで、何だかんだと8貫ぐらいは食べるようになった。

今更ながら寿司飯バンザイである。

この頃はすっかり出不精になって、ワガママが言える店ばかりに足が向く。オーソドックスな握りの他に、ついつい“変化球”を求めてしまう。


「ウニぎり」である。ウニを酢飯と混ぜ合わせてから軽く焼おにぎりにしてもらった一品。画像は崩した状態だ。

そりゃあウマいに決まっている。ただ混ぜ合わせるより火を通すことで香ばしい風味に変身する。目白の「鮨おざき」での一品。


こちらは赤酢の寿司飯を使っている銀座の「さ久ら」のウニの握り。画像では分かりにくいが、やはり寿司飯が焼おにぎり状態になっている。香ばしさがウニの甘さを引き立てる。


ウニやイクラの握りが出てくると、他のネタの時よりもワクワクするが、そのワクワク感をより強めたい時は小鉢でドンブリ風に出してもらう。

軍艦巻きでチョロンと乗っかったウニやイクラを大事に味わうのもオツだが、こうすることで「かっ込む」という別次元の嬉しさがある。


続いては先ほどの「ウニぎり」のタラコバージョンである。私はこれが一番好きだ。世界中に専門店を出したいぐらい美味しいと思う。この画像を見るだけで身震いするほど興奮する。

「寿司飯邪道会」の中核メンバーである私のお気に入りは他にもある。ホッキ貝をバター炒めにしてもらって堪能した後に残り汁をベースに作ってもらう「寿司飯のリゾット風」である。


残り汁というか、バターの味がしっかり残ったソースである。だいたいお寿司屋さんでホッキバターを注文すること自体が邪道だが、このリゾットのためだけについ注文してしまう。最近はバルサミコをちょこっと混ぜたり進化を続けている。時にはトリュフまで散らしてもらう。邪道には邪道の喜びがある。

さて、酒を飲みながらシャリも食べるとなると、つい巻き物を頼みたくなる。たいていはハーフサイズにしてもらうが、ハーフでも普通の一貫分よりは量がある。

ということで、巻き物として食べがちな梅キュウ、おぼろカンピョウなどを軍艦にしてもらうこともある。


ワガママといえばワガママだが、カウンターであれこれやり取り出来るのがお寿司屋さんの本来の姿だ。極端に脱線した話ではないだろう。

御勘定はブラックボックス!?だし、「お好み」という食べ方がある以上、極端にヘンテコなリクエストでなければ何も問題はない。 と思っている。

冬の寒さの中、暖かいお寿司を食べるのも幸せだ。蒸し寿司といえば関西の定番だが、銀座の「さ久ら」で常時頼めるのが、あんかけ蒸し寿司である。




それぞれ金目鯛、アサリ、ハマグリの蒸し寿司である。握った状態のシャリとネタを蒸して餡をかけて味わう。アッチッチな寿司も独特な美味しさがある。

魚貝のウマみと酢飯の酸味と餡のダシがミックスされて、日本の料理が世界で一番だと叫びたくなる。

大げさかもしれないが、私にとって、この国に生まれて良かったことの一つが、寿司の母国だということ。

ホロ酔いになりながら、いつもそんなことを考えて帰路につく。

ついでに言えば、焼鳥屋や鰻屋に行っても実は同じである。いつも「この国に生まれて良かったことといえば・・・」と独りごちている。

2018年2月7日水曜日

悪友連合 女は強し


先日、旧友達と飲む機会があった。集まったのは7人ほど。場所は六本木の老舗串焼き屋の「南蛮亭」。ここの創業家ジュニアが悪友仲間なのでアルコール持ち込みで騒がせてもらった。

気付けば全員50歳を超え、次から次に出てくる名物の串焼きも後半にはキツくなり、野菜スティックをかじって酒ばかり飲むようになった。

この日のメンバーは、いわば悪友連合である。高校時代は飲酒喫煙不純異性交遊の罪!?で長い停学処分をくらったり、大人になってからも草野球チームを作って、試合後の宴会のために頻繁に集まった仲である。

小学生の頃からの付き合いだ。それぞれの親も知っている。旅行にも行ったし、お互いの結婚式にも招き招かれた関係だ。なぜか私は
そのほとんどでスピーチをしている。

中には二度も呼んでくれたヤツもいる。

幸いにして?この日は禿げ上がったメンバーこそいなかったが、白髪率やお腹周りの膨張率は結構な水準。例外的に格闘技にハマって鍛え抜いている男もいるが、おおむねお疲れ気味のオジサマである。

この顔ぶれで飲む時は、いつもそれぞれの仕事の話がまったく出ないのが特徴だろう。これって結構幸せなことかもしれない。

この歳になって仕事絡みの話題を100%抜きにして延々とバカ話に没頭できるのは有難い。利害関係も無いし、童心に返るというより純粋にリラックスした時間が過ごせる。

友人の一人が赤坂あたりで焼鳥屋さんを開業しようと計画しており、その詳細を聞くことがこの日のメインテーマだった。

ところが、とくに進展が無かったとのことで、結局はいつもの脈略なきゲス話でワイワイガヤガヤ。

それぞれの近況やその場に来られなかった友人の噂話、誰々が離婚しただの、誰々が転職しただの、とりあえずどうでもいい話に尾ヒレをつけて盛り上がる。

その日のメンバーが持ち寄ったトピックスもさまざまだ。

嫁さんにスマホの角で頭を殴られている男、出会い系の酒場で大枚はたいて何もいいことがなかった男、そいつを横目にさっさと彼女を作った男・・・等々。

ほかにも、毎日のように歩いているだけで職質を受ける男、アッチが元気になる薬を試しても常に副作用に苦しんで困っている男など、まさに人生いろいろである。

この日、遅れてやってきた男がうら若き女性を連れてきた。男子校出身者である我々は、そんな一輪の花が登場するだけで、がぜん盛り上がる。

その男によると、三度目の結婚を考えている相手だとか。まだ20代の女性である。二回りほど年下だ。

良いとか悪いとか、ひがむひがまないの問題ではない。その勇気が大したものである。枯れかけている?我々にとって、まだまだ老け込んではいけないという暗示のような話である。

だいたい、この日の顔ぶれを考えたら、大事な女性を連れて来ることは英断である。当然のように私を筆頭に悪友連合総出でヤツの失敗談などを遠慮会釈なくぶちまけ始める。

最初の結婚式や二度目の結婚式の顛末、その際の引き出物だった夫婦の写真入りマグカップに笑った話なども平気で繰り出す。

若き日にヤツが女性とネンゴロになるために使っていた究極の必殺ワザ「土下座」のエピソードなど下ネタもバンバン投下。

ヤツともう3年ぐらい付き合っているというその女性は、悪友連合のメタメタな話に動じることなく、ずっと楽しそうにニコニコしていた。実にエラいと思う。

酒も入ってオッサン丸出しの我々に笑顔で対応し続けるのは立派だ。幼稚園の時から親しかったヤツには「三度目の正直」を願うばかりだ。

いや、「二度あることは三度ある」ということわざもある・・・。

まあ、それはそれで退屈な人生を過ごすよりは有意義だろうから奮闘してもらいたいものだ。

ちなみに、この日集まった悪友連合には、ちょっとした共通点がある。全員、父親はとっくに死んでいるというのがそれだ。

それぞれの母親はご健在。みなさん元気で過ごしているらしい。

女は強し。

つくづくそんなことを感じた夜だった。

2018年2月5日月曜日

看護婦さん 婦人警官


仕事で記事を書く際には、マスコミ業界独自のルールに縛られる。何気なく会話で使っている「キチガイ」、「めくら判」「片手落ち」あたりは禁句だ。

書き殴った原稿にマズい表現があれば、校正担当者にキチっと直される。直されるとホッとする反面、なんとなく窮屈な気がするのも本音だ。

「言い換え」にも気を使う。ドカタや浮浪者はそれぞれ建設作業員、ホームレスと表記するのがルールだ。

ポン引き、二号さん。それなりの年齢の人なら会話の際に普通に使う言葉だが、これも言い換えの対象になる。それぞれ、客引き、愛人。

町医者は開業医、百姓は農民、女中さんはお手伝いさん等々。子供の頃から普通に使ってきた言葉だし、会話なら今も使うことがあるが、その呼称を不快に感じる人がいるならば言い換えは必要だろう。

一応、もっともらしく書いてみたが、そうは言っても、個人的には違和感や不自然さを感じることもある。アル中、タコ部屋なんかも一応ダメな言葉に分類される。

他にも、共稼ぎは共働き、父兄会は父母会など、「なんだかな~」と言いたくなるものもある。

例をあげるとキリがない。

私が古いのかもしれないが、やっぱり白衣の天使は看護婦さんという言葉のイメージが強い。「看護師」は男性ならともかく、女性だとピンとこない。

数々の呼称から「婦」が消え始めたのは15年ぐらい前からだろうか。男女雇用機会均等法が契機だったはずだ。いまや看護婦はもちろん、助産婦さんも助産師さんと表記するのがルールだ。

婦人警官という呼称ももともと通称ではなく正式に法律に記されていたものだが、今では女性警察官に改められている。「婦警さん」は死語ということ。

「婦」とか「婦人」が何故ダメなのか、正直よく分からない。一種の言葉狩りのように思える時もある。

その昔は正式な用語だった「婦人参政権」も今では「女性参政権」に言い換えられている。ヘタをすると歴史上の用語まで改ざんされかねない。

まあ、そんな堅苦しいことを言ったところで仕方がない。これも時代の流れなんだろう。

看護婦が看護師に変わったように「〇〇婦」の「婦」が禁句扱いなら、いろいろとヘンテコなことも考えたくなる。

「売春婦」はどうなる?「売春師」なのか。なんだか凄いテクニシャンが手ぐすね引いて待ち構えている感じだ。

「娼婦」だってそうだ。「娼師」。これまた謎の秘術を使いこなす達人のような響きだ。

もっとあれこれとイヤミったらしいことを書きたかったが、炎上しちゃったら困るのでこの辺でやめておく。

2018年2月2日金曜日

冬のかき氷 目白 志むら


「甘味」。かんみ、あまみ。どちらの読み方が正しいのか知らないが、関東ではかんみ、関西はあまみが主流らしい。

個人的には「かんみ」という語感が好きだ。官能的の「かん」、感激の「かん」であり、あまみと呼ぶより軽快な気がする。

酒も好きだが、甘味も好きだ。四六時中食べるわけではないが、割としょっちゅう口にしている。

コンビニでレジ待ちしていても、レジ付近にこれみよがしに置いてある小さいお菓子を衝動的に買ってしまう。

タバコを買いに行ったのに、なぜだかグミも大量に仕入れちゃうことも珍しくない。


デパ地下でよく見かける「両口屋是清」の詰め合わせだ。お茶と一緒に楽しむとホッコリする。割と日持ちもする。頂き物で知ったのだが、すっかりファンになった。

コーヒー、紅茶より日本茶党である私としては、洋菓子よりは和菓子のほうが好きだ。そうは言っても、近頃のコンビニに置いてあるシュークリームやプリン、カスタード系の洋菓子のウマさにも悶絶する。

頻繁に我が家に泊まりに来る娘のためにアイスクリームをあれこれ取りそろえる習慣がついてしまった。


親バカだから、ちょっと高いやつばかり買う。アイスにこだわりのない私としては「ピノ」や「ガリガリ君」で充分なのだが、娘に対してはエエカッコしいになってしまう。

たまに自分でも食べてみるが、さすがに高いだけのことはある。ゴディバのアイスなどは数あるチョコ系のアイスの中でも抜群にウマい。

話は変わる。

先日、歴史的な低温状態にもめげずに「かき氷」を食べた。気が狂っている人みたいだが、それを注文した自分を誉めたくなるほど感激する味だった。

知る人ぞ知るかき氷の名店が目白にある。老舗の和菓子屋さん「志むら」の2階にある喫茶室だ。

夏場はいつだって行列している。各種のかき氷は1000円前後の高い値付けにかかわらず大人気である。

見た目も凄い。インスタ映えを狙う人が増えたせいなのか、もはや夏場は気軽に入れる店ではなくなってしまった。

冬でも冬っぽい味付けのかき氷がメニューに用意されているのが有難い。天然水を使ったフワフワな氷だから、変な言い方だが、そんなに冷たくない。

キーンとくる冷たさと言うより、上質なシャーベットぐらいの感覚だろうか。さらさらふわっと口の中で瞬時に溶けていく。


その名も「ほうじ茶豆乳ラテ」なるスペシャルなかき氷である。期間限定だとか。

豆乳クリームのムニョムニョした甘さにクラッシュされたナッツの食感、そこに甘味のあるほうじ茶風味の氷が混ざり合って、身震いしながら昇天してしまった。

男なら誰も一度は妄想する「ワカメ酒」をこのかき氷で試してみたいとアホ丸出しの考えが頭をよぎる。

さすがに冷たくて無理だろう・・・。

脱線してしまった。

遠くからでも食べに来る価値アリ。そんなレベルだと思う。



この日は黒蜜とあんこを使った和風パンケーキとオーソドックスなおしるこも注文した。

暖かい甘味とともにシェアすれば冬のかき氷もなかなかオツだと感じた。平日の夕方あたりを狙って、また違う冬のかき氷を食べに行きたい。