2025年12月22日月曜日

動画、睡眠薬、射精道


来週はもう来年である。ビックリだ。時の流れは年々早くなる一方だ。以前にも書いたと思うが、時の経過が早く感じるようになるのは「川の流れ」に例えると分かりやすい。

 

川の流れはいつも一定だ。歳月の流れも同じである。川のほとりを歩く人間は年齢が増すにつれ歩き方が遅くなり、昔と同じように歩いているつもりでも川の流れが速くなったように感じる。

 

若い頃は視野も狭くただ真っ直ぐに歩く。周りを見る余裕もなく、脇目もふらず前に向かって歩く。歳を重ねると川のほとりの景色を眺めたり、足を止めて考えたりすることが増える。だから若い頃より歩くペースが落ちる。気づけば川の流れ、すなわち時の流れだけがズンズンスン進んでいくという理屈だ。

 

私のように煩悩の塊のようなヤツはいつもロクでもないことを考えこんで足を止める。ついでにやたらと寄り道もしちゃう。その間に時の流れのほうがグングン進んでいってしまうのも仕方ないのだろう。

 

都合よくいえば、人生を謳歌していると解釈することもできる。もう還暦だし、すべてのことを楽観主義、ご都合主義で捉えたほうが精神衛生上も良さそうだ。

 

さて、今年を振り返ると読書量の激減に我ながら驚く。活字中毒気味の傾向があったのも今や昔、最近ではネット動画を見る時間がやたらと増えた。

 

リール動画とも呼ばれる短い動画はそれこそ溢れんばかりに世の中に出回っている。スマホ片手にそういう動画をランダムで見ているとキリがない。

 

特定の動画を見ちゃったら同じジャンルの似たような動画が表示されやすくなるから、誰かに覗かれたら私のヘンテコな趣味嗜好がモロバレである。

 

一時期はシマウマが生きたままライオンとかに食われちゃうグロ系ばかりが表示されていた。ミニスカ女子高生のヘンテコなダンスばかりになっちゃったこともあるし、大谷翔平ばかりになったこともある。

 

最近やたらと表示されるのが「京都橘高校吹奏楽部」である。何かの拍子にハマってしっかり見ていたら大げさではなくそればっかり出てくるようになった。既に大ファンになってしまった。

 https://kyoto-tachibana-shsband.jp/

 

ネット界隈では既に充分有名らしいが、まだ知らない人にも是非オススメしたい。素直に凄い。大人数のメンバーが演奏しながら揃いの振り付けでかなり激しく動き回る。海外にも招待されるようで日本人として誇らしい気持ちになる。

 

保守的なオジサマ族である私は「ネット動画なんてロクなもんじゃない」みたいに否定派だったのだが、あの吹奏楽部の凄さを知っただけでネット動画肯定派に趣旨替えである。

 

世の中には「へー、うひょー、ワオ!」みたいな凄いことがたくさんある。知らないことが山盛りだ。フェイクもたくさん紛れ込んでいるのだろうがそれはそれだ。出回っているモノすべてを信じちゃうほどウブではない。だいたいオールドメディアだって真実じゃないことも垂れ流す。すべての情報を妄信しないで楽しめば済む話だろう。

 

もちろん、それはそれで結構なのだが、個人的には本を読む時間が減っていることはやはり残念ではある。活字を読みながら脳みそを動かす時間は、映像をボーっと眺める時間とは異質だ。読書による気持ちの整理、リセットみたいな効果は大きいし、それ以前にやはり学びになることは多い。

 

本を読む機会が減ったことで、私の場合、何よりも睡眠に大きく影響が出ている。動画はスマホからの電気光線を浴びているわけだから刺激が強い。紙の上の活字を追う作業とは違って灯りを消してさあ寝ようとしてもどうにも寝付けない。

 

脳が冴えちゃっている感覚を少なからず感じる。活字だってあまりに興味深い描写や表現があると脳が活性化するが、電気光線を目に直接浴びる刺激に比べればマイルドだ。

 

この半年、いや1年ぐらい寝付きが非常に悪い。睡眠薬のお世話になることがやたらと増えてしまった。もちろんリール動画ばかりが原因ではないが、多少の影響はあったかもしれない。

 

睡眠薬も飲み過ぎると依存しがちだ。既に私も依存に近い状態だ。以前ならイチコロみたいに寝られた容量では足りなくなってきた。ちょっとマズい。

 

この夏以降、“完徹”しちゃったことも23回ある。眠りに効くツボとやらを調べてグリグリしまくっても逆に目が覚めてしまう。間違ったツボを押したのか、はたまた大真面目かつ真剣にやりすぎて覚醒しちゃったのか、まるで効き目はなかった。

 



最近読んだ本もどちらかといえば没頭型ではない。どこからでも読めるルポ的なモノや雑学系ばかりだ。長編小説の世界にどっぷりつかるような本との向き合い方とはご無沙汰だ。

 

コロナ禍の頃は随分と歴史小説などを読んだが、最近はご無沙汰だ。いま思えば小説の活字世界の情景を頭の中に思い浮かべて物語の中に入りこめていた時間は楽しかった。わずらわしい日常から逃避するには最適だった気がする。

 

ちなみに「射精道」という一冊はタイトルに惹かれて迷わず購入したのだが、タイトル通り「道」が中心、すなわち武士道のような“心構え”に関するような内容が多くてちょっと拍子抜けした。

 

道徳という言葉を忘れがちな私にとっては、どちらかといえば道徳的な内容が多くて辟易、いや、大いに反省する機会を与えてくれた。

 

なんだかヘンテコな結論でスイマセン…。

 

 

 

 

 

2025年12月19日金曜日

エビ様


海老、蛯。エビを漢字で書くと「老」がくっついてくる。エビの姿形を腰が曲がった老人に見立てたことがルーツだ。何だか哀しいような印象もあるがその逆である。長寿のめでたさを表す意味合いが強い。

 



わが国の食材においてはエビは縁起物である。正月の鏡餅にも欠かせない。今みたいに長寿社会じゃなかった昔の人にとっては腰が曲がるほどのお年寄りはそれだけでおめでたい存在だった。

 

おめでたいといえば、海老の目が出っ張っていることも「めでたい」に通じるから縁起物としての意味合いを強めている。おまけに脱皮を繰り返す生態も「再生」を表すとして尊ばれてきた。

 

私は以前からエビが大好きだ。寿司ネタの中で一番好きなのもエビだ。洋食屋さんに行ってもエビフライを頼みたくなる。肉系レストランに行っても上の画像のようなエビカクテル的メニューがあればついつい注文する。

 

さすがにまだ腰は曲がっていないが、還暦を迎えた私としてはメデタイ存在であるエビのことは縁起をかつぐ意味でも一層愛し続けたい。歳をとったからこそエビとともに歩んでいくべきだろう。意味不明だ。

 

トンカツ屋のメニューにもエビフライはよく登場する。豚肉ガッツリ気分でそこにいるのに1本から注文できる店なら迷わずエビフライも追加してしまう。

 



 

エビフライの相棒であるタルタルソースをべっとりとトッピングしてソースも混ぜちゃうと最高だ。得も言われぬ幸せな気分になる。これを書いているだけでヨダレが出てくる。

 

めでたくも崇高な存在であるはずのエビ様だが、食材としての社会的地位はビミョーだ。一般的に高級食材ではあるもののシャバダバな安物の存在が足を引っ張っている。

 

謎エビとも呼べるペラッペラで風味も乏しいヤツらがエビ業界?全体に悪影響を及ぼしている。回転寿司屋で一番安いメニューに並んでいるようなダメエビや冷凍ピラフに混ざっているチンチクリンのヤツなどである。

 

ああいう謎エビのせいで「エビは苦手です」という人が増えてしまったのではなかろうか。アレルギーの人もいるが、そうじゃなくてもエビを嫌う人は案外多い。ヘンテコなダメエビが元凶じゃないかと睨んでいる。

 



繰り返しになるが私が好きな寿司ネタはエビが筆頭である。生きているエビの茹でタテを握ってもらうのは最高だし、作り置きでも上質なネタの旨味を引き出している“仕事系”のエビは他のネタとは一線を画す美味しさだ。

 

甘エビやボタンエビ、はたまたブドウエビなどナマのエビの握りもウマいが、茹でたクルマエビの握りのほうがシャリとの相性は良い。個人的な意見だが断固そう思う。

 

寿司全般に言えることだが、ナマのほうが上みたいな思い込みは正しくない。職人のワザを感じられるだけでなくお店ごとの特徴も知ることが出来る。茹でエビの握りがウマい店なら何を頼んでもハズレは無いといっても大げさではないだろう。

 



冷蔵庫が無かった時代の寿司といえば、ヅケや昆布締めなどが基本で色味の点ではどんよりしがちだった。そんな中で鮮やかで明るい色のエビがスーパースター扱いされていたのも当然だろう。メデタイというオマケもついてくるわけだから今の時代の感覚とは随分違ったようだ。

 

お寿司屋さんにはよく行く。週に一度は通っていた頃よりは減ったが、それでも月に23度は出かける。エビを頼まなかったことがあったか考えてみたのだが、おそらくこの10年で一度も無いはずだ。

 



甲殻類はアレルギーの原因になることも多い。「コップの水理論」で一定量を超えるとそれまで平気だったのにダメになっちゃうらしい。エビだけでなくカニも大好きな私だが、アレルギーを恐れて一時期よりはカニを食べる機会を減らした。

 

カニは減らしたがエビは減らす気にならなかった。カニはあきらめられてもエビとオサラバするのは耐えられない。“お年寄りにとっての縁起物”だと考えたらこれから先も末永く付き合っていきたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

2025年12月17日水曜日

日本橋界隈にて


大河ドラマ「べらぼう」が終わってしまった。主人公・蔦谷重三郎が活躍した場所が日本橋界隈だったこともあり、近隣に住む私もしっかり1年間見続けた。大河ドラマが終わるといよいよ年の瀬である。

 

日本橋界隈といっても案外エリアは広い。高島屋エリアと三越エリアではちょっと雰囲気が変わるし、神田の近くや人形町エリアもとりあえず日本橋界隈である。

 

今の住まいに移ってからまもなく3年だ。中央区民になってから3か所目だが、今までで一番便利なので今後しばらくは動きたくない。以前ほど近隣開拓にマメでは無くなったが、今も時折、新しい発見をして面白がっている。

 



神田寄りにあるコレド室町テラスに入っている妙に高い「おいなりさん」が気になっていたのだが、先日ようやく食べてみた。


私は案外ミーハーである。ユーミンがその店の「おあげ」を気に入っていると語っていたテレビ番組を見たせいで食べてみたくなった。

 

「だしいなり海木」という福岡に本店があるお店だ。ユーミンが紹介していた「おあげの缶詰」は売り切れだったので名物のおいなりさんを買ってみた。4つで1500円ぐらいの値付けだ。富豪級?である。

 



日本橋といえば人形町にある「志乃多寿司」のおいなりさんが有名だ。私も散歩ついでによく買う。いろんな味のおいなりさんが楽しめるが、あちらは確か6個入りで800円ぐらいである。それに比べれば破格の値段だ。

 

牛丼が3杯食えるなあなどと富豪らしからぬ思いを胸に秘めて妙に高いおいなりさんを食べてみた。かなりウマい。非常にウマい。上質なダシの風味がシミシミである。もはや汁物と呼びたくなる。実にジューシーなおいなりさんだった。

 

あえて言うなら中身のご飯が柔らかめなのが残念。そこは大事なポイントだ。すし飯はもちろん、丼モノのコメが柔らかいとそれだけで敬遠したくなる私としては大減点要素だ。次はおあげだけを買って自分で作った酢飯に合わせて食べてみたい。

 

話は変わる。

 


 

先日、日本橋高島屋に近いエリアでレバ刺しに興奮する機会があった。いつの間にやら手軽に食べられなくなったレバ刺しは中高年男の酒のアテとして崇高な存在である。

 

今では低温調理とやらが基本で純粋なナマのレバ刺しは食べられなくなった。日頃は生々しくないレバ刺しなど邪道だと思って敬遠しているのだが、新興の「ふじ屋」という居酒屋さんで食べた「トロレバ刺し」にはかなり満足できた。



 

オニオンスライスやタン刺しやらを肴にガリサワーをグビグビ。その後にレバ刺し登場。さほど期待せずに食べてみたが、ナマのレバ刺しと遜色ない食感でムホムホしてしまった。

 

タバコも吸えるし、串モノも美味しい。レバやタン以外の肉刺しも人気らしい。職場からも自宅からもちょっと歩けば行ける立地だから近いうちに再訪することになりそうだ。

 



別な日、より自宅に近い場所で穴場的なお店を知った。しょっちゅう近辺を歩いていたのにナゼか目に入っていなかった。レストランバー「ライズ」という店。

 

昭和の頃によく見かけたアメリカチック?な内装のアメリカン?な食べ物をウリにするお店だ。どちらかといえば若い人向けのメニューが揃っている。内装ともども昭和の頃に若者だった私のようなオッサンの食欲もストレートに刺激する。

 



あの頃はこんな感じの店ばかりだったなあ、などと感慨にふけりながらアレコレ注文してみた。胃腸は実年齢相応に弱っているのだが、若かりし頃の記憶が脳内を支配しちゃうとバンバン食べたくなる。

 

チーズオムレツやケイジャンチキン、なんちゃらグラタンなど血気盛んな男子が好みそうな料理を味わった。どれもちゃんとウマい。ハイボール片手に味わうと際限なく食べられそうな感じだ。

 

アメリカチックな料理って言い換えれば「昭和ニッポンの東京料理」かもしれない。あの頃、若者にとって和食は何となくダサい印象があった。せっせとカタカナ料理をこぞって食べていた気がする。

 





 で、ステーキやハンバーグやドライカレーも食べてみた。それぞれキチンとウマかった。ヘンテコな例え方をするならロイヤルホストの料理に野性味を加えた感じとでも言おうか。おまけに妙に値段が安かった。穴場だと思う。

 

普段はつい知った店ばかり行ってしまうので、我が身のフレッシュさ?を保つためにも時には近隣探検に努めてみようと思う。

 

 

 

 

 

2025年12月15日月曜日

クリスマスの意味

 

クリスマスシーズンである。自分の加齢を妙に実感する時期でもある。若い頃はせっせと浮かれた雰囲気に乗って奮戦して、家庭人になった頃はキチンと子供のためにそれっぽいこともした。離婚してしばらくはこの季節に置いてけぼりをくらったようなアワアワ感があった。

 

中年前期の私にとってクリスマスはうとましいだけだった。浮き立つ街が何となく腹立たしいというか騒々しく感じて不快だった。意識し過ぎだったのだろう。


中年後期の今になると本当にどうでもよくなってきた。ニギニギしくハッスルしている人々に素直にエールを送りたいほど無関係な気持ちになってきた。


何だかやっと別天地にたどり着いた感覚がある。クリスマスというアザとさの塊のようなイベントに自分が影響されなくなったことに安堵している。

 

と同時に、いよいよ自分が社会の中心より隅っこのほうに居場所を移したような一抹の寂しさも感じる。


はしゃいだり、うとましく感じたりしたのは、言ってみればクリスマスという渦の中にちゃんと巻き込まれていたからである。「無関係ゾーン」にたどり着いたことは結構なことだが、あまりに距離を置いちゃうと偏屈な世捨て人みたいだ。難しいところである。

 



東京駅前のキッテという商業ビル内のツリーだ。ちゃんとスマホを向けて撮影してみた。危うく素通りしそうだったが、上に書いたような偏屈な世捨て人にならないために一応パシャパシャ撮ってみた。賑わう人々のそういう空気の中の一部になれたみたいでちょっとホッとした。

 

なんだかバカみたいである。

 

キリスト教系の学校に幼稚園から高校まで通った。小学生時代は聖歌隊に所属していたわけだからキリスト様やらクリスマスやらには造詣が深い?はずだ。いや、たいした知識はないが、クリスマスっぽいものに身近に接してから半世紀以上のベテランなのは事実だ。ポっと出のクリスマスマニア?とはキャリアが違う。

 

子どもの頃、実家の庭に植わっていた本物のモミの木がこの季節になると植木屋さん数人の手によって我が家の吹き抜けの大広間に移された。高さ3メートルはあった。そこに飾り付けをして家族や親せきも集まってワイのワイのと楽しく過ごした。

 

いま思えば凄い話だ。都内でそんなツリーが毎年毎年、家の中に用意されていたのだから富豪みたいである。そう考えると自分の娘や息子にはたいしたことをしてあげなかったことがちょっと残念だ。昔の大人たちは今の時代より節目節目のイベントに驚異的に真剣に向き合っていたのかもしれない。

 

いまの社会のあらゆる分野に漂うヌルさは、我々の世代が社会に出る頃から徐々に世間を覆うようになっていった気がする。そう考えるとヌルい世の中を作っちゃったのは我々の世代にも責任があるのだろう。ちょっと複雑だ。

 

8年前にクリスマスの思い出をアレコレ書いた話を載せる。

 https://fugoh-kisya.blogspot.com/2017/12/blog-post_18.html

 

そこでも書いていたが、思い返せば私のファーストキスは当時の彼女からのクリスマスプレゼントだった。なんだか胸キュンである。あまり覚えていないのだが、なかなかこっちから行動に移せず寒い中、公園のベンチで長々と座っていた記憶だけはある。

 

実に可愛い思い出だ。キュンキュンしちゃう。でも、あんなに純情だった私はいったいどこに行ってしまったのだろう。いまやカゲも形も鼻毛のカケラすら無い。

 

つい先日もここでは書けない変態大会を開催してへとへとになった。我ながら還暦を迎えたくせに何を血迷っているのかと頭を抱えたくなった。

 

わずか0.5秒の唇の触れ合いに世の中の時間がすべて止まったかのように感じた少年。それが私だった。あれから45年。少年の伸びしろって想像以上に凄いものだと痛感する。

 

その伸びしろを野球に向けていたら野茂投手より先にメジャーで活躍したかもしれないし、勉学に向けたらノーベル賞候補になれたかもしれない。さすがにそれはないか…。


いずれにせよ、あの頃、進む道、選べる道は数限りなくあったはずなのに私の選んだ道は何とも独特な場所に私を導いた。

 

後悔しているかと問われたら答えはノーである。いや、臨終の床でどう感じるかはまだ分からないが、少なくとも現段階ではちっとも後悔はない。トータルで楽しいことのほうが多かったのは確かだし文句を言ったらバチがあたると思う。

 

なんだかよく分からない自省録になってしまった。クリスマスというイベントはそんな振り返りをしてみるには良い機会なのかもしれない。

 

 

 

2025年12月12日金曜日

ウチメシの贅沢

 

最近は何かとバタバタで更新を怠りがちだ。一応、自分に課した定めだから週3回の更新は維持したい。でも来年あたりから週2回の更新に変更しそうな気がする…。こうやって人間はラクなほう、ラクなほうへと逃げていくことでフヌケになってしまうのだろうか。気をつけようっと。

 

さて、今日はプチ贅沢の話だ。贅沢というかワガママ極まりない私のウチメシの話を書いてみる。外食と違ってウチメシは人様の目が無い。だから何をしてもOK?である。

 

同居する娘がいる時はさすがにブレーキがかかるが、ウチに一人でいる時にはかなりフシダラな食べ方を実践している。

 

一人なのにハンバーガーを56個デリバリーしてパンの部分を全部捨てちゃって中身だけ食べるとか、並盛り4個セットなら割引キャンペーンだった牛丼のデリバリーでは、ご飯1人前に4個分の牛丼の上だけをのっけて贅沢丼にするとか、罰当たりなことに励んでいる。

 

こういう悪いクセが定番化してしまったのには切なくも悲しい私の過去が関係している。

 

というのはウソで、単に家庭人生活からオサラバしてウチの中に主婦がいなくなったことがきっかけだ。中年男のヤモメ暮らしは食生活にわびしいイメージがつきまとう。映画やドラマではたいていコンビニ弁当をチンして缶ビール片手に寂しそうに食べている。

 

そういうシャバダバな情景に身を置きたくないから私のウチメシは無軌道になっていった。レトルト食品にしても高級路線のモノを揃えて少しでもわびしさに繋がらないように努めた。

 

独身に戻ってから10年以上たった今は以前ほどのこだわりはなくなったが、それでもレトルトのカレーやハヤシはちょっと値の張るモノをあえて買ってしまう。おまけに食べる時には一気に2つ使うという暴挙?にでる。

 



先日、ウチに余っていたレトルトシチューを若者におすそ分けした。こちらとしては「レトルトなんかでゴメン」「レトルトごときで迷惑かな」みたいな感覚だったのだが、意に反した答えが返ってきた。「レトルトなんか高くて普段は買えません」という。

 

いやはや昭和人の感覚だとレトルトは“ごとき”だったのに既に時代は変わったようだ。大丈夫か、ニッポンの将来!という複雑な気持ちになった。

 

先日、ふるさと納税の返礼品としてイクラがやってきた。イクラはやっぱりドンブリ飯にドカンとのっけて食べたい。観光地で売られている瓶詰だと中身のイクラが50グラムほどしか入っていないシャバダバなものが多いが、あれではイクラ丼は無理だ。

 

ウチメシの際のイクラ丼はケチケチしてはいけない。ふるさと納税の返礼品なら実質的にタダで手に入ったものである。ドンブリ飯に150グラムはのっけてウヒウヒした気分で味わいたいものだ。高い税金を納めている自分へのご褒美である。

 



それにしても腹立たしいのが来年からふるさと納税の控除額に上限が設定される話だ。高額納税者は寄付に回せるいわゆる控除額が大きくなるのはごくごく当然の話。

 

にもかかわらず控除額が大きくなれば返礼品をもらえるメリットが大きくなる点を「金持ち優遇」だとイチャモンをつけて規制しようという話だ。

 

高所得者と高額納税者は違う。高額納税者への感謝や敬意のカケラもない話だ。年収5千万円〜1億円で控除額を打ち切りにする案が出ているので当面は大半の人に影響はない。とはいえいずれジワジワと規制の網は下がってくることは確実だろう。

 

高市政権は「責任ある積極財政」を旗印にしている。そのわりには随分と気持ち悪い発想だ。低所得者優遇ばかりを狙った積極財政では経済効果は限定的だ。経済のけん引役である所得階層をイジメ続けるなら単なる愚策だろう。

 

話がそれた。

 

ウチメシでのワガママ三昧の話だった。最近の週末はブラックコーヒーとドーナツというアメリカ人のようなパターンが増えた。今年の秋口までかなり徹底していた節制暮らしでは小麦もほぼ食べなかった。今はユルユル状態だから休みの日の午前中に頬張るドーナツの味は毎回私をウットリさせてくれる。

 


 

画像はミスドのアレコレだが、スタバのマズいドーナツと違って種類がやたらと豊富なうえにウマい。当然いろいろ食べたくなるのが人情である。

 

とはいえ、ドーナツである。せいぜい3つも食べれば満足しちゃう。それもシャクである。といううわけで大量にデリバリーしてもらってそれぞれ半分か3分の1程度づつ齧ったりちぎったりして全部の味を楽しむのが私の悪行である。

 

娘が帰宅して残骸を食べてくれると救われた気がするが、そんな救世主が表れないと、あわれ余ったドーナツは廃棄処分の憂き目に。地球環境を考えたことは一度たりともない私だが、こういうフードロスはさすがに反省する。

 

次からはすべてちゃんと食べきろうと決意するのだが、せっかく15キロも減量した努力を思い返すと心が揺れる。昔なら余裕でたいらげたのにすっかりシミったれた男になってしまった。

 

なんだか残念だ。ヘンテコな結論になってしまった。

 

 

 

 

 

 

2025年12月8日月曜日

豚の日々


相変わらず豚肉を愛しまくる日々だ。もし残りの人生で食べられる肉類を一つしか選べないとしたら迷わず豚肉を選ぶ。それを尋ねられてから0.3秒ぐらいで「豚肉!」と即答する自信がある。

 

今年も随分と豚肉を味わってきたが、もっとも印象に残ったのは夏に北海道のエスコンフィールド近くの某フードコートで食べた「ぶたはげ」という店の豚丼だ。ウマくてウマくて泣きながら食べた記憶がある。さすがに泣いてはないが。

 



前から不思議に思っているのが「豚丼」の社会的地位だ。ウマい豚丼屋は都内にもいくつかあるが、ラーメンやカレー、はたまたファストフードの牛丼に比べて人様の話題に上ることは滅多にない。

 

日本人に染みついている「牛が上、豚は下」みたいな固定観念のせいだろうか。だとしたら実にもったいない話だ。豚丼の魅力に気づく人がもっと増えたら、いずれカレーや牛丼みたいな一種の国民食になりえるポテンシャルはあると思う。

 

今すぐにでも本場・帯広に行って豚丼を攻めたい気分だが、さすがに12月は寒そうだ。来年こそは帯広に何日も滞在して豚丼屋めぐりだけに励む旅をしてみたい。

 

さてさて、先日、銀座にある「華連」というJA鹿児島が直営するしゃぶしゃぶ屋さんに出かけた。狙いは黒豚である。この日はしゃぶしゃぶではなく「せいろ蒸し」を選択。

 



 個人的には豚肉だけが良かったのだが、同行者の意向もあって黒牛と黒豚のミックスを選ぶ。当然、牛は同行者にすべて任せて私は黒豚を担当した。肉を上、下に野菜のせいろを重ねることで肉の旨味が野菜に滴り落ちる仕組みだ

 




この歳になると余計な脂を落とした肉には愛しさを覚える。その優しさに惚れてしまう。とか言いながら私の正体は“トンカツ野郎”でもあるので、せいろ蒸しの他に黒豚の厚切りロースかつも注文した。

 

せいろ蒸しが脂を落としちゃうなら脂を補給しないとダメ?である。だいたい二段せいろの野菜のほうは私にとっては敵である。肉の旨味や脂をまとったとはいえ野菜は野菜である。野菜の上に落ちてしまった脂分を補給するにはヒレカツよりロースカツを選ぶのが正しい。

 


 

トンカツを肴に芋焼酎をロックでちびちびやるのが私にとっては至福の時間である。同行者に野菜を担当してもらい私はせっせとヒレカツと芋焼酎でウヒウヒしていた。ハッピーだった。

 

銀座で豚肉といえば中学高校時代の後輩が経営する「美らしゃぶ亭」がある。日本中の豚肉の中でも特にウマい「パイナップルポーク」を知ったのもこの店だ。

 

オーナーである後輩は銀座で豪快に飲み歩くタイプの男。毎日のように銀座の飲食店にお金を落とすのがもったいない?という理由で自ら出店した店だ。その後輩は今は体調を崩して引っ込んでいるため最近は彼の店を訪ねる機会が減っていた。

 



 先日、久しぶりに行く機会があったのだが相変わらずパイナップルポークのしゃぶしゃぶは絶品だった。通常の牛肉しゃぶしゃぶの専門店に行くより高くつく。でも私にとっては高級牛肉よりこちらの豚肉のほうが美味しいのでそれも仕方ない。

 

ちなみに我が家の冷凍庫にはパイナップルポークを常備している。生姜焼き用の切り身、しゃぶしゃぶ用の薄切りなど数種類が揃っている。無くなりそうになると慌ててふるさと納税サイトを開いて追加注文している。

 

今年は過去になく節制に励んだ一年だったが、そんな中でも豚肉は私をサポートしてくれた。節制に挫折しそうになると訪ねたのがモツ焼き屋だ。茅場町の「紅とん」には何度足を運んだだろう。

 

いつも生グレープフルーツサワーかホッピーを片手に太らなさそうなツマミをたくさん頼んで空腹をしのいだ。まずはオニオンスライスやワカメポン酢、梅きゅうなどで空腹を落ち着かせる。

 

その後は豚肉類をあれこれ頼んで炭水化物や揚げ物は控えて過ごした。純レバや肉モヤシ炒めのおかげで体重は順調に落ちていった。安い店だから肉モヤシ炒めも「ほぼモヤシ」である。節制には最適だった。

 



そんな食べ方をしていれば割と簡単に腹はふくれる。串モノは34本もあればしっかり満足できた。今も不摂生モードに陥りかけるとこの店に行ってオニオンスライスとワカメポン酢から始める。

 

生グレープフルーツサワーのグレープフルーツが鼻くそ程度にしか入っていないのがシャバダバだが、おかげであんまり美味しくないから飲み過ぎないで済む。逆に有難い。

 

こんな話を書いていたらナゼか無性にカツサンドが食べたくなってきた。豚肉愛好家にとっての“スーパーおやつ”である。先日も深夜に銀座のバーで酔いにまかせて食べてしまった。ウイスキーと妙に相性が良いので深夜の銀座のバーは危険である。




いかんいかん、最近はキックボクシングジムに行く機会が減ってきたし、肥満の道に舞い戻りそうな気配が漂っている。12月はただでさえ会食の機会が増える。やはり、ここは大衆モツ焼き屋に行って肉モヤシ炒めでしのいでおこう。







 

 

 

 

 

2025年12月5日金曜日

たまごの日々


わが家に常備している生卵は大分県の「蘭王たまご」だ。この味が大好きで定期的に取り寄せている。購入するにしても他のブランド卵より手軽な値段なのだが、私は毎月のようにふるさと納税の返礼品として入手している。


TKGはもちろん目玉焼きにしてもウマい。ゆで卵も頻繁に作る。ゆで卵はトリュフ塩をまぶして食べるだけでご馳走になる。

 

このタマゴを知ったのは銀座にある「串銀座」というお店だ。15年ぐらい前から時々訪ねている。お目当ては温玉である。温玉以外は正直普通だ。温玉を4回おかわりしたこともある。

 

先日、久しぶりに訪ねたのだが、温玉と鳥刺し、温玉そぼろ丼しか記憶にない。当然、串ものや他の料理もアレコレ出てきたのだが、酔っていたから温玉の印象ばかり残っている。

 




 

刺身はハツやレバーなど内臓系が嬉しい。モモやササミの刺身は同行者に譲って“コレステローラー”ならではの時間を過ごした。

 

話は変わる。わが家の定番料理が「目玉焼きまぜまぜご飯」である。子どもの頃、せわしない朝に母親が即興で作ってくれた私のソウルフードでもある。硬めに炊いたウマいご飯を使うのが鉄則だ。

 

フライパンに油を少し多めに入れて作った目玉焼きをご飯にグチャグチャと混ぜる。そこにウスターソースを適量投入すれば完成である。至極簡単だがこれが非常にウマい。

 



完成画像である。美味しそうには見えないかもしれないが、騙されたと思ってトライしていただきたい。延々といくらでも食べられるレベルだ。

 

これにももちろん蘭王たまごを使う。黄身の味が正しく濃いから混ぜ混ぜ状態になっても間違いなく美味しい。コメは山形の「雪若丸」か「つや姫」をかなり硬めに炊く。ウマいコメあっての一品だ。

  

たまごもコメもふるさと納税で取り寄せているから事実上無料だ。贅沢どころか究極の倹約メシだと言えなくもない。こだわった食材を実質タダで楽しめるわけだから皆様も年内にふるさと納税のワクを使い切らないと損だと思う。

 

話がそれた。

  

投入するソースはブルドックの「スーパープレミアムソース」一択である。凝り性の私は目玉焼きまぜまぜご飯のために数々のソースを試してきたが何だかんだいってこのソースが一番だ。名前が大げさなところが気に入らないが、これしか使わない私にとってはやはりスーパープレミアムなんだろう。




ハムエッグ、ベーコンエッグも時々作る。蘭王たまごに合わせるにはハムやベーコンにもこだわりたい。私が頻繁に使うのが北海道の「大金ハム」というメーカーのハムやベーコンだ。

 

都内に店舗はないのだが、毎月のように都内のデパートや物産展に出店している。マメな私は予定表にそれらの日程を書き込んでいる。銀座や日本橋の三越など自宅から近いエリアに出店する際は必ずと言っていいほど買いに行く。

 



長い一本状態で販売されている「大金ハム」特製ベーコンをぶつ切りにして目玉焼きと一緒に焼いた一品である。ベーコンエッグという平凡極まりないものも自分がこだわった素材で作ると途端にゴージャスに思えてくる。

 

これにもスーパープレミアムソースを合わせるのが基本だが、時にはちょっとアレンジもする。ソース7、ケチャップ2、マヨネーズ1ぐらいの割合であらかじめ混ぜ合わせた謎の専用ソースを作ってベーコンエッグに合わせる。なかなかエロティックな味になる。

 

誰の参考になるかさっぱり分からない話を書き殴ってみたが、平凡な家メシひとつとっても“大人のこだわり”を徹底してみるとちょっとした幸せを感じる。平凡な日常にアクセントが加わって悪くない。