2022年10月31日月曜日

高田純次は75歳

 

日々、何かと悩み苦しみながら生きている中高年男にとって目指すべきは「高田純次」だと思う。もはや高田師匠と呼ぶべき崇高な存在だ。

 

「適当男」と呼ばれる高田師匠だが、もちろんこの場合の適当は的確といった意味合いではない。いい加減という意味。いわばテキトーとカタカナ表記する感じだ。

 

今年で75歳になったそうだ。後期高齢者なのにあの元気さには恐れ入る。その昔の大人気番組「元気がテレビ」で一気に世に出てきた頃から40年ぐらい経つわけだ。


あの番組では大御所女優の宝物である指輪を口に入れたり、オリンピックの金メダルを食べちゃったり若き日の師匠の活躍ぶりは凄かった。YouTubeで探せば今もそんな勇姿が手軽に見られるのが嬉しい。

 

当時から高田純次は高田純次のままである。いまも朝の番組「じゅん散歩」では街の一般人相手にテキトーな発言を爆発させている。キャラ変など彼には存在しない。実に立派だ。

 



タレント本を手にすることは無い私だが、高田師匠の本は別である。昔からつい買ってしまう。読んでもすぐに捨てていたから何度買い直したか分からない。この歳になって読むとバイブルのようで捨てられなくなる。

 

師匠の発言は投げやりなように見えて実は深い洞察のもとに成立している。たぶん違うと思うが私はそう解釈するようにしている。

 

このブログを書き始めて15年、これまでにも数々の著名人になりたいと書いてきた。イタリアのハレンチオヤジの代表であるベルルスコーニ、いつも上手に勝ち馬に乗っていたかつての小池百合子、フィリピンの無頼派大統領・ドゥテルテ、他にも気の良い酒場オヤジである吉田類になりたいなど「なりたいシリーズ」をあれこれ書いたが、突き詰めれば「高田純次になりたい」のが私の一大目標かも知れない。

 

何より気が明るい。これは年寄りにとって大事だ。クヨクヨすることはなさそうだし、細かいことに囚われていない感じが良い。話をすぐにオチャラケ路線に持っていくのも他人を楽しませようという気配りに違いない。

 

彼の本からいくつか引用したい。まずは75歳になった立場で自分の方向性について尋ねられた高田師匠の答えである。画像で読んでください。

 



この発想が既に偉人レベルだろう。普通はそれっぽい答えを考えしまいそうだが「オッパイを吸わずに吹いてみようと思う」と切り返す天才ぶり。誰にもマネできない次元で脳ミソが動いているのだろう。

 

次の発言もまた凄い。「由美かおる」についての考察である。凡人にはこういう発想は無い。

 



結構な年齢になるとすべてのことにおいて達観が強まり無駄に思い悩むことがバカバカしいと分かってくる。それでも私を含めた大半の人はついついどうでもいいことで悩みがちだ。

 

悩みが無いことは素晴らしいことだが、悩みが無いこと自体を嘆いている人に対して高田師匠は次の画像のようなアドバイスをしている。もはや「世の中の人生相談はすべて高田純次に頼め」といいたくなる。

 



さてさて、以前に出版された本ではことわざを高田純次流にアレンジしている。傑作揃いである。オフザケにも程があると眉をしかめる人もいるだろうが、単なるオフザケとは言えない深い真理が隠されているようで個人的には座右の銘にしたいぐらいである。

 

いくつか紹介してみる。

 





いかがだろう。見方によっては実に深い言葉の数々である。敵に塩を送るような必死の戦いに明け暮れるより「適当に日々を送る」ほうが平和で穏やかな日常が過ごせる。

 

清水の舞台から飛び降りるような冒険をせずに、そこに佇んで鳥を眺めている方が無難かつ安全だ。“親しき仲にも~”も実に重要な示唆に富んでいる。すべての男が肝に銘じるべき金言だと思う。

 

先日、週刊誌を読んでいたら老化防止や認知機能を低下させないためにエロいことを考えたり実践することは非常に重要だという専門家の話を読んだ。実際に励まないにしてもエロ動画を見たり妄想したりするだけでも効果があるらしい。

 

歳をとったことで「ソッチのほうはもう卒業だよ」などと気取っている中高年は多いが大間違いである。いつまでも健康で活力を保って生きていくためにはエロの封印は逆効果になるわけだ。

 

高田師匠はそんなことは百も承知のようで、ことわざアレンジでも珠玉の名言を残している。

 



まさにその通りだろう。老いて子に従っていても何も生まない。自らの健康維持のため、はたまたそれに付随する数々の経済効果も考えれば、老いた人のそういう行為は世のため人のためになるはずだ。

 

せいぜい私も頑張ろうと思う。

 

 

 

 

 

2022年10月28日金曜日

鴨亭で鴨ざんまい


鴨が葱を背負ってやって来る。いわゆるカモネギである。先日、銀座のオネエサンの同伴に付き合わされたから鴨を食べに行った。カモネギみたいな私の行動には鴨料理がピッタリである。

 

東銀座にあるその名も「鴨亭」。初めて訪ねる店だ。鴨は大好物だが、鴨ほど料理の質によって味が変わるものはない。専門店なら間違いはないだろうと期待して出かけた。

 

結論から言えば良い店だった。穴場だと思う。銀座の外れの隠れ家的な立地も何となく良い。通っぽい気分になれる。

 

高級すぎずカジュアル過ぎず普通っぽい感じが居心地の良さに繋がっている。メニューは徹底して鴨ばかりである。鴨好きなら頻繁に通っても飽きないと思う。

 

「人の不幸は蜜の味」と同じ意味で「人の不幸は鴨の味」ということわざがある。蜜と並んじゃうぐらいそのウマさを認知されているのが鴨である。人の不幸を牛の味とかマグロの味とか言わないわけだから鴨の立ち位置?がよく分かる。

 

「いとこ同士は鴨の味」なることわざもあるそうだ。夫婦生活が“甚だしく良い”という意味合いらしい。他にも一度別れた男女がよりを戻すと情愛が増すことを「逢い戻りは鴨の味」と表現することもあるらしい。

 

鴨には禁断の味っぽいイメージが昔からあるのだろう。確かに鶏肉や豚肉ともまったく違う鴨ならではの風味は独特だ。

 

ヘタな調理だと固くなったり臭みが強かったりと一歩間違えると途端にマズくなるのも鴨の特徴だ。火が入りすぎた鴨は実に残念な味に変化しちゃう。鍋で食べるときは細心の注意が必要だ。

 

さて、前置きが長くなってしまった。「鴨亭」の話。なかなかニクいラインナップのコースがメニューの中心だがアラカルトでいろいろ頼めるのが良い。

 

有難いことに鴨しゃぶ、鴨すき焼き、鴨鍋という3種類の鍋メニューも1人前から注文できるから一品料理をたくさん頼んで最後にちょっとだけ鍋で仕上げることが可能だ。

 



 

定番の鴨ロースはチーズとトリュフオイルで味わう。ツマミに最適だ。レバーとレバーじゃないやつとの2種のパテも酒飲みには嬉しい。思わず白ワインをぶりぶり飲んでしまった。

 

パテには蜂蜜もついてくるのが嬉しい。適度に味変を試しながら味わうのが楽しい。ハイボールにも合いそうだ。

 


 

メニュー上の名前は忘れたが普通に焼いた鴨もウマかった。もっとレアでも良さそうにも感じたが、ジューシーな仕上がりで鴨の脂の美味しさが際立っていた。オネエサンと分け合ったが本当は一人で全部食べたかった。

 

お次はこれまた鴨料理の定番のコンフィである。これも当然オネエサンとシェアしたわけだが、ナイフで切った肉を食べるより骨を手づかみにして一人でかぶりつきたかった。

                     


同伴メシは一人メシに比べてあれこれたくさん頼めるのが嬉しいが、どんなに気にいった逸品でも独り占めできないのがツラい。

 

気が弱い私はついついオネエサンに多めに食べさせる。でも心の中では悔しい思いでいっぱいだ。なんなら殺意すら感じる。実に心が狭い。


お次は鴨肉のペキンダック風という一品。他の料理に比べてしまうとさほど印象に残らなかった。まあまあだった。甜麺醤(テンメンジャン)を味わうような感じだ。

                    



それにしても鴨を食べたい気分の時に鴨しか出てこないのは率直に言って幸せである。飽きるかなとも思っていたのだが全然問題なかった。

 

この日は頼まなかったがシメには鴨せいろも用意されている。どちらかといえば洋食系メニューが多いから最後に鴨せいろでシメるのもとても良さそうだ。

 

メインとしてこの日は鴨亭鍋を注文した。鴨肉の他につくねが印象的だった。鴨独特のコクと旨味がミンチ肉に凝縮されていた。つくねの画像は取り忘れたから無い。

 




鍋は一人前で頼んだのだが、レアで味わうロース肉が非常に美味しくてオネエサンと肉の取り合い状態になりそうだったから肉だけを追加で頼んだ。こういうワガママにも応じてもらえるのが嬉しい。

 

随分といろいろ食べたのだが、まだまだ気になるメニューもあった。近いうちにまた行こうと思う。カウンター席もあったから今度は一人でこっそりコンフィを手づかみで頬張りシメの蕎麦まで堪能してみよう。

 

 

 

2022年10月26日水曜日

末げん 東京の味


先日、初訪問の店でウマい鳥鍋を食べた。最近は見知った店ばかり通っていたから新鮮な気分で楽しめた。場所は新橋。大衆的な店ばかりのこの街で異彩を放つ老舗の料理屋さんだ。

 

かの三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊基地で大暴れして自決する前に最後の晩餐に選んだ店として有名な「末げん」という鳥鍋がウリの店である。

 

場所は新橋のカオスを象徴する聖地・ニュー新橋ビルの向かいだ。ニュー新橋ビルにある「豚大学」の豚丼(大)を食べるほうが間違いなく私の満足感は高いのだが、いっぱしのベテラン中年男としてはしっぽりとした食事もこなさないといけない。

 



 豚丼の画像を載せてしまったが、食べたのはもちろん鶏肉である。鳥鍋といえば野菜がいっさい入っていない新宿・玄海の水炊きが最高なのだが、いっぱしのベテラン中年男(しつこい)としては野菜が入った鍋も美味しそうに食べないといけない。

 

「末げん」の存在は昔から知ってはいたのだが、入るのは初めてだ。鳥鍋と聞いてもとくにピンと来なかったのがその理由だが、実際に食べてみたら個性的なその味にしっかり魅了された。

 



コース仕立てなのであれこれ出てきたが、鳥刺しも美味しく、その他の料理も全体に東京風のしっかりした味付けで私好みだった。

 

肝心の鳥鍋はすべて仲居さんが仕切ってくれてこちらはノンビリと酒を飲みながら待っていれば済む。醤油ダシ、ポン酢と取り分けるたびに変化をつけてくれるので飽きない。

 





鶏肉もウマい、鴨肉もウマい、とくに印象的だったのがつみれだ。鴨肉も混ざっているせいでコクのある味わいが楽しめる。ポン酢も醤油ダシも甲乙つけがたい。野菜も美味しく食べてしまった。

 

さっきまで豚大学の豚丼のことばかり考えていた自分の愚かさを痛感する。こういう老舗ならではの熟練の味はワケ知り顔をしたい私のようなオジサマ族がこっそり楽しむべきものである。

 

鍋料理は「なんとなく美味しい」というのが常だが、ここの鍋は「しっかり美味しい」と表現したくなる味だった。何となく元気も出た。とはいえ、これを原動力に自衛隊基地に乗り込もうとは思わないが。

 

鶏や鴨のエキスをまとったシメの雑炊が物凄く美味しいのは当然だが、この日は店の名物である親子丼も別に注文してみた。本来は昼の人気メニューらしい。

 


 

この店の親子丼の特徴は挽肉を使っている点だ。鍋で堪能したウマいつみれと同じ挽肉である。東京風のしっかり濃い目の味付けの挽肉が玉子でとじられている。文句なしにウマい。

 

この歳になるとなかなか初体験の食べ物に遭遇することがないのが残念なのだが、この親子丼は初モノの感激を味わえた。普段は朝と夜の2食生活の私だが、ランチにわざわざ食べに来たいと思えた美味しさだった。

 

トータルで感じたのは「東京っぽい味」だということ。ここ20年ぐらいの間にすっかり関西風の食べ物に席巻されてしまったのが東京の外食事情だと思う。

 

まあ、率直に言ってそっちのほうがウマいからウマくないほうが駆逐されてしまうという側面もある。でも昭和人の成れの果てである私としては昔懐かしい味が時々恋しくなる。

 

東京のうどんは真っ黒の汁にぶよぶよの麺が定番だった。箸で持ち上げたら切れちゃうようなうどんもあれはあれで趣があった。多くの料理が濃い口醤油タップリの黒さと、時にダシという大事な概念を忘れた砂糖ドッサリみたいな味付けだった気がする。

 

もちろん、この日の鳥鍋コースがそんなガサツな味だったという意味ではない。全体にハッキリした東京風の味付けだったが、丁寧に料理された逸品ばかりだった。

 

見知った店に出かけて安定の味を求めるのも間違いがないが、時々は入ったことのない店で斬新な食べ物を味わう時間は大事だ。眠っていたアンテナが反応し始めるような面白さがある。

 

なんだか大袈裟なまとめかただが、年々開拓精神がなくなっている自分の退屈な感じを反省する良い機会になった。

 

 

 

 

 

2022年10月24日月曜日

糖質過剰・・・


キャンディーズの名曲に「やさしい悪魔」がある。素敵なタイトルである。一文字打ち間違えたら「やらしい悪魔」になってしまう。それはそれで素敵だ。

 

さて、やさしい悪魔と呼びたくなるのが甘いモノである。私は結構な甘いモノ好きである。女子とカフェに行けばカッコつけてブラックのコーヒーだけで済ませるが、内心では「オレもケーキが食いたい!」と叫んでいる。

 


 

いまハヤリのアフタヌーンティーとやらに付き合わされるのもキツい。要は甘いモノがテンコ盛りになった三段皿を眺めながらお茶を飲めという話である。

 

三段腹の私が三段皿を見学しているだけだからちっとも面白くない。心の中では「さっさと食え」と叫んでいる。

 

我が家に帰ると人目を気にせず甘いモノを頬張る。イマドキのコンビニスーツはかなり優秀だから近所にタバコを買いに行っただけなのに帰ってくるとナゼかスイーツをいくつも入手している。

 


 

最近やたらと疲れやすいのだが、これも糖分の過剰摂取が原因じゃないかと思い始めている。糖質の過剰摂取はなかなか危険らしい。「強い眠気、だるさ、集中力の低下」も糖質が原因になるらしい。

 

まるで私である。それだけならともかく、糖質の摂りすぎは体内の細胞を正常に維持できなくなり免疫力が低下して病気になりやすいんだとか。

 

おまけに余分な糖質は体内のタンパク質と結びついてナンチャラ生成物を多く蓄積させ、それが身体の老化を早め認知症リスクも高まるそうだ。

 

日々、私の心をホンワカと幸せにしてくれる甘いモノ達にそんな極悪非道の一面があるとは残念である。まさに「やさしい悪魔」である。

 

でも、キャンディーズだってやさしい悪魔を否定していない。トリコになったままウーウーと唸っているだけでその関係にどっぷりハマっている。それが人間の業だと思う。

 

外の世界とは違い我が家では頻繁に甘いモノを食べている。娘の前ではカッコつけるどころか逆に叱られるぐらいスイーツ大会を繰り広げている。

 

少し前、娘に誘われ人形町にかき氷を食べに出かけた。目指した店があいにく休業中だったので、たまたま看板が出ていた通りすがりのカフェに入ってみた。

 

フルーツかき氷がウリの店だったみたいで妙にウマいかき氷にありつけた。「ポンプ」という名前の店だった。店内は狭く洒落っ気もないが、フルーツテンコ盛りのかき氷が個性的だった。

 



 

長野パープルという品種の葡萄と白桃のかき氷だ。いずれも軽い感じの練乳チックなミルクが上手に絡んでいてすこぶるウマかった。でも妙に高い値付けだったから若者が気軽に食べに行ける感じでもない。ちょっと不思議な店だった。

 

さてさて、甘いモノの中でいま私が夢中になっているのが「アイスクリン」である。昔懐かしの超オーソドックスかつ頼りない?味わいのバニラアイスである。

 


 

アイスならハーゲンダッツをあれこれ買っておけば済むという私の固定観念を打ち崩してくれた逸品である。シャーベットのような軽めの口当たりですぐに消えていく。そんなはかなげな感じが愛おしい。

 

ハーゲンダッツのあのまったり重い味わいもそれはそれでアリだが、ちょっと一口甘いモノでサッパリしたい時にはハーゲンダッツは向かない。

 

アイスクリン、という出来損ないみたいなネーミングがまた良い。なんとなく日本がまだまだ貧しかった昭和の匂いがする。いままた改めてこの国は貧しくなってしまったから、アイスクリンが一大ブームになってもおかしくない。

 

糖質の摂り過ぎについてあれこれ考察しようと思って書き始めたのだが、結局ウマいスーツの話に終始してしまった。今日も帰りにコンビニで「どらもっち」を買って帰るような気がする。

 

以上です。

 

 

 

 

 

2022年10月21日金曜日

過去ネタです

 今日は更新が出来なかったので過去ネタを一つ載せます。


銀座の夜の物語

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2016/10/blog-post_21.html?m=1




2022年10月19日水曜日

厄介な日本語表現

                   



前回このブログの誤字脱字を友人がしっかり指摘してくれて助かっている話を書いた。その友人からさっそく連絡が来た。今回は誤字脱字ではなく「たり」の用法についてである。

 

前回、「たり」という言葉は連続で使わないといけない例文として「目隠ししたり拘束プレイに励んだりしていた」と書いたのだが、彼はそれについて疑問を感じたらしい。

 

「目隠しと拘束プレイならば励んでいたのは拘束プレイだけではないか?」。校正というか校閲のように踏み込んだ指摘である。彼いわく「目隠しや拘束プレイに励んでいた」で充分であるという。

 

確かにその通りである。“目隠しイコール拘束プレイ”という認識ならその通りである。

 

が、しかし、エロの道はそんなに生半可なものではない。拘束を伴わない目隠しという状況もある。だから「たり」の連続でも構わないと私は考えたわけだ。

 

エロはもっと奥が深いんだぞなどと実にバカみたいな言い訳を彼に対して返信した私である。でも、こんなスットコドッコイみたいなやり方も正しい文章表現を追い求めるには必要だ。実際に私も日頃は職場の校閲担当者との間で記事の背景などを説明して議論することがある。

 

このブログの文章は仕事ではないので結構テキトーに書き殴ってしまう。さきほどの「たり」の使い方の間違いや仕事では使わない用語も普通に使ってしまう。

 

新聞用語にはかなり細かい取り決めがある。中には別にどうでもいいようなルールもあるが、一応決まりだから守っている。

 

差別的意味合いを抑止する意味で使わない用語も多い。ジェンダーが時代のトレンド?だからその関連も多い。婦人警官、女中さん、産婆さんなどは女性警官、お手伝いさん、助産師さんと表記することになる。話し言葉で婦警さんのことを「メスポリ」などと称する人がいるが、それこそ逮捕されそうなほどヒドい言葉である。

 

正直、女性関連の用語には過剰反応みたいな印象もある。一部には「女子高生」を「高校女子生徒」と表現する動きもあるとか。女傑、女流、才女あたりも使われなくなってきたし、ヘタしたらエリザベス女王もいずれエリザベス国王に変えなきゃいけない時代が来るのかもしれない。

 

父兄会は父母会、老婆も老女になる。昭和の人間としては会話で普通に使う言葉が使えないわけだから何ともビミョーである。

 

この「何ともビミョー」の「何」に関しても新聞用語では「なんともビミョー」に修正される。「なに」と読む場合は漢字表記で「なん」と読む場合はひらくことになる。平仮名に直すことを「ひらく」と表現するのも物書き商売の特徴かも知れない。

 

「特徴かも知れない」も新聞表記だと「特徴かもしれない」にひらくのが正しい。わが社の校正マンもこういう面倒なチェックを頑張ってくれているので、書き手としても原稿執筆段階で気をつける必要があるわけだ。

 

話を戻す。昭和の頃には普通に使っていた外人という言葉も今では差別用語扱いで外国人と表記する。私には詳しい理由は分からないが、たいていはそれを使われると不快に感じる人がいる場合に差別用語として扱われる。

 

だからデブやハゲやブスという表現は基本的に活字メディアは特別な理由や意図があるとき以外は使わない。坊主、サラ金、土方も僧侶、消費者金融、土木作業員として表記する。

 

そういえば私が子供だった昭和40年、50年代あたりは差別用語という概念が希薄だったことを思い出す。「ちび黒サンボ」という絵本が大人気で誰もが読んでいた。その後いろいろと問題になって絶版になったが、タイトルからしても今だったら当然アウトである。

 

♪真っ黒けの土人がヤッホ~ヤッホ~ 槍持って鍋持って追いかけてくる そら逃げろ~ やれ逃げろ~ とっ捕まったらフライパンで揚げられる♪。こんな歌も普通に子供達が歌っていた。記憶が定かではないが、テレビで普通に流れていたか、ヘタしたら音楽の授業で習ったのか(さすがにそれはないか)、いま考えたら実にヒドい歌詞である。

 

差別という感覚が薄かったということ自体が日本の後進国ぶりを示していたのだろう。まだ国として成熟していなかった頃の話だ。

 

この「後進国」という言葉もいまでは差別用語だ。「発展途上国」や「開発途上国」と直さないといけない。他にも町医者、共稼ぎ、孤児院なども使わない。開業医、共働き、児童養護施設と表記するのが基本になる。

 

そうはいっても、いまや1億総メディア化の時代である。既存のメディアが自主規制を含めて様々な用語に神経を使ってもSNSなどでは無秩序に言葉が飛び交っているから、ここで紹介してきたような規制された用語が無くなるとも思えない。ますますホンネとタテマエ的な乖離がいろんな分野で拡がっていくのだと思う。

 

さてさて、日本語の間違いとして私が校正マンから指摘された事例を紹介してまとめにしよう。

 

「マトを得た発言」→「マトを射た発言」。

 

「過半数を超える勢力」→「過半数を占める勢力」。

 

いずれも職場に常備している新聞用語集にも出てくる初歩的な間違いである。他にも若い頃に「雪辱を晴らす」と書いて叱られた記憶もある。晴らすのは「屈辱」であって雪辱は「はたす」ものである。

 

学生時代、国語が得意だったつもりなのに割と頻繁にダメ出しを食らっている。やはり今更ながら漢検の勉強でもしないと劣化するばかりである。

 

 

 

2022年10月17日月曜日

活字商売と誤字脱字


仕事柄、いわゆる誤字脱字が大いに気になる。最近はテレビのテロップに間違いをよく見かける。雑誌を読んでいても何となく昔より誤字脱字が目に付くようになった気がする。

 

職人カタギの校正校閲マンが減っているのだろうか。一つ間違いを見つけると途端にその記事の信憑性を疑いたくなる。もっと言えばその媒体自体を低レベルだと思ってしまうから、文字商売にとって誤字誤植は厄介なテーマだ。

 

このブログも富豪記者などと名乗っている以上、誤字脱字は恥ずかしいのだが、一人で誰のチェックも受けずに書いているからしょっちゅう間違いを起こす。

 

有難いことにこのブログには“隠れ校正マン”がいる。私の友人がしょっちゅうミスを指摘してくれる。たいてい更新日の朝のうちに誤字や脱字をメールで知らせてくれる。その友人は理系の男なのだが文系バリバリの私より校正能力は上かもしれない。

 

友人が指摘してくれるミスの他にも私自身が後で気付いてこっそり修正することも多い。紙媒体と違ってネット上の文章はシレっと直せるから便利である。

 

記者稼業を長年続けてきたから、紙媒体における誤字誤植の恥ずかしさは身に染みて分かっているつもりだ。なんてったって紙だからずっと残ってしまう。どんなに素晴らしい内容の記事でも一カ所誤字があるだけで零点以下の失敗作になる。

 


 

若い頃、結構大きな見出しで誤字を見逃した。「遺産」が「遣産」になっていたのを校正担当者も見落とし、最終段階のゲラをチェックした私も見逃してしまった。「遺(イ)」と「遣(ケン)」である。小さい活字のままで流し読みすると簡単に見逃しがちだ。

 

ミスのほぼ100%は校正段階で見つかるのだが、誤字脱字を見つけた時の喜びって結構クセになる。宝探しに成功したみたいな不思議な気持ちになる。

 

手書き原稿ではなくなった今では変換ミスが主流だ。「自己資金」が「事故資金」になっているようなパターンだ。普通に読めちゃうから見落としそうになる。

 

公務員の非行をチェックする役所のポストである「首席監察官」が「酒席観察」になっていたり、それこそ「非行防止」が「飛行防止」になっていて慌てて直したこともある。

 

「前妻」と書いたつもりが「前菜」だったりすると「前菜はいりません」という話が「前妻はいりません」というシュールな話になる。

 

「納める、収める、治める」「硬い、固い、堅い」「暖かい、温かい」などの使い分けも時々ミスを起こしそうになる。それぞれ意味が違うわけだから慎重に使わないと間違える。

 

何かのテレビ番組で「○△の人気が加熱!」というテロップが出てきて驚いたことがある。もちろん「過熱」が正しい。加熱だと○△さんが殺菌されているみたいである。

 

「ね」と「ぬ」も小さい活字のままでボケっと読み返していると見逃しそうになる。「死ぬ」と「死ね」では随分ニュアンスが変わる。「動物園のゾウ死ぬ」が「動物園のゾウ死ね」だと何だか怖い。「あそこに立っているのが長男です」を「あそこが立っているのが長男です」と間違えるぐらい怪しい感じになってしまう。

 

誤字や脱字ではなくても句読点の位置が適切じゃないと怪しい文章になりかねない。「うん、この香り最高!」の句読点を抜くと何とも気持ち悪い会話になってしまうわけだ。

 

「関脇同士、がちんこ勝負」。句読点がずれたら「関脇同士が、ちんこ勝負」になってしまう。最近の若者は文章を書く際に句読点を付けないのが主流みたいだが「関脇同士がちんこ勝負」だと“ちんこ勝負”ばかりが目に飛び込んでくる。やはり句読点は大事だ。

 

誤字脱字以外にも文章表現の決まりは無数にある。このブログでもしょっちゅう間違って使ってしまうのが「たり」である。

 

「目隠ししたり拘束プレイに励んでいた」。これは間違い。「目隠ししたり拘束プレイに励んだりしていた」が正しい。「たり」は反復するのが原則なのについテキトーに使ってしまいがちだ。

 

仕事で記事を書く際にはゲラ段階で間違いを指摘してもらえるから助かっている。すべて頭に入っている校正マンの能力には頭が下がる。

 

キリがなくなってきた。まとめに入ろう。

 

世の東西を問わずコミックバンドといえばおちゃらけているように見えて実は演奏レベルは一級品だ。このブログもおちゃらけ話が中心だからコミックバンドを見習ってキチンと正しい文章で書き続けたいものだ。