2021年12月29日水曜日

閲覧数ベスト10


今年の更新は今日でおしまいです。何だかよく分からない1年だったような気がする。多くの人が同感してくれるはずだ。

 

昨年は新型コロナが今より謎めいていたから緊張感があったが、今年は規制や制限の裏で、慣れや達観も出てきたから何となくウジウジしているだけで時間が過ぎていった感じだ。

 

活動的にもなれず、かといって闇雲に自粛することもなく中途半端な1年だった。来年もこの傾向が続くのか、少しずつ活発に動き始められるのか、まだ誰もが分からないから困ったものだ。

 

今日は、このブログの年間閲覧数ベスト10を紹介したい。1年の総集編的に目を通していただけたら有難いです。

 

並べて見ると実に脈略の無いブログだと痛感する。テーマを絞った方が閲覧数は増えるのだろうが、もう十何年もこのスタイルで続けてきたから今後もこんな感じで続けていきたい。真面目な話からワイ談まで何でも書き殴ろうと思う。

 

さてさて、今年1番読んでもらえたのが銀座ネタ。コロナ禍ですっかり悪役になった夜の銀座に同情した話。

 ★銀座のクラブで夕飯を食べる

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2021/02/blog-post_17.html

 

続いては靴のネタ。以前はマメに靴の話を書いてきたが、最近はネタ枯れ気味だ。やはり趣味の世界をテーマにすると多くの人から興味を持ってもらえるみたいだ。

 ★靴を愛する

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2021/04/blog-post_14.html

 

3位は真面目な話。オリンピック開催をめぐって春頃に書いた。春から夏へのあの感染の広がりがまた甦らないことを願う。

 ★謎の国

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2021/05/blog-post.html

 

続いて第4位。私が一応は「ちゃんとした人」だと力説した話。

 ★ちゃんとした人

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2021/04/blog-post_07.html

 

5位はナゼ上位に来たのかよく分からない話。画像が素敵だったからだろうか。

 ★見栄の話

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2021/05/blog-post_14.html

 

続いても夜の銀座ネタ。感染対策に気をつけながら実地調査に何度も出かけたうえでの雑感。まだまだ以前の活気には程遠い状況だ。

 ★銀座のクラブと空気感

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2021/06/blog-post_28.html

 

7位は話題になったネットフリックスの作品の話。描かれていた時代に青春時代を過ごした私としてはあの頃の熱気を思い出して興奮した。

 ★全裸監督シーズン2

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2021/07/2.html

 

続いても下ネタ。正直に言えば私は下ネタを書くのが好きだ。でも生まれ持っての上品さのせいで?大胆すぎる書きっぷりにはならないのが問題である。

 ★秘すれば花 下ネタです

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2021/06/blog-post.html

 

お次は高級路線のウマいものの話。ペヤングやマックばかり喜んで食べてはいけないと再認識した時の話だ。

 ★赤坂辻留 文化を味わう

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2021/05/blog-post_31.html

 

最後、第10位は私が子供の頃に“カッチョイイ大人の男”として憧れの存在だった田村正和サマの話。今年も多くの有名人の訃報に接したが、自分が歳を重ねるに連れ若い頃の思い出が少しずつ消えていくようで残念だ。

 ★田村正和も教科書だった

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2021/05/blog-post_26.html

 

 以上です。なんだかんだといろいろなことがあった2021年ももうすぐ終わる。淋しいような、さっさと終わって欲しいようなヘンテコな気分だ。

 

個人的には何度も寝込んだからダメな1年だった。今まで以上に年齢を実感させられた1年だった気がする。まあ、今こうしてこれを書いていられることは無事平穏に暮らしている証だから、それだけで喜ばしいことかもしれない。

 

このブログを読んでくださっている皆様にとって、来年が今年より良い年になることを切に祈っています。

 

 

★来年は17日から更新を始める予定です。






2021年12月27日月曜日

長寿と肉

 

歳をとっても元気な人は牛肉を好んで食べていると聞く。先日99才で亡くなった瀬戸内寂聴さんも晩年までステーキが大好物だったそうで、昨日最終回だった大河ドラマで描かれた渋沢栄一翁も牛肉を好んで食べていたそうだ。

 



今ほどの長寿社会じゃなかった時代に92才まで生きた渋沢翁は女遊びも尋常じゃないレベルだったようで、そんなパワーの源も牛肉だったのかも知れない。

 

というわけで、私も必死に牛肉を食べないといけない。でも最近はすっかり牛肉の重さが苦手になった。栄養素が抜けちゃったような牛丼の肉なら喜んで食べるのだが、ちゃんとした牛肉はつい敬遠したくなる。

 

ここ数年、豚肉のほうが100倍好きだ。週に45回は食べている。豚肉はあまり長寿との絡みで話題にならないようだが、徳川最後の将軍・慶喜公は相当な豚肉マニアだったらしい。

 

豚肉が好きな一橋の殿様という意味で「豚一」と呼ばれていたそうだからホンモノである。15人の将軍の中で一番長生きした人だから案外豚肉も長寿に貢献するのかも知れない。

 

さて、12月は会食が多く渋々牛肉の宴に参加する機会が何度もあった。困ったことに大人社会での会食となると、すき焼きやしゃぶしゃぶはその店のメニューの中でも上ランクのものを選ばないとならない不文律?がある。

 

一同みな赤身肉のほうが嬉しいのに、わざわざ値段の高い霜降り肉を食べてゲンナリするのがニッポンのオジサマ達の哀しい風習である。

 


 

先日、銀座の老舗「吉澤」に行く機会があった。すき焼き大会だ。この店はお肉のランクが確か10段階ぐらいに分かれているのだが、運良くこの日は「真ん中」レベルを食べることになった。

 

本当は下の下ぐらいが脂身が少なくて嬉しいのだが、さすがにそうもいかない。ツラいところである。この日はコースだったのですき焼き以外も牛肉が攻めてきた。

 




 

ローストビーフや小さいステーキもやってきた。美味しいのだが、すき焼きの前にこういうのが続くのはキツい。カニの甲羅焼きみたいなグラタン的一品が私をホッコリさせてくれた。

 

中学生や高校生の頃の自分をタイムマシンで連れてきて今の私の代役として食べさせたいと思った。あの頃は延々と肉を食べてもヘッチャラだった。キロ単位で食べられた。胸焼けや膨満感とも無縁だった。

 



 肝心のすき焼きはかなり美味しかった。でもすっかりヘタレた今の私は一枚でちょうどいいぐらいだ。渋沢栄一翁のように晩年までエネルギッシュでいたいから頑張って3枚も食べた。寿命が2年ぐらい延びた気がした。

 

すき焼きと違って焼肉屋さんの宴のほうがちょっと気が楽だ。焼き担当になって人様のためにせっせと肉を焼き、自分はほとんど食べなくても間が持つ。

 

先日訪ねた某焼肉屋では一品メニューからセンマイ刺し、チャンジャ、自家製コンビーフを頼んで、それらをツマミに焼酎をグビグビ、肝心の焼肉は一枚も食べずに終わった。

 


 

この日も目の前に並んだのは霜降り系の肉だ。この“白っぽさ”に興奮した若かりし頃が遠い昔のように感じる。ちょっと残念だ。頑張ってもエネルギッシュ爺さんにはなれそうにない。

 

とか何とか、さも食が細い繊細な人みたいなことを書いているが、焼肉屋で肉を食べずに帰った日はたいてい「深夜のカップ焼きそば」にお世話になる。バカ丸出しだ。

 

ちゃんとした牛肉を食べるか、カップ焼きそばを食べるか、どちらが身体に良いかは考えるまでもない。せめて深夜の牛丼のほうがまだカップ麺よりはマシかもしれない。

 

何だか愚痴っぽい話に終始してしまった。

 

もし私が人並みに長生きできたとしたら、カップ焼きそばは身体に悪くないという説を立証できるからそれはそれで面白いかも知れない。

 

 

 

 

 

2021年12月24日金曜日

12月といえば


クリスマスイブだ。昔はちゃんとウキウキした。子供の頃はプレゼントにハシャいで、青春期は女のコとチャラチャラ騒いだ。家庭人だった頃もそれなりにイベント感に浸った。

 

いつのまにか普通の日になって久しい。年の瀬のせわしなさだけを痛感する日である。浮かれる世の中に背を向ける一環で、この時期は「忠臣蔵」に意識が向かうようになった。


旧暦12月が討ち入りの日だから日本人にとってこの季節は忠臣蔵一色でもいいぐらいだ。まあ、旧暦だから今の時代に合わせると1月末~2月頭が討ち入り決行日である。とにかく日本人の冬は忠臣蔵が正解だ!

 

最近は忠臣蔵を知らない若者が多いみたいだ。由々しき事態である。昔ほど映画やドラマが作られなくなったせいだろうか。この国の精神性や美徳を象徴するストーリーだけにもっともっと新作を作って欲しい。

 

討ち入り自体は史実だが、あまたあるかつての映画やドラマのエピソードは大半が作り話だ。それはそれである。大切な予定調和だ。

 

このブログでも過去に何度も忠臣蔵を取り上げてきた。私自身、たまたま小学生の頃にハマってしまったせいで今も関連本やBSあたりで再放送される過去の作品を楽しんでいる。

 

私が忠臣蔵にハマったきっかけを書いた話。

 ★忠臣蔵こそ・・・

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2013/12/blog-post_11.html

 

このほかにも10年以上前にもクリスマスより忠臣蔵を愛でようというキャンペーン?を必死に展開していた。

 ★クリスマスと忠臣蔵

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2010/12/blog-post_24.html

 

6年ほど前にも大石内蔵助を素材に呑気な話を書いている。

★「浮き様」になりたい

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2015/12/blog-post_14.html

 

Amazonプライムやネットフリックスなどネット系のチャンネルの普及でいまでは過去の忠臣蔵も簡単に視聴できるようになった。

 



50年ぐらい前の日本映画はかなり見応えがある。かつての重厚な俳優陣が何ともいえない重々しく厚みのある演技を見せてくれる。片岡千恵蔵、長谷川一夫あたりの時代である。アナログ感バリバリだが、それが逆に新鮮だ。

 

言うまでもなく、艱難辛苦に耐えて主君の仇を晴らすという基本ストーリーだが、角度を変えた忠臣蔵の描き方がもっと模索されてもいい。

 

昔から吉良側の視点で描かれた忠臣蔵が観たいというのが私の願望だ。その昔は悪役の代名詞だった明智光秀が大河ドラマの主役になるぐらい時代は変わったのだから充分にあり得る展開だろう。

 

吉良さんからすれば、逆恨みされたテロ集団に寝込みを襲われて惨殺されちゃったわけだ。言い分もあるだろうし、周囲には悲劇的なエピソードはテンコ盛りのはずだ。

 

個人的には私が大好きな三浦友和あたりを吉良役にして、ちょっと悪役色を薄めて悲劇の主人公みたいな物語を作ってもらいたい。大石内蔵助役はあまりカッチョ良くない俳優を起用して我がトモカズを引き立てて欲しい。香川照之あたりが適役かもしれない。

 

さてさて、藩主の実父である吉良さんを救いに行かなかった上杉家サイドの葛藤に焦点を当てるのも面白いと思う。かつての映画やドラマでもこの部分は見所だから描き方はいろいろありそうだ。

 

他にも討ち入り成功後、主君の浅野さんが眠る泉岳寺に吉良さんの首を持って報告に行くところから切腹する最期までを描くのも面白そうだ。

 

かつての映画やドラマでは意気揚々と泉岳寺に向かう浪士たちの姿が描かれているが、実際には、上杉家からの追っ手が大量にやってくることを想定してハラハラどきどきだった上に、泉岳寺までの歩行ルートも様々な理由で随分と迂回したそうだ。

 

だいたい夜を徹して刀や槍で殺し合いをした後に両国から泉岳寺までの距離を歩いて行ったわけだから、それだけで凄い事だと思う。

 

で、自首みたいな形で幕府に討ち入りを届け出てから切腹させられるまでの浪士たちに焦点を当てるのも悪くない。討ち入り後、浪士達は4カ所の大名家にバラバラに「お預け」となり実際に切腹するのは2ヶ月ほど後のこと。

 

世の中は討ち入りにヤンヤの喝采を送り、浪士の中には再就職の道ががぜん有利になると期待した者もいたという。実際にサムライ精神アッパレということで多くの大名が浪士たちを雇用したがったのは事実だ。

 

最年少の16才で世を去った大石主税(内蔵助の長男)と討ち入り当時18才で、父親を守れなかったとして処分された吉良の養子・吉良義周を対比するような青春記が作品化されるのもいいかもしれない。吉良義周はその後20才で亡くなり吉良家は断絶した。それはそれで切ない話だ。

 

なんだかキリがない書きぶりになってしまった。忠臣蔵に興味がない人には退屈な話でスイマセン。でも興味がない人もゼヒ興味を持っていただきたいのが忠臣蔵の世界だ。

 

誰もが知っている分かりきった話だからこそ、新たな枝葉のようなエピソードを知ったりすると妙に嬉しい気分になる。

 

手を変え品を変えいろんな角度から描かれる忠臣蔵を今後も観てみたい。

 

 

 

 

 

2021年12月22日水曜日

師走の日常

 

12月という季節柄、様々な予定が入りやすいから様々に?活動を続けている。元気でいることは大事だ。

 

今年は数度にわたる扁桃腺爆発やらハヤリ病やらで会社を45日休んじゃうことが5回にも及んだ。社会人失格レベルである。

 

最近とみに疲れやすさを感じるようになったし、我が身の劣化が切ない。とはいえ、老け込まないためにはそんな自分にムチうって行動することも大事である。

 


 

先日、久しぶりに日本橋の「大江戸」でウナギを堪能した。今年、体調を崩しがちだったのは例年よりウナギ摂取量が少なかったからだと判断してガツガツ食べた。

 

何をさておき肝串である。元気になるためにはアノ苦みは大切である。粉山椒をブリッとかけて冷酒とともに味わう。まさに充電モードだ。

 

夜の鰻屋さんでは白焼きも外せない。個人的には白焼きがメインみたいな存在である。冷酒の肴コンテストで不動の一位を続けている。私の頭の中だけで行われているコンテストだが、殿堂入り永久一位の座に輝くのが白焼きだ。

 



 ウナギ本来の風味を味わえる。わさび醤油をちょろっとつけて口に放り込み、しばし味わい喉奥に落ちていった瞬間に冷酒を追いかけさせる。マリアージュの極みである。

 

初めてこの組み合わせに悶絶してから30年以上は経った。飽きることなく愛し続けている。ひょっとすると今まで大病もせず生きてこられたのはウナギの白焼きのおかげじゃないかとさえ思う。

 


 

ウナギとうなじである。一人で沈思黙考しながらウナギを楽しむのもオツだが、綺麗どころと四方山話に花を咲かせながら味わうのも悪くない。

 

ウナギとうなじ。一文字変わるだけで随分と風情は変わる。日本語の奥深さ?だ。

 

ちなみに一文字変わるだけでまるで意味が変わる例えを思い出した。

 

「あそこに立っている人が私の旦那です」

 

「あそこが立っている人が私の旦那です」

 

「に」と「が」が一文字変わるだけで普通の情景がスペクタルな情景に変わる。日本語の奥深さは象徴する例えだ。

 

なんだか話が逸れてしまった。

 

別な日、久しぶりに我がオヤジバンド、いやオジサマバンドの中核メンバーと飲む機会があった。議題は今後のライブ活動である。

 

新橋のレトロな酒処「かとう」でオジサマ好みのツマミを食べ散らかしながらグビグビ飲む。餃子、あじフライ、肉豆腐などなど。

 




 

大事な議題については早々に結論に至る。来年こそはライブを再開することで大筋同意に達し、あとはバカ話だけで飲み続ける。

 

その後、ほろ酔い気分で歩いてすぐの銀座を徘徊。顔なじみのミニクラブを訪問して久しぶりにカラオケ大会に発展。カラオケをうなったのはいつ以来だか思い出せないぐらい久しぶりだった。コロナ禍になってから初である。

 

喉も筋肉だから高い声が出なくなっていることに慌てる。ちゃんとリハビリしないとライブではキーを下げまくらないとならない。問題だ。頑張って喉を鍛えようと決意。

 

さんざん騒いでしっかり疲れた夜だった。邪念のない飲み会だと不思議と気持ち悪くなったり重い二日酔いにならないことが有難い。

 


 

この画像は帰り際に撮ったセクシーショットである。一見するとムホムホな画像だが、彼女の手には高額が記載された勘定書きがしっかり握られている。そりゃあベロもペロっと出ようってものである。

 

というわけで、この日も日本経済にそれなりに貢献した。正しいオトナの行動だと信じたい・・・。




 

 

 

2021年12月20日月曜日

おしゃべりな男


沈黙は金、雄弁は銀。一応そうなのだろう。しゃべりすぎるとロクなことはない。もっともである。

 

でも、はたしてそう簡単なものだろうか。私は結構オシャベリである。自分でも時々イヤになるのだが、かといって今更寡黙な男になろうとは思わない。

 

おしゃべりな男。そう書くと何だか気色悪い。でも友達になるなら無口な男よりはそっちのほうがマシだ。

 

おしゃべりにもいろいろある。根っからの話し好きもいるが、気遣いが理由で口数を増やすことだってある。

 

どんな場面でも寡黙な男なんてしょせんは気遣いが出来ない野暮な男だとも言える。 寡黙な人、スイマセン!

 

だいたい、よくしゃべるためには常に頭をフル稼働させる必要がある。極論すれば凄いバカなら雄弁野郎にはなれないという理屈も成り立つ。

 

まあそうは言っても寡黙系のほうが賢く見えるのは確かだ。こんな私でも仕事関係では場面に応じて寡黙な男として時間を過ごすことも多々ある。ちょっとムズムズするが・・・。

 

私が敬愛する高倉健も田村正和もキャラとしては無口系である。だからカッチョ良いのだが、悪く言えばアノ寡黙な感じはズルさでもある。

 

私はズルい男にはなりたくないから頑張ってしゃべる場面が多い。だから失言もする。でも負の部分だけでななく、その場の空気のよどみを正したり、話題の方向性を陽気なものに切り替える効能も捨てたものではない。

 

気遣いだけではない。自己防衛の意味もある。例えば夜の店で聞くに堪えないホステスさんのくだらない話をやめさせるには自分がしゃべり始めることしか手の打ちようがない。

 

くだらない話をしない無口系?のホステスさんだったとしても、沈黙の時間が私は好きではないから結局私がしゃべる。

 

不思議なもので、予定の無い週末に48時間ぐらい誰ともしゃべらずに過ごすことがある。それはそれでイヤではない。一人旅をしている時はしゃべらない時間が大半だ。

 



先週も今年4度目の扁桃腺炎で5日間も寝込んだ。顔も画像のように悲惨な感じにいなってしまったのだが、結果的に誰ともしゃべらずに過ごした。決して誰かと話していなきゃイヤだというわけではない。

 

おしゃべりな男であることは自分の小さなコンプレックスなのだが、結局は気遣いや自己防衛、沈黙が恐いという理由が背景にある。まとめてしまえば「気が小さい男」という結論になってしまったみたいでシャバダバだ。

 

今までの人生、わりと人前でしゃべる機会は多かった。親しい友人の結婚披露宴では10回以上スピーチをしたし、我がオジサマバンドのライブでは例年MCが長すぎるとクレームを受ける。

 

仕事絡みでもラジオやテレビでしゃべったこともあるし、講演会の講師も何度もやらされた。多いときには500人の前で1時間もしゃべった。さすがに1000個の目に見つめられると何もしていないのにゴメンナサイと言いたくなった。

 

どの場面でもいちいち胃が痛くなった。平然としゃべっているようでも内心は結構ビビリ系?である。一応神経は細かいほうである。誰も信じてくれないが・・・。

 

今日は何が書きたかったかよく分からなくなってきた。

 

何事もホドホドが大事だからしゃべり過ぎてドツボにはまらないように気をつけないといけない。

 

 

 

 

 

2021年12月17日金曜日

過去ネタ


また体調を崩してしまった。今年4度目の扁桃腺爆発である。年に4度も扁桃腺が腫れたことは人生で初の快挙?だ。

 

なんだか自分の健康に自信が無くなってきた。

 

というわけで、更新を怠ってしまったのでバカみたいな過去ネタを載せる。読み返してみて我ながら妙にウケてしまった。よかったら読んでください。

 

★うんこドリル エロい言葉

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2017/07/blog-post_28.html

 

もうひとつ、こちらは13年前に書いた懐かしい言葉に関する話だ。

 

★オトナの歌

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2008/02/blog-post_21.html









 

2021年12月15日水曜日

「香港1997」焼味に興奮する


「焼臘」。読めない。読めないのにこの文字を見ると途端にヨダレが出る。香港に旅行に行ったときはこればかりを攻める。

 

「焼味」とも書く。これは「ショウメイ」だか「シュウメイ」などと読むらしい。食べ物のジャンルとして何とも説明しにくい言葉なのだが、とにかく私にとって「海外旅行の中華料理」といえばこれに尽きる。

 



ひと言でいえば“丸ごとロースト料理”と呼ぶのが適当だろうか。家禽類や豚肉が店先に悩ましい色になって吊されているアレである。

 

この画像のような店を見つけると満腹でも突撃したくなる。香港あたりではファストフードとして御飯の上にこれらをデンと乗せて手軽に食べさせる。

 



この画像は台湾で食べた一品だが、イメージとしてはこんな感じだ。甘めの味付けで余計な野菜も無く、男メシとしては最高だ。

 

ここ数年を振り返っても香港や台湾でこうしたロースト系にむしゃぶりついてきた思い出がある。画像を見返すとヨダレが出る。

 

香港

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2016/03/blog-post_30.html

 

台湾

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2019/05/blog-post_10.html

 

さて、こうしたロースト料理は意外に東京では見つからない。しっかり探していないせいかもしれなが、ちょっとした中華料理ではジャンル違いなのかなかなかメニューには見当たらない。

 

そんな中、私の職場からも自宅からも近い位置にこうした香港的なローストを味わえる店を見つけた。

 

その名も「香港1997」。天津飯店グループが経営する香港系?に特化した店である。場所は銀座一丁目駅からすぐ。店内も適度な高級感があって使い勝手は良さそうだ。

 

店名に香港を冠するだけに「焼味」系がウマかった。まずは「蜜汁叉焼」。この文字を見るだけで私は興奮する。

 



甘めの味付けのチャーシューである。心の中で“みつじる、みつじる~!”と叫びながら味わう。

 

4切れから注文できる。他のものもアレコレ頼みたかったので、4切れで注文したのだが、すぐにもう4切れ追加したほど私の好みだった。

 

お次はローストダックである。サイズは三段階用意されているが、一番小さい4分の1サイズでこのぐらいの量だ。

 


 

添えられるプラムソースを塗って味わう。「ウ~イエィ」。福山雅治が代表曲「桜坂」で唸っていたあの部分だけを繰り返しながら味わう。まさに「ウ~イエィ」な味だ。意味不明でスイマセン。

 

正直、私はこの2品だけを大量に食べていたいのだが、そうもいかずに他の料理もいくつか味わう。

 




 トリュフ入りのタマゴと海老の炒め物はフワッとしながらもネットリ絡みつくような旨味に満ちた一品で、スープ入りシュウマイも官能的なダシの味わいにウットリした。

 

特筆すべきはワンタン麺だ。麺が特徴的である。東京ではなかなかお目にかからない香港の麺を使っていた。食べたことがある人なら独特なあの風味を懐かしく感じるはずだ。

 


 

一見、薄そうに見えるのだが、実際にはしっかりした味付けが絶妙だった。ワンタンもぷりぷりで食べ応えがある。何より香港麺のボソっとした感じが嬉しい。

 

香港に何度も出かけたのは30代の頃だった。街中の麺粥屋に入ってはこの麺を使った汁麺や汁無し麺をやたらと食べまくった。上に書いたような「ロースト乗っけご飯」かジャンクな麺を交互に食べていたような感じだった。

 




これは5年前に撮っていた香港麺のアップである。日本の麺とは明らかに違う風味と食感で汁無し麺に牛肉の煮込みなんかを乗っけて食べるのも最高だった。

 

思わぬきっかけで近場に香港麺の店を見つけたわけで、ロースト料理と麺を味わいに今後ちょくちょく出かけそうな気がする。

 

それよりもまた行ける日が来たら真っ先に香港を訪ねたい気持ちになった。最近はこのブログでヨーロッパに行きたいとか、スペインが恋しいだのアーダコーダと書いているが“香港行きたい病”も加わってしまった感じだ。




2021年12月13日月曜日

ムダ使い


ムダ使い。どうも私の日々の暮らしはこの一言に尽きるようだ。なんでも多めに買ってしまう。

 

モノが溢れる東京のど真ん中で24時間営業のコンビニの目の前に住んでいるのに、何でもかんでも“予備”を欲しがってしまう。

 


 

トイレ収納の中のトイレットペーパーもこんな感じで予備がある。一人暮らしにしてはバカみたいな量だ。ティッシュペーパーもこんな感じで常にたっぷり用意してしまう。

 

不安恐怖症みたいな神経質な感じとは違う。単に性格がガサツなんだろう。タバコを買いにコンビニに立ち寄ってもいちいち余計なモノまで買う。

 

コンビニで毎度毎度34千円も買い物するヤツは珍しいと言われて我ながら反省する日々である。

 


 

でも、コンビニに行けばストック用にスイーツが欲しくなり、欠かさず飲んでいるヨーグルトドリンクも予備が欲しくなる。レンジでチンする焼魚も棚の後ろのほうから賞味期限の長いヤツを引っ張り出してカゴに入れてしまう。

 

最近になって朝はパン食の機会が増えたが、パンは日持ちしないから、ついマメにコンビニに寄って買う。気付けば余計なモノまで買っちゃうパターンもある。

 

タバコとパンをやめればきっとコンビニに入ることもなくなるはずだ。まあ、それは無理なので必要なモノ以外には目を向けないように意識しないといけない。

 

先月の終わりにパンを温めるグッズとパンに塗るクリームをあれこれ買った話を書いた(http://fugoh-kisya.blogspot.com/2021/11/blog-post_29.html)が、その後も新たな塗りモノを調達し続けている。

 

ピスタチオクリームに悶絶したことがすべてのきっかけだが、アーモンドクリーム、マロンクリーム、ミルクジャムなども加わってウチの冷蔵庫の一角が朝のパンのために混雑している。

 


 

我ながら変質者的な凝りかただと思う。どのクリームもそれぞれウマいのだが、やはりピスタチオクリームが今の私にとって一番である。

 

というわけで、私が気に入っているピスタチオクリームより高い商品なら更にウマいのかが気になってAmazonで別の商品を買ってみた。

 

最初に買ったピスタチオクリームは成城石井で売っていた1000円ぐらいの商品だ。アマゾンで調べたらピスタチオクリームも結構な種類が出てきたので一番高値の商品を買ってみた。

 


 

画像の右端だ。2000円ぐらいの値付けだったのだが、有機ピスタチオがどーしたこーしたと表示されていたのでその関係で妙に高いのだろう。

 

値段が2倍なら味の良さも2倍だろうと考えるのが私の愚かな性格だ。食べ比べてみたが、最初に買った1000円のほうが私には美味しく感じた。妙に高いヤツはきっと延々と冷蔵庫の中で眠りにつくことになりそうだ。

 

別な日、職場から近い喜多方ラーメン「坂内」が持ち帰り用のチャーシューの販売を始めていたことに気付き、さっそく購入した。

 



 

画像のようなこの店のヤケクソ的チャーシュー麺は私の大好物だ。わざわざチャーシューを持ち帰らなくても店で食べれば良さそうなものだが、あのチャーシューがウチでも食べられるのは魅力だ。

 

で、小さめのチャーシューブロックを買えばいいのに、相も変わらず予備を考えて大きめのものを買った。

 

小分けにして冷凍すれば思い立ったときにチャーシューに活躍してもらえる。ウチでラーメン類を食べる時にはチャーシューは欠かせない。なんならチャーシューが食べたくてラーメンを作ることもある。

 

ラーメンだけでなく、季節外れの冷やし中華の相棒にもチャーシューは最適だ。暖房を入れた暖かい部屋はどうしても乾燥気味になる。そんな時はナゼか冷やし中華が食べたくなる。

 


あのサッパリとした清涼感が堪らないのだが、チャーシューがあれば重量感も加わる。一気にご馳走に変身する。坂内で買ったチャーシューを大きな塊のままかじりながら麺をすすっているとハッピーな気持ちになる。

 

具の無い冷やし中華は私にとって白米みたいな存在だ。おかずとしてチャーシューがあればチャーシュー定食みたいなものである。

 

暖かい部屋で食べる冬の冷やし中華、結構オススメなのでゼヒ試していただきたい。

 

変な結論になってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

2021年12月10日金曜日

トマトすき焼き 悶絶


フロンティア精神が薄れてきたせいで、通い慣れた店ばかりに出かけている。それはそれで落ち着くが、やはりいくつになっても新たな刺激は必要だ。

 

大袈裟に言えば自分の五感を研ぎ澄ますためには決まったルーティンに依存しているだけではダメだろう。

 

などと大上段に書き始めてしまったが、先日、初めて入った店で新鮮な喜びを味わった。料理のジャンルはすき焼きなのだが「トマトすき焼き」という少しひねった料理がウリのお店だ。

 

職場から歩いて行ける距離なので前々から気になっていた京橋にある「婆娑羅」。ひょんなことから初訪問した。

 

その昔、六本木にあった「婆娑羅」には何度か行った記憶がある。当時からトマトすき焼きはあったのだろうか。私がトマトを食べるようになったのはここ10年ぐらいだから少なくとも食べたことはない。

 

モダンで高級感のある雰囲気、銀座のお隣・京橋というちょっと隠れ家的な立地、店員さんのサービスもキチンとしていて良かった。

 


 

細長い三段の小箱に収められた前菜は美しさだけでなく味付けも繊細で丁寧。プロの仕事を感じた。こういう細やかな技量を見るとトマトすき焼き以外の料理もかなり高水準だと想像できる。

 


 

トマトすき焼きはすべてお店の人が作ってくれるからこちらはムホムホ喜んで食べるだけだ。野菜がトマトとタマネギだけという潔さが私にとっては喜びである。

 

トマトとタマネギに火が入ったらお肉を投入、仕上がったら3点セットにして取り分けてくれる。なかなか絵になる取り合わせだ。

 

生卵ではなく軽く温玉状態になったタマゴが用意されているのがニクい。このひと手間が全体の味に大きく影響している。

 



 

温玉状態を崩したタマゴのほうが肉や野菜とよく絡む。この加減が新鮮だった。すき焼きには生卵という固定観念のせいで気付かなかったが、このやり方は家庭でも簡単に応用できる。

 

いつだったか、どこかの美味しい串焼き屋でトマト串を食べて以来、火を入れたトマトに抵抗がなくなった。それまでは苦手な食べ物の筆頭格だったが、いまでは中華料理屋でトマトとタマゴの炒め物を好んで注文するぐらいだ。

 

肉とトマトを口の中で融合させながら食べるのがオススメだ。濃厚に絡むタマゴの黄身も相まって通常のすき焼きを食べているとは微妙に違う新鮮な味わいを感じた。

 

牛肉の重さが年々キツくなっている中高年おじさんだってペロペロといけてしまう。

 

特筆すべきはシメのパスタだ。すき焼きは一応日本の鍋である。そのシメにうどんでも雑炊でもなく平打ち麺のパスタである。これは斬新だった。

 



 トマトとタマネギ、そして牛肉から出たエキスたっぷりの鍋(鉄板?)の上でお店の人が絶妙に味を整えてくれる。

 

しっかり牛肉を食べて正直お腹が苦しくなっていたのに、一口食べたらあらビックリ、トマトソースとミートソースの良い部分だけを抽出したような得も言われぬウマさに悶絶した。

 

日頃、いろいろと分かったような顔をして食べ物の話を語っているが、やはりアンテナを磨いてアレコレ試してみることは大事だ。

 

そういう好奇心が結局は自分の五感を錆びつかせずに日常に潤いをもたらす秘訣だと痛感する。

 

今の時代の東京に暮らすことは、見方を変えればウマいものが溢れかえる人類史上まれに見る幸運な世界に暮らしていることを意味する。

 

最近ファストフード摂取率が高くなっている私は、せっかくの幸運をムダにしているともいえる。実にもったいないことだと改めて感じた。

 

 

 

 

 

2021年12月8日水曜日

ぼっち推進論者

 

気付けば今年も残り少なくなってきた。街中が賑やかなネオンで彩られている。クリスマスも近い。「クリぼっち」なる言葉が飛び交う季節だ。

 


 

クリスマスに過ごす相手がいない残念な状況を指す若者言葉である。私は若者ではないがクリぼっちである。ウチは浄土真宗だからとくに問題はない。

 

クリスマスに限らず「ぼっち」な日々だが、私は一人飯も一人旅も大好きだ。いわば「ぼっち推進論者」である。

 

おひとりさまマーケットみたいな話がいろんなジャンルで取り沙汰されるようになって久しい。旅行や飲食業界などサービス業の世界では、グループや団体相手のビジネスモデルだけでは立ち行かなくなっているわけだ。

 

昔とは価値観というか、習慣が変化しているわけだが、いまだに「ぼっち」への差別?が存在することは困る。

 

ぼっちイコール淋しいというステレオタイプな見方が根強く存在する。中にはそういう人もいるだろうが、積極的にぼっちを楽しんでいる人にとっては迷惑な話だ。差別である!

 

一人行動が出来ない人の尺度で決めつけられても困ってしまう。でも、そういう種族?の人達に反論しても「大丈夫か、本当は淋しいのに強がってるんでしょう?」とか言われる。

 

こちらに言わせれば、常に誰かと一緒じゃないと行動できない人が不思議で仕方がない。若い女性ならいざしらず、いい歳したオッサンが誰かとつるみたがるのが不思議に思える。

 

ぼっち組に対しては「大丈夫?淋しくない?」という問いかけが普通に行われる。それに対して、つるみたがる人達に対して「大丈夫?あなたヘンテコですよ」と問いかける習慣はない。実に不公平だと思う!

 

なんだかこんなことを力説すると単なる偏屈ジジイみたいな感じだからテキトーにしておく。

 

さて、ぼっち暮らしの私は相変わらずAmazonやウーバーイーツに依存して手抜きばかりの日々である。

 

乾電池や電球を買うのもAmazon、冷蔵庫に入っているほぼすべての商品はAmazonフレッシュか他のネットスーパーで買ったものである。

 

母親がドルチェグストのコーヒーカプセルを近所で見つけられないと愚痴ってくればAmazonで買って送りつける、娘が卓上ライトを探していると聞けばこれまたAmazonで買って送る。

 

先日のAmazonのセールでは靴下や部屋着、寝具や歯ブラシやら乾燥肌対策商品やレトルト食品まで注文した。

 


 

最近立て続けにミスをしているのもご愛敬である。レトルトシチューを3つ注文したつもりが、一箱5個入りの商品だったことを見落としていたからこんな事態になった。15個も届いてしまって倒れそうになった。

 

この1週間前にも「赤いきつね」が同じく15個も届いて倒れかけた。武田鉄矢もビックリである。注意力も老化しているみたいで問題だ。

 

ぼっちの利点はこんなミスをしでかしても誰からも叱られないことである。家庭人だったとしたら、自分が一番ショックを受けているのに口うるさい不仲の嫁にネチネチと叱られたりする。きっと私は立ち直れないだろう。

 

さすがにウーバーイーツの注文で数量間違いをしたことはまだない。でもいずれ牛丼が15個運ばれてくる日がありそうな気がして戦々恐々としている。





2021年12月6日月曜日

正論原人


おおらかな時代に若者時代を過ごしたから今の窮屈な世相が時々イヤになる。コンプラ、コンプラと何かと言えば縮こまる。誰もが思っている当たり前のことですら世間様の目を気にして口をつぐむ。

 

ネットの世界を中心にあげあし取りや正論の押しつけ、つまらぬ密告ばかりが飛び交う。それが世の中の総意かのように勘違いする人も多い。

 


 

もちろん、守るべきマナーはある。こんな貼り紙を出した人はどんな目に遭ったのだろう。何だかお気の毒だ。

 

話は変わる。

 

先日、あの清原が新庄ビッグボスの就任会見の出で立ちに批判的なカキコミをしたら一気に叩かれまくったそうだ。

 

清原には清原の意見があって当たり前。ましてや書き込んだ内容は監督就任の時ぐらいキチンとした格好をするべきだったというもの。

 

そういう意見を持つ人だって一定数いるはずだが、バッシングした勢力はそんなことはお構いなし。問題は清原への人格攻撃にまで発展しちゃう行き過ぎた流れだ。

 

イヤな感じである。

 

ネットの書き込みは便所の落書きと同じと言われてきたが、ネットの影響力が大きくなればなるほど単に見過ごせないものも増えてきた。

 

怒りありき、文句ありき、正論原理主義者みたいな人々がマスターベーション的な思いつきだけで他人を攻撃する。何だか気持ち悪い世界だと思う。

 

先月のことになるが、大谷翔平が日本記者クラブで会見を行った。1時間にわたって様々な質問が飛び交った。

 

ネットの世界では結婚観や税金についての質問が出たことに相変わらずの怒りの声が広まった。

 

やれバカな記者だ、出禁にしろ、野球以外のことは聞くな等々、お決まりの“怒りありき”の批判で盛り上がっていた。

 

“正論原人”からすればこれも立派な正論だ。野球選手の凱旋会見なんだから野球の話を聞きたいというのが基本ではある。

 

とはいえ、国民的スターの凱旋会見であり、あの場はスポーツ記者会の会見ではない。分野を問わずすべてのメディアによる取材の場だから野球以外の質問が出るのは普通のこと。

 

実際、テレビも新聞も正論原人達が批判しまくったそうした野球以外の部分のやり取りばかりをしっかりニュースとして使っていた。そんなものだろう。

 

結局、野球以外の部分にも国民の多くが興味を持っているのは確かで、そこを尋ねたくなるのは至極当然だと思う。

 

もちろん、それでも批判的な見方があるのが世の常で、100人に100人が同じ方向で納得することなどなかなか無い。

 

「小室さん」の件だって誰もがいろんな印象や意見を持っている。当然だろう。でも自分の意見や主張を闇雲に他人に押しつけて異なる意見を排斥しようとするのはおかしい。

 

反論は反論であって相手を攻撃することではない。人格攻撃みたいにエスカレートする物言いしか出来ないことは実に淋しいことだ。

 

攻撃的な表現、攻撃的な文章はどうしたって品がない。下品にしかならない。頭が良い人なら自ら下品の道は選ばないと思う。

 

思いつきで乱暴な書き込みをする人は何かを発散しているのだろう。いつも何かに抑圧されてウツウツした気分をネットの世界で正義感を気取ることで解消しているような気がする

 

だとしたら何とも虚しく切ない話だ。

 

とりあえず正論なら自分の意見がトンチンカンではないことに自信が持てる。だから例えば誰かの不倫をとことん叩く。

 

単純に不倫は悪いことだからそれを叩いても反論される心配は無い。結果、悪いことをしたヤツには何を言っても許されると勘違いして常軌を逸したテンションで糾弾する。

 

こうなるとアドレナリンも加わった怪しげな正義感になる。でも当人にとっては正義は正義、正論は正論である。そして硬骨漢な自分に酔っていく。

 

そういう行動に無縁の大多数の人にとってはもはやホラーの世界である。

 

「どこそこで誰それがマスクをしないで歩いてた」「大事な選挙に行かないヤツなんて非国民だ」など、あらゆる場面で正論原理主義者の実に正しい「理屈」が飛び交う。

 

その理屈をテキトーにあしらったりするとヘタをすると人格まで否定されちゃうから実に窮屈だと思う。

 

いきなりだが「寅さん」が今の時代に生きていたら毎日毎日嘆いていたはずだ。

 

ついでだから寅さんのお決まりのセリフを書いて今日はおしまいにします。

  

「理屈を言うんじゃないよ! 大事な時に」

 「ざま見ろ、人間はね 理屈なんかじゃ動かねえんだよ」

 

 

 

 

 

 

2021年12月3日金曜日

冬の舌


春夏秋それぞれに季節ごとのウマい話を書いているが、いよいよ冬である。寒いのはゴメンだが、この季節ならではのウマいものを食べると幸せになる。

 

何だか年柄年中食べ物のことしか考えていないみたいで恥ずかしいが、食べられること自体が元気に生きている証だ。四の五の言わずにウマいものを食べ続けようと思う。

 



 フグと並ぶ冬の鍋といえばクエだ。九州場所でお相撲さんが食べることでも知られる。東京ではあまり馴染みがないが、個人的に魚系の鍋物としては大好物だ。

 

今回も銀座にある土佐料理「祢保希(ねぼけ)」で食べてきた。カツオのたたきを肴に一杯やりながらクエ鍋が出来るのを待つ。

 

結構な大型魚であるクエは鍋で煮ても身がしっかりした状態を維持するのが特徴だろう。ちょっと煮すぎたぐらいではバサバサにもならない。

 



 しっかりした歯ごたえと旨味。コラーゲンも多いらしいがそちらは私にとってはあまり関係ない。

 

もちろんシメの雑炊がウットリするほどウマいのも忘れてはならない。考えてみれば鍋を食べる動機の半分はシメの雑炊なのかもしれない。

 

冬といえばカニやアンキモも酒の共に最高だ。ズワイのメスである香箱ガニも今が盛りである。

 



 普通に毛ガニを食べたいのが私の本音だが、今の時期はどこもかしこも香箱ガニで攻めてくるのでそれはそれで喜んで食べている。

 

横に写っているのはアンキモだ。蒸したアンキモもウマいが煮物系アンキモも悪くない。ネットリ感がより感じられて酒との相性もバッチリだ。

 

冬を実感させる珍味といえば白子が王様格だろう。その昔はフグの白子が最高だなどと分かったふりをしていたが、定番のタラの白子もモノが良ければやはり極上の味わいだ。

 

安い居酒屋で頼むと失敗しがちだが、そこそこの店なら安心して食べられる。今シーズンは何となく焼いてもらうことが多い。

 



軽く湯がいてポン酢で味わう白子も好きだが、歳とともにどうせなら温かい状態で食べたい欲求が強まり、醤油焼きか塩焼きかを気分に応じて注文するようになった。

 

私は結構な猫舌なのだが、焼いた白子をホコホコ言いながらかじるのは悪くない。なんだか貴重品をちょこっとずつ食べている気がしてくる。

 

10年ほど前は珍味太郎というハンドルネーム?を自称してケッタイなモノまで含めて魚卵やさまざまな内臓系を肴に酒を飲むのが好きだった。

 

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2013/04/blog-post_8.html

 

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2012/03/blog-post_21.html

 

お医者さんから痛風発作が起きないことを不思議がられる程度に尿酸値も高値安定状態だった。

 

でも熱中しすぎたせいで、だんだんと珍味欲求は以前ほどではなくなり今では常識人として過ごしている。これも加齢だと思うとちょっとだけ切ない

 

アンキモ、白子、カラスミなどの他、ド定番のウニやイクラがあれば充分満足出来るようになった。

 

もちろん得体の知れない特殊な珍味にもウマいものはいっぱいあったが、あくまで美味ではなく珍味という呼び名にとどめておきたいようなモノも随分食べてきた。

 

ああいう冒険心も食を楽しむには大事だが、最近は分かりきったものしか食べなくなった。加齢のせいというより人としてようやく成熟したのだと思いたい。

 

冬の食べ物の話を書いてきたつもりがズレてしまった。





2021年12月1日水曜日

正しい銀座の夜

 

一時期に比べてすっかり縁遠くなったのが夜の銀座だ。夕方に食事に出かけることは多いが、夜も更けた時間の銀座への出没率は以前に比べて大幅に下降した。

 




遅い時間に外にいる習慣がなくなったことが大きい。これは多くの人に共通する心理だろう。

 

夜も10時を過ぎると外にいることが落ち着かなくなる。良いのか悪いのか分からないが以前ならお爺さんみたいな心理状態である。

 

そんなお爺さんモードの私だが、先日久しぶりに深夜まで銀座で痛飲した。母校の3つ下の後輩に誘われワイワイガヤガヤの時間を過ごした。

 

その後輩は中学高校だけでなくたまたま大学も同窓だ。固い分野の本業の社長業の他に道楽?で銀座に2件の飲食店も持っている。

 

クルーザーもハーレーも乗りこなし、スポーツ系有名人のタニマチ的な付き合いもあるようで日々豪快に活躍している。

 

夜の銀座でブイブイ言わせているコワモテ顔の男なのだが、なぜか先輩である私を慕って、いや面白がって時々声をかけてくれる。

 

もう何年も前に夜の銀座で偶然“拿捕”された際には、私も張り切って何件かのクラブに先輩ヅラして連れて行った。

 

ところがどの店に行っても彼は私よりその店の常連だったようで、敗北感?のような妙な気分を味わった覚えがある。

 



 

その日はまずはラムしゃぶを突きながらひとしきりバカ話に励む。お互い50才を過ぎているのに話題は大昔のオッパッピーな話ばかりだ。

 

この歳になってしがらみのない関係で単なるバカ話に花を咲かせることは幸せなことだ。

 

つい最近の話のように盛り上がっている話題が実は40年も前のことだったりする。童心に返る時間は精神衛生上なかなか良い効果があると思う。

 


 

特製スープがやたらとウマい鍋だったのでシメの雑炊も絶品だった。チーズをぶりぶり投入してリゾット風にして楽しんだ。

 

食後はお決まりのクラブ活動である。先輩の威厳を保とうと馴染みの店に行こうと思ったのだが、祭日前のこの日は休業にして連休にしている店が多く、2軒ほどトライしたのに両方とも閉まっていた。

 

結局、雨も降っていたので後輩の知り合いの最寄りの店に入る。どうもこの後輩の前では私の先輩ヅラ作戦はスムーズに運ばない。

 

夜の銀座にもそこそこ人出が戻ってきたようで店内はそれなりに活気があった。クラブ活動はこうでなくてはいけない。お客さんがポツポツしかいない淋しい眺めは気分が落ちる。

 



 久々にゆっくり腰を落ち着けて飲んだ。葉巻までもらって極楽タイムだ。後輩も私のバカ話を必要以上に?面白がってくれた。後輩の鏡である。

 

結局、日付が変わっても夜の銀座にいた。何年ぶりのことだろう。10年ぐらい前は頻繁にアフターにまで繰り出して日の出を見ることさえあった私だが、いまや12時を回っただけでアワアワするようになった。シンデレラみたいだ。

 

結果は激しい二日酔いである。実に正しい銀座の夜の過ごし方だった。

 

後輩は来年、数ヶ月かけて各地を転々としながら沖縄までクルーザーで旅をするらしい。瀬戸内海あたりにいる頃に数日間だけ私も混ぜてもらおうかなどと考えている。