2025年10月17日金曜日

甦れシャトーソース!

 

最近はナゼか西洋料理系を食べる機会が多い。本格的なフレンチなどはあまり得意ではないが、日本的な洋モノだとガツガツ食べてしまう。

 

日本的洋モノの代表といえばピラフだろう。コメ好きニッポン人の典型みたいな私もピラフは大好きだ。我がソウルフードと言っても過言ではない。

 

ピラフの中でも私が心酔?しまくっていたのが、九段下にあったホテルグランドパレスのピラフだ。通った学校が近くにあったから小学生時代から親しんだ味だった。

 



シャトーソースという魅惑の液体をぶちまけて食べるのがグラパレのピラフだった。ホテル閉館がアナウンスされた頃には焦って何度も食べに出かけた。もう食べられない今となっては思い出すだけでヨダレまみれになる。

 

グランドパレスの親戚である皇居横のパレスホテルには「伝統メニュー」という冠付きで今もシャトーソースを楽しめるピラフがある。以前から時々こちらのピラフも食べていたのだが、グラパレとはビミョーに味が違う。どうしても自分の原点のピラフと比べてしまうため評価は辛口になりがちだった。

 

先日久しぶりに“ピラフ脳”になった日があったのでパレスホテルに出向いてみた。この半年、それなりに節制暮らしをしてきたのでピラフをはじめとする洋食とはご無沙汰状態だった。

 

節制もほぼ終了したいま、ちょうど誕生日を迎えてめでたく還暦を迎えたから、自分にとってのお祝いメシ、ご褒美メシは何が最適かを考えた末にたどり着いた結論が「ピラフ」と「ペヤング」だったわけだ。

 

で、パレスホテルでアレコレ食べた。ピラフの前にトリュフ風味のフライドポテトやらエスカルゴやら舌平目なんかをワイン片手に味わった。

 



で。ピラフ登場。泣きそうになるほどワクワクしたのだが、シャトーソースの風情に違和感を覚えた。「なんか違う…」としか言いようがない。私の好きなシャトーソースはもっとサラっとしているはずだ。この日出てきたソースは粘度強めのデミグラスソースみたいな見た目に感じた。

 



とはいえ、私の大好物だったグランドパレスのピラフには既に思い出補正がかかっている。「アッチのほうがウマい」という思い込みのせいでそんな印象を持ったのだろうと気を取り直して食べ始めた。

 

普通に美味しい。一般的に言ってちゃんと美味しい。でも、でもである。やはりシャトーソースが違う。やはりちょっとデミ系に寄っている印象がある。私が愛したシャトーソースはもう少し白ワインの要素が強めでサラっとしていたはずだ。

 



ブツクサ文句を言うなら食べなきゃいいのだが、そこは「ピラフィスト」「ピラファー」を自認する私である。同行者にはほんの一口食べさせただけでほぼすべてを独り占めして完食した。一応幸せだった。

 

歳を重ねるとヘタな経験値のせいで素直に喜んだり感動することが減る。そんな現実を改めて思い知ったような感じだ。とはいえ、次にパレスホテルに行く機会があっても、どうしたってシャトーソースのピラフは注文すると思う。そんなもんだろう。

 

というわけで、話を変える。

 

前回に引き続きヘンテコなペヤングを紹介する。「世界の山ちゃん・幻のコショウ味」である。手羽先唐揚げの人気店の独特の味わいを焼きそば向けにアレンジした挑戦的?な商品である。

 


 

率直に言ってウマかった。むしろ普通のソース味よりウマいかもしれない。ただし、美味しく感じるには大事な注意点がある。これはどのカップ焼きそばにも言える話だが、付属のソースは78割だけ投入すること。これは厳守したいところだ。

 



ソースを全量入れちゃうと味が強すぎてダメだ。この山ちゃんペヤングもソースや特製コショウを75%ぐらい入れて味わったのだが、それで充分だった。全量入れていたらきっと美味しく感じなかったと思う。

 

ペヤングシリーズはまだまだ続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 





2025年10月15日水曜日

夜の銀座。ついでにペヤング


このところ夜の銀座をウロつくことが増えた。11月末に行う我がオヤジバンドライブの集客営業?のためにクラブ活動もちょこちょここなしている。コスパが全くかみ合わない営業活動だが、それはそれで仕方ない。

 


 

私自身の誕生日も絡んでいた時期なので何回かはお祝い攻撃を受けた。素直に喜ぶ。一昔前なら小っ恥ずかしいだけだったが、さすがに還暦である。無事に過ごせていることをメデタイと思ったほうが健全だ。

 

クラブ活動に行くたびに世情の移り変わりが垣間見える。客層の変化や繁盛している店とそうでない店の違いをアレコレ取材するのも何かと学びがある。繁盛店のカギは結局はいろんな場面での努力量の差に尽きる。当たり前のようでこれを実践できるか否かが分かれ道である。

 

ところで、ナゼ自分が夜の銀座にあまり行かなくなったかを考えてみた。結論は「馴れ」だ。アウェー感の有無と言ってもいいかもしれない。30代、40代の頃の気持ちと今を比べてみるとワクワク感も衰退したし、背伸びしたい感覚も無くなってしまった。

 

20〜30年前の夜の銀座には謎めいた老人客がたくさんいた。どこかの業界のフィクサーだろうなと思わせる重厚なジイサマ達をやたらと見かけた記憶がある。見るからに高価そうだがちょっと趣味の悪いスーツやジャケットに身を包んで独特の存在感を放っていた。

 

ヤクザさんとも違う、エリートサラリーマン上がりのお偉いさんとも違う一種独特の濃いオーラを感じた。一喝されたら震え上がっちゃいそうな妙にアクが強いジイサマ達だった。

 

私ごときはハナタレ小僧みたいなもので、そんな客層のいる世界の端っこでちょっと小さくなって飲んでいた。またそれこそが楽しかった。場違いな未知の世界に無理やり忍び込んだみたいな面白さを感じた。

 



アウェー感たっぷりだったし、背伸びしたい気持ちが強かったのだと思う。どこかの支配者みたい人達が集う場所の片隅に混ざっている感じが初期中年時代の私には刺激的に思えた。

 

その後、世の中のマイルド化、平準化に比例するようにアクの強い怪しい老人たちをあまり見かけなくなった。気づけば私自身も50歳をとっくに過ぎてあの世界の客層の中では小僧じゃないぐらいのポジションになっていった。

 

ホリエモンが時代の寵児になった20年前ぐらいから客層も変わってきた。クセ強ジイサン達とは対極のTシャツにジャケットみたいな若めのお客さんが一気に増えていった覚えがある。

 

年上ばかりの客層の中で背伸びすることが楽しかったのに、年下みたいなお客さんばかりになると背伸び願望も消えていく。次第に馴染みの店も増えていたから気づけばアウェー感も無くなってしまった。

 

ある時、店に着くなり「梅昆布茶ちょうだい」と言っている自分を俯瞰してちょっと残念な気持ちになった。それじゃあコナれたオヤジそのものである。そこには背伸びしたい気持ちもアウェー感にドギマギする感覚も無い。知ったかぶりオジサンの完成である。

 

そんな残念な気持ちになった頃にコロナ禍が到来した。結果、なんとなく夜の部活に励むことが激減して今に至る。

 

それでも有難いことに我がオヤジバンドライブにはこの10年、そこそこの人数の銀座組の面々が賑やかしに来てくれる。古い付き合いのママさんや黒服さんのおかげだ。そのせいもあって今も私は夜の銀座と縁が切れていない。

 

バンド活動をやめる日が来たら私の部活も正式引退ということになるのだろうか。何だかそれも淋しい。夜の銀座の空気感にはそれなりに愛着もある。自分の現役感?を保つために時にはあの世界に身を置くことも必要だろう。

 

たかだか還暦を迎えたぐらいでウジウジとそんなことを考えてしまう自分がちょっとイヤだ。まだまだいろいろハッスルしないと老け込んじゃうから気をつけよう。

 

ここからは全然違う話。

 

最近、あのペヤングがやたらと風変わりな商品を発売している。“迷走系焼きそば”だ。アレコレと取り寄せてみた。このブログではこれからしばらく話の末尾にヘンテコペヤングを紹介していきたい。

 

 



今日は「マヨツナカレー味」である。私はカレー味の麺があまり好きではない。カレーの味に合うのははコメだろうという固定観念のせいだ。

 

で、期待せずに食べてみた。酷評する気バリバリで食べてみたのだが、妙にウマい。何だか気に入ってしまった。ジャンク気分の時にはオススメです。やはりマヨって魔法みたいな調味料だと思う。





2025年10月10日金曜日

甘い還暦

 

還暦を迎えた。なんだか妙に感慨深い。普段の誕生日と違って節目ならではのいろんな感情が湧いてきた。60年生きてきてどこにも故障がなく好き勝手に過ごせていることをつくづく幸せに感じる。

 

同級生の中にも先に逝ってしまったヤツもいるし、健康に生きていられることを喜ばないといけない。喜怒哀楽の感情にしても生きていなければ味わえない。怒や哀はイヤだが、それだって生きていればこその話である。

 

40代の頃までは誕生日に何かを思うことはなかった。生きていれば勝手に誕生日はやって来ると平然としていた。それ自体が若さだったのだろう。50歳の誕生日を迎えたとき、四捨五入したら100歳だと意味不明な感慨にふけって以来、最近は誕生日イコール「今年も無事だった」的な気持ちになる。

 

「おじさん」というカテゴリーで生きる日々も随分と長くなった。オジサン界隈?ではすっかりベテランの域である。オジサンを40歳からだと定義すると既に20年もオジサンだ。だんだんと次のステージが近づいていることに我ながら驚いている。次のステージは「おじいちゃん」である。実にヤバい。

 

おじいちゃん予備軍なのに最近はそこらへんのギャルみたいに甘いものを食べまくっている。かなりのスイーツ大好きオジサマになってきた。

 

さすがに血糖値を心配していたのだが、直近の血液検査でも標準値に収まっていた。こればかりは遺伝的要素に感謝である。

 



これは娘が買ってきてくれたマロンシャンテリーである。パレスホテル、東京會舘が覇権を争っているマロンシャンテリーだが、正直言ってどちらのもウマい。ニッポンのスイーツ業界における伝統芸能的な逸品だと思う。

 

もはやマニアックな趣味になった大学野球観戦に行ってもついつい甘いものを買ってしまう。自販機で売っているようなどうでもいいアイスも好きだし、絶対にメロンじゃない謎の物体がトッピングされているメロンかき氷だって食べてしまう。

 




 その一方で繊細さがウリの練りきりのような和菓子も大好きだ。下の画像は東京駅のステーションホテル内にある虎屋直営カフェの練りきりだ。煎茶も頼んで一息つくとエネルギーが湧いてくるような気分になる。

 

つくづく砂糖が貴重品だった時代に生まれなかったことはラッキーである。「時代ガチャ」でいえば勝ち組みたいな話だ。

 



刑務所に服役していた人が出所した途端に口にしたくなるものが甘いものだという。酒でもタバコでもなくスイーツに飢えてしまうらしい。分かる気がする。絶対に服役することがないように気をつけようと思う。

 

和菓子、洋菓子問わず大好きだが、太らないために実行している努力?が「外側を捨てる」という極悪非道な行為だ。

 

シュークリームやエクレアあたりは外側あってこその一品だが、私は中身だけ食べる。ただの甘いクリームと言われたらその通りである。外側はほんのちょっとかじれば満足してしまう。

 




この画像はどこかの人気店の特製シュークリームである。生クリームやアンコ、カスタードクリーム等々がうじゃうじゃ投入されているのに外側はほぼ残した。はたしてこれで体重に影響があるかは不明だ。でも罪悪感という感情に勝ててしまうという効果があるのは確かだ。

 

最近はふるさと納税でも口コミ評価が高いピスタチオアイスを何種類も取り寄せたりしている。アイスクリームはちょっと溶けた状態が美味しいので電子レンジで温めるのが常だ。シェイクだかアイスクリームだか分からないぐらい柔らかいと嬉しい気分になる。

 

端的に言ってスイーツは幸せの象徴だろう。日々の暮らしの中で幸せを感じる場面は意外に少ない。その点、ちょろっと口にするスイーツはいちいちプチ幸せを感じさせてくれる。

 

と、相変わらずどうでもいい話を書き殴ってしまった。いま私の手元にはグミが転がっている。グミがテンコ盛りになったバケツサイズのハリボーをわざわざ職場に取り寄せている。バケツに手を突っ込んでどんなグミが出てくるかワクワクドキドキ?するのが楽しい。


ハリボーの中でも「ハッピーコーラ」という商品はどこかの国で大麻成分が検出されたとかで回収騒ぎになったらしい。それはそれで禁断の味みたいな話で気分がアガる。不謹慎だが、ハッピーコーラを食べるたびにハイになれないものかと期待している。

 



グミを口にするたび幸せって身近なところにあるんだと感じる。60歳、ノーテンキ極まりない日々である。

 

 

 

2025年10月8日水曜日

見栄

 また更新できなかったので、見栄っ張りについて考察した過去ネタを載せます。


https://fugoh-kisya.blogspot.com/2017/07/blog-post_21.html






2025年10月6日月曜日

にょぼん

 更新が間に合わなかったので過去ネタを一つ。


女犯と邪淫







2025年10月3日金曜日

リーグ戦100周年

 


相変わらず大学野球観戦にハマっている。いまは東京六大学、東都大学など各地で秋のリーグ戦真っ盛りである。秋のリーグ戦は4年生にとっては最後の舞台だ。春の甲子園と夏の甲子園が違うように秋季リーグ戦は一種独特の面白さがある。

 

私が好きだから言うわけではないが、大学野球の面白さが世間からちょっと忘れ去られているのは惜しいと思う。「コンテンツ」として非常に優良だ。ガラガラの観客席で観戦しながらいつもそう思う。

 



かつてはプロ野球よりはるかに人気があって国民的娯楽の筆頭だった時代もあるらしい。日本人は野球が大好きだ。WBCのアノ盛り上がりは凄かったし、プロ野球の球場も全国どこでも活況だ。甲子園の高校野球も毎年大いに盛り上がる。

 

そんな中で出遅れ感?があるのが大学野球だ。東京六大学を例にとると今年は結成100周年だ。100周年って物凄いことだが、そんな話が世間で注目されることはない。何だか残念だ。

 

学生主体の運営だから広報戦略に乏しいのだろうが、さすがに今ぐらいの注目度だと淋しい限りだ。選手のモチベーション、今後の高校球児の進路選びという点でももっと盛り上げて然るべきだと思う。

 

ちなみに神宮ではなく東京ドームに併設されている野球博物館では期間限定で東京六大学100周年記念展示が行われている。天皇杯をはじめ昔の貴重なユニフォームや資料、長嶋や田淵のバット、名物監督だった明治・島岡御大のノックバットまで見ることが出来る。野球好きなら見逃せない展示内容だ。

 






さて、ちっとも活況にならない大学野球を嘆いてみせたが、今の私は早慶戦以外のガラガラの球場が嫌いではない。イニングごとに座席を移動していろんな角度から観戦できる。野球好きにとっては贅沢な観戦方法である。

 

先日、平日夕方の東都大学リーグを観戦した。週末に神宮球場を優先利用する東京六大学に比べて東都の“追いやられてる感”はなかなかだ。球場の売店もたいてい閉まっているし、球場内の廊下など各所にあるモニターも固定カメラでの中継映像しか流していない。

 



この秋も東都リーグが神宮を利用する日程はかなり直前になってから決まった。こういう“追いやられ感”の中で鍛えられ、全国選手権などでは東京六大学代表に勝つところが東都のカッコ良さだ。

 

リーグ戦ごとに一部最下位と二部一位の入れ替え戦が行われることも「戦国東都」という言葉とともに東都リーグの醍醐味だ。万年最下位の東大が加盟している東京六大学は実質的に5大学の争いである。一部と二部が拮抗している東都との根本的な違いだ。

 

東都ばかり持ち上げたが、東京六大学もコンテンツとしては面白い。今は早稲田の小宮山監督を始めプロ野球出身者が監督やコーチに就くことも増えた。甲子園を沸かせた野球名門校からの進学も多いから「甲子園のその後」というストーリー性もある。

 

応援合戦も楽しい。時代遅れの学ランや袴姿の応援団の凛々しさも大学野球観戦の楽しみとして欠かせない。チアリーダーの華やかさも然り。各校とも独自の応援歌、応援スタイルがあって頻繁に観戦しに行くうちにそれぞれの特徴が掴めてくる。

 




高校野球も面白いが、大学生になるとやはり身体つきがたくましくなる。その分、高校野球よりプレーに迫力もあるのが大学野球の特徴だ。そのうえでアマチュアであり学生だから礼儀正しい感じが見ていて清々しい。

 

私は試合前後の整列からの挨拶の場面が大好きで、毎度なぜだか胸をうたれる。ベースボールとは違う野球道そのものという感じがして常に襟を正して見入ってしまう。

 



各校とも試合当日には独自のパンフレットを無料配布したり、ネットを活用してチームの紹介や部員のエピソードなどを披露している。各校のカラーが感じられて意外に面白い。そんなことを続けていると各校それぞれに注目したくなる選手も出てくる。彼らの活躍に一喜一憂するのも楽しい。

 

選手との距離感が近いのもアマチュア野球ならではだろう。試合前後には選手も球場の廊下をうろうろしているし、観客と同じトイレを利用するから有名人気選手と連れション状態になることも珍しくない。

 




ドジャースタジアムでベッツ選手や大谷選手が隣で立ちションしている場面など想像できないが、大学野球の神宮ではドラフト一位確実のスター候補選手と連れションが可能だ。連れションマニアのかたにはオススメである。

 

東京六大学はこの秋、早稲田が4季連続優勝を目指している。この春と昨年秋はいずれも同率で明治と並んだ上での優勝決定戦をものにした早稲田が天皇杯を守っている。

 

この秋は雪辱を期す明治も好調で早稲田と並んで2週連続で勝ち点をあげている。それを上り調子の立教、低迷期脱出を目指す法政が追う展開だ。慶応は既に脱落。11月まで続く戦いの行方が今から楽しみだ。

 

ついでに言えばリーグ戦の最中にプロ野球のドラフト会議が行われるため、リーグ終盤戦はドラフトでの悲喜こもごもが混ざり合った人間ドラマ的な要素も織り込まれる感じだ。見ごたえのある大学野球がもうちょっと世間から注目されることをファンとして期待している。

 

 

 

 

 

2025年10月1日水曜日

銀座の酒とサイゼの酒


先日受けた血液検査では「γ-gpt」の数値が正常値になっていた。ビックリである。10年、いや20年、いや、30代以降は正常値だった記憶がない。正常値の3倍、5倍だったらちゃんと注意してきたのだろうが、正常値を2割、3割程度超える程度だったから気にしたことはなかった。

 

別に大酒飲みじゃなくても普通に酒を飲む人なら多少は数値が高くなるのが当たり前だと信じ込んでいた。大のオトナでも正常値になることがあるんだと妙に感心してしまった。まあ、考えてみればこの半年は節制生活だったから酒を飲む量もかなり減っていた。

 

とりあえず15キロ減になった体重を何とか維持している。でも最近はちょっと怪しくなってきた。先日も酔って帰宅した後にウーバーで牛丼を頼んでしまった。白米はかなり残したが半年ぶりの自分らしい行動をちょっと誇らしく?感じた。バカである。

 

体重が減ったことと関係があるのかどうかわからないが、このところ酒を飲み過ぎても以前ほどキツくない。以前なら飲み過ぎるとビミョーにムカムカしちゃったのだが最近はそれが無い。しばらく酒を減らしていたから肝臓も元気を取り戻したのだろうか。

 

先週はやたらと飲む機会が多かったのだが、飲んだ後のムカムカや二日酔いで困ることがなかった。気のせいかもしれないが、だとしたら気のせいも大事だ。

 


 

夜の銀座にも何度か足を運んだ。以前ほど通わなくなったが、多少は付き合いもある。私はかなり義理堅いし綺麗な女性にお世辞を言われるのも好きだから、まだそちらの活動は引退していない。

 

やはり時には華やかな空気感の中でちょっと気取ってイケオジのフリをすることも必要だ。自分がまだ現役だと確認するためにも大事なことかもしれない。

 



クラブ活動はその日の2軒目、3軒目になるからそこそこ飲んでからの参戦だ。それでもせっせと水割りのおかわりを用意されるとグビグビ飲んでしまう。クラブ活動ではオールドパーを定番にしているのだが、最近はオールドパーの味が妙に美味しい。

 

オールドパーは独特の味だから好みが分かれる酒だ。私自身、正直言えばそんなに好きな味ではない。それでも祖父の代からのいろんな物語にあやかって銀座ではオールドパー一辺倒だ。最近になってウマく感じるのは年齢のせいだろうか。謎だ。

 

「座っただけでウン万円」といわれる銀座だが、おかしなもので、あれが「座っただけで2千円」だったら有難みも面白みも無い。変な話だが非日常感みたいな部分が銀座を銀座として成り立たせている一番の理由だ。

 



そのために独自の矜持をもって働く人々がそんな世界を支えているのも確かだ。昔よりはそういう濃厚さが薄れてきているが、それでも他の繁華街とは一線を画す。世の中すべてがマイルド化、均一化、平準化してきた今だからこそ、あの街の神秘性というか、良い意味での排他性は維持されてほしい。

 

妙に高い酒の話を書いたついでに妙に安い酒の話も書く。

 

先日、初めて「サイゼ飲み」を体験した。良心的な値段で人気の「サイゼリア」である。バンド練習の後でメンバー5人ほどで行ってみた。

 

いやはや感動の一言である。オッサンたちで長居したことを反省したくなった。あんな値段で食べて飲めるなら若者のオアシスである。メニューを見てあそこまで価格を抑えていることにひたすら感動した。

 


ワインはたいていのボトルが1000円だ。白だの赤だの悩むヒマがあったら両方頼めば済むし、なんならシュワシュワも1000円だ。一品料理も500円を超えるものを注文すると富豪みたいな気分になるほど安い。ただただ企業努力に敬服する。

 

結局、ビールの他にワインを5本ぐらい頼んでアレコレと食べ物も注文して一人あたり3千円を切ったような金額で済んだ。安かろう悪かろうではなかった点に感動した。

 



座っただけでウン万の店だろうとサイゼリアだろうと酒を飲むという行為はあくまで楽しさが前提じゃないといけない。あたりまえの話だがこの歳になるとつくづくそう思う。

 

ヤケ酒や悲しい酒をいかに少なく済ませられるか、人生後半戦は案外それとの闘いのような気がする。

 

 

 

 

 

 

2025年9月29日月曜日

謎めし。エンガワとか。

 

世の中の食べ物にはウマいものとマズいものの他に「ビミョーなもの」も存在する。ウマいマズいの範疇の外に位置する独特なモノのことだ。

 

もちろん、味覚なんて個人的な好みだから滋賀の鮒ずしや変な匂いのするチーズが大好物だという人もいるだろう。でもああいう特殊な食べ物は万人が揃って「ウマいなあ」と頷く味ではない。

 

そういう文化遺産的なビミョーな味はさておき、バカみたいに辛くしたカレーやらアホみたいに脂ギトギトにしたラーメンなんかも実に「ビミョー」だと思う。ウマいなあと頷くよりも一種の征服感を味わうために食べているだけだと思う。

 

若い頃は「強い味」をウマいと感じる。俗にいうガッツリってやつだ。加齢とともにキツくなってきて背を向けるようになるが、私だって若者時代はわざわざ辛さがウリのエスニック料理を得意になって食べていた。今では見向きもしなくなった。

 

それでもやはり「男の子DNA」は我が身に残っていて、今でもトンチンカン?なジャンクフードに食らいつきたくなる時がある。先日もよせばいいのにヘンテコな一品を食べてみた。

 




吉野家の牛玉スナミナまぜそばである。だいたいスタミナと呼称する食べ物は滋味深い優しい味とは無縁だ。ヤケッパチみたいに塩やニンニクが前面に押し出されている。ウマいマズいの外の世界である。

 

牛丼の具が乗っかった混ぜ麺なら美味しいはずだという私の安易な考えが甘かった。おまけに味をマイルドにする効果があるタマゴを混ぜ合わせるのを忘れた。なんだか拷問みたいな味だった。すみません、個人的な感想です。

 

40年、いや30年前ならウマいなあと喜んだのだろうか。天下の吉野家がメニューに採用するぐらいだからきっと私が言うほどヘンテコではないのかもしれない。謎だ。

 

ヘンテコな食べ物といえば回転寿司で出てくる「謎のエンガワ」も捨てがたい。ヒラメやカレイのエンガワの部分があんなに日本全国どこでも毎日品切れにならずに提供されるはずもない。謎の深海魚みたいな魚がエンガワに似ている風味だったから一斉に普及したシロモノだ。

 

独特の脂っぽさが若い人をトリコにする。実は私もあれが好きだ。正統派のお寿司屋さんで食べる本物のエンガワのほうが好きだが、そもそも比べるべきものではない。謎のエンガワはあれはあれで独自の世界だ。

 




チマタでは「えんがわの押し寿司」が人気だという。東京駅などでは売り切れ続出だと聞いたことがある。以前、たまたま羽田空港で売っているのを見つけて勇んで買ってみた。ワクワクしながら食べたのだが、これが思ったより口に合わずに落胆した。

 

あまりにも脂がギトギトで尋常な状態ではなかった。ラーメンの世界では「脂マシマシ」なる危険な?注文の仕方があるそうだが、きっとそれを上回るベトベトぶりだった。容器や附属のおしぼり小袋までベトついていた印象だ。

 

やはり、謎のエンガワは謎の存在であって、マトモなエンガワには遠く及ばない怪しい食べ物だと痛感した。ナゼそんなものが大人気なのか不思議で仕方なかった。

 

その後も羽田空港に行くたびに謎の押し寿司を目にしていたのだが、さすがに怖くて買えずに時は過ぎた。しかし、人間の記憶力と学習能力なんて頼りないもので、最初の体験からほんの23か月しか経っていない某日、ナゼかまた購入してしまった。

 

箱のデザインが以前と違っていたから買いたくなった。違う業者さんの商品だろう。前に食べたやつとの違いを確かめたい気持ちに負けて再挑戦である。

 




で、恐る恐るラウンジの隅っこで食べてみた。ふむふむ、これならイケる。私のジャンク魂が頷いていた。前に食べた押し寿司よりもギトギト感が強くない。回転寿司屋のエンガワに近い感覚だった。

 

ウマいなあとしみじみする味ではないのだが、こういうモノを食べたい気分の時ならちゃんと美味しく感じる。えんがわの押し寿司をいくつの業者さんが販売しているか知らないが私のおススメはこれ。この箱のデザインが目印だ。

 

他にもウマいのがあるかもしれないが、たった2種類を食べた私の感想はそんな感じだ。それにしても最初に紹介したほうはなぜあんなにギトギトだったのか今も謎だ。ひょっとしたら保管状態ひとつで状態が大きく変化するのかもしれない。一応、そっちの業者さんの名誉のために付け加えておく。

 

四の五の書いたが、結局はホンモノのエンガワを正統派のお寿司屋さんで食べるのが一番幸せである。もともと数に限りがあるネタだから「エンガワ、まだありますか?」と尋ねながら注文する姿勢が望ましい。「エンガワください!」などとネタがあるのが当然みたいな頼み方はオトナのたしなみとしてはスマートではない。

 

大きなお世話かもしれないが…。

 

 

 

 

 

 

2025年9月26日金曜日

優しさとは

 更新しそびれてしまったので過去ネタを一つ。


優しいオジサマ

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2015/04/blog-post_22.html




2025年9月24日水曜日

馬、馬、馬


精力と聞くとすぐにアッチのほうを想像してしまうのは正しくない。もちろん、ソッチの意味合いで使われることは多いが、そもそもは日々を生きるエネルギーの源そのものを指す言葉である。

 

やる気、根気、意欲や情熱という前向きな姿勢すべてを意味する言葉である。いわば活力と同義語みたいなものだろう。精力は年齢とともに自然と低下するのが普通だ。情熱バリバリのオジイサンという話はあまり聞かない。


ご多分に漏れず私も精力は減退気味だ。体重を減らして倦怠感こそ無くなったものの、物事への集中力や意欲はどうしても若い頃よりは弱まってくる。

 

一応、自分の名誉のために書くとアッチのほう?の精力はまだちゃんとしている。男として生きているうえでこれは救いだ。この歳になって現役でいられることは有難い。

 

 いまだにスキあらば一戦交えようと思うし、据え膳は残さず食べる。ソッチはもういいやという感覚の同年代男も増えてきたが、まだしばらくは現役でいようと思っている。



 そういう考え自体が精力旺盛ともいえるが、そうじゃないとさすがに退屈だから多少は無理してでもカラ元気に励もうと思っている。とはいえ、ランニングしたりスクワットに励んだりするような努力はちょっと苦手だ。

 

努力なしに活力、精力を維持できるのが食事だろう。気がつくと最近の私は馬刺しばかり食べている。精力アップをもくろんでいるわけではない。純粋にウマいから食べまくっている。とはいえ、精力増強に良いという側面も何となく意識はしている。

 



 馬肉の強壮効果は昔から有名だ。江戸時代の吉原の近隣には桜鍋の店がたくさんあったそうだ。遊郭に遊びに行く前に男たちがこぞって馬力をつけに行ったわけだ。俗に「蹴とばし」とも呼ばれたそうだが、そのぐらいパワーがつくことが理由だ。

 

馬肉の良い効能は火を通すことでいくつかは消滅するらしいから馬刺しで食べるのは元気になるためには理にかなっているらしい。おまけに馬刺しの場合、ほぼ100%スライスタマネギが付いてくる。私はこのスライスタマネギが好きで、時にはそれだけ大盛りにしてもらう。

  



タマネギも精力増強に効果的なのは有名だ。昔の中国のお寺の入口にはタマネギ持ち込み禁止が掲示されていたという話を聞いたことがある。修行僧がギンギンになっては困るという趣旨だったそうだ。タマネギはニンニクと同系の植物だからパワーの源としても似たようなものなのだろう。

  

馬刺しにタマネギをセットで食べるわけだからきっと精力増強には最強の組み合わせだろう。このところ週に何度も食べているから私も何とか元気ハツラツぶっていられる。


半年前までコンビニの菓子パンばかり食べていた頃より寝起きも良い、睡眠の質も良い、ダルさもあまり感じなくなった。ついでにいえばアチラのほうも何となくラクチン?になっている。

  

好きなものを食べて元気になるわけだからこんなに良い話はない。飽き性だからいつ馬刺しに目がいかなくなるかが心配だが、しばらくはB型特有の凝り性体質のほうを活かして食べ続けようと思う。

 



この画像は赤坂の肉十八番屋という店の赤身とフタエゴの盛り合わせだ。ここ数か月なぜか何度も通っている店だ。タバコが吸えることと「鬼おろし」と名付けられた果肉ブリブリの生グレープフルーツサワーに惹かれて通うようになったのだが、馬刺しのウマさも魅力だ。おかわりしちゃうこともある。


タテガミだと脂っぽいだけの印象もあるが、赤身が混ざっているフタエゴやら肩ロースあたりはサッパリに加えて適度なコッテリも感じるので延々と食べられてしまう。

 

馬刺しばかり食べて、あとは梅キュウやら牛スジ煮込みでも食べていればいつの間にか満足する。炭水化物はちょっと我慢である。節制暮らしには最適な過ごし方だと思っている。

 



こちらはモツ鍋の人気店「やましょう」人形町店の馬刺しだ。普通は鍋を食べに行く店だが、馬肉が目的の私は鍋には見向きもせずチマチマと一品料理だけを注文して焼酎のアテとして楽しむ。そのぶん高くつくのだが…。馬刺しの値付けが高いのが残念だが、その分、間違いのない肉質の一品が出てくるから悪くない。

 

他にも行き当たりばったりで馬刺しを注文しまくっている。先日は、日比谷の路地をうろつきながら適当に入った居酒屋でも食べた。お客さんがほとんどいないシャバダバな様子の店だったので、久しぶりにハズしたかと思ったが、馬刺しはマトモだった。

 

結局、馬刺し専用の甘くて濃いめの醤油とサラシタマネギをたっぷり加えて食べればたいていの馬刺しは私にとってはアタリだ。単純である。

 



精力旺盛になるのは結構なことだが、そのエネルギーをどこに向けるかが問題である。加齢にあらがって下世話な事ばかり考えているようでは情けない。

 

何か建設的なことに活力を向けるように心がけようと思う。










 

2025年9月22日月曜日

飯茶碗のこだわり

 

誰もが日頃の暮らしの中で「こだわりグッズ」を使っている。私も凝り性だから生活のいろんな場面でどうでもいいこだわりに縛られている。

 

縛られていると書いたが、自分ではこだわっていることに快感を感じている。トイレットぺーパーはドコソコ製のナンチャラじゃなきゃイヤという感覚だってこだわりだ。それを徹底することは一種の快感になる。

 

私の愛用品といえば器関係が多い。30代のころに窯場巡りにハマって日本中の焼き物を見て歩いた。見るだけではなく随分買った。立派なベンツ1台ぐらい買えるほど器にお金をかけた。

 

現代陶芸作家モノが中心で骨董品にはほぼ手を出さなかったので破産しないで済んだ。いまは当時ほどの情熱はないが、それでも飯茶碗、湯飲み、ぐい飲み、豆皿あたりにはこだわりがある。

 

もっとも、家庭人を卒業してからはレンジでチンできる安っぽい皿を使う頻度が激増した。家庭人時代はすべての器が日本中の窯場で仕入れてきた一点モノだったわけだから随分と豊かだった。何だか懐かしい。一時期でもそんな文化的?な暮らしをしていたわけだから私もなかなかの粋人だったわけだ。

 

日常遣いの器の基本が飯茶碗である。個人的にはお気に入りを見つけるのに最も苦労するシロモノだ。世の中に出回っている飯茶碗って小さすぎると思う。私に言わせればたいていが女性向け、子供向けにしか見えない。

 

コメを茶碗によそう際に料亭みたいに上品にしたいのなら小ぶりの茶碗でもいいだろうが、私としてはウマいコメを炊いたらしっかり盛りたい。それには相応のサイズの茶碗が必要だ。

 

長年愛用しているのが唐津の作家モノだ。飯茶碗ではなく小ぶりの抹茶椀である。抹茶椀は焼き物の世界ではドッヒャー!と値段が高くなるので気軽に使えないのが普通だ。

 



 その点、我が愛玩品はお抹茶の練習用として造られたらしく抹茶椀としては格安だったのでガンガン使っている。絵唐津という様式に分類されるのだが、色柄よりもサイズ感に惹かれて長年使い続けている。

 

とはいえ、最近ちょっと浮気をしてしまった。半年ほど前からの節制生活のせいで自宅でコメを食べる機会が減った。食べるにしても小盛り程度にしている。そうなると愛しの絵唐津の飯茶碗が甚だしくオーバーサイズなのが気になっていた。

 

料理を盛る器には「余白の美」が必要だが、飯茶碗だとそんな風流な気分にはならない、大きめの茶碗にちょこんと白米がある風情はちょっと寂しい。これっぽっちしか食えないのかという飢餓感さえ覚える。

 

というわけで、小ぶりの飯茶碗の意義を改めて痛感している。ウチにはなかなか素敵な美濃焼の飯茶碗があるのだが、同居する娘に使わせているから今さら奪い取るわけにもいかない。

 



美濃焼探訪のために岐阜の多治見に行った際に購入した茶碗だ。織部様式の中でも全体が緑色の総織部である。織部の緑は発色がすべてだ。安っぽい観光土産みたいなシロモノと真っ当に作られた本気モノとでは色の深み、渋みがまるで違う。

 

白米が映えるのもこういう茶碗の良さだろう。画像だと分かりにくいが先の絵唐津椀に比べれば随分と小さい。今の私はこっちを使いたい。

 

で、先日の沖縄旅行の際に新しい飯茶碗を買ってきた。私にしては小ぶり、一般的にはまあまあしっかりしたサイズだ。見込み、すなわち覗き込む内側は無地のキレイな乳白色だ。外側の絵柄は沖縄・壺屋焼ならではの風情だが、いわゆる民芸路線のスタイルとして益子焼などにも似た雰囲気だ。

 



単なる白ではなく実に雰囲気のある乳白色だった点が気に入った。作家モノとはいえ、大御所でもない限り数千円で買える。こういうものは出会いである。さっそく自宅でこの器でタマゴかけご飯を食べた。なかなか良い。

 

窯場めぐりではなくとも旅先で出会った器を使い込むのは楽しい。いちいちその器を買った時の旅を思い出す。大げさに言えばそんな器たちには何かしらの物語があるわけだ。使うたびにそこに思いを馳せるのもオツだ。

 



こちらは大きめの茶碗だ。正当な抹茶椀だが、私にとってはお茶漬け専用飯碗である。唐津焼の中の斑唐津というジャンルの器だ。有名人気作家の一品だが、窯場めぐりをマメにしていた頃に親交を深めたおかげで格安で譲ってもらった。

 

抹茶椀といえば陶芸家がとくに気合を入れて造るものだ。ましてや唐津の茶碗は茶人の世界でも人気が高い。そんな作品をお茶漬け専用にしているのは贅沢だが、それもまた楽しみである。


単純な私はお茶漬けを食べるたびにこの器のおかげでとても豊かな気分に浸れる。たかがお茶漬け、されどお茶漬けである。15年以上使っているが傷も欠けも無い。愛着があれば長持ちするものである。


日常使いの器の話をもっと書こうと思っていたのだが、長くなったので今日はこの辺でおしまいにします。