2019年10月30日水曜日

スイーツおじさま


スイーツ男子という言葉があるが、あれはイケメンが甘いモノを喜んで食べている姿が可愛いのであって、オジサマに使う言葉ではない。

と思う。

でもオジサマだってスイーティー?な気分になりたい時もある。私もである。

酒が好きな中年男は甘いモノは食べないと間違ったイメージが少なからずあるが、私は割と甘味に目がない。

どこそこのアレが食べたいみたいな細かいこだわりはないが、甘味気分の時にはコンビニスイーツを一気に2つ3つ食べることもある。



娘とロイヤルホストに行った時の画像だ。ファミレスとは思えないぐらいまともでウマい食事を出すロイホだが、スイーツも然りである。

普通の父親なら、娘が頼んだやつを一口もらって満足するのだろうが、私の場合、自分の分も意気込んで注文する。

秋だから栗だ。モンブランがぶいぶい活躍する。昔からモンブラン好きだった私としては栗のモンブランと聞くだけでウットリする。



こちらは東京駅にくっついているステーションホテルのラウンジで出てきたモンブランである。美しい姿だ。私の場合、あのウネウネしたクリームの部分だけが好きなので、まわりの飾りは不要である。

砂糖がふんだんに楽しめる時代に生きていることは幸せだ。江戸時代には砂糖は薬屋に置いてあったらしい。それだけ貴重で病人に舐めさせていたらしい。

江戸時代の病人が現代のスイーツバイキングを見たら、まさに桃源郷だろう。病気も治ってしまいそうだ。

カステラやこんぺいとうと言えば、400年ぐらい前の南蛮貿易の頃に日本に伝わったことで知られているが、当時は生糸と同じぐらいの値段で取引されていたらしい。

生糸がいくらだかは知らないが。

昭和に入ってからも砂糖はしばし貴重な存在で、第二次大戦後の荒廃期には普通に買うことはできず、昭和27年まで配給でしか入手できなかったとか。

砂糖の摂り過ぎで病人が続出しちゃうような今の時代からみれば想像つかない状態である。

喫茶店でコーヒーを注文すれば砂糖は取り放題、よそい放題である。当たり前に思っていることが実はとても幸せなことだと痛感する。



実は私は甘い酒も好きである。バーに行ったら気取ってシングルモルトを舐めて過ごすが、甘いカクテルが無性に飲みたい時もある。

女性連れでバーに行っても、口八丁手八丁で私が飲んでみたいカクテルを半強制的に注文してもらう。

で、店員さんの目を盗んで結局私が大半を飲んじゃうこともある。この画像はモンブラン風味のカクテルである。

気取った顔して渋々と味見するようなフリをしてちゅるちゅると飲んでみた。表情は崩さずに心の中でバンザイ三唱しながら悶絶した。



こちらは銀座の北京ダック専門店「全聚徳」で出てきたマンゴープリンと杏仁豆腐である。

杏仁豆腐もマンゴープリンも気合いが入っていない店だと、トイレの芳香剤みたいな風味の人工的なマズいやつが出てくるが、それなりの店ならそういう事故に遭うことは少ない。

最近はクリーミー、ミルキー?な味付けが主流みたいで、かつての安っぽい味わいとは別次元なウマいものが増えた。

なんだか話がまとまらなくなってきた。兎にも角にも「甘味は幸せに直結している」ことは間違いないと思う。




2019年10月28日月曜日

新三浦の水炊き


アッという間に涼しくなった。夜は薄ら寒い時もある。こうなると鍋が恋しくなる。熱燗も恋しくなる。

鍋料理の問題点は野菜がエラそうに登場する点だ。野菜嫌いにとっては有難くもなんともない。

私がこの世で一番好きな鍋が野菜をいっさい無視した水炊きである。白濁スープを楽しむには野菜は邪魔である。

昔から時々出かける新宿「玄海」などは野菜類はコースの中で提供し、鍋は白濁スープと鶏肉以外は何も入っていない。素晴らしく潔い。


すっかり新宿が遠くなった私としては今の職場や住まいから程近い距離で水炊きのウマい店を開拓しないといけない。

というわけで、初めて訪ねたのが築地にある「新三浦」である。築地というと旧魚市場周辺をイメージするが、わが家がある新富町側の中央区役所や築地警察署界隈も結構な数の飲食店が揃っている。

鰻の老舗「宮川本廛」もそのあたりにあって、そこから徒歩20歩ぐらいの距離に「新三浦」がある。

7階だか8階のビル全部が店舗だ。すべて個室らしい。秘め事デート?なんかにも使い勝手が良い。




ここの水炊きも当然のように白濁スープがウリである。だから鶏肉と一緒に野菜をゴッタ煮にするような悪趣味ではなかった点が嬉しい。

スープは新宿「玄海」のそれと比べればスッキリ系だ。最初はちょっと物足りないようにも思えたが、スープだけをお代りしているうちに、優しく滋味深い味にジンワリできた。



野菜は一通り鶏肉を食べたあとに準備されるのでパスしちゃうことも可能だ。個人的には実に正しいやり方だと思う。

同行者が野菜好きだったら、まずスープや鶏を堪能し、おまけに両方ちょっとづつ追加して、それでもなお野菜なんぞが食べたければその時点で鍋を明け渡せば良いわけである。

「食事の時は野菜を先に食べれば太らない」などとオマジナイみたいなことを真剣に語る人は多いが、そういう人には向かない。

白濁スープと鶏肉だけで、あとは酒と珍味が1,2品あれば私は充分幸せなのだが、たいていの水炊き屋さんはコースが基本だからそうもいかない。





前菜、つくね焼き、唐揚げである。どれも美味しいが、水炊きの前にお腹いっぱいになりそうだから要注意である。

それにしても唐揚げが絶品だった。水炊き気分だったのに唐揚げだけ大量に注文してハイボールをガバガバ飲みたい気分にさえなった。

そんな浮気心は押さえて、今シーズン初めてのヒレ酒を注文する。アッチッチと口をすぼめながら季節が変わったことを実感する。



日本食は世界遺産になっているようだが、ヒレ酒の素晴らしさはそんなニッポン名物の中でも卓越した存在だと思う。

あの香り、ふくよかな味わい、まさに日本の宝だと思う。同じ日本に生まれたとしても、大昔の飢饉の頃や戦国時代に生きていたら、こんな素晴らしい楽しみ方はあり得なかったわけだから現代人は宝くじに当たったようなものだと思う。



そしてシメは雑炊である。これまたニッポンの宝だ。シンプルだけど旨味たっぷり。ジュワーンと心の底まで癒された感じだった。

ハッピーなひとときだった。



2019年10月25日金曜日

時代小説


これまで脈略無く本を読んできたが、最近になって時代小説を読むようになった。今まではちっとも興味が無かったのだが、突然面白く感じるようになった。



偉人の伝記的な歴史小説や教訓めいた大河モノには興味が無い。名も無き普通の人々を描いたような人情モノに惹かれる。

この歳になって、歴史モノから組織論だのリーダー論を学ぶのは面倒だ。大きなお世話である。ただジンワリとした気分になれれば充分だ。

ビギナーだから短編ばかり読んでいる。寝る前のひととき、タイムスリップしたような感覚になって楽しい。

江戸時代の武士や町人のことなどピンとこない。情景を思い描くのも限界がある。でもそこが楽しいのだろう。

考えてみれば、子どもの頃にSF小説の世界に夢中になったのと似ている。SFは未来のロボット社会や宇宙を舞台にしていたから、あくまで情景は想像するしかない。

江戸の長屋や侍の暮らしを勝手に頭に浮かべながら、市井の人々の気持ちに共感するのは、一種のSF的な面白さがある。

いわば、異世界であり非日常の極みである。長い時間を旅するという点でも脳ミソを普段の暮らしからリセットする効果がある。

なんだか大げさな書きぶりになってしまった。




勝手な思い込みだが、時代小説を書く作家の力量にただただ敬服する。プロの技の凄さを痛感する。

ネット小説だのライトノベルみたいな世界とは明確に一線を画している。読んで損したみたいな薄っぺらさを感じることが少ないように思う。

上の画像の本に載っていた山本一力さんの「永代橋帰帆」などは読み終わった後、かなり長々と余韻に浸った。唸らせてもらった。

大きく分類すれば赤穂浪士モノなのだが、赤穂浪士は99%登場しない。商人の目からみた忠臣蔵の裏の裏の実相みたいな話だった。

時代モノのマニアに言わせれば私の寸評など屁みたいなものだろうが、とことんアナログな点も時代小説の魅力だ。

当然ながら電話やクルマはもちろん、電気すら無い時代の話だ。とことんアナログである。だからこそ人間の根源的な精神性みたいなものが強く浮き彫りになる。



登場人物が現代人みたいにフニャフニャしていないのがいい。悪いヤツはとことん悪いし、善人はすこぶるお人好しだ。上の画像の池波正太郎の短編集が私が時代小説に突然興味を持ったきっかけになった一冊だ。

この夏に出かけたクロアチアのビーチでに持ち込んだ一冊だ。ブロンドのオネエサンのビキニ姿に目もくれずにむさぼるように読んだ。ワクワクした。

時代小説で描かれるのは、だいたい恩とか仇とか愛とかに対して真っ直ぐに向き合っている潔さである。クネクネ生きている私にとっては妙に魅力的に映る。

まあ私がグダグダ力説したところで始まらない。「時代小説な何となくピンと来ない」と思っているかたは気軽な短編から試してみるのがいいと思う。

ついでに、オススメの短編集を教えていただけたら嬉しい。切ったはったみたいな話ではなく、ジンワリする人情系の路線で一話完結で楽しめるような作品だと有難い。よろしくお願いします。


2019年10月23日水曜日

ヤバい味 銀座そうな part2

食べ物がウマいかマズいか。これを突き詰めても結局は個人的な好みに尽きる。

私の住まいから徒歩20秒のところに「はしご」という人気ラーメン屋さんがある。個人的にはあまり好きな路線ではない。せっかく至近距離にあるのに残念だ。



まあ、こんなヘンテコなカップ麺を喜んで食べている私がラーメンを語っても説得力はない。

「謎肉まつり」と銘打たれたカップヌードルである。あの得体の知れない四角い肉がてんこ盛りだ。ちょっと興奮する。

普通のカップヌードルだったら、スープの底の方に潜んでいる四角い肉をあさましく必死に探し出して残らず食べる。

そんな苦労がウソのように謎肉だらけである。かなりハッピーだ。ハッピーなのだが、ウマいのかと問われれば話は別だ。

やはり味にはバランスが大事だ。謎肉だってちょこっとしか入ってないから有難く感じる。とにかくバランスが味の決め手である。

ということで、何を食べてもウマい店の話。結局、バランスに優れているのだと思う。誰が食べてもウマいと感じるメニューが豊富に揃っている。

先月、ここで「ヤバい味」として紹介した銀座にある「そうな」という店だ。


雑居ビルの地下、歴史のあるスナックかと見紛うような怪しげな扉を開くとカウンターだけのレストラン空間が広がる。

場所柄、クラブの同伴のお客さんが多いが、その分、8時半が近づく頃には一気にガランとする。

あれこれと少しづつウマいものを欲張りたい時に最適な店だ。和洋中ジャンルを問わず水準以上の味が楽しめる。





贅沢トリュフ卵、キノコのソテー温玉トリュフ掛け、手作り金華豚ソーセージである。ネーミングを見ただけでヨダレが出る。


アーダコーダと言わずに味わいを端的に表現するなら、やはり「ヤバい味」としか言いようがない。




ホイコーローに紫蘇餃子、ビーフシチューだ。これまたヤバい。脈略なしにジャンルに関係ない料理をオーダーできるのが有難い。

やたらとメニューが多い居酒屋っぽい店ならそんな路線も珍しくない。でも、この店は食い道楽オジサマのハートをわしづかみするようなニクい食材を上手に組み合わせているので、単なる何でも料理屋とは一線を画す。



土鍋で炊く日替わりご飯も人気だ。秋だったら松茸ご飯や栗ご飯みたいな定番だけでなく、ちょっと前は子持ち鮎の炊き込みご飯が出てきた。

滋味と呼びたくなる優しく深い味わいにぷちぷちした卵の食感が加わって締めの一品としては最高だった。



こちらは別な日に食べた締めのご飯モノ。とろとろ親子丼である。ご飯抜きでツマミとして楽しむ人もいるそうだが、やはりコメと絡まり合った状態は捨てがたい。

この日はご飯を極少にしてもらってフガフガ言いながら味わった。ヤバい味だった。

こういう親子丼にありつける日本という国に生まれて良かったと本気で思った。そのぐらい美味しかった。


2019年10月21日月曜日

寿司解禁 目白おざき


1ヵ月ぶりにお寿司屋さんでキチンとお寿司を食べた。たかだか1ヵ月と思われるかも知れないが、ここ20年以上、週に一度は通っていたから、これだけ間隔が開いたのは私にとっては事件だ。



アニサキスアレルギーという厄介な診断をくらってしまったせいである。それだけならともかく、同士が集うSNSに参加して症状が重い人の話を読み過ぎたせいで一気にビビリ男になってしまった。

とはいえ、重症なはずはないと信じ、体調が良くない時だけアレルギー反応が出るものだと確信していたから、元気な日を狙って食べまくることにした。

決戦の場は目白にある「鮨おざき」。今の住まいに引っ越すまで週に一度は通っていた店である。大将との付き合いも20年ぐらいになるだろうか。


4か月ぶりの訪問である。実に不義理な客である。久しぶりにやってきてアレルギーが爆発して卒倒したら店としては堪ったものではない。

でも、死にそうになっても長い付き合いの店だったら見捨てずに救急車ぐらいは呼んでくれるはずである。

で、食べてみた結論は全然問題なかった。悠々セーフである。ホッとした。今後も元気な日には普通に鮨を楽しむことが出来るわけだ。

この日は、ある意味で私自身の人体実験だったからアレルギー業界?では何かと悪役にされがちな青魚をしっかり食べた。







ほんの軽く締めたサバ、少し炙ってポン酢で味わうサンマ、藁で炙ってもらったカツオである。

ただただウマい。しばしの禁欲生活のおかげで涙が出るほどウマい。とか言いながら、やはり心のどこかでビビりモードになっていた。

最高にハッピーなのにその点は残念だった。コ〇ドームを2枚重ねてコトに及ぶような残念さである。

そんなヘンテコなことはしたことないが・・・。

イクラが美味しい季節だからたくさん食べた。この日はまったくの生イクラのほか、塩イクラと醬油漬けイクラが用意されていた。



格別な味わいだったのが塩イクラだ。昭和の東京人にとってイクラは塩漬けが標準仕様だった。いつのまにか醬油漬けに天下を取られてしまった感じだが、やはり昔馴染みの味はホッコリする。




穴子も塩とタレと味わい、茹でたての海老や鯛、ウニ、コハダ、おぼろカンピョウ巻なんかも食べた。刺身、ツマミ以外に握りは全部で10貫ぐらい食べた。私にとっては結構な量である。

この日、寿司ネタ以外に美味しかったのがドウマンガニ。幻の蟹と言われているそうだが、ワタリガニ系統だからナメてかかっていたのだが、奥深い味わいでちょっと驚いた。



これを書いている今はただただ美味しかったことを思い出す。でも、さんざん食べて帰宅した後はさすがにオドオドしながら過ごした。

市販の抗アレルギー剤を用意して体調の変化を注意深く見守る。クスリをさっさと飲んじゃう選択肢もあったのだが、それだと人体実験の意味はない。

素のままの状態で無事に朝を迎えられるかどうかを見極める必要があった。祈るように眠りにつく。

翌朝、快適に朝を迎えた。ひとり大げさにガッツポーズを繰り返す。バンザイ三唱したいぐらいの気分だった。

それにしても、たかだか1ヵ月とはいえ禁欲生活は切ないものである。そう考えると各種のアレルギーで不便な暮らしをしている人が本当に気の毒だ。

私と同じアレルギーでも、重症の人は鰹ダシでも症状が出ちゃうそうでラーメンさえ食べられないケースがあるという。

今の時代、ガンだって直るのにアレルギー問題はなかなか改善されない。もう少しなんとかならないものだろうか。

2019年10月18日金曜日

売春師?


今日は載せる画像が無かったから、私が毎週コツコツ書いているコラムを写してみた。

長年、文字を書く仕事をしてきたから言葉にはそこそこ敏感である。時代によって変化するのも興味深いし、マトを得た若者言葉にも感心させられる。

ジワる、エモいなどは高校生の娘が普通に使っている。良し悪しに関係なくニュアンスを伝えるには絶妙な言い回しだろう。

いきがっていることをイキる、風呂に入ることをホカる等々、なかなか面白い。さすがに自分では使わないが大いにアリだと思う。

大人の世界、とくにビジネスの世界に飛び交うわけの分からないカタカナ言葉は好きではない。なんだかゾワゾワした気持ちになる。

リテラシー、ガバナンス、リマインド、コミットメント等々、どうして普通に日本語で言わないのか不思議だ。

ヒューマンエラーだのマンパワーだの、失敗、人材と言えば済む。カタカナにするとカッチョイイ気分になるのだろうか。

カッコつけたい気分で言い換えるパターンはただ薄っぺらいだけだ。良識ある中高年としてはなるべく避けたい。

配慮が背景にある言い換えも多い。自殺を自死、強姦を暴行と言い換えるようなパターンだ。後進国を開発途上国、痴呆症を認知症と表現するのもそうした趣旨だ。

これもあまり神経質になりすぎると違和感がある。看護婦さん、婦人警官もいつの間にか使われなくなった。ごく自然に世の中に溶け込んでいた言葉も時代の流れで変わっていく。

とはいえ、中年の看護師さんの中には自らを看護婦と称していることも珍しくない。それでいいと思う。

「婦」が使えないのなら売春婦は「売春師」になるのだろうか。情婦はなんと呼べばいいのだろう。「情女」か。意味不明である。

ウサンくさいのが物事の本質を隠したり、ごまかすための言い換えだ。かつて全滅を玉砕、撤退を転進と言い換えた日本軍の悪しき慣習は今も脈々と続いている。

ごくごく単純に言えば海上自衛隊は海軍、陸上自衛隊は陸軍、終戦記念日だって敗戦記念日だ。

まあその辺は戦後日本のデリケートな部分だからブツクサ言ったところでしょうがない。

そういう大原則みたいな話はともかく、安倍政権によると、戦闘はあくまで衝突で、武器輸出は防衛装備移転である。ここまで来るとお見事といいたくなる。

防衛装備移転。実に巧みな用語だ。言い換えの見本みたいなものだ。言い出しっぺが誰だか知らないが、ボキャブラリー豊富な優秀な頭脳の持ち主だろう。

国民をバカにした言い換えといえば原発関連だ。原子力発電自体を核発電と言うべきという指摘もあるぐらい、すべてがすべて言葉のゴマカシである。

あの原発事故でさえ事故とは呼ばない。事象と言い続ける。何じゃそれ?って感じである。でも確かに言い換え用語を聞かされた側の印象は操作されてしまう。

老朽化は高経年化である。汚染水は滞留水だ。よくもまあ屁理屈みたいな言葉を堂々と使うものである。

「老朽化が原因で事故が起きて汚染水が溢れ出した」

「高経年化にともなう事象で滞留水が発生」

まるで雰囲気が変わる。ボーッと聞いていたらコトの重大性を見失う。恐いことだと思う。

今の政権は「一億総活躍」など言葉遊びが好きだから、いくつものウサンくさい言い換えを編み出してきた。

森友問題で問題になった資料の「改ざん」は「書き換え」である。書き換えと言われれば書き換えだが、改ざんをそう言ってしまったら単なる屁理屈だし限りなくインチキだ。

最近は何かと話題の徴用工を労働者と呼び始めたし、移民という言葉へのアレルギーを気にして外国人材なる言葉も出てきた。

なんでもかんでもオブラートに包んで印象操作に励んでいる感じだ。どうにも気持ち悪い。

先日、とある会話の中で「あのコはPJだから・・・」と言われた。意味が分からず解説してもらうと「パパ活女子」の略なんだとか。

援助交際という表現の進化形がパパ活だ。要するに売春婦の言い換えである。いや、売春師といわないといけないのかもしれない。

2019年10月16日水曜日

夜遊びは大事


 夜のクラブ活動をサボっている。サボるという行為は良くないことだが、クラブ活動のサボりは私にとって良いことである。

散財しないわけだからお金が貯まってもいいはずだが、なぜかそうならない。謎である。たぶんウーバーイーツのせいである。そんなはずはないか。。。

とはいえ、クレジットカードの利用実績をチェックしたら、コンビニとウーバーイーツだけで月に10万以上使っていたことが判明してビビった。

反省である。大いなる無駄の中で暮らしているみたいだ。

さて、クラブ活動の話である。銀座の近くに引っ越してから足が遠くなった。銀座7丁目、8丁目界隈で夕飯を食べても、そのまま寄り道せずに帰宅することが増えた。



夕飯時にしっかり飲んだら満足してしまう。酒が弱くなったのだろうか。それならそれで健康には良いことである。

ただ、10年も前ならさんざん飲んだ後でもクラブ活動に励んでいた。コーラで休憩したり、梅昆布茶をすすりながらバカ話に花を咲かせた。

あの元気さが無くなったのなら残念なことではある。たかだか50代で老け込んでいるようではダメな気がする。

以前はアフターにも付き合うぐらい元気だった。店が終わったあとで綺麗どころを引き連れて食事や飲み直しに出かけていたわけだ。

同伴と違って、アフターは意外な展開!?になることも多かった。考えてみればそんな事件事故!は夜中の2時や3時、はたまた明け方に発生するわけだからタフじゃなければつとまらない。



あの頃は単純に家に帰りたくなかったのだろう。まあ言い訳半分ではあるが、そんな気分も影響していた。

非日常に身を置いて、刹那の海に溺れていたわけだ。うん、そう言うとなんだかちょっと格好いい気がする。

クラブ活動に限らず、夜遊びの心理には「帰りたくない」というワガママが付きものだ。尾崎豊だって家で勉強しないで「盗んだバイク」で走り出していたわけで、いくつになっても同じである。

今の私は気ままな一人暮らしを楽しんでいるから、すぐに家に帰りたくなっちゃう。ドテっとソファにふんぞりかえってAmazonプライムビデオを観ながらダラダラする時間が最高である。

でもそんなグータラな暮らしはもっと歳を取ってからでも出来る。家庭のしがらみで遊びに行きたくてもいけない友人の話を聞くと、友人の分までちゃんと夜遊びにも励まないといけないと反省したくなる。

12月初旬には毎年恒例のオジサマバンドライブを行う。いつも大勢の銀座のオネエサン、オニイサン達が賑やかしに来てくれるから、そろそろ営業も兼ねて飲み歩かなければいけない。

先日は馴染みのオネエサンの同伴に付き合った。ウーバーイーツを頼んでプライムビデオを見るのも楽しいが、同伴の席でバカ話をしながらウマいものを食べるのも結構楽しい。



ロングドレスは脚線美が見えないなどと文句をつけながらスカートめくりに精を出したり、日頃カタブツとして生きている?私にとっては、適度な刺激になった。

なんだか今日は自分自身を奮い立たせるような話になってしまったが、富豪を目指す中年男としては、銀座のネオン街をカッコつけて歩く時間も大切である。

頑張ってみようと思う。


2019年10月11日金曜日

肉食 魚食

欲求不満の日々である。悶え苦しむほど欲求不満だ。


アッチの話ではない。魚食にナーバスになっている日々がシンドイ。お寿司をドカドカ食べたい、しめ鯖もガツガツ食べたい。

多分そんなに気にする必要はないのだが、アニサキスアレルギーという悪魔の診断を食らってからビビリモードが続いている。

某SNSで見つけたアニサキスアレルギーで困っている人達のグループページに参加したのだが、皆さんの体験談やエピソードを読み過ぎて混乱中である。

結構シャレにならない事例を読み過ぎてしまったのがいけない。アレルギー反応は繰り返すと重くなることもあるらしいから影響されちゃって意気消沈状態である。

同じアレルギーでも強弱の差はかなりあるようで、お気の毒な人はラーメンや味噌汁の出汁、かまぼこ、はたまたドレッシング類でも反応しちゃうそうだ。

私の場合、1年に一度ぐらい青魚を食べたときにジンマシンが出るぐらいなので、神経質になる必要はない。はずだ。

問題はいつからアレルギー体質になっていたのかという点である。

仮にそれが5年前、いや3年前、いや去年からだったとしても、あまり気にする必要はないはずだ。

この9月前半までは週に一度は寿司屋で普通に食べまくっていたわけだから、ごくたまに反応しちゃう程度なら今まで通りのライフスタイルでいられる。

先日、仕事絡みの会食でコース料理の中にサバの押し寿司が2切れ入っていた。恐る恐る1切れだけ食べた。無事だった。

別な日、銀座の割烹料理屋の突出しにサンマの煮物が出てきた。丸のまま煮付けたヤツの胴体の一部分である。恐る恐る食べた。無事だった。

別な日、和食屋さんでこれまた突出しとして白身魚の刺身が二切れ出てきた。恐る恐る食べた。無事だった。

全然大丈夫じゃないか!!

でも、睡眠不足が続いているから、お寿司屋さんのノレンをまだくぐれていない。近日中に突撃してみようと思う。




というわけで、魚以外の食事が続いている。先日は銀座の「美らしゃぶ亭」で豚肉三昧。しゃぶしゃぶの他にシュウマイやウインナー、ラフテーなどを食べる。

別な日、銀座の小料理屋「おかやす」で豚肉豆腐とマカロニサラダをワンサカ食べた。マカロニサラダが味付けも良くアルデンテ状態が絶妙でお代わりしてしまった。




銀座のシッポリした小料理屋で一人黙々とマカロニサラダばかり食べる姿はちょっとヘンテコかもしれない。

でも、安い居酒屋で200円ぐらいで頼めるビチャビチャしたマカロニサラダより遙かにウマい。本気のマカロニサラダである。最高だった。

自宅では相変わらずウーバーイーツをガンガン頼んでいる。なか卯や松屋といったレギュラーの他、先日は「日本豚園」という店の豚丼を注文した。



クセになる味だった。茅場町「鳥徳」のきじ焼重と並んで、これから私にとってのヘビーローテーションになることが決定した。

なんだか肉ばかり食べる日々だ。それも豚ばかりだ。自分まで豚になっちゃいそうだ。真面目に魚食の道に戻らないと命にかかわるような気がしてきた。


2019年10月9日水曜日

私に電話してください



またひとつ歳を重ねた。オジサマ街道まっしぐらである。一応、高齢者ではなく中高年ではあるが、胸を張って中年といえるかは微妙だ。まさに高年である。更年期なのも仕方がない。

最近、若い人と話が通じないことが増えてきたのが面倒だ。ジェネレーションギャップである。400勝投手カネヤンのことだって若い人は知らない。私もさすがに現役時代は見ていないが、ロッテ監督時代に近鉄の外国人選手の顔面にキックを見舞わしたシーンは強烈に覚えている。

つい先日、高校生の娘があのポパイを知らないという驚くべき事態に遭遇した。「ほうれん草を食べたらポパイみたいになれるぞ」と諭した時に発覚した。



オリーブもブルートも当然知らない。ポパイ~ザ・セーラーマン~、フェッフェ~と必死に歌ってやったのに全然通じない。

育て方を間違ったのかと思ったぐらい私にとっては驚きである。ダンボとかムーミンとかプーさんは知っていたのにポパイは知らない。同じような知名度だと思うのだが謎である。

我々の世代が子どもの頃に自分達が生まれる遙か前の漫画「のらくろ」を楽しく読んだのとは大違いである。



懐古調になってしまうのだが、昔は自分より前の世代の関心事やハヤったことを知識として共有していた気がする。ヒット曲や社会現象などいろんな分野で話が通じた。

今の時代は、関心事や話題、趣味嗜好などが世代ごとに細分化されているから、社会の在り方が根本的に変わってきたのだろう。これもまた一種の分断社会である。

わがオジサマバンドは12月のライブに向けてせっせと練習を重ねているのだが、一部の曲に参加してくれるサポートメンバーは何と十代の若者である。

あいみょんぐらいしか共通言語が無い?のだが、彼からすれば40歳ぐらい年上の人間と接することは宇宙人と付き合うような感覚なんだろうか。

先日も30代の知り合いに「太陽にほえろ」が通じなかった。石原裕次郎扮するボスは凄い貫禄だったのに当時はまだ30代後半だったという私の得意話がまるで通じなくて困った。

当然、山さんや長さんが40代そこそこだったという得意話第2弾も不発に終わってしまったわけだ。忸怩たる思いである。大げさか。

いまや「北の国から」の話も通じないし、「岸辺のアルバム」なんか50歳以上の人しか知らない。世の中の変化の速さを痛感する。

そう考えると、70代~80代の人達は私よりも遥かに若者と話が通じないわけだから、随分ともどかしい思いをしているのだろう。なんとなく気の毒である。

別に良し悪しを語っているつもりはないのだが、やはり「昔は良かった」的な方向になってしまう。そのこと自体が私の老化を表しているのだろう。

しょうがないから、スタイリーで身体を鍛えて、紅茶キノコで健康になって、純喫茶でインベーダーゲームに励んで、ビューティフルサンデーを口ずさんで開き直って生きていこうと思う。

ちなみにこれはスタイリーのCM。懐かしくて魂が震える。


実際に電話したもののCMのオジサンが出てこないとマジで怒った人達がいたらしい。のどかな時代の話である。





2019年10月7日月曜日

プライムビデオ中毒


Amazonプライムビデオにハマッている。もう3年ぐらい前から使っているのだが、ここ最近は日課のように深夜までテレビの前に陣取っている。

ネット環境のせいか、今の家に引っ越してきてからの方がサクサク反応してくれるので、中毒のようになってしまった。おかげで睡眠不足だ。



阿部寛主演の連ドラ「結婚できない男」も12話分を3日間で見終えた。もう13年も前のドラマだ。

10年以上経ってもまだ結婚できない状態を描いた新作が明日から始まるらしいので、ちょうどよい予習になった。

十数年前の放送当時もチラチラ見たが、改めて見返すと印象が違う。今の私にとっては身につまされるような部分もあって、やたらと真剣に見てしまった。

一人でいることを好み、偏屈で独善的な主人公の気持ちは私にはよくわかる。よくわかるからこそ素直にゲラゲラ笑えない。自分のバカっぽさを突きつけられているように感じた。

明日からの新作も必死になって見るつもりだ。ちなみに私は「結婚できない男」ではなく「結婚がうまくいかない男」である。あの主人公よりは社会性はある、と思う。



「ドクターズ 最強の名医」シリーズも短期間で全部見た。第3シリーズまである連ドラ全話の他に2本の単発スペシャルもすべて一気に見た。

医療モノが好きなわけではないのだが、何気なく見始めたら高嶋政伸の怪演ぶりにハマって引きずられちゃった感じである。

ウマいヘタという次元ではなく「怪演」というジャンルは中毒性がある。かつて佐野史郎が演じた「冬彦さん」あたりから怪演キャラが増えたのだろう。このドラマも沢村一樹演じる主人公より高嶋政伸のことばかり印象に残った。



こちらは8年前に放送されていた「陽はまた昇る」というドラマだ。プライムビデオの音声検索機能で「佐藤浩市」の主演作品を探していて見つけた。

俳優の名前で作品検索できるのは便利だ。「佐藤浩市」「三浦友和」「江口洋介」あたりで検索すると、割と骨太系の映画やビジネス系ドラマがたくさん出てくる。

もちろん「高倉健」「松方弘樹」といった探し方も出来る。中高年オヤジには有難い機能だ。

このドラマは警察学校の鬼教官と制度たちを描いたベタな作品だったが、佐藤浩市モノが好きだから最後までしっかり見た。

先日、わざわざ映画館に行って中井喜一主演の「記憶にございません」を見てきた。私がひねくれ者なのか偏屈なのか、あまり面白いと思えなかったが、佐藤浩市が絶妙な味を出していたのでそれなりに楽しめた。

映画館の迫力も捨てがたいが、私の場合、アクションとか宇宙でドンパチとかそういう系の映画は見ないので、家でノンビリ大画面テレビと向き合っている方が快適だ。

小型のホームシアターセットを繋いであるからテレビにありがちな「音がショボい問題」も気にならない。

映画をじっくり見るのも楽しいが、連ドラをまとめて鑑賞する場合、1話が50分弱だからマメに区切りがつけられて何かとラクチンだ。

普通に社会で生きていれば、連ドラをリアルタイムで毎週見続けるなんて至難のワザである。頑張って見始めてもつまらない作品も多い。

その点、過去に放送された評判の良かったドラマや個人的に興味を持ったドラマをヒマな週末や夜中にぶっ続けで見るのは変な背徳感があって楽しい。オススメです。