クリスマスシーズンである。自分の加齢を妙に実感する時期でもある。若い頃はせっせと浮かれた雰囲気に乗って奮戦して、家庭人になった頃はキチンと子供のためにそれっぽいこともした。離婚してしばらくはこの季節に置いてけぼりをくらったようなアワアワ感があった。
中年前期の私にとってクリスマスはうとましいだけだった。浮き立つ街が何となく腹立たしいというか騒々しく感じて不快だった。意識し過ぎだったのだろう。
中年後期の今になると本当にどうでもよくなってきた。ニギニギしくハッスルしている人々に素直にエールを送りたいほど無関係な気持ちになってきた。
何だかやっと別天地にたどり着いた感覚がある。クリスマスというアザとさの塊のようなイベントに自分が影響されなくなったことに安堵している。
と同時に、いよいよ自分が社会の中心より隅っこのほうに居場所を移したような一抹の寂しさも感じる。
はしゃいだり、うとましく感じたりしたのは、言ってみればクリスマスという渦の中にちゃんと巻き込まれていたからである。「無関係ゾーン」にたどり着いたことは結構なことだが、あまりに距離を置いちゃうと偏屈な世捨て人みたいだ。難しいところである。
東京駅前のキッテという商業ビル内のツリーだ。ちゃんとスマホを向けて撮影してみた。危うく素通りしそうだったが、上に書いたような偏屈な世捨て人にならないために一応パシャパシャ撮ってみた。賑わう人々のそういう空気の中の一部になれたみたいでちょっとホッとした。
なんだかバカみたいである。
キリスト教系の学校に幼稚園から高校まで通った。小学生時代は聖歌隊に所属していたわけだからキリスト様やらクリスマスやらには造詣が深い?はずだ。いや、たいした知識はないが、クリスマスっぽいものに身近に接してから半世紀以上のベテランなのは事実だ。ポっと出のクリスマスマニア?とはキャリアが違う。
子どもの頃、実家の庭に植わっていた本物のモミの木がこの季節になると植木屋さん数人の手によって我が家の吹き抜けの大広間に移された。高さ3メートルはあった。そこに飾り付けをして家族や親せきも集まってワイのワイのと楽しく過ごした。
いま思えば凄い話だ。都内でそんなツリーが毎年毎年、家の中に用意されていたのだから富豪みたいである。そう考えると自分の娘や息子にはたいしたことをしてあげなかったことがちょっと残念だ。昔の大人たちは今の時代より節目節目のイベントに驚異的に真剣に向き合っていたのかもしれない。
いまの社会のあらゆる分野に漂うヌルさは、我々の世代が社会に出る頃から徐々に世間を覆うようになっていった気がする。そう考えるとヌルい世の中を作っちゃったのは我々の世代にも責任があるのだろう。ちょっと複雑だ。
8年前にクリスマスの思い出をアレコレ書いた話を載せる。
そこでも書いていたが、思い返せば私のファーストキスは当時の彼女からのクリスマスプレゼントだった。なんだか胸キュンである。あまり覚えていないのだが、なかなかこっちから行動に移せず寒い中、公園のベンチで長々と座っていた記憶だけはある。
実に可愛い思い出だ。キュンキュンしちゃう。でも、あんなに純情だった私はいったいどこに行ってしまったのだろう。いまやカゲも形も鼻毛のカケラすら無い。
つい先日もここでは書けない変態大会を開催してへとへとになった。我ながら還暦を迎えたくせに何を血迷っているのかと頭を抱えたくなった。
わずか0.5秒の唇の触れ合いに世の中の時間がすべて止まったかのように感じた少年。それが私だった。あれから45年。少年の伸びしろって想像以上に凄いものだと痛感する。
その伸びしろを野球に向けていたら野茂投手より先にメジャーで活躍したかもしれないし、勉学に向けたらノーベル賞候補になれたかもしれない。さすがにそれはないか…。
いずれにせよ、あの頃、進む道、選べる道は数限りなくあったはずなのに私の選んだ道は何とも独特な場所に私を導いた。
後悔しているかと問われたら答えはノーである。いや、臨終の床でどう感じるかはまだ分からないが、少なくとも現段階ではちっとも後悔はない。トータルで楽しいことのほうが多かったのは確かだし文句を言ったらバチがあたると思う。
なんだかよく分からない自省録になってしまった。クリスマスというイベントはそんな振り返りをしてみるには良い機会なのかもしれない。





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