2015年4月22日水曜日

優しいオジサマ


「あなたって優しいのね」。そう言われたらイヤな気分にはならない。私自身、そんなことを言われるとすぐに舞い上がる。バカである。

でも「優しさ」という感覚は厄介である。分かっているようで分かりにくい。

子供の頃、自分勝手でワガママな私は親からよく叱られた。思いやりがない、配慮が足りない等々、しょっちゅう指摘された。

お菓子を独り占めして誰にもあげないとか、ケンタッキーフライドチキン盛り合わせの脚の部分を真っ先に取っちゃうとか、子供っぽい身勝手を貫いていたから親が怒ったのも道理である。

さすがに言われ続ければ身に染みる。優しくない人というレッテルはイヤだから、大人になってからは結構気を遣って生きている。

気疲れしちゃうこともある。身近な人からは私の気遣いを億劫に思われることもある。そうなっちゃうと「優しさ」とは言えない。

「優しい人が好き」。男も女もたいていそう思っている。でも、その優しさは単なる甘やかしや、ただの親切に過ぎなかったりする。

深い意味での優しさであれば、場合によっては突き放すこともあるし、相手を不快にさせることもある。

そんな本当の優しさを自分が持ち合わせているかと言えばビミョーである。メンドーだから相手のことを漫然と受け入れているだけである。

厄介ごとを避けたいから相手のワガママを許しているだけで、優しいふりをして結局は自己保身に過ぎないという見方もできる。

世の中に溢れかえっている「優しさ」も実態は怪しい。臆病だったり自分に自信が無いから相手にへりくだっているだけってパターンも多い。

小さい例えだが、レストランでメニューを見ながら「キミの好きなものなら何でもいいよ」と言うのは「優しさ」だろうか。ちょっと違うと思う。

ただの人任せである。人任せや追従は優しさとは異質だ。大げさに言えば逃げちゃっているだけの話。

相手に漫然と合わせるより、こちらが的確な判断を下すことが優しさだと思う。

と、エラそうに書いているが、私自身、「キミの好きなものを選んでくだちゃいね~!」とか言ってしまう。ヘタレ太郎である。

今の旬はコレだ。この店のウリはコレだ。昨日それを食べたのなら今日はコレがオススメだ等々、情報を整理して判断材料をキッチリ提供するのが、こういう状況での正しい「優しさ」だろう。

今の時代、妙齢の女性達の間でオジサマが人気だという。若い男性の草食化が影響しているのは確かだが、それだけが理由ではない。

オジサマは長く生きているから情報量が豊富だ。それを元に判断材料を提供できるし、なによりも若造よりは的確な状況判断が出来る。

まあ、的確な状況判断と言っても、オジサマという生き物は好みも行動パターンも固定化しちゃっているからムダに迷わないだけである。

そんな実情を知らない妙齢の女性達は、オジサマの言動を「オトナの余裕」「オトナの優しさ」と錯覚しているわけである。

そうは言っても、やはり年齢差のある相手を本能的に可愛がる感覚があるから、オジサマは必然的に物腰柔らかく年下の女性に接する。トンがっている感覚がないから女性側も安心なんだろう。

若者のような虚勢は張らないし、同世代的対抗心みたいな感覚も一切ない。そうしたヌルい感じを魅力的に思う人が多いのも不思議ではない。

若い男のように熱くなって怒り出すようなこともない。オジサマは日々疲れているから不毛なケンカに励むエネルギーがないだけだが・・・。

若い男特有のギラギラ感もオジサマからは漂ってこない。これも本当は腰が痛かったり、胃が重かったりするのが理由だったりする。

他にもある。

「オジサマは歩くスピードにも配慮してくれる」という褒め言葉を聞いたことがある。ヒールを履いた女性を気遣うのは当然だが、実際はオジサマのヒザの調子が悪いことが理由である。

「荷物が多かった時にサッとタクシーに乗せてくれた」。これも同じである。オジサマが怠惰なだけである。

「人混みやエスコートが必要な場面でさりげなく腰に手を回してフォローしてくれる」。これも何のことはない。純粋にオサワリしたいからである。

そんなものだ。

「優しさ」について考察するつもりがオジサマ生態研究になってしまった。

オジサマの生態でも書いたように「優しさ」と思われている行動の多くが、一皮ひんむけば実にテキトーなものである。

つくづく「本当の優しさ」とは何なのか分からなくなる。

結局、相手におもねらず、ただ受け身になるわけでなく、自分の行動原理からブレない範囲で相手を気遣える言動が真っ当な「優しさ」だと思う。

なかなか出来ることではない。

せいぜいそれを目指しながら「優しいオジサマ」だと錯覚されるように頑張ろうと思う。

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