2020年12月28日月曜日

痒み 冷え性 山本周五郞 坂の上の雲

いま私を悩ませているのが痒みである。かゆくて仕方がない。股間に変な病気をもらったわけではない。腹回りがかゆい。

 

きっかけは繊維かぶれだ。先月、新しい下着を履いてちょっと腹回りがきつくなったスーツで過ごしたことが発端だ。

 

下着の色付きのゴム部分が腹に押しつけられ、そこが痒くなってボリボリかいていたら悪化した。

 

その後、少しずつ痒い部分が移動して、薬を塗ったり、塗るのを忘れて痒みが復活したりとイタチごっこが続いている。

 



 

いま自宅にいる時はノーパン状態でダボダボのスウェットで過ごしている。締め付け禁止である。スウェットもヘソの上まで持ち上げて力道山みたいなカッコで過ごしている。

 

ウーバーイーツが届いて玄関先まで歩くとスウェットがズリ落ちてチン○ン丸出しになりかねないので危険だ。

 

ここ数日、ようやく乾燥肌を防ぐためのボディクリームを塗る程度で痒みが治まってきたので峠は越えたようだ。丸出しの危険もまもなく終了だ。

 

乾燥肌や足の先っぽの冷えなど、女性が悩むような症状が出てきたのも、ここ23年のこと。

 

乾燥肌は痒みに繋がるから面倒である。靴下やパンツのゴム部分が要注意だから、まめにクリームを塗るようになった。面倒で仕方がない。

 

冷え性気味の足先も厄介だ。昔は世の女性達がベッドの中で「アナタの足、暖かいわねえ」などとすり寄ってきたものだが(ウソです。いや、ちょっとホントです)、そんな場面も今や昔である。

 

寝る前に本を読んでいる時にどうにも足先だけが冷たく感じて、即興で足湯に浸かることもある。

 

20㎝ぐらいお湯を貯めて、風呂のへりに腰掛けて本を読み続ける。スウェットを力道山みたいに胸近くまで持ち上げて裾をまくり上げた状態だ。かなりカッチョ悪いが、意外に気持ちよい時間が過ごせる。

 

読書といえば、最近ハマっているのが「山本周五郞」だ。今年は歴史小説をやたらと読んだ1年だったが、いまはこの大御所の短編ばかり読んでいる。

 



 

膨大な数の短編を残した作家だが、昔の本は文字が小さくて読みにくいので、最近刊行されたイマドキの活字サイズの本をまとめて購入した。

 

「人情武士道」という短編集は、各作品の末尾に発表年が掲載されている。多くが昭和ヒトケタ年の作品だ。

 

ヘタしたら100年近く前の作品である。歴史モノだから発表年が古くてももちろん違和感はない。

 

それでも100年近く前の小説だ。第二次世界大戦の前、大正デモクラシーの名残りが漂っているような頃に作られた話だ。現在でも普通に物語に引きこまれ素直に感動できちゃうことが何となく新鮮だ。

 



 

沢木耕太郎さんが選んだ作品集も4巻まで出ていた。活字も今のサイズで、傑作選というだけあってどれも面白い。

 

年末年始の休みに読もうと思ったのにズンズン読み進めているので、もうすぐ終わってしまいそうだ。

 

年末年始といえば、Amazonプライムビデオで改めて楽しんだのが超大型ドラマ「坂の上の雲」である。

 

10年ぐらい前にNHKが足かけ3年全13回で放送した歴史的な作品だ。Amazonプライムビデオで視聴した。NHKオンデマンドでも観られるので正月休みにじっくり堪能することをオススメする。

 



 

生前の司馬遼太郎が映画化やドラマ化は無理だと許諾しなかった超大作である。維新後に日清・日露戦争を経て近代国家の道を歩んでいく“日本の青春記”である。

 

つい先日から観ていたのだが、面白すぎて正月を待たずに見終わってしまった。後半に重要キャストで登場する児玉源太郎役の高橋英樹の迫力の演技が印象的だった。

 

放送された当時も夢中になって観たが、10年ぶりだから全てが新鮮だった。NHKが本気になって実力派俳優達も本気になって作られた作品だけに迫力が違う。

 

数多くの歴史モノの映像化作品の中でも珠玉の作品であることは間違いない。当時、足かけ3年という変則的な放送日程がもどかしかったが、一気に通して観られる今のほうが作品の素晴らしさを実感できる。

 

ちょっと説教好きな爺さんみたいな表現になってしまうが、端的に言うなら「日本人なら誰もが必ず観るべき作品」だと思う。

 

 

★年内の更新はこれでオシマイです。今年もお付き合いくださり有り難うございました。年明けは1月6日から更新を始める予定です。良いお年をお迎えください!!

 

 

 

2020年12月25日金曜日

年末にウジウジと

仕事で毎週コラムを書いているのだが、この時期は新年向けの内容になる。干支に絡んだネタを無理やり?アレコレ書くのだが、来年は丑年、すなわち牛である。

 

明治維新で肉食が奨励され、牛肉を食べることが文明開化の象徴になっていた話を書けば頭に浮かぶのはすき焼きだ。

 

とはいえ、頭には浮かんでも牛肉を食べたい気分にならない。加齢の証だ。

 

総理大臣を含めて8人の高齢者達がステーキ屋に集まって叱られていた。あの歳になってわざわざステーキを食べたがる元気さは大したもんだ。見習わないといけない。

 




 

先日はクエ鍋を食べに行った。ステーキを食えないオジサマ的には実に頃合いが良い。銀座にある土佐料理屋・祢保希である。

 

毎年、冬になると無性に食べたくなる。魚なのに煮込んでもバサバサにならない。個人的にはフグよりも好きだ。

 

この店、例年12月ともなれば大繁盛でなかなかフラッとは行けない。ところが、今は人出が減ったせいで空いていてビックリ。

 

正しく気をつけることはもちろん大事だが、せっかくだからいろんな店が空いている今の機会を有難く思ったほうが建設的だ。

 



 

別な日、日本橋にある鰻の老舗・大江戸を訪ねたときのこと。こちらも割合お客さんが少なく、肝焼きも普通に頼めた。

 

 

人気の鰻屋さんの場合、肝焼きは早い時間に売り切れていることが多い。その場で普通に頼めること自体が、今の飲食店を取り巻く環境を象徴しているような気がした。

 




 

白焼きをツマミに冷酒をカピカピ味わい、シメに鰻重を頬張るのは冬の楽しみである。いつの間にか鰻は夏の定番料理みたいに思われているが、本来は冬の食べ物だ。

 

ちなみに、このヤケクソみたいな鰻重は同行者が食べたもの。私は23年前からこのサイズが食べられなくなった。実に淋しい。

 

酔っていれば夜中にカップ焼きそばや牛丼特盛りを平気で食べられる胃袋を持っているのに、普通に食事している時は食べられる量が減ってきている。衰退である。

 

お寿司屋さんで焼き魚や揚げ物を頼むにしても、ついつい普通より小さいサイズにしてもらうか、量を減らしてもらう。

 



 

視力が衰えた、足腰が弱ってきた、物忘れが増えた、アッチの元気が足りなくなってきた等々、この10年ぐらい徐々に劣化を痛感している。

 

そんな全身衰退状態の中でも一番悲しく感じるのが食べる量が減ったことである。ウジウジした気分になる。

 

まあ私の歳で若い頃と同じように食べていたら単なるバケモノか単なるバカである。とはいえ生き物としての基本中の基本だけに、この部分の劣化はさすがに寂しい。

 

ちなみ今日はクリスマスである。これまた加齢を痛感する日だ。若い頃はあんなにワクワクしたのに、今では何も感慨はなく気忙しいだけの1日になった。

 

必死に部屋の天井や壁までキラキラと飾り付けして、彼女が来るのを待っていた情熱はどこに行ってしまったのだろう。

 

シャレたレストランをせっせと予約して、やたらと気取った格好でデートに励んだ情熱はどこに消えたのだろう。

 

もっとも、30年ぐらい前と同じことをしていたらマヌケだが、今は街のイルミネーションを見ても何も感じなくなった。

 

ほんの5年ぐらい前までは、ピカピカした街の賑わいをウザったく感じるぐらいのアマノジャク精神?はあった。今はそれすら感じない。


食欲に加えて感度も劣化しているのならマズい。ワクワクするような気持ちを無くしたら人生がつまらなくなる。

 

先日、3ヶ月ぶりに霊感占い師と1時間ばかり面談した。あれこれと言われた中で印象的だったのが「アナタは何を考えているかわからない」という点である。

 

霊感占い師にそう言われちゃうわけだからヘンテコな話だ。きっと何も考えてないのだろう。それはそれで結構なことだ。平和な証拠である。

 

とにかく年齢とともに劣化することは仕方がない。変にアンチエイジングとかに励むのは好きではない。とはいえ、自ら進んで老け込むのもゴメンだ。

 

気分だけはパリピを目指してアゲアゲで過ごしていきたい。ちょっと無理があるが。

 

 

2020年12月23日水曜日

ダウンちゃん ドカ食い

以前は娘と息子とセットで会う機会が多かったが、娘が一人暮らしを始めたことで、息子と二人だけで会うことが増えた。

 

ダウン症の彼はアッという間に大きくなって来年は中学3年生になる。いよいよ義務教育も終盤戦だ。

 

今日は久しぶりにウチのダウンちゃんの話を書こうと思う。

 

息子が小さい頃は、今とは違う葛藤が私の中にもあったのでこのブログでも随分と障害児の話題に触れていた。

 

ただ、何度書いても繰り返しのような話になってしまうので最近はあまり書いてこなかった。

 

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2018/05/blog-post_16.html

 

ある意味、ネタ切れ?みたいなものだが、10年ぐらい前よりも、ある種の達観が強まったのだろう。

 

息子の話題になると、どうしたって「障害児問題」みたいな方向に話が行きがちだ。別に大袈裟に論陣を張るつもりはないのだが、ついついそんなノリになってしまう。

 

そういう路線の話になってしまうこと自体が息子を特別視しているような感じがして、ことさら彼の話を書くことに居心地の悪さも感じていた。

 

私自身、実際に以前のほうが彼を特別視していたのだろう。今のほうがきっと「普通」である。


普通だ特別だという表現自体が親としてヘンテコだが、さすがに健常児というワクではないからある程度は仕方がない。

 



 

小学校に入ったのがつい最近だった気がするから時の流れは速い。よくしゃべるのだが、残念なことに彼は言葉の発声能力が低いから親の私でも34割ぐらいしか聞き取れない。

 

数の概念や文字の学習能力も全然ダメだ。学校も母親もいろんな角度から相当あれこれとトライしたが、どうしても身につかない。

 

同級生のダウンちゃん達よりも学習能力がまるで足りないから学校生活はなかなか厳しいみたいだ。

 

それでも支援学校の先生達は息子の大らかで穏やかな人間性を評価してくれて、他の生徒とは違うアプローチで彼を指導してくれる。実に有難い話だ。

 

時々ふと思うのだが、離婚という選択をせずに彼のそばで私もサポートをしていたら、彼の学習能力は今よりほんの少しはマシだったのだろうか。。

 

鬱々とそんなことを考えるのだが、それはそれで自意識過剰気味の発想かもしれないし、いまさらムニュムニュと思い悩んでも仕方がない話だ。

 

可愛かったアイツも今では結構巨大になり、私のお下がりの服もモノによってはゆったり着こなしてしまう。

 



上の画像と比べると別人だ。まあとにかくよく食べる。私だって中学生の頃は常に空腹だったから当然といえば当然だ。

 

この画像はウチでスペシャル冷やし中華を食べさせた時のもの。私に似て彼は冬でも冷やし中華を食べたがる。

 

ウチに来るたびいつも食べたいものを何度も尋ねてみるのだが、いつも必ず「冷たいラーメン」と強硬に主張する。

 

画像は、麺を2玉、そこに特盛りの牛皿をトッピングして、サイドにセブンの「金のハンバーグ」である。

 

野菜っぽいものはゼロ。彩りもまるで無し。超絶的な手抜きだが、中学生はこういうものが大好きだ。彼もウキウキしながら瞬時に食べきる。

 

ダウンちゃんは肥満になりやすい傾向もあるので、母親はいつも食べさせる量に気を遣っている。だから彼は自宅でドカ食いをする機会が少ない。

 

甘甘父ちゃんである私は、彼がウチに遊び来るたびにドカ食いを放置してしまう。いや、すすんでドカ食いをさせてしまう。ダメパパである。

 

健康に良くないのは分かるが、彼の境遇を思うと、つい好き勝手に飲み食いぐらいさせてやろうと思ってしまう。

 

自分が中学生の頃を思えば、野球部の練習に励んだり、悪友達と喫茶店をハシゴしたり、時には女の子達とチャラチャラ遊んだり、あれこれと忙しくしていた。

 

もっといえば、エロ本にドキドキしたり、着るものにこだわり始めたり、お気に入りのスニーカーを探し歩いたり、イタズラ心で酒やタバコにも手を出していた。

 

ダウン症の我が息子にはそういう楽しみがない。実に気の毒?である。だからついつい不憫に思って甘やかしてしまう。

 

もっともらしい言い訳だが、こういう考えかた自体が間違いとも言える。不憫に感じるのは、私が自分の中学生時代を基準に彼のことを考えているからだ。比較すること自体がこっち側の価値観に囚われている証だ。

 

この時点で、私にとっての「普通」を押しつけているわけで、彼には彼の「普通」がある。息子なりの楽しみや世界観があるという大前提をないがしろにしている。

 

彼はお気に入りの音楽に合わせて踊ったり歌ったり、DSを器用にイジりながらゲームに没頭したり、子供だまし?みたいなオモチャ照明に長々と見入っていることが純粋に好きだ。

 



 

タバコをくわえてカッコつけたいとか、樽酒を味わってみたいとか、風俗に行ってみたいという感覚は無い。いや、聞いたことがないから分からないが、風俗は行きたいかも知れない…。


いかんいかん、話がそれそうだ。

 

いわば不憫に思っているうちは、まだまだ私が彼に対する理解を深めていないのかも知れない。

 

そんな甘甘でダメな父親だから、彼に会うたび、彼の穏やかで幸せそうな表情からいろんなことを教えてもらう。

 

いつも何かに満たされないような、何かが足りないような感覚で生きている俗物的凡人である私からすれば、息子が持ち合わせている鷹揚な空気感や裏表の無い純粋さ、感情表現の誠実さにハっとさせられることは多い。

 

障害児をめぐっては、存在意義などという実に不快な言葉が使われることがある。それが一般社会の現実であることは確かだ。ハタからみればそういう言葉を使う気持ちも分からなくはない。

 

でも、家族という社会の中の最低単位の中で身近に接してみれば、存在意義などという言葉がいかに陳腐で無意味なものかを痛感する。

 

使命だ、役割だなどと大袈裟に強調するつもりはないが、読み書きもロクに出来ない我が息子だって周りの人にさまざまな影響を与えてくれる希有な存在だ。

 

座敷わらしや福助伝説と同じである。お化けと一緒にしては息子に叱られそうだが、間違いなく彼は彼の“仕事”をこなすために生まれてきたのだと思う。

 



 

少し前、ウチに遊びに来たときに散歩の途中で通りすがった水上バスに乗せる機会があった。

 

心の底から嬉しそうにハシャいだ彼の笑顔を見ているうちに私のほうがやたらと愉快な気持ちになった。

 

彼はその後、会う人会う人すべてに私と船に乗った話を自慢するらしい。父親の面目躍如である。

 

今日は何が書きたいか分からないままダラダラと長くなってしまった。


どうしたって親は先に死んでしまう。ちょっと変わった我が子の行末が心配だが、子どもの将来を不安に思うのは子どもが健常であっても同じだ。


それなりに先の手立てを整えることしか出来ないし、あまり考えたところでキリがない。彼のこれからの成長に応じていろんな可能性を検討することになる。


とりあえず私もまだ元気だから、彼が愉快な表情になれる場面をたくさん作ってやろうと思う。



2020年12月21日月曜日

ご馳走鶏料理 玉ひで

前回書いた銀座の資生堂パーラーがオムライス業界の重鎮だとしたら、親子丼業界の重鎮は人形町の玉ひでだろう。

 

資生堂パーラーが“ご馳走洋食”なら玉ひでは“ご馳走鶏料理”である。焼鳥屋さんに代表されるように鶏料理は取っつきやすいジャンルだが、玉ひでの「鳥すきコース」は満足感の高い”ご馳走”だ。

 

人形町のランドマークのようなこの店は250年以上の歴史があるらしい。オッタマゲである。先日、個室を取ってじっくりと味わってみた。



 

昨年、中央区民になって人形町も身近になったのだが、ようやく訪ねることが出来た。親子丼が人気で週末はいつも行列が出来ている。

 

親子丼がシメに付いてくる鳥すきコースは文字通り鶏肉のすき焼きが楽しめる。すっかり牛肉が重たく感じるようになったから鳥のすき焼きは有難い。

  

割下が見るからに濃い感じで味も強過ぎるのかと心配したが、まったく問題無し。どちらといえば優しい味わいで際限なく食べられそうなほどだった。

 

東京軍鶏というブランドしゃもは肉質の締まりが良く鶏の風味もしっかり感じられて美味しかった。

 





 

この店のすき焼きは生卵ではなく軽く温玉状態になっているタマゴを少しづつ崩しながら付けるのが特徴。

 

このスタイルは牛肉のすき焼きでもアリだと思う。まったくの生卵よりも使い勝手が良い。





印象的だったのがネギとシラタキの美味しさだ。シラタキはこの店が独自に作らせているオリジナルだとか。

 

細めで繊細な食感が実に良かった。ネギもそこらへんで出てくるネギとは別モノの美味しさだった。

 

すき焼きは仲居さんが取り分けてくれて、少しずつ味わった。つくづく自分が若者ではなくて良かったと思う。

 

若い頃ならもっとドッカンドッカン食べたかったから、品良くちょっとずつ出される食べ方に悶々とすることが多かった。いまでは一応それなりに情緒を味わいながら過ごせる。歳をとるのも悪いことではない。

 

さて、すき焼きを堪能した後は名物の親子丼だ。三つ葉やタマネギなど余計なものは何も入っていない。

 

純粋に鶏肉と卵だけで作られているのが潔い。この店のこだわりのようだ。鶏と卵のレベルが高いわけだから確かに他の材料はいらないだろう。

 



 

付随してきた生卵の卵黄だけを親子丼にまぶして味わってみた。割下の味と鶏肉の味と卵の風味が絶妙に融合して素直に美味しかった。

 

これまでアチコチの焼鳥屋さんや鶏料理の店で「究極」「極上」といった名前の親子丼を食べてきた。それに比べれば玉ひでの親子丼はビックリするほど美味しいというほどではない。

 

とはいえ、正統派というか、安心安定の美味しさというか、老若男女を問わずホッコリと笑顔になる優しい味わいだった。

 

もっと言えば、毎日でも食べたくなる味、朝ご飯に食べたくなる味とでも表現すると分かりやすいかも知れない。

 

この日は昼のコースだったので、今度は夜のフルコースを味わってみたい。希少部位なども出てくるみたいだし、特製プリンなんかも気になっている。

 

こちらのお店、びっくりするほど高くはないが安くもない。ご馳走価格である。でも美味しいから仕方ない。

 

コロナのせいで死んじゃったり、死なずに済んでも味覚がおかしくなる人も多いご時世である。もはや一定以上の年齢になればマズいものを食べている余裕はない。


気をつけながらウマいものを食べ続けようと思う。

2020年12月18日金曜日

ご馳走洋食 資生堂パーラー

洋食といえば喫茶店のナポリタンやオムライス、定食屋のハンバーグとコロッケの盛り合わせなど、何となく「身近」なイメージだ。“ご馳走”としてクロースアップされることは少ない。

 

洋食のルーツは文明開化の頃に遡る。西洋料理を日本人の口に合うようにアレンジしていったことが原点だ。その昔はハイカラな食べ物であり庶民にはご馳走、高嶺の花だった。

 

かつて放送されていたドラマ「天皇の料理番」のウケウリみたいな書き方だが、ご馳走としての洋食には奥深い魅力がある。

 

クリームコロッケが2千円、3千円だと聞くとちょっとビビる。たじろぎたくなる。とはいえ、高級レストランで得体の知れないソースをかけた聞き覚えのないカタカナ名前が付いただけの料理なら同じ値段でも気にならない。

 

そんな島国根性的心理が洋食の立場をビミョーにしている。上等な素材を作って腕の良い料理人が丁寧に仕上げて、上質な空間の中で味わうのなら、コロッケやオムライスだって高価になる。

 

もちろん、高いだけあって素直にウマい。定食屋のAランチやB定食と同じものだろうと、味わいはまるで違う。そんなギャップを楽しむのも「ご馳走洋食」の醍醐味だろう。

 

前振りが長くなったが、ご馳走洋食の代表格ともいえる存在が銀座の資生堂パーラーだろう。名前からして喫茶店なのかレストランなのか分かりにくい。謎めいている。

 

言うまでもなく正統派の高級レストランである。知らない人が「オムライス食いに行こうぜ」と誘われてこの店に入ったらきっとたじろぐ。

 

昭和の頃の「高級レストラン」のイメージがそのまま続いている感じだ。外食がハレの日の特別な時間だったことを思い出すような場所だ。

 

高いけど、サービスも器も盛り付けも、そして肝心の味もすべてが丁寧。時にはこういう場所でオムライスやコロッケを食べたいものだ。

 




 

ドリアのベシャメル味も実に優しい。ギトギトしたクドさはない。デミグラスソースで味わうポークカツも丁寧に作られたことが分かる逸品だった。

 

オムライスも上品の一言である。ふわトロオムライスも大好きな私だが、こちらは昔ながらのオムライス。

 

とはいえ薄焼き卵ではなく、火加減が絶妙なオムレツが優しくチキンライスをくるんでいる魅惑の一皿である。

 




 

上の画像のように福神漬けなどの付け合わせが盛られた銀の容器も何ともオシャレだ。気分がアガる。こういう細かい部分がさすがと思う。

 

さてさて、最近やたらとピラフの呪縛に取り憑かれている私としては、天下の資生堂パーラーでも一番のお目当てはピラフである。

 

この日は「ビーフと季節のキノコの和風ピラフ」をオーダーした。シーフードピラフにするか悩んだが、よりアッサリしたほうを選んだ。これも加齢のせいである

 




 

うやうやしくボーイさんがサーブしてくれる。ご馳走洋食ならではである。ピラフの地位?が低くないことがピラファーである私には嬉しい。

 

ビックリするようなウマさではなく、ジンワリとウマいなあとつぶやきたくなる味だった。

 

あえて表現するなら普通に美味しいと言ったところか。もちろん、この場合の「普通」はそこらへんの普通ではない。極めて上質な「普通」である。

 

何とも分かりにくい表現でスイマセン。

 

半世紀以上も生きてきて、あれこれとウマいものを食べてきたが、自分が好きな食べ物を突き詰めて考えると洋食に行き着く。

 

もしかすると、子どもの頃にデパートの食堂で食べたお子様ランチが原点なのかも知れない。

 

ちょこっとずつ盛られたおかずに、ちょこっとサイズのチキンライス。あれはご馳走だった。でも、旗は無くてもいいからもっとドカンと盛ってきて欲しいという欲求不満も感じていた。

 

そんな願望が大人になってからの洋食ドカ食いにつながったのだろう。

 

書いているだけでデパートのお子様ランチが食べたくなってきた。4人前ぐらいを一度に食べてみたいものである。

 

 

2020年12月16日水曜日

ピラフ探検は続く

このところ“二度メシ”をする機会が増えた。身体に良くない。

 

焼鳥屋や小料理屋っぽい店に晩酌に立ち寄ると、ツマミをちょろちょろ食べながらグビグビとアルコールを摂取する。

 

ちょろちょろ食いは満腹感の錯覚を招きやすい。たいして食べていなくても満足したような気がする。

 

その結果、帰る道すがら何となくもう一口食べたくなってふらふらとラーメン屋に吸い寄せられる。

 



 

この画像は銀座の「九州じゃんがら」に入ってしまった時のもの。普通のラーメンを注文すればいいのに、チャーシューを多めにトッピングするあたりが悪い癖だ。

 

ラーメン屋の誘惑を断ち切っても、今の住まいから道路を挟んだ向かいには吉野家がある。帰宅直前の私をなまめかしいオレンジ色のネオンで誘惑する。

 

吉野家の誘惑をなんとかかわしても家にたどり着けばジャンクな面々が私に微笑みかける。

 



 

健康のために「ペヤングは買わないぞ」と決意したのだが「ペヤングじゃないから買ってもいい」という理屈で揃えた焼きそば達がアピールしてくる。

 

今日はピラフの話なのに、なぜこんな前振りを書いたかというと、ピラフを食べた日は“二度メシ”をしない。すなわち、私にとってピラフは健康のための一品だという事実に気付いたからである。

 

さて、ピラフである。

 

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2020/11/blog-post_30.html

 

“本気ピラフ”を追究する私の執着心にはゴールはない。最近はホテルニューオータニとリーガロイヤルホテルに食べに行った。

 

まずはニューオータニだ。帝国やオークラとともに昭和の頃からブイブイ頑張っているホテルは、ニッポンの洋食の原点みたいな料理が一つのウリだ。

 



 

こちらのシーフードピラフも別添えソース付きの一品である。ニューバーグソースと称するクリーム系のソースだ。

 

普通に美味しかったが、我が心のふるさとであるホテルグランドパレスのピラフを基準にすると、ちょっと物足りない。

 

奇をてらっていない正統派の美味しさだが、ピラファー、ピラフィストである私が感激するような“非日常感”が足りない。

 



 

喫茶店のピラフや、ややもすると冷凍ピラフ的なあの風味の延長という感じだった。ちょっと評価が辛口過ぎたかも知れない。あくまで私の個人的な好みを前提とした感想だ。

 

お次はリーガロイヤルホテル東京のピラフだ。大阪の名門ロイヤルホテル系列である。名物のシーフードピラフは早稲田にあるこちらにも用意されている。

 



 

コロナ禍のせいで、カフェレストランはビュフェ専用になり、平日は閉まっている日も多い。今はガーデンラウジンでピラフを提供している。やたらとテレビドラマなどのロケに使われている場所だ。

 

ピラフはさすがの美味しさだ。味に奥行きがある。別添えソースこそ用意されないものの、あえてそうしているのかもしれない。ソース無しで完結している味という見方も出来る。

 



 

具材も賑やかだし、米に染みこんだ味に深みがあって幸せな気分になる。大阪ではこのピラフは昔から人気を誇っているそうだが、さすがの味わいだ。古き良きニッポンの洋食という印象だった。

 

やっぱりピラフは素敵だ。私を幸せにしてくれる。余韻を壊したくないから、変なラーメン屋で二度メシに挑んでしまうこともない。帰宅後のジャンク焼きそばの誘惑にも余裕で勝てる。

 

これから毎日毎日ピラフばかり食べていれば、ひょっとしたら痩せるかもしれない。

 

さすがにそれは無いか・・・。

2020年12月14日月曜日

マヨネーズへの愛を語ってみた

10年以上このブログを書いているが、今までマヨネーズについて語ったことがない。なぜか。。。書けば頭の中がマヨマヨになってしまい、しこたま食べてしまうからである。

 

マヨネーズはウマい。とてもウマい。そんなことは百も承知だが、あんまりアイツのことを考えてはいけない。

 

とくに中高年、とくにデブはマヨネーズのことが脳裏に浮かべばその瞬間に体重が増える。そのぐらいの破壊力をヤツは持っている。

 

だからこそウマいのだが。

 

このブログでいっぱしのグルメみたいに、旬がどーだ出汁があーだとイキがっている私である。さも味が分かっているようなフリをしているから「マヨネーズが大好きです」とはなかなか言い出しにくい。

 

マヨネーズに対する差別みたいなものだが、世の中に厳然と存在する“マヨ悪玉説”はなかなか深刻である。

 

だから私もタルタルソースのことばかりベタ褒めしてマヨネーズには触れないでいる。

 

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2014/03/blog-post_7.html?m=1

 

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2019/11/blog-post_18.html?m=1

 

タルタルソースはどこか高級感というか、シャレた雰囲気をまとった“料理”みたいなポジションに位置している印象がある。

 

タルタルソースだって、ぶっちゃけて言えばマヨが大半だ。でもマヨネーズという名前は隠され、類いまれな崇高な存在のように振る舞っている。

 

一方のマヨネーズは気の毒な存在だ。マヨ単体を喜んで味わっている姿は、何となくフンドシ姿を見られちゃったような気まずさがある。意味不明でスイマセン。

 

でも、今日ここでマヨネーズが大好きなことを宣言できて何となく晴れがましい気分だ。カミングアウトというヤツだ。

 



 

先日、某大箱系大衆寿司屋で「アボカドサーモン巻き」という邪道系メニューを注文した。マヨはまぶされておらず、上品に?横っちょに添えられていた。

 

当然、私はベチャッと塗りたくって食べた。ウマい。ただウマい。最高だった。寿司のウンチクを語りがちな日頃の自分が実にちっぽけで退屈な人物に思えたほどだ。

 

きっと、あと30年もしたら高級で凜としたミシュランなんかに載っちゃうようなこだわりの寿司屋でもマヨ系寿司は普通に出てくるようになるのだろう。

 

ついでに私が時々楽しんでいる禁断の「マヨ食」を紹介したい。だまされたと思ってせひ試していただきたい。図説つきで解説してみる。

 






 

・まず皿にマヨをブリュブリュと盛り付ける。

 ・そこに醤油をビャーっとかける

 ・心を込めてかき混ぜる。

・美味しくなーれとつぶやく。

 ・完成したヘドロマヨ醤油汁にハムを投入。

・ベロンチョとハムにヘドロを塗る

 

これを炊きたてのご飯とともに味わうのが最高である。ヘドロがハム経由でご飯にピトピトベチャっと混ざることで至高の味わいが完成する。

 

気持ち悪い、悪趣味だ、気が狂ったのか、などと思ってはいけない。冷静に虚心坦懐?にいろんな先入観なんかも捨て去って、淡々とここに書いた手順通りにやってみていただきたい。

 

ウマいです。



2020年12月11日金曜日

蘭ちゃん 柳の枝

 元気で頑張っているオジサン、オバサンを見ると励まされる。最近はイケメンならぬイケオジという言葉も普及してきた。高齢化社会である。それも必然だろう。

 

私が小学生の頃、胸を熱くしていた「蘭ちゃん」が御年65才にして初のソロシングルを発売した。

 




 

「恋するリボルバー」というタイトルのなかなかカッチョ良い曲だ。昭和歌謡の流れというか、グループサウンズ時代の香りも漂う中高年向きのゴキゲンロック調である。

 

シビれた。何度も聴いてしまった。キャンディーズ解散後、しぶとく女優として生き抜いている蘭ちゃんである。


 https://youtu.be/8-ZrKFibRN0


いまや64才以下の男はみんな「年下の男の子」である。あの曲はきっとオレのことを歌っているんだと錯覚していた小学生の私にとってはライバルがやたらと増えた気がする。

 

蘭ちゃんのソロデビュー曲はこちら。こんなノリの曲を引っさげて紅白に出て欲しいなどと、いにしえのファンとしては妄想を膨らませている。

 

話は変わる。木梨憲武と宇崎竜童と俳優の佐藤浩市が歌っている動画を見た。3人とも私より年上だ。50代、60代、70代である。

 

実に元気だ。ビックリである。こういう突き抜けたオジサマ達を見ると元気になれるからドンドン活躍して欲しい。

 

https://youtu.be/G6ycTCjRZ28

 

このコロナ禍を受けた社会不安の中で若者が心を病むケースが増えているそうだ。オジサマ達より若者が心にダメージを受けるのも少し分かる気がする。

 

中高年のほうが“達観の美学”みたいな感覚が強いのだろう。鈍感力の効用系みたいなものだ。開き直りしやすい性質が年齢とともに備わってくる。

 

「なるようにしかならない」「なんとかなる」。無責任というか、いい加減な感覚とも言えるが、時にはそんな姿勢が救いになることもある。

 

若いうちはアンテナが鋭いし、肩に入る力も強すぎるから、ピンと張った枝が折れやすいのと同じだ。

 

強風が吹き荒れてもゆらゆら耐えている柳の枝みたいなテキトーさが備わった中高年こそ、今のご時世、元気に振る舞うコトは大事だ。

 

先日、テレビでエレカシの宮本さんが昭和の女性歌謡をカバーしたアルバムのPRに出ていた。生演奏した「あなた」がとても心に染みて良かった。

 

小坂明子が大ヒットさせた昭和の名曲だ。YouTubeにもあったので貼り付けてみる。

 

https://youtu.be/TbhNC64-Bhg

 

気取った感じ、スカした感じとは別次元のぶっきらぼうなボーカルが彼の持ち味だが、このカバーも情感たっぷりで何だか心にグイグイ入ってくる。

 

この人は54才だ。中途半端な年齢ではなく正真正銘の中年である。昔の感覚でいえば、お年寄り一歩手前ぐらいと言われかねない歳だ。森繁久弥が映画「社長シリーズ」をやっていた頃より年上である。

 

今はこのぐらいの年代がまだまだバリバリ活躍できる時代だ。私も老け込んだり、疲れてばかりいるようではいけない。

 

森高千里は50才を過ぎても相変わらずやたらと可愛いし、やはりとっくに50を過ぎた織田裕二は自動車保険のCMで、なぜかいつも熱くなって怒りまくっている。

 

https://www.youtube.com/watch?v=JVGy9EBl9jM

 

いい歳して滑稽だなどと笑ってはいけない(ちょっと笑っちゃうが)。ああいう情熱はバカにしたものではない。

 

長寿社会のこれからの世の中は、今まで以上にパワフルなオジサマオバサマが増殖していくはずだ。

 

私も痛々しくならない程度に見習わないといけない。

2020年12月9日水曜日

寒さを楽しむ



 

冬といえばお燗酒である。朝と夜の12食のパターンで暮らしていると、夜、空腹に流し込むお燗酒の一口目が何ともウマい。まさに染み渡る感じだ。

 

燗酒の温度には好みもあるが、私は熱々にしてもらうのが決まりだ。徳利が持てないぐらいで丁度いい。お茶をすするぐらいチビチビやるのが嬉しい。

 



 

白子なんかをつまみに燗酒を楽しめば、冬の寒さを逆に有難く感じる。冬が来ることを嫌がっていたくせに「冬もいいねえ」などとテキトーなことをつぶやく。

 

寒さを逆手にとって楽しむといえば温泉だ。都内でも日帰り施設を利用すればそれなりに温泉気分が味わえる。

 

大学生の頃だったか、実家の近くに当時は画期的な日帰り入浴施設が出来て頻繁に通った。あれが“オッサン業界”に足を踏み込むきっかけだったと思う。

 

あれから30年以上が過ぎた今も改装を続けて営業しているようだ。機会があれば出かけてみたい。

 https://www.nagomino-yu.com/

 

今の住まいに引っ越す前はクルマで10分程度の巣鴨にある温泉施設によく行った。なかなかの穴場だった。

http://www.sakura-2005.com/

 

家庭人時代は豊島区に家があったので、ちょくちょく行ったのが豊島園の温泉だ。遊園地は閉園してしまったが、温泉施設はいまだに続いているようだ。

 

ここの屋外に設置されたサウナとジャグジーはかなり快適で、混雑する週末を避けて平日によく出かけた。

 http://www.niwanoyu.jp/niwa/

 

昨年から中央区に住んでいるから近隣で気軽に行ける温泉施設を探していたのだが、さほど遠くない距離になかなか立派な施設を見つけた。

 

この春、鳴り物入りで誕生した「有明ガーデン」の中にある「天空の湯」という施設だ。

 https://www.shopping-sumitomo-rd.com/ariake/spa-izumi/


有明ガーデンは映画館やホテルも入った200以上のテナントからなる施設だが、天然温泉があるのは嬉しい。平日の夕方に行ってみた。

 



 

天空の湯などと聞くと素晴らしい眺めの露天風呂がありそうだが、実際は吹き抜け上部が開いているだけだから、天空しか見えないという意味だ。

 

まあ、眺めはなくても露天だから冬は寒い。寒いから温泉が実に気持ちよい。ぬる湯とあつ湯の2槽に分かれているのも有難い。

 

屋内風呂にはジェットバス機能もあってこれまた快適。思ったより浴室スペースは大きくなかったが、サウナも2種類ある。湯上がり後にくつろげるスペースもあって充分快適に過ごせる。

 



 

平日の夕方に行ってみたのだが、ガラガラだった。これが有難い。

 

お年寄りの街・巣鴨の温泉施設などは週末になると「お爺ちゃんのゆで汁」みたいな温泉に浸かる必要があるが、有明あたりの平日はさほど混まないようだ。

 

駐車場からエレベーターでサッと行けるし、温泉施設の隣には有明ガーデンのレストラン街が広がっている。


 


あくまで平日しか見ていないが、コロナ禍のせいでレストラン街もガラガラだった。感染対策上もヘタに街中でウロウロするより良さそうな印象だった。

 

銀座あたりから車で10分ぐらいで行ける立地だ。なかなか便利な穴場スポットだと思う。

2020年12月7日月曜日

味噌汁エレジー

好き勝手に好きなものを食べて暮らしている日々だが、私に不足しているのが「味噌汁」である。

 



 

もちろん、マトモな料理屋で最後に味噌汁を頼めばやたらとウマい味噌汁にありつくことが出来る。

 

はたまた牛丼屋や定食屋だってたいしてウマくない味噌汁が黙っていても付いてくる。

 

私に欠けている味噌汁は「家庭の味噌汁」である。これだけはお金を出しても買えないシロモノである。

 

ちゃんとした料理屋で出てくる味噌汁はプロが作った逸品である。ウマ過ぎるぐらいだ。定食屋の味噌汁はたいてい妙に薄くてマズい。残したところで罪悪感も無い。

 

家庭の味噌汁はそれらとは一線を画す。家庭料理だから良くも悪くも雑だ。そこが魅力だ。時にはヘンテコな具も投入されている。

 

私が子どもの頃、実家の味噌汁に対して特別な思い入れも有り難さも感じたことはなかったが、今になって思い出すと何とも貴重?な一品だったように思う。

 

豆腐やお揚げ、もしくはシジミあたりが基本だったが、時々、残り物みたいな具が投入されていることもあった。

 

タマネギがドッサリ入っていたこともあったし、半熟卵が投入されることもあった。

 

見栄えなんて関係なく、腹を空かした子どもに「おかず」として食べさせるような意図もあったのだろう。

 

一人暮らしの今、あんな「我が家の味噌汁」を味わうことはない。こればかりはわざわざ自分で作ろうとは思わない。

 



 

自宅にはフリーズドライの味噌汁をストックしているが、滅多に飲まない。ヘタな定食屋の味噌汁よりは間違いなく美味しいのだが、何となく面白くない。

 

フリーズドライの味噌汁にお湯を注ぐ作業自体が好きではない。何だか冴えない。シャバダバである。自分が家庭人失格という烙印を押されたような気分になる。

 

やはり、家で飲む味噌汁は母親や奥さんが忙しそうにバタバタと、かつ面倒くさそうに作って、それを雑に盛り付けてこそ成り立つ一品だと思う。

 

日頃そんな味噌汁を味わっている家庭人の皆様は、当然ながらその素晴らしさに気付かず、何となく飲んでいるわけだ。私もそんな頃はあった。でも、あれはあれで実は得がたい逸品だということを今になって痛感する。

 

その昔、東海地方出身の人と暮らしたことがあった。当然のようにいつも赤だしの味噌汁だった。

 


赤だしが嫌いなわけではないのだが、私の育ってきた味とは全然違う。いつも違和感があった。でもいま思えば、ちょっと雑だったそんな味噌汁すら懐かしい。

 

その後の人生でも、家庭人を真面目にやっていた時は野菜がぶりぶり入った気持ち悪い味噌汁なんかも出された。今でも飲みたいとは思わないが、ああいう雑な味噌汁がある環境に身を置いていたことは懐かしく感じる。

 

やはり「家の味噌汁」という存在は、日本人にとって郷愁を誘う一品なんだと実感する。シングル生活を謳歌?している私には縁遠いものになってしまったことがチョッピリ残念である。

 

とはいえ、味噌汁のためにまた家庭を持とうとは思わない。さすがにそれはヘンテコである。不倫するのが楽しそうだから奥さんが欲しいという発想と同じで単なる論理破綻である。

 

よく分からない結論になってしまった。


2020年12月4日金曜日

今日は真面目な話

今日は久しぶりに真面目な話。ふざけた話が好きな方には退屈でスイマセン。

 

時代の流れとともに変わってきたのが「官僚」のイメージだ。私が社会人になった頃とは随分違ってきた。

 

30年ほど前は財務省もまだ「大蔵省」の時代である。大蔵官僚に限らず、官僚といえば日本でも図抜けて優秀な面々で緻密な行政運営に手腕を発揮している印象が強かった。

 

昭和、平成、令和と時が過ぎ、政治主導が色濃くなったせいだろうか、官僚に対する“物凄く優秀”というイメージが揺らいでいる。

 

GoTo事業のドタバタをみているととくにその思いが強くなる。とにかく後手後手。その一言だが、あまりにズサンだと思う。

 

冬に新型コロナの感染者が増加することは誰もが予想していた話。子どもだって分かっていたレベルの常識だ。

 

にもかかわらずGoToトラベルを例に取れば、感染拡大時の往来の制限方法やルールをまったく設けていなかったことは異常だと思う。

 

優秀なはずの日本の役人が、こうなったらこうする、ああなったらこうやるといった想定に基づいた運用をしていなかったことは驚きだ。

 

ただ場当たり的にバタバタしているだけ。何だか学園祭の実行委員会レベルだ。いや、学園祭を頑張っている人に申し訳ないほど低レベルだろう。

 

医療崩壊を防ぐためにコロナ専用の施設を臨時に設ける必要性も春から指摘されていた。

 

それこそオリンピック用に作った数々の施設がガランとしたまま放置されているわけだし、それに限らず、思い切って大規模な施設を転用したり、早めにいくつものホテルを借り切るなど、療養や隔離のための施設を準備しておくことは出来なかったのだろうか。

 

そのような施設の設置はあくまで自治体マターなのだろうが、国会審議を経ずに確保された10兆円もの予備費のうち、まだ7兆円も残っているのが実態。国が自治体と協調して準備するような動きもないままだ。

 

「政治主導」が叫ばれるようになってから官僚の“地盤沈下”は進んだ。昔は超優秀な学生はキャリア官僚の道を選んだが、いまではブラックな仕事内容が嫌われている。待遇面でも遙かに稼げる国際金融やIT系が人気らしい。

 

確かに一昔前より官僚の天下りは厳しくなり、各方面への影響力も以前ほどではなくなったのは確かだろう。

 

その分、国士と呼べるような大物官僚はいなくなった。単なる政治家のシモベみたいになる傾向は強まっている。

 

森友問題における財務省の公文書改ざん事件のように政治への忖度のせいで、あり得ないほど小賢しいインチキ仕事にまで手を染めるわけだから、ズレかたは深刻だ。

 

そうは言っても、多くの官僚たちは国を思い必死に頭脳を駆使して難しい仕事をこなしている。そう考えるとGoTo事業のドタバタなどは、単なる「政治家へのあてつけ」なのかと穿った見方もしたくなる。

 

政治家から思いつきの政策を丸投げされ、それに意見したり注文すると左遷されかねないから渋々と淡々と政策を運用しているだけという構図だ。

 

いわば、言うこと自体はとりあえず聞くものの実はソッポを向いているような感じである。

 

「はいはい、やっておきますよ。どうなっても知りませんけどね」といった感覚だ。

 

そういうことなら、GoTo事業などのトンチンカンぶりも辻褄が合う。だとしたら現状の官僚組織の動きは、国として構造的な大問題であり危機的な状態だろう。

 

政治主導という勇ましい言葉がもてはやされ、マスコミを始め誰もがそれを無条件に支持してきたのが、ここ1020年の国の形だ。

 

その結果が今の状態だとしたら悲劇みたいな話である。一強政権が生まれてしまえば、官僚組織は政権への忖度だけが最優先課題になる。

 

国民の安心安全という課題は二の次になってしまう。まさに悪循環である。とても危険だと思う。

 

2020年12月2日水曜日

3300円のモンブラン

富豪になりたい! とこのブログを書き始めて13年も経った。ちっとも富豪になる気配はないが何とかプチ贅沢をこなせる程度には生きている。

 

富豪といえば、自家用ジェットを持っていたり、ランボルギーニを日常の足に使うようだ。でも、そんなこれ見よがしみたいな路線は私の趣味ではない。

 

いや、単に無理なだけである。

 

そんな私だって人様が二の足を踏むような散財を繰り返している。もちろん、プチ散財ではあるが、ちょっとばかり富豪気分になる。

 

これまでのヘンテコな散財をいくつか挙げてみる。

 

1万円のふりかけを食べた話

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2014/11/1.html?m=1

 

5千円のそうめんを食べた話

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2017/08/blog-post_7.html?m=1

 

2千円のレトルトカレーを食べた話

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2017/08/2.html?m=1

 

1500円のタマゴでTKGを食べた話

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2018/10/blog-post_10.html?m=1

 

材料費3千円で牡蠣パスタを作ってみた話

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2019/02/blog-post_15.html?m=1

 

それぞれ結構な贅沢品だが、並べてみると富豪を名乗るほどではない。ちょっと背伸びをして少し贅沢な気分に浸っている程度の話だ。

 

そんな私のプチ散財履歴に新しい武勇伝?が追加された。

 

3300円のモンブランである。税別である。牛丼を10人ぐらいに御馳走できる値段だ。凄いことである。富豪みたいだ。

 



 

この秋、あちこちでモンブランを食べてきたが、ホテルニューオータニに「スーパーモンブラン」なる常軌を逸したメニューがあるあると聞いて気になっていた。

 

名前に「スーパー」をつけちゃうわけだから何とも自信満々である。スーパーマン、スーパーカー、スーパースター等々、スーパーをつけているのは物凄いヤツばかりだ。

 

スーパーマーケットやスーパー銭湯というビミョーなものもあるが、そこは触れないでおく。

 

スーパーモンブランはニューオータニのパティスリーで作られているマニア垂涎の一品だとか。ホテル内のカフェでも食べられる。

 

正直、味がスーパーかどうか私には判断がつかない。感想はとにかく「みっちりぎゅーぎゅー」だ。ボリュームが半端ない。



 

上質な和栗をふんだんに使っているそうで、今年は和菓子の名店などとともコラボして抹茶や葛も盛り込まれている。

 

https://www.newotani.co.jp/tokyo/restaurant/p-satsuki/super-series/montblanc/

 

モンブランが好きな大人の場合、原体験のモンブランは当然に昭和の頃のモンブランである。説明は省くがアレである。

 

栗クリームがまるで麺のように盛られている魅惑的なアレだ。栗風味があるのか無いのかよく分からなかったが、普通の生クリームとは違う独特なクリーミーさがウリだ。

 

あの頃のベタなモンブランに比べるとスーパーモンブランはまるで別モノ。上質な和栗の練り物という表現が適当だろう。好き嫌いが分かれるかも知れない。

 

まあ、はっきり言ってしまえば「3300円のモンブランを食べたことあるぜ」という10年は使える話のネタとしてはなかなかの存在感である。

 

いい歳したオトナが一人で食べきるのは不可能なほどギューギューぎっしりである。分量的にもスーパーだと思う。食べきれなかった。

 



 

数日後、ちょっと甘いモノが食べたくてローソンのモンブランを買った。300円もしなかったと思う。

 

スーパーモンブランより美味しく感じた。私の舌は富豪を目指すことを拒んでいるのかもしれない。