2017年10月30日月曜日

カニ おでん モツ鍋


大のオトナが痩せたいだのダイエットだのを語るのはカッチョ悪いが、このところ、プチダイエットが楽しくなってきた。

一応、2週間ほどで3~4キロは落ちた。小柄な女性なら凄いことだが、「分母」の数字が天文学的な私にとっては、ほんの2~3日で元に戻っちゃう数字ではある。

あと3キロぐらい落ちれば血液検査のコレステロール値も抜群に良くなるはずだが、ここからの道は険しい。

だいたい、毎晩のように楽しく酒を飲んでいるようではダメである。明日もウナギ屋を予約してある。ちょっと真剣味が足りない。

でも、「意識高い系」の若造じゃあるまいし、ストイックに節制するのも何かに負けた気がする。このぐらいのヌルさで丁度いい。

プチダイエットの内容は、日本酒を焼酎に変え、夜の炭水化物と油モノをやめてお菓子の間食を我慢するぐらいである。

それでも少しは体重が減るのだから、いかに普段どうでもいいものを口にしているかが分かる。


カニである。先日、とある会食の際、私が店選びを任されたので久しぶりに「かに道楽」に出かけた。

カニはやたらとカロリーが低い。ほとんど水分みたいなものである。天ぷらやカニ寿司みたいなメニューを避けて、刺身や茹でガニを黙々と楽しんでいれば痩せる。


おまけに私はカニが大好物である。大好物を食べながら痩せられれば最高だ。サラダや鶏のササミなんかでダイエットしていたら心がささくれ立つ。

葉っぱを食って空腹を紛らわすなんてゴメンだ。まあ、そんな強気なことばかり言っていると太っちゃうから気をつけよう。

富豪を目指す男としてカニをむさぼって痩せるという行動パターンはなかなか素敵だと思う。


おでんも私にとって強力な味方だ。これまたカロリーが低い。熱いから大口開けて頬ばれないのも良い。おでんの大根は好きではないが、最近は常に空腹だから嬉々として食べる。

この画像は銀座の「おぐ羅」で撮った。おでん以外の一品料理もウマいのだが、カニ味噌や刺身をちょっとだけもらってチビチビ楽しむ。


薬味がテンコ盛りのカツオのたたきを食べ終わった皿に投入してもらうおでんの豆腐が最高だ。残しておいた薬味が熱々の豆腐を冷ましてくれるし、ポン酢風味が豆腐とマッチして幸せになる。

別な日、付き合いでモツ鍋屋に行った。大衆酒場でホッピー片手にモツ煮やモツ焼を食べる機会は多いが、モツ鍋専門店に行く機会は滅多に無い。

イマドキのモツ鍋屋はそれなりにシャレていて、若者がデートや合コンに使っている。ちょっとビックリだ。

「モツ鍋イコール危なげなオヤジの食い物」という私の固定観念は既に時代とは大きくズレているようだ。


運が良いことにこの日は重度の二日酔いが夜になっても治まっていなかったので、クドいものを食べる気にならず、梅キュウをツマミにハイボールで迎え酒。

モツ鍋が目の前でグツグツ煮えたぎっていたが、梅キュウの他には赤身の馬刺しを突つきながら傍観者と化す。

気付けば鍋のモツは無くなって、クタっとした野菜ばかり。仕方なくスープだけ飲んでみた。ベリーグッドである。ウマみが染み出てジンワリ暖まる感じ。

スープだけで充分ウマい。これは“ダイエッター”にはもってこいである。見方を変えれば「おいしいトコ取り」である。

体重を気にせず食べられるウマいものは結構ある。その意識を忘れずにこの2週間ぐらいの食生活を1年間ぶっ通しで続ければ、きっと私のスタイルは「竹内涼真」みたいになるはずだ。

でも、その前にストレスがたまって頭髪が「松山千春」になりそうだから、無謀な挑戦はやめておこう。

2017年10月27日金曜日

某月某日 勝った日


ある日、仕事上の厄介事がとても良い方向に決着したので、ホッとする。ホッとしたせいで何だかどっと疲れて真っすぐ帰宅。

不思議なもので家に着くと妙に元気になる。お気に入りの備前の徳利と唐津のぐい呑みで晩酌しようかと考える。でも、ロクなツマミが無い。

で、近場のウナギ屋にでも行って祝い酒と洒落込もうと計画変更。いそいそと出かける。

ふと気付く。ダイエットに励んでいたはずだ。ウナギは厳しい。シメの鰻重をご飯抜きで食べるのは拷問である。

またまた計画変更。結局、小石川方面に向かうはずだったタクシーに「やっぱり銀座まで」と伝える。

せっかく真っすぐ帰宅したのにアノ街が私を呼んでいる。

ダイエットに最適なのは馴染みのお寿司屋さんである。食べる量に関してワガママが言える。

たどり着いたのは8丁目の「S」。運が良いのか悪いのか、珍しくガラガラである。大将とバカ話をしながら夜が始まる。

刺身も珍味もちょこっとずつ出してもらう。煮ダコ、イクラ、白子あたりをまるで沖縄の豆腐ようを爪楊枝で食べるかのようにチビチビ食べる。

天然ウナギがあったので、極小サイズの白焼きにしてもらう。日本酒が飲みたかったが、カロリーを考えて焼酎一本勝負でグビグビ。

訪ねたのが中途半端な時間だったので、いつのまにか客は私一人になってしまった。アーだのコーだの言いながら調子よく飲む。

「チビチビ食い」といえども酒の力は有難い。酩酊するうちに空腹感はなくなる。握りを食べないヤボな客になってしまったが、一見客ではないから許してもらう。

この店の大将とは何年か前に二人きりでカラオケボックスで熱唱し合ったこともある。その時の話で盛り上がったついでに、「歌でも歌いに行くか」という悪魔の誘い?を繰り出す。

大将は店の若い衆に段取りを指示してから合流するとのことで、一足先にクラブというかスナックというか、妖怪屋敷のような店に久しぶりに足を運ぶ。

ここもまた客が一組しかいない。寿司大将との歌合戦にはもってこいである。


ちょっとしてから大将が合流。差し入れとして豪勢な巻きものを持参してきた。イクラやウニがぶりぶりだ。ダイエッターである私をイジメているとしか思えない所業だ。我慢して妖怪の皆さんに食べてもらう。

で、二人でドシドシ歌う。「中島美嘉」から「西城秀樹」「テレサテン」まで何でもアリである。大将は40代半ば、声が太いし歌唱力も高レベルである。「EXILE」なんかも歌っちゃう。

オジサマバンドのボーカリストとしては負けてはいられない。私にしては珍しくガンガン熱唱した。「ハマショー」はもちろん、「プリプリ」から「ゆず」、「福山雅治」から「太田裕美」までランダムに歌う。

この店のママさんはイケメン大将がお気に召したようで、我々の席に着いたまま時に自分も歌い出す。これがまたかなりのレベルでボーカリストである私は自らの修行の足りなさを痛感する。

で、結局、誰かが歌う中島みゆきの「糸」に心を揺さぶられながら、ふと時計を見たら何と午前3時である。

時計の針を見た途端に「疲れたから真っすぐ帰宅したはずの自分」を思い出す。ちょっと混乱する。

「糸」を聴きながら揺れていたのは、純粋な心ではなかった。おそらく酔いと眠さで視界がふらついただけである。

その後、「シメの1曲」が2曲になり3曲になり、脳ミソがほぼ活動停止状態になる。

そして、ふと気付けば猛烈な空腹である。大将とママさんと「シメの食事」を食べに行くかどうか話したような記憶があるが、心を鬼にして帰ることにする。

3時半頃の銀座はタクシーの乗車制限もなくどこもかしこも空車だらけ。実に素晴らしい光景だ。夜遊びを真面目に頑張った人へのご褒美みたいなものだ。千鳥足で乗り込む。

帰路、タクシーの中で猛烈な空腹と闘いながら、ふと家の近くで新聞配達を始めた自転車が目に入る。

私が目にしている光景は夜じゃなくて朝だと気付く。私の中の悪魔が囁く。

「朝ご飯なら食べちゃってもいいんじゃない?」。

私の中で悪魔と天使がせめぎ合う。有難いことに天使が派遣してくれた睡魔と疲労という強力な助っ人のおかげで、何も食べずに水だけガンガン飲んで寝た。

その後、ヘロヘロになって起きた後に計った体重は前日より2キロ近く減っていた。

完全勝利である。

2017年10月25日水曜日

おひとりさま 自意識過剰


今の世の中、おひとりさま需要を取り込むことがいろいろな商売のキーワードになっている。

カラオケの世界での「ヒトカラ」もそうだし、一人旅歓迎の宿しかり、あらゆる分野で「おひとりさま歓迎」というフレーズを聞く。

ラーメンの人気店「一蘭」がひとりひとりのスペースをつい立てで仕切っているのも「個」の世界を重視しているからだろう。


ラーメン屋のつい立てを初めて見た時は違和感があった。そんなものに魅力を感じる人は自意識過剰だと思ったわけだ。

でも、アレはアレでうら若き女性がズルズルとラーメンをすするのを隠したい心理に配慮しているからアリだろう。

「おひとりさま」といっても、仕方なく一人なのか、積極的に一人を好むのかでは意味合いが異なる。

わざわざ好んで「おひとりさま」で行動したがる人の心理は、結局は自意識過剰のなれの果てなのかもしれない。

群れたくない、つるみたくないという気持ちが一人酒や一人メシ、一人旅を好む人の行動原理だ。

私自身も同じだ。一人行動が好きだが、その理由には多分に自意識過剰な部分があるのだろう。

相手に好感を与えたい、自分のヘンテコな姿を見られたくないといった気持ちのせいで誰かとつるむのが億劫になって一人が気楽だと感じる。

あけっぴろげに接すればいい相手にでも、格好良く見せたい、退屈なヤツだと思われたくないなどと考えること自体が自意識過剰だ。

そんなバカみたいなクセのせいで気疲れしちゃって、一人でボケっとしたくなるわけだから、何だか御苦労なことだ。

以前、気疲れするのは気遣いや気配りがキチンと出来ている証拠だと慰めてもらったことがある。でも、実はそんな立派な話ではない。

気遣いや気配りが相手を思ってのことならともかく、自分が良く思われたいという邪念が強すぎて気疲れしているならバカみたいだ。

誰かと旅行に行っても、その人の見たい場所に付き合ったり、食べたいものに合わせたりして内心イラつく。でも、それを顔に出すのはヤボだろうと悠然としているフリをしてドッと疲れる。

ヤボだと思われたくないという自意識過剰が自分の首を絞める悪循環に陥る。

いっぱしのオジサマなのにこういう点のコントロールが苦手だから困ったものだ。

なんとか改善しようと決意しても習性みたいだから毎度失敗する。克服しないと孤独死が待っていそうでちょっと恐い。

私の場合、血気盛んな独身男とはいえ、ケジメとして自宅を“試合会場”にはしないと決めている。何かとメンドーだし、居座られても困る。

とはいえ、流れとか不可抗力とか、過度の欲求不満?などいろんな理由で、ごくまれに人を招くことがある。

そういう機会には私の悪い習性が出てしまう。しまい込んであったバカラのグラスを出してみたり、ポテトチップスのために唐津の大皿を引っ張り出す。

もっといえば、やたらとストックしてある高級レトルトだの高級缶詰なんかを土産に持たせたりする。

“試合”でバテて、つまらない気配りでバテて、我ながら「アホちゃいまっか!」とつぶやきたくなる。

女性のいる飲み屋さんでも、悠然とマイペースで過ごせばいいのに、オドオドしているオネエサンがいれば気の毒になって意味もなく盛り上げる。

仕事の商談相手に毅然と対応しなきゃいけない時でも、相手の緊張をわざわざほぐすような冗談をカマして、結局、相手のペースにまんまとハマることさえある。

これじゃあ単なる「お人好し」である。中年紳士としては稚拙だろう。決して誉められたものではない。

お人好しの意味は「騙されやすい人」、「人間が甘い人」、「幼稚な人」といったところである。

いい歳してバカみたいである。どうすれば「利口者」に変身できるのだろうか。

人生後半戦である。そりゃあ悪人よりは善人でいたい。でも「善人」と「お人好し」では意味合いが違う。

どうせなら「利口な善人」になりたい。遅ればせながら、ガリガリと我を通すような訓練に励もうと思う。

2017年10月23日月曜日

男のカカト


靴好きにとって靴磨きは楽しい作業である。。。はずだ。私自身、磨き始めると飽きずにゴシゴシスリスリしている。

しかしそれも2,3足ならばという前提が付く。それ以上になると苦痛であり苦行である。

寒くなったら履きたくなるショートブーツを今のうちに磨き上げておこうと思ったのだが、どうにも億劫で気分が乗らない。

そんなわけで、靴磨きという私の精神性を支える?大事な作業を初めて人様に頼んでみた。言うなれば堕落である。

都内各地にある靴やカバンのメンテナンスショップ「靴専科」が自宅から割と近くにあったので持ち込んでみた。


こんな感じになって戻ってきた。当たり前と言えば当たり前だが、目からウロコである。ピッカピカだ。

大事な靴は自分で磨いてこそ愛着が湧くという理屈も重々承知しているが、いとも簡単にこんなピカピカにしてくれるなら四の五の言わずに頼んでしまえばいい。

魂を売り渡したような気分がしたのも事実だが、私の魂なんてそんなものである。痛くも痒くもない。いや、財布はちょっと痛かった。


ショートブーツを4足だけ磨いてもらったのだが、仕上がりが気に入ったので、それ以外にも断続的に12足も持ち込んだ。合計16足もの人任せである。

靴好きの風上にも置けないヘタレぶりだ。

磨きに出さなかったバッチリ綺麗な靴もいくつもある。ということで、いま私の自宅の靴棚にはピッカピカばかりが並んでいる。嬉しくってしょうがない。

堕落を嘆くより、綺麗な靴ばかり並んでいる壮観さに酔いしれる方が前向きである。今後もシンドくなったら人様に磨いてもらおうと決意した。

さてさて、靴磨きをする際の“主役”はつま先部分だろう。人間の目線はそこに向かうわけだから必然的に靴の先端を中心に磨きたくなる。

先っぽの先っぽの革の硬い部分には光らせるクリームを塗って鏡面仕上げにすることもある。一番上の画像のいくつかのショートブーツも軽く鏡面仕上げにしてある。

「先っぽの輝き」が綺麗な靴の基本ではあるが、同じぐらいこだわりたいのがカカトである。


こちらは7年愛用しているクロケット&ジョーンズの靴。7年モノだが、しっかり手入れをすればナマめかしい艶が生まれる。


こちらは昨年買ったジョンロブである。新しいから綺麗なのは当然だ。これはこれで美しいが、どちらかといえば7年モノのほうがネットリと魅惑的に思える。

まあ、気のせいというか、長く愛用しているヒイキ目がそう感じさせるのかもしれない。

その昔、銀座のオネエサンに見送られた後で「いつもカカトが綺麗ですね」と言われて妙に嬉しかった記憶がある。

見られている意識のない部分を誉められるとアマノジャクな私は舞い上がる。そんなこともあって、靴磨きの際はカカトをやたらと綺麗にする。

かかとのあたりはヒールカップと呼ばれる部分だ。丁寧に作り込まれた靴は、この部分の造りが愛らしい。見た目もコロンと丸くて優しく包まれている気分になる。

しっかり磨き上げた後に、ついついヒールカップの曲線を掌で包むように愛撫しちゃうのが私の隠れたクセである。小ぶりなオッパイみたいで可愛い。

まあ、フェチみたいなものだ。

俗に「男は背中で語る」などと言われるが、腹筋背筋が弱ってきた私の背中はヨレている。その分、後ろ姿は靴のカカトに頑張ってもらおうと思う。

2017年10月20日金曜日

シメのラーメン まかない㐂いち


たかがラーメン、されどラーメン。ニッポンの食文化の一角で独自の世界観?を見せるのがラーメンである。

誰の周りにもラーメンを熱く語る人がいるはずだ。私の友人にもラーメンブログを黙々と更新し続けている変な男がいる。日々、素晴らしい鑑識眼によってラーメンの深淵を徹底解剖すべく奮闘している。誉めすぎか・・。

ラーメンを語るだけだから、文章表現には限界もあるようで、時に脱線しながら涙ぐましい努力を続けている。

http://blog.livedoor.jp/kin_nosuke/archives/1068085724.html

さて、食べることが好きな私だが、昔からラーメンには強いこだわりがない。麺よりコメを愛しているせいだろう。

酔っ払った後のシメにラーメンが頭をよぎっても、結局は牛丼をかっ込む確率のほうが高い。

そうは言っても、汁っぽいものを食べたい時もある。酔った後のラーメンのウマさは、スープを味わうジンワリ感に尽きるような気がする。

酒に疲れた胃袋に染みこむスープこそが「ニッポンの酔っぱらいの明日」を支えている。

当然、ギトギトベトベトの若者向けラーメンは勘弁である。あれは夜が更けた頃にオトナが口にすべきではない。一歩間違えたらゲロ惨事を招く。もともとゲロみたいだし・・・。

すっきりとして滋味溢れるスープこそシメのラーメンの醍醐味だが、出来ることなら「麺は10本ぐらい入れてくれればいいです!」と注文できればデブ化を防げる。まあ、そんな注文をする勇気は私には無い。

先日、とある店でシメのラーメンの鏡のような逸品に出会った。感動した。


銀座の料理屋さんでのこと。その店、元はラーメン屋さんが出店した割烹料理屋さんだとか。店の名前は「まかない㐂いち」。8丁目の雑居ビル内に隠れ家のように構える店だ。

一人でふらっと入るような雰囲気の店かどうか分からなかったため、銀座のベテランオネエサンにメールして取材してみた。

蛇の道は蛇である。お姉さんは何度もその店を使っているとのこと。やはりあの街のことはベテランホステスさんに尋ねるのが手っ取り早い。

結局、リサーチだけでは済まずに、そのオネエサンの同伴出勤に絡めとられて初訪問。まあそれもオジサマとしてのたしなみ、お馴染みさんとしての甲斐性である。

憎い品揃えの店。一言で表現するならそんな感じである。魚介類の鮮度も調理法もバッチリで、オジサマを喜ばす珍味も豊富だ。

肉類のメニューも揃っているし、カニクリームコロッケやメンチカツといったオジサマがムホムホ言うラインナップも用意されていた。


一つから注文できるここのメンチカツ、この数年で一番ウマかった。ウマ味と甘味ジュンワリでちょっとビックリするレベルだった。

で、肝心のシメのラーメンである。さすがに元々はラーメン屋さんが始めた料理屋である。醬油ラーメンと塩ラーメンが用意されていた。

特筆すべきはサイズの自由度である。普通サイズの他に2分の1、そして4分の1まで選べる。4分の1を二つ注文したって普通の半分である。

4分の1サイズを2種類並べたのが上の画像だ。醬油、塩どちらも抜群だった。醤油味は、いにしえの正統派東京ラーメンそのもの。奇をてらったところは無いが、スープのウマ味が強い。後味も爽やかで口の中が幸せになった。

塩味のほうもこれまたウットリだ。塩ラーメンというより正しくは鯛ラーメンである。鯛のダシの滋味がグイグイ押し寄せる。優しい味わいなのにコクが強くパンチが効いている。

「全日本シメのラーメンコンテスト」を開催したら上位入賞間違いなしだと思う。こういう店が雑居ビルの上の方で目立たずに営業しているのが銀座という街の面白さだ。

メニューに値段が書いていない点は銀座的だが、近隣の日本料理屋や寿司屋に比べれば“平和”な御勘定で済む。安くはないが、場所と内容を考えれば驚くほどではない。

ダイエット中(のつもり)の私にとっては地獄の一丁目みたいな店だが、そういう邪念のない人にはパラダイスだろう。

デブは罪。そんな言葉が脳裏をよぎる秋の夜。

2017年10月18日水曜日

ライブが近づいてきた


毎年恒例のオジサマバンドのライブが、ちょうど1ヶ月後に迫ってきた。ボーカリストである私としては、そろそろ体調管理を意識しないといけない。

年に1度のライブ活動だが、今年は6回目である。いっぱしのキャリアだ。

毎年100人以上のお客様を前に、スポットライトを当ててもらってミュージシャンのようなノリで奮闘している。


いっぱしの顔をして歌ったりしゃべったりしているが、何回やってもド緊張状態は変わらない。

緊張していないフリをすることは上手くなったと思う。でも毎回、開演寸前は頭の中は真っ白である。

10月中旬からスタジオ練習が始まった。春や夏の頃はカラオケボックスにギターを持ち込み、アーだコーだと楽しく練習していたが、スタジオ練習の段階に入ると、割とシビアな感じになってくる。

楽器をアンプにつないで、マイクも使ってスピーカーを通して練習の成果を確認すると、途端にアセり始めるのが毎年のパターンだ。

生歌練習で気付かなかった課題がワンサカ出てくる。本番も近いし、おちゃらけてばかりもいられない。真剣モードに移行するタイミングである。

当然のことだが、毎年毎年、違った課題にぶつかる。去年は英語の発音という想定外の課題があった。

ロネッツの「Be My Baby」とビートルズの「Nowhere Man」を演目に取り入れたのだが、歌詞に出てくる「three」の「ス」、「fifth」の「ス」の発音をそれっぽくするために苦戦した。唇の筋肉がつりそうになった。

今年の演目には英語曲は無いので余裕をカマしていたが、某日本語曲の中に出てくる「bomber」の発音が私を悩ませている。

練習中、気分良く歌っていたらメンバーからもダメ出しを食らった。「ボンバーじゃない、“ボァワゥンボァ”だろ、ボケ!」である。

より分かりやすくするために、ネットでたまたま見つけた「デュープラー英語学院」さんという松戸の英会話教室のサイトに載っていた解説を部分的に転載させてもらう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「bomber」は、もともと「bomb」という言葉に接尾辞「-er」がついた言葉です。

「bomb」は「爆弾」という意味で、これの発音記号は[bάm]となります。

カタカナで書くなら「ボァム」という感じです。

最後のスペル「b」は発音されない「黙字」ですので、最後は「m」の音で終わります。

「ボァ」の部分は、「バ」のようでありながら、結局は「ボ」に聞こえるような音、つまり「ボ」と「バ」が合わさった音です。

少し長めに「ボァ」と言えば、まあ近い音になるでしょう。

カタカナで書くならば「ボォマァ」という感じです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~


ということである。「ボォマァ」である。オイオイって感じだ。どうやったら上手に発音できるのだろう。困った困った。

まあ、そんな細かいことに悩んでもしょうがない。もっと大事な課題は山ほどある。

一番大事な課題は「しゃべり過ぎないこと」である。MC担当として毎年頑張ってきたが、昨年は自分でも反省するほど話が長すぎた。いろいろ理由はあったのだが、そこは割愛。


で、購入したのがこれだ。「チ~ン」と鳴らすヤツである。

ステージ上にこれを置き、私の語りが長くなったら鳴らしてもらう。我ながら素晴らしい秘密兵器に気付いたものである。

バンドのライブ告知の話が「ボンバー問題」と「卓上ベル」だけで終わりそうだ。それはそれでマズい。

今年は私が作詞したオリジナル曲も2曲披露する。ひとつは亜熱帯のリゾート地を舞台にした禁断の愛の歌!である。ピアノアレンジのイントロが官能的に仕上がってきた。

もう1曲は今年の初めに急逝した友人の追悼曲だ。2曲とも作曲してくれたメンバーが詩のイメージを見事にメロディーに載せてくれた。

別なメンバーがサビの部分のハモり部分をいい感じにアレンジしてくれたので、なかなか雰囲気のある楽曲に仕上がった。

日程は11月18日、会場は南青山のライブハウスである。

「ヒマだから富豪記者が歌う姿でも見にいくか」という奇特なかたがいらっしゃったらコメント欄からお知らせください。ご記載内容はここにはアップしませんのでお気軽にどうそ!


2017年10月16日月曜日

なんとなく10年


このブログを始めたのは2007年の10月17日。すなわち今日で10年が過ぎたわけだ。我ながらビックリである。

いつも覗きに来てくださる皆様に感謝します。

https://fugoh-kisya.blogspot.jp/2007/10/blog-post.html

10年ひと昔である。いや、今の時代の速度感からすれば二昔ぐらいの感じもする。でも、書いている内容は、40代そこそこだった当初の頃とたいして変わらない。

進歩がないのか、はたまた成熟が進んでいるのか、とりあえず後者だと思いたい。

「富豪になりたい」と宣言してから10年。いまだにロールスロイスに乗っていないし、プライベートジェットも持っていない。

宝くじもちっとも当たらない。ついでにいえば本宅と妾宅を右往左往するほどアチコチに住まいがあるわけでもない

10年の間で大きな変化と言えば生活環境ぐらいか。気付けば何度目かの独身生活である。10年前より勝手気ままに過ごしている。

考えてみれば、40を過ぎた男が10年ぐらいで急に成長するはずもない。知識もこの10年で爆発的に増えることはなかった。

10年どころか、20年前ともたいして変わっていないかもしれない。人間、30歳にもなれば自己確立は済んでいる。

視野の広さ、感情のコントロールみたいなことは20年前より多少は進歩している。もがいてばかりだった若者時代とは違う。

もがくことを忘れた代わりに、運命とか必然という言葉を使う頻度が増えた。

「まあそんなもんだ」「なんとかなる」「なるようにしかならない」。そういった感覚が以前よりも強まっている。

粘ったり、踏ん張ったり、死ぬほど頑張るような「力み」も大事だが、中高年特有の「ユルさ」が身についてくると、いろいろな面で楽になる。

ウザったい話になるのもイヤなので、ヘンテコな例えで表してみる。女性を口説くときの姿勢も以前とは変わってきた。

断られたらカッコ悪い、下心は隠していたい等々、若い頃は自意識過剰気味に自分の行動にブレーキをかけていた。

今の私は大違いである。フラれちゃうのも気にしないし、下心なんて明けっ広げに見せちゃう。ヘンテコな趣味も平気で押しつける。

回りくどい駆け引きを仕掛けられてもスルーするようになった。去る者は追わず、来る者拒まず、単刀直入、直球勝負である。

まあ、女性問題はさておき、見方を変えればすべての面でワガママが加速しているのだろう。我慢が足りないという言い方も出来る。

でも、いまさら無意味な我慢などしたくない。根拠が曖昧な社会規範に漫然と縛られていたら、退屈なまま人生が終わっちゃう。

一応、いまだってアレコレと痩せ我慢することはある。最低限の我慢はするが、必要のない我慢に対して昔より抵抗感が強くなった感じだ。

なんだか、ストレスがたまった偏屈オヤジみたいな書きぶりになってしまった。軌道修正。

時々、このブログの解析ページを覗くのだが、今日書いているような“自省録”みたいな内容は視聴率?が低い。

閲覧数が多いテーマは「靴」と「銀座」が圧倒的で、続いて「下ネタ系」「旅行」「ダウン症」あたりである。

割り切って靴と銀座と下ネタ話ばかりに絞れば閲覧数が飛躍的に上がるのだろう。

まあ、私にとってこのブログは備忘録や日記に近い感覚だから、“フォロワー数”よりも大きな課題がある。すなわち、書くネタが無くならないかという問題である。

なんだかんだ書くことがあるから10年も続いてきたわけだ。これって実に幸せなことだと思う。

それなりにトピックスというか、日常に起伏のようなものがあるから雑文をダラダラと書くことが出来る。

何も無い時でも強引にネタっぽく仕上げちゃうこともあるが、それはそれ。基本的には小さなことでもトピックスがあるから成り立っている。

これは有難いことだ。健康で仕事があって、トラブルもなく生きている証である。

ウマいものを食べた、こんな楽しいことがあった等々、能天気に書き殴れることは幸せなことだ。

いま世の中では、引きこもり独居老人が社会問題化している。おそらく日常に起伏のようなものが無くなっている状態だ。とても恐いことだと思う。

私自身、いつかはそんな日が来るかもしれないが、現状ではバリバリに元気である。

これからもちょっとしたトピックスを見逃さないようにアンテナ感度を高めて過ごしていきたい。

ここに書けないようないろエロな怪しい話ばかりが貯まらないように、日々、ちゃんとしようと思う。

2017年10月13日金曜日

おばさん力


鈍感力、老人力などの「ナントカ力」という言葉の使い方がハヤっているが、最近つくづく思うのが「おばさん力」の底知れぬ恐ろしさ!である。

選挙戦だって小池さんの「おばさん力」が話題の中心になって、一時期は国の在り方さえ左右する勢いをみせた。

おばさんの定義は曖昧なので、ここでは私と同世代、すなわち50歳前後から上の年齢の女性を「おばさん力」の源に位置付けてみる。

そもそも、おじさん、おばさんという言葉には少なからず蔑称的意味合いがあるが、イマドキはそんな悠長なことは言っていられない。

男達が上から目線で、おばさん云々を語る一方で、おばさん達は独自の世界を構築して、事実上、社会の支配者!として君臨している。

松居一代しかり。少し若いが、豊田真由子、山尾志桜里の両センセイもそうだ。世間からどれだけバッシングを浴びようともヘッチャラだ。

バッシングを浴びる原因になった行動が「おばさん力」そのものである。猪突猛進というか、恥も外聞もなく感情で突っ走るエネルギーが物凄い。

世の男性達は、おばさんをディスっている暇があったら尊敬しちゃった方が賢明である。

昔からさまざまな事件、スキャンダルの影で関係者が自ら命を絶つ事例は数多いが、そんな選択をするのがたいていは男である。

統計的にも男性自殺者数は女性の2・5倍だとか。7対3の割合である。男が弱いのか、女性が強いのか、議論するまでもない。

まあ、男なんて突き詰めれば全員が全員、例外なく女性から産まれたわけだから、エバってみたところで勝ち目はない。

オジサンはオバサンに勝てない。大人の男達は、この事実を冷静に受け止めないと平和はない。

無理に頑張ったところで、私のように家庭生活からFA宣言するか、もしくは戦力外通告されるだけである。

その昔、法律問題が絡む揉め事に関わったことがある。こっちは仕事柄、商法だの民法だのを背景に論理的に話をしたいのだが、相手は「おばさん力」の塊みたいな人だったので難儀した。

難儀というか、まったく話が噛み合わない。こっちの話は最初から聞く気が無い。感情的に自分の思いや要求をぶちまけるだけ。駆け引きの要素すらない。

同じ時代に同じ国で同じ言語を使っている人だとは思えないほどズレまくる。いや、ズレではない。ただの空回りだった。

宇宙人とやり取りしている感覚だった。そりゃあ宇宙人と闘ったって勝てるわけはない。やはり、おばさんは味方に付けたほうがいい。そのほうが安眠できる。

一般的におばさんは、積極的である。行動力もある。恥ずかしいという概念が希薄だ。

なんでも前向き。でも自分のペースを崩さない。クヨクヨしないし、メンタルが強い。強いを通り越してたくましい。

若い女性と違ってヘタな媚びをうらない。妙な余裕がある。ついでにいうと世話好きで雑談という必殺技を得意とする。

雑談だって、一方的に持論を展開するのが基本だ。相手の話にはとりあえず否定から入るか、淡々と聞き流すかのどちらかである。

さすがである。男より寿命が10年ぐらい長いのも理解できる。

アレコレ書いているが、これは決して悪口ではない。真面目な話、私も時々おばさんになりたいと本気で思う。

一応、私は今の自分が若い頃の自分よりも好きである。生まれ変わるとしたら「オジサマ」になりたいのだが、それがダメなら「おばさん」に生まれ変わりたいと思う。

意味不明でスイマセン。

同窓会シンドロームみたいに中高年になってから、同年代の男女が恋愛に走るケースは多い。同年代ならではの安心感、同時代の共有感みたいな点で惹かれ合うようだ。

その感覚は分からなくないが、私個人としては「おばさん力」にたじろいで、ついビクビクしてしまう。

年の離れた女性が相手なら、こっちがオトナの余裕を演出して手玉に取ることも可能だ。でも、おばさん力を前にしたら私の演出や策略などは通用しない。コッパミジンだ。

おばさん力を前にするとヘビに睨まれたカエル状態になっちゃうのが、私の悲しい現実である。

私が若い女性のお尻を追いかけ回すのも、きっとそれが原因だろう。

2017年10月11日水曜日

ウマいもの ズラしたもの

道端でこんな看板を見るとザワザワする。「喫茶店のナポリタン」「ホテルの味のオムライス」。文字が目に入っただけでヨダレが出ちゃう。

喫茶店のナポリタン、喫茶店のタマゴサンド、喫茶店のクリームソーダ等々、昭和の人間としては「喫茶店の~~」と言われるだけで郷愁を感じる。

ベタな食べ物というジャンルにおいて「喫茶店ナポリタン」は象徴的な存在だ。あれは純然たる日本食である。高度成長期の日本食だ。

パスタという呼び方も浸透していなかった時代である。ましてやアルデンテなんて言葉は誰も聞いたことがなかった頃のスターがナポリタンだった。

オジサマになった今も時々、洋食レストランでナポリタンを注文するのだが、たいていはダメだ。理由は「ちゃんとしている」からである。

ちゃんとしていないのが昭和のナポリタンだろう。油っぽかったし、包丁を中途半端に入れるからタマネギが切れずにくっついていたり、麺だっていつ茹でたか分からないようなシロモノだった。

でも妙にウマかった。思い出すだけでウットリする。


こちらはハムカツ。ハムカツも昭和の香りがするベタな食べ物である。居酒屋でメニューにあればつい注文したくなる。

最近は画像のようなダメなハムカツが多い。ダメな理由は「ハムが薄くない」ことである。

ハムカツのハムは主役を気取ってはいけない。あくまでコロモとどっこいどっこいの存在であるべき。昭和の男達はソースをまとったコロモの部分にウキウキした。

ナポリタンがアルデンテになって、ハムカツのハムが厚くなったことは、この国の成熟ぶりを象徴する話だ。まさに昭和は遠くなりにけりって感じだ。


話は変わる。こちらは最近、一部で人気を集めている肉寿司なる食べ物である。これは神楽坂のその名も「肉寿司」という店での一コマ。

生肉がご飯の上に載っていることが古い世代の私には違和感がある。生肉とコメがくっつくことが何となくブキミに思える。

仕方なく、牛タンの茹でたヤツとかモツ煮などをもらってグビグビ飲む。同行者は肉寿司をやたらと気にいってドカドカ食べていた。美味しかったらしい。


世代間ギャップなんだと思う。流通事情が様変わりした今は昔より生肉食いが珍しくない。時々死亡事故も起きたりするが、激安店とかじゃなきゃそんな話も聞かない。

でも、個人的には肉は火を入れてこそウマいと思う。ユッケは好きだが、あれだってしょせんはタレの味を楽しむものだろう。

そんなことばかり言ってると、ますます時代遅れになりそうだ。まあ、世の中には他にウマいものは山ほどあるから、生肉は遠慮しておこう。


こちらはウニの握り。ちょっとズラした感じのウニの握りである。銀座の「さ久ら」で食べた。

赤酢のシャリを炙って焼きおにぎりみたいにして、そこにウニである。香ばしくなったシャリとクリーミーなウニが混ざり合って実にハッピーな一品に変身していた。

こういうズラしかたは大歓迎である。

お次は、やはりお寿司屋さんで食べたもう少しズラしたウマいもの。


ホッキ貝のリゾット風である。ベースが酢飯だからこその独特な風味が抜群だった。目白の「鮨おざき」で作ってもらった。

トリュフまで散らしまくってある。邪道といえば邪道、大邪道である。でも、スンゴく美味しいから大いにアリだろう。

さっき書いた肉寿司も一種の「ズラし」だろう。寿司なんだけど肉だけというパターンが意外性という意味でウケているわけだ。

ちょっとズラしたところに未知の美味しさが隠れている。何だか気取った書きぶりだが、そんな印象を強くする日々である。

2017年10月6日金曜日

パパは最高なのか


「タバコをやめるか、痩せるか、どっちかにして」。

最愛の娘に言われた。非常事態である。

まあ、その要求に応えなかったら嫌われるとか、ウチに遊びに来なくなるとかのペナルティーは無い。

ということはスルーしちゃっても問題はない。でも、純情パパである私としては応えてあげたい気持ちもちょっぴりある。

タバコをやめるのは論外なので、選ぶなら痩せるほうである。ラッキーなことに目標値の設定の無い話である。お腹が引っ込めばいいというレベルだ。

「横から見たときにお腹がポコっと出ている点を除けば、パパは最高よ」。高校生の娘はそう言った。

よく考えれば、これって褒め言葉ではないだろうか。親バカの私は単純にそう思う。

「パパは最高よ」。この部分だけが私の頭の中でリフレインする。

お腹が出ていることは、髪が黒い、指が長い、まつ毛が長い、眉毛が太いなどと同様に持って生まれた体質である。

違うか・・・。

8年前の今頃、割と真面目にダイエットをしていた。この時は12キロぐらい落とした。ストイックに頑張るのがシャクだから、運動は散歩ぐらいでカニばかり食べて痩せた記憶がある。

その時の奮闘記録がこちら。

http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2009/10/blog-post.html

http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2009/10/2.html

20代の頃は、10日で10キロぐらい落としたこともある。あの頃はストイックなボクサーみたいな過酷な減量作戦ができたが、今あんなことをやると間違いなく死んじゃう。

だいたい、今の私は代謝機能が退化してしまった。息を吸っているだけで太る。深呼吸ばかりしたら巨デブになってしまう。

さて、どうしたもんだろう。まあ、3~4キロ落とせば、「ポコッ」とした腹が「ポッ」ぐらいにはなりそうだから、少しは前向きに挑もうかと思っている。

娘には「心の準備をする期間が1年ぐらいは必要だ」と諭してある。そのうち「ポッコリお腹のパパが大好き」などと言い出す可能性だってある。

何だかんだ言って、数年前に作ったスーツの腹回りが少しキツくなっているのも確かだから「微調整」は必要である。

ダイエットと意気込むとストレスになっちゃうから「微調整」というニュアンスで努力しよう。

そんな程度ではちっとも努力とは呼べないが、酔っ払った後の牛丼やペヤングをやめることは今の私には努力である。

本気でダイエットをした当時は、カニだけでなく、塩気の強い珍味類を肴にして強い酒をひっかけて酔って寝るのを基本スタイルにしていた。

そのせいで、当時は尿酸値が常に高値安定状態で、医者からは痛風発作が起きていないことを不思議がられた。

今の尿酸値は余裕で基準値内である。体重をそれなりに落とすためには、現在の素晴らしい健康状態を放棄する覚悟が必要である。

そういえば、カニと珍味の他には鶏肉も強力な味方だった。ササミをいろいろアレンジして空腹感を満たしていたことを思い出した。

http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2009/10/blog-post_15.html

よしよし、昔のブログを読み返すことで当時の「志」が少しだけ甦ってきた。

でも、今は食欲の秋である。ウナギもウホウホ食べたいし、“タンスイカブラー”、“コレステローラー”としての生きざまを捨てるのも辛い。

ウジウジとどっちつかずのことを書き殴るシャバダバな自分がイヤになる。

目を閉じて冷静に短期未来予想をしてみた。

2キロぐらい落として四の五の屁理屈をホザいてウヤムヤにしている自分の姿が見えた。

明智光秀を気取って「敵は煩悩にあり!」と叫びたくなる。

2017年10月4日水曜日

ホテル 本音と建前


東京には五つ星ホテルが絶対的に足りない。以前、何かで読んだ話の受け売りだが、外国人観光客誘致の盲点になっているそうだ。

日本を訪れる外国人旅行者は激増中。国が音頭を取った観光立国宣言は順調に推移している。

ただ、バックパッカーや安い民泊を泊まり歩くような観光客が中心層では、お金を落としてもらうという点では厳しいのが現実だ。

東京の繁華街を見回しても、世界に冠たる経済大国の割には確かに高級ホテルが少ない。実際に五つ星ホテルはメキシコの3割、タイの4分の1しか無いそうだ。


いわれてみれば、タイのバンコクなど観光で人気の国の首都に行けば豪華ホテルが乱立している。競争原理が働いて格安で泊まれるし、ホテル選びも旅の楽しみになっている。

日本で高級ホテルを選ぶ外国人旅行者は、間違いなく落としてくれるおカネもバックパッカーとはケタ違いだろう。

富裕層ひとりで倹約指向の若者10~20人分の消費をしてくれるなら観光収入という点では効率的。そういう階層を呼び込む努力は必要だ。

秋の京都では、五つ星クラスのホテルが予約できないという理由だけで旅行自体をあきらめるアッパー層も少なくないという。みすみすインバウンド消費を逃してしまうわけだ。

中長期的に考えたら国策レベルで対策を考えた方がいいと思う。

さて、都心部の高級ホテルといえば帝国ホテルを筆頭にいくつかがパッと頭に浮かぶ。でも、パッと浮かぶ程度にしか数が無いのも事実だろう。


東京に住んでいる私は都会の高級ホテルに泊まる機会は少ない。それでも待ち合わせに使ったり、お茶や食事に行ったり、時には、諸々の事情?で部屋を取ったりする。

経済大国の1300万都市という視点で考えれば、確かに選択肢は少ない。エセ富豪?の私がそう感じるのだから海外のマトモなお金持ちから見れば、実に寒々しい状況だと思う。

日本人的感覚で一流と思われているホテルでも、ヘタをすると部屋の冷蔵庫に無料のミネラルウォーターが2本だけとか、海外の高級ホテルから見れば二線級のレベルだと思う。


まっとうな高級ホテルならバスタブの他にシャワーブースもあって、それなりに快適に過ごせる。でも、圧倒的多数派の中途半端なシティホテルは、客目線での快適さなど二の次。

シャワーを浴びるにしても狭いバスタブの中でカーテン引っ張って窮屈な姿勢を強いられる。一応、ビジネスホテルとは違う高級シティホテルを名乗る以上は数段階上の進化が必要だと思う。

以前、某都市で泊まったその街有数の高級ホテルのレベルの低さに驚いたことがある。日本の航空会社直営のホテルである。要は二つのうちの一つだ。

客の荷物は運ばない、ルームサービスはやっていない。それでは半値以下で泊まれるビジネスホテルと同じである。

それでもトップクラスの高級ホテルのような顔をしているのだから、ある意味、日本のお寒いホテル事情を垣間見た気がした。

大浴場付のビジネスホテルが人気を集めるのも当然の話。中途半端なシティホテルとやらに泊まるなら屋上に露天風呂があるような大浴場付ビジネスホテルのほうがマシだ。

「本音と建前」みたいな感覚で無理やり名前ばかりのシティホテルを選ぶのは不自然な話だと思う。

まあ、そう言ってしまうと、快適なビジネスホテルよりももっと居心地がいいラブホテル推奨論についつい発展しちゃう。

滅多に行くわけではないが、高級路線のラブホテルの快適さにはビックリする。イメージや心理的なことを取っ払って純粋に占有空間の快適さだけだったら名だたる高級ホテルよりも優秀かもしれない。

数々のサービスが有るだけでなく、ジャグジーはもちろん、サウナや露天風呂まであって唖然とする。

まあ、ホテルなんてものはイメージや心理的な要素が居心地に影響するから、あくまで「ラブホテルにいる」という現実が気になっちゃう人にはダメだろう。

有名人や野球選手だったらラブホテルを使っただけでディスられまくるが、そういう恐れがない一般人は堂々と使えばいいと思う。今更ながら「二岡選手」がチョット気の毒である。

「本音と建前」が厄介なことはイマドキのラブホテルの快適さが世間で大々的に話題にならないことが端的に表しているのかもしれない。

なんだかラブホ論を熱く語ってしまった・・・。まあ、いいか。

あくまでラブホテル的な見せ方をせずにビジネスホテルの延長線上のような位置付けを装って、システムや設備は高級ラブホ並みという新ジャンルのホテルが出てきたらウケると思う。

なんだか話が大幅にそれてしまった。


今日の主題は、東京に五つ星ホテルがもっともっと増えて欲しいという話である。都心にあと20カ所ぐらいそういうクラスのホテルが登場したら凄く面白いと思う。

サービス面だけでなく、価格面でも競争になるだろうから消費者側には良い話である。まあ、一朝一夕には無理だ。私が生きている間に実現するのは難しいと思う。

2017年10月2日月曜日

選挙と未来予想


今日はちょっぴり硬い話。

さすがに選挙戦に向けた動きが気になる。面白がってはいけないのかもしれないが、今回のスッタモンダは歴史的な“面白さ”かもしれない。議員になりたい面々の右往左往ぶりは面白いというか、みっともないと表現する方が適当か。

かつて、老獪な自民党は社会党と連立を組み、村山政権を誕生させた。社会主義者を首相に担ぐというウルトラCは、社会党の矛盾を浮き彫りにさせて、結果的に社会党自体が消滅するというオチにつながった。

今回の「民進党消滅」も同じようなものだろう。バリバリの保守という意味で自民党系ともいえる小池都知事の戦略によって民進党は一瞬にして消えた。

だいたい、前原代表の打ち出した突然の合流案が、排除の論理で進むのが当たり前なのに、たいした紛糾もせずに「吸収」を満場一致で決めちゃうあたりが民進党の実像。

存在意義がとっくに無くなっていた証だし、安倍政権が野党をナメきって解散総選挙に打って出たくなったのも当然のお粗末野党だったわけだ。

それにしても、小池さんも前原さんも、はたまたその背後で動いた小沢さんも、ある意味で物凄い政治家だと思う。

希望の党が何をしたいのかサッパリ分からないし、「寛容な保守」とかいう旗印も薄っぺらい印象しか無い。それでも、これだけの「旋風」を巻き起こしている事実は驚きだ。

好き嫌いの問題はさておき、策士として大したもんだと素直に思う。一気に自民党の安定支配が怪しくなったわけだからメガトン級の仕掛けであることは間違いない。

さて、選挙の行方はどうなのだろう。今の時点では自公政権の過半数割れは無いとも思えるが、メディアの煽りも勢いがついてきたし、今後の仕掛けでは7月の都議選のような雪崩現象は充分に起こりえる。

いろいろな予想が乱れ飛んでいるが、結局は自公も希望の党も過半数には届かないという結果が現実的かもしれない。

その場合、憲法改正に突っ走る目的で、自公プラス希望の大政翼賛会みたいな大連立政権が生まれるか、第三極がキャスティングボートを握って、どちらかと組む連立政権が生まれることになる。

希望の党に入れてもらえなかったリベラルや左派と呼ばれる面々は、新党(絶望の党?)を作るから、人数次第では政権運営のカギを握る存在になっちゃうかもしれない。まあ、そこの顔ぶれからすると、多数の当選者は生まれるはずもないが…。

はたまた、行き場を失ったリベラル票の受け皿になった共産党が結構な議席を確保して、リベラル新党と連携してキャスティングボートを握っちゃうという驚きの事態も起きるかもしれない。

“志位首相”だったらオッタマゲだが、そんなことになったら北朝鮮やトランプさん相手に何を言い出すのだろう。。。

まあ、さすがにそんな悪ふざけみたいな話は無いにしろ、今回の選挙戦はかつてなく予測が難しいのは確かだ。

今週いっぱいの情勢分析で勝ち戦が見込めたら、総理になりたいだけの小池都知事は出馬を宣言する。今はもったい付けているというより、野党党首になるぐらいなら都知事のほうが権力者でいられるから出馬を明言していないだけだろう。

小池さんの出馬で更に追い風が吹いても、たとえば北朝鮮が日本の近くにミサイルを撃ち込むような不測の事態が起きれば風向きは大きく変わる。

緊迫した事態になれば有権者の意識は政権の継続性を求めるから、現政権サイドがそんな想定に活路を見出したいというのも本音だ。

選挙戦突入を前に、それぞれがお互いのスキャンダル探しに躍起になっている。でも、今回はスキャンダルよりそれぞれの演出力が勝敗のカギを握る。

現政権側は、有事対応や外交など継続性の重要さを前面に打ち出す。新勢力サイドは一強支配政治の傲慢ぶりを突き、目新しさに飛びつく大衆心理に向けて新鮮さをアピールする。

選ぶのは有権者個人だが、結果こそが民意という形で確定してしまうわけだから、慎重な投票を心がけたいものだ。

いずれにしても、選挙の結果生まれる新政権が安定多数を確保することは難しい。もしかすると、政権運営の不安定が原因で早い段階で再度の解散総選挙も考えられる。

ヘタをすると割とすぐにそんな事態になるかもしれない。その場合、再来年10月から10%税率に移行する消費税が争点になって、税率引上げ中止を訴えた政党が勝利する可能性も強まる。

結果、消費税率はいつまでも据え置きで、財政赤字は拡大、オリンピック後の景気低迷も追い打ちを掛ける形になって、わが国の財政状況がメロメロになるというオッソろしい事態が見えてくる。

そうなって欲しくはないが、どうにも危なっかしい。どっちに転んでもポピュリズムが招くのは未来へのツケでしかない。