2007年12月28日金曜日

ALWAYS 続・三丁目の夕日

昭和30年代の日本人の姿を描いた大ヒット映画「三丁目の夕日」。続編を見た。吉岡秀隆演じる売れない小説家・茶川が、ひょんなことから一緒に暮らし始めた淳之介と親子以上の絆で結ばれている部分が物語の中心。

これから見る予定の人は、ここから先は読まない方がいいです。

淳之介の実の父親は、成功を収めた企業経営者。自分の跡取りにするため淳之介を連れ戻しにくる悪役として前作に引き続き重要な位置付け。

茶川はオンボロの駄菓子屋を営み、その向かいには堤真一・薬師丸ひろ子演じる自動車整備工夫婦が住んでいる。この三丁目近辺は、まだ道路の舗装も終わっていない豊かとはいえない世界。そこに運転手付きの車で乗り付ける淳之介の父親は、どうしたって悪者イメージ。

茶川との暮らしを選ぶ淳之介。父親は茶川に忠告する。「この子に人並みの生活をさせられないようなら次こそは連れて帰る」。

茶川は必死に小説に打ち込み、文学賞の受賞目前まで行くが結局落選。父親はまた淳之介を連れ戻しに三丁目にやってくるが…。

まあこういう展開に小雪扮する訳ありの美女も絡んで、面白おかしくストーリーが展開される。

今回、淳之介の父親に妙にシンパシーを覚えた。上昇志向の無さをなじり、高いレベルでの教育を説き、時代の趨勢を読んでいる役まわりの彼の発言は、三丁目の住人に対してひとつひとつが嫌みであり憎まれ口でしかない。

住人達からは帰れコールを合唱されるし、立ち去ったあとは「塩をまけ」と言われる存在。でもいちいち彼の発言は正論であり、人情話ばかりで世間の荒波を渡っていけないことを体現している存在でもある。

文学賞を受賞するための工作を持ちかけた男が詐欺師だったことが発覚した際、なけなしの金をくすねられて唖然とする大勢の住人達を前に彼はピシャリと言う。「低級な人間だからそんな低級な詐欺に遭うんだ」。まさに正論だ。向上心を持って強い自負心を持っていなければ言えないセリフだろう。

「金より大切なもの」云々にこだわる三丁目の住人達。そのくせ詐欺師がでっち上げた文学賞の受賞工作に金を注ぎ込む幼稚さは、彼の思考では、理解できるはずはない。

実の息子を連れ帰りたいという願いは息子を救いたいという使命でもあるわけだ。かといって、徹底的に「低級な人間達」を嫌悪しきれていない人間性がチラッと覗くところがいい。

クライマックスで、訳あり女が突然、茶川と淳之介の前に戻ってきて感動の再会となると、父親は、子どもの引き渡しに合意した茶川に背を向け、まさに空気を読んで黙って運転手を促して立ち去る。単にドライすぎる男として描かれていない点が、それこそこの映画の主題である「昭和の日本人像」とリンクして象徴的なシーンになっている。

出たとこ勝負のように暮らす三丁目の住人より、私はその後の父親の人生が見てみたい。

大ヒット映画「踊る大捜査線」が、登場人物ごとにスポットを当て直す、いわゆるスピンオフの関連作品を次々に出しているが、
三丁目の夕日もシリーズ化して、ぜひアノ父親を主役にしたスピンオフ作品を作ってもらいたいものだ。

2007年12月27日木曜日

熱海大観荘


また行ってきました。大観荘。今年5回目。いまどきのモダン和風とは異なる落ち着いた感じに癒される。

とりたてて豪華でもなく、きらびやかでもないが、随所に「安定感」が漂う。本館と別館をつなぐ渡り廊下の風情が良い。そこから見える庭園は、ちょっとやそっとの時間では成し得ない風流な景観。松の木の佇まい、静謐な池、その向こうに広がる海の眺めが非日常感を演出してくれる。

料理も奇をてらったところが一切なく、正統派の逸品が揃う。まさに安心と安定。朝食がまた絶品。自家製の干物はいつ行っても満足できる水準。定番の茶碗蒸しは拍手したくなる味。味噌汁も無言になってしまうほど抜群。生たらこ、佃煮、漬け物、小鍋仕立ての湯豆腐など書き連ねるとわかるが、意表を突いたものは何もないが、それら定番ばかり揃えた上で客を唸らせるのだから率直にその誠実な仕事ぶりを賞賛したい。

シティホテル戦争の一方で、日本旅館が見直されている。超高級路線の宿がアチコチで高い評判を呼んでいる。もちろん、一泊6万も7万も出せば欠点など無くて当然。良くて当たり前の世界だ。逆にそうしたクラスの宿だと、宿を評価したくても自ずと減点法になってしまうのが人間のサガだ。普通なら許せる点、気にならない点までもがイライラの対象になる。

それとは別に、一泊5万円以上の宿ともなると、どうも気安さが希薄になり、お客はもちろん、受け入れ側にも妙な窮屈感があったりする。ノンビリ癒しを求めて投宿したのに居住まいを正して肩が凝ってしまうようでは意味がない。その点、大観荘は、妙な安心感があって実にくつろげる。極端に高級路線ではなく、かといって大衆路線では決してなく、まさに「いい加減」だ(あくまで個人的な趣味だが・・・)。

欠点も書いておかないと宿の回し者みたいだから、とりあえず書く。増築を重ねてきたがゆえの問題がひとつ。動線がかなり悪い。バリアフリーには完全に逆行している。多分、始めていった人は部屋によっては、大浴場との行き来などで迷子になるはず。

飲食店の感想と同様、旅館の感想など個人的な嗜好で決まる。ライフスタイル、日頃の行動、食べているもの、その時の精神状態などなど。このブログの右側にプロフィール欄があるが、それに共感できる人はきっと気に入る宿だと思います。

2007年12月26日水曜日

バリ島のホテルその2

「ミンピリゾート・ムンジャンガン」。
バリ島の北西にある国立公園エリアにムンジャンガン島というダイビングの有名スポットがある。その対岸に作られたリゾートがここ。バリ東部の有名ダイビングスポットそばに小洒落たリゾートを成功させたミンピリゾートが展開しているため、ダイバー向けの設備はもちろん上等。ただダイビング目的でなくても充分に快適な時間が過ごせる穴場リゾートだ。

なんといっても天然温泉が湧いている点が特徴。コテージによっては、プライベートプールに加えて、硫黄の臭いたっぷりの天然温泉露天風呂が設置されている。風呂の横にはバレブンゴンというバリ独特の東屋も用意され、海で遊んで冷えた身体を温泉で温めてから、東屋にごろんと転がってビールをグビグビすることが出来る。寝室自体は大きくないが、自分専用のプール、露天風呂、東屋を占有できる快適さは居心地抜群。空港から車で4時間近くかかることが難点だが、長期滞在可能なら何日間かはこんな場所に陣取るのもオススメだ。

「アリラ・マンギス」。
以前は「セライ」として知られていたバリ東部のチャンディダサ地区にある快適なリゾート。空港からの距離は約1時間半。周囲に雑踏はなく、ホテル内に閉じこもって過ごすことになりがちだが、レストランのレベルが高く、充電を目的にするような旅行には最適。通常の部屋は恐ろしく狭く、スイートを選ばなければ快適さは期待できないが、スイートといっても、日本のちょっとしたシティホテルのせせこましい部屋程度の価格なので、行かれるのなら絶対スイートを確保することが肝心。

敷地内のデザインも洗練されており、プール周辺には目に鮮やかな芝生が敷き詰められ、流れる時間もどことなく緩やか。トゥガナン村という原住民集落が車で10分程度の距離にあるのも魅力。この村がバリ雑貨の代表であるアタの産地。水草の蔓で編み込んだバッグやかご類のことだが、主要観光地の土産物屋ではめったに置かれていない大型サイズの製品が豊富。私はここで自宅のインテリア用に巨大商品をいくつも買い込んで船便で送った。


「ザ・レギャン」。
バリの人気エリア・南部リゾート地区の中でも洗練度の高いスミニャック地区にある大人気リゾート。70室程度の客室数の割には大型規模である理由は、全室スイート仕様であるため。90年代半ばに登場したこのホテルが、その後のアジアンリゾートの躍進に大きく影響した。

バリの伝統的な意匠をモダンにアレンジしたインテリアや調度品はどれも格好良く、天井や床のデザインひとつとっても単なる高級感だけではないセンスが感じられる。スタッフも優秀で、このホテルで働いていること自体が業界人にとっての優越感になっているようだ。

「昔からのバリっぽさ」はないが、「モダンになって世界的リゾートになったバリっぽさ」を象徴している。伝統芸能のガムランの旋律よりジャズが似合うような雰囲気なので、客層もおのずと他のリゾートとは異なる。ヨーロッパの同性愛者が多いという噂もよく聞くが、裏返せば、やたらとお洒落な連中に好まれているハイセンスなホテルという見方も出来る。

海外旅行慣れ、というかリゾート慣れした人には居心地の良いホテルだろう。Tシャツ、短パン、ビーサンの3点セットしか持参しないような人や、ゴルフウェアオヤジとかは行かない方が無難。

「イバ」
ライステラスで有名な高原エリア・ウブドにあるお洒落なブティックリゾート。部屋の作りはさまざまだが、田園風景を眺めることができれば、のどかな夕暮れ時などは実に癒される。全体にこざっぱりした印象のホテルで、カジュアルすぎず、かといって凛とし過ぎるほどでもなく、ポワンとした時間が過ごせる。

海水を満たしたプールの造りもありきたりなデザインではなく、プール脇には壁をくりぬいたような穴蔵風休憩スペースなんかもあり、女性受けは最高だろう。ウブドの繁華街まで歩ける程度の距離にあることも好材料。ホテル周辺をあてもなく散策すれば、田園地帯ののどかな農作業風景なども簡単に見られるし、どこかホッとする。

きりがないので以下はひと言コメントにしたい。

「ピタマハ」・・・ウブドエリアの隠れ家系リゾート。渓谷の斜面を上手に利用した作りだが、その分、歩きにくく、移動のたびに疲れた印象がある。レストランの雰囲気はかなり上質。

「ザ・ラグーナ」・・・シャラトンラグーナから改称。敷地内は水の宮殿のようにプールだらけで家族向けには間違いのないホテル。

「エメラルドトランベン」・・・おそらくダイバー以外は行かないトランベンという東部エリアにある隠れ家。日本人経営で開業。日本式の露天風呂が結構快適。朝食は部屋のべランダにおにぎりと味噌汁を持ってきてもらうことが出来た(現在は不明)。

「インドラウディヤナ」・・・東部アメッド地区の中規模リゾート。部屋は暗く、虫も多く、エリア内では高級だが、客層はヒッピー風の欧米人が多かった。

「ザ・ヴィラス」・・・スミニャック地区の別荘系ヴィラ。私が親兄弟家族を引き連れて渡バリした際に選んだヴィラ。独立した寝室が3カ所に巨大なオープンエアのリビングスペース、しっかり泳げる規模のプライベートプールが用意されたまさに別荘。レストランがなかったこと(近隣にはいくつもお店がある)と至れり尽くせりのホテルサービスがない点が少し不便だが、隠れ家感は抜群。

「ソフィテル・スミニャック」・・・ロイヤルスミニャックと称している頃に滞在。元々は日本の帝国ホテルがインペリアルバリとして開業した高級リゾート。何より立地がいい。全体に作りは重厚感があってやや暗い雰囲気だったが、庭園の感じやプール周りの様子は落着きがあって快適だった。フランス系のリゾートになって明るいトーンになったらしい。だとしたら、オンザビーチの立地、繁華街への距離、空港との距離などを総合的に考えると穴場といえる。

これ以外にも変なホテルにも泊まったが、あまり人様の参考にならないようなところは割愛した。

老若男女、ファミリー旅行、新婚旅行、不倫旅行、ひとり旅・・・、どんな状況でも楽しめるバリの魅力をもっと大勢の人に知ってもらいたい。

2007年12月25日火曜日

バリ島のホテルその1

学生時代から始めたダイビングのおかげで。世界中の海を覗いてきた。いま思えばエジプトやカリブ・中米方面などにも行ったのに、大半の時間を水中探索に費やしていたことが悔やまれる。陸上の記憶が少ないのが残念。

10年以上前、世界の航空会社が次々に全面禁煙にしていくなかで、最後まで喫煙OKだったのが、アジア路線。そのせいで、東南アジア方面に出かけることが多くなり、なかでもバリ島には、妙に惹かれて、数え切れないくらい出かけた。

「アジアンリゾート」という表現がすっかり定着したように、バリでもリゾートの快適指数は高い。以前、このブログでもアマンダリとアマンキラのことを書いたが、それ以外のリゾートホテルをいくつか紹介したい。

「トゥグ・バリ」。ここはバリ島の西側、夕日で有名なタナロット寺院に近いチャングービーチというエリア。インドネシアのアンティーク好きな富豪が作ったブティックホテル。アチコチにインドネシア周辺の骨董品が並べられ、ガイドブックでは、美術館などという形容詞が使われているが、実際に泊まってみると、おばけ屋敷チックな印象が強い。ホテル内に決まったレストランは無い代わりに、ホテル中のどこにいても本格的な食事を提供してくれる。客室以外のスペースがどこも絵になる作りなので、こうした試みは面白い。アフタヌーンティーのサービスも、豊富な種類の紅茶が用意され、お菓子も毎日さまざまなものがバイキング形式で並び、結構優雅な気分になる。でも霊感が強い人ならきっと敬遠しそうなホテルだ。

「SACRED MOUNTAIN SANCTUARY RESORT」。ここは異色。島の中央部山岳地帯にある不気味なリゾート。プライベートプール付きの2階建て一戸建てコテージが1泊150ドルぐらいだったので、ダイビングの移動の際に試しに泊まった。

コテージは高床式住居風、屋根と壁の間は構造上すき間が空いており、竹で組まれた床も、ところどころ地面が覗いている。エアコンは無い。夜はやることがないので天蓋付きのベッドの蚊帳の中で、本を読んで過ごした。気付いたら蚊帳の外側は読書灯を目指してきた虫で一面おおわれている。蛾やカナブン、カミキリ系の見知った顔ぶれ以外に、日本の図鑑には載ってなさそうな得体の知れない虫が変な羽音を立てながら「蚊帳の中に入れろ」とばかりにうごめいている。一晩中、ベッドから出られなかったことは言うまでもない。

明け方、寒くて目が覚めた。虫はだいぶ減っていたが、枕やベッドがぐっしょり濡れている。原因は朝露。川のそばの森にほとんど野ざらしでいるわけだから、朝露攻撃も半端ではない。二度寝は出来ずに薄ぼんやりとした明け方の森を眺めていたら、神秘的な光景に出会った。一本の大木から真っ白な鷺のような鳥が次々と飛び立っていく。活動開始の時間なのだろうが、一斉に飛び立つのではなく、一羽ずつ規則正しく同じ方向に飛んでいく。3~4分ぐらい続いただろうか、すべてが飛び立った後は、すっかり朝日が昇っていた。

大きめで快適なメインプールにも人はいないので昼間の時間帯は、虫や朝露のことも忘れてくつろげる。ただ。想像以上に標高が高く、物凄く早く日焼けしてしまって困った記憶がある。

チェックアウトの際、ホテルのマネージャーに客層を尋ねてみた。ヨーロッパからのヨガ愛好家が中心だという。それもいわゆるスピリチュアル系らしい。話の種としては画期的なホテルだった。

お次は「バリハイアット」。国策としてリゾートエリア開発が行われたヌサドゥア地区にグランドハイアットが存在する関係で、サヌール地区にある老舗「バリハイアット」は、日本人観光客に見逃されている。

バリの大型リゾートは施設内の樹木や花の彩りが素晴らしいが、バリハイアットのそれは、長い年月がもたらした熟成という点で、他のリゾートよりも格段に勝っている。

旅行ガイドなどは、新規オープンのリゾートこそ最高といったノリで取り上げるが、熟成こそがホテルの質を決めると思っている私にとって、「古くても随時リノベートされている老舗」は非常に魅力的。バリハイアットはまさしくそんな感じ。ホテルスタッフもベテランのオジサンが多く、イケメンビーチボーイ風のウェイターとかは皆無。私にとってここは「バリの中の熱海・大観荘」である。

通常の客室は、古いだけに専有面積が狭い。スイートを選べば最先端リゾートのそれより遙かに安いので、バリのリピーターにはとくにオススメ。

そして、「リッツカールトン・バリ」。南部エリアを代表する大型高級リゾート。日本人が大好きなホテルであり、間違いのない快適さ。リゾート内のどこにいても高級感があって絵になる。ホテル内物価は高いが飲食店のレベルは高い。総合力ではトップクラスだろう。今回つけた写真はリッツカールトンバリのメインプール。

長くなったので次回に続編を書くことにする。

2007年12月21日金曜日

壺中の天

陶器が好きな人にとって特別な言葉が「壺中有天」。壺中の天ともいわれるが、要は「壺の中は別世界」という話。徳利もそうだが、壺の口部分が小さいと中がのぞけない。だからこそ、そこにある別世界に行ってみたい感覚にとらわれる。

壺中の天の話は中国の故事からきている。露天商の老人が店じまいを終えると、するりと店先にあった壺の中に消えた。それを見ていた役人が翌日、老人に頼み込む。自分も連れて行ってくれと。一緒に壺の中に出かけてみると、そこには素晴らしい宮殿があり、老人から例えようのない歓待を受けたという話。

どんな境遇にあっても、他人には分からないその人だけの別世界を持っているとか、誰もが見かけからは分からない境地に達しているとか、解釈はさまざま。

私としては、自分だけの内緒の世界を持っていれば、どんな状況にあっても世俗のしがらみから解放されるという意味合いで捉えている。実に気持ちのいい言葉だ。

さて壺の話。徳利を集めていて、そのフォルムに魅せられていると、酒を注がない時でも掌でもてあそぶようになる。酒なしでも愛玩対象になってくるわけだが、そうするとデカい逸品にも目が行く。そこで壺の登場だ。酒器を集める際は、骨董より現代作家の作品が好きな私だが、壺となるとなかなか現代作家の作品に好みのものが見つからない。

高さ40~50センチほどのサイズの壺は確かに今の生活スタイルでは実用性に乏しい。陶芸家もあまり作らない種類で、仮に作っても、ちょっと作為が強くなる作品が多い気がする。「どうだ!」みたいな力強さを感じるが、どうにも、さりげなさが足りないものが多い。

その点、骨董品のなかには手ごろな価格で実に清々しい壺に出会うことが多い。もともと種などの保存目的に実用一本で作られてきた経緯があるため、たたずまいが実にさりげない。作った側もその壺が鑑賞されるとは思っていないわけで、必然的に質実剛健的力強さも備わっている。

器肌の豪快な変化が特徴の信楽の名品ともなれば、ウン百万円という金額を出さねば買えないが、その他の古窯であれば、グッと安く入手可能だ。

自宅の酒呑み専用部屋に鎮座している私のお気に入りは越前焼の古壺。一発でフォルムが気に入って手に入れた。器肌の変化は大したことないが、全体の丸味が妙に優しげで見ていて飽きない。業者は室町頃の古越前と断言していたが、購入金額から考えるとちょっと眉ツバものだろう。でも江戸中期ぐらいの逸品ではないかと勝手に決めつけて悦に入っている。

古い壺は、備前、信楽、丹波、常滑あたりを産地として大量に流通している。ただ、サイズと口部分の形状によっては、骨壺に使われていた可能性も高いため、なかなか厄介。さすがにどなたかの骨壺を肴に酒を飲むのは勘弁だ。本当はそんな心配をしないためにも現代作家の大壺を入手したいが、いまのところ自慢の古越前を凌ぐ作品に出会っていない。

小型、中型、大型といろんな壺を手に入れたが、眺めていて飽きないものはごくわずか。結構な数を人にあげてしまった。

江戸中期のものとの触れ込みで手に入れた古丹波の壺も、しっくりこなくて玄関先に放置している。今では傘立てに格下げしてしまった。結構富豪みたいな使い方かも知れない。

2007年12月20日木曜日

タコ社長が怒る税制

昨日、役員給与に関する変な税金の話を書いた。今日も続きを書きたい。

役員に支給する給与は損金にできないというおかしな原則をクリアする方法のひとつが「定期同額給与」。これは1か月以下の一定期間ごとの支給で、その都度支給額が同額であれば、その役員給与は損金にできますよという制度。

大半の企業は、この規定によって役員給与を当然のように損金にできる。月給100万で年間1200万といった綺麗に収まるケースであれば、経費性に問題ない。一見、なんてことなさそうな決まりだが、実際の中小企業経営においてコトはそう簡単に運ばない。

寅さんに出てくるタコ社長を考えればよく分かる。いつも資金繰りでピーピーの朝日印刷のタコ社長。安定した資金繰りとはほど遠い状況だ。タコ社長も経営者のはしくれ、さくらの旦那・博さんをはじめとする従業員の生活維持に腐心する。映画でそんなシーンはなかったが、博さん達の給料を遅配したりカットすることになれば、当然、それより先に社長である自分の給料をなんとかするだろう。遅配や減額。中小企業のオーナー社長にとって身近な話だ。

タコ社長が、ある時期、自分の給与を2割でも3割でもカットしたり、ある1か月分だけ返上したとする。この場合、税務上は「定期同額給与」に該当しなくなり、その他の月の分も含めた1年間の社長給与が朝日印刷にとって損金にならないという仕組み。これって変じゃない?

実際の世界では、減額分や遅配分を経理上「未払金」で処理し、事業年度内で辻褄を合わせようという動きが盛んらしい。そうでもしないとレッキとした役員給与という純粋な費用が税務上の経費にならないという状況は不自然極まりない。歪んだ制度といえる。

一応、例外規定もあり「経営の状況が著しく悪化」すれば、減額改定しても役員給与を損金にして良いとされている。ただ、「著しい悪化」という定義が不明であり、タコ社長の場合を考えても分かるが、慢性的に資金繰りに躍起になっている会社にとっては救済策にはならない。

この定期同額給与という規定、そもそも昨日のブログで書いた事前確定届出給与とセットで登場した。昨日も書いたが、事前確定届出給与は、「役員賞与も損金にできますよ」という鳴り物入りで導入された制度。
この2つの制度の関連をうがった見方で解説すれば次のようになる。

「役員賞与を損金にできるようにしてあげたのだから、月々の給与に関する取扱いは、これまでよりカチっと整備しますよ」といったところか。アメとムチのような論法だが、フタをあけたら、役員賞与を損金にすることなど普通の中小企業には至難のワザ。結局はムチとムチの構図が完成したという薄ら寒い話。

「一度決めた給料は変わらないのが普通」。役人の発想として本当にそう信じているのなら結構驚く。

2007年12月19日水曜日

変な税制 役員給与

中小企業にとって変な税制は数あれど「役員給与の損金不算入」制度は、民間の実態をまるで分かっていない人間が作ったと断言できるものだ。

税制上は、役員報酬は損金にでき、役員賞与は損金にできないというのが以前の大原則だった。平成18年の税制改正でこれが大きく転換、報酬も賞与も「役員給与」として一本化され、あくまで原則は損金不算入の支出という位置付けにされた。

役員給与は原則として損金にできないという発想自体が物凄いが、まあそこは大原則。問題は、限定的に損金にできることが認められた条件の中味だ。

平成18年改正の目玉だったのが、「役員賞与も損金にできるようになりました」というもの。これは「事前確定届出給与」という内容で、読んで字のごとく、基本的に事業年度開始から3か月程度の間に所轄税務署に対して支給額や支給時期を届出ておけば、従来は損金にできなかった役員賞与も損金にできますよという規定だ。

「役員賞与も損金にできる」という字ヅラだけ見れば画期的だが、事業年度当初までに「事前」に「支給額や支給時期」までも税務署に「届出」しないとダメという構図である。

一般的な役員賞与とは、業績の結果に応じて支給が決まるものであり、事業年度初めに決められる性質のものではない。つまり、「役員賞与が損金にできる」という表現は、厳密に言えば正しくない。役員賞与をどのぐらい出せるかを期首から分かっている会社など考えにくい。

強いていえば、これまで月間給与の14か月分の年俸制で、月間給与とは別に夏と冬に1か月分づつ支給するような形態をとっているケースに使える制度という話だ。

税務専門紙を発行している立場で、いまさらこんな見解を書くことは正直心苦しい。ウチの紙面にも「役員賞与も損金に!」といった短絡的な記事が載っていた。細かな規定が整備されていくうちに「アレレ」は強くなっていった。

でも改めて思う。上記の制度が誕生した際、財務省も国税庁も「役員賞与だって損金にできるようになったのだから画期的なこと」という趣旨の自画自賛を繰り広げていた。あの主張は、いわゆる“おためごかし”的な方便だったのか、それとも本当にそう思っていたのだろうか。

仮に「役員賞与を損金にできるようにした」と本気で思っていたとしたら、民間の実情をあまりに知らない。役員賞与は、日々変動する業績の積み重ねで生まれる性質のもので、事前に決められるほど安定している会社など中小企業の世界には珍しい存在だろう。

ちなみに「事前確定届出給与」を適用した会社が、業績低迷で、決めていた支給額をほんのちょっとでも減額したら、そのすべてが損金にならないのだから、救いようがない。

「どんなことがあっても、何が起きようとも確定している支給額」なんて給与の世界にあり得るのだろうか?。思わず考え込んでしまう…。おっ、あったあった!公務員の給与だ。人事院勧告をもとに細かい額までびしっと決められているお役人の給料は確かキッチリ確定したまま変動しなかったのでは無かろうか。

役人の発想でしか出てこなかった制度が「事前確定届出給与」という存在だ。

2007年12月18日火曜日

税制改正考 「変な制度」


平成20年度の税制改正の方向が決まった(12月14日のブログ参照)。同族中小企業の非上場株、いわゆる自社株評価の引下げは画期的な内容だが、その一方で中小企業蔑視の制度が依然としてまかり通っている現実はなんとも気味が悪い。

「特殊支配同族会社」。仰々しい用語だが、中小企業の多くが該当する会社形態だ。オーナー経営者およびその同族関係者が株の9割以上を所有しているケースで、その会社の役員の過半数を同族関係者で占めているような会社を指す。

中小零細企業や創業間もないベンチャー系の企業ならこうした条件に当てはまることは珍しくない。

この条件に当てはまる会社は、経費の計上に制限が設けられている。オーナー経営者の給与所得控除相当額が、その会社の損金にできないという規定だ(例外規定もある)。そもそも企業の経費判定と社長個人の所得税における控除相当額をごっちゃにしている点が変な制度。学者、税理士をはじめ専門家も首をかしげる内容だ。

たとえば、給与総額が3000万円の社長であれば、給与所得控除は320万円。これは社長個人の所得税を計算する際に基本的な控除額として差し引くための金額だ。この320万円を社長が経営する会社の法人税の計算上、経費に認めないという制度。

導入されてわずか1年で適用対象企業の条件が見直され、ターゲットが狭くなったが、各界からの廃止要望が相次ぐなか、いまだに存続中。

ただ、今回の与党税制改正大綱では、中小企業税制に関する基本的考え方のなかで「適用状況を引き続き注視する」という文言が盛り込まれた点に注目したい。

導入してわずか1年で内容が見直され、そしてまた1年後にわざわざこんな文言が盛り込まれること自体、変な制度ということが公的に認められたようなものだろう。

規制的要素の強い新制度が税制改正で誕生することは過去に幾度もあったが、誕生してすぐにドタバタするなんて事は、かつては無かった気がする。言い換えれば、この「特殊支配同族会社」の規制制度がいかに強引に導入されたかを物語っている。

2年ほど前だったか、自民党国会議員から同制度について「役人が上手に税制改正案に盛り込んでしまった」という趣旨の話を聞いた。「なんだかなー」な話ではあるが、さもありなんという印象を受けた記憶がある。

税制や関連する実務上の規定整備の世界は、民間の実態など世情に通じたノンキャリア組の主(ヌシ)のようなベテランが、絶妙なバランス感覚を発揮して作業していた。時代は流れ、倫理問題などによって民間との接触も減った役人は以前より孤立感を強め必然的に独善的な感覚を強めていった印象がある。

税務職員出身の、いわゆるOB税理士の間でも、現在の税制関連法案や税務行政運営は、昔より強権的と指摘されることが多い。時代が変わったと言えばそれまでだが、首をかしげたくなる制度が誕生する背景には、そうした役所の事情が関係していることは確かだろう。

明日も「変な制度」の続きを書きたいと思う。

2007年12月17日月曜日

力のおでん

先日このブログで書いた「おぐ羅」もそうだが、おでん屋さんは冬場はさすがに混んでいて、時間をずらしていかないと席がない。銀座7丁目の「力」も同様。ギンザギンザした通りにポツンと構える旅館のような一軒家。中は古民家の佇まいでレトロ調。とはいえ、エセ古民家風という感じではなく、本物の古さが醸し出す鄙びた感じが気持ちいい。

カウンターの中でおでんを引っくり返している板前さんはきちんとネクタイを締めて、ひたすら無言。あからさまに元気バリバリでやたらと愛想を振りまかれるより、かえって落ち着く。店内を動き回っている旅館の仲居さんのようなおばちゃん連中が多少騒々しい印象なので、ちょうど良いバランスかもしれない。

おでんは、薄口ながら旨みがしっかり感じられて沢山食べられる。他の銀座のおでん屋さん同様、つまみ類も多数用意され、高めの価格設定ながら、相応のレベル。

この日は、おでん以外に力風アジのたたきと白魚のかき揚げ、牛すじの土手焼をオーダー。炙った〆鯵に大量の大根おろしとモミジおろしが添えられており、燗酒との相性抜群。かき揚げもベチャつかずサクサク感が強く、あっさりしたもの中心のおでん屋さんの中ではアクセントになる。土手焼はこの店の名物。串に刺さった牛すじは、おでんではなく、味噌だれをタップリまとって出てくる。これは焼酎向きだ。

おでんは、定番の他に、めかぶやトマトがおいしい。健康になったような気持ちになる。岩のり餅やつみれもいい。結局みんな美味しい。

四の五の言っても冬場のおでんは美味しい。みすぼらしい店だと侘びしいが、銀座のやす幸、おぐ羅、そしてこの力あたりなら、一般的に連想されるおでん屋さんとは一線を画した雰囲気が楽しめる。泥酔オヤジ出現率も低く、香水プンプンお姉さんも少ない。極めて真っ当だ。この手の店が銀座にしかないところが残念。

2007年12月15日土曜日

橋下弁護士と今年の漢字

テレビで人気の橋下徹弁護士が大阪府知事選に出馬する。これまで「2万パーセントない」と出馬を否定しながら結局はご承知の通り。記者会見では、それまでの発言を「ウソではない」と断言した。細かな話かも知れないが、こういう発言を平気でする精神性に今の時代の特徴的な臭いを感じた。

出馬しないと否定し続けてきた理由はテレビ出演との絡みだそうだ。それはそれで仕方ないし、彼なりの誠意の見せ方ともいえる。ただ、出馬を公にできなかった事情を「解除条件付き契約」とか「技巧的ロジック」と平然かつ冷静に弁明する姿には違和感を覚える。

素直に「これこれこういう事情でウソついてました。ごめんなさい」といえない精神性は、やはり現代社会の縮図だ。昨今あらゆる分野で屁理屈や都合の良い言い逃ればかり。グニャグニャした説明を機関銃のように繰り返して、その場を丸く収めようとする空気が蔓延している。

橋下氏も結局は「ウソといえばウソだった」とトーンダウンしたが、この表現自体もシブシブ感たっぷりでなんとも微妙。事情はどうあれ単純明快なウソであり、ウソはウソ。屁理屈やくだらない言い逃れをするより、「結果的に嘘をついたことをお詫びします」とスパッと会見冒頭からかませば、きっと10万票ぐらい稼げたはずだ。

ちなみに、以前、橋下氏の申告もれが報道されたことがあった。重加算税案件でもなく、通常の税務調査で生じる、いわゆる「見解の相違」レベルの話だったが、同氏は、自らの主張や報道されたこと自体を自身のブログで、かなり熱く取り上げていた。元々、あれこれ言いたがるタイプなのだろうが、弁護士としての性からか、あくまで自分の理屈を押し通そうとする性分が相当強いようだ。

ところで、謙虚な人、徳を積んでいる人なら、謝るべき点は素直に謝る。鼻っ柱とかプライドとか自信の有る無しに関わらず、何が悪いことかを知っていれば、どんなに名声や地位があろうと謝る行為から逃げない。そういう人こそ品格ある大人と呼ぶ。

あらゆる分野で偽装やらイカサマが大流行だ。不祥事が発覚した企業の釈明会見も人を喰ったような弁解や言い訳にもならない詭弁が横行している。潔さという感性が欠如している。

毎年恒例の「今年の漢字」。予想通り「偽」が選ばれた。「嘘」、「疑」なども上位候補だったことも淋しい限り。だましたり、あざむいたり、これらの行為の蔓延は深刻。

せめて自分は「真」、「正」、そして「潔」という漢字をモットーにしていきたい。

言うは易し、行うは・・・。

2007年12月14日金曜日

相続税が大きく変わる


来年から実施される相続税の減税が固まった。自民党税制調査会がまとめた平成20年度の税制改正大綱(与党税制改正大綱)によって、いわゆる事業承継税制の整備が決まったもので、法案成立自体はまだ先だが、事実上の正式決定だ。注目されるのは中小企業の株式評価に大幅な値引き措置がとられること。

中小企業の、いわゆる自社株は非上場株であり、一般に流通する性質ではない。額面自体はひと株あたり50円とか500円であっても、いざオーナー経営者が亡くなり、相続が起きると相続税を計算する際に、自社株は税務上の評価という作業が必要になる。
会社の所有する資産や業績などが反映されるため、都心部に事業所があれば、その不動産価値もバッチリ反映される。

たとえば大昔からある自社ビルで、処分するにも苦労する物件でも、それが建っている土地の立地次第では、当然、自社株評価は高額になる。

オーナー経営者に集中する自社株の相続であれば、株式の評価額だけでウン億円、ウン十億円になりかねない。キャッシュなら相続した分から払うことも難しくないが、自社株が中心的な財産であれば、納税資金に事欠くことになる。

大雑把かつ乱暴に言えば、「それなら会社を売って現金化してでも税金を納めろ」という趣旨だった中小企業相続の考え方がようやく今回の改正で転換する。

オーナー経営者の子どもによる事業の継続などを条件に、非上場の自社株の相続税評価を大きく減額(80%減)することで、中小企業の事業承継をスムーズにすることが狙いだ。

そもそも農地の相続では昔から同様の考えで、農業を継続するなら農地の相続税が猶予される仕組みになっていた。また、居住用の不動産、いわゆるマイホームの相続についても、一定規模までは相続税評価額が大幅値引きされる制度が用意されている。

税金の専門新聞を発行してきた関係で、中小企業の自社株評価にも同じ考え方を導入すべきという特集やキャンペーンをこれまで幾度となく展開してきた。

ようやくこうした方向性が見えてきたわけだが、改めて税制の考え方の転換に驚異的に時間がかかることを痛感する。

あのバブル時代、相続税の負担に耐えきれずに廃業する企業があった。相続税を原因とする自殺という悲しい事件も存在した。あの頃は東京だけの現象という側面もあり、政治の無力さを露呈した象徴的な現象だったような気がする。

国会議員といえども東京選出組は全体から見ればわずかな存在。実際の都道府県の勢力的なものとはまったく比例していないわけで、人数という物理的な面での発言力の無さはどうにもならない。

おまけに業種団体、業界団体の声をバックに動く構図の政治力学にあって、相続税に苦しむ人々という存在は、特定の業種でもなければ、団体があるわけでもない。構造的に声が届きにくい仕組みになっている。あげくのはてに相続税という限定された対象に関わる問題だけに「金持ちのエゴ」で片付けられ、大衆迎合こそ絶対のマスコミもこの階層の苦悩に光を当てないという悪循環。

相続税イコール妬みの対象になる金持ちという構図は実に短絡的。企業経営者が下流社会の住人とは言わないが、雇用確保にも貢献し、経済の底辺を支え、なにより稼動することで税金を納めるわけだから国にとって「税源」である。差別されて重税を課せられるいわれはない。

これまでのような減額措置のない制度下での相続経験者の中には、自社株の相続税を工面するために銀行から大借金をして、せっせとその返済のために必死に働いている人も少なくない。その姿は、次の世代の起業意欲を削ぎ、ひいては中小企業文化をも崩壊させる。

今回決まったのはあくまで大枠。これから具体的な法案作成が行われ、法案成立後にはより細かな規則や行政機関による通達などが制定される。歴史的に見て企業経営者を税務面から締め付けることに意欲と執念を見せる役人の性質が気になる。

今回の大転換の趣旨に反するような分けの分からない適用条件などを付け加えないよう切に願う。

2007年12月13日木曜日

舘山寺温泉、みかん、鰻

先週末、浜松近郊の舘山寺温泉に行った。泊まったのは「ホテル九重」。最近は、大型旅館に泊まることが多い。目的は、どかーんと広い大浴場。隠れ家系の宿だと風呂場も隠れ家みたいなことが多く、開放感を味わうには少し物足りない。

ホテル九重も、一応このあたりでは評判の高い宿だ。広大な吹き抜けを持つフロント周りでは琴の生演奏、お香の香りも癒し効果充分。客室も次の間付きで浜名湖の眺めも良く何より清潔。肝心の大浴場は、湖の眺望が心地よく、露天風呂は茶色く濁った食塩水の源泉が掛け流しになっている。浴室内に水分補給用のスポーツドリンクが常備されているのも有り難い。脱衣所にもウーロン茶や冷茶がふんだんに用意され、大小のバスタオルも使い放題。サウナ好きには良い環境だ。

全体に館内の「気」が明るく華やか。食事は個室。ぎょっとするほど旨いものはない代わりに、まずいものもない。朝食が簡素すぎる点を除けば全体に高得点。

今年の初めにもこのホテルに泊まったが、その時も朝食が淋しかった印象がある。まあ私の場合、宿に泊まった次の日の昼に浜松近郊で鰻をイヤというほど食べるので、結果的に朝食を軽く済ませられて助かる。

とはいえ、この価格帯(一泊一人3万円前後)の宿の朝食としては、これまで訪れた数々の旅館の中でもワースト1かもしれない。まずくはないが品数が少なすぎ、前夜の晩餐と比べて落差が激しい。

チェックアウト後、昼の鰻まで間が持たないので、レンタカーのカーナビを頼りに、みかんで有名な「三ヶ日」に行ってみた。
国道から見える山の斜面は一面みかんだらけ。結構壮観。国道から適当に山の方に分け入ってみれば、収穫真っ盛りのみかん畑が四方八方広がっている。枝だから落ちたみかんがゴロゴロ転がっている光景が結構面白く、ついピンぼけ写真を撮影。

いい気になっていたら、帰りの新幹線の時間が迫ってきており、訪ねてみたかった鰻専門店をあきらめ、浜松駅そばの老舗「八百徳」の支店に入る。オーダーしてからさほど待たずに出てきた鰻とあって、期待しないで食べたが、個人的には大満足。あまり長時間待たされるのが苦手な私としては、ここで充分かもしれない。

白焼きをつまみに妙に辛口の冷酒をグビグビ。昔から思っているのだが、冷酒のつまみコンテストをやったら、私が1位に強く推すのは鰻の白焼きだ。おろしたての上等なわさびをしっかり乗せて、チョこっと醤油に浸して食べるアノ味は、熱燗でもなければ焼酎でもない。キンと冷えた冷酒だ。

その後、甘すぎない独特な風味のたれ味の蒲焼きに移る。30分ほどで冷酒2合を空けたので、かなり酔う。昼間から呑む酒は素敵だ!。

そして鰻重をかっこむ。高カロリー摂取。
新幹線に慌ただしく乗り込む。いまだ喫煙車が用意されている時代遅れのサービスが有り難い。

それにしても、東海道新幹線は「ひかり」や「こだま」がめっきり減ってしまい、熱海や浜松あたりの人は昔より不便だろうと感じた。「のぞみ増発」といえば、東京を起点とする遠距離利用者には便利だろうが、全路線トータルで見れば、結局は値上げみたいなもの。でもいまだに喫煙車を用意してくれている根性に免じて気にしないことにする。

さすがに夕食は抜いた。

2007年12月12日水曜日

焼鳥バンザイ


先日このブログで書いた「おぐ羅」もそうだが、例のミシュランガイドにそもそも載ってないカテゴリーがある。おでんや焼鳥がそれ。

おでんや焼鳥というジャンルは日本の飲食店において絶対に無視できない存在だ。今回は焼鳥について書いてみたい。

東京中、そこそこの値段を出せばおいしい焼鳥屋はいくらでも見つかる。そこそこの値段というのがクセモノだが、こればっかりは正直言って値段と味が比例することは間違いない。

確かに安くておいしい焼鳥屋もたくさんあるが、たいてい馬鹿みたいに混んでたり、ひとり当たりの占有スペースが窮屈すぎたり、居心地という点で劣ることが多い。

ところで、たいていの人が自分の贔屓の焼鳥屋さんをもっている。不思議なもので、その基本は会社のそばや自宅の近所など、「わざわざ感」を感じさせない所が多い。

まあ焼鳥自体が、オヤジっぽい存在だし、めかし込んで食べに行くようなものではないので、たいていの人が「近所だから、つい」とか「通り道だから・・・」みたいな理由で店を選んでいるような気がする。

「わざわざ」じゃなしに行く店がうまいととても幸せだ。そういう意味では焼鳥の喜びは、「ご近所」とか「そこらへん」に転がっている。

私にとっての「そこらへん」が豊島区内某所にある焼鳥屋「T」。こんなブログに実名を出したところで混雑するはずもないが、イニシャルにすると格好いい気がするので「T」だ。

店構えはとてもつまらない。ひと昔前のモダン居酒屋が疲れちゃったみたいな雰囲気。店主は優しく親しみやすい人だが、見た目が丸坊主で独特な風貌。初めて店を訪ねたときは、間違いなくハズレだなと感じたが、その予想は嬉しい方に裏切られ、いまでは結構頻繁にでかける。

レバーが絶品。焼いても極上だが、ナマがたまらなく旨い。このレバ刺し、いつも必ずあるのにメニューには「限定品」との表示。理由を尋ねると店主が言った。

「本当は出しちゃいけないんだよ、保健所が入ったらヤバイんで」。

なんともすごい理由だ。客に出しちゃいけないものをたまたま出しちゃったと弁明するために限定品とうたっているわけだ。

「本当は出しちゃいけないレバ刺し」はとろけるように旨い。牛のレバ刺しより軽く、例えるなら、小ぶりのふぐの白子みたいな感じ。ヤバイもの、危なそうなものほどおいしく感じるものだが、この逸品はまさにそれ。薬味はわさびとショウガとニンニクおろしを好みに応じて醤油に溶かして食べる。焼酎にやたらと合う。

このレバーを使ったもうひとつのお気に入りメニューが、タタキポン酢(写真)。生で食べられるレバーを軽く炭火で炙って、ポン酢と薬味のネギたっぷりで味わう。レア状態だが、一応火が入っているため、体調が悪いときでもちょっと安心。写真ではやたらまずそうだが、実際は、プリッ、トロッという見た目と食感で衝撃的なおいしさ。これまた焼酎にやたらと合う。

そのほかにも、岩手の方から直送される上質な鶏を使った酒肴があれこれ楽しめる。

焼物は、ハツ、砂肝、せせりなどは、特別ジューシーで正しい鶏の味が口に広がる。銀座あたりなら1本で500円ぐらい取られてもおかしくない水準だが、この店では130円とか160円とかそんな感じ。

これを書いているだけでまた行きたくなった。

2007年12月11日火曜日

いちいち肯定してみる


たまに顔を出す銀座の鮨店。店名は写真に撮ったコースターの文字をご解読いただきたい。このお店は今年、近くから移転して寿司激戦区の雑居ビルに新装オープンした。

店主の姿勢がいい。客を客としてもてなす。当たり前のようでこれが出来ない職人さんは多い。押しつけがましくされるのが嫌いな私にとって、これは好きな店を決める大きなポイント。

銀座の寿司店は場所柄、総じて柔らかい接客をする。一部には無礼な店もあるが、やはり同伴客も多い土地ゆえに、主客をたてることは当然で、食べ方や順序、うるさいウンチクの押し売りをエラそうにされることは少ない。

こちらのお店も、しっかりスジの通った仕事ぶりに加え、客の意向を完全に汲んでくれるし、かといって極端に客におもねることもなく気持ちがいい。

店主は、都内の私立一貫校からそのまま大学に上がった好漢で、同じく私立一貫校上がりの私にとって共鳴できる「臭い」がある。

ちなみに路面店ではなく雑居ビルの地下とか階上に店を構える寿司店には妙な落着きがある。この店以外にも、たまに顔を出す店がいくつかあるが、不思議と同じような環境の店ばかりに行っている気がする。

こうした店は隠れ家的な雰囲気が気分を盛り上げてくれる。それ以上に、クラブ的、いや倶楽部と書いた方がニュアンスが伝わるだろうか、「お互いよくこんな所までたどり着けましたね」的な物好き同士の一体感が心地よい。

目的の大半はアルコール摂取なわけで、気分で呑むタイプの私としては、この手の店にいると「通っぽい気分」を満喫してしまい、ちょっとしたことやつまらない物にも感動する。刺身のつまの大根をやたらとおいしく感じたり、刺身の下敷き役の大葉まで喜んで食べてしまう。

先日もただのワカメに用意された酢醤油の美味しさに感動し、箸休めのカイワレにかかっていたドレッシングに感激した。我ながら実に安直だと思う。自分がいかに楽しい時間を過ごせるか、いかにその時間を無駄にしないようにするかを突き詰めていたら、いちいち肯定して、いちいち有り難がる習性が身に付いてしまったようだ。

文句や不満をあげつらってばかりだと結局自分が楽しくない。酒もまずくなってしまう。飲食店でも文句ばっかり言ってるオヤジをよく見かけるが、あの手の連中はきっと幸せではないのだろう。お気の毒だ。

肝心の寿司の話。この店の特徴は赤酢を使ったほんのりと黒みがかったシャリの色。このシャリを食べると他の店の普通のシャリが少し物足りなく感じる。握りは小ぶり。いろいろ食べられるので有り難い。

いつも酒肴ばかり嘗めているので、今度こそは握りを腹一杯食べようと画策しているが、いまだに実現していない。先日も店主が「ちょっと早い」と言うのも聞かずに自家製のからすみを出してもらい、ネットリ濃厚な味を楽しんだ。実にエロティックな味がした。

2007年12月10日月曜日

お受験と詐欺


先日、慶応幼稚舎に子どもを入学させたい中小企業経営者が、トータルで7千万円もの出費をしながら、結局不合格になった件で、詐欺の可能性ありという内容の記事が週刊新潮に載った。

子ども向けの名門お受験塾関係者がアレコレ指南した通りに各方面に謝礼や付け届けを配りまくったり、塾の改修工事を無償で引き受けるなど、その内容はまさに親バカ。

とはいえ、記事の内容通りなら、仕掛け人達は実に巧妙。信じてすがるのも無理はない。私自身、子どもの幼稚園受験を乗り切った経験があるので、名門幼稚園や小学校受験をめぐる独特な世界観を多少なりとも知っているつもりだ。

私の周辺にもお受験狂想曲経験者は多く、真偽は問わず、いろんな話を耳にした。暗躍する怪しげな人々、塾やいろいろなお教室の選び方、面接当日の服装の細かい色や、下手をすれば服のメーカーまでマニュアルがあるとか、願書の記入方法をめぐる微妙な言い伝え、提出書類に貼付する家族写真の撮影業者がどうだとか、ここで書けないような話もいくつも聞いた。

子どもの受験といっても、幼稚園や小学校だと親の試験、すなわち親が選考されるという要素が大きい。それだけに親の中には、少しでもアドバンテージを得ようと常軌を逸した行動をとる人もいる。詐欺師にとって最高の環境であり、ターゲットだ。

なんだかんだ言って頻繁に金を出させ、実際には何も活動を行わなくても、たまたま合格すれば、活動の成果だと主張できる。成功報酬ガッポリの構図だ。不合格ならそれまでの話。実に単純。

大体、この手に引っかかる親は、教育熱心なのは確か。詐欺師に頼る以前に、お受験に必要なするべきことはちゃんとしているわけだから、結構放っておいても合格する確率は高い。それを自分達の手柄に偽装するのだから困ったものだ。

税金の世界でも、似たような魑魅魍魎がうごめいている。税務調査に絡んで暗躍するような輩だ。

たとえば、どこかの会社に税務調査が入っている情報を入手した詐欺師は、その会社の社長に「私の顔で追徴をまけてもらえる」とうそぶく。実際の追徴税額が500万円だったなら、「本当なら1千万円取られるところだったが、うまく話をつけた」とのたまうような構図だ。

また、「本当なら過去5年分の決算内容までさかのぼって調査されるはずだったが、私の人脈で3年分しか調査させないようにした」とか、微妙なヒダを突いてくるような手口が特徴的だ。具体的な税務調査のスケジュールや調査によって追徴される税額や内容を把握していなければ出来そうにない話だが、「蛇の道は蛇」で昔から聞く手口だ。

聞くところによると、この場合、実際の税務調査は何の手心もなく淡々と行われる。担当の調査官は、裏でそんな連中が暗躍していることすら知らず、普通に業務を行うだけ。どこからか漏れたホンの些細な情報が詐欺師の絵図に利用される。

もっとひどいのになると、まったく当てずっぽうに儲かっていそうな企業に対してアプローチする。「税務ナントカ協会」みたいな名前で、「まもなく御社に税務調査が行われる予定ですが・・・」といったノリでアレコレ企業側の不安心理を突いて悪銭を稼ごうとする。このほかにも「国税ナンタラ協会」のようにさも公的な団体を装って、いけしゃあしゃあと「平成19年度通常会費」とかいう請求書と振込み用紙を送りつけるような手口も少なくない。

ひとかどの企業になれば、業種や地域ごとなど結構な数の団体に会員として名を連ねている。それっぽい請求をつい鵜呑みにして払い込んでしまう例は相当数にのぼる。

ところで、税務調査の世界は、税務署の裁量と絡むので、一般の社長さんにとって、その対処が難しい。調査対象は過去の決算内容だが、法的には7年前の分までさかのぼれるが、実際の運営はケースバイケース。悪質でなければ3年前ぐらいのものがチェックされることが一般的だ。明確な決まりがあるわけではない。

明確な決まりがないのは指摘内容も同様だ。軽微な間違いであれば、指導ということで、それ以後の経理処理の是正だけを要求されて済むこともあるし、同じ内容でも、しっかり修正申告を求められることもある。

全国の国税局、税務署でも税務調査などの事務運営にバラツキが生じないように何かと内部のルール作りを行っているが、調査官という人間が行う以上、裁量の度合いに開きが出るのは当然の話。詐欺師が目をつけるのもそうした部分だ。

「税務署に顔がきく」なんて言ってくること自体が胡散臭いと思った方がいい。その人間が税理士でもなく単なるコンサルタントなどの肩書きで動いているようなら、まず怪しい。確かに国税局や税務署出身の、いわゆるOB税理士のなかには、「顔がきく」人はたくさんいる。「顔がきく」という表現の意味は曖昧で、知り合いが多いというだけでも当てはまる。「顔がきく」イコール税金が安くなるという短絡的な考えは賢明ではない。

まあ税務調査という行為自体が懐を探られることだから、誰もが歓迎したくない話だ。常々思うのだが、税務署は警察よりよっぽどパワーを持つ権力だ。警察は悪いことしている人だけを攻めるが、税務署は、品行方正・謹厳実直の個人や会社にだって攻め込むことが可能だ。

税務行政の話を書き出すとキリがないのでこの辺にしておく。

2007年12月7日金曜日

上海蟹とブルーノート


新橋にある「Y鮨」で、鮨ではなく、今年食べそびれていた上海蟹の紹興酒漬けをしゃぶる。中国産食品は避けたいが、これだけは別。ミソが最高。紹興酒につけ込むぐらいでは寄生虫は死なないらしいが、隅から隅まで食べた。今日は私の体の中でどんな寄生虫がうごめいているのだろう。二日酔いだが、元気だから良しとしよう。

上海蟹といえば東麻布の「富麗華」で、店員さんに殻をむいてもらって安直に食べるのが最高だが、あの店もミシュランガイドに載っちゃたので、しばらくは行かないだろう。

「ミシュランガイドに載っちゃたからしばらく行かない」というパターンが師走の東京で結構多いのではなかろうか。

続いて南青山。「ブルーノート東京」。超ピンボケ写真でスイマセン。世界最高峰といわれるサックス奏者、デヴィッド・サンボーンのライブ。本当に上手だ。うっとりする。私に「上手だ」と誉められても困るだろうが・・・。

ただ、この日、光っていたのはベーシスト。帰宅後、ネットで調べてみたら、マイルス・デイビスのバックも務めたことがあるらしい。相当の実力者だった。うーん、ジャズなどに詳しくない私の耳も結構確かだなどとうぬぼれてみる。

ベースソロが圧巻。躍動感、指の動き、まさに魔術師のよう。じっくりどっしり控えめにしているイメージが強いベーシストも、一流レベルのアーチストだと主役を食うぐらい迫力がある。グルーブ感というのか、よく分からないがきっとそんな空気がステージを支配していた。

演奏終了後、客席をぬって楽屋に戻るベーシストを呼び止めて賞賛してみる。酔っぱらいオヤジになっていたので、握手ついでに彼の筋肉質の肩のあたりをポンポン叩いてみた。いい感じの重量感。「抱かれてもいい」と一瞬思う(むこうは迷惑だろうが)。

2時間近くのステージのさなか、洗面所で一服。すかさず店員が入ってきてしっかり注意された。思わずタバコを後ろ手に隠そうとしてしまった自分が高校生みたいで切ない。

2007年12月6日木曜日

小池百合子


自宅周辺を歩いていると、選挙区の関係で小池百合子代議士のポスターをよく見かける。最近のキャッチコピーは「百合子の本懐」。自信満々の笑顔のアップと大きな活字がなんとも微妙な感じ。

女性初の防衛相就任時だったか、何かの会見で「女子の本懐」と語ったことが印象的だったが、例の守屋事件で相当ラッキーだった人が小池女史だろう。

今年夏の防衛省の事務次官人事をめぐるドタバタ劇は、安倍政権末期の混迷ぶりを象徴していたが、結局、小池氏はこの抗争で大臣職を追われたようなもの。

守屋氏も退任したため、痛み分けといった報道が多かったが、大臣が官僚をコントロールできなかったわけだから、痛み分けでも何でもなく、間違いなく小池氏の「負け」だった。

テレビキャスターを経て日本新党ブームに乗って政界入り、その後、政党をいくつも渡り歩き、気付いてみれば政権中枢で総理候補といわれるまでになった小池氏。防衛相としての人事案件の失態は、彼女の政治家としての行く末に大きな影を落とすはずだった。

ところがどっこい、その後、守屋氏は刑事事件の犯人として大悪党ということになり、この夏、せっせと守屋おろしに励んでいた小池氏は、「悪党を追い払おうとした女傑」という願ってもないおいしいポジションを得るに至った。

元日本ハムの新庄やハンカチ王子・斉藤投手が言うところの「持ってるわ、オレ」ではないが、小池氏もやはり運というか星を「持っている」ことは確かだろう。

人生はプラスマイナス・ゼロだと思っている。盛者必衰は世の常だが、それでも働き盛りの年代にあるうちに「プラス」や「盛」が集中してくれたらと切に願う。おじいちゃんになってから人生の最高局面を迎えてもつまらないし、子どもの頃にピークが終わっていても困る。

小池百合子は、いまがピークに近い状況だろう。間違いなく田中真紀子や野田聖子より勝ち組と言える。

小池百合子になりたい。

2007年12月5日水曜日

おぐ羅のおでん

師走の声を聞けば「おでん」だ。すっかりコンビニ食となってしまった感があるおでんだが、上質な専門店なら、極上の晩餐になる。

銀座、数寄屋通りにある「おぐ羅」。出汁のうまみたっぷりのおでんが揃っている。「やす幸」の路線を踏襲したクリアなつゆは、あっさり、かつしっかりした味付けで、おでんと呼ぶより上等なお吸い物といいたくなる。

醤油を使わず、塩で味付けしているそうで汁の色は琥珀色。早い時間なら茶飯におでん汁をかける出汁茶漬けが楽しめる。これが死ぬほど美味しい。

アルコールの種類は少ないが、お燗酒は錫のやかんで温め、板前さんが自分の口に運んで頃合いを確かめる。やはり丁寧につけたお燗はしみじみと旨い。

おでんを食べる前の一品料理も、居酒屋料理とは一線を画す。しめ鯖などは、下手な寿司屋よりも上等。カツオの時期なら、特製ポン酢と薬味がどっさり入った名物のタタキが最高。カツオをたいらげたら、残った薬味たっぷりのポン酢におでんの豆腐を投入。ひたすら旨い。

つまみを2,3品、おでんをあれこれ食べて、しっかり酔って、お勘定は1万円前後。
おでん屋さんというカテゴリーとしては、富豪級だが、それはそれ。店の雰囲気も“正当な銀座感”にあふれているし、おでんを懐石の煮物とでも言い換えれば仕方ないかもしれない。

「おぐ羅」でおでんを食べると、滋味のせいか、何となく“充電”した感覚に陥る。“放電”のためにはしご酒をしてしまうのが困りものだ。

2007年12月4日火曜日

愛すべき「偽装」


「非日常感」。男は誰しもこれに弱い。最近は、大っぴらに自分の性癖を語る人が多いが、いろんなフェチをひと口で言えば、非日常性への憧れだろう。

アニメおたくしかり、制服フェチしかり、乱交やSM趣味もそうだ。ちなみに私は、パンティーストッキングの腰の近くで色が濃くなる折り返し?部分に妙に興奮する変な癖がある。チャイナドレスの脚線美を見ても、私の目線は脚ではなく、ストッキングの色の変わり目を探す。変かもしれない。

唐突に話は変わって、また銀座。他の繁華街のクラブ街と違うところは、多々あるが、見た目の大きなポイントは着物姿のママさんやホステスさん遭遇率の高さだろう。

和服の女性と一献などという状況は、ある意味非日常的な時間だ。和服姿のママさんといえば、たいてい、自分自身を別人に仕立て上げて夜の世界を生きている。自己演出というか内面の話を言いたいつもりだったが、すっぴんの普段着とでは外見も大違いなのも事実。

話は脱線する。毎年、関西の知人が盛大な花見旅行に招待してくれる。北新地の顔役である知人の主催とあって、例年、キタのホステスさん達が何名も同行し、道中はかなり賑やか。レギュラーメンバーも多く、女性陣とも顔なじみのつもりだった。

「つもりだった」と書いたのは、ある朝の失態が原因。二日酔いで宿の大浴場に向かい、サッパリして部屋に戻ろうとエレベーターを待っていた時のこと。「おはようございます」という女性の声。通りすがりの宿泊客同士が挨拶を交わすのは珍しくない。そのノリで素っ気なく返事したものの、その女性、何かせっせと親しげに話を続ける。

前の晩、一緒にカラオケでバカ騒ぎしているベテランホステスさんだった。別人ぶりにまるで気付かなかったわけだが、取りつくろえないほど露骨に「知らない人を見る顔」をしてしまった私。その後の彼女の冷たい視線を思い出すと今でも冷や汗が出る。

話を戻そう。銀座の女性の外見の話だ。着物に限らず、妖艶なロングドレスも夢見る男どもを魅了するが、衣装だけでなく、髪型も非日常性を演出する効果は大きい。

近頃は、ナチュラル路線というか普通っぽい髪型や衣装であえて素人っぽさをウリにする女性も多い。個人的にはやはり、頭がとんがっている位が趣があっていいと思う。

せっかくの止まり木だ。普通でどうする!と変に力んでしまった。ただ、トサカというか尾長鶏というかトーテムポールみたいな髪型は、銀座界隈ではハヤリではないらしい。確かに、前述した関西の知人が通う北新地の店の方が、クリスマスツリーのような髪型を頻繁に見かける。実際に触らせてもらうと、ガチガチにスプレーで固めたその感触がプロの心意気を感じさせてくれるようで実に心地よい。これもフェチと呼べる症状かも知れない。

最近はヘアメイクという表現が主流で、「化粧」という言葉がないがしろにされているような気がする。化粧という言葉を生み出した人が「化ける」という漢字を迷わず(かどうかは分からないが・・・)使ったセンスに脱帽する。

化けて綺麗に見えるのなら化けないことは罪だ。偽装ばやりの世の中だが、こちらの偽装は大いに結構。

2007年12月3日月曜日

銀座の夜

銀座8丁目、クラブがたくさん入居する有名雑居ビルに割烹「T」がある。もともと7丁目でクラブを経営するママさんが出した店で、実にしっぽりとした雰囲気の店だ。

都内の老舗料理店も経営に絡んでおり、料理のレベルは実にまとも。クラブママさんの副業的出店とは言えないレベル。しっかり出汁がとられた関東の味付けだが、関西風の食材と盛りつけも楽しめて、いい感じ。

カウンター中心でテーブル席が少しと小さな座敷もある。ポイントは着物姿の女性の接客。向島芸者出身のママさんの他に2名の綺麗どころがカウンターを挟んでソツなく相手をしてくれる。

先日訪ねたときは、柿と豆類の白あえ、白身の刺身が3種類、茄子の煮浸し、聖護院かぶらの蒸し物と鴨肉あえ、鰆の味噌焼を堪能。健康的かつ滋味。

一人でカウンターに座っていると、目の前に立つ綺麗どころに食事をジーっと眺められている感じでちょっと落ち着かないこともある。意味もなく行儀よく箸を上げ下げしたり・・・。まあ自分の所作を見つめ直すことも時には必要かと変に納得したりする。

居酒屋のカウンターでだらけてばかりいては、やはり男がすたるなどと自分に言い訳して凛とした空気と浮世離れした風情を楽しんだ。

続いて6丁目の「M」へ。銀座でも勝ち組として有名。その秘密はホステスさんというより黒服連中の優秀さだと私は睨んでいる。

10年以上前に初めて行った。しばらくはぽつぽつ顔を出していたが、いつしか足が遠のいた。4~5年のブランクが空いて、ひょんなことで再訪、店に入った途端、ベテランの黒服氏がこちらの名前をしっかり覚えており、不義理な客を以前と変わらず案内してくれた。それ以来、この店の信奉者になってしまった。

割と大箱の店で、大人数の客も珍しくない。微妙な有名人(バブル紳士系とか政界の生臭い系)もよく見かけるが、総じて客層がしっかりしている。私などは一人か二人でしか行かないし、さほど頻繁に行くわけでもない。そんな客も厚遇してくれるからさすがだ。

銀座のクラブといっても、お客をファンクラブの会員かのように錯覚しているママさんが幅を利かせている店もあれば、極端にくだけ過ぎちゃって地方都市のスナック状態になっている店、素人感覚とか言ってプロとしての仕事を最初から放棄しているキャバクラもどきが結構多い。

同業者からも特別な目線で見られている「M」。銀座が銀座であることを私に実感させてくれる場所だ。

2007年11月30日金曜日

妻逮捕 公権力の不気味さ

防衛省の守屋前事務次官の逮捕劇は、前次官の妻まで逮捕されるという異例の展開になった。前次官夫人・守屋幸子容疑者は、いわゆる専業主婦。収賄で逮捕される事態に「?」を感じる。

「身分なき共犯」という規定が刑法にあるそうだ。収賄は公務員という身分があってはじめて適用される罪。前次官は問答無用の犯罪人になるわけだが、妻は公務員ではない。本来なら収賄で捕まることはない立場だが、共犯であれば身分が公務員でなくても主犯と一緒に刑法犯になるという理屈だ。

守屋夫人をかばう趣旨ではないが、ちょっと強引な印象はぬぐえない。幸子氏とともに接待の恩恵にあずかっているはずの防衛省幹部の夫人会メンバーや留学の際に何かと面倒を見てもらったとされる守屋家の子どもだって共犯という理屈になる。

共犯といっても、専業主婦。具体的な便宜供与に関する知識などあるはずもないだろう。

まあ常識的に考えて、夫人までとっ捕まえることで「守屋氏個人の暴走」という絵図を描きたいどこかしらの意向が働いていると見るのが妥当だろう。

世間の印象なんてマスコミ報道で決まる。「オネダリ妻」、「墜ちた夫婦」などというフレーズは、「守屋夫妻は悪い奴ら」という極めて矮小化された断面がコトのすべてであるかのような印象をもたらす。

ゴルフの回数、焼肉をたかった回数、海外ブランド品のお土産話などのワイドショー的ネタがぽんぽん出てくれば出てくるほど、防衛省の構造的な問題や防衛利権という闇などどこかへ消え去っていく。なんか不気味だ。

歴史は繰り返すではないが、国が重要課題をめぐってドタバタしている時にはこの手の事件が起きる。

一例として思い出すのが住専問題のさなか、「西の末野、東の佐々木」と称された末野興産と桃源社の両オーナー経営者への集中砲火だ。印象的だったのは、末野興産への国税のマルサがなかば公開型で展開されたこと。

通常、国税の査察(マルサ)は、一般の税務調査とは異なり隠密行動が大原則。国税局の査察部員がガサ入れする当日まで、その地域の税務署長さえ、ガサの事実を知らされないほどの徹底ぶりだ。

ところが、末野興産バッシングがピークだった頃、ある朝、一般紙各紙に「今日にも査察」という見出しが躍った。そして、テレビカメラが準備万端整っている所に大阪国税局の査察部が登場、衆人環視の中での査察という異例の作戦が展開された。

その昔、新聞社系の写真中心のグラフ雑誌で、国税局の査察部が特集されたことがある。本物の査察官は顔出しNGが基本のため、部内の執務風景の撮影では、広報関係職員らが査察官役に扮していたというエピソードがある。それほどまでに隠密主義の査察が、住専問題のあだ花に対して実行したパフォーマンスに公権力の得体の知れない不気味さを感じた記憶がある。

鈴木宗男議員が一斉にバッシング対象になり、外務省の佐藤優氏がラスプーチンという異名とともに悪の権化として描かれた一連の絵図もそうしたキナ臭さがプンプンしていたし、新井将敬、松岡利勝両元代議士の自殺事件にも似たような印象がある。

最近ではライブドア、村上ファンド問題があげられる。今年の夏、ホリエモンと一緒に捕まったライブドアのナンバー2・宮内亮治氏を囲む内緒の会合に参加した。公判中とあって、何かと口は重かったが、公権力が特別な意思を持って動く際の不気味さを随所に感じさせる話が聞けて興味深かった。

今回の守屋事件。主役の逮捕というヤマ場を過ぎ、一連の話題はこれから急速にしぼんでいき、マスコミ報道も急速に次なるターゲット探しにシフトし始める。

誰が損して誰が得したか、誰が消されて誰が守られるのか、結局、歴史になったときにいろんなことが見えてくるのだろう。

2007年11月29日木曜日

銀座の路上駐車

最近、銀座の7,8丁目付近をブラブラしていると一昔前とは違う路上駐車事情が垣間見える。

運転手付きの高級車が待機している光景自体は同じでも、クルマの種類がちょっと変わってきた。あくまで個人的な印象だが、以前は、銀座と言えばセンチュリー、プレジデントあたりが主流だったような気がするが、最近はやたらとベントレーが目につく。

センチュリー、プレジデントだと、重役の出世とともに会社から機械的にあてがわれたような雰囲気がある。大企業のサラリーマン重役が乗るクルマという印象だ。後部座席に座る人物の主義主張というか、こだわりはあまり感じられず、お金持ちというより「お偉いさん」という表現がピンとくる。

ベントレーやロールスだと、どことなくお偉いさんと言うより富裕層という臭いが漂う。例えればセンチュリーに乗っているお偉いさんが三越でスーツを買っているのに対し、ベントレーのオーナーは、ブランドブティック。それもアメックスのブラックカード特典で時間外のプライベートショッピングをしていそう。

ベントレーもアルナージではなく、メルセデスとさほど変わらない価格のコンチネンタルの登場で、今風に言うとブレイクした感がある。それでも、いわゆる重厚長大型企業なら社長車として選ばない「顔」をしている。

ベントレーで銀座に繰り出すのは、成功ベンチャー、IT長者、上場で創業者利潤を手に入れたような新興型富裕層が多そうだ。

センチュリー、プレジデントは、例外なく会社名義で購入されるクルマだ。ベントレーも一部の好況企業が社用車で購入しているのだろうが、結構、個人でポンと買う人も多いのかもしれない。

ベントレーの他にも、マイバッハやマセラティ、アストンマーチンやフェラーリ・スカリエッティあたりを見かけることも珍しくない。メルセデスで飽き足らない富裕層の多様化を象徴している。個人的には、これらのうちでもスタイリッシュな2ドアクーペを結構な年のお父さんが運転していると格好いいと思う。50代、60代にこそ乗ってもらいたい気がする。

「税務署の目が・・・」などという感覚で、無難にSクラスを選ぶようだと面白味に欠ける。「24時間すべてが仕事であり生活」が当然のオーナー企業経営者なら尚更だ。

2ドアだと社用車として税務署から否認されるとか、派手な色もダメとか、もっともらしく喧伝されているが、税法や通達にそうした規定はない。儲かっている企業であれば、しっかり法人税を納め、社長も高額な所得税を納め、しっかり遊べば消費税もたくさん納めているわけだから、相応の社用車を購入することは当然の話だろう。

2007年11月28日水曜日

浜本洋好さんの器


唐津焼の陶芸家・浜本洋好さんが作る器が好きだ。わが家の食器の多くが彼の作品。何度も工房を訪ねて、アレコレ選ばせてもらったお気に入り揃いだ。実際に使ってみるまで器の感じは分からない。料理を盛った時の色合いや使い勝手が、購入する前とあとではイメージが違ってしまうことは珍しくない。

浜本さんの作る器は、使ってみると良さを実感できる。自らを陶芸家ではなく陶工と称する彼の謙虚さが表われている。出しゃばらずに素朴で、実用性重視。これ見よがしの良さではなく、さりげなく良い。

唐津焼の中でも人気の作家さんだけあって、各地で個展も開かれる。個展会場では、工房でお会いするときと違って、どことなく「陶芸家の浜本先生」になっているが、旧知の顔を見つけた途端、「陶工の浜本さん」になるところがちょっと可愛い。

唐津焼の有名陶芸家の多くが、豪快で気高い感じの作風だったり、ストイックに稟とした感じをウリにしている。唐津を旅して、飛び込みであちこち作家さんを訪ね歩くと、作品と同様の作家本人の姿勢やオーラに接して結構疲労感を覚える。だから浜本さんの工房はなるべく後半に訪ねることにしている。

どこかホッとするぬくもりを作品同様、ご本人の姿や話から感じることが出来て気持ちがいい。とはいえ、個展出品クラスの彼の作品には、迫力と情熱をたっぷり含んだ逸品も多く、その底力に圧倒される。ポッと出の陶芸家とは一線を画す、熟練陶工の凄さが垣間見える。

団塊世代、シルバー世代の男性に陶芸を趣味にする人が増えているそうだ。ろくろを回すことが目的で始めた人でも、そのうち作るだけでなく、好みの器を集め出すのが通り相場。器好きになったら、必ずはまる唐津焼。浜本さんの器は、ひと言で言って「きちんとしている」。是非、手にとって見られることをオススメする。

2007年11月27日火曜日

お国のために!?


もうすぐ年末調整の時期がやってくる。年末調整のお陰で大半の勤め人は税金の計算をしないで済む。一方で、年末調整で完結する仕組みが、わが国のホワイトカラーからタックスペイヤー意識を奪ったという指摘も根強い。

日本の税制の基本は「申告納税制度」。平たく言えば、自分の税金は自ら申告することで精算しますということ。反対語は「賦課課税制度」。固定資産税のようにお上が決めた金額を支払う仕組みだ。

実際上、大半の勤め人は自分の税金を「申告納税」といわれてもピンとこない。賦課課税的な感覚だろう。

世界中の国税庁長官が集まる国際会議で、日本の年末調整の仕組みが語られた際、他の国のトップ達から驚嘆と羨望が集まったそうだ。たいていの国は、毎月の給料から一定額を差し引く源泉徴収制度はあるものの、年末に最終集計して完結してしまう仕組みは日本独自のものだそうだ。

日本独自の制度である理由として、お上に従順な国民性があげられる。源泉徴収はもちろん、年末調整の作業は誰が行っているのか。言うまでもなく会社である。会社が社員の税金を事細かに計算し、納税を代行している。手数料もなく、「法律だから」という理由のみで、国の税収確保を業務としている。

作業を肩代わりしているのに、感謝もされずに、間違えれば罰せられる。国から見れば実に効率的な制度だ。

先日のブログで、戦前は高額納税者に対して貴族院議員という道が開かれていたと書いたが、この源泉徴収制度に関しても、戦前は常識的配慮があった。民間企業への委託作業という意味合いから、企業側に手数料が支払われていたことがあった。その後、GHQが、法律で規定している以上謝礼は不要という見解を出したことで消滅したらしい。

それでも、国税庁内部から「報いがないのはおかしい」という声が出て、昭和の一時期、「優良源泉徴収者表彰」という制度が設けられていた。結局定例化しなかったわけだが、やはり、民間企業に委託しているという構図は間違いないわけで、経営者からすれば、「感謝ぐらいしろ」と声を大にしたいところだ。

2007年11月26日月曜日

ミシュラン日本版に思う

ミシュラン日本版についてさかんに議論されている。率直に言って「ミシュランの思うツボ」だろう。話題になるほど本は売れる。

味覚は千差万別。本人の好み、体調、そして気分にまで左右されることは自明の理。その店で何度食べたのかも分からない他人の評価、ましてやヨソの国の人がたまたま食べた際の評価を有難がっても仕方ない。

単なる読み物として眺めていればいい話だろう。大体、寿司屋なんてカウンターを挟んで人間と人間が向き合って過ごす場所だ。店主との相性はもちろん、店側との呼吸が合って初めて居心地と味の印象が決まる。グルメ本を見て、ランチに出かけて、お決まりのセットを食べただけでアレコレ語っても仕方ない。

アマノジャクを自認する私は、グルメガイドに載っていない自分だけの美味しい店を見つけることに喜びを感じる。このブログでも、訪れた店の固有名詞を書くことはあるが、本当に好きな店の名前は書かない。氾濫するネット情報だってそれが現実だろう。

寿司屋の話に戻ろう。最近やたらと増えてきたのが「おまかせだけの店」。メニューやお決まりセットなどはなく、出されたものを有り難くいただくスタイルだ。確かに便利だし、社用族にも有り難いだろうし、接待される側も気を遣わなくて済む。

知識のない客でも何となく困らずに過ごすことが出来る。逆に言えば、客を育てないスタイルだと思う。せっかく、プロと正面から向き合うのだから、一方的に食べ物を提供されるだけではもったいない。寿司屋のカウンターに座る意味がない。

客側も客側のスタイルをぶつけた上で相互通行ができた方が楽しい。今風に言えばインタラクティブな世界を作れないようなら、「カウンターで堪能する寿司」という文化の魅力は半減する。

もちろん、季節や産地ごとの魚の旬なんかをすべて覚えることなど素人の客に出来るわけはない。それでも馴染みの寿司屋を作って、時に恥をさらしながら、一応の常識的知識を身に付けた方が、「客としての質」も上がるというもの。

ビミョーな知識をそれなりの店でご披露して悦にいってるオヤジにはなりたくないが、そういうオヤジだって、どこかで一生懸命知識を蓄えてきたのだろうから、捨てたものではない。いわゆるKYの問題であり、出されるものに何の興味も示さない御仁より、店側にとって相手のしがいがある客だろう。

そこそこの知識があれば、出されるものの希少性が理解できたり、逆に店側の姿勢に疑問を感じることもできる。「おまかせ」だけを食べさせられていると、あくまで店の都合を食べていることになる。

20代の終わりから10年近く通った寿司屋があった。客単価は、有名繁華街ではない立地にしては高く、お客さんの年齢層も高く、いろんなことを体験して覚えた。

育った家が肉系西洋料理を好む傾向が強かったので、社会人になってからも「和」より「洋」が中心だった私だが、その店で魚の旨さや日本料理のあれこれを知ることができた。毎週、多いときは週に2回ほど訪れて店の売上げに貢献し、時には店主と旅行に出かけ、土地土地の旨いものを食べ歩いたりした。

結構な投資だったと思う。でもそのお陰で、自分なりの寿司屋で快適に過ごすスタイルが固められた気がする。

そうは言っても、値段が心配というご指摘もあろう。私も一見の店には、普段より財布に余裕を持たせて出かける。でも、まっとうな寿司屋に言って、カウンターに陣取り、自分の好みを押し通すのだから、高額なお勘定は当たり前だと思う。

ついでにいえば、そこそこのフレンチに行って、選択肢の乏しいコース料理を選ばされて、相応のワインを頼んで支払う金額を思えば、寿司屋は決して高くないとも思う。

なんといっても、好きなものを、好きな量、好きなタイミングで、目の前で待機してくれる職人に提供してもらう。このこと自体が、世界にも例のない贅沢なスタイルだろう。安いはずがないと考えた方が自然だ。

高い、高いといっても私の経験では、品性のない同伴ホステスみたいに「ウニ、トロ」ばかり連呼しなければ、一流店と言われる店だろうと目の玉が飛び出るお勘定になることは稀だ。安くはなくても請求される値段がこちらの想像と大きく狂うことはない。歌舞伎町あたりの怪しげな寿司屋の方がよっぽどわけの分からない金額をふっかけてくる。

なんかミシュランから大きく脱線してしまった。とにかく寿司屋のカウンターでしみじみすることが大好きな私としては、お寿司屋さんが表層的に評価される風潮がすごくイヤだ。

2007年11月22日木曜日

将軍と鴨


いよいよ冬だ。何を食べようか迷うことの多い季節だ。あんこうやふぐ、おでん等々、ついつい鍋系が脳裏をよぎる。

ところが、「お酒あっての食」を標榜する最近の私としては、燗酒やお湯割りを想像した途端、鍋の優先順位が下がってくる。鍋の出来上がりを待っている間に充分に暖まってしまう。熱い鍋には冷酒やオンザロックの方がピンとくる。

鍋ではなくて、冬っぽいものを考えていたら無性に食べたくなったものがある。それは「鴨」。野生の真鴨が食べたい!

今年の春頃、東麻布にある「あか羽」に行った。鷹匠料理とうたうこの店には、これ以上なくこの店の料理にお似合いの人に連れて行ってもらった。徳川宗家十八代の徳川恒孝氏がその人。世が世ならお供を引き連れ、鴨撃ちを楽しまれたであろうお方だ。

徳川氏は日本郵船を副社長で退職後、徳川記念財団理事長として幅広く活躍されている。執筆、講演に多忙な日々を過ごされている。

「あか羽」では真冬の時期に真鴨を食べられるそうだが、訪れたときは季節柄、養殖の鴨をいただいた。鍋の上で煮るのではなく、鉄鍋の上でジュウジュウと焼かれた鴨は甘みが強く美味、肉から出た脂の効果で野菜も美味しく堪能できた。真鴨の季節に是非味わいたいと決意してまだ実行していないのが悔しい。忘れずに近々予約したい。

ちなみに池袋にある「笹周」という店も真鴨が食べられることで知る人ぞ知る店。実際に囲炉裏で焼いた串焼きなどは滋味豊かで満足できるが、池袋的風情が濃厚な立地にあり、出かけるモチベーションの点で問題がある。やっぱり、希少な鴨は将軍のお膝元で食べたい気がする。

2007年11月21日水曜日

誉めることができない愚かさ


「やって見せ、言って聞かせてさせてみて、
誉めてやらねば人は動かず」

山本五十六大将の言葉だったかと思う。ビジネスマンの中にはこの言葉が好きな人は多い。ポイントは、オチの部分、すなわち「誉めてやらねば」だろう。オチになる言葉だけに、この部分が最も難しく、かつ大事な要素なのだろう。

「誉める」。これが下手なのが我が国。勲章を例にとっても、官高民低が普通で、おまけに等級廃止なんかをしてしまったせいで、等級の高い勲章をもらえる予定だった元役人からの批判すら出ている始末。

勲章ついでに言えば、もっとも叙勲対象にふさわしいのは誰かと考えたとき、その答えは、政治家でもなければ役人でもない。高額納税者こそが一番讃えられて然るべきだろう。

納税表彰という制度がある。一般にはあまり知られていないが、全国の税務署で実施されている制度で、管内の選ばれた人を税務署長名で表彰するもの。ランクアップすると国税局長、そのうえの国税庁長官からの表彰もある。

日本語の常識で考えると、この制度は、適正に長年にわたって高額納税をしてきた人が対象と思えるが、実際は違う。

納税表彰の「納税」は、納税者団体という意味合いであり、「納税者団体の活動により税務行政の円滑な運営に寄与した」という功績で表彰されている。

「たくさん納税したから表彰された」という解釈だと大分ニュアンスが違う。そもそも、高額納税という行為自体を賞賛する制度は存在しない。ウン十年にわたってウン十億円の税金を納めてきても、国としては「義務だから」という姿勢で素っ気ない。

警察が安全運転に努力した人を表彰しているが、安全運転だって義務だ。義務だからという理由で放っておかずに、わざわざ表彰するには意味がある。周囲への波及効果と本人の更なる発奮に期待しているわけだ。

納税も同じはず。誉められれば嬉しい。励みになる。どんなに頑張って納めても、無視されたら意欲もしぼむ。

戦前なら、高額納税者には貴族院議員に選出される道があった。真っ当な考えだろう。国に対する「会費」を人よりはるかに多く負担しているなら、相応の権利があってもおかしくない。

現状を考えると、選挙権だってネットカフェをねぐらにするプータローと億単位で納税している人間と何ら変わらず一票は一票。高額納税者にとってはバカみたいな話だ。

「義務だから当たり前」という情緒性のまったくない発想では、いずれその義務自体のハードルを高めてしまうように思える。

2007年11月20日火曜日

謎の整体師

ここしばらく腰痛が長引いて困っていた。普段、どこかが痛いときにかかる整体が今回はまるで効かなかった。この杉並区内の整体は、正直言って変な整体で、身体を引っ張ったり、折り曲げたりするようなことは全くしない。うつぶせか仰向けに寝させられたまま、奇妙な金属棒などで全身の波動か何かを探って、バランスの悪いところを見つけて、ちょこっとさすったり、周辺のツボを痛くない程度に押すぐらいで終了する。

何度通っても何をされているのか分からない。でも、実際に10年来不調だった足の膝裏の関節は一発で直ったし、以前行ったときには腰痛もすぐに回復した。理屈は分からないが、全身のバランスを整える秘策を施しているらしい。

今回の腰痛は、そこに4度も通っても一向に回復せず、整体師に「内臓系の重い病気かも」と脅されてほとほと困っていた。

一般の整形外科でレントゲンを撮影しても特別な異常はなく、ワラにもすがる思いで、人づてに紹介された新たな謎の整体師を訪ねた。

大田区某所の住宅地に謎の整体師はいた。御年80歳近く。やたらと施術前に己の勉強・修行経験を語るのが印象的だったが、要は気功、カイロ、理学療法すべてのいいトコ取りをオリジナルの技に高めたものらしい。

痛いこと、不快なことは一切しないのが特徴だそうで、実際に身体を曲げたり伸ばしたりする作業は僅かで、クライマックスは15分ほどふくらはぎに気を送られること。

仰向けに寝かされているため、足元でふくらはぎを掴まれていることは分かるが、微動だにしない様子に「ひょっとしてオジイチャン寝ちゃったのでは」と不安がよぎる。ところが5分ぐらいして、全身にジュワーッと奇妙な熱気というか何かが充満してくる不思議な感覚を覚え、やたらと気分が爽快になった。

施術後、かすみがちだった視界はやたらと開け、腰も軽くなってびっくり。3日ほどおいて再度整体してもらったら、すっかり快調に戻った。謎の整体師曰く、原因は「歯」とのこと。半年以上にわたって歯医者に通っている間に、首から上の神経系統が不調を興して腰痛を招いたらしい。

効き目があったから信じるしかない。

杉並区の謎の整体も大田区の謎の整体も、当然、医者ではなく、健康保険は使えない。
したがって合計でウン万円に上った今回の腰痛退治作戦費用は「医療費」にはならずに、いわゆる医療費控除の対象にならない。まったく役に立たない整形外科の診察と処方された薬なら医療費控除対象となるのだから、困ったものだ。

整体の世界って、この手の謎のテクニシャンがいっぱい存在するらしい。人体の神秘は一般的な西洋医学の対処療法的な取組みだけでは手に負えないのは確かなのだろう。
私が身をもって経験した2人の謎の整体師のところにも、患者として医師が結構くるらしい。

ところで、わけの分からないコンサルタントから定期的に話を聞くだけでも、その費用は会社の税務上、経費として認められる。その一方で、謎の整体師の費用を経費にすることは難しいのが現実だろう。定期的に身体の調子を整えてもらい頭がスッキリするのなら、世の経営者層にとっては経費に出来そうなものだが、税務署的見解では、ホワイトカラーの必要経費である給与所得控除がある以上、認められない公算が強い。

2007年11月19日月曜日

間抜けな秘書

仕事柄、国会関係者と接触することが少なくない。議員当人だけでなく、秘書との接触も多いが、秘書のレベルが低いと、つくづく議員が気の毒になる。

公設秘書を議員の家族や親戚にしているケースは多いが、このパターンは、秘書給与が税金でまかなわれているため、マスコミの格好の批判材料にされる。いわく公私混同との批判だ。同族会社経営批判と同じ構図だが、間抜けな秘書を見ていると、家族や親戚を秘書にしたい国会議員の心理も理解できる。

実際、私の会社でそこそこ付き合いのあった某参院議員との付き合いを秘書の間抜けさが原因で切ったことがある。

多少なりとも気の利いた秘書は、親分である議員が引退しても、より有能な議員のところにすぐに引っ張られる。

大物といわれる政治家には必ず名物秘書が付いているわけだから、逆に気の利かない秘書ばかり揃えている議員が大物になることはないのだろう。

企業経営も似たようなもの。単なる秘書ではなく、信頼できる腹心の有無が大きく影響する。中小企業が同族関係者で固めたがるのは、中小企業の現実を考えると、当たり前の発想だろう。

人材確保の限界は中小企業の構造的問題だ。名だたる大企業のようなブランド力もなければ、賃金水準も低い。公務員のような安定性もない。多少頭が悪くても、血のつながりによる結束は捨てがたく、また、多少頭が悪くても、少なからず会社と自身を一心同体として物事を考える習性は、単なる勤め人とは一線を画す。

「多少頭が悪くても」と連発したが、それでも得難いケースは多いわけだが、会社内外の世間様の目線は随分と違う。同族の二世や三世を見る目は必要以上に厳しく、頭が悪いどころか、人並みかそれ以上でも「バカ殿」とレッテルを貼る。人よりかなり優秀な水準で、はじめて普通の扱いを受ける。
それが現実。

政治家も二世や三世ばかりだが、あちらの世界は、「生まれながら国家を考える環境にあった」とか「リーダーの姿を子どもの頃から間近に見て育ち・・・」とやらの賛辞で固めることが多い。一民間企業経営を同族うんぬんと指摘するより、国家運営の世襲の方が確実に異常な話であるはずだが、どうも世間様の目線は微妙だ。

ところで、昔からつくづく思うことが世襲議員の相続税問題だ。税金関係の新聞に長く携わった関係で、アチコチから聞いた意見でもある。世襲議員が当選するための、いわゆる「地盤・看板」の部分って、どう考えても立派な「のれん」、「無形財産」だろう。先代が亡くなって、子どもが弔い出馬すれば、子どもの前職が政治に無関係でも、たいていが物凄い得票率で当選する。これってどう考えても立派な遺産であり、立派な相続財産だろう。
なんか秘書の話から脱線してしまった・・・。

2007年11月16日金曜日

事業を継ぐということ

農家は国策として保護されている。農地を相続しても子どもが農業を続けていれば、農地に相続税がかかることはない。いわば、農地は国民の食を支える大切なものであって、個人的資産とは一線を画すという発想だ。食材を生産するという作業が、その使命ゆえに保護されている格好だ。

なんとなく理解できるが、逆になんとなく腑に落ちない。農地で生産されたコメや野菜を売る商店には、そこまでの優遇策はない。

「国民の食」という考えなら、パン屋さんもそば屋さんも、ある意味居酒屋だって国民生活を支える大切な存在だ。これら一連の事業者の相続と農地の相続はそんなに違うものだろうか。

こうして考えると相続税そのものの存在が妙に気になる。一部の先進国では、相続税を廃止する動きが珍しくない。わが国では、今年末までには決まる来年度税制改正で、事業承継に関する相続税の減税が導入される可能性が高いが、相続税を無くすという発想はまったくない。

難しい言葉で言うと「富の再配分」が相続税の存在理由。資本主義国家でそんなこと言われてもピンとこないが、お金持ちが代々続くことは悪いことという発想に基づいている。

とくに深刻なのが中小企業の株式だ。流通性が全くないのに、事業所の立地などの資産内容によっては、上場会社の株価より高い評価額がつけられる。それを元に税金を換算されても無茶だ。そもそも評価額とは、客観的な交換価値、すなわち売却しようとしたらいくらになるかというモノサシである。

事業を続けているのに、「売っぱらったらコレコレの価値があるんだから、それに見合った税金を払え」という論理で課税される。屁理屈的発想にも思える。

個人的経験だが、先代が亡くなったとき、自社株が先代の遺産のかなりを占めていたため、納税対策には頭を痛めた。実際に経験したことで強く印象に残っているのは、「この会社は先代から受け継いだのではなく、国に大金を払って購入したのではないか」という感覚に陥ったこと。なんとも後味が悪かった記憶がある。

後継者不在による中小企業の廃業が社会問題になっている。子どもがいないのではなく、子ども世代に「親の事業を継ぐ」という意識が薄れてきていることが最近の特徴だ。

技術やノウハウが受け継がれないで廃れていくだけでなく、雇用も廃業の数だけ失われる。国難と言っても決して大げさではない。

中小企業にもポピュラーになってきたM&A。ほんの数年前までM&Aという言葉自体が、経営者階層から忌み嫌われている風潮が強かったが、最近はすっかりネガティブイメージが払拭されてきた。その理由は結局のところ、背に腹は代えられない経営者の実情につきるのだろう。

自分、そして自分の会社を救うためにM&Aが有効な選択肢になることは間違いない。“相続税的発想”にリードされる各種の政策を見続けてきた経営者なら当然の判断だ。

2007年11月15日木曜日

スタイリスト費用を会社で

劇場型という言葉が定番化した政治の世界では、政治家の衣装やヘアメイクにも専門家がアドバイスすることが珍しくなくなった。自分の着るものぐらい自分で考えてもらいたいものだが、しょせん、人間はセンスがある人とない人に分かれるわけだから、見た目を気にする職種なら、こうした努力も必要だろう。

ビジネスの世界において、男はスーツにネクタイが制服。制服とはいえ、着こなしによっては格段にその人の見せ方を変化させる。

高級こそが絶対ではないが、やはり、どんなにセンスが良くても安物は人を安く見せる。

社長という稼業に就いている以上、人からの見られ方は無視できない項目のひとつ。
よれよれなら、会社自体がよれよれに見られる。真っ当な社長は、真っ当と思わせる衣装を着こなしているのが普通だ。

努力の形跡はあっても、しょうもない格好をしている人は気の毒だ。スーツを英國屋で仕立てていても、ワイシャツの柄とあり得ないネクタイの結び方などで、すべてが台無しになっている人は多い。

苦労するのならスタイリストを活用することだってアリだ。季節の変わり目ごとに洋服選びに付き合ってもらって、組み合わせ方を教わるだけで、充分に自身を演出できる。購入する衣装代はさすがに会社の経費には出来ないが、社長業の演出という重要なコストであるスタイリスト費用は、会社の経費にすることは可能だろう。

もちろん、休日用のカジュアルウェアだと、社用としては無理がある。スーツやタイ、靴の組み合わせなど、ビジネス用途なら、常識的な範囲の“コンサル費用”は経費と認識しても不自然ではない。

本来なら、社長業を演出するために必要なスーツ一式だって会社の経費で落としたいところだが、社長といえども税務上は「給与所得者」。いわゆる給与所得控除という制度によって概算の必要経費が認められている以上、こうした発想はまず認められない。

一生懸命おしゃれしても、トンチンカンになってしまう。会社の沽券にも関わるのでスタイリストに指導を頼む-。こんなスタイルも珍しくない時代が来るかも知れない。

社長のブレーンといえば、税理士や弁護士が一般的。占い師やカウンセラーあたりまでは、まあまあポピュラーだが、スタイリストだって顧問契約を考えていい相手だ。

2007年11月14日水曜日

ホームシアター自慢


我が家の自慢のひとつがホームシアター。100インチのスクリーンに5・1チャンネルのサラウンドスピーカーがリビングに設置してある。これ見よがしに機材が露出しているのは格好悪いので、困ったのがスピーカー選び。リビング空間に異物感なく収めるために選んだのが、米国・スピーカークラフト社の天井埋め込み型の逸品。写真のダウンライトの横に移っている円形のユニットだ。埋め込み型の利点は、なんと言っても見栄えだが、音響特製は当然まっすぐ方向だけに照射されるため、臨場感がすべてのサラウンドには不向きだ。

ところが、スピーカークラフト社の埋め込み型スピーカーは独自の特許とやらで、ベース自体は埋め込まれるものの、ツイーター、ウーファーユニットの角度が30°まで可動するため、前方3つ、後方2つのスピーカーをきちんとベストポジションに向けて鳴らすことが可能。戦争映画のヘリコプター音などは本当にグルグル回っている感じだ。全部が上方向から鳴っている点にはやや不満もあるが、ひと月に2~3度という映画鑑賞頻度からすれば充分だ。

スクリーンも普段は邪魔なので、家具を工夫して収めることにした。普段は50インチのプラズマを置いてある家具の上部にスクリーンを収納できる箇所を作り、使うときだけ電動で降りてくる仕組みに仕上げた。上下2枚の写真を比べてもらうと分かりやすいかと思う。

最近のプロジェクターは、ひと昔前のそれと違って、映画館のように真っ暗にしなくても充分の明るさがある。生活空間を兼ねたリビングでも暗室並みに暗くしなければならなかった昔の機材に比べると非常に優秀。

ちなみに業者さん曰く、10年ちょっと前なら我が家のプロジェクターの性能ならば3ケタ万円だったそうだ。技術の進歩のお陰で、我が家のプロジェクターは10万円台前半で買えた。

さて肝心のテーマが鑑賞する作品だ。ケーブルテレビでやっていた「Gメン75」をスクリーンで見ても、なんとも画像が荒くて全然良くない。やはり近作DVD以外はまるでダメ。テレビもデジタル云々言ってもサラウンド対応じゃないと100インチではしっくりこない。

アクションものも舞台や背景が都会系だと、チラチラしすぎな感じになる。大自然系のスペクタル系(なんだ?)がもっとも集中して楽しめる。宇宙モノとか、天災モノなどは大画面・サラウンドと相性がいい。

大スクリーン向きという点では次のような映画がオススメ。現役の米国大統領が宇宙人に向かって戦闘機で出撃する「インディペンデンス・デイ」とか、氷河期が突如やってくる「ザデイアフタートゥモロー」、彗星が地球に衝突する「ディープ・インパクト」など。

アクションやサスペンス系ではなく、じっくり見せる映画にも大画面向きの作品は結構あるが、そちらは後日紹介したい。


ちなみに最近のアニメ大作は、子ども向けなどと侮れない。クマノミが出てくる「ファインディング・ニモ」とかマンモスが出てくる「アイスエイジ」などは、大スクリーンとスーパーウーファー付きのサラウンドで鑑賞すると結構大人も見入ってしまう。普段、漫画本やおたく系アニメとは無縁だが、実写とは違う独自の世界に不思議な魅力を感じる人が多いことが少し理解できた気がする。

2007年11月13日火曜日

気にしすぎな社長

「税務署の目が気になる」。そこそこ儲けている社長さんからこんな言葉を聞くことが多い。銀座あたりで豪遊しすぎて、税務調査でおとがめを受けるのではといった心配だ。

もちろん、自分の純粋な遊びだけが目的なら、その費用は、いわゆる社長の個人的なものとして税務署がチェックする。とはいえ、実際に業務に活かされているのなら、税務署にとやかく言われる話ではない。

守屋前防衛事務次官を接待付けにしていた御仁も、年間何十回ゴルフをしようが、実際にそれが業務実績に直結していたなら、ゴルフ費用にビタ一文ポケットマネーを使わなくても何ら問題はない。たとえ、自分自身の趣味がゴルフであって、接待といえども楽しくてしょうがなくても、あんな利益を生む接待なら、全部が全部会社の経費で当然だ。

会社でベンツを買おうが、ベントレーを買おうが、基本的に業務に利用するのなら税務署がアレコレ言うことはない。

社用車の色は、紺や黒など地味にしないと対税務署的に危ないなどという心配意見を聞くことがある。はっきり言って都市伝説の類だ。2ドアやRVも同様。そうだからといって会社での経費購入に規制があるわけでではない。強いて言えば、その存在に気付いた税務署員から、業務との関連性を問われることがあるという話。常識的な判断で済むレベルだ。会社に関係のない大学生の社長の娘に真っ赤なボルボを買いましたなどという図式では、税務署にどう主張しようが無理なのは当たり前。常識的に判断して極端に非常識でなければ、あまり気にする必要はない。

税金関係専門新聞を発行していると、とかく「会社名義ネタ」の記事に問い合わせが寄せられる。社長宅、別荘、社長車等々、世の社長さん達がこれらのテーマに結構神経を使っていることが分かる。その多くが、心配しすぎという感じがする。

2007年11月12日月曜日

同族会社の味方です

同族会社という言葉には独特な響きがある。レッキとした法律上の言葉であるにも関わらず、妙に手垢がついているイメージだ。

身内だけで好き勝手やっている、公私混同が日常茶飯事などなど。同族という言葉自体が、物凄く排他的な印象を与える。部外者は部外者として中をのぞけないというか、口も出せないというか、なんとなく閉鎖的な印象はぬぐえない。

とはいえ、400万社ともいわれる日本の企業の9割以上が同族会社。サラリーマン階層がどうイメージするかは勝手だが、日本経済の屋台骨は、同族会社のパワーが支えているのは疑いようのない事実だ。

税法上、やたらと規制的要素の強い取扱いが同族会社には適用されている。法律を作る側、それを執行する側が公務員である以上、同族会社を色眼鏡で見ることが発想の根源であり、同族会社を利することは悪とみなされる。

大いなる誤解に基づく妬み思想がそこにはある。相当な犯罪行為があっても決して首にならずに身分が保障される役人からは、想像もつかないリスクを同族会社経営者は抱えている。崖っぷち感覚と表現すべき精神状態の中で日々闘っている。

無節操、無秩序な公私混同は、税務上の規制を受けるわけだが、会社が破綻するほどの公私混同など当の同族経営者がそうそうしていられるわけではない。このバランス感覚が役人的発想では分からない。

「会社の金であんないいクルマ乗りやがって」とか「会社の金でホステス口説きやがって」みたいな、まさに枝葉末節レベルの表層だけを見て、「ケシカラン同族会社」と安直に結論づける。実に不毛だ。

安泰生活を送る人間よりベネフィットが多くなければ、誰が中小同族会社の経営など引き受けるだろう。それが公私混同という曖昧な批判にさらされるのは偏見だ。

中小企業の世界にもM&Aが広がっている。中書企業白書にも、「子どもがいても後継者になってくれない現実」がさんざん書かれている。その理由は、「苦労したくないから」。裏返せば、中小同族会社経営の実態が裏付けられている。

国が認めているこの現実を無視するかのように、税制をはじめとする諸制度は、中小同族会社経営者を差別し続ける。中小企業の活性化を与党も野党も叫んでいるが、発想の根源を正さなければ無意味。中小同族会社経営者だけを思いっきり優遇する政策を打ち出すぐらいじゃなきゃ何も変わらない。

二世と役人上がりばかりの政治家には理解できない話だろう。ほんの10年間だけでいいから、国会議員を企業経営経験者、それも同族系もたくさん入れた状態で構成したら面白いと真剣に思う。

2007年11月9日金曜日

腰が痛い

ここ数日、腰痛でダメ。去年まで腰が痛くなったことがなかったのに、今年に入って3度目のひどい常態。座っていられない、靴下がはけない、歯磨きも厄介、寝返りがうてない、トイレが難儀、アレコレ悲惨な状況になると、介護の必要なお年寄りなどの気持ちが1000分の1ぐらい分かる気がする。

楽しくない。この一言。酒は飲めても、酒場に行けない。まいった。さっきは、横断歩道をトロトロ渡っていたら、信号が変わって、ドライバーに睨まれた。

世の中、健康体、健常な人を前提に出来ていることを今更ながら実感。クルマに乗っていても、路面がでこぼこだと、通過するだけで腰に響く。いつも掘り返して迷惑千万だと思っていた道路工事も、税金のムダ遣いという観点は別にして、その意味が少し分かった。

我が家は割と最近の作りなので、浴室、トイレ、階段などやたらと手すりが付いている。でも、そんなものが付いていることを腰痛になってはじめて知ったような気がする。

コルセットを装着すると、ズボンがゆるゆるで、ブートキャンプに成功したかのような気分になったことだけがプラスポイント。

でも腰痛が治まったら、きっと上に書いたような殊勝な気持ちもどこかにいっちゃうのかもしれないので、定期的に身体に不具合が起きることは、きっと意味があるのだろう。

2007年11月8日木曜日

クルマの話

クルマの話を書いてみる。エンスーでもなんでも私としては、詳しいことは書けないが、クルマには、自分の“アマノジャッキー”を表現してきた歴史があるので、その点を中心に書いてみたい。

昭和も終わりに近づいていた頃、鮮烈なデビューを飾ったトヨタ・ソアラ。友人のソアラを借りてみたが、確かに上等、格好も良い。でも私が選んだのはニッサン・レパード。ソアラの陰で売れなかった素敵なクーペだ。初期の「危ない刑事」で柴田恭兵が乱暴に運転していたことだけが知られているクルマだ。

その前は、若者の間で、繰り広げられる不毛なクルマ自慢が鼻につき、どうせならと思って、当時は誰も見向きもしなかった四輪駆動車の世界に足を突っ込んだ。その世界では、すでに三菱パジェロが覇権を握っていたので、私が選んだのは、ニッサン・サファリ。本当に街で見かけなかった。その点だけがお気に入りだった。その後、四輪駆動車が大流行し、「街乗り4駆」なる言葉まで聞かれるようになった時には、あえて幌付きのラングラージープにも乗った

富豪っぽいクルマとしては、思い出深かったのがBMW850。メルセデスのSLばかりがもてはやされていた気がして、迷わず選んだ。「ソアラの向こうをはって乗ったレパード」みたいな感じですごく好きだった。

その後も、絶対数の少なかったジャガーXK8に長く乗った。最近は、とにかくアルコール優先の生活になったので、クルマへのこだわりが以前より薄れてしまい、某アメ車が車庫に眠っている。

国内旅行先でレンタカーを借りることも多いが、最近の国産1500㏄クラスはかなりカッチリ出来ていて実に快適。正直、都会生活には、それらがベストマッチと思っている。とはいえ、道路上で繰り広げられている厳然としたクルマヒエラルキーの現実を思うと、いわゆる高級車然とした顔の大切さも痛感する。

会社にある雑用専門の旧型マーチを運転していると、いろんなクルマにぶっ飛ばされそうな目に遭う。運転が下手なのではない。やはり見た目は大切だ。

おまけにひとつエピソード。その昔、渋滞中に前を走っていたサニーだったか、なんか可愛げなクルマにチョコッとぶつけてしまった。傷もつかない程度の接触だったが、そのクルマから大仏のような髪型の大男が2人降りてきた。

こちらはビビリまくったが、そのオジサンの第一声が「普段は、こんなガキの使いみたいなクルマに乗ってるわけじゃねえんだ!」。

私も、そのオジサンが下さったハンカチみたいに大きな名刺(大日本なんとかカンタラとか言う文字が毛書体で書いてあるやつ)を見ながら、「それらしいクルマに乗っとけよ」と大きな声で叫んだ(もちろん心の中で)。

幸い大仏ヘアーのオジサンはいい人で、小言を頂戴しただけで済ませてもらった。でも今でも思う。やはりアレは反則だろう。あの方々には、それらしきおクルマに乗っていてもらわないといけない。ちゃんとお約束通りのクルマだったら、後続車の私もきっと必要充分の車間距離を取っていたはずだ。

この教訓から得たものは、しみったれたクルマだと、周りが気にも留めてくれずに、かえって危ないということ。技術革新でさまざまな安全装置が開発されているが、クルマ自体の姿や形、ツラ構えが安全対策上もっとも大事な部分だと思う。

2007年11月7日水曜日

アマン


昨日少し触れたアマンリゾートについて書いてみたい。アジアを中心にリゾート展開するアマングループは、それまでにない徹底したハイエンドターゲット戦略で確固たる地位を築いた。

タイ・プーケット島のアマンプリ、インドネシア・バリ島のアマンダリなどの登場は、ホテルフリークをびっくりさせる出来事だった。

極端に宿にこだわりのない私としては、そうした動きを横目で見ていたが、大の南国好き、とくにバリ島への偏愛を自負する身としては、アマンの何たるかを覗いてみたいと思って、数年前にアマンダリを訪ねた。

バリのビーチエリアではない、高原エリア(ライステラスなどに囲まれている山側)にたたずむアマンダリは、拍子抜けするほど、これみよがしの装飾などはなく、エントランス付近も実に素っ気ない。予備知識がなければ、なんとも味気ない印象だろう。

リゾートに付きものの高揚感とかワクワク感とは一線を画し、シンプルな静寂が漂う。ベーシックな部屋の室料だけで、1泊7~8万円も取られる秘密はどこにあるのかとチョッピリ不安になる。

案内された部屋も特別な仕様があるわけではない。空間の広さ、天井の高さは充分だが、それだけで満足するわけにもいかない。

滞在中、アマンの人気の理由をなるべく探ろうと心掛けて過ごしたが、その結果は納得することばかり。味気なく感じていた部屋も、ベッドの質、枕の質、置かれている籐製ソファの座り心地など上質な素材に満ちていた。したがって眠りも深く、目覚めの心地良さは旅先であることを忘れるほど。

サービスの特徴のひとつが、滞在している客の名前をスタッフが頭に入れていること。部屋係だけでなく、プールスタッフ、レストランスタッフからも、名前で呼ばれたのには感心。でも、どうやって、私が何号室の誰だかを把握しているのか、ちょっと監視されているみたいな緊張感も覚えた。

細かなハード、ソフトの説明はガイドブック類にまかせるとして、エピソードをひとつ紹介したい。

滞在中、日本への帰国便の日程変更をフロントスタッフに頼んでおいた。あいにく希望便に空席が出ずに、チェックアウトの際に、当のスタッフから「力になれずにスイマセン」みたいなことを言われた。その話はそれで終わり、つかの間の世間話を続けた。チェックアウト後にバリ島の別エリアに移動することを話すと、親切にそちら方面のオススメ情報を教えてくれ、型通りの挨拶をしてホテルを後にした。

次に向かったホテルはビーチエリアの老舗リゾート。アマングループとは関係のないホテルだ。のんびり過ごしていたある日、部屋の電話が鳴った。かけてきた相手は、アマンダリのフロントスタッフ。私のチェックアウト後も、帰国便変更の件で2日間ほど航空会社に確認を続けていたそうだ。これにはびっくり。チェックアウトの際、次に泊まるホテルをきちんと伝えておいた記憶もなかっただけに、気配りの凄さに心底驚き、「アマンの魔力」が垣間見えた。

今回の写真は、アマンダリではなく、バリ島東海岸にあるアマンキラのプール。水平線に飛び込むようなデザインは、その後のリゾートプールに多大な影響を与えた。

アマンキラは、海辺の絶景を上手に取り込む設計上、階段がやたらと多く、この点は正直減点要因。アマンダリとアマンキラしか知らない私がアマングループの何たるかを語るのは、ちょっとおこがましいが、もっと富豪になって、世界のアマンを渡り歩きたいものだ。

2007年11月6日火曜日

東南アジアの力

20年以上前から趣味で水中写真を撮っている。ダイビングをするには、やはり南国の暖かい海が最適。若い頃は冬の伊豆でも平気で潜ったが、最近は沖縄あたりでも真夏以外は寒くてイヤだ。

必然的に選ぶ旅先は南国になる。ハワイもよく行ったが、レストランで一応メニューの値段を気にするぐらいに物価が高いので、ついつい東南アジアに目が向く。

アマンリゾートをはじめとする高級路線が増えてきたとはいえ、まだまだ一流ホテルのスイートが日本円で3万円ぐらいで泊まれるし、飲食代においては、メニューの値段を気にしないレベルの店が圧倒的だ。

ダイビングの費用もプライベートチャーターをすれば、その安さが実感できる。沖縄あたりなら、ちょっとしたクルーザーに、他のダイビング客と混載され、水中でも現地ガイドの引率で、他のダイバーと一緒に潜らされ、1日2回潜って、2万円近くとられることも珍しくない。フィリピンあたりなら、場所によっては、同程度の料金で、小型の舟と船頭さんと水中ガイドをまるごとチャーターして1日中好きなだけ、自分のぺースで遊んでいられる。


このブログ、タイトルの割に、富豪っぽくない内容ばかりという批判を受けたが、今回もセコセコとお金の話を書いてしまった。

もちろん、コスト面の安さは大事だが、遊びという場面で、いかに富豪的見地に立てるかは大事だ。

さっきのダイビングの話だと、一般的な乗り合い型ダイビングは、団体観光バスツアーみたいな位置付けであり、チャーターベースは、文字通り、わがままオリジナルツアーということになる。

先進国の弊害のひとつが、レジャー産業の人間がサービス精神に乏しいことがあげられる。ダイビングの世界しかり、カリスマガイドとかなんとかいって自分の価値観を押しつけようとする勘違いちゃんが多い。そうではなくても、すごくビジネスライクな傾向が強く、東南アジアの人々から受ける奉仕の方が心地よい。チップが目的であっても、客を殿様気分にさせてくれる姿勢に感心する。

上手に彼らのホスピタリティを享受して過ごせば、アジアの旅はかなり快適。くだらないことばかり書いてある旅行ガイドブックだと、「空港で荷物を持ってくれるポーターはチップをしつこく要求するので要注意」みたいなことが書いてある。

バリ島あたりの空港では、長いフライトに疲れた到着したての日本人観光客が、汗だくになってスーツケースを運んでいる光景が普通だ。なかには、ポーターを物盗りを蹴散らすかのように追い払っている人もいる。

ターンテーブルから荷物を下ろすことに始まり、空港の外で迎えの車のトランクに積んでもらうことまでやってくれて、せいぜい数百円のチップだ。なかには、もっと寄こせと言ってくるものもいるが、放っておいて問題ない。

ポーターを使うことすら遠慮していたら、滞在中の行動も推して知るべしだろう。

「言ったもん勝ち」。リゾート、とくにアジアでは、これが極意だ。チップはつきものだが、それで快適さを買うと思えば安いもの。

タイ・バンコクから日本に帰国する際、深夜で疲れていたこともあり、空港まで手配したドライバーに、搭乗手続き、荷物検査、はたまた出国検査まで代わりにやってもらったことがある。日本円で1000円もしない金額のチップに心から感謝してくれて、こちらも気持ちよく帰国の途に就いた。こんな経験、アジアなら普通かも。

2007年11月5日月曜日

温泉旅館

先週末、仙台の秋保温泉に行ってきた。ところどころ紅葉も楽しめたし、お決まりの松島観光も好天に恵まれ、つかのまの命の洗濯になった(最近は、しょっちゅう命の洗濯をしている気がする)。

評判の高い「佐勘」という宿に連泊したため、好きなものを食べ歩けたのは、2回の昼飯のみ。2回とも寿司にしてみた。ランチのお決まりだけだと味気ないし、お決まりプラス好きなものをいくつか頼んでみた。

最初に行ったのは、仙台のお隣・塩竃の有名店「すし哲」の仙台支店。駅に隣接する複合ビル内の支店ということで、さほど期待しないでいたが、お決まりのレベルはさすが高水準。ところが、お好みで頼んだ「ぶどうえび」にびっくり。お会計のときに知った「一貫2千円」という強気のプライス。10貫ほど盛り込まれているお決まりの中で一番高いものが3800円だったから、ぶどうえびの別注(2貫分)だけでそれ以上。富豪でもちょっと驚いた!?。

次の日に行った塩竃市内の「丸長寿司」で頼んだぶどうえびの方が大ぶりで味も濃厚だったが、そちらは一貫800円。せいぜいそんなもんでしょう。今更ながら有名大型店の必然というか、有名大型店に成り上がっていく必然を学んだ気がする。

ところで両方のお店で共通していたのがマグロの美味しさ。塩竃は生マグロの水揚げが日本一だそうで、まっとうな店のマグロは、赤身はもちろん、トロが素晴らしかった。

個人的な好みで恐縮だが、あまりトロは好きではない。年齢とともに、しつこさが口に残る気がして、とくに大衆路線の店では敬遠している。

今回食べたトロは後味がスッキリしており、脂の旨みに加えて、マグロ特有の鉄分の味わいも感じられる逸品。いくつでも食べられそうなほど。旬を迎えつつある松島産生ガキの握りとともに印象的だった。

さて肝心のお宿「佐勘」。大箱旅館のわりに細かい点まで気が配られていて気持ちいいお宿という印象。風呂がいくつか点在して、湯めぐり気分を味わえるが、強いて言えばサウナがある場所が限定されており、そこだけがサウニストの私にとって不満。まあ不満がそんな程度だから、全体に高得点。

夕方、ロビーに数十人の中国人の団体が来ていたので、ぎょっとしたが、なぜだか大浴場では遭遇しなかったことが幸い?だった。それにしても、最近は大型旅館だとアジアからの団体を見ることが多くなった。まれにロシアから一団も見かける。

一時期、隠れ家系の小さな温泉宿ばかり行っていたので、気付かなかっただけかも知れないが、最近は大型旅館に目を向けることが多くなったため、随分と気になるようになった。

宿側も入浴マナーを教えるなどの努力をしているようだが、彼らの根本的な知識の乏しさは、日本人に不快に映ることは多く、いい評判は聞かない。まあ温泉というか温泉旅館という形式自体が日本の文化のようなものだから仕方ないか。どうしても抵抗感があるなら、個人客相手の小型旅館に行けばいいわけだし、これも時代の流れだろう。

「佐勘」に話を戻そう。一番感心したのがチェックアウトの時間。お昼の12時までOKなのはあまり例がない気がする。高級旅館なら11時アウトも珍しくないが、お昼までとなると、素直に宿の経営姿勢を賞賛したくなる。

10時チェックアウト、大浴場の利用は9時までなんていう宿は、サービス業精神のかけらも感じられない。評価の高い宿は総じて、チェックアウトの時間に余裕があることと、大浴場にタオルがふんだんに置いてあること。この2点が共通している。要は客をせかせかさせない、みみっちい思いをさせない。この2点が徹底されていれば、ほぼ間違いなく快適な時間が過ごせる。

2007年11月2日金曜日

NOVAの社長室

語学学校NOVAの創業者である猿橋前社長が使っていた豪華社長室が何かとマスコミを騒がせている。高級酒を揃えたバーカウンター、ベッドルームやサウナもあり、豪華ホテルのスイートのような作りだ。

さて、この社長室を「けしからん」と見るか、「オッ、羨ましいね」と見るか、ここがオーナー経営者と従業員とのモノの見方の根本的な違いだ。

テレビや雑誌は、あくまで大衆の味方であり、お金持ちや成功者を「妬む視線」で取り上げる宿命にある。

マスコミが垂れ流す“情報”(あて報道とは言いたくない)を鵜呑みにする人々にとっては、アノ社長室は「悪」となる。

もちろん、あの会社が引き起こした授業料返還問題や労働問題自体は「悪」だが、成功した社長が豪華社長室を作ることは、決して悪ではない。

社長室の賃料が高額だったとか、豪華だったというステレオタイプの批判は、破綻した会社だから叩かれるのであって、業績好調の会社の社長室なら、どんどん豪華にすればいいと思う。

しっかり会議スペースを使い、豪華応接セットも実際に商談に使い、得意先や社内の慰労のためにバーコーナーを使い、頻繁に深夜まで業務をするのなら、風呂やベットがあったって問題ない。

上記のような実態があれば、税務署だって、その社長室の存在を問題視しきれないはずだ。

会社の規模や、売上げ、経常利益、納税実績等々から考えて、社用としての機能を立証できるなら、大衆的視線で豪華・高額に見える家賃だって、税務上、会社の損金(必要経費)になるのは当然だろう。

経営者の公私混同批判も相変わらず減らないが、非上場会社の場合なら、ある意味当然の思考であり、その部分こそが、中小同族会社のパワーでもある。

「会社は誰のもの?」。この命題に対するストレートな答えは「株主のもの」である。上場会社の場合と違い、非上場会社であれば、経営者イコール株主というスタイルが一般的であり、こうなれば「会社は俺のもの」という考えは当たり前の正論となる。


だいたい法律自体が中小同族会社を、通常の会社と区別している。税務上の各種差別的制度がその象徴。留保金金課税しかり、役員報酬の一部損金算入制限などいろいろある。

中小同族のオーナー企業は、公私混同が行われることを前提に、こうした制限なり規制を受けているわけだ。裏返せば、これらの洗礼を受けたうえでの行為は、やましいことではないという理屈も成り立つ。

サラリーマン向けではなく、経営者向けのメディアが常に頭を痛める問題がある。それは製作している人間自身が経営者ではないということ。致命的な欠陥だろう。

オーナー経営者の視線とそうでない人の視線の違いは、巷にあふれる巨大メディアの情報からは決して浮かび上がってこない

会社経営に携わる人間は、アノ社長室ぐらい立派な居場所を作りたいと誰もが考えている。ケシカラン的思考はそこにはない。

ちなみに朝のワイドショーでNOVAの社長室問題を取り上げていた「みのもんた」の表情がおかしかった。彼自身、親が興した水道メーター会社の現役社長であることは有名な話。

年金問題では怒りまくっていた彼の顔は、例の社長室問題では、ニヤニヤしていた時間が長い。「何してたんでしょうねー」とつぶやく表情は、どことなく、オーナー経営者の顔。私には彼の表情が「結構いい部屋作ってたんだねー、なかなか面白そうじゃない」と感心していたように見えてしかたなかった。

2007年11月1日木曜日

神楽坂の鮨とおばけ

東京で風情のある街といえば神楽坂。JR飯田橋駅から地下鉄神楽坂駅に向かう通りの左右に趣のある路地がいくつもあり、しっぽり系の店が並ぶ。

夜の路地はどこなく妖艶な感じが漂う。歴史のある街特有の気に満ちている。京都の祇園あたりもそうだが、花街としての歴史がある界隈は、どこか淋しげな気配がつきもの。

人通りがそこそこあっても、活気とはちょっと違う。妖気といったら大げさかも知れないがそんな感じ。逆にそうした「気」が、そぞろ歩きに非日常感をもたらす。

しょせん、私の神楽坂行きはアルコール摂取が最大の目的である。考えてみれば、酩酊、すなわち酔っぱらうこと自体が魔界をさまようようなもの。妖気に浸りながら魔界をさまようのもオツなものだ。

寿司屋を中心に和食系の店をアレコレ覗いてきたなかで、印象深かったのが、とある路地を入っていった雑居ビル2階にある寿司屋でのこと。店構えと控えめな看板に惹かれて、常連で混雑しそうな時間を避けようと早い時間を狙って、のれんをくぐってみた。店内の感じもイメージ通り。一歩踏みいると人あたりの良さそうな大将と顔があった。ところが意外な展開。

「ウチはどなたかのご紹介でないと・・・」。
いわゆる“一見さんお断り”だという。ただ、その物言いが、実に丁寧で感じよく、私も妙に納得してしまった。丁寧といっても、慇懃無礼な感じだったら、気まずさついでに腹を立てたかも知れないが、なぜかその時は不快な感じがしなかった。

誤解のないように言えば、その日の私は、身なりが悪かったわけでなく、もちろん、間違えて高級店に迷い込んでしまった若者という年齢でもない。あえて言えば、“しっかり高いお勘定を請求しても良さそうな気配の客”だったはず。そんなことお構いなしに仲間に入れてもらえなかった私の感想は「神楽坂おそるべし!」。

もちろん、これは特異なケースだ。普通は、パっと見、敷居が高そうな店でも、居心地のいい店が多い。名店と呼べるレベルにある「よね山」という寿司屋もそのひとつ。

ビルの奥まった場所に入口があり、店の様子が外から見えない。それだけで構えてしまうが、入ってしまえば、ごく普通の空間。私が何度か行った時は、少し乱雑気味に感じたぐらいで、妙に凛とし過ぎていない分、居心地は悪くない。

基本的に食べ物はおまかせ。本来、おまかせというスタイルが嫌いな私だが、「肴中心で」もしくは「握り中心で」程度のリクエストをしておけば、こちらの様子に合わせて満足させてくれる。

お勘定は銀座並み。それに見合った内容なので問題なし。

ある料理屋さんで教わった不思議なクラブの話を書いておく。銀座じゃあるまいし、若者相手の大衆キャバクラかと心配して行ってみたクラブだ。

路地の外れ、ほとんど住宅街にあったその店は、古い町家風の一軒家にあった。

外構えとうって変わって、店内は妙に重厚なヨーロッパ風の造作。店内の照明は極限まで絞られ、派手さの代わりに重さばかり感じる。結構お金もかかっていそうな感じで、40歳程度のママさんと若い女性が5名ほど働いていた。

神楽坂の路地と同じ特有の空気感が店にも漂う。妖艶より妖気という表現がまさに当てはまる。

雰囲気に呑まれたのか、女性陣と怪談話をしていたときの事。「あの辺に何か感じる」とママさんが一角を指さす。みんなで目を向けた瞬間、その周辺の照明が3つほど、一斉にバチッという音ともに切れた。

それからあの店には行かなくなった。もう数年前のこと。あまり賑わっていたのを見たことがなかったから、いまだに営業しているかは不明だ。

今になって思うと、訪ねるときはいつも酩酊気味だった。ひょっとすると、あのお店自体が魔界の幻だったのかもしれない。

2007年10月31日水曜日

熱海の効用

ちょっと偏屈気味のアマノジャクという性質が私の特徴だ。その昔、スピルバーグ監督の大ヒット映画「ET」を、周りがあまりに絶賛するもので見る気にならず、20年後にレンタルビデオをこそっと借りて、見終わった後感激して号泣した経験もある。

東京・六本木といえば、背伸びしたかった中学生の頃から足繁く通った街だ。でも変なアマノジャク精神のせいでミッドタウンはもちろん、六本木ヒルズにも今だ足を踏み入れていない。おまけにそれが自慢だったりする(ちっとも自慢にならないが・・・)。

いまや六本木とか麻布という響きに何故だか「素敵さ」を感じない。銀座は別格だが、新橋や神田、神楽坂や麹町という響きの方がスマートに感じてしまう。とくに根拠はない。上手く説明できないが、感覚的にそう思う。

前振りが長くなったが、そういう意味で「熱海」である。今更ながら熱海だ。名前の響きからして今風ではない。夕日を見ているような何となく切ない響きがある。おじいさんのため息のような響きもある。

福山雅治とか叶姉妹とかエビちゃんとかは熱海には絶対行かなさそうだし、ヒルズ族とかもきっと行かないと思う。そこが熱海の魔力であり魅力だ。イケメンやゴージャス系の人、流行に敏感な人などが目を向けない、これぞ隠れ家にピッタリだ。

なんといっても立地がいい。品川から新幹線に乗ったら40分かからない。ヒマな平日に午後から新幹線に乗って、温泉旅館の日帰り入浴を楽しんで、暗くなってから東京駅に舞い戻り、ワンメーターちょっと移動して湯上がりに銀座で痛飲なんてこともお茶の子さいさいだ(実際にやったことあります)。

平日なら多くの旅館がひとり客を受入れてくれる。突発的なひとり旅で何度も訪れたのが大観荘。個人的にすごく好きな宿だ。

今風ではない。建物も古い。でも昔の日本建築の落着き感は、流行の和風モダンとやらに比べて格段に癒される。庭の松の木も実に風流。大観荘にも新館があるが、廊下や壁のつくりは和風とはいえ当然近代的で、個人的には旧館の方が好きだ。どの部屋も広く、室内にマッサージチェアもあり、たいていの部屋から相模湾が見渡せて、命の洗濯にもってこい。

大浴場は3カ所。すべてにサウナがある点が、「スーパーサウニスト」の私にとって好都合。部屋での夕食も一品一品運ばれ、殿様気分。まずかったことは一度もない。

仲居さんはさまざまだが、熱海を代表する老舗旅館だけに、色々とわきまえている仲居さんが少なくない。このあたりが、新興旅館との違いだろう。

一人旅の客に対しても接し方が自然で、こちらが発する「しゃべりたくないオーラ」や「今はムダ話するぞオーラ」をきちんと読み取ってくれる。

なんか宿の回し者のような誉め方だが、この旅館に限った話ではないが、大人なら老舗の魅力にはもっと目を向けた方がいい。

新しいものを追っかけるのがマスコミの仕事だが、それに乗っかって踊らされて、海のものとも山のものとも分からない旅館や飲食店に大金を捨てるのなら、伝統と定評という情報に頼った方がましだ。

最近、都心に増えてきた外資系ホテルの宿代に比べれば、日本のちゃんとした旅館の方がずっと値ごろ感がある。

次々に大箱旅館が廃業してイメージが悪化し、全般的な客足が減った熱海だって、志のまっとうな旅館は、しっかり繁盛しているし、繁盛しているところは、それを支える品質がともなっている。

ちなみに熱海駅前のコンビニは、妙に下着とか靴下とかのお泊まり系商品が充実している。着替えなどもっているはずのない突発性熱海行き症候群の御同類は結構存在するようだ。

ある旅館のお女将さんの証言。「平日の夕方にふらっとお見えになって、朝8時頃の新幹線で会社に向かわれる社長さんは結構いらっしゃいますよ」。

そんな社長とは個人的にお付き合いしてみたい。

2007年10月30日火曜日

ぐい呑み賛歌


骨董の世界では「備前の徳利、唐津の盃」という決まり文句がある。取り合わせの妙を例えたものだが、骨董に限らず、現代作家の作品でも、確かにこの組み合わせは悪くない。

唐津焼。佐賀県の伝統的な工芸品で、同じ佐賀の有田・伊万里焼と異なり、釉薬を使いながら土そのものの味わいを活かした素朴かつ艶っぽい焼物だ。

唐津の盃の良さは、藁灰を主とした釉薬が焼成段階で微妙に景色に変化をつける点だろう。

基本的には、暖かみのあるベージュ系、乳白色系の肌合いだが、焼成過程で、鉄分などが器の表面に溶け出し、青や黒のアクセントが加わり、独特の景色を作る(写真参照)。

お酒を注げば、濡れた盃の中は美しく光る。まさに小宇宙。飛び込んでみたい衝動に駈られる。

盃と書くと小さなお猪口のようなイメージなので、ここからはお猪口と区別する意味で「ぐい呑み」と表現したい。

真っ当な料理店は器にも気を配っているが、酒器という点では、なかなか感心できるものに出会うことはない。

酔っぱらいに乱暴に扱われることを思えば仕方ないが、器好きにとっては、ちょっと淋しい。なかには、ぐい呑みをたくさん詰め込んだカゴを持ってきて、好きなものを選ばせるお店があるが、妙チクリンなぐい呑みばかり揃っていることが多く、かえって興醒めする。

そんな私が実践しているのが、「マイぐい呑み」の持ち歩きだ。私にとってビジネスバッグを持ち歩く目的自体が、ぐい呑みの運搬である。あたかも重要書類でも入っていそうな雰囲気のバッグでも、中身は、ぐい呑みだけだったりする。

桐箱に入れて持ち運ぶわけにもいかず、保護用の巾着袋に入れて酒場にお供してもらっている。たまに酔ったついでに店に置き忘れるが、紛失した経験はない。

磁器と違い土っぽさがウリの唐津とか備前などの陶器は使い込むほどに色合いなどに味わいが出てくる。「酒を染みこませる」という名目でぐい呑みを使った後に、軽く布巾で拭くだけのモノ好きも器好きには少なくない(私もだ)。

いまは閉めてしまった文京区内の某寿司店に通いつめていた頃、あまり気に入らないまま購入した志野焼(美濃焼の一種)の大ぶりのぐい呑みを店に置かせてもらったことがある。お客さんにどんどん使ってもらって器がどのぐらい変化するかを見極めるのが目的。

2年ほど店に預けっぱなしにして使い込んでもらった。結果、購入した当時の堅い感じが失せ、実にとろっとした器に変貌していた。ざっと計算して約700日。毎日酒を何杯も注がれ、日によってはお客さんが2回転したこともあっただろう。嬉しい酒のときには軽やかに、辛い酒のときには痛いほど握られ、ぐい呑みにとっては激動の日々だったようだ。

今ではその志野焼、すっかり私のお気に入り。バッグに入れて持ち歩かれることはなく、自宅で悠々と鎮座するグループに昇格している。

でもやっぱり、自分自身の手で、気に入ったぐい呑みを味わい深く激しく変化させてみたい。肝臓との相談はこれからも続きそうだ。

2007年10月29日月曜日

銀座のやせ我慢

たまに顔を出す銀座の寿司屋。40代半ばを過ぎた大将のたたずまいが良く、出てくる料理も安定感がある。

ある時、大将が「ウチもようやく店の前に出してあるメニューを引っ込められるようになりました」と嬉しそうに話していた。

どこの繁華街もそうだが、雑居ビルの地下とか階上にある店は、ビル入口付近にメニューを表示していることが多い。確かに客にとって、有り難いし、その店の価格帯も想像がつく。

こうした表示をしている店は、多くがチェーン店や大衆路線の店で、そうでない場合には比較的新しい店であることが多い。

銀座で、それも地下や階上の寿司屋であれば、一見の客を集めるのは大変だ。大衆路線ではなくても、それなりの雰囲気のお品書きを入口あたりに掲示する。この掲示が不要になったということは、しっかりと客を掴んで回り始めたという証拠。大将が喜ぶのもうなずける。

見栄とか粋には苦労がつきもの。この路面掲示の件も同じ。掲示を続ければもっと繁盛する可能性があるわけだから、嬉しさの一方で、やせ我慢にも似た気持ちも強いのだろう。

改めて銀座(新橋寄り)のネオン街を見回すと、店名だけひっそり灯らせる店ばかり。なかには、連日超満員という店もあるだろうが、実際には多くの店が新規の客を欲しがっている。銀座に漂う空気は独特なやせ我慢が醸し出していることに気付いた。

思えば客もやせ我慢ばかり。お勘定を見て、びっくりした顔を見せるのは格好悪いし、値切るわけにもいかないし、本音はアタフタしても涼しい顔をしている。

やせ我慢VSやせ我慢。そんな構図だから妙に楽しいのかもしれない。

2007年10月26日金曜日

理想の税金


アル中気味の人やチェーンスモーカーのお決まりの言い訳は「その分税金をたくさん払ってる」。

クルマ好きならガソリン税を人より多く負担しているわけで、贅沢品なり嗜好品が好きな人は、当然、関連する税金を人より多く納めている。

さて、私。タバコだけでなく、キューバ産葉巻も自宅のヒュミドールに常に数十本は保管するレベルのシガー愛好家であり、アルコールは毎晩摂取し、そこそこクルマも好きとあって、いわゆる間接税高額納税者を自負できる。

間接税の親玉といえば、消費税だが、こちらの負担もきっと国家に結構貢献している。

以前から、1年間に負担する消費税の総額を記録しようと考えているが、家計簿をつけるより煩雑そうなので実現していない。もっとも、1年間の収入から、貯金などの手元に残る金額を差し引いた金額には、原則として消費税がかかっていると考えると、「オー!!」という金額になる。

この考え方は、支出に占める家賃や教育費(消費税が非課税)のウェイトが大きい人だと変わってくるが、1年間で2千万円くらい“可処分”してしまう人なら、ざっと100万円は納税していることになる。消費税導入時、1円玉の煩雑さが話題になった消費税だが、積もり積もれば相当な支出になる。

とはいえ、富裕層には、消費税アレルギーが少ないのも事実。所得税や相続税など個人にのしかかる税金は、たいていお金持ちを差別する仕組みになっているのに対して、消費税は一律の税率であることがその理由だ。

大富豪でも貧乏な人でも税率は同じという点について、不公平感を指摘する向きもあるが、そもそも購入するものの値段自体に格差があるのだから、十分公平だと思う。

105円の回転寿司を食べる人と銀座の寿司屋で万単位の支払いをする人とでは、当然同じ寿司でも消費税の負担額は大きく変わる。十分資力に比例するわけだから一律税率でまったく問題はない。

そう考えると、逆に段階的に税率が上がる所得税や相続税の方が変だ。消費税という制度がすっかり定着していること自体が、ある意味その証だろう。

10年以上前だが、大蔵省幹部の興味深い話を聞いたことがある。すべての税金を一律税率にしたら、所得税でも法人税でもすべて7~8%の税率で税収をまかなえるといった趣旨の話だ。

稼げば稼ぐほど、残せば残すほど、罰金のように税金がかかってくる高額納税者にすれば、実に魅力的な話だ。

2007年10月25日木曜日

なんとなくカニ


数年前からカニが妙に好きになった。面倒くさい食べ物という感覚を卒業したのは、カニを食べることだけを目的に行った北陸旅行。福井・三国で地物の越前ガニにウン万円も投じてみた結論は、「これを知ってしまったことは不幸だ」。

カニ食いのあとは手が臭くなるのが普通だと思っていたが、新鮮な上物にそんな心配は無用。個人的には、焼ガニが一番。あの甘みというかうまみは、他の何かと比べられない。また、生のまま食べるミソの味は、人生観が変わる。

官能の初体験のあとは、東京からの便を考えて、小松空港にほど近い石川県・橋立に冬の到来とともに出かける。同じズワイでも越前ガニほどのスーパーブランド化はしていないのも魅力。とある専門料理屋では、生のかにミソに白いご飯を入れて七輪の上で即席おじやを作ってくれる。ネギを入れて食べるアツアツのその味は、富豪級!。身を食べ終わった焼ガニの殻で、骨酒ならぬ殻酒も楽しめる。熱めに燗したコップ酒に殻をギュウギュウ詰めると、酒の色は、たちまち黄金色、いや富豪色!

ズワイが最高という感覚は、北陸方面や西日本の日本海側が主で、北海道では、ズワイの地位は低い。ロシア方面からの冷凍物が主役となるらしい北海道では、タラバや毛ガニが主役。

タラバ(正式にはザリガニの仲間。足の数も違う)は、やや大味で蒲鉾みたいに感じてしまう私としては、毛ガニに軍配をあげる。

北海道の飲食店では、値段に比例して味の善し悪しが決まるような気がする。一人で入った店で、一人で丸ごと毛ガニ一杯をむさぼっていると、他の客の視線がチョット痛い。

もともと、大勢でカニを食べに行くとみんな無口になって盛り上がらないのが普通だ。そう考えると「一人カニ食い」は実に正しい様式のように思える。

先月、札幌で、それまでは敬遠していた大型のカニ専門店に入ってみた。何となく、団体観光客相手のテキトーな店という悪しきイメージをもっていたが、とある店は、ほぼ全室個室ということを知り、覗いてみた。

一人でも個室という実に快適な環境確保に狙い通り成功し、わんさか食べた。大ぶりの毛ガニ姿ゆでのほか、カニ刺し盛り合わせ、焼タラバ、甲羅揚げ、ついでに酒のつまみに新モノのいくらや、珍味数品を頼んだ。

味は普通。ただ、味がどうこう言う前に、北海道という場所で、個室でひたすらカニというシチュエーションに満足してしまった。味覚など気分で大きく変わることを実感。

大バコのカニ専門店、あなどれず。

2007年10月24日水曜日

ピンク系テカリ顔

練馬で呑んだ。富豪なのに練馬だ。カウンターで隣り合わせになったオヤジサンは、生粋の練馬人。おとなしく呑んでいた私はあっさり捕まった。アレコレ商売の苦労話を聞かされたが、60歳を超えた彼にとって中学時代の同窓会が生き甲斐らしい。

大学に行って大きい会社に入った友人の多くが、とっくに肩を叩かれ、肩書きのない状態を恥じて同窓会に出てこないという。

中卒で親に弟子入りし、その後事業を相続したオヤジサンは、若い頃、大卒組に随分とコンプレックスを感じさせる言動を受けたらしい。現役で「社長」を続ける今こそが、大卒組相手にちょっとした優越感に浸れるみたいだ。

我が身にリスクを背負って生きてきたオヤジサンの自負が分かる気がした。安定志向の勤め人が、会社経営のことで眠れずに睡眠薬に頼ることはない。規模はどうあれ、経営者は24時間が事業と一心同体。中小とか零細とか見下されても、自分の城の維持に心血を注ぐ。その積み重ねは顔つきにも出てくる。勤め人を終えた途端、しぼりカスみたいな顔になっている人は多い。
「ピンク系テカリ顔」。初老になったとき、そんな顔で生きていたいものだ。

2007年10月23日火曜日

備前


新米記者当時つかっていた3Bの鉛筆が、モンブランのボールペンからウォーターマンのボールペンへと変遷するうち、年齢も重なって、いろいろなものが見えてきた。堅い話では税務調査という権限をバックにした国税庁という武器を持つ大蔵省(財務省)の権力構造の緻密さや、そこに渦巻く国会議員の思惑、税制改正の構造的な体質など。

活字に出来ない話が知識として蓄積され始めるとともに、自分なりの視野は広がった。と同時にライフスタイル上の視野も広がって、記者的探究心はプライベートにそのウェイトが移ってしまったりした。

30代を迎え、それも半ばを過ぎたころから、趣味嗜好はどんどん親父道を目指し、あんなに得意だったイタリアンやエスニック系のレストランより和の道まっしぐら。

出汁という魔法の奥深さに魅了され、職人技的な技量にことさら感心するのが楽しくなり、一時期は寿司屋通いばかりの生活で、あまりの食生活の変化に身内から病気を疑われるほどに。

そのうち、和の器に妙な執着が生まれ、窯場の旅ばかりするようになる。備前、唐津、信楽、丹波、常滑、美濃にはじまり沖縄や北陸方面にも器の物色を大義に、地域地域のうまいものも求めてふらりふらり。

窯場がある場所の多くが、寅さんが歩いていそうなのどかなエリアで、マドンナこそ絶対にいないものの、探してみると土地それぞれにうまいものが揃っている。

今でも一年に一度は通う備前などは、その昔は全国を相手に海上輸送で焼物を出荷していた関係上、瀬戸内海に近い立地に窯場が設けられている経緯があり、器巡りとともに近隣ではおいしい魚介類にありつける。

寿司屋も見かけやしつらいは別にして、出される食材は極上。白身魚は東京の一級店のそれに劣らず、シャコの刺身なんかにありつけた日は、向こう1週間ぐらい顔がほころぶ。

旬のアナゴもべらぼうにうまみたっぷりで、脂の乗った素材で名物のあなすき(アナゴのすき焼き)を食せば、アナゴ感が確実に変わる。おまけに使い込まれた備前焼の器で供され、徳利、ぐい飲みも備前焼で堪能すれば、この世の天国極まるって感じだ。備前市伊部周辺にある心寿司、山本旅館あたりはガイドブックにも登場する有名店だが、間違いない味が堪能できる。

2007年10月22日月曜日

永田町のたまご

記者生活の中で何度も足を運んだ永田町や霞ヶ関。記者バッジや記者章のおかげで取材ついでに修学旅行生のように界隈を散策することも多かったが、グルメとは縁遠そうなあの場所にも印象的なお店があった。

永田町の議員会館と霞ヶ関の官僚街の間に京都の老舗料亭である瓢亭の東京店がひっそりとある。私にはその微妙な距離感からどうしても「ひっそり」と見える。正直なところ、有名な「瓢亭玉子」しか記憶にないが、確かにうっとりする味だった。今風ラーメン屋の味玉なるゆで卵とは次元が違う。滋味のひとこと。

尿酸値とかコレステロールを気にしているはずの議員連中や官僚連中の中には、ドクターストップであれを残す輩がいるんじゃないかと気になって仕方がない。

ところで、「敵前逃亡・晋ちゃん」の話題がすっかり聞かれなくなった。健康というテーマを前面に出されると、報道の世界は確かに弱い。あまりバッシングできないのが現実。大衆心理におもねらなければならない大手マスコミの構造からすれば当然、もう触れたい話ではないのだろう。

でも首相の座ををああいう形で投げ出した事実は、世のオーナー経営者からみれば、なにかと腹立たしい感じしか残らない。休会状態になった国会に投入されたウン十億円には上る税金の無駄使いしかり。長期療養状態の彼個人に支出される現役国会議員としての経費だって税金の使い道としては、結構気になる。

忘れられてしまったが、辞任劇の渦中で浮上した相続税の脱税疑惑も気になる。

オーナー経営者の多くが二代目、三代目になり、相続税の洗礼、相続税調査の洗礼を受けている。前首相が一般ピープルができないテクニックで不当に相続税を処理していたのなら、歴史的事件だ。辞任劇に裏で永田町と霞ヶ関の深謀遠慮がいろいろささやかれていたが、結局闇の中に消えそうだ。

2007年10月19日金曜日

あんこう鍋

あんこう鍋を今年初めて食べた。東京で有名店といえば神田の伊勢源だが、ものぐさの私が行ったのは、自宅からさほど遠くない大塚駅近くの三浦屋。ウナギ、すっぽん、ふぐ、あんこうと豊富なラインナップを看板に掲げる店。

常識的に「寿司、てんぷら」とか「寿司、うなぎ」とか複数の料理を看板に掲げる店にろくな店はないが、ここは極めてまっとう。肝心のあん肝もさすがに専門だけに、黙ってしまう味。から揚げも多少脂が多い感じはあるが、カレー塩などをあわせて出してくれたので、飽きずに堪能。

肝心の鍋は、甘めの白味噌ベースで、一見アクかと思うようなあん肝の解けた残骸がぷよぷよ浮かんでいて美味。単品注文の焼きふぐもしまった肉質で結構結構。たたいたふぐ刺しとからすみを合えた酒肴も抜群。

ひれ酒といきたいところだったが、芋焼酎の気分が勝ったので、宝山綾紫のお湯割を延々飲んでしまった。

2007年10月18日木曜日

銀座とタバコ

職業として記者の道に入ったのは昭和の終わりごろ。当時は、原稿を書くのは手書き。新米のときは3Bの鉛筆。職場は、イメージどおり紫煙に包まれていた。元来タバコ好きだったので、仕事中は常に左手にタバコ。その後、ヒステリックな嫌煙ブームによって、肩身は狭くなる一方。職業柄、割と喫煙環境は優遇されていたが、なにぶんにも喫煙者には世の中が不便になり、4年ほど前に禁煙してみた。

一番の原因は、飛込みで入るまっとうな寿司屋や割烹のカウンターで、なじみ客でもないのにいきなりスパスパしにくいご時勢になったこと。やはり、一見で、それも一人で暖簾をくぐることが多い私には、その店で、上客候補と見られたいという下心があって、小体なお店などでは、タバコを我慢することが多く、不便極まりなかった。おまけに国際線の全面禁煙がストレスになり、一念発起、禁煙にトライ。自律神経が変になり、禁断症状のすべてを経験しながら、なんとか成功したが、ニコチンガム、禁煙パッチなどより、効果的だったのが「銀座」。

ひとりマイペースで酒場での時間をを過ごすことが多い私にとって、心地よい沈黙と物思いは禁煙の大敵。銀座あたりでホステスさん相手に馬鹿話を展開していると、不思議なもので口寂しさが和らいだ。もともと酒が入るとよくしゃべるほうなので、まっとうなホステスさんにはお世話になった。客が一生懸命ホステスのご機嫌を取るようなキャバクラ系は×。やはり、心得たお姉さん方が揃っているお店だと調子よく禁煙の苦労やそのほかの俗っぽい話で一時タバコを忘れる。

銀座の変な効用としておススメ。
禁煙のために銀座を活用することに気がつくなんて、われながら富豪だ。

そして2007年。思うところあって喫煙復活!でも銀座のお姉さんたちは喫煙者にも優しい。結局、快適にタバコを吸うために銀座を活用する。これを書きながら、しょせん、男の銀座通いには、言い訳と大義名分が必要だと痛感してしまった。

2007年10月17日水曜日

富豪になりたい!

富豪記者なる大げさなタイトルは、一種の願望とご理解いただきたい。もっとも、ひんしゅく覚悟で言えば、現状の生活は、下流とされる人々からすれば、富豪と称されるもしれない。

毎月の小遣い云々であまり頭を痛めることもなく、好きなものを飲み食いし、時間があればちゅうちょせず旅行に出かける。先日もスーパーの店頭で5千円の毛がにを見つけ、光り輝く味噌をなめたくて、瞬時に買った。こんな消費行動は、100円マックを愛用する人から見れば、富豪だろう。

先日行った函館・湯の川温泉の旅館でも、豪華朝食バイキングはパスして、タクシー飛ばして朝市に向かい、朝飯として、うに丼のうにダブル盛りに、焼きタラバとほっけ焼を食した。あの日の朝飯の単価を考えれば、私は富豪だ。

ネット上に飛び交う飲食店情報や旅行記などの生きた情報は、宣伝と違って有益な内容が多い。でも、それなりに余裕のある階層にとっては、安さやお得感ばかり強調された内容はあまり参考にならない。ラーメン好きには申し訳ないが、ラーメンの品評やそれが高いの安いのなど言われてもどうでもいい。一級の寿司屋のクチコミがランチのお決まりを一度食べた経験に基づいていたりすると、腰が抜ける。

われながら、なかなか感じの悪い内容を書いているが、紙媒体ではなかなか、こんな本音は出てこないのが実情だろう。

本当の富豪は、こんな下らないことをグタグタ書かないはずなので、本物の富豪になるまでこのブログは続けたい、と今日の段階では思っている。