2025年5月30日金曜日

男と女


もう13年ほど前に「男と女」というタイトルでアレコレと考えを書いていた。ひょんなことで読み返してみたのだが、この当時は自分がまだまだ青臭くて現役感バリバリだったんだなあと感じた。

 https://fugoh-kisya.blogspot.com/2012/09/blog-post_24.html

 

10年以上も経つとさすがにいろんなことが様変わりする。当時書いたことはフムフムとうなずけるが、今はもっと達観の域というか、投げやり?みたいな感覚が強まった気がする。突き詰めて言えば「人生すべて出たとこ勝負」みたいな思いが強くなったのだろう。

 

男女の仲をいろいろと考察したところで結論なんて出るわけないし、すべて成り行きである。そう言っちゃうと元も子もないが、結局は考えるだけ無駄なような気もする。

 

「神様はサイコロをふらない」という通り、しょせんはすべてが必然だ。男女の仲についても上手くいくか否かは出たとこ勝負でしかないと思う。

 

とはいえ、世の中には男と女の2種類しかいないわけだからその関係性についてアレコレ悩んだり考察することは人類の永遠の研究課題でもあるのだろう。

 


 

さてさて、話は変わる。この2か月ほど意識して節制を心がけているせいで私の体の細胞たちが元気に活性化してきた気がする。いろいろ元気になってきた。いや、いろえろ元気になってきたと言うほうが的確か。

 

運動を心掛けるようになったこと、体重が落ちたこと、小麦類やコンビニメシを控えるようになったこと、テストステロンサプリを飲み始めたこと、睡眠時間を多めにとるようになったこと等々どれが最大の要因かは不明だ。おそらく複合的な効果だろう。

 

ダルさや倦怠感を退治したかったのがきっかけだが、最近は調子が良い。結構元気になったことを実感する。

 

最近も朝から夕方まで職場で過ごした後で某女子と仲良しタイム!をこなし、別な女子の夜ご飯に付き合いながら一杯ひっかけ、その後に銀座のクラブに繰り出すというモリモリ元気な1日を過ごすこともできた。

 



正直に言うとちょっと無理しているような感覚もある。でも“適度な無理”って案外大事だと感じる。隠居気分でゆったりし過ぎると身体も脳もどんどんそっちを標準と認識し始める。そうなると活力を失いドンヨリしちゃう。適度にバタバタすることは元気を維持するためには必要だろう。

 

でも「無理してる感じ」って何だか悔しい。10年以上前には無かった感覚だ。それだけ自分の劣化が進んでいる証でもある。見る人が見れば「ジタバタしてるヤツ」である。カッチョ悪い。

 

この歳になると、いろんな面で自分がいつまで現役でいられるのかをつい考える。アンチエイジングという言葉は好きではないが、かといって何もしなければどんどん現役感は弱まってくる。困ったものだ。




この画像は映画界の巨匠・今村昌平監督の知る人ぞ知る名言だ。冗談のようで実に核心を突いた凄い言葉だと思う。男子として生を受け半世紀以上たった今だからこそこんな格言が胸に刺さる。

 

「そんなことしか頭にないのか!?」と立派な人達に叱られそうだが、これは一面の真理であることは間違いない。男性本来の野生感覚、DNAみたいなものであり、一種の長患い、すなわち宿痾みたいな本質ともいえる。

 

大げさに言えば生命エネルギーの根っこだ。仕事や人間関係、日常生活のよもやま事に至るまですべてに影響を及ぼす部分でもある。知らん顔してうっちゃったままではダメだと思う。

 

何だか必死に力説してしまった。冒頭に紹介した十数年前の話に比べると、いかに自分に余裕がなくなってきたかが分かる。いかんいかん、もっと呑気に構えて現役生活を過ごすべきだろう。

 

余計なことを考えずにヌルっと日々を過ごすことが精神衛生上は良さそうだ。適度にがんばろうと思う。

 

 

 

 

 

 





2025年5月28日水曜日

キャンセル界隈

 

最近このブログで「エモい」という若者言葉に共感した話を書いた。若者言葉といえばいつの時代もヘンテコだ。いい歳してマネしているとカッチョ悪いだけだが、時には妙に納得して使いたくなるものもある。

 

いま若者の間で使われている言葉に「キャンセル界隈」がある。もともとは風呂に入りたくない人たちが「入浴キャンセル界隈」と言い出したことがきっかけらしい。

 

「〇☓界隈」はどんどん多様化して「外出キャンセル界隈」「ご飯キャンセル界隈」「人付き合いキャンセル界隈」など、何かしらの行動をやめちゃうための言い回しとして普及している。

 

ネット界隈(笑)でもこうした言い回しが特集されていた。https://www.j-cast.com/2025/01/26500869.html?p=all

 

この記事では何だかんだと細かな分析がされているが、若者たちは難しいことなど考えずに気軽に使っている。

 

端的に言えばちょっとだけ後ろめたい行動について「キャンセル界隈」を付けることで同士の存在を意識して緩やかな連帯感につなげようという感覚なんだと思う。

 

そのため「キャンセル」の頭にくっつく言葉はどちらかといえばネガティブな、人様から感心されないような行為となる。風呂に入らない、人付き合いをしないなどの決して褒められない内容が定番になる。

 

だから私のように最近になって頑張って節制していることを「デブキャンセル界隈」とは言わない。後ろめたくない、むしろ褒められるようなテーマだと「キャンセル界隈」に馴染まないわけだ。

 

どっちにしろヘンテコな言葉だから大人たちが四の五の語ったり考察するほどの話ではない。と、気取ってはみたものの個人的には妙に気に入った使い方がある。「健康キャンセル界隈」がそれ。

 

時々、ネットの動画で簡単な料理レシピを眺めているのだが、見るからに身体に悪そうな脂ブリブリガッツリ系のメニューにキャッチフレーズのように使われている。

 

いやはや実に的確な表現だろう。「脂マシマシ」などという暗号みたいな言葉でガッツリ系のギトギトラーメンを食べる動画などにも「健康キャンセル界隈の人にオススメ!」みたいに使われている。

 

たまたま節制中の私にとっては禁断の言葉である。実に魅力的な響きだ。もともとジャンクフードも大好きだし、チャーシューが20枚以上入ったラーメンにもヨダレを垂らす私にはとても麗しい言葉に聞こえる。

 

健康、健康とやかましい世間の風潮に真っ向から歯向かっているようで潔い言葉だと思う。個人的に大好きな言葉になった。今は実践できていないことが歯がゆい。

 

「キャンセル」が付いていない「界隈」にも面白い言葉がある。感心したのが「伊能忠敬界隈」である。やたらと歩く人のことを指すそうだ。長距離を歩いてしまった時などに使うらしい。なかなか趣のある言い回しだと感じた。

 

というわけで、きっと老若男女問わず誰もがなんらかの「界隈」に属して、何らかの「キャンセル界隈」を経験しているはずだ。

 

私自身のことを考えてみても、週末は「髭剃りキャンセル界隈」だし、平日も重役出勤がクセになって「目覚まし時計キャンセル界隈」である。最近は「夜の銀座キャンセル界隈」もすっかり定着してしまった。

 

もっと言えば生きざまそのものが「結婚生活キャンセル界隈」である。確かに「界隈」がくっつくと自分だけではなく他にも仲間がいてくれるような安心感がある。

 

もちろん、女性関係についてはまだまだ現役でいたいので「性交渉キャンセル界隈」に陥ることは避けたい。でも、いい歳して「年増の女性キャンセル界隈」を標榜していることは反省しないといけない。


なんだかなぁ~。。




 

 

 

 

 

 

 

2025年5月26日月曜日

柔らか系の話

 更新が間に合わなかったので「下ネタ界隈」?の過去ネタを2つ載せます。


過去フェチ

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2016/04/blog-post_25.html


下着の話

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2016/05/blog-post_27.html





2025年5月23日金曜日

プチ幸せ

 

日常のちょっとした喜びを大げさに喜ぶことは大事だと思う。「足るを知る」ではないが、不平不満を漏らすより嬉しい気分に浸るほうが建設的だ。

 



某日、居酒屋で出てきた「生グレサワー」がやたらサービス濃厚バーションだったことが嬉しかった。店によっては鼻くそ程度しかグレープフルーツが入っていないヤツが出てくるが、このぐらい色鮮やかだと妙に嬉しい。

 

血圧の薬を飲んでいる私にとってグレープフルーツは食べてはいけない代表格の存在だ。そう言われると無性に食べたくなるもので、飲み屋さんでサワー気分の際にはグレープフルーツサワーを注文したくなる。

 

血圧の薬は朝に1回の服用だ。夜に摂取するグレープフルーツは薬の作用に影響しないだろう。たぶん。だからここぞとばかりに「生グレ」を飲む。なんなら継ぎ足しでおかわりしてグレープフルーツの果肉を増やしたがる。

 

どうでもいいことのようでこういう「プチ幸せ」が自分の精神衛生をノーマルに維持してくれる。サービス精神旺盛な「生グレ」を出す店には感謝である。でも、この画像のサワーを飲んだ店がどこだったか忘れてしまったことが悔やまれる。

 

タクシーを拾おうとして瞬時に空車が目の前に来た時や、帰宅した直後に雨がザーザー降ってきた時なんかもプチ幸せである。「はい、ラッキー」とアッケラカンと済ますより「いやあ、なんて運がよかったんだ。物凄くハッピーなことだなあ、なんて素晴らしいのだろう!」としつこくプチ幸せを噛みしめると退屈な日常にちょっとした彩りが加わる。

 

ちょうど画面に目をやった瞬間に大谷翔平サマがホームランを打った時もことさらその一瞬のめぐりあわせを大げさに喜んでいれば、心の平穏は結構長持ちする。きっと表情も穏やかなままでいられるはずだ。

 

そんなホトケ?みたいな考え方に日夜努めていたら物凄くハッピーなことが起きた。日頃の精神修養?がもたらした幸せだと信じたい。

 



大谷サマのボブルヘッドが手に入った。これが配られた日にドジャースタジアムで観戦していた某近親者からお土産としてもらった。大ハッピーである。単なる立ち姿ではない。滑り込んでいる格好のボブルヘッドである。貴重だ。メルカリに出せば高値で売れそうだが、そんなことは一瞬も考えずに家宝にすることにした。

 

本気で嬉しかったからもう1枚画像を載せる。バンザイ!

 



話を戻す。思えば日常の中にちょっとした喜びはたくさん溢れている。どうでもいことのようでも、それを心底ハッピーだと受け取ることで平凡な日々が非凡になる。ストレス対策、もっと言えばうつ病予防にも効果的だと思う。

 

サッポロ一番の茹で加減が狙った通りに仕上がった、デリバリーで届いたつけ麺の麺が乾いていなかった、チャリで爆走中に信号が立て続けに青だった等々、そんな程度でもサラっとやり過ごすことなくしつこく喜びを味わうと結構楽しい気分になれる。

 

莫大な遺産を相続した、万馬券が当たった、さらには、やたらとモテまくった、脱がせてみたら思った以上に峰不二子級だった、予想外の床上手にヘロヘロにされた等々の喜びはプチ幸せではない。


そちらはスペシャルハッピー大事件だから話は別だ。そういうスぺクタル系?以外のほんのちょっとした日々の瞬間をポジティブに捉えるように心がけたい。

 

そういえば、毎週のように観戦に行っている東京六大学野球でもこの春のリーグ戦では貴重な体験ができた。六大学100年の歴史の中で初の「延長戦での逆転サヨナラホームラン」と「ノーヒットノーラン」を立て続けにナマで見ることが出来た。そのほかの退屈な凡戦でも真面目に観戦していたご褒美だったのかもしれない。

 



プチ幸せを大げさに喜ぶ心がけ。なんだか安っぽい新興宗教みたいな話だが、実践できればおおらかな気持ちで過ごせて悪くない。人生後半戦だからこそそんな意識で過ごそうと思う。

 

 

 

 

 

 

2025年5月21日水曜日

アーカイブ

 更新が間に合わなかったので過去ネタを一つ載せます。


オノマトペ








2025年5月19日月曜日

楽しい節制


キックボクシングジムに通い始めて3か月。週二回のペースをなんとか維持している。なかなか立派!である。とはいえ、毎度毎度、自分の劣化を思い知らされるのも事実である。


固まってしまった身体はなかなか厄介だ。いつまで経っても中段回し蹴りが限界。昔のように脚が高々と上がる気配はない。それもまた自分の年齢を正しく認識するために必要な現実かもしれない。

 

体力もちょっとついてきた感覚がある。これは嬉しいことだ。なにより最大の目的だった倦怠感の退治はほぼ完遂したと言ってもいい。長いこと悩まされてきた謎のダルさはすっかりなくなった。寝起きも快調である。

 

身体を動かすことに励んでいるついでに体重を落とそうという欲も出てきた。そっちをメインにすると一喜一憂しそうでイヤだ。あくまで狙いは倦怠感の退治だからあえて体重計にはだいぶ前を最後に載っていない。でも8キロぐらいは落ちているはずだ。ゆるくなった服の感じで分かる。


ちなみにいま8キロの重りを持って歩けと言われたらツラそうだ。そう考えると倦怠感の原因は体重そのものにあったのだろうか。

 

食事にもちょっと気を使っているせいで胃袋が小さくなってきた。強烈な空腹感は感じないし、そこそこの量で満足できるようになった。もちろん、それでも普通の人レベルではある。

 

キックボクシングジムに行った日はバテバテになって食べる気がおきないので夕飯抜きになる。これって胃腸を休ませる効果もあるから身体には悪くない。今後、ジム通いに慣れてしまったら運動後に平気でドカ食いしそうだから、何とかこのバテバテ状態は続いてほしいものだ。

 

ここしばらく夜には炭水化物をなるべく避けるようにしている。美容にしか興味がない若いオネエサンみたいで情けない話だ。小っ恥ずかしい。でも、還暦を前にどこまでそんな生活が続けられるかマゾ的な興味が湧いてきた。だから寿司や麺類をしばし口にしていないことが淋しい。

 

とはいえ、肉はしっかり食べている。いろえろ付き合ってくれる女性陣と外食する際も焼肉屋で済ませることが増えた。さんざん肉をふるまってこちらはキムチやナムルやチャンジャをつまんで酒を飲み、肉は23切れでオシマイ。

 

一人飲みの際はモツ焼き屋で梅きゅうやら肉モヤシ炒めやら純レバみたいなツマミを頬張って串焼きを5本も食べればかなり満腹になる。ウナギ三昧の日々より財布にも優しいことがハッピーである。

 





先日は、赤坂にある肉十八番屋という居酒屋で快適な時間を過ごした。エビとアボカドのマヨ和え、馬刺しと豚肉の岩塩焼あたりを並べてサワーをぐびぐび。シメの麺だのコメだのを食べずに終わってもハッピーだった。

 




そう考えるとプチ節制を始める前の無軌道な乱食ぶりがいかにヒドかったかを実感する。それはそれで幸せなことだが、おまけとして倦怠感が付いてきたのならさすがに少しは制限すべきだったと思う。幸せの裏側には必ず魔物が潜んでいることを今更ながら感じる。

 

まあ、そんなゴタクを並べていてもいつかはこのプチ節制モードにも終わりは来る。やはり深夜のペヤングは悪魔的に魅力があるし、寿司屋の帰りにマックのフィレオフィッシュを食べるのは最高だ。そんな習慣から引退しちゃうのは人として違うような気がする。ある意味それはそれで健康の証でもある。

 

今のところプチ節制の暮らしにさほどストレスを感じていないのが救いだ。私にとって最大の敵は「我慢」である。我慢が苦手なワガママな私がそれを感じないうちは続けられそうだ。


血圧もガッツリ下がって処方されている薬を一つやめるという快挙にもつながった。このまま1年ぐらい同じ暮らし方だったら体重だって学生時代の水準まで戻りそうである。さすがにそれは目指していないが。

 

歳を重ねてから身体を絞りすぎるとたいていは貧相な様子になる。おまけに必ず「病気ですか?」と聞かれる。そんな状態になることは望んでいない。いつまで節制を続けるのかは難しい問題だ。

 

性格なのか単に頭が悪いのか、私の場合「適度にこなす」というのが苦手だ。「やるか、やらないか」の二択みたいな感じだからプチ節制も終了後が心配だ。たとえ10キロ痩せようがほんの半月もあれば7キロぐらい太る気がする。

 

まあ、それでもトータル3キロ減なら上等かもしれない…。





2025年5月16日金曜日

東京駅、奉行所、西郷さん

 

日本橋エリアの暮らすようになって身近な存在になったのが東京駅だ。レンタルチャリでうろうろ走っている時もつい丸の内側の美しい駅舎を通るコースに行ってしまう。

 


 

国の重要文化財に指定されているのも当然の佇まいだ。その昔、オランダを旅した際にアムステルダム駅が東京駅にそっくりだったのでそちらが元祖なのかと思ったが、資料的にはアムステルダム駅を参考にした記録は無いらしい。今になって画像と比べると似て非なるモノにも思える。

 

明治時代にこんな素敵な建物を作った当時の日本人の意気込みに感心する。プチ歴史好きな私としては当時の世相や庶民感情、技術力などを勝手に想像して関係した人々の気持ちに思いを馳せるのが楽しい。

 

丸ビルあたりから見る夜景も素晴らしい。これぞ東京という言葉しか浮かばない。飽きもせず見ていられる。実際に下の画像は用もないのに丸ビルに入ってテラスから撮影した。根っからの東京人である私もこの眺めを前にするとオノボリさんみたいに気分がアガる。

 



 丸の内北口と南口がある両端の屋根がドーム状になっている部分は、中から見上げると実にシャレたデザインになっている。これまたボーっと見ていられる。往来する人々は私のように暇人ではないようで誰も上を見上げていないのが実にもったいないと思う。

 



東京駅には近現代のいろんな歴史が垣間見える。丸の内南口の切符売り場横には原敬首相が暗殺された現場を示すレリーフが掲示されている。歴史を大きく変えたともいわれる事件の現場だ。とはいえ、99%の人はレリーフを気にすることもなく通り過ぎていく。そんな無常観を眺めているのもいとをかしって感じだ。




話は変わるが、東京駅に限らずレリーフや記念碑、歴史の由緒書き看板を見るとしっかり読み込みたくなるのが私の習性だ。ちっとも知らない事柄や業績だろうとナゼか必死に読んでしまう。その時代を想像して空想にふけるのが楽しい。

 

有楽町駅の交通会館寄りの広場には「南町奉行所跡」という碑がポツンと建っている。毎日のようにテレビ各局の街頭インタビューが行われている場所だ。とくに由緒書きがあるわけでなく素っ気ない感じがシュールだ。

 



江戸の奉行所といえば「遠山の金さん」である。あれは創作ストーリーだが、モデルになった遠山金四郎というお奉行さんは実在していた。まさにこの場所で「お裁き」が行われたのかと思うと空想気分も盛り上がる。

 

お次は職場近くで見つけたレリーフだ。京橋にある私の職場の周りは再開発が盛んだが、新しく出来たビルにヒッソリと歴史に関するレリーフが設置されることも多い。これは東海道五十三次で知られる歌川広重の住居跡。

 


 

自分が日々過ごしている場所のすぐそばだ。200年前にはここで一連の絵が描かれていたのかと思うと妙に不思議な気分になる。今はビルだらけの場所の200年前の景色を好き勝手に想像してみるのも楽しい。

 

お次は「西郷どん」である。こちらは人形町に近いエリアを散歩していた時に発見した。鹿児島のイメージしかない西郷さんだが、考えてみれば一時期は明治新政府でゴリゴリ辣腕をふるっていたわけだから東京に住まいがあったのも当然だ。

 



この周辺を上野の銅像のような姿で犬を連れて散歩していたのかと想像してみると何となく楽しい。近隣に住む江戸っ子たちが薩摩からやってきた革命の親分を見てどんな陰口を叩いていたのだろう。そんな空想にふけると歴史的な由緒書き看板の有難さを痛感する。

 

キリがない話だが、東京の都心部だけでなく全国主要都市の中心地にはそれこそ数えきれないほどのレリーフや記念碑、由緒書き看板が存在する。そればかりを目的に散策したら飽きずに過ごせそうだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

2025年5月14日水曜日

エモい!!

 

バズる、ガチで、エモい等々、若者言葉はさまざまだが、言いえて妙みたいなヤツも多い。「ガチで」の語源は「ガチンコ」だとか。なかなか的確である。

 

エモーショナルを元にした「エモい」もわりとよく聞くが、いま一つ分かりにくい。ネットで正確な意味を調べたら「心が揺さぶられること」だとか。まあ、いわゆるサウダージみたいなニュアンスだろう。

 

この歳になってそうした若者言葉を口にするのは恥ずかしいが、先日ひょんなことから「エモい」を実感する場面があった。中野駅近くに用事があって出かけた時のことだ。

 

今の住まいは神田駅か東京駅が近いので中野までは中央線で一本である。中央線は子供のころに通学で頻繁に利用したが、ここ数年、いや数十年ぐらいほとんど無縁に過ごしていた。

 

私の実家は荻窪駅に近い。飯田橋にある学校まで小学校から高校までの12年間も電車通学だったので主に中央線に世話になった。総武線や地下鉄東西線なら乗り換えなしだったのだが、中央線で四谷で総武線に乗り換えるのが時間的には一番早かった。いわば青春時代、いや思春期の思い出が中央線には詰まっているわけだ。

 

で、エモい気分になったのは中野駅から帰宅する際の中央線である。最近になって中央線にグリーン車が導入されたので話のタネに利用してみた。ほんの十数分の距離なのにバカみたいだが、そこは富豪モドキだから仕方がない。

 




高い位置にある座席から昔々の通学時代に目にした景色がゆったり眺められたことで妙に郷愁に浸ってしまった。普通車両よりも車窓からの眺めがダイレクトに目に飛び込んでくる。東中野や代々木、千駄ヶ谷や信濃町をすっ飛ばしながら疾走する眺めはウン十年前と基本的には一緒だ。

 

変わらぬ景色に反して私自身はすっかり変わった。老眼になって脂肪も増えて毛量は減り白髪は続出、眉毛も伸び出し耳からも毛が生えてくるような加齢なる日々を迎えている。源氏物語でいうところの「もののあはれ」みたいなシミジミした気持ちになった。

 

初めて車窓からその景色を眺めたのはもう50年以上前のことだ。50年の歳月である。なんだかワケもなく感慨無量になって思わず「エモいよ。エモい…」と若者みたいにつぶやいてしまった。

 

そのせいもあってか、その後は「エモい」を乱発するようになった。猿のオナ〇ーみたいである。

 

腕時計の形を残して日焼けしてしまった肌を見れば、かつて“全集中”で取り組んだ水中撮影の日々を思い出して「エモいなあ~」とつぶやいてしまう。2030代の頃は一年中こんな日焼け状態だったことが妙に懐かしく感じる。

 



4月、5月の日差しをナメていたせいで今の私はヘンテコな日焼け状態にある。大学野球を毎週末のように観戦していたら腕時計の跡どころか半袖シャツのおかげで見事な?ドカタ焼けだ。

 

他にもカップ焼きそばでも「エモい」気分になった。ローソンが発売した「ラッキーピエロ焼きそば」が原因である。ラッキーピエロといえば函館だけで展開するローカルファストフード業界の雄!である。函館をマニアックに愛してきた私にとって特別な存在である。

 https://fugoh-kisya.blogspot.com/2020/10/blog-post_5.html

 

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2021/06/blog-post_11.html

 

全国的にはまさに知る人ぞ知る存在なのに天下のローソンがラッピの焼きそばを売り出した。これは一大事である。食べないわけにはいかない。

 

とはいえ、自宅の周りにはセブンイレブンばかりなので通りすがりに購入する機会がないまま日々は過ぎていった。コンビニの商品入れ替えはやたらと早いからラッピ焼きそばが販売終了になってしまったら大変である。

 

というわけで仕方なく無駄に高いコストを払ってネット経由で買ってみた。都会に住んでいるくせにバカみたいである。

 



で、さっそく食べた。普通に美味しかった。スパイシーより甘めが好きな私にとっては好ましい味付けに仕上がっていた。でも、しょせんはカップ麺の味だった。

 

以前、札幌のやたらとウマい味噌ラーメンの名店「みそ吟」の名を冠したカップ麺を食べた時に感じた徒労感?にも似た感覚だった(https://fugoh-kisya.blogspot.com/2024/12/blog-post_18.html)。カップ麺はカップ麺。そんな当たり前のことにいつになっても気づかない自分のバカさ加減が残念である。

 

でも、地域限定にとことん徹しているあのラッピがカップ焼きそばを監修して自宅に居ながらにして味わえるという厳然たる事実は私にとって「エモい」の極みだった。

 

 

 

 

2025年5月12日月曜日

ひき肉

 

肉の中でも社会的地位が低いイメージがあるのが挽肉である。常に格下扱いされていることが不憫でならない。「ウマいハンバーガーを食ったぜ」という言葉は、本来「挽肉、最高だったぜ」と同じなのだが、そういう言い方をしてもらうことはない。

 

私自身、普通の肉も好きだが挽肉も大好物である。クドい牛肉を食べるなら合い挽きの挽肉のほうが好みだ。合い挽きはもちろん、とんかつ屋さんで出てくる豚挽肉のメンチも大好物である。

 



挽肉の親分みたいな存在がハンバーグだろう。誰もが愛するハンバーグなのに、ここでもやはり「ハンバーグ最高!」という声は聞かれても「挽肉、最高!」と叫ぶ人はいない。

 

最近、イオン系のPBであるトップバリュシリーズのハンバーグに感心した。端的に美味しかった。出来合いのレトルトハンバーグは、いわゆる加工肉の悪いイメージがあるからなるべく敬遠しているが、それを差し置いてもまた食べたい。

 


セブンの「金のハンバーグ」が人気みたいだが、あちらは脂っぽいし味付けがクドい。こちらのほうが大人向きに仕上げられている。400円程度の値付けだったと思うが、ヘタな外食よりウマいからオススメだ。

 

それにしても昭和の頃の定番品・イシイのハンバーグを知る者としてはレトルトハンバーグの進化に驚くばかりだ。後進国から先進国になったぐらいのレベルの違いを感じる。まさにそういうことの証なんだろう。

 

挽肉に話を戻す。このところプチ節制中だから先日もせっかくの高級ハンバーガーを中身だけ食べた。日本橋室町にある「Wagyu Burger」のアボカドチーズバーガーである。

 




その名も和牛100%の肉がウリだ。安くはないが納得の肉質だった。パンを泣く泣く?捨てて中身だけ食べることで肉のウマさをより実感できた。肉ダブルにしておいたのでパン無しでもそれなりのボリュームがあった。

 

普段は夕飯にハンバーガーは選ばないのだが、その理由はパン食だからである。でも、パンを除くとハンバーガーはハンバーグに変身する。アボカドという添え物まであるいっぱしのディナーになる。ディナーだからそこそこの値段も許しちゃうという三段論法的解釈?が成立する。

 



さてさて、外食や出来合い商品の挽肉には悪しき合成肉問題が付き物だが、ちゃんとしたお肉屋さんで買った挽肉を自宅で調理する分にはもろもろ気になることは解消される。

 

で、最近の私のお気に入りが「崩しハンバーグ」と名付けた謎の簡単料理である。実に手軽にハンバーグっぽい一品が完成する。

 

まず、買ってきた挽肉をトレーに入れたまま適当に塩コショウを振る。チューブのショウガとチューブのニンニクも適量肉の上に落としてこすり伸ばすように広げる。

 

その後、スプーンの裏側でぎゅうぎゅう挽肉を押し付ける。均一に平べったくなったらフライパンに移して片面ずつ焼く。途中で出てくる余計な脂はキッチンペーパーで吸いとる。

 

7割がた火が通ったら冷凍みじん切りタマネギをフライパンに投入。割とすぐに解凍されるので平べったい挽肉の塊をちょこちょこ崩しながらタマネギを全体に混ぜる。同時にケチャップ、ウスターソース、粉末コンソメなどを入れて混ぜれば一応完成だ。

 

その後にチーズをどっさりかけるのもアリ。フライパンにフタをして3分ぐらい放置すれば良い感じにチーズハンバーグもどきが出来上がる。

 



味は単純にハンバーグである。成形されていないだけだ。ワイルドかつサイズもバラバラな肉片が楽しい。一からハンバーグを作ることに比べたら異常に簡単なのに味は何も問題なし。ネットで見た手抜きレシピに私流アレンジを加えることで得意料理?になってしまった。マジでいけます!

 

挽肉といえば塩コショウをベースにした「挽肉炒めメシ」が私のソウルフードだ。高校生の頃、時間がないときに母親が瞬時に作ってくれた簡単メニューだ。あのそっけなさがウマさの最大のポイントなのだが、大人になって自分で作るとついついアレンジしてしまい当時のような美味しさを再現できない。

 



マッシュルームやらみじん切りタマネギなんかを加えたほうがより美味しくなると何度もトライしたのだが、昔のシンプルバージョンには適わない。味付け以前に「親が子を思う気持ち」という崇高な調味料のせいで昔のは特別な味になったのだろうか。

 

近いうちに初心に帰って塩コショウのみで再トライしようと思う。ついでに「これは子供のために作ってるんだぞ」と自己暗示をかけてみることも大事かもしれない。






 

 

 

 

 

2025年5月9日金曜日

笑える迷惑メール

 

職場に来て最初にすることはメールのチェックだ。皆さんも同じだと思うが、迷惑メールの多さには閉口する。防御用の仕組みを取り入れていてもバンバン来る。

 

たいして時間は取られないとはいえ一瞬でも目を向けたり削除したりする作業は実に無駄だ。毎日毎日たくさんの人がそんな作業をする時間人件費のロスは世界規模で換算したら天文学的な数字になるかもしれない。

 

「宝くじに当たりました。おめでとうございます!」とか「アダルトサイトの閲覧料金が未納です」とか「パソコンをハッキングしてあなたの自慰画像を撮影しました」みたいなベタな詐欺メールこそ減ってきたが、より巧妙化した手口の詐欺メールは増えているようだ。

 

実際に実在する企業などを名乗って送られてくるメールが物凄く増えた。聞くところによるとオレオレ詐欺の電話では発信者番号表示に本物の警察署の電話番号が使われているケースもあるらしい。そりゃあ引っ掛かる人がいるのも仕方ない。エラそうに書いている私だっていつ引っ掛かるか分かったものではない。

 

あと5年10年たって判断力が今より落ちてきたら、その頃さらに巧妙化しているだろう悪質な詐欺に引っ掛かってしまいそうで怖い。つくづく今現在のお年寄りが気の毒だ。

 

ネットリテラシーも無いままちょっとボケ始めていたら簡単に詐欺被害に遭うと思う。国民すべてが周囲のお年寄りには日頃から口うるさく「知らない電話には出るな、メールのリンクを開くな」と言い続けるしかない。一種の国民運動?にしないと悪い奴らを太らせるだけだと思う。

 

自分が口座を開設してもいない金融機関の名前を語って送られてくるメールなら瞬時にインチキだと分かるが、たまたま自分がその会社に口座を持っていたらさすがに数秒ぐらいは読んでしまう。

 





私はモルガンスタンレーもマネックスもアップルペイも取引がないからこんなメールが来ても瞬時にインチキが分かるが、たまたま私が利用しているものだったら目を通してしまいそうだ。






アマゾンに600円とか言われると一瞬オヤッ?と思うし、ANAのマイルに加算漏れがあったとか言われるとドキっとしてしまう。4000マイルぐらいが漏れてますというあたりが実に巧妙だ。“敵”も日々一生懸命になって詐欺の手口を考えているのだろう。

 

このところやたらとSBI証券を名乗るインチキメールが届いていた。その昔私はEトレード証券の口座で株取引をしていたのだが、その後、同社はSBI証券に吸収されたので、一応、私の口座もSBIに存在する。

 


 

さすがにメール文中のリンクを押しちゃうほどマヌケではないが、もう何年も利用していない口座を持っている以上とりあえずメールを読む気になっちゃうのが困りものだ。

 

でも、おかげでほぼ忘れかけていた口座の存在をしっかり思い出し、これをきっかけに住所変更申請や解約手続きをやる気になった。迷惑メールさまさま?かもしれない。

 

先日は久々にスカっとした気分になる迷惑メールが届いた。送り主は警察庁である。警察署でもなく警視庁でもない。大きく出たものである。「あなたはギャング活動に関与しています。150万円振り込んでください。送金しないと逮捕します」という内容である。

 



なんともストレートだ。「振り込んでください」と敬語でお願いしているところが何とも可愛い。思わず微笑んでしまった。一服の清涼剤のようにすら感じた。

 

ギャング活動にかかわっているかちょっと考えてみたのだが、私には残念ながら身に覚えがない。思わず「逮捕しないでください」と返信したくなったのだが、ひょっとするとそういうバカな返信を狙った斬新な?手口かもしれない。というわけで泣く泣く削除してしまった。「リカルド・タカシ・サカウエさん」とはそれ以降やり取りはない。

 

こういう奇天烈なメールなら殺伐とした日々の中でホッコリした気分になれるから歓迎したくなる。いや、そんな不謹慎なことを言うといつか痛い目に遭うからやはりダメだ。

 

ウソつきは泥棒の始まり。いや、泥棒だからウソをつくのだろう。気を付けないと!

 

 

 

 

 

 

 







2025年5月7日水曜日

顔面ケア問題

 

化粧をする男子が珍しくないらしい。世の中も変わったものである。昭和の頃に色気づいた私からすれば「男が化粧するなんてアホか」という感覚だが、そんなことを言っていられる時代ではないようだ。

 

とか言っている私も人生60年目にして初めて「男性用化粧品」とやらに手を出してみた。顔面に塗るクリームである。美容液というか美容クリームと呼ぶのだろうか。


これまで顔面ケアに気を使ったことはなかった。洗顔用と名のつくものを使ったことがない。風呂に入った時に洗髪ついでにシャンプーで顔も洗う。もしくは寝る前に手洗いついでにハンドソープで顔を洗うか、はたまた、夏は水、冬はお湯だけでジャバジャバするだけで終わり。その後は顔に何かを塗ることは無かった。髭剃り後のヒリヒリ解消のローションしか使ったことがない。

 

さて、男性用美容クリームの話である。シミしわ対策に良いらしいが、そんなものがクリームを塗るだけで改善するはずもない。そこはさすがに信じていないのだが、単に肌ツヤが確実に改善すると聞いたので試してみた。

 

ここ1か月ぐらい朝と夜の2回欠かさず顔面にクリームを塗っている。朝は髭剃り後にアフターシェーブローションの変わりに塗る。夜は歯磨きついでにジャバジャバ顔を洗った後に塗る。というわけでさすがに面倒な作業ではない。

 

効果のほどはどうかというと、正直言ってビックリしている。効き目はあるようだ。何よりも顔がテカらなくなった。というか脂が浮いてこなくなった感じである。それだけで満足だ。

 

これまでは午後になると少し顔面に脂が浮いてくる感じがあったので、コンビニで売っている濡れティッシュのようなフェイシャルなんとかぺーパーで顔をゴシゴシするのが常だった。

 

男性用クリームを使うようになってからはその作業がいらなくなった。これは悪くない。長時間経っても顔の皮膚がサラっとしている感覚だ。さすがに結構な値段を取る商品にはそれなりに意味があるのだと痛感した。こればかりは「化粧」というイメージに抵抗があった私も認めざるを得ない。

 



手始めに使ってみたのがサントリーが派手に宣伝しているVARONという商品だ。広告サイトによるとスキンケアで幸福感が変わるという調査結果があるらしい。ホンマかいな?の世界だが、顔にクリームを塗るだけで幸せになるのなら試してみる価値はある。

 

実際に使ってみたがとくに幸せになった感じはない。いや、でも午後の顔面べたつき問題が無くなったことを幸せというなら私にも幸福効果は訪れているのだろう。

 

効果を実感すると単純な私は欲が深くなる。もっと良い商品はないかとネットであれこれ調べてみた。知らなかった世界とはいえ、想像以上に男性用美容マーケットは百花繚乱だった。

 

その中でしつこく私のスマホに広告が出てくる「チェルラー ファルコ パーフェクトクリーム」なる商品に手を出してみた。どこがメーカー名でどこが商品名かよく分からないのだが、ナンチャラ成分が配合された画期的?な商品らしい。

 



 舘ひろしと仲村トオルが広告でベタ褒めしている商品である。さきほどのサントリーのVARONもそうだが、この種の商品ってなんでこんなに高いのだろう。今までの人生でアフターシェーブローションしか顔に塗ってこなかった私としてはゾワゾワした気分になる値付けだ。

 

かといって、不思議なものでこういう商品がお手軽価格だったら逆に気持ち悪がって買わないのかもしれない。消費者心理ってそんなものだろう。

 

で、このクリームを試してみたところVARONよりも個人的には気に入った。塗るときに少し卵系?のヘンテコな香りがあるのだが、しばらくすると消える。クリームではあるがベタつかずもっちりした感覚になる。

 

長時間経っても顔面が脂ギッシュになることはなく、“サラモチ”感が持続する。なんとなくではあるがVARONよりも良い感じに肌に濃く染み込んでいる感覚がある。

 



有効成分について広告ではあれこれ表示しているが、そんなものは素人である私にはチンプンカンプンである。実際に使ってみた感覚で判断するしかない。

 

というわけで、しばらくはこのFALCOというクリームを愛用してみようと思うが、もっと良い商品がないかと探したい欲求も消えない。凝り性な人間はこういう時に不便である。

 

正直言って世の女性陣が好みの化粧品を求めて右往左往?する姿を小馬鹿にしていたのだが、ようやくその気持ちがちょっとだけ分かるようになった。人生いつまでも学ぶことは多い。

 

ところで、いまさら顔面のケアを始めた私はいったい何がしたいのだろう。先日は知り合いに「そんな下がり眉は運気も良くないから眉毛サロンで整えたほうがいい」と言われてちょっとその気になっている。

 

いまさら、なのか、いまだから、なのか。考えてみれば悩ましいテーマである。

 

 

 

 

2025年5月2日金曜日

憧れの人


物心ついてから半世紀以上が過ぎた。これまでに「憧れた人」は結構いた気がする。子供のころはキャンディーズの蘭ちゃん桜田淳子に憧れたが、歳をとるにつれて大原麗子や松坂慶子など色気方面?にアンテナは伸びていった。

 

男子だから対象が女性になるのは当然だが、そういうミーハー心理ではなく、同性を憧れの対象として認識したのは今は亡き西城秀樹師匠が最初だったと思う。

 

小学生の頃、誰かのコネでナンチャラ音楽祭の収録現場に行った際に通路で目撃したのがヒデキだった。白い衣装の腕からノレンみたいなのがヒラヒラしていてプレスリーみたいだった。

 



顔が小さくシュっとしていて全身からスターのオーラが溢れ出ていた。カッコよくてシビれた。まだヤングマンを大ヒットさせる前の頃だ。アイドルなのにワイルド感もあって少年の私が憧れるのも当然だった。

 

晩年のヒデキは病魔との闘いに苦しんだが、今も彼の卓越したボーカリストとしての技量は評価が高い。現役時代を知らない若い人にもファンは増えているそうだ。

 

ヒデキが亡くなった年、NHK紅白では長尺を確保してヒデキ追悼コーナーを設けるかと思ったのだが、ナゼかそんな企画は無いままだった。いまだにそれが残念に思うほど昭和の偉大な歌い手だったと思う。

 

その後に私の憧れの対象になったのが「田村正和」サマである。ニヒルでクールな二枚目という私には到底マネできない路線の人だった。あまりに違いすぎるから目指すような気持にはならず単に美術品を鑑賞するように眺めていた。

 

マサカズについては以前にこのブログでも力説?した。

 https://fugoh-kisya.blogspot.com/2021/05/blog-post_26.html

 

ヒデキとマサカズが私にとっての二大巨頭だったわけだが、もうひとり私にとって憧れだったのが「高田繁サマ」である。いわずと知れた往年の巨人の名選手である。

 

長嶋さんの引退試合をテレビで見たあたりから野球好きになったのだが、その長嶋さんが監督になった際に高田サマはそろそろベテランになろうかという円熟期の選手だった。

 



彼のレフトの守備は「塀際の魔術師」と称されたように普通なら2塁打になるレフト線へのヒットも抜群にウマいクッションボール処理と強肩で単打にしてしまうことで有名だった。

 

そんな名外野手を長嶋監督が自分の後釜のサードへコンバートさせた。外野から内野へのコンバートは当時は非常に珍しく、スポーツニュースでも連日猛特訓ぶりが報道されていた。野球一色だった時代ならではの世間の注目ぶりが印象に残っている。

 

で、高田選手は見事に転身を成功させ、野球人生の後半戦を華の三塁手として過ごした。トレードマークは青いグローブだった。大ファンだった私も親にねだって高田モデルの青いグローブを買ってもらった。

 

高田サマはその後、何度も私の夢の中にも現れた。ナゼかいつも同じ夢だった。雨降る夜の道をとぼとぼ歩く私。そこに白いクラウンが走り寄り私の横に停車。すーっと助手席側の窓が開いて「乗っていくかい?」と声をかけてくれる紳士が高田選手だった。

 

夢なのに私はいつも唖然茫然、高田サマのご尊顔が神々しく見えるという内容だ。何度もその夢を見たのに顔を見るまで高田サマだと毎度気づかないわけだから私のバカっぷりも相当なものだろう。

 

そんな憧れの高田サマを久しぶりに目撃した。それも至近距離である。東京六大学野球の100周年記念事業の一環である「レジェンド始球式」に明治大学ОB代表として登場した。

 




事前に情報を知った私は高田サマが出入りする通路そばに陣取り間近で懐かしいその姿を拝謁!できた。今年80歳になるとは思えない爽やかさで始球式もカッチョ良くこなした。かなり感動してしまった。

 

何が嬉しかったといえば、高田サマの手にはアノ青いグローブが装着されていた。引退から40年以上経つ。相当気を使って管理していなければこんなに綺麗な状態は保てないだろう。

 



昔のファンにとっては元気な姿が見られただけで嬉しいのに青グローブという必殺グッズもセットである。これには感動した。変な話、ちょっとウルウルしそうなほどだった。

 

それにしても憧れだった人の多くが鬼籍に入り、今も元気な人ですら80代を迎えている。当たり前の話だが自分の年齢をいやでも自覚させられる。

 

まあ、逆に言えばそんな感傷に浸れること自体が自分がこれまで元気で過ごせてきた証である。そんな感傷はさておき、昔の楽しかったことを思い出す「回顧法」は脳に健康的で良い刺激をくれるそうだから、せいぜい昔の記憶をどんどん呼び起こして楽しみたいと思う。