2021年4月30日金曜日

55歳年下の女

 ワイドショーではドンファン妻の逮捕で大盛り上がりである。時間から3年。忘れていた話が急に蘇った。



それにしても、逮捕まで3年もかかったのが謎だ。公判維持出来るレベルの証拠が新たに見つかったのだろうか。


3年前の事件直前にたまたまドンファン氏の著書を読んでいたから、突然の事態にビックリした覚えがある。


55歳年下である。ぶったまげである。私に置き換えたら今年生まれた赤ちゃんと結婚するような年齢差だ。つくづくナゼ結婚までしたがったのか、ドンファン氏の気持ちが不思議だ。


もともと美女とネンゴロになるためだけに金持ちになったと語っていた性豪だ。4000人と関係を持ったらしい。


セフレに留めておけば殺されなかっただろうに結婚にこだわった点が謎だ。ドライになり切れなかった純情爺さんだったのだとしたら気の毒である。


身体の付き合いだけでなく、安らぎみたいなものを求めるにしても、さすがに孫ぐらいの年齢差だ。長時間一緒にいるだけでくたびれちゃうと考えるのが普通だろう。



人間同士の相性なんて他人がとやかく言っても仕方ないが、シングル中高年として生きている私としては老後の自分の心理面を考えるにつけ、ドンファン氏の考えが気になる。


ちなみに45歳ぐらいの年の差婚で知られる加藤茶夫妻がドンファン事件のせいで、改めて注目を集めているのも皮肉だ。あちらは今も仲良しらしい。結局はよく分からない話である。


ちなみに今回の逮捕でドンファン妻が相続でボロ儲けすることはなくなった。遺産分割がどう揉めようが戸籍上の妻の権利は強いのだが、夫殺しの犯人となれば、相続欠格として相続人の地位を失う。


それにしてもあまりにベタ過ぎて本当にドンファン妻の仕業なのか信じられない気もする。100人いたら100人から疑われるような単純すぎる話だ。


おまけに3年もの間、海外に高飛びせずにぶらぶらしていたらしい。計画殺人ってもっと緻密なものかと思うのだが、そんなヌルいものなのだろうか。

2021年4月28日水曜日

お休み

 今日は更新が間に合わなかったので休載します。すいません!

2021年4月26日月曜日

大谷は歴史そのもの

 今日は大谷翔平選手についてあれこれ書こうと思ったのだが、書くのを忘れてしまったので、何年か前に野球について語った話を載せます。


大谷はもはや歴史であり、いま彼のプレーを見ているのは歴史の目撃者として貴重な時間だと痛感する。


彼のいる領域は世界の野球界が知らなかった未知のエリアである。凄さだけでなく美しさも特筆モノだ。


投球フォーム、バッティングスタイルともに流れるような美しさが際立っている。王貞治の一本足打法も芸術だったが、大谷翔平は存在自体が芸術になりつつある。


http://fugoh-kisya.blogspot.com/2014/11/blog-post_19.html?m=1

2021年4月23日金曜日

パレスホテル 伝統を食べる

 先日、久しぶりにしっかりとした夕食を食べた。普段は晩酌ついでにチマチマ食べることが多いから結構新鮮だった。

 

行ったのは皇居横のパレスホテルだ。もともとアマノジャッキーである私はカッチョ良さをことさらウリにする外資系シャレオツホテルが好きではない。

 

帝国、オークラ、ニューオータニなどのその昔の大御所ホテルのほうが落ち着く。パレスホテルもその一つだ。

 

オークラや赤坂のキャピトルホテルもそうだが、割と近年になって新装オープンした大御所ホテルは、ただただスノビッシュになり過ぎることなく、昔ながらの日本的重厚感がどことなく感じられる。

 

こうした昔からある名門ホテルは東京料理と呼べるような伝統的なニッポンの洋食に定評がある。

 

パレスホテルも大昔からローストビーフや舌平目のボンファムなどの名物がある。建て替えられてガラっと様子が変わっても、いにしえの人気メニューが残っているのが嬉しい。

 




 

アヒージョやパテなどを前菜にディナーを始める。いくらだか分からないがグラスのシャンパンをグビグビと飲み、中盤からはハイボールに変えた。

 



 

舌平目のボンファムは、昭和の高級料理を思い起こす懐かしい味わいだ。バターがたっぷり使われている。洋酒蒸しというかグラタン的というか、とにかくこってりクリーミー。

 

極論しちゃえば、魚の味を感じないぐらいコク深いクリーミーな味わいが口中に広がる。マカロニやライスを敷き詰めてもバッチリ合いそうな幸せな味だ。

 

分厚い肉が珍しかった昭和の頃には、ローストビーフと言えばこんな感じの上品路線が基本だった記憶がある。

 



 

舌平目とローストビーフはいわばパレスホテルの教科書的なディナーである。これで品良くフィニッシュするのが普通なのだろうが、私にとっての本番はこれではない。

 

私はピラファー、ピラフィストである。名物のシーフードピラフを食べずに終われるはずがない。

 

シャトーソースをまとわせる本気ピラフである。わがソウルフードである九段下のホテルグランドパレスのピラフが6月いっぱいで食べられなくなるから、それ以降は系列のこちらのピラフに世話になるしかない。

 




 

正直に言ってグランドパレスのピラフとはひと味違う。好みの問題だからどっちが上だ下だとは言えないが、似ていることは確かだ。

 

グラパレのピラフに関しては最近も書いているので省略。

 

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2021/04/blog-post_05.html

 

ちなみにこの日は4人での会食だったので、名物デザート「マロンシャンテリー」を注文するのとと同じぐらいのタイミングでカレーライスまで追加注文した。

 

ホテルのカレー。こう書くだけでウマそうだが、さすがにここのカレーも抜群だった。味が深い。その一言。タマネギの甘み旨味が凝縮されたザ・ニッポンの高級カレーそのものだった。

 

九段下のグランドパレスもカレーが非常に美味しいのだが、親分格のパレスホテルもさすがである。同じ味ではないのだが系統は同じ。スパイスばかりのただ辛いカレーとは別次元の料理だろう。

 

パレスホテルをヨイショするような話に終始しそうなノリで書き始めたが、結局はもうすぐ無くなってしまうグランドパレスへの思いが強く出過ぎてしまった。

 

いずれにせよ、ホテルで出てくる“本気ピラフ”の美味しさは一種独特な伝統文化の世界だと思う。

 

またすぐにでも食べたい。




2021年4月21日水曜日

お休み

 今日は都合により更新が追い付かなかったので、過去ネタを一つ載せます。


これを書いた頃より今はだいぶ鈍感で図々しくなってきたので、改めて「エエ格好しい」精神を思い出したいと思う。


https://fugoh-kisya.blogspot.com/2012/09/blog-post_14.html?m=1

2021年4月19日月曜日

幸せなデブ かつ吉 焼そば牛丼

「咳をしても一人」。有名な流浪の俳人・尾崎放哉の句だ。自由律俳句というよく分からない手法なのでこれでも俳句らしい。

 

これが俳句なら私だって似たような句を詠むことがある。

 

「息を吸っても太る」「くしゃみしても太る」。いかがだろう。自由律俳句として切ない深層心理を描いた作品だ。

 

というわけでデブである。年齢とともに基礎代謝が無くなったからすぐに太る。困ったものだ。コロナのせいで酒を飲む機会が減りしっかりメシを食べてしまうことも要因だ。

 



 

まあ、この歳になってこんなモノを喜んで食べてしまう精神性も大いに問題である。「すき家」が発売している「焼きそば牛丼」という魅惑の逸品である。

 

店で頼むのはちょっと恥ずかしい。パリッとした三つ揃いのスーツ、胸元にポケットチーフ、足元は英国制紳士靴である。「焼きそば牛丼、特盛りでね!」などとは言いにくい。

 

だからウーバーイーツのお世話になる。なぜか常に特盛りで注文する。デリバリーだとぎゅっと押し込まれているから上の画像も大したこと無さそうだが、肉もメシもガッツリだ。

 

牛丼の上に焼きそば。普通の人から見れば暴挙である。でも、いつもバカ食いしていた男の子の成れの果てである私にとっては納得の一品である。

 

ウマいマズいを語るようなものではない。ガッツリの牛丼の上に焼きそばが鎮座しているだけで崇拝すべき対象になる。

 

話は変わる。先日、久しぶりにトンカツを食べたくなって日本橋高島屋に入っている「かつ吉」に出向いた。

 

水道橋の本店には文京区在住時代にちょこちょこ行ったが、高島屋のテナントだとどことなく高級感が漂う。サービスも妙に丁寧だ。

 





高島屋店は2種類のトンカツソースの他に、ミソダレ、ねぎダレ、おろしダレの3点セットが用意されるのがウリらしい。

 

ソースマンである私は2種類のソースを混ぜ合わせて使う。他のタレはビールのつまみとして楽しんだ。

 



 

肝心のトンカツはいつもの悪い癖で店で一番高いヤツを注文する。特上ロースだ。


ちょっと脂身が多すぎたが頭の中がとんかつモードだったのでわしわし完食。

 

この日は一人メシだったから、これで充分なのにテーブルの上に複数の皿を並べたい私はロースカツの他にエビカツも注文する。

 

季節限定のシジミのクリームコロッケにするか悩んだのだが、タルタル人としての魂がエビを選ぶ。

 



 

ファストフードのエビバーガーの具材の高級版である。エビがギッシリ、タルタルソースととんかつソースをミックスしたデブダレでムシャムシャと食べる。

 

生ビールをジョッキで2杯、メインの揚げ物を2皿。ご飯は我慢しておかわりせずに一杯。箸休めの漬け物やサービス品の酢の物を少々。最後に味噌汁。

 

誰に気兼ねすることなく誰と喋るわけでもなくゆったりのんびりと過ごす。「孤独のグルメ」の世界ではないが、やはりこういう時間も悪くない。

 

太ることを気にしているのにこんな行動をしているようではデブの神様は微笑むだけだろう。帰宅後は当然のように太田胃散のお世話になった。


さてさて季節が変わっていよいよ冷やし中華サマの出番である。スーパーでもチルド麺の陳列が始まった。これもまた四季の風物詩と言えよう。


冬だろうと普通のラーメンを冷水で締めて常備してある冷やし中華スープをかければ食べられる。しかし、やはりラーメンとして誕生して熱々で食われようと覚悟を決めていた麺に申し訳ない気がするから、店頭に冷やし中華が並ぶのは嬉しい。ワクワクする。


私の自慢はもう何十年も冷やし中華の麺を1玉だけで食べたことがないことだ。自慢という話ではないが、常に2玉である。キンシタマゴもキュウリもハムも入れない。強いて入れるならチャーシューだけである。




具材を入れないんだから麺は2玉という絶対的法則がウン十年続いているわけだ。だから3玉入りのチルド麺はウマそうに見えても買わない。


昔は具を入れない冷やし中華なんて低カロリーだと信じて疑わなかった。ましてや冷たいしサッパリしているから、ひょっとしたらカロリーはゼロかもしれないと思ったこともある。


でもチルド麺の包装袋をじっくり眺めると結構びっくりなカロリー表示が記載されている。いつも見なかったことにしている。


というわけでデブの道ははてしなく続いていく。



 


2021年4月16日金曜日

カニなのかガニなのか



 

その昔、寿司に詳しい大人になりたいとアレコレと客の立場での修行?に励んだのだが、その延長線上でぶつかったのがカニである。

 

口にすれば誰もがウマいウマいと喜ぶのに専門店は少ないし、詳しい人も少ない。だったら自分が詳しくなろうと、15年ぐらい前に一念発起してカニをドシドシ食べるようになった。

 

毛ガニ、ズワイガニ、タラバにワタリガニ、上海ガニやヤシガニまであちこちで食べてきた。カニを食べるために全国各地を旅したこともある。

 

味の好みは人それぞれだから私の趣味を一方的に押しつけるわけにはいかないが、カニ食い修行のついでに学んだのはカニの味だけではない。カニの名前をめぐる奇妙な話である。

 

「カニ」と名が付くカニはいない。

 

なんだか禅問答のようだが、数え切れないほどのカニの中で「○△カニ」はいない。すべて「○△ガニ」である。

 

どうでもいい話ではなるが、実に謎めいている。小さい沢ガニも大きなタカアシガニも、ズワイもタラバも毛ガニもみんな「ガニ」だ。

 



 

ズワイガニの産地別の呼び名に過ぎない松葉ガニ、越前ガニ、間人ガニしても「ガニ」である。

 

どこかの産地が「○○カニ」というブランド名を勇気を持って命名しないかと注目しているが、まるで法律で規制されているかのようにガニガニ大攻勢状態である。

 

私が水中撮影マニアだった頃に出会った日本で一番ヘンテコな名前の生き物である「スベスベマンジュウガニ」も当然のように「ガニ」だ。

 

だからどうだという話ではない。理由も知らない。とにかく私は誰彼構わず「この世にカニなんて実はいないんだよ」と熱く語ってしまう。

 

とくにオチはない。。

 




 

さてさて、私が一番ウマいと思うのは毛ガニである。身もウマいがミソが堪らない。オレンジと黄色が混ざったような色合いが鮮度の良い証しだ。

 

思えば毛ガニという名前も随分と大胆だろう。毛がじょろじょろと生えているから毛ガニである。

 

世の中の生き物の中でそんな名前のヤツはいない。ライオンのオスのタテガミがもじゃもじゃ生えていても「毛ライオン」とは呼ばない。

 

オランウータンが毛むくじゃらでも「毛ザル」とは呼ばれないし、どんなにモジャモジャでも「毛鳥」なんてヤツもいない。


毛が名前に付いている生き物は毛ガニの他には「毛ジラミ」ぐらいである。あんまりだ。

 



 

にもかかわらず毛ガニは毛ガニという乱暴なネーミングである。ちょっと気の毒だ。

 

ズワイガニのズワイは木の枝の呼称に由来するそうで、タラバは文字通り鱈の漁場で揚がることが名前の元だ。

 

ワタリガニだって渡り鳥のように海を移動することが名前の起源らしいから、それらに比べると毛ガニという名前は残念だ。

 

北海道や青森あたりで人気のクリガニは毛ガニの仲間らしいが、毛ガニより知名度の点では劣る。でもトゲトゲを栗に見立てた立派な名前があるわけだから毛ガニの残念さは際立つ。

 

タラバは本来、種族的にはヤドカリの一種で足の数も少ない。味もどちらかといえば大味だ。ズワイは上モノはブランド化しちゃって妙に高い。

 

そんなこんなで私は毛ガニを愛しているのだが、愛している相手の名前がシャバダバなことはちょっと悲しい。

 

ボッキュンボンの峰不二子みたいな愛人がいたとする。そのコの名前が「トメ」とか「ツネ」だったら何となく切ない。そんな感じだろうか。。。

 

今日はカニの美味しさを力説するつもりが迷走してしまった。

 

全国のトメさんツネさん、ごめんなさい。



2021年4月14日水曜日

靴を愛する

昔より物欲が無くなってきたが、靴だけはついつい欲しくなる。靴以外に欲しくなるのはマンションぐらいだろうか。

 

私は結構な靴好きだ。このブログでもいろいろと靴の話を書いてきた。

 

いくつか紹介する。お好きな方はゼヒ覗いてください。

 

靴は人なり

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2019/01/blog-post_25.html?m=1

 

良い靴は

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2013/08/blog-post_28.html?m=1

 

ワインレッドの靴

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2016/07/blog-post_25.html?m=1

 

靴バカ一代  ロンドン編

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2016/07/blog-post_11.html?m=1

 

先日、久しぶりに気に入った革靴を買った。御殿場のアウトレットにフランスの洒落靴「J.M.WESTON」とイタリアの伊達靴「Santoni」の店舗があったせいで衝動買いをしてしまった。

 



 

左がサントーニ、右がウェストンである。両方とも相場よりかなり安く買えた。とくにウェストンはパリでも激しくセールしているのを見たことが無かったから随分トクした気分だ。

 

丸の内にあるウェストンのショップは妙に敷居が高いイメージで、いつも外から物欲しそうな表情で眺めるだけである。

 

そんな気の小さい?私にとってはウッシシな買い物だった。置き場に困るほど靴があるのに迷わず買っちゃうあたりが趣味の怖さである。

 

コロナのせいでヨーロッパに行く機会も無くなったから、せめてフランス気分、イタリア気分を味わえたらハッピーだ。いわば私の精神衛生を維持するための出費である。

 

良い靴は良い場所に導いてくれるらしいから、これで私の運気も上がるはずだ。


いつもそんな都合の良い解釈をしながら生きている気がする。

 

コロナ禍のいま、人に会う機会が減ったことで身につけるモノに無頓着になりがちだ。

 

私も職場にラフな格好で出かけても問題は無いのだが、やはり“スイッチ”を切り替えるためにカチッとした格好で出かけている。

 

ネクタイを締めスーツを羽織って、お気に入りの革靴に足をすべらせた瞬間にスイッチが入る。昔からオンとオフの切り替えが大事だと思っているので、この部分は今も変えずにいる。

 

普段着の時も外出する際は気にいった靴を履きたい。「良い靴は良い場所へ・・・」という迷信を信じればこそだ。

 



 

先日、数年前に買ったスニーカーが壊れた。ランボルギーニのスニーカーという物珍しさで手に入れたものだが、やはり専業靴メーカーの製品ではないから造りがテキトーだったのだろう。10回ぐらいしか履いていないのに簡単にダメになった。

 

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2016/04/blog-post_4.html

 

普段用にもいくつか明るめの色の革靴を持っているのだが、ラフな服装の時はカジュアル靴の出番である。運動靴っぽくないスニーカーが年齢的にもシックリくる。ちょっとした旅行の際も便利だ。

 

 




 

上はコール・ハーン、下はクラークスのゴム底快適靴だ。丈夫で歩きやすいこんな感じの靴もいくつも欲しくなる。

 

青系のスニーカーは他にも持っているのだが、“ランボルギーニ”が壊れちゃったせいで、新たに青系のスニーカーも手に入れてしまった。

 

「壊れちゃった」という理由、いや言い訳もなかなか悪くない。新しいものを買うことに罪悪感を持たずに済む。ちょっと嬉しい。

 



 

シャレッ気のあるスニーカー造りが得意なサントーニの一足だ。歩きやすさの点でも優秀だ。クラークスよりも気分もアガる。

 

なんだか話がまとまらなくなってきた。

 

ちなみに、運動目的で本気で散歩する時に必ず履くのが薄汚れてきたニューバランスのスリッポンスニーカーだ。

 

カッチョ良くないし、気分もアガらないのだが、軽さ、クッション性いずれも最高だ。すこぶる歩きやすい。

 



 

いつも履いた瞬間に歩く気満々になって、2万歩でも3万歩でも歩けそうな気分になる。実際には1万歩がせいぜいだが、かなり快適な散歩が出来る。

 

バカ高い靴も含めて何十足も持っているのに、セールで6千円ぐらいで買ったこの靴が一番履きやすいなどとは口が裂けても言えない。

 

言えないけど書いてしまった・・・。




2021年4月12日月曜日

タケノコ、ホタルイカ、ハマグリ

季節ごとにウマいものを食べられるのは日本人の幸せな点だ。四季それぞれの変化を食で感じられることは私のように食い意地の張った人間には有難い。

 



 

先日、近所の焼鳥屋さんでタケノコを焼いてもらった。焼鳥を焼く炭台で丁寧に仕上げられたタケノコの香りは春そのものである。

 

若い頃は季節感に関係なく好きなものを食べていたが、年齢とともに季節モノに惹かれるようになった。年の功みたいなものだ。加齢も悪くない。

 

春到来とともにやたらと遭遇するのがホタルイカだ。酢味噌で食べたり、ショウガ醤油で食べるのが一般的だが、一工夫した食べ方も楽しい。

 



 

銀座にある何でもウマい店「そうな」で食べたのはカラスミをぶりぶりかけたバージョンだ。激的に美味しかった。

 

この店で必ず食べるカラスミビーフンと被ってしまったが、ホタルイカの濃厚なはらわたのせいで口の中に広がる味は別物だ。

 




カラスミをまぶしてネチョネチョっとさせた画像がこちらだ。見るからにマズいはずがない。酒のアテとして抜群の一品だった。

 

ホタルイカの食べ方はついワンパターンに陥りがちだが、一工夫すると楽しみが広がる好例だろう。

 

春と言えばハマグリも美味しい時期だ。普通に酒蒸ししてもらうだけで充分ウマい。さほど特徴的な味わいではないが、ハマグリ独特の味わいもオジサマ世代向けと言えるだろう。

 



 

シジミ、アサリもウマいがその系統の大親分みたいな姿が美しい。エキスが染み出た汁の味わいは日本代表と呼んでもいい。

 

さきほどの「そうな」を訪ねた際は、バター炒めで食べた。ホッキやホタテなどもバターとミックスすることで貝の甘さが引き立つがハマグリも然りである。

 



 

美しいハマグリがバターと融合することでウマい汁が一層芳醇に変化している。器の中でほうれん草の緑色とコラボして何とも魅惑的だ。

 

まさに器の中でショーが繰り広げられている感じだ。ハマグリのショーである。「ハマショー!!」だ。意味不明でスイマセン。

 

普通に食べればヘルシーな印象で、バターと合わせれば一気に不良っぽい色気が漂う。ハマグリ恐るべしである。

 




 

ハマグリといえば寿司屋で食べる煮蛤も捨てがたい。東京寿司の定番だ。いまどき“煮ハマ”を常備してある店ならマズいものに当たる心配はほぼ無い。

 

二枚の画像のうち下の画像は新富町の「なか山」で食べた一品。上の画像はどこの店だったか忘れてしまった。いずれにせよ、東京の寿司は一仕事を施した“非ナマ系”に面白さがある。

 

マグロのヅケ、白身の昆布締め、コハダに穴子、茹で海老に煮ハマ、タマゴにかんぴょう巻き。そんな顔ぶれが美味しい店なら結局は間違いなく良い店だと思う。

 

ちょっと話は逸れるが、この1年ぐらいの間に私の職場の近くと自宅の近くに良さそうな雰囲気の寿司屋が合計3軒も新規開業していた。

 

気になって下調べしてみたらどの店もコース専門だとか。コース専門の寿司屋ばかりが増殖している現状は何ともヘンテコだ。

 

あくまで個人的な考えではあるが、そんなものは寿司屋じゃないと思う。カウンターを挟んで職人と対峙する意味がまるで無い。

 

客と店側がお互いの経験や知識などの引き出しを覗き見しながら、その日の気分や状況に合わせて好きなモノを好きなペースで楽しむのが寿司屋のカウンターという世界だ。

 

そんな大原則を取っ払ったスタイルは、人によっては便利でラクチンなのだろうが、個人的にはちっとも興味がわかない。

 

そういう店ばかりがネットで評判を集めて予約の取れない人気店になり、おまけに随分と強気な値段設定だ。都内中心部ではいつのまにかそんなパターンが広まっている。それを客も当然だと思い込む。

 

実におかしな状況だと思う。

 

何だかハマグリの話から随分と脱線してしまった。スイマセン!

 

  

2021年4月9日金曜日

コメの力



 

肉寿司である。あまり得意ではないのだが、仕方なく食べてみたら美味しかった。脂っぽい牛肉は敬遠したくなるが、コメの力でウマいウマいと食べてしまった。

 

八丁堀にある「梨の家」という焼肉屋さんで出てきた一品だ。この店は最近メニューを一新し、いろんな部位の肉が一枚単位から注文できるようになったので、焼肉があまり得意ではない私にも使い勝手が良い。

 

肉寿司を美味しく食べられたのはひとえにコメの力である。考えてみればコメが全てを支えているような食べ物は多い。脇役なのに主役と同等の働きをしているパターンである。

 



 

カレーやシチューを食べる際にはコメが無ければ話にならない。時々、レトルトカレーだけで酒のツマミにすることがあるが、やはり物足りない。コメがあってこそ成り立つ食べ物だ。

 

ちなみにこの画像の合い盛り状態は私の悪い癖である。レトルトのカレーやシチューの中にはマズいやつ、いや、自分の好みとは違う味の商品もあるため、未体験のレトルトを食べる際には2種類を合い盛りにしてマズかった場合に備える。

 

贅沢な自衛策である。エンゲル係数をまるで考えないこういう行動が私の体脂肪を増やし貯金を減らす。

 



 

こちらもコメありきの代表格である鰻重である。この画像は築地宮川本店での一枚。もちろん、ウナギは蒲焼きだけでも充分ウマいが、鰻重の完成度は別格だ。

 

硬めに炊いたタレが染みた白米が蒲焼きとともに口の中で融合する瞬間は、まるで口の中に神が舞い降りたかのような幸福を感じる。やはりコメの力を感じる。

 

某日、カニ飯が食べたくなって日本橋の「かに福」に出かけた、名物の「御かに飯」が人気の店だ。

 

以前にも食べたのだが、その時は満腹だったので一口二口そのまま味見した程度。本来の出汁をかけて食べるスタイルで味わったのは今回が初めて。

 



 

カニしゃぶの余った身も加えて絶妙な旨味の出汁をかけてかっ込んでみた。いやはや滋味の極みである。究極のオトナの味と呼んでもいいかもしれない。

 

これにしても仮にコメが無かったとしたらまるで別な物になってしまう。単なるカニの出汁がけだ。それでは感動は100分の1だろう。

 

単なる白米なのにそれがすべてを支配するかのような威力がある。普段何気なく食べているコメの力は想像以上に凄いわけだ。

 

別な日、珍しくビストロ的な店に行く機会があった。京橋にある「バンザイヴィーノ」というカジュアルな店だ。

 

以前、ウーバーイーツでこの店の「ポルチーニのリゾットオムライス」を注文してそのウマさに悶絶したので実店舗を訪ねてみたくなった。

 



 

オムレツで包んだリゾットはウーバー専用だったみたいでメニューには見当たらない。そのかわり「鴨ロースとポルチーニの土鍋リゾット」があったのでそれを注文。

 

ポルチーニ味のリゾットは理屈抜きにウマい。乾燥ポルチーニの戻し汁だと思うが、あのかぐわしい風味とコクがしっかりとコメを包んで悶えるほどの美味しさだ。

 

リゾットでも幸せなのだが、いま私が物凄く食べたいのがポルチーニのピラフである。ネットで時々調べてみるのだが、そのようなメニューを用意しているレストランを見つけられない。

 

ありそうでないメニューなんだろうか。都内中心部あたりでそんな料理を出すレストランがあればぜひ教えて欲しい。

 

冷凍食品の世界では「トリュフ香る3種のキノコのバターピラフ」(ニチレイ)や「芳醇ポルチーニクリームリゾット」(明治)などが存在していたが、両方とも今では手に入らない。

 

入手できないとなるとやたらと欲しくなるのが人間の業である。抜群にウマいポルチーニピラフをチャッチャと作ってくれる女性がいたら、きっと私は同棲を申し込むような気がする。




 

2021年4月7日水曜日

ちゃんとした人

何度目かの独身生活になって丸8年が過ぎた。すっかり自分のペースが染みついて勝手気ままに生きている。

 

それはそれでハッピーなことだが、大袈裟に言えば、糸が切れた凧みたいな感覚もある。

 

時々、これで良いのかと自問自答するのだが、答えはいつだって「これで良い」である。そんなもんだ。

 

そんな私がちょっと充実した気分になるのが子供サービスに励む時だ。“元家族”で年に2度ほど小旅行に行くのが習慣になっているのだが、さすがにその時間は「ちゃんとした父親」みたいな顔で過ごす。

 

この時ばかりは何となく自分が「真っ当な人」だと認識できて妙な安堵感がある。うまく表現できないが、家庭人として失敗した負の部分を少しだけカバー出来たような感じとでも言おうか。

 



 

先日、箱根の仙石原のほうに1泊で出かけた。ここ数年で何度か訪ねている東急ハーベスト系の「翡翠」というリゾートホテルだ。

 

中学3年になるダウン症の長男にとっては、昨年一人暮らしを始めた姉も合流するし、甘甘父ちゃんがやたらと遊んでくれるハッピーな時間だ。

 

今回も私のほうが湯あたりするほど一緒に温泉で遊んだ。そろそろ体力面で息子に勝てない部分が多くなったことを感じる。“いとをかし”である。

 



 

夕飯は宿ではなく、歩いて数分の距離にある餃子中心の町中華に行く。ここも毎度訪ねている勝手知ったる店だ。食べ盛りの息子は気が狂ったように餃子とラーメン、肉料理をがっつく。

 

翌日は御殿場アウトレットに出かけて散歩に励んだり遊具施設で遊ぶ。一緒に暮らしているわけではないので、私もここぞとばかりに息子優先で行動する。そんな面倒くさい感じも時には悪くない。

 




さんざん遊んで夕方東京に戻った後は回転寿司に行く。これまた食べ盛りの息子が主役だからなかなか楽しい。

 

息子は王道系のマグロや白身、イカを中心にばくばく食べていたが、私はコーンマヨやらサーモン何ちゃらマヨみたいな回転寿司ならではの変わり寿司をガっつく。

 




 

帰宅した日、息子は12時間ぐらい寝たらしい。よほどフルパワーで楽しく過ごしたのだろう。ホスト役?の私としても大満足である。

 

最初にも書いたとおり、息子のために過ごした時間ではあったが、私自身の精神面にも癒やし効果があった。まとわりついてくれる子供がいることは幸せなことだと思う。

 

別な日、杉並区にある実家に出かけた。高齢の母親のご機嫌伺いである。「実家の親を訪ねる」という行動も、自分が“ちゃんとした人”だと認識できるから大事なことかも知れない。

 

実家の庭には樹齢80年ほどの桜があるのだが、見頃は逃したものの花びらの絨毯状態が圧巻で、ライトアップした夜は何とか妖艶な感じも堪能できて良かった。

 





 

実家といっても建て替えているので、私が暮らしていた家ではない。郷愁みたいな感覚は無いのだが、庭自体は私が子供時代に過ごした名残りがある。しばし懐かしい気分になる。

 

母親にとってはいくつになっても息子は息子だから話したいことは山盛りみたいだ。ウーバーイーツで中華料理を注文してアレコレと話に花を咲かせた。

 

会おうと思えばすぐに会える身内がいて、その身内が私と会うことを喜んでくれるのは、考えてみれば幸せなことだ。

 

気ままな暮らしといえどもこんな時間も織り交ぜないと無軌道に走りがちだ。結局は身内に救われている部分が大きいと感じる今日この頃である。

 

2021年4月5日月曜日

さらば愛しき一皿

いよいよカウントダウンである。あと3ヶ月だ。オリンピックのことではない。わがソウルフードである「グラパレのピラフ」が食べられなくなる日が迫っている。

 

九段下のホテルグランドパレスは6月末で営業を終了する。かつては金大中が誘拐され、桑田清原の運命を決めたドラフト会議も行われていた老舗ホテルだ。

 

1階のカフェテラス「カトレア」は私にとって思い出の場所だ。幼稚園から高校まで近くの学校に通った関係で、参観日や保護者会などのたびに母親に連れてきてもらった。

 



 

幾度となく改装されてきたが、窓から見える滝は昔と変わらない。カッチョいい高級ホテルが林立する今となっては。チョッピリうらぶれた雰囲気もあるが、そのレトロ感も悪くない。

 

幼い頃は母親軍団のオシャベリ大会の横で待機していた記憶がある。そんな時、私の目の前にはいつもピラフがあった。

 

シャトーソースという魅惑の液体をかけて食べるピラフである。これが大好きになってから半世紀近く。今も大好物である。


先日も千鳥ヶ淵に桜を見にいったついでに愛しのピラフを大盛りで食べてきた。いや、ピラフのついでに花見をしたようなものだ。

 



 

あと3ヶ月でオサラバかと思うと心底淋しさを感じる。小中校の頃だけでなく大学生の頃も友人達と合流する際に頻繁にこのカフェテラスを使った。

 

大人になってからも思い出してはピラフを食べに出かけ、家庭人だった頃も子供を連れて何度も出かけた。

 

家族がビュッフェを楽しんでいる横で、単品注文したピラフを黙々と食べたことも何度もある。

 

昔は海老やチキンのピラフもメニューにあったが、いつの頃か貝柱のみになってしまった。それでも魅惑のシャトーソースは不変だから飽きずに食べ続けてきた。

 

まさに私のソウルフードである。ふるさとの味と呼んでも大袈裟ではない。オフクロの味ならぬオフクロに食べさせてもらった味である。

 



 

このブログでも以前から「ピラファー」だの「ピラフィスト」だのを自称してピラフのウンチクを何度も語ってきたが、その原点こそがこのグラパレのピラフである。

 

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2012/03/blog-post_12.html

 

ここでピラフを食べるたびにウマかったことを書きたくなって何度も書いてきた。安定安心の美味しさである。

 

初めて書いたのはもう13年も前のことだ。その頃から既に思い出の味だったわけだ。

 

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2008/09/blog-post_11.html

 

これを書いたときにグラパレのピラフについて「正統な東京料理」と表現したが、今もその通りだと思う。私にとって昭和の東京の郷土料理である。

 

系列のパレスホテルでもシャトースース付きのピラフはあるのだが、グランドパレスとは味わいが微妙に異なる。あくまで別物だ。

 

すべてのモノには寿命があるが、この別離は実にツラい。ここのシェフ経験者に喫茶店でもいいからシャトーソースピラフを引き継ぐ店を出して欲しいと切に願う。

 

クラウドファンディングにそんな話があったら喜んで多額の資金を出す。結構頑張って資金提供すると思う。

 

思えば、50年近くに渡って同じ店の同じモノを大好物として食べてきたことは幸せだ。

 

それだけの年齢になってしまったことも事実だが、そんな食べ物に遭遇できたことはラッキーだった。

 

あと3ヶ月、少なくとも5回は食べに行きたい。最後の最後にはきっと号泣しながら食べるのだろうか。

 

さすがにそれはないか。いや、歳とともに涙腺がゆるくなってきたから案外ポロポロと涙がこぼれるかも知れない。


2021年4月2日金曜日

敬語萌え

 昭和の家庭ドラマには、いにしえの日本の原風景みたいなシーンがよく出てきた。ちょっと大袈裟な書き出しだが、今日は「敬語で萌える」がテーマである。

 

古く良き日本の家庭では、奥さんが旦那さんに敬語を使っているイメージがある。

 

「お疲れ様でした。お風呂にしますか?」

 「うむ、先にメシにしてくれんか」

 

別にどうってことのない会話だが、何だか古風な感じがしてカッチョいい。ジェンダーがどうしたこうした騒々しい今の世の中では考えられない感じだ。

 

敬語のキチンとした感じは素直に心地いい。だから私も親しくなければ年下にも敬語を使う。タクシーに乗っても飲食店のバイトの若者にも敬語で話す。

 

相手が年下だと分かると一気に敬語をやめてしまう人がいるが、あれは野暮の極みだろう。マウントを取りたがる人みたいで苦手だ。

 

若い頃、目上の人から敬語を使われると、その人がキチンとした人に見えてそれだけで立派に思えた。

 

その分、距離感も生まれるが、人付き合いで大事なのは距離感だから妙に距離を詰められるよりはマシだ。

 

ウダウダ書いてきたが、本題の敬語萌えに移ろう。

 



 

深い仲になった男女の会話に敬語が使われることは「いとをかし」である。ベッド敬語である。ムフフ敬語である。

 

意味不明でスイマセン。

 

「上になろうか?」と「上になりましょうか?」のどちらが萌えるか。当然ながら後者である。

 

「口でする?」、「口でしましょうか?」。「脱がせて」、「脱がせてください」。これまた全然違う。

 

さっきも書いたが、敬語とは距離感の証しである。それなのに最も距離が近い場面で繰り出すわけだから非日常感の極みだ。

 

別に威張りたいわけではない。上とか下という意味でもない。DNAに刻まれた狩猟本能というか、征服欲みたいな感覚が敬語萌えの心理なのかもしれない。

 

いろいろとむき出しの状態なのに敬語を使うという展開が背徳感にもつながるわけだ。ちなみに、そんなことを大真面目に考察したところで何の意味があるのかと私を責めるのは禁止です。

 

3年前にも敬語フェチの話を嬉々として書いていた。まるで進歩がない自分がちょっと心配になる。

 

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2018/03/blog-post_12.html

 

いや、調べてみたら昨年も同じような話を載せていた。すっかり忘れていた。いよいよ自分の脳の劣化が心配になる。

 

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2020/07/blog-post_3.html

 

相も変わらずバカ話を書いてしまってちょっと反省である。でもここまで書いてしまった以上、ヤメるのもシャクだから続ける。

 

何だかんだと歳を重ね、今では世の中の半数以上が私より年下である。すなわち敬語で話しかけられる場面は年々増える一方だ。

 



 


 

ましてやムホムホな展開になる場合には、必然的に相手は年下ばかりになる。敬語萌えが一種の趣味と言える私にとっては幸せな状況ともいえる。

 

さすがに私の歳になって年上をクドくような場面にはまず遭遇しない。それはそれで、怖いもの見たさ的な興味がないわけではないが、たぶん相手はベッド敬語は使わないはずだ。その点が問題だ。

 

友人とバカ話をしながら飲んでいる際に、「深い仲になった相手の最高年齢はいくつか」というテーマになったことがある。

 

奥さんと仲の良い面々は現在進行形!だから今でも相手の最高年齢は更新され続けている。

 

これって結構素敵なことだと思う。ある意味、人として勝ち組みたいなものかもしれない。トゥルーラブの世界である。

 

私は別にロリコンでもないし、若い人にしか興味がないわけではないのだが、“成熟したオトナの女性”には残念ながらあまり縁が無い。

 

成熟した大人の女性が何歳からを意味するのかは、自分なりに決めてはいるが、世間の感覚とズレていたら恥ずかしいので内緒だ。

 

いずれにせよ、不戦勝の相手ばかり探しているようではオジサマ失格だから、もっと違う視点で奮闘努力しようと思う。