2026年7月29日水曜日

明け渡す気持ち

 

気持ちに身体が付いていかないという現実を初体験したのは25歳ごろの頃だ。中学、高校の一時期、学校とは別のテニススクールに通ってスカしていた。元野球少年だったからテニスもそれなりにサマになっていた(はずだ)。カッコばかり気にしてスクールに通ってくる女子にモテたくてスカしていた。

 

で、スカした目的だったからスクールを卒業しちゃったらテニスとも縁遠くなった。その後、25歳ぐらいになった頃に某テニスコートで久しぶりにラケットを握る機会があった。この時が衝撃的だった。

 

気持ちと頭では飛んできた球を余裕で打ち返せるつもりで反応しているのに、あと、23歩が届かない。23歩の距離だと惜しいと言えるレベルではない。まるっきり歯が立たない感じだった。

 

たかだか25歳ぐらいで運動能力が一気に劣化していることを実感してかなりビビった。思えば、あの日を境に今に至るまで30有余年に渡って緩やかに体力低下の坂を下り続けているのだろう。

 

脳の記憶って切ないもので実際の身体機能と昔の身体機能の切り替えが苦手だ。バッティングセンターに行っても120キロぐらいのストレートが妙に速く感じる。しばらくして目が慣れるとしっかり球の軌道は見えるのに振ったバットが当たらない。昔の感覚で頭の中はイメージしているのに肝心の身体の機能から必要な俊敏さが失われているわけだ。

 

昨年、自転車で大転倒して10か月ぐらい膝の不調に悩んだのも若い頃の「チャリ脳」がそのまま甦ってしまったからだろう。肝心の腕や足の瞬発力が追いつかないことに気付かなかったのが原因だ。

 

うだうだ書いてしまったが、今日の本題は前フリとは全く関係ない「満腹になっちゃう早さ」である。一応、これも気持ちに身体が付いていかないという切ないテーマである。

 

ガンガン食うぞ!と張り切っていたのに意外にしょぼくれた量で終わった時には切実に哀しい。

 



 

先日、神保町近くの如水会館でやっていたサマービュッフェに意気揚々と乗り込んだ。運営はニッポンの洋食の本家みたいな東京會舘である。

 

ゴールデンウィーク頃に初体験した時にシャトーソース付きのピラフやらローストビーフ、舌平目のボンファムっぽいメニューなどが食べ放題だったことで興奮した。スイーツ界の重要文化財とも言えるマロンシャンテリーのミニサイスまで食べ放題である。

 




今回は残念ながらシャトーソース付きピラフなど私を狂わせる逸品たちは無かったのだが、それでも揚げたて天ぷらはぶりぶり食べられるし、タルタルソース付け放題?のエビフライもあったし、魚料理やアイスバインなんかも用意されていた。

 

いわゆるホテルカレーっぽい欧風カレーが常に潤沢にあるのも嬉しい。この日はやたらと具材がゴロゴロ入ったチキンカレーだった。実に幸せな味だった。

 



一応、画像で見るとそこそこ食べたように見えるが、前半に食べたローストビーフのせいで空腹がわりと早く収まってしまい、焼売だのエビフライをツマミに白ワインを調子に乗ってグビグビしていたらモノの30分もしないうちに満足感が押し寄せてきてしまった。

 

ビュフェに向き合う男子としては実にだらしないことだ。なんとかローストビーフをお代わりしてチキンだらけのカレーもガツガツ食べたのだが、デザートはちょっとしか食べられなかった。寿司にも蕎麦にもミニ鰻丼にも手が出ず。負けである。

 



前回ウマかった焼き立てのパンケーキにアイスクリームをのっけてシロップをぶりぶりかけるヤツも楽しみにしていたのに、まったくもってたどり着けなかった。

 

もちろん歳を考えれば普通の量なのだろうが、今までドカ食いをさんざん自慢しながら生きてきた立場上、しみったれた現状がもどかしい。

 

牛丼も特盛りではなく頭の大盛りで済ませることが増えた。定食っぽいものを食べる際に「ご飯大盛り」と言わなくなった。デリバリーでマクドナルドを食べる際、パンの大半を捨てるという暴挙に出るのだが、以前なら5個ぐらい注文していたバーガー類も今では3つ程度で収まっている。

 

ケンタッキーフライドチキンを食べる際には、鶏の皮だけでなく衣もすべて剝ぎ取って食べるというフトドキぶりを発揮するのだが、以前ならフライドチキンを単品で8個か9個取り寄せていたのが今では6個程度だ。

 

ここ12年で確実に人並みに成り下がってしまった。健康のためには良いのだろうが、半世紀近くにわたって大食漢という位置にどっかり居座っていたことを思うと、その座を去らねばならない現実が妙に切ない。

 

引退するアスリートの気持ちがつくづく理解できるようになってきた。全然違うか…。

 

 

 

 

 

 

2026年7月27日月曜日

バカは死んでも…

 

自分のバカさを自覚しているつもりだったが、思った以上のバカっぷりに哀しくなった。ヘンテコな買い物を立て続けにしてしまいちょっぴり自己嫌悪である。

 

まずは歯ブラシ要らずで歯が綺麗になるというフレコミの謎の機械である。インスタのリール動画を見ていた際に出てきた広告に興味を持って、怪しいとは思いつつポチっと購入。

 


 

その後、同じ商品がアマゾンで半額で売っていることに気付いて地団駄を踏む。ボケ老人的行動に近づいている。

 

そんなことよりこんな商品を買うこと自体が私自身のフヌケぶりを象徴している。そんなに優秀な機械なら世の中にもっと普及しているはずだ。マウスピース状のこれに歯磨きを塗って口にくわえれば全自動でブラッシングが完了するらしい。

 

一瞬でも信じた自分が切ない。届いた実物を見た瞬間、物凄い違和感だった。歯型は人によって違うからこんな定型マウスピースが万能なはずはない。

 

一応、試してみちゃった私の往生際の悪さがまた哀しい。スイッチを入れたら確かにモゾモゾ動いている。でもあくまでモゾモゾみたいな感覚だ。歯の隅々まで物凄いパワーで協力にブラッシングされるイメージとは程遠い。

 

いったい誰がこんなものを喜んで買うのだろう…。オレか…。

 

お次は耳掃除が革命的に楽になるらしい秘密兵器である。発想が素敵だ。ホジホジしたりグリグリするわけではない。綿棒でかえって耳垢を耳の奥に押し込んじゃう心配もない。なんてったって「強力に吸い込む」方式だから画期的である。

 



商品紹介のページを見て悩まず買っちゃう私の思慮の浅さが哀しい。日常生活すべてにおいて横着したい私の気持ちの弱さの表れである。

 

で、ウキウキしながら使ってみた。耳に突っ込んでスイッチオン、なんだかビュービューと吸い込まれる音がする。耳の中で掃除機が活躍してくれている感じ。きっと膨大な量の耳垢が吸引されるはずだと期待に胸を膨らませる。

 

で、しっかり両耳ともに吸引して耳垢回収場所をパカンと開けてみた。すると乾いた耳垢がちょこっとだけ回収されていた、2~3カケラ程度だ。ふむ、私の耳の中は普段からかなり綺麗なのかと思い、念のためいつも使っている黒い綿棒を耳に入れてみた。

 

引っこ抜いたらドッサリ耳垢が付いていた。??である。いったいあの吸引は何だったのか。あの程度の吸い込みでは耳の中に居座っている“大物”たちを吸い出すには役不足だったらしい。考えてみればそれもそうだ。耳穴の壁にしっかり付着したヤツらが爽やかな吸引程度で剝がれるはずもない。

 

いったい誰がこんなものを喜んで買うのだろう…。オレだ…。

 

ネット配信の映画やドラマをよく観るのだが、よほどの事情が無い限り無料で視聴できるものだけを選ぶ。こだわりをもって観たい作品など滅多にないのでわざわざ有料の作品をみることはない。

 

もちろん貴重な昔の名作や話題の最新作みたいなものなら有料で見たい人の気持ちも分かる。映画好き、ドラマ好きならそういう選択も当然だろう。

 

とはいえ、私のようなノンポリ男にとっては無料で見られる作品がいくらでもあるわけだから有料という選択肢はない。それ自体が単なる無駄遣いになってしまう。

 

で、週末のヒマな夜になんとなく見始めたのが竹内力の「欲望の街」シリーズである。竹内力扮する萬田銀次郎が活躍する「ミナミの帝王」シリーズが妙に好きだった私にとっては、その後日談かとすら思える設定やストーリーが新鮮だった。

 


 

Amazonプライムビデオで無料で視聴できたからシュールな?世界観を楽しみながら観ていた。一晩に一気に4話まで進んでしまうほどハマった。

 

が、しかし、ナゼか5話からは有料だった。ちょっとショックだ。さすがに1500円はビミョーだ。似たような世界観の映画やドラマの無料版はいくらでもある。

 

でも、B型気質のサガか、わざわざ5話以降も有料で見始めてしまった。自制心がつくづく弱い自分が残念である。その後、数千円分を「欲望の街」に投下している。

 

結局、今日ここに書いたスペシャル歯磨きマシーンとスペシャル耳掃除マシーン、そして竹内力にこの数日でウン万円の出費をしてしまった。

 

さすが富豪である…。

 

 

 

 

 

2026年7月22日水曜日

16年前

 扁桃炎になってしまい更新できなかったので過去ネタを一つ。16年前、まだ良き家庭人を演じていた頃に書いた話だ。


元嫁にあげてしまった家の靴専用小部屋ややたら広く作った玄関の画像が妙に懐かしい。


ちなみに最後に載せている2点の靴の画像だが、16年後の今も現役で活躍してくれている。時間経過の概念が狂ってきたのか、物持ちの良い粋人なのか、自分でもよく分からない。


https://fugoh-kisya.blogspot.com/2010/12/blog-post.html





2026年7月17日金曜日

白い毛の問題

 

還暦を迎えて半年以上が経つ。節目だからといって何かが変わるわけではないが、面白いもので還暦を迎えたあたりから体調の変化は顕著になってきた気がする。

 

まず第一に疲れが取れにくい。前からそういう傾向はあったが拍車がかかった感じだ。すなわち体力がガクンと落ちてきた感じがする。昨年アレコレ努力して退治した倦怠感とはまた違った「バテ」みたいな感覚だ。

 

5年前、10年前と比べて体力が落ちてくるのは当然だが下降カーブが急になってきた印象がある。キックボクシングジムにも何とか通っているのが救いだが、それが無かったらと思うとゾっとする。

 

こればかりは抗えない自然界の掟だから仕方ない。こうやって老人への準備が整っていくのだろう。まだコケたり階段でつまずいたりしていないからせいぜい足腰への負荷は適度に意識して過ごそうと思う。

 

それよりも心情的にイヤなのが「眉毛の白髪化」である。バテバテの現実は背筋を伸ばして見栄をはればごまかせるが、白い眉毛はストレートに老化を実感するから困りものだ。

 

考えてみれば10年以上前からヒゲの白髪化はグングン進み、鼻毛なんて半分ぐらいが白い。ようやく白髪軍団が我が眉毛の存在に気付いて狙いを定めてしまったようだ。

 

ちょこちょこ抜いてはいるが、そのうち追っつかなくなるのは間違いない。自分が村山元首相みたいな風貌に近づいていることが衝撃である。眉毛が白くなるなんてほんの5年ぐらい前までは考えたこともなければ心配したこともなかった。例外は無いはずなのに自分の身に起きることを想像していなかったわけだからそれ自体が若さだったのだろう。ちょっと切ない。

 

そういえば“下の毛”もかなりの白髪化が進んでいる。思い立った時にあられもない格好でまとめて抜く作業に励んでいるのだが、あの姿は我が人生の中でもトップレベルで恥ずかしい格好だ。

 

この歳になればもう放置しても良さそうなものだが、一応、まだ現役なので目立つ白いヤツは撤去したい気持ちもある。以前、オジサマ好きの若い女子に下の毛が白くなっていく寂寥感を嘆いてみせたのだが、帰ってきた答えは「枯れた感じで萌えるから抜くな」だった。

 

真に受けたいところだが、世の中、そんな変態指向の女性ばかりではないはずだ。いまだに何が正解か分からずヒマな夜中に涙目になりながら引っこ抜いている。諸行無常とはまさに毛の色だと感じる今日この頃である。

 

睡眠の質が変化してきたのも最近の特徴だ。寝入りは悪いのだが、いったん寝てしまえばかなりドップリと寝るようになった。2年ぐらい前までは深夜に一度はトイレに起きるのが標準だったのが最近はノンストップである。水分摂取量は変わっていないのに不思議だ。

 

でも寝るのにも体力がいるからノンストップで8時間ほど寝られちゃうのは体力が上がってきているのだろうか。体力が落ちたと書いたばかりなのに矛盾している。睡眠体力はまた違う種類のエネルギーなのだろうか。謎だ。

 

それにしても“もうすぐ老人”という現状でもハゲなかったことは我が人生における“僥倖”の最たることかもしれない。中学高校時代から髪が薄いのなんのと人様からイジられることがあったが、今も年齢相応?に毛髪は頑張ってくれている。

 



 これについては私自身の努力の賜物である。20年近く前から有効といわれる対策をサボらず励行してきた成果だ。飽きやすく気まぐれな私にしてはよく頑張ったと自分を褒めてやりたい。

 

今も鮮明に覚えているのだが、20年近く前に娘の幼稚園で撮られた親子画像に唖然とした。誰だこのハゲ親父は?と思った人物が私だった。面白いもので毎日自分の顔を鏡で見ていてもハゲの自覚が無い状態だと、無意識にハゲてなかった頃の自分の顔を投影してしまい“滅びゆく大草原”には気づきにくいらしい。

 

環境破壊や自然破壊も手遅れになってから気付くのと同じようなものだろう。現実をきわめて客観的に映し出す写真を見ることでようやくハゲ散らかし始めていた我が頭髪問題に向き合うようになったわけだ。

 

有難いことにAGA治療、すなわちハゲ治療が世界的に進化してきたタイミングだったのは幸いだった。有効性が実証されている飲み薬、塗り薬をキチンと毎日続けたことで気づけばしっかり毛髪は再生してくれた。毛根がギリギリで残っていたのだろう。

 

他にも毛髪の健康状態に良いといわれるサプリも飲み続け、シャンプーもそれっぽいヤツをあれこれと選んできた。食生活まで変えるほどの根性はなかったが、なんだかんだ言って60歳にしてはまあまあ妥当な毛量を維持しているように思う。

 

やはり20年近く前、ハゲを自覚し始めた時に某かつら業者を訪ねて手付金まで払ったのだが、思い直してキャンセルしたのも正解だった。残存毛髪に縛りつける方式のかつらだったのだが、ヅラを被ってしまったら塗り薬は使えないし頭皮環境も悪化するから急きょキャンセルした。

 

30万円の手付金はムダになったが、その後は涙ぐましい努力のおかげで何とかなったので“縛られる人生”とは無縁でいられた。思えばハゲ対策に本気になった大きなきっかけは、私の亡きあと娘の記憶に残る私の姿がハゲ親父だったらイヤだという一心だった。

 

ちゃんと家庭をもって娘を授かったからそんなふうに思えたわけで、その一点だけで私の結婚経験はムダではなかったと思える。

 

歳をとると何でもかんでもこうやって自己正当化をはかるようになる。ヘンテコな結論になってしまった。

 

 

 

 

2026年7月15日水曜日

言い換え

 ジェンダー、ジェンダーと世の中が神経質になる感じは強まるばかりだ。最近は女優という言葉さえ俳優に言い換えられるほど。女優という固有名詞が持つニュアンスまで否定されるのは何だかビミョーだ。


今日は更新が間に合わなかったから6年前にブツクサ書いた「言い換え」の話を再掲したい。今よりはまだユルかった頃だ。この先どこまで迷走?しちゃうのか興味深い。


https://fugoh-kisya.blogspot.com/2018/02/blog-post_5.html





2026年7月13日月曜日

コースと偏屈


本屋さんに立ち寄った際にグルメ情報誌の焼鳥特集を眺めていたのだが、ちょっと驚いたのが近年登場したオシャレ系焼鳥屋さんの多くがコースだけで勝負していることだ。

 

ここ10年、いや20年ぐらいだろうかコースだけをウリにする飲食店が増えた。焼鳥までそんな風潮に呑まれ始めているわけだ。私がブツクサ言ったところで仕方ないが、これもまた世の中のマイルド化の象徴みたいな話かもしれない。

 

好き嫌いが多い私だからコース料理は昔から苦手だ。この話は最近も書いた気がする。そりゃあ格式高い西洋料理屋だったら計算され尽くしたコース料理を黙って食べる。「そういうもの」という理解が追いつく。

 

さて焼鳥だ。私はネギ間が好きじゃないし、ボン尻も皮も苦手だ。塩味で出されるレバーも嬉しくない。細かいことを言えばキリがない。コースだとこれらに遭遇してもおかしくない。

 

食べられないわけではない。逆にそこが問題だ。食べられないものならハナから同行者にあげたり素直に残せる。中途半端に食べられる以上は渋々食べる。外食先で渋々食べるという行為はストレスだ。

 

好きなものを食べに行きたいから外食に行く。なのになぜ食べたくもないもので腹を満たす必要があるのか。単に私がワガママなだけだが、カジュアルな食べ物に関してはコースはやめてもらいたいと切に願う。

 

最近、気鋭の鰻屋が私の行動範囲に鳴り物入りでオープンしたと聞いてワクワクしていたのだが、そこもコース一辺倒だったからパス。珍しい鰻の刺身も出すらしいが、私はそこに興味はない。鰻の刺身はビックリするほどウマいものでもない。

 

他にもコースだと揚げものやら箸休めだとかおそらく“鰻気分”とは無関係なものも出てくるはずだ。もはや大食漢ではない私にとっては一部の料理が苦行になってしまう。

 

お寿司さんに関しても「コースのみ」という不思議な形態は今や都市部の小洒落た外観の店ならごく普通の様式になった。時代とともに進化するのはどの世界でも常だが、寿司の世界における「コースのみ」というパターンは進化ではなく劣化だと思う。

 

これもまた私が好き嫌い大王だからとくにそう思うのかもしれない。イカ、赤貝あたりはナゼか食べないし、たいていの店でメインイベントみたいに出されるトロも苦手だ。そうなると私には実に居心地が悪い。

 

こちらとしてはシメはワサビの効いたかんぴょう巻きかたまごの握りと決めている。たまごだってナゼか今はシャリつきで出さない店ばかりだ。握りで食べてこそシメの一品にバッチリだと思うのだが時代遅れなのだろうか。かんぴょう然りである。トロたくあたりに押されてさほど人気が無い。もったいないと思う。

 



 そもそもカウンターを挟んで料理人と客が対峙するお寿司屋さんという舞台は、いわゆる「お好み」で注文すればこそ本領を発揮するしつらえである。

 

好きなペースで好きなものを好きな量。ここが大原則であり、世界にも稀なこういう客優先のシステムが確立されている。それなのに画一的なコースで済まされてしまったら意味がない。

 

たいていのイマドキのそういう店は不思議と客単価が3万だ5万だと摩訶不思議な値付けだ。だったら全席個室にして一皿一皿うやうやしく運ぶようなスタイルにしても採算が合うんじゃないかとさえ思う。

 

書き連ねると私の偏屈ぶりに拍車がかかっちゃうからテキトーにしないといけない。

 

まあ、今のようなコースのみで勝負する店が増えたことは超高齢化による働き手の不足や、“いわずもがな”の常識や気配りが世間から失われつつあることも影響している。

 

たくさんのメニューを臨機応変に提供するにはそれなりに人手が必要だ。人材不足なら店側は決まったものを順番通りに出すという流れ作業に落ち着く。


“いわずもがな”のほうは、たとえばシンコの握りだけ10貫くれとか、かっぱ巻きと酒だけで何時間も居座るとか、最低限の常識が分からないマヌケな客が増えたことを意味する。

 

店の規模によって仕入れの量や塩梅は決まっている。想定客単価も店ごとに決まっているわけだから、あまりにもシャバダバな客が増えれば商売として厳しい。だからコースのみというスタイルを防衛策にしている面もあるわけだ。したがって私ごときが批判がましく言ったところで意味はない。

 

ただ、昭和の人間に言わせれば、今のスタイルが標準になれば客と寿司職人の丁々発止も無くなり、文化としての寿司の在り方も変わっていくと思う。残念だが客も店も育たないという淋しい状況になっていくと思う。

 

私自身、30歳ぐらいから日本中のお寿司屋さんで“客としての修行”に励みさまざまなことを学んだ。その経験は財産だ。私に限らず回転寿司のなかった昔は日本中どこでも街場のお寿司屋さんでみんなが学んだ。大人はもちろん、子供たちが寿司という世界のイロハのイを自然と身につけていった。

 

全国各地のそんな小さなやり取りの集合体みたいな空気が「カウンターで寿司を食う」という一種独特な日本の食文化を作ってきたわけだ。

 

その後、回転寿司の普及が世界を大きく変えた。マナーも常識も気にしなくてよくなったから寿司の世界は大転換期を迎えた。いわば対人コミュニケーションが不要になったわけだ。そしてそこからたどり着いた先が「コースのみ」の高級寿司なのかもしれない。これは私の仮説だが、丁々発止のやり取りが不必要とされている点が回転寿司と共通している。

 

でもそれが時代の必然なら私がアーダコーダ言ったところで意味がない。なんだか“置いてけぼり”にされているようでちょっと切ない。

 

好き嫌いがまったく無いならそんなイマドキ寿司業界の軍門に下ったほうがラクチンかもしれないが、やっぱり食いたくないもので腹を満たすのはストレスだ。今後も偏屈でいようと思う。






2026年7月10日金曜日

愛しのマロリー

 

若い頃は牛肉ばかり食べていたが最近はすっかり豚派になった。ラーメン類を食べる時もチャーシューが第一目的だし、モツ焼き屋にもわりと頻繁に出かける。高級中華に行っても前菜に甘めの味付けのチャーシューがあればそればかり食べる。

 

自宅でも生姜焼きやら豚しゃぶやら味噌ダレで焼いたりと豚中心の簡単調理に励んでいる。ふるさと納税の返礼品も高級豚肉を好んで取り寄せている。

 

豚好きにとって聖なる一品と呼びたくなるのがトンカツだが、時には衣の存在が気になる。すぐ太るし血圧やコレステロールを一応は気にする私にとって衣の存在はまさに「愛憎愛半ば」みたいなものである。

 

そんな私にとって願ったり叶ったりの一品がポークステーキである。最近、店舗が増えつつある「マロリーポークステーク」に出会ったことは近年の大きなトピックスといえる。

 

世に豚料理は数々あれど素直にポークステーキを標榜する商品は少ない。これって不思議なことだ。豚派の人々にとっては間違いなく喜ばしいメニューなのに惜しいことだと思う。

 

豚肉特有のパサつきや脂部分の処理が難しいのだろうか。理由は分からないが豚肉一本勝負のステーキはもっと普及して欲しいと切に願う。

 



マロリーポークステーキに関しては独自の調理法があるらしくしっかりと肉の“シットリ感”が活かされているのが嬉しい。おまけにアホみたいに高いイキった牛肉ステーキ専門店とは違って価格も手頃だ。

 



骨こそ付いていないがいにしえのアニメ「はじめ人間ギャートルズ」に出てきたウマそうなドデカい肉塊みたいなサイズも注文できるのが有難い。お上品にチンマリ提供される高級牛肉店の肉にはガッカリするが、ここではゲンナリするほどデカい肉に出会える。

 

ソースというかタレがまた独特の味わいで感心する。焼肉のタレとも違う焼鳥のタレとも違うここの肉に妙に合う他には無い味である。ビシャビシャつけてもウマいし、チョこっとつけてもウマい。

 



日本橋にある店舗でも食べることがあるがウーバーイーツでも頼めるので面倒な時はデリバリーで楽しむ。デリバリーだとお店だったら恥ずかしいぐらいの量を注文して何度かに分けて食べるほどお気に入りだ。


さすがに余っちゃうこともあるので、そういう時のお楽しみが“マロリーチャーハン”である。自称「炒めメシの達人」である私だ。付属のソースを活用して細切れにしたポークステーキにみじん切りタマネギを加えて炒めメシを作る。

 

ソースのせいで失敗のしようがない。追加する調味料はコショウぐらいで充分かもしれない。肉をせっせとハサミで適当なサイズにカットする作業が面倒だが、それさえこなせば至高の豚肉炒めメシがアッという間に完成する。

 


 

みじん切りタマネギは既成の冷凍品が常備されているのでそれを使えば簡単。みじん切りだから解凍作業は不要。フライパンで炒めていればすぐに食べごろになる。

 

もっとも、タマネギ無しでも肉とソースの味が完ぺきなのでコメさえあれば充分に豚派が泣いて喜ぶウマい炒めメシを作ることが出来る。

 

最近はウーバーでマロリーポークステーキを頼む際には、翌日に作ることになるこの特製炒めメシこそがメインの目的になっている気がする。

 

先日、同年代のメンバー4人での飲み会でウーバーの話になったのだが、驚くべきことに私以外にはウーバーをまったく使っていなかった。ネットスーパーも使わないらしい。

 

私の横着ぶりが際立ってしまったみたいだが、私に言わせればこうした横着も一種の老後対策である。老人になった際にネット系の便利なサービスを使いこなせないと自分自身がツラいと思う。

 

ネットのサービスは日々進歩しているからちょくちょく覗いて活用していないと付いていけない日が来ちゃうかもしれない。とくにネットスーパーなんかは商品の探し方やどんなものまで頼めるかなど日頃から使いこなしていないと案外わかりにくいものだと思う。

 

膝が痛い、腰がダメだとか言い出した時にいきなりネット系のサービスを使い始めようとしてもズンズン進化している仕組みがなかなか理解できない可能性もある。そうなったら一大事である。

 

という「言い訳」を声高に主張しながら今後も無駄遣いに精を出そうと思う。