2017年4月28日金曜日

アブラギッシュ


いつの頃からか牛肉が苦手になってしまった。今でも赤身の牛肉はウマいと思うが、それなりの店に行くと「霜降りこそ正義だ!」みたいな風潮が漂っているのでゲンナリする。

若い頃は脂身が大好きなアブラギッシュ野郎だったのだが、今では一切れで充分である。劣化であり老化だが仕方がない。

子供の頃は家ですき焼きをやる時には割下を入れる前に鍋に塗りたくなる真っ白な牛脂の塊までかじっていた。白い脂は友達だった。


焼肉屋さんで上等な盛り合わせを頼んだら画像のような皿がやってくる。私の感想は「白い」の一言である。

同行者がバクバク食べる姿が宇宙人のように見える。結局、チャンジャや牛すじ煮込み、韓国海苔あたりで酒を飲んで肉を一枚も食べないのに支払いはコッチ持ちという事態になる。

20代の頃、主食がカルビだったことを思うと複雑な気分だ。タンならサッパリだろうと期待してもオススメの上モノを頼むと白いヤツが出てきて困る。


仕事の会食で王道の一つがしゃぶしゃぶ屋である。そんな席に呼ばれる際には前もって胃薬は欠かせない。接待の場だからウンチクつきの霜降り肉が仰々しく登場する。

私も一応紳士だから「おっ、これはこれは凄い肉ですね~」などと言ったりするが、嫌いなはずの野菜ばかり食べる。

だからこっちが招待するときは絶対に牛肉メインの店には行かない。それこそが「おもてなし」だと個人的に思う。

プライベートの場合、とくに女性からしゃぶしゃぶやすき焼きを希望されると仕方なくニコヤカにエスコートする。こういう時に困るのがメニューの選び方だ。

インチキ富豪の見栄のせいで上等な肉を注文してしまう。下心がある相手ならともかく、下心完了済みの相手だろうと同じだ。

本当は赤身肉なら食べたいのに、赤身肉は価格が安く、メニューの下の方にしょんぼりと記載されている。

それを頼むと金欠キューキューオヤジだと思われてしまいそうで、ついつい無駄に高い方を注文してしまう。

なんともバカげた見栄である。でも、それが男の歩む道である。

よく脂身の多い肉について、「ワサビで食べるといい」「野菜を前もって食べると胸焼けしにくい」などという風評を聞く。そこまでしないとダメなら食べないのが一番だと思う。

「脂が乗った」と「脂っぽい」は別モノだ。今どきは肉だけでなく魚に関しても闇雲にギトギトした“脂感”をウリにしたものを見かける。

最近よく目にする「トロサーモン」や「トロ鯖」とやらも一体何なんだろう。ただただビチャビチャしてそうでちょっと恐い。

まあ、エラそうに脂っぽいものが苦手だと書いている割にはちっとも痩せない。結局は脂の乗ったウナギとか豚肉とか、なんだかんだとアブラギッシュなモノを摂取しているからだろう。

脂っぽい肉を毛嫌いしている私だが、私自身の身体は安いカルビみたいに脂身だらけである。

残念ながら共食いがイヤだから脂身から逃げているだけなのかもしれない。

2017年4月26日水曜日

老いては子に従え

   
まだオイボれてはいないので子供に従うのはイヤだ。とはいえ、世代がまったく違うから子どもから教わることは結構ある。

「ちょっと老いたら子に習ってみよ」。そんな感じだろうか。

中年を過ぎると当然ながら自分の生き方も固まってくる。それはそれで結構だが、一歩間違えると柔軟性を失う。

自分本位といえば聞こえはいいが、自己中心的で意固地になっちゃうのは格好悪い。素直に人の話を聞けなくなるのは老化の兆候かもしれない。

若い人の言動を若いからという理由だけで受け入れない悪いクセは世のオッサンの弱点である。

私自身、そういう傾向は少なからずある。そんなことでは逆に時代から取り残されるからもっとフラットに受け止めないといけない。

このところ、娘と会う機会が多い。高校生の感性と50男の感性だから、火星人VS縄文人ぐらいの隔たりがある。でも一応は仲良し親子だからズレまくりながらも協調している。

気づけば、結構いろんなことを教わっている。毛嫌いしていたLINEとやらも娘との間だけで使っている。やはり使ってみないと分からないことはある。

それ以外にも、IT方面というか、イマドキの情報のやり取り方法やツールの効果的な活用法など、娘と遊びながら覚えたことはいろいろある。


先日、娘にプリクラ専門店みたいな所に連れて行かれて、オチャラケ画像で遊んでみたのだが、オジサマ世代が知っているプリクラと現在のそれとは別モノだった。

機能の多様さに驚いたが、それを秒速でイジっている高校生の能力?にビックリした。コンピュータという言葉を未来の話のように聞いていた我々の世代とは別な人種みたいだ。

子供の頃、インベーダーゲームすら上手にクリア出来なかった私から見ると、イマドキの高校生が社会に出てくる頃が恐怖である。こっちは化石確定だ。

そうやって情報格差が想像以上のスピードで広がった後の社会の姿が興味深い。

日本のように平準化されたエリア内だけならまだしも、世界レベルで見れば、先進的なデジタル技能を操る人が大勢いる国とそうでない国との間には、人類史上にも希な物凄い格差社会が出来上がるのだろう。

そんな小難しい話は置いておく。

娘に教わったことで役立ったことはいくつもある。スナック菓子の進化とか美味しいスイーツの選び方とか、「back number」というバンドのイケてる感じ?とか、どうでもいいことが中心だ。

まあ、日常なんて「どうでもいいこと」が9割だから、こういう知識が増えるのは喜ばしいことである。


先日はサムギョプサル屋に連れて行かれた。娘の周辺では人気アイテム?なんだとか。もちろん、サムギョプサルは知っているが、いつの間にか世の中に専門店がいっぱいあることは知らなかった。

私が普段行く飲食店は、高級店、大衆店ともにオッサン、オバハンしかいない。世の中の若い人はどこに潜んでいるのだろうと思っていたのだが、こういう店で楽しくやっていたわけだ。

かなり美味しかったからチョット悔しい。置いてきぼりにされていたような気分になる。いろいろな豚の部位を食べ比べさせてくれるし、本場・ソウルの店のように小皿はいっぱい並ぶし、店員さんがマメに世話を焼いてくれる。



スイーツ屋にも頻繁に連行される。昭和のケーキぐらいしか知らない私にとってはこれもまた勉強である。

本来なら寿司屋とか焼鳥屋でホゲホゲしたい。でも最愛の娘のリクエストにはなるべく応じたい。たまにはシンドい時もあるが、そういう時は「これも勉強だ」と自分に言い聞かせる。

変な話、若いオネエサマ達に遊んでもらう際にそうした日々の努力が役に立つこともある。カラオケボックスに行っても、普段、娘に指導・叱責されているおかげで最新マシンの前で固まらずに済む。

素直に感謝しないといけない。

もちろん、威厳に満ちた父親として娘にいろいろなことを教えることも多い。

最近では、ウナギの白焼きがウマい店の選び方やイカの塩辛にゆずの皮を散らすのは最低だということをしっかり伝えた。あまり聞いていないようだったが・・・。

その他にも10代の男子の頭の中は鬼畜であるという事実だとか、キミの父親はそれなりにモテるんだぞという盛り気味の話もしっかり伝えた。

平和である。

2017年4月24日月曜日

アメリカがイヤだから


全米ツアーのために渡米した日本の人気ヘビメタバンド「LOUDNESS(ラウドネス)」が入国拒否にあったというニュースを見た。

「アメリカ、なんだかな~」って感じである。テロ以降、入国審査が非常に厳しくなったようだが、トランプさんの登場で一層厳しくなったそうだ。

つくづくそんな国には行きたくない。仕事で行く人は気の毒だが、旅行先としては全然ダメな場所になったと思う。

ゴールデンウィークにカリブ海に行くことにした。潜り納めである。30年以上続けてきた水中撮影を“引退”するためにコスメルというカンクンに近い島を目的地に選んだ。

カリブ海のリゾートといえば、アメリカ経由で行くのがポピュラーだ。20年以上前にカリブ海にハマった時も当然のようにアメリカ経由で出かけた。

最近はトランジットで立ち寄るだけでもアメリカの入国審査は何かとウルサイとのこと。そんな失礼な国はこっちから願い下げである。

ましてや、アメリカの航空会社の場合、先般のユナイテッド航空事件のように、ヘタすると離陸前に無理やり引きずり降ろされて血だらけになっちゃうかもしれない。オッソロしくて仕方がない。

で、虎視眈々と日本からメキシコ行きの飛行機に空席が出るのを待った。もちろん、マイルを使った無料航空券の空席待ちである。インチキ富豪だからマトモな値段でビジネスクラスのチケットを買うほど余裕はない。

全日空が今年からメキシコシティへの直行便を飛ばし始めたのを知り、我が思い出の地であるメキシカンカリブへの再訪を企んだわけだ。

うまい具合に座席が確保できた。マイル様々である。一時期は妙に高かった燃油サーチャージという名の意味不明な追加コストも安くなったから大助かりである。

メキシコシティからの飛行機はあちらのLCCをネットで手配した。大量に荷物を持ち込む追加料金も意外に高くなかった。万事OKである。

コスメル島(Cozumel)に初めて行ったのは25年前である。四半世紀も前の話だ。たまに遊んでもらうオネエサンが赤ちゃんだった頃だと思うとビミョーな気持ちになる。

カリブ特有のソーダブルーのような海の美しさはそれ以前にケイマン諸島などで経験していたが、コスメルは陸上、すなわち街が陽気で楽しかったから大ファンになった。

メキシコっぽい音楽がアチコチから聞こえてくるし、陽気な現地人とのやり取りも愉快だし、異国情緒たっぷり。

顔ぐらいはあるデカいサイズのグラスで夕陽を見ながらフローズンマルガリータである。カンクンは人工的な都会だから適度に素朴なコスメルのほうが個人的には好みだ。

翻訳ソフトが日進月歩で進化しているおかげで、現地のダイビングショップとのやり取りもラクになった。今回もマイペースで潜れるチャーターダイビングがスムーズに手配できた。

その昔、英語が達者な当時の嫁さんにイヤな顔されながら英文メールを作ってもらったことを思うと、今更ながらIT化の恩恵を痛感する。

旅は計画段階が一番楽しい。今回もウキウキしながら深夜までパソコンに向かってアレコレ調べたり、メールのやり取りを繰り返している。

かなり楽しんでいるので、潜水引退旅行とか言いながらプロレスラーのように平気で引退を撤回する可能性も大いにある・・・。

でも、昔なら全日程を潜ることだけに費やしていたのに、今回はストップオーバーのような感じでメキシコシティに滞在したり、潜水以外のぶらぶら計画を立てたりしている。

やはり水中への情熱は昔より弱まっているようだ。やたらと面倒くさい水中撮影機材の事前のチェックや荷造りにはまだ手を付けていない。これが年々億劫になったのも引退したくなった要因だ。

遊びに行くくせにそんなことではバチが当たる。真面目に準備して真面目に潜ってこようと思う。

2017年4月21日金曜日

某月某日 銀座にて


とある日のこと。中途半端な時間に有楽町でフリーになる。ふらふらと銀座6丁目の和食屋さんに赴く。時々思い出したように訪ねる店だ。

カウンターは5席のみ。4人連れのお客さんが私と入れ替わるように帰ったので、一人ノンビリと甘鯛やタケノコを肴に燗酒。

同伴客の流れが一段落する夜の9時頃の銀座が結構好きだ。どこかユルユルした雰囲気が漂う。

などと、好々爺みたいな気分でいたら、ちょっと賑やかな4人連れが入ってきて空いたばかりのカウンターに収まる。

ふと顔を合わすと中学高校の後輩である。有名な作家先生や綺麗どころを引率している。

時々この街で顔を合わす後輩なのだが、世の中に知らぬ人のいない会社のトップだ。VIP様である。なのにイケメンだからちょっと腹立たしい。

偶然会ってしまった知り合いの場にワケ知り顔で混ざるのはヤボの極みである。でも、カウンターの造りの関係上そうもいかない。結局、なんとなく混ざってしまいワイワイと飲む。

私の隣には有名な作家先生。たまたま半月ぐらい前に毎晩のようにその人の短編集を読んでいたので、私としては結構ビックリである。

そのことを得意になって話したのだが、タイトルや内容を聞かれても思い出せない。実にウソっぽい話になってしまった。変なミーハー野郎みたいでカッチョ悪いったらありゃしない。

そんなもんである。

でも、なんだかんだと作家先生と高尚な下ネタで盛り上がる。中高年の愛の世界の葛藤を描かせたら天下一品の人だ。つい最近も大きな文学賞を受賞したそうだ。

銀座の夜の話、中年男のアッチの機能における切ない話などを語り合う。後輩VIP社長が女性陣と穏やかに会話しているのをヨソにオッサン的ディープトークに花を咲かせた。

その後、ヤボの上塗りで御一行様に付き従って7丁目の某老舗クラブへ。この日は“文壇バー”として知られるこの店の周年パーティーが帝国ホテルで行われたとか。その流れで店内は大盛況。

見回せば有名な作家センセイ達があちらこちらに座っていた。私が知っているだけでも相当な人数だったから、文学好きの人が見たらオールスター感謝祭状態だったのだろう。

銀座でボケッと飲んでいると有名人を見かけることは多いが、さすがにこの日のその店は独特な眺めだった。国会の食堂で隣の席で「小沢一郎」がカレーを食べていた時のようなプチ衝撃である。

よく分からない例えでスイマセン。

いずれにせよ、ひょんなことでとても面白い時間が過ごせた。やはり家に引きこもっていないでブラブラすることも大事である。

料理屋さんからご一緒した作家先生の話が面白かったので、翌日にはさっそくAmazonで何冊も注文してしまった。割とミーハーかもしれない。

ちなみにその数日後、別な店でのこと。隣の席で我々世代の大人気アイドルが飲んでいた。見る人が見れば大いに興奮するのだろうが、私から見れば眠そうな様子にしか見えなかった。

アイドルよりも作家先生や「小沢一郎」と遭遇する方が何となく気分がアガる私だ。

きっと文化的な人間なんだろう!

そういうことにしておく。

2017年4月19日水曜日

安いもの 高いもの 成熟社会


高級化か大衆化か。どんなジャンルにおいても商売のターゲットをどの階層に合わせるかは難しい問題だ。

路線設定で迷走すると良い商品だろうと消費者から受け入れてもらえない。安いから売れる一方で高いから売れるものだってある。

10年ほど前のデフレ不況の中、安さこそ正義といった風潮が強まった。あの頃、安値競争に明け暮れたのがファストフード業界だ。

牛丼やハンバーガーが安さばかり競い、結局はメロメロになった。私が大好きな「松屋の牛丼」は今やプレミアム牛丼という名で適価で勝負している。実際に昔より美味しくなった。

100円マックで迷走していたマクドナルドも最近になって「グランマック」なる高級商品を売り出した。


グータラしている週末に「マックデリバリー」を活用する私である。さっそくグランマックシリーズを出前してもらった。

マトモだった。100円マックを全否定するわけではないが、「ハンバーガー」を名乗る以上、やはり多少高くてもマトモな商品もラインナップすべきだろう。

ファストフードに限らず、最近では格安航空会社、いわゆるLCCもサービスの差別化に取り組んでいるらしい。せっかく旅行するのに養鶏場のブロイラーみたいな扱いを受けるのは厳しいから当然の流れだろう。

そういえば、もう10年以上前だったか、JALが国内線のスーパーシートを全廃してヘビーユーザーである大人達から大不評を招いたことがある。

その後、クラスJとやらを設けて巻き返しを図ったが、あれを機会にJALからANAに乗り換えた人は多かった。

確かに安いことは有難いが「安かろう悪かろう」ほど不快なものはない。若者はともかく、そこそこの大人であれば「ちゃんとしたもの」「上質なもの」を求めるのはある意味あたり前のこと。

贅沢ウンヌンではなく、元気ハツラツの若者と年配者では求めるものが違うのだから、はっきりとした区分けとかランク分けは不可欠だと思う。

ちなみに、父娘戦争で話題を集めた大塚家具にしても紛争のきっかけは路線対立である。結果、カジュアル路線、大衆路線に舵をきった現体制の低迷は周知の通りだ。

いま書いてきたような話は、いわば“デフレ後遺症”みたいなものだろう。本当に良いものが極端に安いはずがないのは当たり前のこと。安易な安値競争はすべてにおいて質の低下を招くことにもつながる。

飲食店だって同じだろう。安さだけがウリの居酒屋だとビールだってニセモノだし、鶏のエサみたいな怪しげな食べ物を出してくる。

経済的な理由でそういう店を選ぶのは仕方ないが、あれだったら家飲みのほうが同じ値段でもマトモな酒や肴が楽しめると思う。

安さ一辺倒で質が低下することは、大げさではなくその分野における文化の質も低下することになる。

先日、久しぶりに回転寿司を食べた。テレビでもさかんにCMを流している人気チェーンだ。

ビックリしたのが寿司を握っている人がいないという点。いないというか客からは見えない作りになっている。なんだかロボット工場みたいな印象だ。

目の前に置かれたパネルを指でタッチしながら注文する。回転レーンには席ごとに小窓みたいな開閉口があり、パカッとそこが開いて注文した皿が出てくる仕組み。

システマチックでスピーディーだが実に無機質。軍艦巻きなどは皿が出てくる勢いのせいで結構な頻度で寿司が倒れちゃっている。

ネタによってはちゃんと美味しいからハヤるのも分かる。でも、あれを寿司屋とは言わない。大きなお世話だが、あの世界しか知らない子供が大きくなった時、寿司文化はどうなっちゃうのだろう。

なんだかグチみたいな話になってしまった。

マトモなもの、本当に良いものにしっかり目を向けることは結果的に文化を守ることにもつながる。独自の歴史に彩られたこの国にとっては凄く大事な要素だろう。

世界一の超高齢社会である以上、それを逆に強みと捉えたほうが建設的だ。若さには無い成熟という武器があるのだから、安さばかり追い求めずに質の面に敏感になりたいものだ。

2017年4月17日月曜日

喫茶店 郷愁


先日、旧友達と飲んだ際に、若かりし頃に通った喫茶店の話になった。高校生当時、放課後のたまり場だった喫茶店である。

高校2~3年の頃、ちょくちょく出入りした飯田橋と神楽坂の中間ぐらいにあった喫茶店が「N」。2階建ての店で2階の広いスペ-スが我らアホガキ達の居場所だった。

2階に上がる階段は他のお客さんが上がってこられないようにしてもらい、一種の治外法権のように使わせてもらった。

おかげで先生達の放課後の見回りもクリア出来たし、タバコも置きっ放しに出来たから学校での手荷物検査にビビる心配もなかった。

ソファ席でふんぞり返って日々アホバカ話に花を咲かせた。なかには近所の女子高生を連れ込んで淫行に励むバカもいた。いろいろな思い出がある。

その喫茶店は我々が大学生の頃に店じまいして、その後は神楽坂上でスナックに変わった。今でも営業中である。ということで、飲み会のついでに旧友と遠征してみた。

その昔、オバサンだった店のママさんは当然のようにオバアサンに変貌して店を切り盛りしていた。旧友のうちの一人を覚えていたようで、昔話で盛り上がってワイワイ飲んだ。

結果、ビミョーにボッタクリ気味の御勘定だった。昔の恩義への出世払い?みたいなものである。

スナックの話ではなかった。今日は昭和の喫茶店の話だ。

喫茶店を取り巻く環境はあの頃と今とで随分変わった

30年ほど前に比べて喫茶店の数は半分になったそうだ。スタバ、ドトールなどチェーン店は目立つものの、個人経営の喫茶店が激減したのだろう。

私が高校生だったのは昭和50年代である。まだまだ世の中はノンビリしていた。今のようにコマ切れに空いた時間をセルフのカフェで過ごすという文化は無かったように思う。

喫茶店といえば、どっかりのっそり?腰をおろしてダラダラ過ごす場所だった。いわば「談話室滝沢」や「ルノアール」が基本である。

得体の知れないカタカナ言葉でコーヒーを表現するスタバ的世界観など無かった。牧歌的だった。

一応、若者だ。ルノアール的な店にたむろする人相の悪いオッサンが苦手だったから若者っぽい喫茶店を根城にした。

「摘発」を恐れていたから、どことなくヒッソリ構える店が基本だった。店を開拓する際は制服姿の高校生に平気でタバコを吸わせてくれる店かどうかを試した。

もちろん、叱られることも多かった。そそくさと退散して「大らかな」店を探し続けた。時代のせいもあってアホガキ達を悠然と迎えてくれる店は簡単に見つかった。

喫茶店が街のアチコチにあっただけでなく、誰もがどこでもタバコを吸っていた時代ならではのヌルさだろう。おそらくイマドキの高校生は我々の頃より窮屈な思いをしているはずだ。

東京の私立校だったから友人連中の住まいはバラバラ。下校の際の乗り換え沿線別に応じた場所に馴染みの喫茶店がいくつもあった。

先輩達から受け継がれた店、自分達で開拓した店などさまざまだ。部活や選択授業の関係で日によって微妙に入れ替わる同行メンバーの顔ぶれで行く店を選んだ。

代々木、新宿、渋谷あたりが中心だった。ナゼか信濃町にも出没した。ボリュームのある食べ物を出してくれる店では、「焼肉ライス、タマネギ抜きで!」などとワガママばかり言っていた。

連日の喫茶店代、タバコ代が大変だったから、昼飯を抜いたり、こっそりクラスメートの弁当を勝手に早弁して凌いだこともあった。

日々、喫茶店で何を語り合ったのかまるで記憶にない。でも楽しかったから飽きもせずくだらない話で騒いでいたのだろう。

高校1年の1学期に飲酒喫煙で停学処分を食らってしまったので、残りの高校生活は、いわばリーチ状態。2度目の停学になるとソク退学になる学校だったから日々ビビりながら過ごしていた。

ただのバカである。でも、そんな環境のおかげで人としての要領を学んだ。そんな思いまでしてバカ話に盛り上がっていた少年時代が懐かしい。

今日は昭和の喫茶店の特徴なんかを書こうと思っていたのに単なる懐古話になってしまった。

とりあえず、昔の喫茶店のクリームソーダが妙に飲みたい。

2017年4月14日金曜日

芸能ネタ 原田龍二 中条きよし


芸能ネタに熱くなっている人を見ると「くだらねえな~」と言いたくなる。そんなことを言いながら、私は結構芸能ネタに詳しい。ちょっとした芸能ニュース通である。

言い訳をすると、娘と話を合わすためにAKBやジャニーズのニュースを勉強してきたのがきっかけである。関連ネタをニュースサイトで拾っているうちに、その他の話にもそこそこ詳しくなった。

それ以外にも、週刊誌にマメに目を通すからついつい有名人の不倫ネタまで読んでしまう。今の世の中、政治経済を含めて週刊誌のほうが日刊紙より世相がよく分かるのだが、おまけのように芸能ニュースにも詳しくなる。

平和である。

ここ数年、昭和のスター達の訃報をよく目にする。世代的に関連するエピソードはジックリ読んでしまう。今年でいえば松方弘樹がいかに豪快だったかという話は熟読した。

AKBやジャニーズがすべった転んだという話より、やはり「昭和」を感じさせる話にはアンテナが向く。

子供の頃、桜田淳子が大好きだったから最近の復活話には少し興味がある。でも、現在の姿をメディアで見るたびに切なくなる。見なきゃいいのに見てしまう。

このブログで芸能ネタを書くことは少ないが、以前、「中条きよし」を熱く語ったことがある。

http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2015/09/blog-post_4.html

御年71歳である。平たくいえば「おじいさん」である。でも、我らが「中条きよし」は相変わらず“夜の男”の匂いがプンプンだ。さすがだ中条!、ガンバレきよし!である。


そんな中条きよし兄貴が久しぶりに芸能ニュースに登場した。新曲を出したらしい。タバコを吸う人の応援歌だとか。時代からズレている感じが素敵だ。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170405-00000108-dal-ent

タバコには色気やムードがあると語る中条きよし。彼が言うと説得力がある。いまどき、タバコをくゆらせてムードが出る人など彼と私ぐらいだろう。

彼は喫煙者がみんなでレコードを買えばミリオンヒットだと豪語する。でも彼自身はとっくに禁煙しているそうだ。さすがだ中条きよし!

続いては「原田龍二」である。どちらかといえば地味な俳優さんだが、なぜか昔から私は「原田龍二」が気になる。


このブログでも3年ほど前に彼の素晴らしさを讃えたことがある。コメと温泉が彼の活力の源である。

http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2014/05/blog-post_12.html

昼ドラや旅番組、BS的な番組で見かけることが多かった原田龍二だから、昨年大晦日の「ガキ使」で素っ裸で登場した時は驚くというより感動した。

そんな局面で起用されても彼の一本気で誠実そうな感じは一貫していた。さすが龍二!である。

見逃した人はゼヒ見るべきです。

https://www.youtube.com/watch?v=QZ522KLosPg

微妙に笑いをこらえながらも必死で練習しただろう芸を渾身の力で披露する原田龍二。プロである。ポっと出の新人2枚目タレントではこうはいかない。

神々しい姿だった。

そんな原田龍二だが、独特な地味な感じが影響してか、芸能ニュースに取り上げられることは少ない。

しかし、この春は違った。星野源やキムタクのネタで賑わう芸能ニュース欄に彼の名前が登場した。知る人ぞ知るTOKYO・MXテレビの「五時に夢中」の司会に4月から起用されるという快挙!が報じられていた。

MXテレビとはいえ、隠れた人気番組である。私もわざわざ録画してまで見ることがある。マツコ・デラックスが大ブレイクするきっかけになった番組で、一種異様なヌルさが特徴だ。

原田龍二のMCはまだ週1回である。その他の曜日まで制覇できるかどうかは彼の今後次第である。なんとか頑張って欲しい。

このブログでは、いつも「どうでもいい話」を書いているが、今日はいつにも増して「どうでもいい話」に終始してしまった。

でも、こういう話を書くのは実に楽しい。

2017年4月12日水曜日

桜、そして新緑


桜前線が北上中だ。東京の見頃は終わったが、今年もホノボノした気分にさせてもらった。自然の営みに感謝だ。


桜は日本文化の象徴である。事実上の国花といえる。桜に心を動かされない人は皆無と言ってもいいだろう。

個人的には桜より梅のほうが好きだが、それでも見頃を迎えると、あの特別な美しさに魅了される。

4月新年度のわが国では、桜は一種の節目の役割を持つ。私自身、毎年この時期になると、なんとなくリセットされるような気分になる。

満開の桜を眺めていると、先に逝ってしまった人、二度と会う機会がなくなった人のことを思い浮かべる。

「散る桜 残る桜も 散る桜」

いつもそんな心境になる。来年はどこで誰と眺めるのだろう。10年後はどこでどんな気持ちで眺めるのだろう。ボンヤリとそんなことを考える。

などと、情緒あふれる?書きぶりだが、実際には桜見物を当て込んだ屋台の焼そばに目が行ってしまうのが世俗のアカにまみれた私の基本パターンでもある。


桜の木の下には死体が埋まっているそうだから、やはり夜桜より春の日射しを浴びている桜のほうが断然美しい。

いくらライトアップしようが、青空に映える桜にはかなわない。撮ってどうする?と自問自答しながらついつい綺麗な桜にはスマホを向けて撮影する。


いずれも会社から徒歩2分の隠れた名所で撮影。今年は焼そばの屋台が出ちゃって情緒が薄れてしまったが、古いお寺の境内に桜並木が続く。門とコラボする桜の風情が美しい。

香りの点、はかなげな点で桜より優れている梅をヒイキしたくなる私だが、さすがに梅の季節は寒い。

「うららかな日射し」とか「ひねもすのたりのたりかな」といった雰囲気にはならない。夜桜をマネして夜梅見物などしたら凍えてしまう。

「梅VS桜」論争自体が無意味なんだろう。これからはもっと素直に桜を愛そうと思う。


これは3月後半ぐらいになると見かける気の早い桜だ。2月の閑散期で困窮した銀座のクラブはこぞって3月には桜祭りと称して集客に励む。

花盗っ人から仕入れるのか、専門の栽培業者がいるのかは知らないが、アチコチの店で窮屈そうに桜が咲いている。

綺麗といえば綺麗だが、鳥かごに入っている野鳥、もしくは標本にされちゃった蝶みたいな不自然さが漂う。

胸元やら太股やらうなじといった美しい鑑賞対象が勢揃いしているから、不自然な桜をじっくり眺める客はいない。ちょっと不憫である


こちらは杉並区某所にある私の実家での花見の会だ。私の兄が主催してほぼ毎年開催している。私も2回に1回ぐらいは顔を出す。

世知辛い時代を反映してか、以前、近所からの苦情があったそうで、今年はやや小規模にして騒音が出ないように配慮していた。

実家自体は建て直ししているので、私自身の思い出や思い入れは無い。でも、庭に咲く桜の大木は私が生まれた頃からそこにある。

私が赤ん坊の頃を知る桜だ。樹齢はもう70年を遙かに超えるらしい。私が子供だった頃より2倍ぐらいに大きくなったように感じる。

平均的な樹齢を考えると、ここまで大きくなってしまった桜の木がいつまで元気でいてくれるかが気になる。

有名な小説「最後の一葉」ではないが、私が生きている間は毎年毎年花を咲かせて欲しいものだ。

さてさて、東京の桜は今年は終わり。桜が散った後に入れ替わるように出てくる新緑の芽がこれまた愛おしい。

道端に散らばる桜の花びらが片付いた頃には、アッという間に木々は緑の葉に覆われる。新緑の力強い美しさもまた心を揺さぶってくれる。

昔はちっとも目に入らなかったが、歳を重ねてくると、つややかな若葉の輝きにやたらと目を奪われる。物凄く魅力的だ。

こんな感覚も加齢が原因だろう。でも、季節の移り変わりを楽しめる国に生まれたからには、そんな変化を楽しまないともったいない。

加齢も大いに結構だ。

2017年4月10日月曜日

外食健康説


「外食ばかりじゃ身体に悪いよ」。何度も聞かされている言葉だ。耳にタコである。

私の場合、自宅にいる方が得体の知れないモノを食べるので、あながち外食が不健康だとは思わない。

スーパーで売っている惣菜は店の残り物で腐りかけだろうし(勝手な思い込みです。スイマセン)、デリバリーでやってくる料理もおそらくブラジル産の鶏肉だろうし(違ってたらゴメンナサイ)、コンビニで売られている食べ物だって怪しげな化学物質だらけ(とりあえずゴメンナサイ)だと思う。

家で一から料理に励むなら、質や産地や味付けにもこだわってヘルシー生活が実現できるだろうが、今のような便利な時代にそんなメンドーなことはしたくない。

カレーを例にとっても料理が得意じゃない人が作るより高級レトルトのほうが遙かにウマい。冷凍食品だって昔とは比較にならないぐらい美味しい。

イマドキの手軽な食べ物に防腐剤がぶりぶり入っていようが個人的には全然問題なし。こっちはいつ孤独死するか分からないから、発見された時に少しでも腐乱しないように日頃からせっせと防腐剤を摂取したほうがいい。


さて、先日、「外食健康説」を強く主張したくなるような時間を過ごした。晩酌気分でおでん屋さんに行った時の話だ。

銀座にある「おぐ羅」は、おでん以外の料理がウマい。高いことは高いが、質の良いモノを丁寧に料理してくれる。私にとって秋のサンマの塩焼きはここが一番。

上の画像は、カニ味噌で燗酒という不健康な一コマだが、それはさておく。


カツオのたたきである。この店の名物だ。異様なほど薬味が大量に載っかっている。ネギ、生姜、ミョウガ。いずれもヘルシーな面々である。

薬味という名の野菜をたっぷり載せて味わうカツオが最高なのはもちろんなのだが、カツオを食べ終わると、祭り状態の薬味が新たに活躍する。

薬味がたっぷり残った皿におでんの豆腐を投入する。ネギも追加トッピングである。熱い豆腐を薬味ポン酢が冷ましてくれる効果もある。猫舌の私には有難い。


カツオと豆腐を食べたというより、薬味、すなわち野菜!をたくさん食べたような気分になる。実にヘルシーだ。自宅で大量に薬味を準備するなんてメンドーだから外食ならではの楽しみだ。

続いてはタケノコの煮物がやってきた。外食というシチュエーションのせいで、つい春らしい一品を注文した。家でタケノコを食べようとは思わないから、これまた外食の効能である。

写真を取り損ねたが、薄味のだしで炊き込まれたタケノコにホッコリする。炊き合わせの定番である菜の花もゴロゴロ入っていた。

菜の花は正直言って大迷惑なのだが、紳士ぶっているオトナの男としては残すわけにはいかない。平気な顔して全部食べる。これまた外食の効能である。

で、そうこうしながら上の画像のように燗酒をグビグビ飲んでいたら、そこそこ腹が治まってきたので、おでんは少しだけにする。


ぜんまいにロールキャベツにタマゴである。タマゴはともかく、ぜんまいとロールキャベツなんて家にいたら絶対に口にしないはずだ。おでん屋という場所の持つ雰囲気にのまれて注文したようなものだろう。

外食ならではのヘルシーな時間だった。

お次は「ダチョウの肉」である。たまに一人で足を運ぶ池袋の居酒屋に常備されている。さすがに家メシでダチョウを食べることはないから外食ならではの食材だ。


臭みは一切無し。締まった肉質でサッパリとウマい。クセもまったく無いからいくらでも食べられそうな感じだ。

カロリーは牛や豚の半分以下で鉄分も豊富らしい。カルチニンという脂肪燃焼効果のある成分やクレアチンとかいう筋肉増強成分も豊富なんだとか。


こちらは同じ店で食べた鶏のつくね。大根おろしが山盛りである。いうまでも無く大根おろしはヘルシーの塊である。

この日は梅干しサワーをグビグビ飲んだ。これまたヘルシーである。

「身体に良いものばかり食べる」という私の一連の行動はすべて外食のおかげである。

ちょっと強引な論法にも思えるが、私自身がそう思い込まないと身体に悪いような気がする。

信じる者は救われる!そういうことである。

2017年4月7日金曜日

夫婦の話


日本人の平均年齢は46歳。世界一高齢だそうだ。だからどうしたって感じだが、イギリスの40歳、アメリカの37歳、中国の36歳、インドの27歳と比べると、高齢化社会を実感する。

平均年齢より上にいる私は世界レベルでオジサマである。なんだかビミョーな気分だ。世界的オッサンなのに頭の中はロクでもないことばかり浮かんでいる。どうしたもんだろう・・・。

さて、平均年齢よりも上にいるということは、それなりに人生経験を積んできたわけだ。実際に昔より世の中を俯瞰して眺めることも増えた。

で、最近つくづく不思議に思うのが夫婦の在り方である。

私自身は数年前に戦線離脱したから呑気にシングルライフを満喫しているが、普通の50歳ぐらいの人はたいていが家庭持ちである。

「家庭」と聞くとホノボノした光景が思い浮かぶ。ところがどっこい、結構グダグダな状態の夫婦がたくさんいる。

ラブラブな夫婦など実に少ない。生まれ変わったらラブラブ夫婦生活を送りたいと願っている私にとっても大いに気になる問題である。

仲が良いのに照れ隠しでそれを隠す人もいるが、そういうハンパ者はさておき、実際に根掘り葉掘り取材?してみると、ドロドロに不仲な夫婦が意外に多い。

ヨソで遊んだ流れで嫁さんに性病を移しちゃったせいで不仲になった友人がいる。そんなファンキーな大失態が原因なら仕方ないが、とくに大きな理由もなく険悪になる夫婦は多い。

とっとと別れちゃえばいいと思うのだが、コトはそう簡単には運ばない。口もきかず、事務的な空気の中で歳月が過ぎてゆく。実に気の毒であり、当人にとっても悲劇だろう。

私の場合、結婚生活は通算!?で20年にも満たないからエラそうなことは言えないが、やはり夫婦がそれぞれの立ち位置、役割の違いを認識してわきまえて行動しない限り衝突するのは当然だ。

しょせんは他人だし、好いたはれたなんて2~3年がせいぜいだ。そこから先は同志的連帯感を模索するしかない。

同志になるためには子育てという共通テーマが最適なように思えるが、実際には中高年になっても仲の良い夫婦の多くが子供がいないケースが多い。

子育てをきっかけに夫婦が険悪になるわけではないだろうが、やはり「母親」になれば女性は子供が命だ。ダンナのことは二の次になる。

子供が育つのは母性のおかげである。男達はたいして役に立たない。そんな現実のなかで衝突や対立が増え、夫婦それぞれがそれまで描いていた家庭像が徐々に現実に変わっていく。

男も女も当然ながら自我があるし、若いうちは変なプライドもある。そういう中で他人と他人が協調していくのは簡単なことではない。

子育て中はあまり仲が良くなかったのに、その後、夫婦二人で仲よく食事に出かけたり旅行に行き始める夫婦もいる。そうなったら戦友的な絆が強まっているわけだから、キチンと見取り見取られる関係になっていくのだと思う。

不仲な関係で家庭生活を続けるのは物凄いストレスだし、大げさではなく中高年男にとっては命に関わることだと思う。

限界だったら踏ん張らずに離婚するのも正解だ。離婚に必要なアノ膨大な労力を費やしてまでそうしたいなら無理に我慢する必要はない。でも、将来的に“戦友的な絆”につながりそうな可能性があるなら、命がけ?で夫婦生活を続ける価値はあると思う。

私自身の周りを見回しても、ビミョーな関係の夫婦は数多い。離婚準備中みたいな話をしょっちゅう耳にする。実際に離婚するのは少数派だと思うが、つくづくニッポンの中高年にとって「夫婦」という問題は厄介なテーマになっているようだ。

まあ、間違いなく言えることは、最初から最後まで仲よく円満に過ごせる結婚相手を見つけることは、宝くじに当たるぐらい難しいことだということ。

皆様の努力を差し置いてあえて言うならば「運頼み」以外の何物でもない。

ちょっと結論が刹那的すぎるだろうか。

でも間違いなく「運」だけだと思う。

2017年4月5日水曜日

不倫と社会 モテない人


かりそめの恋、道ならぬ恋。こんな世界を描いた映画や小説はいつの時代も人気だ。歌の世界やテレビドラマもこんな路線が定番だ。

平たく言っちゃえば不倫を描いているものが多いのだが、そんな世界観に感動しながら、有名人の不倫ネタにはバッシングが続く。これが窮屈な今の社会の姿だ。

俳優の渡辺謙さんの不倫ネタがその他のタレントよりバッシングが少ないことが話題になった。大物は叩かれないだの、日頃の好感度が違うなど、あれやこれや物議を醸していたが、世の中が不倫叩きの愚かさにようやく気づいたのかもしれない。

しょせん人様の家庭の話である。鬼の首を取ったかのように騒ぐ話ではない。バレちゃった人もテヘヘと頭をかいて嫁さんに謝ればいい話。

浮気に毛が生えたぐらいの行為で天地がひっくり返ったほど騒ぐのはバカげている。そんなに世の中の人々は聖人君子なのだろうか。

ここ10年、いや20年ぐらい前からだろうか、日常の広範囲にヘンテコな息苦しさが広まってきた。

アレもダメ、コレもダメみたいな基準というか闇雲な規制、統制が渦巻いている。大らかさや大人の了解事みたいな概念をすべて悪いことだと決めつけるおかしな風潮が支配的だ。

自分の頭でモノを考えない人が多いから、こと細かいくだらないことまで誰かの指図を鵜呑みにする。その結果、チンマリとした枠の中で汲々と暮らしながら枠を外れた人を必死で非難する。

ちょっとエラそうな書きかたになってしまったが、結局は凄く狭い価値観の中でその価値観を絶対だと思い込み、少しの脱線すら許さないという窮屈で意地悪な社会になっている。

大げさに言えば、これが「戦後民主主義」という表現にカモフラージュされた「日本型社会主義」のなれの果てなのかとも思う。

わが国はとかく横並びを是とする集団的社会である。欧米とは異なり、肌の色も髪の色も同じ人々が集まっているだけでなく、やっつけ的に押しつけられた民主主義を生ぬるい平等意識だと履き違えてきた。

その結果、横並びこそ美徳という考えが主流になり、列から外れた人を嫌悪する流れになるわけだ。出る杭は打たれるという諺の通りである。

おまけに、かつての“一億総中流”という収まりの良い生活スタイルが時代の変化と共に崩壊し、現在は格差社会である。

本来、資本主義社会であれば格差が生まれて当然なのだが、官僚制社会主義とも言われるわが国では、巧み?な行政運営によって格差を生まないような政策が徹底されてきた。ところが、そうした政策が結局は財政を逼迫させ、結局は本格的な格差社会につながった。

格差に慣れ親しんだ社会であれば「達観」とか「あきらめ」という形の一種の大らかさもあるのだろうが、そこまで至っていない場合、ネタミばかりが広がる。だからヘンテコな監視意識につながる。

なんだかウザったい書き方になってしまった。稚拙な評論みたいでスイマセン。いつも頭の中はエロいことしか考えていないのに何をカッコつけて書いているんだろう…。

要はなんだかんだ言って、横並びを良しとする世間様は、その列から少し脱線しただけでスグに妬む。ネタミ社会だ。単なる妬みや嫉妬だとカッチョ悪いから正義感のフリしてバッシングに励む。それが現実だろう。

ちょっと乱暴だが、近頃の不倫バッシングを突き詰めれば単なるモテない人のネタミだろう。

そんなことを書くと全日本モテない人連合?とかから激しく糾弾されそうだが、他人の不倫ネタにブツクサ言っている人はモテなさそうな人ばかりだと思う。

そもそも不倫の定義がよく分からない。結婚している人が、嫁さんやダンナ以外と関係を持つことだとしたら、風俗でハッスルすることも不倫である。

こっそり風俗に行ってムホムホしているモテないオジサンや道ならぬ恋の歌をカラオケで熱唱しているオバサンなんかが不倫バッシングの中心のような気がする。

とか言いながら私自身、最近ちっともモテる機会がないから、ネタミ陣営のほうに参加しないように気をつけようと思う。

このブログはたいてい勢いで一気に書くのだが、今日は雑事の合間に途切れ途切れで書いたから、まるでまとまりの無い話に終始してしまった。反省。

2017年4月3日月曜日

お一人様ディナーの時間


食べる行為は大きく二つに分かれる。「楽しむ食事」と「生きるための食事」だ。

純粋にプロの技を楽しんだり、酒との取り合わせを楽しむ場合など、その時間をじっくり堪能するのが前者だ。後者は単に生きるためにエサ?のように食べ物を口にするパターンである。

コンビニでおにぎりを買って移動中にせわしなく食べたり、カップ麺でちょちょっと済ますような「生きるための食事」であれば、ほんの5分もあれば終了である。

5分で済んじゃう食事はさすがに寂しい。というわけで、今日は「独り者が外食する場合の食事に要する時間」を考えてみたい。

「早メシ早グソ、芸のうち」という格言がある。要はダラダラと食事をすることを暗にいましめているわけだ。

「長っ尻」(ながっちり)という言葉もある。一般的に店屋でいつまでも帰らない迷惑な客を指す。

いずれにしても「ダラダラ食い」は格好悪いというのが世間の常識である。

ここが悩ましいところである。酒を楽しみながらアレコレとウマいものを楽しむと結構な時間が必要になる。

とくに「おひとりさまディナー」の場合、あまりせわしないと何となく世間からの疎外感を感じる。考えすぎか。

ランチじゃあるまいし、ディナータイムにざる蕎麦やドンブリ飯をかっこんで終わりというパターンだと何となく損した気分になる。1日の終わりを祝して小鉢や小皿なんかも並べたくなる。

江戸のファストフードだった寿司なんかも、とっとと食べてサっと帰るのがイキなのだが、私の場合、“夜寿司”はいつも長丁場になってしまう。悪いクセである。

ヘタすると2時間コースだ。さすがに長い。最後のほうは酔っているだけ。せめて1時間半、なるべく1時間ぐらいで済まそうと思っているのだが、気付けば長っ尻である。

プチ常連ぐらいの店なら1時間路線を実践できるのだが、昔から顔を出している店だと無駄話に花を咲かせて長居してしまう。

そんなダラダラ系ヤボ客である私だが、その日の気分によっては「食事を楽しみたいけど、長っ尻はしないでさっさと終わらせたい」という相反する問題にぶつかる。

そういう日はだいたい連日の酒に疲れている時だ。だから酒が二の次になるし、長く腰を落ち着けるのも避けたい。

洋食屋、トンカツ屋あたりの出番である。寿司屋、焼鳥屋、おでん屋あたりだとどうしても酒をダラダラ飲むパターンに陥る。

そんな気分の時に出かけることが多いのが銀座の煉瓦亭だ。銀座だと食事のあとにネオン街に吸い寄せられそうだが、煉瓦亭は3丁目だから安心?である。


私にとっての魔界は7丁目と8丁目だ。酒は二の次でササっとウマいものを食べたい時なら、3丁目から魔界に遠征しちゃうリスクは低くなる。

この店の良いところは「仰々しくない気軽な雰囲気」である。かといって昭和レトロの独特な風情がタダモノではない雰囲気を醸し出す。値段も手頃で味も正統派。画像はエビマカロニグラタン。

ビールの中瓶を1本、その後にグラスワインを一杯。アルコールはその程度でクリームコロッケとかハヤシライスを頬張れば、1日のシメにうってつけだと思う。


こちらは上野御徒町にあるトンカツの名店「ぽん多本家」のカツレツ。ツマミメニューがあるわけではないので、ここでも瓶ビール1本に酒1合ぐらいでアッサリ引き上げる。

ダラダラ飲んで長っ尻になりがちな私にとって、こうした店は一種のリハビリ?作用がある。サッと食ってサッと帰る。野暮天にならないために大事な心掛けだ。