2011年6月29日水曜日

ローマの休日

体調不良だったある晩、酒も飲まずに「ローマの休日」を見た。わが家にはホームシアターが2箇所に設置してある。ちょっと富豪っぽい。


100インチと80インチなので、凄く本格的というほどではないが、一応それぞれサラウンドスピーカーも設置してある。その気になって見れば、かなり映画の世界に没頭できる。

子どもの頃、テレビの洋画劇場とかで、昔の映画を随分見せられた記憶がある。母親の思い出の映画だったりすると、半ば強制的に見るように段取られていた。

ジュリー・アンドリュースの「サウンド・オブ・ミュージック」とか、ウィリアム・ホールデンの「慕情」とか1950年代の映画だ。「ローマの休日」もそのひとつ。

私の場合、子どもの頃から故郷の街で「グレゴリー・ペックそっくり」と言われて育ったこともあり(大ウソです)、この映画には思い入れがある。数年に一度は見たくなる。

いまさら白黒映画は見る気にならないが、この映画の不思議なところは、モノクロであることが気にならない点だ。なんでだろう。普通の色彩感覚の中で見ているような感じがある。ストーリー性、役者の輝きを始め映画の出来すべてが高い次元にあるから違和感がないのだろうか。

先日は、同じくオードリー・ヘップバーンの「ファニーフェイス」という映画を見たのだが、カラーなのにちっとも見ていて身が入らない。ストーリーのペケペケ感と相手役のフレッド・アステアが年を取りすぎているのが気になって、結局途中でやめてしまった。

「ローマの休日」はどう逆立ちしてもオードリー・ヘップバーンの映画として認知されている。今更何を言うかという感じだが、今回見ていて印象的だったのはグレゴリー・ペックの素晴らしさだ。

実にいい感じだ。知らないフリして王女をパパラッチして一儲けしようとするマスコミ人のうさん臭さ、図らずも王女に恋をしそうになる段階の戸惑い、その後の別れに至るまでの男の揺れ動く心理がバッチリ表現されている。

「ホレてまうやんけ」

「ホレてしもうたやんけ」

「お別れせにゃアカンのう」

「もうチューでけへんけど、忘れへんで」

という段階ごとの葛藤を実に巧みに演じている。ペックおそるべし。

たいていはオードリーだけが賞賛される映画だが、ポイントはペックだろう。ラストシーンで王女との共同会見を終えて一人宮殿を去っていくペックの素敵さには身震いする。

一度だけ王女のいた場所を振り返り、思い出を消すかのように改めて前を向いてゆったりと歩き出す。

ペッ~ク~!と叫びたくなった。

「抱かれたい!」と思った。

それにしても、この映画ほどハマリ役という言葉が当てはまる配役は無いと思う。どんな男優、どんな女優をもってきたところでこの素晴らしさにはつながらなかったと思う。

というより、この映画が作られた時、オードリーはまだ「どこぞの馬の骨」だったわけで、言ってみればぺーぺー。あくまで主役はペックだったのが事実だ。

実際、あの伝説のラストシーンだって、そういう目で見れば「ペックのための映画」を象徴するシーンだと思う。結果として、ペック的には「あの新人女に全部待ってかれちゃったぜい」と思ったはずだ。

妙に熱弁をかましてしまった。

話を変える。

もともと、私が映画に求めるものは、非日常的なストーリーに尽きる。48作すべてを何度も何度も見ている寅さんは別として、とくに洋画の場合、「奇想天外モノ」が好きだ。


B級ラブコメディというカテゴリーでくくられてしまうのだが、レンタルに飽きたらず、DVDをわざわざ買ってまで持っているのが、「スプラッシュ」と「ビッグ」だ。

トム・ハンクスが大御所俳優になる前の映画だ。彼の髪もふさふさだ。前者は人魚と恋に落ちる話。後者は子どもが間違って大人の身体を持ってしまい、大人社会で恋愛したり活躍する映画だ。

何度見ても心がウキウキする。「ショーシャンクの空に」とか「ライフ・イズ・ビューティフル」とか「ニュー・シネマ・パラダイス」とか、名作ランキング上位に来る映画もそれは素晴らしいのだが、私的には「B級ラブコメ」がイチオシだ。

成仏できなかった男が恋人を守りに出てくる「ゴースト」も大好き。何度見ても号泣する。ちょっとマイナーなところでは古代エジプトの女性がデパートのマネキンに乗り移って、現代人と恋をする「マネキン」も変な映画だけどおすすめ。

この映画はテーマ曲(「Nothing Gonna Stop Us」/STARSHIP)が最高で、いまだに「私が好きな洋楽トップ10」にランクインしている。残り9曲をすぐに思い出せないからいい加減な話ではあるが。

「ローマの休日」も考えてみれば非日常的だ。脱走した王女様とのデートだ。さすがに人魚やマネキンよりは現実的かもしれないが、絶対にあり得ない設定だ。

へたしたら人魚やマネキンのほうがあり得そうだ。そのぐらいスーパーVIP王女が夜中の路上で二枚目新聞記者に拾われるというシチュエーションには無理がある。

B級ラブコメの大原則が「そんなことアリエネ~」であるならば、ローマの休日はその元祖かもしれない。

最近はCGが進化したせいで、妙に大がかりなドッタンバッタン映画が増えているように思う。80年代の底抜けに明るい奇想天外ラブコメディー映画はもう流行らないのだろうか。

「ローマの休日」から随分と話がそれてしまった。

洋画、邦画を問わず、奇想天外ラブコメ映画のおすすめがあったらゼヒ教えてください。

2011年6月27日月曜日

葉巻の香り

一時期ほど狂ってはいないが、葉巻をモクモクするのが好きだ。

葉巻をくゆらせる時間はなかなか捨てがたい。昨年の増税値上げをきっかけにタバコも吸い始めてしまったため、まさに煙まみれの日々だ。

仕事とか家族とか、さまざまな厄介事もケムに巻いて逃げ出したいのだが、そうもいかない。タバコや葉巻に逃避してばかり。もうすぐ私自身が燻製になりそうな気がする。


昨年、葉巻好きだった知人が咽頭ガンで逝ってしまい、さすがに控えるようになった。それでも先天的に煙が出るものが好きなので、懲りずにプカプカしている。以前のように1日3本みたいな乱暴なことはなくなったから良しとしよう。

産地の気候特性から考えて、葉巻がウマく感じるのはやはり今の季節だ。ヒュミドールでしっかり湿度管理していても、真冬の乾燥した寒風の中では一段階も二段階も楽しみが劣る気がする。

葉巻の良さは何と言っても、くゆらせはじめた途端に自分を取り巻く空気が急激にスローテンポに変わるところだ。

こればかりは不思議だ。未体験の人にはぜひ試してもらいたい。必然的に時間にそれなりに余裕がない時にしか葉巻に火をつけられない。

いわば葉巻に火をつける行為自体が、そこから数十分~一時間ぐらいは、何にも邪魔されずにホワホワできることを意味している。

暇そうにしていても、都会で働くいっぱしの中年男であれば、やれ会議だ、来客だ、原稿の締切りだ、訴えられたの訴えてやるだの等々、何かと慌ただしい。

仕事以外にも、もっと稼いでこいとか、子供の学費を納めたのかとか、学校行事に行けとか、自分の部屋を少しは片付けろとか、なんで最近身綺麗にしているのか等々、うっとおしい騒音が洪水のように押し寄せる。

そんな喧噪を外れて、一人の時間にしっぽりと葉巻の煙を眺めていると束の間ではあるが、自分の魂が異次元にワープする。

冒頭の画像は、銀座のシガーバー・コネスールで異次元ワープしていた時のひとコマ。グラスシャンパンにチョコレートを相棒にして昼間の衣が脱げていく場面だ。

中途半端な時間のシガーバーは客もまばらで思考停止するにはもってこいだ。葉巻にどうしてもつきまとう「目立っちゃう感じ」もガラガラの店なら心配ない。他人様の眼が気にならない。

葉巻ラバーにとって「他人様の眼」はちょっと厄介。どうしても「ギャングのボス」みたいに思われる。私のように見た目がヒヨコのように可憐でも葉巻を咥えると一気に「悪い人」だと錯覚される。

わが家の軒先でときどきアウトドアチェアにふんぞり返って葉巻を吹かしていることがある。基本的には、上階のベランダが指定席なのだが、面倒な時は、玄関先でプカプカだ。道行く人からチラッっと見えてしまうようで、困ったことに近所で私を「ギャングのような人」と認識している人がいるらしい。

どうも下の子の保育園の父兄が発信源らしく、穏やかな地域住民を目指す私にとっては頭が痛い問題だ。

下の子は、ダウン症児という物珍しさと保育園のおかげで近所ではちょっとした有名人である。週末チビと二人で散歩していると、歩いている子どもやお母さんがたに結構な頻度で声をかけられる。

人嫌い?な私としては、知らない人にやたらと挨拶するハメになるので自宅近くの大きな公園にはつい背を向けたくなるほどチビのネットワークは広い。

なのに父親が「ギャングのような人」だったら、やはり問題だ。イメージ払拭のため、散歩中は咥えタバコもやめて、一生懸命温和そうな表情をこしらえて歩く日々だ。

葉巻の魅力は、一人しっぽりと魂をワープさせる点だと書いたが、何も一人きりを前提にする必要はない。

たとえば、銀座あたりでのクラブ活動中にプカプカするのも悪くはない。あの世界は大人の男性のために存在するので、必然的に煙り方面には寛大だ。

分煙、禁煙などという無粋な発想もない。パイプをくゆらす御仁もいるし、葉巻オヤジもよく見かける。珍しくない光景だから、他人様の目線も面倒じゃないし、ことさら葉巻の話題に話を振られることもない。

持参していなくても、そこそこの店ならハバナ産を数種類は用意してある。綺麗に着飾った女性をボンヤリと眺めながら、さんざん浴びせてもらうお世辞を肴にプワ~っとする一時も捨てがたい。

どうも最近は「勤勉」とか「ヘルシー」とは対極のライフスタイルにどっぷり浸かっているような気がする。

Facebookとかでバリバリとランニングに励んでいる旧友の近況を見るたび、絶対オレのほうが早く死んじゃうんだろうなとか思ってしまう。

そうはいっても、私が急に走りはじめたら突然死確実だ。

煙はしばらくやめられそうにないので、せめて少しは健康に注意しよう。

歩くぐらいしか思い浮かばない。まあいいか。

2011年6月24日金曜日

赤身

自分の身体がカルビとか大トロ状態のクセに私の好物は「赤身」だ。無いものねだりみたいだ。


男は赤身、大人は赤身だ。お寿司屋さんに行くとそんな一方的なフレーズを叫んでいる。デブが言うとヤセ我慢みたいに思われるのだが、上等な赤身はやはり極上の味わいだ。

香り、食感、後味ともに寿司ネタの王道だ。ちょっと大袈裟だが、あの鉄分の香りと舌触り、味わいは他の魚とは一線を画す。

そうは言っても、なかなか上等な赤身に出会わないのが現実だ。トロ人気のせいで赤身に力を入れない店があまりに多い。

一見するとウマそうに見えてもビチャっとして味がない赤身ばかり。あれを頻繁に食べさせられていたら、赤身ファンが絶滅危惧種になるのも仕方ない。

考えてみれば、日本人は世界第一のマグロ食い人種である。どんな山の中の温泉宿にいてもマグロの刺身が出てくる。これは凄い話だと思う。

世界中からあらゆる種類のマグロが日本を目指してやってくるわけだし、テキトーな値段で流通させないとあれほどポピュラーな存在にはならない。

当然、マズいものも大量に出回る。上等な赤身を食べたければ、然るべき店でそこそこの値段を覚悟しないとならないのがつらいところだ。

詳しくは知らないが、同じ極上本マグロの赤身でも、少し部位が違うだけでも味は変わるらしい。熟成度合いや包丁の入れ方にも左右されるだろうから、絶品赤身に出会うのは意外に難しい。

画像は高田馬場の鮨源にて。ここはたいてい上物の赤身があるので、ほぼ欠かさず注文する。握りではなく刺身で食べたくなる。ゆっくりじわじわ味わうと陶然とする。

若い時はトロ一辺倒だったのだが、年々苦手になってきた。たくあんと一緒に巻物にしてムシャムシャ食べることもあるが、トロ単体だとクドい。

トロに限らず、脂の乗りまくった白身も敬遠する機会が増えた。別に気取って正統派を目指すつもりはないのだが、選ぶネタがオーソドックスな路線に偏ってきた。こんなことでは枯れていきそうだ。もっとアブラギッシュでいたほうが良いのだろうか。

この店では白身もあれこれ用意されているのだが、常時2種類は昆布締めがある。昆布と抱き合わせたのがいつの時点だったかによって、昆布風味の染み具合が大きく異なる。


個人的には、その日の朝に昆布締めにしたような浅めの状態が好みなので、タイミングが合えばこちらもたいてい注文する。

味の善し悪しを理論的に語るほど執着があるわけではないが、最近は「淡い」感じに惹かれる。だから必然的に和食が多くなる。

お寿司屋さんなら、当然だが醤油のつけ加減も自分の好みで済む。塩辛や珍味系で充分しょっぱいモードになった後は、あっさりと淡い旨味を噛みしめたい。

焼肉屋に行く機会もめっきり減ったが、たまに行ってもロースとかタン塩とかを頼んで、あとは珍味でチビチビだ。下手をすると海老あたりを焼いて喜んでいる。すいぶん軟弱になってしまった。


こちらの鮨源で、すっかり定番人気商品になったのが馬刺し。クセのない上物がロース、霜降り、赤身と三種類揃っている。私の場合、馬に関しても赤身が好きだ。赤身だと酒の種類を選ばないというか、他の食べ物の邪魔をしない感じがある。

精力も落ちてきた今、上物の馬刺しが常備してあるお寿司屋さんは私にとってはオアシスみたいなものだ。意外に貴重なメニューだと思う。

ちなみに、トロから赤身、カルビから馬刺しの赤身へと好みが変化してきたわけだが、性格も昔とは大分変わってきたように感じる。

単に加齢のせいなのだろうが、肉食獣のような攻撃的な面がすっかりしぼんだ感じがする。

良い面もあるが、いっぱしの社会人として闘っている以上、あまりポワワンとしているのは間抜けみたいで困る。

「いいひと」とか「おだやかなひと」がエネルギッシュで向上心バリバリだった例はあるのだろうか。なんかピンとこない。

そうは言っても、いい年をした大人がいつでもブリブリ怒りまくって攻撃一辺倒というのもバカみたいだ。やはりバランス感覚が大事なんだと思う。

「冷静で穏やかでありながら、必要な時にはメラメラと熱く燃えたぎる」。

上等なマグロの赤身みたいだ(全然違うか)。

そんな人間に私はなりたい。

2011年6月22日水曜日

血液型 絵の世界

人間のタイプをたかだか4種類に分けてアーダのコーダの指摘するのが血液型の話。うっとおしい、どうでもいいよと思いつつ、結構気にしたりする。

その理由は私がB型だからだ。ABは別格として、AとOの人に比べると、B型はだいたい変人扱いされる。

私の知り合いのB型も確かに変人ばかりだ。この事実は重い。私も少しぐらいは変なところがある。

凝り性というレッテルを貼られることが多いB型だが、確かにそういう傾向はある。興味のあることには没頭して、興味のないことは完全に無視してしまうところがある。

幼い頃からの勉強や人付き合いにいたるまで、「まんべんなく」ということがどうしても出来ない。一点集中主義みたいな感じだ。

靴を綺麗にしたいと思い込めば、週末の夜に平気で5時間ぐらい靴磨きに没頭する。バッティングセンターに行けば、最速のスピードに挑戦したくなって、いつも300球ぐらい打ち込んでしまう。

寿司屋のカウンターで大人ぶってみたかった30代の頃には、開拓と称して週に一度はひとりで見知らぬお寿司屋さんに飛び込んでアタフタした。

そういう変なところがある。執着しはじめると深く深く追求したくなる。

最近、突然「絵」にはまった。もちろん描くほうではない。私が描ける絵など、猫のように見えるライオンとか、新種の生き物にしか見えない犬とか、墓石の横にうっすら顔らしきシルエットが浮かび上がっている心霊写真のパロディースケッチぐらいだ。

絵画鑑賞などというとガラではないのだが、突然ビビビっと興味のアンテナが鬼太郎の髪の毛のようにピンピン張り詰めている。


ここ2~3ヶ月で絵画関係の本やらムックをやたらと買い込んだ。数えたら21冊もあった。もう10冊以上は読んだ。このあたりが典型的なB型気質なのかもしれない。

来月行く予定のフランスでも、熱病のように美術館めぐりに没頭しそうだ。どうしちゃったのだろう。

古い友人なら私の趣味が「絵画鑑賞」などと聞けば腹を抱えて死ぬまで笑うはずだ。気が狂ったとか、誰かにだまされているとか、真剣に心配してくれるはずだ。

自分でも突然の変貌ぶりが気持ち悪い。

日本人が好きなモネとかゴッホあたりの絵画が総じて日本の影響を受けている話なんかを読んだり聞いたりすると妙に背景などを知りたくなる。

その昔、日本人が有難がるマイセンあたりの西洋磁器のルーツが実は日本の伊万里焼につながるという事実を知って嬉しくなり、ちょっとした焼物マニアなってしまったのと同じような感覚だ。

モネの「睡蓮」の背景が日本庭園だというだけで変に興奮する。偏狭な右翼男みたいでイヤだが、そんなきっかけではまっていくのも悪くない。

何かを急に好きになることに理由は不要だ。心が命じるままに突き進めな良いのだろう。人を好きになるのと同じだ。理屈ではない。魂が求めるわけだからその流れにあがらっても仕方がない。

先日、長々と呑んだ仕事関係の知人。御年76歳。この人は、本業の他に源氏物語の研究ではプロレベルなのだが、その道に入り始めたのは50歳を過ぎてからだったそうだ。

中年になって突然、何かに目覚める人は少なくないようだが、私の「絵画鑑賞」もそんな「老化現象」の一種なのだろうか。

さてさて絵だ。西洋画の王道?のような宗教画はあまり興味がない。乱暴に言えば、キリスト教に畏怖を感じていないせいだろうか。学生時代「宗教」という授業がただただ熟睡のための時間だった不真面目さのせいで、どうにも聖書の世界に興味が湧かない。

普通の人間が暮らしていく上の喜怒哀楽やそれを生む背景を淡々と描いているような作品に興味がある。そうはいっても、抽象画みたいな難しいのも苦手だ。

単純に見ていて安堵する絵で、ついでに言えば時代背景や作者の境遇や環境なども予習できていればかなり作品の世界に入り込めるように思う。

というわけで、国立新美術館で開催中のワシントンナショナルギャラリーの展示会に出かけた。


印象派の有名どころが勢揃い。光や陰の表現が実に「印象的」だ。木漏れ日の描写や雲に映る西日の輝きなど、自然の景色の瞬間瞬間が巧みに彩られている。

まさに圧巻。奇跡のコレクションという表現は決して大げさではない。あれで1500円は格安だろう。音声ガイドを借りたり、図録集やグッズを買ってしまったので結構散財したが、それでもあんな値段で心が満たされるのなら悪くない。

力を持っている絵に出会うとエネルギーをもらえたり、逆にエネルギーを吸い取られたりする。実に面白い。もっと早く足を踏み入れておけば良かったと後悔。

やはり絵を眺めることは人生後半戦の趣味として悪くない。描くわけではなく、ただ眺めているだけだからお金がかからないところがまた良い。

いやいや、見たい絵があったら、居ても立ってもいられずに世界中の美術館に飛んで行ってしまう恐れがある。B型気質だから予算を考えずにそんな無謀な行動をしそうで少し心配ではある。

大西洋の固有種の魚の写真が撮りたくてカリブ海に何度も出かけたような私だ。

ハマショーのライブのためだけに一人でふらふら日本中に出かける私だ。

来月のフランス行きも、そもそも靴を買うためだけに企画したような私だ。

どうも理由を見つけてはどこかに飛んでいきたい習性があるようだ。この点は自制しないといろいろと大変だ。

今度のフランス行きは、結局「靴屋を訪ねる」、「名画を観る」。この2点だけで時間がすべて無くなりそうだ。

なんかそう書くと、ちょっと文化的だ。人様から見ればいっぱしの教養人のように錯覚してもらえそうだ。ウッシッシ。

行きと帰りに一泊づつ立ち寄るドイツ・フランクフルトのスーパーエロサウナ情報を収集中だったりすることは隠しておくことにする。

2011年6月20日月曜日

デブ 「おでん国見」

最近デブで困っている。前からデブはデブなのだが、巨デブの域に迷い込んだ感じだ。
いかんいかん。

基礎代謝がゼロなんだろう。かなり我慢したつもりでも体重が減らない。ほんの少し油断するだけで、簡単に体重計は私を裏切る。今度ぶっ壊してやろう。

2~3年ぐらい前に割と短期間に15キロ近く絞ったのだが、既に「今や昔」状態だ。

20代の頃は1週間もあれば5キロぐらい落とせたが、今となっては10グラム減らすのに1ヶ月ぐらいかかる。

私の身体は皮下脂肪とか内臓脂肪とかが大好きらしく、私の眼を盗んでヘソクリのように貯めまくる。

そのうち、対策を練らないとなるまい

先日、旧友が経営する芝・大門にある店に行った。この友人は私より太っているので、会うたびに勇気づけられる。持つべき者は太った友人だ。

店の名は「おでん国見」。店主がデブだから、デブが喜ぶようなメニューが多い。必然的に私も嬉しい。

そもそも「おでん」は一種のダイエットフードと言っても過言ではない。大根だの昆布だのをハフハフしながら食べている分にはカロリーは相当低い。

店の名誉のために誤解のないように書いておくが、「おでん国見」にはデブしか行けないわけではない。また、行ったから太るわけでもない。おでんを中心に攻めればローカロリー。問題なし。

このお断りを書いたことで、ここから先はデブ好みに話題を移す。


最近加わった新メニューがエビマヨサラダだ。サラダと聞くとヘルシーイメージだが、コッテリした揚げ海老がゴロゴロ入っている。ドレッシングもたっぷりでデブ大喜びメニューだ。

デブはデブであることの反省から、ついついサラダを注文することを自分への免罪符にしたがる。その心理を逆手にとって更なるデブを目指せるぐらいガッツリとしたサラダだ。ウマい。

おでん以外の一品料理は沖縄料理が中心。必然的に豚肉方面のメニューが充実。ガッツリ食べたい時にもバッチリだ。

ちなみに沖縄料理は長寿食と言われるが、この方程式には大いに誤解がある。正しくは「昔の沖縄料理が長寿食」なのであって、最近の油コテコテ肉ガッツリ系のオキナワンフードが長寿食なのではない。

実際に沖縄県の男性の平均寿命が物凄いスピードで短くなっているという笑えないデータもある。

油バッチリの炒めものや揚げ物、タコライスだってそうだ。スパムなんてものも不純物だらけらしい。イマドキのオキナワンフードの現実だ。

偉そうなに書いてみたが、健康に悪いモノほどウマいのは古今東西老若男女、当然の真理で私はイマドキの沖縄食が大好きである。長寿食専門料理屋などお金をもらってもいかない。

大体、今の世の中、普通に歩いているだけで放射性物質を吸収しまくっているのだから、油がどうだ、不飽和酸がどうだ、塩分がどうだなどと心配していても仕方がない。


こちらの店では、ソーメンチャンプルーもしっかり正しく油を使っている。この部分が大事。ヘルシーに油少なめなどという呪縛が絡むと、ソーメンだって玉状に絡まってマズくなる。

テビチ(豚足)の唐揚げも相変わらずウマい。揚げ加減もタレの味も酒のお供にバッチリだ。これ以外にも美味しいソーキそばもあるし角煮もあるし、ソース焼きそばもある。

おでんで軽く済ませたい人にもカロリーを過剰に摂取したい人にも使い勝手はいい。

この日は、シメに「ボロボロジューシー」なる一品を注文してみた。平たくいえば味噌味の雑炊。汗をかく夏の塩分補給には十分すぎる濃い味。


酔っぱらっている私は、カロリーとか塩分
に寛大になる習性がある。「えがおの黒酢」を毎日欠かさず摂取している私の生真面目さは、こういう時のためだ。

最近、食べる量が減ってきたのだが、やはり旧友の店を訪ねれば、ドカドカ注文したくなるのが江戸っ子心理だ。

そんなに空腹でなくとも、ついつい酒を呑み、太った友人のお腹を眺めていると注文したすべての品々をキレイさっぱり胃袋に納めてしまう。

デブ太郎特有の悪循環だ。

ちなみにこの店、生ビールにこだわりがあって、日本酒の品揃えも良く、真っ当な焼酎や泡盛もいろいろある。泡盛のコーヒー割りというディープな注文も可能だ。普段使いには最適な店だと思う。

近くにある立ち飲みの殿堂「秋田屋」のように繁盛していない点も好感が持てる?。

行ける人は行ってみてください。店主の腹を見れば自分がスリムに思えます。

2011年6月17日金曜日

プルメリア 

女性の美は花や蝶に例えられるが、男を例える表現はあるのだろうか。考えてみたが思い浮かばない。

強いて言えば「虫」か。アリとかハタラキバチとか、交尾の最中にメスに喰われちゃうカマキリとか。

森高千里が昔「ハエ男」という歌を熱唱していたし、しょせん男の例えは虫なんだろうか。

生き物の本能として、女性を追っかけ回す役割だから、美しく例えてはもらえない。少し切ない。

「立てばシャクヤク、座ればボタン、歩く姿はユリの花」

美女を表現する言葉だが、はたしてボタンの花って綺麗だろうか。なんかドテッとしている。アグラかいて座っているお婆さんみたいなイメージがある。蓮の花のほうが気品がある。開いたばかりのみずみずしさ、美しさのほうがシュッとしている。

ユリの花も個人的に苦手。あの匂いがイヤだ。あの匂いは「香り」とは書けない。「匂い」というより「臭い」だ。呑みすぎて気持ち悪い時にキツイ香水の香りを嗅がされるような不快感がある。

シャクヤクの花も考えてみたらよく知らない。一度しか見たことがない。確かに美しいのだが、あまり馴染みがないのでピンとこない。

というわけで、私にとっては上記の花の例えは残念ながら共感できない。もっと的確な例え花があるはずだ。

ところで、花の名前に詳しい男性はオシャレだと思う。最近そう思う。私はちっとも詳しくない。母親が昔、趣味が高じてアートフラワーの先生をしていたので、随分と生花、造花に囲まれて暮らしたはずなのだが、ちっとも興味がなかった。惜しいことをした。

それでも好きな花はいくつかある。カメラを持っていればついついシャッターを切る。


これはバリ島のホテルのプールに浮かべたプルメリア。南国の代表的な花だ。バリでは「フランジパニ」と呼ばれ、あちらこちらに飾られている。私の好きな花のひとつ。

甘い香りが強すぎない。まわりの空気を邪魔せずにほんのり香る感じがいじらしい。白い色合いも優しく深みがあって、南国の花特有のうるさい存在感とは違う。華やかなだけど派手すぎず、主張しすぎない存在感が実に魅力的。


これが実際に咲いている姿だ。ポワンとして愛らしい。風が吹くとはらっと花が落ちる。微妙な色のグラデーションとトゲトゲしていない穏やかな風情が素晴らしい。誠実そうで真摯な感じとでも言おうか。いつもそばに置いておきたい。


一部では「くちなし」と同類のような扱われ方もされている。違う品種だろうが、確かに似ている。正確なことは知らないが、昭和の女性が「くちなし」で、平成の女性が「プルメリア」と考えればいいだろう(滅茶苦茶な分類だ)。

懐かしの昭和歌謡「くちなしの花」で描かれる女性は寂しく不幸な感じで、熱唱する渡哲也に捨てられた情景が確かにピンと来る。

プルメリアはもう少し快活な感じだ。「捨てられた女」というより、「健康的に恋する女」とでも言おうか。

くちなしもプルメリアも出しゃばった感じがしない点では確かに似ている。さりげない雰囲気は、ひまわりとかハイビスカスとは全然違う。ハイビスカスなんて花弁をあんなに突き立てちゃう姿が下品だ。

プルメリアの花言葉は「気品」。さすがだ。近所に咲いていないのが悲しいが、南国に行ったらもっとじっくり眺めていたいし、撮影しまくってみたい。

そのほかに私が好きな花は「梅」「水仙」「螢袋」あたりだ。プルメリア以外では、どちらかといえば和花が好きなようで、派手派手しくない「シュッとした感じ」に惹かれる。

やきもの収集に熱心だった頃は、備前や唐津、丹波、信楽、美濃とった窯場にしょっちゅう旅をした。ぐい呑み、徳利に飽きたらず、花入れや一輪挿しにビビビっとなってしまったことも何度かある。

そうした花器には和花がピッタリだ。花を愛でるというより陶器を眺めたいばかりに花を買ったりした。

そう書くと風流人みたいだが、和花の枝モノなんかはブリブリ虫がはい出てきて、何度も死にそうになった。

やはりガラにもないことをすると痛い目に遭う。

話を戻す。花の話。

梅は実に気の毒だ。桜と同じく一年に一度わずかな時期だけ美しい姿を見せるのだが、脇役イメージを脱却できない。

せっかく短い命を咲かせても、桜と違ってめったに足元で酒盛りなんかしてもらえない。テレビの夜桜中継みたいなショーアップもない。梅干しばかり連想される。

梅林の名所にはそこそこ人は来てくれるが、お爺さんお婆さんばかり。若い人がデートスポットに選んでくれない。

桜のこれみよがしな感じより、ずっと情緒があると思うのだが、いかがだろうか。

アマノジャクを極めたい私としては、桜より断然「梅派」であり続けようと思う。梅の花言葉は、高潔とか上品とか忍耐らしい。さすがだ、梅。

螢袋は、それこそ名前からして風流の極み。垂れ下がった深い傘状というか袋状の花弁が謙虚な雰囲気。中に迷い込んだ蛍の光で袋状の花がボンヤリ灯る情景が眼に浮かぶ。

実際に螢をとっ捕まえて実験したいのだが、いまだに成功していない。LEDの人工ホタルでも買ってきて試してみようか思案中。螢がいなくても頭を下げたしおらしい姿が可愛い花ではある。

今日は、風流なテーマを取り上げようと書き始めたのだが、ちっともそういう雰囲気にならない。

結局、偉そうに女性の美を花に例えてみても、しょせん男は花におびき寄せられる虫みたいなもの。切ないけど現実だ。

おだてられて調子に乗った虫は、せっせせっせと花にご奉仕。食物連鎖の底辺みたいだが、男の習性はそれを喜びに感じちゃうから不思議だ。

一応、分別ヅラして生きている私だが、色気のある男になるためには「蜜を求めてさまよう虫」だということを自覚しないといけないのだろう。

シャクヤクやボタン、ユリあたりを選り好みしている場合ではない。菊だろうがコケだろうが気にせず突進する根性が必要だ。

いや、やっぱり、菊やコケはイヤだ。節操なさ過ぎだ。

プルメリアだろう。やっぱり。

立てば華やぐプルメリア、座れば可憐な水仙で、寄り添う姿は梅の花、憂いた姿は螢袋、ベッドに入れば薔薇になる――。

こういう女性を追っかけねば!

相変わらず煩悩の塊みたいだ。そんなことで良いのだろうか。

それで良い。そんな私だ。

2011年6月15日水曜日

座敷わらし

ときどきこのブログにコメントをいただく。有難いことだが、1ヶ月ほど前にいただいたコメントを見過ごしてしまった。反省。

いろいろシステムを研究して、コメントをもらったらその旨メールが自分宛に届くように今更ながら設定することができた。今後はちゃんと反応できます。

見過ごしてしまったコメントは障害を持つお子さんを授かったお父さんからだったので、自分の経験を少しでもお伝えしたかったのだが、ボケッとしていて失礼してしまった。

突然の境遇の変化に困惑するお気持ちは痛いほど分かる。早々に憂い無く受入れられる人など存在しないはずだから、どうやって折り合いを付けていくかは大事な問題。

私だって大した経験があるわけではない。扱いやすかった上の子と違ってテンヤワンヤだ。これからぶつかるであろう色々な壁が正直憂鬱で仕方がない時もある。そうは言っても、子育ての壁なんてものは健常、障害に関係なく共通だろうからなるべく考えないようにしている。

ということで、今日は久しぶりにわが家のダウンちゃんの話を書く。

ダウン症の最大の特徴は発達が遅いこと。だからトピックが少なくて、ここで進化?を書こうと思ってもあまり変化はない。

とはいえ、人様に読んでもらうほどの進化ではなくても、当事者にとっては結構大きく進歩している部分もある。親としてはノロさにいらつきながらも嬉しいし、励みになる。

次に誕生日が来れば5歳になるのだが、相変わらず話さない。いや、本人は話しているつもりだ。私の携帯電話もスキをみせるとイジリ倒される。いつまでも会話のフリをモゴモゴしている。電話ごっこだ。

「ウンウン」と「バイバイ」ははっきり口にしているが、あとはウニャウニャ言ってるだけだ。

ダウン症の子どもの言語発達は遅いのが普通だが、発声は遅れていても言語の理解自体は進んでいる。絵本に描かれたものを指さし、それが何であるかはたいてい理解している。親兄弟にしか分からない音声だが、確実にその対象物の名称を発声している。トテトはポテト、アーペンはラーメンを意味するのだが、私が苦手とするフランス語よりは充分解読可能だ。

先日、生後間もない頃から2歳になるまでお世話になった某大学病院でのダウン症専門の赤ちゃん体操に出かけていき、OBとしてダウン症の後輩達に希望の光?を振りまいてきたらしい。キチンとした姿勢で立って、しっかりとした歩調でずんずん歩く姿だけで、生後間もないダウンちゃん達には希望を持ってもらえる。調子に乗って踊ったりしたらしい。図に乗るところは誰に似たのだろう。

私自身、この集いを初めて見に行った時、キチンと椅子に座ってニコニコ幸せそうにしている2歳ぐらいのダウンちゃんの姿に大いに勇気づけられた。生まれて間もない頃は、情報に乏しく八方ふさがりだったから、この手の集いのおかげで随分と助けられた。

いっぱしの先輩になったウチのチビが、後に続く困惑状態の人達に少しでも役に立てるなら嬉しい。そう考えるとわが家のダウンちゃんは、ボケッと生きている私なんかより真っ当な使命を帯びて生きているのかもしれない。ちょっと綺麗事みたいだが、そう思うようにする。

ダウン症の子どもにとって先天的に性根の優しい性格は共通しているようで、同じ支援学校に通うお仲間も総じてポワンとした気分にさせてくれる。

先日、わが家のチビと二人で散歩に出かけた。ヤツは広い緑地公園で縦横無尽に探索に励む。落ちているゴミでも平気で手に取る危なっかしさには参る。葉っぱをちぎったり、カラスを追い回したり、蜘蛛の巣に手を突っ込んだり結構チャレンジャーだ。そう書くと微笑ましい親子のひと時のようだが、実際は戦争状態だ。汗だくになる。私にとってのメリットは運動不足解消だけである

知らない人に勝手に手を振って愛想を振りまくのも困る。不思議と喜んで応えてくれそうな人に手を振っているようにも見える。変なテレパシー能力でもあるのだろうか。

この日も突然、公園のベンチでグタっと寂しげにしていたお爺さんのもとに駆け寄り、横に座って手を握って見つめ合っている。有難いことにお爺さんは喜んでくれた。

本当は迷惑だったかもしれないが、アイツは「勝手気ままな癒しオーラ攻撃」が得意技なので許してもらおう。

最近は、少しづつだが、分別がつき始めた。皿やコップを面白がって引っ繰り返さなくなったし、痛い時に泣かずに耐える姿勢も見せ始めた。絵本を持ってきて読めとせがむこともできるようになったし、テレビを見たい時もわざわざ別な場所からリモコンを持ってきた上でアピールする。

幼児用安全対策商品である「通せんぼゲート」も、台を持ってきて安々とロックを解除して突破するようになった。こちらが咳き込んだりすれば、「でーじょっぶ?」(大丈夫?)と尋ねてくれるようになった。


食事や飲み物のお代わり要求もスムーズになった。不要なもの、嫌いなことをすべて「ヤー!」と強い口調で叫んでいた悪いクセも改善。「いらない」と冷静に伝達できるようになった。

まあ家族以外には「いらない」は「ふにゃにゃい」にしか聞こえないが随分と進歩した。

トイレで大に励む時には、なぜか私だけに変なプレイ?をせがむクセがある。以前、便秘気味だった時に便器に座るヤツのへその下あたりをぐりぐりと手のひらでマッサージしたことが気に入ったらしく、いつもせがまれる。

不思議と母親や姉には要求しない。妙な習慣がついてしまったものだ。どうやら、そのぐりぐり加減にもヤツの好みがあるようで、母親だと微妙な力加減が気に入らないらしい。

私のぐりぐり攻撃を受けると、温泉宿に置かれたマッサージチェアに座るオッサンのような表情になる。おまけに満足すると「オッケー」とはっきり告げる。発達の一環ではあるが、私にとっては不気味な作業を担わされて正直迷惑ではある。

どうせならトイレよりベッドで、美しい女性の別な部位をグリグリ攻撃したいのだが、現実はそうもいかない。

天真爛漫なわが家のダウンちゃんは、規則正しく遊んでばかりなので、早く寝ちゃうと翌朝5時過ぎには目を覚ます。結構な頻度でノコノコ私の寝室にやってくる。

不器用にゴソゴソガチャガチャとドアノブと戦い、なんとか扉が開くと暗がりをものともせず私の顔のあたりまで突入する。

一人ぐっすりと熟睡している私は、暗がりにボンヤリ登場するヤツの姿と動きが「座敷わらし」みたいで、いつも本気でギョっとする。

おまけに最近は、ちょっとした金属音を耳にすると仏様に手を合わせるかのように合掌ポーズをするクセがある。明け方の部屋でそんな格好をされるとホントに恐い。

自分の子どもの姿なのに妖怪に見えてビビってしまう私だ。でも拝む姿がなかなかサマになっている。変なオーラもあるみたいだし、「仏教業界初のダウン症坊主を目指す」という壮大なプロデュース計画を企もうかと考えたくなる。

ちなみに、座敷わらし伝説は、その家に幸福とか繁栄をもたらすのが通説であり、いなくなっちゃうと没落するというオチがついてまわる。

恵比寿様や福助とか、日本中に伝わる福子伝説のルーツを以前に書いたことがある。いずれも元をたどると障害児やそれを取り巻く周囲の人の奮闘ぶりにつながるという内容だ。

勝手な想像だが、座敷わらしの話も障害児を授かってしまった家を巡る言い伝えがルーツにあるような気がする。

そう考えると、ウチの座敷わらしも貴重な存在なのかもしれない。私も拝まれているうちが花かもしれない。没落するのも困るから、いなくなられてもマズい。「座敷わらしが運んでくる繁栄」だってまだ実現してもらっていない。

そのうち、アイツの拝み倒し攻撃で億単位の宝くじを当てるつもりだ。そうなったらヤツも本物の座敷わらし
になる。休眠宗教法人でも買い叩いて、座敷わらし神社でも作って、アイツを神主に仕立てて非課税特権で大儲けだ!。幸運を呼ぶ座敷わらしグッズとかも作ってバンバン売りまくってみよう。

不謹慎な話になってしまった。

結局、邪念ばかり浮かぶ私の脳みそが問題だ。МRI検査では問題ないのだが、ついつい怪しい思考に頭が動く。障害児を持つ親になると多くの人が人格者になるらしいが、私の場合、どうにも情けない。

銀座あたりに出かれば、シュっとした顔を作って格好つけていればいいものを、美しい女性を相手にスペシャルな猥談に命を懸ける。おまけに年齢のせいか、内容がどんどんエスカレートしている。

ちっとも進化をしないのは私かもしれない。

2011年6月13日月曜日

AKB

AKB48の商売上手にはうならされる。総選挙とやらに絡んでウン十億円のCD売上げを記録したらしい。お祭り騒ぎで経済活性化に貢献してもらえれば結構毛だらけだ。

少年達が小遣いをはたいて、はたまた泥棒してまで投票権付きCDを買う心理がいじらしい。

オトナ達は子どもを煽る商魂を批判している。もっともらしく聞こえるが、成功したビジネスへのやっかみだろう。

ビジネスである以上、利益追求が単純な目的。いつの時代も同じ。ピンクレディーの子ども向けグッズなどはありとあらゆる分野に存在した。私も野球選手のカードが入ったスナック菓子を食べもしないのに大量に買った。

AKBの騒動では、同じCDを20万円分も購入したファンの声がスポーツ新聞に出ていた。「上位に押し上げて活躍させてあげたい」。なるほど、これって一種のタニマチ気分を味わいたい心理だろう。

ヒヒオヤジがお相撲さんを連れて飲み歩いたり、古くは江戸の豪商が歌舞伎役者のスポンサーになったり、応援することで自己満足につながる心理は誰にでもあるようだ。

歌舞伎町のホストに入れあげるオネエサマやオバサマだって、お気に入りのホストが売れっ子になるためにドバドバ散財する。

財布のヒモはつくづく不思議だ。困っている友達にはせいぜい2万円しか貸せないのに、AKBには20万円捨てちゃう。ダンナの誕生日プレゼントは2千円のハンカチなのにホストにはベルサーチのスーツをあげちゃう。

そう考えると、「応援するためのお金」は相手のためでも何でもなく、自己満足とか自己陶酔のために使う金だ。応援される側も恐縮する必要なんて無いのかもしれない。

海外旅行のお土産みたいなものだろうか。親しい間柄は別として、ばらまかれるような義理みやげには、どこかイヤらしさがあったりする。

「ハワイに行ってたんだよ。ワイキキじゃないよ、マウイだよ、どうよ、まいった?」みたいな押しつけがましさが漂っていたりする。

素直じゃない私だけがそう感じるのだろうか。だったらスイマセン。

いずれにせよ、渡される側ではなく、渡す側だけが嬉しいパターンは多い。えらそーに書いているが、私自身も思い返せばそんなマヌケなお土産を買ってきたことが何回もあるような気がする。

あんまり斜に構えたことばかり言っていると誰からもお土産やプレゼントをもらえなくなるから適当にしておく。

さてさて、「AKBとタニマチ気分」の話だった。

応援したい心理でお金を落とす行為が、一種の自己満足である以上、後になってウジウジ言い出すのが一番みっともない。

「あんなに応援してあげたのに」。こういう恨み言はそれこそ野暮だ。自分の喜びのためにやった行為なのに思うようにいかないと、相手をことさら責める。結構この手の話を耳にする。

夜の世界でもお気に入りのオネエサンを店でナンバー1にしてやろうとか、その手の話が飛び交っている。

AKBのCDがドンペリやバカ高いボトルに変るだけで、オジサン達もやっていることは同じ。毎日が総選挙みたいなもんだろう。

残念ながら私にはそんな財力はないし、競い合いの片棒を担ぐような闘争心にも乏しい。というか、そこまでしたら不純な期待が大きく膨らんで、怪しいヒヒオヤジになりそうだから、それが恐い。だからそういう渦に巻き込まれないようにしている。

そう書いてみると改めて頼りにならない男みたいでちょっと情けない。もう少し協力的姿勢を心掛けねばなるまい。

AKBを応援する爽やかな若者と違い、多くのオジサン達はウジウジしているから問題だ。

「この店にどんだけカネを落としたと思ってるんだ」とか「あのコは喰わせもんだよ。随分カネを使ったのに、どうにもなんない」とか、野暮のオンパレードだ。

好きでその店に通って、勝手にそのコを口説いていたわけで、文句を言うのは野暮天だ。誰が聞いても情けなく聞こえるだろうに平気で野暮天話を口にする御仁が多い。
カッチョ悪い。

綺麗どころから聞かせてもらえる「ヒヒオヤジ達との暗闘話」は実にタメになる。びっくりするぐらい稚拙な作戦で彼女たちを意のままにしようとするオジサンが多すぎる。誰もが「そりゃ無理だわ」と思うような手口で玉砕している。

玉砕して逆ギレするアホも結構いるらしい。男たるもの、適度な品性は必要だとつくづく感じる。

ダメ男の話を聞くだけで勉強になる。まさに夜の学校だ。間抜けな先人の失敗事例を反面教師にすれば、きっと「シュッとした男」になれるはずだ。理屈の上では。。。

ちあみに、ダメ男事例はいくらでも聞き出せるが、その逆の性交いや「成功事例」については、なかなか綺麗どころ達が口を割らない。そりゃそうだ。

どうも話がとっちらかってしまった。

AKBに投資した少年達の多くが、カネを使ったところで思うようにならないことを若くして学べばそれ充分だ。オッサンになった時に教訓を忘れないようにしてもらいたい。

2011年6月10日金曜日

粋と野暮

先日、携帯が急に使えなくなった。何やら一部の回線異常が起きたらしい。こんなに小さな機械が使えなくなるだけでアタフタするのだからだらしない。実にヤボだ。

ヤボといえば、その日のドコモのホームページだ。回線異常を知らせする告知ページで、原因について「ネットワークの輻輳」と書いてある。「輻輳」って何だ?

こう見えても私は文化系出身で、国語は出来るほうだったし、漢字も読めるほうだ。「ふくそう」と読むらしいが、ドコモはルビすらふっておらず、当然、意味も記載していない。アホちゃいまっかって感じだ。

通信が集中してつながりにくい状態を意味するらしいが、だったらそう書けばいい。お客目線が欠如。実に野暮ったい話。

テレビのクイズ番組は最近すっかり教養自慢モノばかり。一般的ではない変な漢字とか熟語を羅列する。ちょっとした学歴自慢の面々が威張って読み方や書き方を答えている。

あれもヤボの典型だろう。そうは言いながら見てしまう私もヤボではある。

粋と野暮。なかなか難しいテーマだ。江戸っ子である私としては、すべての行動目標はイキであることなのだが、これが難しい。

つまらない自慢もするし、変な見栄も張る。酔えば話がしつこくなるし、知ったかぶりもする。好きな人が出来ればドタバタしてしまう。

まるでヤボだ。

会食中には宗教と政治の話はタブーとされている。確かにヤボだ。そうはいっても、古代ローマ人の変態セックスの横行がキリスト教によって抑制されたとか、総理大臣に向かって生卵を投げつけてみたいとか、ついつい宗教と政治をネタに酒を呑んでしまう私だ。

寿司屋のカウンターでサササっと握りをつまんで「ごっそーさん」とか言って立ち去ろうと思っても、いつもダラダラ長っ尻。

一応、やせ我慢が美徳だと思っても、これまでの人生、据え膳を食わずに耐えた記憶もない。

ちっともイキではない。問題だ。

イキとヤボを自分なりに勝手に解釈してみた。人間誰しも基本的には野暮な生き物で、そのみっともなさを自覚することで、ハードルの高いイキを目指す。すべてがイキな御仁など天然記念物みたいなもの。イキじゃないからイキに惹かれる。

イキに惹かれない、イキを目指さない、ヤボに気付かないことがヤボなんだろう。そういう意味では、私の場合、ヤボを自覚しているから少しはイキな部分があると思い込むことにする。つくづく凡人の考える自己弁護だ。実に深みも味もない考え方だ。われながらウツウツする。

もう少し自己肯定してみよう。何かしらのトラブルに直面しても、騒がない、動じない、バタバタしない(フリをする)ことを基本路線として自分に言い聞かせてはいる。せせこましいことを気にしない(ように意識しているつもり)、ネチネチした言動は避ける(ように頑張っているつもり)。

ホラを吹くこともなく、自分を飾ることなく、大事な事には口が固く、誰かを頼り切るわけでもない。等々。すべて目指しているだけかもしれないが、目指すことが第一歩ではある。

まあ、そういうことを力説していること自体がとてつもなくヤボではある。

変な話、ブログを書いていること事態がヤボの極みかもしれない。どこに行った、何を喰った、すべった転んだをダラダラ人様にお読みいただくわけだから、間違ってもイキではない。

結局、私は「野暮天」だという結論になってしまった。

「富豪記者」というタイトルも「野暮天エセ富豪記者」の略語ということでご容赦いただくことに一方的に決める。

ヤボだから食べ物の話でも書く。

先日、珍味不足の日々を嘆いてみたが、ある晩、久々の珍味攻め。幸せだった。その後2,3日は珍味を控えめにした。その辺がイキではない。



銀座・九谷で食べた「ますこ」だ。「鱒子」と書いたほうがいい。「ますこ」だとうらぶれたスナックの名前みたいだ。

スジコよりも小ぶりでジュワンとしたエロスが口に広がる。魚卵は素敵だ。エネルギーが充電される。無口になって笑顔になる。

つまみだけで飽きたらず、寿司飯と一緒に巻いてもらった。これまた官能的だ。大勢の子どもを殺戮した感じだ。



北海道産の上質なたらこも軽く炙って酒の肴にする。子持ちシャコもほんのり火を入れてもらってグビグビ呑む。魚卵オンパレードだ。海中に暮らす面々からは間違いなく「子ども殺し!」とか非難されているはずだ。

その償いはコレステロール値の上昇で許してもらおうと思う。

2011年6月8日水曜日

男の背筋

60才、70才ぐらいでピシッとしている男性を見ると憧れる。40代程度の分際でオッサン症状を肯定してしまう自分はまだまだだ。

その昔、有名なサミュエル・ウルマンの詩を知って鬱陶しく思ったものだが、いまでは妙に納得する。

「青春とは人生のある期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ」。

ふむふむ。確かに若い頃に聞かされても「別に」って感じだ。でも、立派な中年になると心に染みる。

大人の分別は大事だが、「分別」が「ジジ臭さ」と同義語になってしまうとタチが悪い。好奇心とか情熱とか一生懸命さとか脇目もふらぬ一途さなどは、年齢に比例して弱くなるものだが、それであきらめていては老化が待っているだけなのだろう。

見習おう。内田裕也。ロッケンロールだ。

冗談はさておき、シュッとした初老の男性達は結局、自分の律し方が巧みなのだろう。巧みというか、自分を律する努力をいとわないのだろう。

私のような怠け者は、週末ともなれば髭も剃らずに頭もぼさぼさで寝間着兼用の部屋着で平気で近所をウロウロする。

こういうだらしなさの有無が「シュッとした初老」、「キリッとした老人」になれるかどうかの分かれ道なんだと思う。

先日、ひょんなことから20年近く前に死んだ祖父の礼服を見る機会があった。晩年に「やんごとなき方面」からお招きを受けた際に新調したモーニングだ。

礼服は他にもあっただろうに、その時新しく仕立て直す発想が既に私とは違う。着る機会も滅多にないわけだし、私だったら面倒くさく感じるだけだろう。

裏地を見て唖然とした。トラの顔が4箇所にあった。変だ。タイガースファンだったわけではない。単に寅年生まれだったせいで、わざわざ余計な細工をしたわけだ。


ヤーさん趣味があったわけではない。真っ当な老紳士だったし、着ていく場所だって「やんごとなき場所」なのに、トラの顔を入れちゃうセンスは凄い。

センスが良い悪いではない。というか、正直センス悪い。そこが問題ではない。遊び心というか、こだわる姿勢に見習うべき点がある。

この日、他にもいくつか祖父のスーツを見たのだが、一見ごく平凡なスーツの裏地が全面羽を広げたクジャクだったりしてぶっ飛んだ。

浅草的趣味といってしまえばそれまでだ。決してマネしたいとは思わないが、平凡に飽き足らない姿勢という部分は教訓にしたいと思った。

服の趣味はともかく、祖父を思い出すたびに、いつもキチっとしていた印象が頭をよぎる。「キリッとした老人」だったが、相当自分に厳しくしていた。

休みの日でも髪をセットして、折り目の入ったズボンをはき、出かける予定などなくてもボウタイを締めていることも珍しくなかった。

無精髭で髪が乱れているような姿を見たことがなかった。ある日、体調を崩して寝込んでいた際に部屋に様子を見に行った。そこで見た「素の状態」、すなわち型通りに老いた姿に驚いた記憶がある。

毎日顔を合わせていたはずなのに、枯れかけている姿を見たことがなかった。別人のような姿に驚いてしまったわけだ。逆に言えば、祖父が日頃いかに気を張って過ごしていたかということだろう。

そんな人生後半戦の生きざまを目の当たりにしても、若かった私は「ご苦労なことだ」ぐらいにしか思わなかった。自分が年を重ねるうちに、気力とか生命力は、結局日常のちょっとした姿勢に大きく左右されることを実感しはじめている。

ちゃんとしようと思う。

体形を気にすることも大事だ、鼻毛をキチンと抜くことも大事だ。下半身にまで進出してきた白いモノを見過ごしていてはダメだろう。ちゃんと退治しよう。

ガラにもなく熱くなるような恋もしよう。人様に愚かだと言われても情熱を捨てないようにしよう。いろんなことに執着して、こだわりを持って背筋をシュッと伸ばしていこうと思う。

そんなことを思いながら、先日仕立てた夏物のスーツは全部表も裏もごく平凡。こだわりのカケラもない。

酩酊して乗りこむ深夜のタクシーでは、ネクタイを突き出た腹のあたりまで緩めて、ベルトも外しちゃってゲップとかしている。

ちっともシュッとしていない。

どこから改造すればいいのだろう・・。

2011年6月6日月曜日

インチキ野郎とイカサマ集団

インチキ野郎とイカサマ集団などと書くと随分感情的な言い回しに見えるが、つとめて冷静に的確に表現してもこの言い方が妥当だ。

菅直人首相と民主党のこと。「もうやめる」、「いや辞めるなんて言ってない」等々。先週の内閣不信任決議案をめぐる茶番は、まさに歴史的な愚挙であり、歴史的な国民の愚弄だろう。

ここまでヒドいとは思わなかった。鳩山由紀夫というお人も単なるアホなのか一流の詐欺師なのかサッパリ分からなくなった。ご自身が前言を翻すのを得意とするペテンのくせに菅首相をペテン呼ばわり。喜劇だろう。

結局、記者会見でしつこく聞かれたことで辞めるタイミング、すなわち「原発対応への一定のメド」を「冷温停止になったら」と語ったインチキ首相。少なくとも来年の1月ぐらいまで辞める気なんてサラサラないと白状したわけだ。支持者であろうが無かろうが、国民みんながお口あんぐり状態だった。

もはや首相と表記するのもイヤだ。どう頑張っても「主将」程度だろう。いや、世の中の主将達に失礼だから「インチキ氏」と呼ぼう。

その後、内外からの激しいバッシングを受けて、この週末、ようやく8月ごろの退陣を示唆し始めたが、この節操のなさも気持ち悪いし、8月というメドだって、いつまたホゴにするかわかったものではない。

おまけに週末になって、世論の反発にビビった民主党執行部の面々が、ドサクサで居座りを狙っていたはずのトップの姿勢を打ち消すのに躍起になってアーダノコーダノ屁理屈を並べた。これまた醜悪そのもの。姑息で卑怯でハチャメチャな集団と非難されても仕方あるまい。

インチキ氏のああまでして権力にしがみつく人間性って何なんだろう。醜悪極まりない。

しょせん、無責任に文句ばかり叫ぶ市民運動家であり、しょせん無責任に好き勝手ほざくミニ政党の人間が間違ってあのポストに就いてしまったわけだ。

私自身、民主党有力者から「あれほど人徳がない人も珍しい」などと以前から聞かされてきた。そんな人間が首相にまでなれるのか疑問だったが、これほどのインチキを平然とやってのける特異な性格だから永田町を泳ぎ切ってきたのだろう。

15年ほど前、まだ売り出し中だった菅直人氏に1時間以上インタビューする機会があった。言いたいことを一方的にまくしたて、あまり聞く耳を持たないタイプだったことが印象的だ。

著書の自慢をさんざん聞かされたので一冊もらって帰ろうとしたのだが、定価で買わされた恨み?で批判しているわけではない。でも妙に高い本だった・・。

同じ日本の男として、潔さがまったくない精神構造が信じられない。変な話、インチキ氏の身辺警護はこれからかなりピリピリするはずだ。

議会の手続きをインチキで逃げ切ってしまった以上、インモラルな手法で「攻撃」を考える動きが出てきてもおかしくないと思う。遊説中や移動中に生卵とか腐ったトマトとかが飛んでくるようなシーンが頭に浮かんでしまう。そんなキナ臭い動きが出てきてもおかしくないぐらい怒りを感じている人は多い。

さて、今後の国会展望はまったく読めなくなった。というか、どうにも動かないだろう。懸案事項は全てコトがスピーディーには運ばない。インチキ首相とイカサマ集団の国会運営である以上、それも仕方ない。

わが社の編集幹部に展望を聞いてみたのだが、その中に一つ、ゼヒ見てみたい事態が起こりえる可能性があるという。

参議院では多数を占める野党が問責決議案を提出する。当然可決される。ただし、衆議院の内閣不信任案とは違い、インチキ氏は知らん顔で済ますことが出来る。

ここで、「反菅姿勢」を鮮明に打ち出している西岡参議院議長が大胆な行動に出るという仮説だ。

参議院議長は三権の長であり、参議院に限って言えば絶対の存在であり、色々と権限もある。問責可決で参議院からダメ出しされたインチキ氏に対して「登院停止」を通告。

天下の総理大臣が登院停止だ。参議院の衛視、すなわち制服を着た門番達は議長による登院停止処分を粛々と遂行する。

参議院本会議場に入ろうとするインチキ氏を衛視が制止する。「あんたは入れません。お引き取りを」と押しくらまんじゅうが展開される。

いやあ、ゼヒ見てみたい。そんな醜態をさらす可能性もあるわけだ。まあそこまでの事態は現実的に起こるかどうかは微妙だが、先週の茶番自体が非現実的だったのだから意外に現実になるかもしれない。

そのぐらい異例なことが起きないと、あのひと自身、自分がどれほど嫌われているかが理解できないだろう。

思えば、インチキ氏が男を上げて一気に「有力者」に躍り出るきっかけになった薬害エイズ問題でも、要約すれば大臣として、すなわち国として非を認めて謝ったというだけの話である。悪かったことを悪かったといったわけだから、厳しく言えば当たり前の話。

その後はカイワレを報道陣の前でムシャムシャ食べたぐらいの実績だ。しょせん、その場その場で目立つことだけで、いつのまにか「大物」になったのが真相だろう。

メディアはもちろん、国民もパフォーマンスに新鮮さを感じて、旧来型政治家とは違うという幻想を抱いてしまったことが悲劇の始まりだ。

考えてみれば、思慮深く、節度があって、ぶれない信念を持つ政治家であればパフォーマンスに頼る必要はないわけで、その点だけでも今後の政治家を見る際の反面教師といえる。

私自身、インチキ氏が売り出し中の頃、コラムで「官僚を正す」というニュアンスで「菅直人」を「官を直す人」などと浮かれた表現で記事を書いたことがある。

猛省しようと思う。

2011年6月3日金曜日

語学の壁

人生後半戦に入ってつくづく思うのが語学への後悔だ。日本語は達者に操ることが出来るのだが、英語も中国語もフランス語も私にとっては、すべて宇宙人の言葉のようだ。

英語は旅先で迷子にならずに、なんとか好きなものを食べて、野宿することなく過ごす程度のレベルだ。中学、高校、大学とあんなに勉強させられたのにどうしてダメなんだろう。

フィリピンあたりに行くと、高等教育を受けていない貧しい階層の人だって自国語以外に英語がペラペラだ。つくづく日本の英語教育のもったいなさというか、トンチンカンぶりが分かる。

まあ、教育制度のせいにしているようじゃダメだ。ちゃんと意識を持って勉強していればもっとマシになれたはず。今からでも英会話教室にでも行ってみようか。それともゴルフの石川遼が宣伝している変な学習法にでもトライしようか。

大学生の頃、ヒマで仕方がないので近所の英会話教室に行ってみた。教会系の説教くさい講師ばかりに馴染めず、長続きしなかった。

ある日、少し仲良くなったアメリカ人講師が東京モーターショーに行きたいと言う。仕方なく二人で出かけた。同年代の男だ。

マツダのクルマのロゴを巡ってひと悶着。ヤツは「MAZDA」という表記なら「マツダ」と発音するのは変だと言い張る。こっちはこっちで「マツダは松田自動車なんだからマツダに決まってるじゃないか」と話は平行線。

英語の先生としての意識が強いヤツはなぜか譲らない。私も日本人の人名が起源だから譲らない。そんなくだらないことで険悪になった。

あんな小さなことを譲らないアメリカ人はイヤだ。そういう私もそんな小さいことを譲らないケツの穴の小さい日本人ではある。

20代半ば頃、カリブ海に浮かぶケイマン諸島に一人旅をした。頼れるのは中学生の頃に教わった堅苦しい英語。ところが現地人との気軽な会話ではそうはいかない。

恥ずかしい話だが、「How are you?」と「How are you doing?」が同じ意味合いだと分からず、バカみたいな受け答えをしていた。

こちらの知識は古典のような「How are you? I’m Fine, thank you and you?」。
あくまでそれしか知らない。

ところが、そんな会話をしている人はいない。声をかけられる時は決まって「How are you doing?」である。実際に聞き取る時は「How」はかろうじて聞こえるが、「are」
は聞こえない。カナ表記すれば「ハウ・ユー・ドゥーイング」だ。

毎朝、ダイビングショップの受付やダイビングボートの上で、デカい連中が私に叫ぶ。「はう・ゆー・どぅーいんぐ」。

バカな私もバカなりに考えた。「How」だから何かを質問しているらしい。おまけに「doing」だ。

日本語的発想で勝手に解釈してみた。きっとこういう意味だ。

「おい!何してるんだい?」

これが会話に重きを置かなかった英語教育の悲しい産物だ。

向こうにしてみれば「やあ!元気?」とか「調子はどうだい?」とか、へたすれば単に「おはよう」ぐらいのつもりで声をかけているだけだ。

それなのに私は常にその時していることをつたない英語で必死に伝えようとする。

「水中カメラのフィルムを入れ替えているんだ」とか「いま着替えようとしているところだ」とか、そんな受け答えだ。

想像してもらいたい。

「やあ元気?」
「オレはいま電池を交換するんだ」

こういう感じの会話が美しいカリブ海をバックに毎朝交わされていたわけだ。

ケイマン諸島の海は素晴らしく、その翌年も懲りずに出かけた。その時は英語が出来る女性が一緒だった。

1年ぶりに訪ねたダイビングショップで、スタッフが大袈裟に再会を喜んでくれた。なんかペラペラ愉快にしゃべっている。

私の解釈は「おう、また来たのかい。嬉しいぜ。はるばるようこそ。今度もいい写真撮ってくれよ」である。

「OK」とか「Yes,Yes」と応えながらハグとかしちゃって、すっかりいい気分の私だ。念のため同行者にヤツらが何を言ってるのか聞いてみた。

正解は次の通り。

「おい、今年は少しは英語が分かるようになったのかい」。

そんなもんだ。

勝手な解釈と無鉄砲さは若い頃だから笑い話で済むが、今となってはみっともないだけなので、つくづく語学に打ち込まなかったことを後悔する。

近いうちにパリに行く予定なのだが、フランス語といえば小学校、中学校でせっせと勉強したのに、今ではカケラ程度も覚えていない。これも実にもったいない。

旅行用の携帯フランス語会話みたいな本を見てみたのだが、おぼろげながら昔はだいたい知っていたような記憶がある。

小学校時代の6年間ずっと家庭教師がいた。成績も当然良かった。6年間もマジメにやったのだから6才の子ども程度のフランス語はできたはずだ。話半分でも3才程度の能力はあった。3才の語学力だったら充分コミュニケーション可能だ。

1から100まですらすらとフランス語で言えたあの頃の優秀な私はどこに消えたのだろう。フランス人の先生とフランス語であーだこーだ会話できた素敵な私は記憶喪失にでもなったのだろうか。

エクスキュゼ・モアだ。

2011年6月1日水曜日

インターネットさまさま

今の時代、何が便利かって言えば、やはりインターネットだ。こんなことをいきなり書き始めたのは、靴を買うためのアホバカ旅行の予習が非常にラクになったから。

この先、不必要にグラグラ揺れなければ遠からずパリとローマに行くことを画策中。一応、アリバイとして絵なんかも鑑賞しようとは思っているが、正直、ガラではない。

実はゼヒにでも見たい絵が結構たくさんあるのだが、そんなことを書くとエセ文化人みたいだから、靴以外に興味はないという前提で行動しようと思う。

ジョンロブだとか、オーベルシー、コルテだのウェストンやタニノクリスチーがごろごろあるらしいから行かねばなるまい。そりゃそうだ。地元なんだからゴロゴロあるのは当たり前だ。

問題はそれぞれの店の所在地だ。有難いことに今の時代、ホームページが無い店は皆無。当然、所在地もすぐ分かる。もっとも、外国の住所を表示されたところで実際の行き方はサッパリだ。こんなときにもインターネットが活躍する。

住所をグーグルで検索すれば一発で地図が出てくる。外国の地図なのにカナ表記まで併記されているから実に便利。おまけにストリートビューまで駆使すれば周辺の雰囲気まで生々しく把握できる。実際にやってみると本当に便利でビックリする。

パソコンを始めとする機会モノが苦手な私ですら、こういう便利さを実感できる。良い時代だ。上級者の方々は一体どれぐらいハイテクの恩恵を受けているのだろう。

それにしても、「情報を発信する」というジャンルの仕事をしている以上、急激に進化する世の中の動きが恐ろしくてしょうがない。いまだに「紙」をベースにしているわけだから、どう逆立ちしたって産業革命のまっただ中にいるわけだ。今後の仕事に不安は尽きない。

今日のところは考えないでおく。

その昔、潜水旅行に明け暮れていた頃は、インターネットもまったく普及しておらず、調べものといえばアナログの世界。ダイビング雑誌を発行する出版社に問い合せてバックナンバーを譲ってもらったり、海外の専門雑誌を取り寄せたり、とにかく面倒だった。

遊びのためだったので面倒なことが楽しめたのだろうが、いま思えば原始人だ。国際線の時刻表ひとつとっても、日本発着便なら簡単に調べられたが、海外路線を細かく調べたい時はハードルが高かった。

当時、OAGという国際航空時刻表を海外通販で取り寄せていた。電話帳のように分厚くて中身は記号と数字と英語ぐらいなもの。私にとっては、マヤ文明の手紙を翻訳するようなものだ。なんとか解読した。

あのおかげで中米カリブ海に浮かぶボネールという島に日本出発同日に到着することができたし、アメリカ経由カリブ海、そこからヨーロッパ経由で帰国するような乱暴な旅行が実現できた。

OAGの表記は、曜日が数字になっていた。確か1が月曜だか日曜で、水曜日が3か4みたいな感じ。それが分かるまで悶絶しながらページを眺めていた記憶がある。

空港表記もいわゆる3レター。成田ならNRT、パリならCDG、おまけに大都市の空港は複数ある。地名ごとの索引はあるのだが、全世界の空港だから膨大な数。ローマ字がミミズみたいに動き出す錯覚に襲われた。あれで私の脳みそは随分壊死したはずだ。20年ぐらい前の懐かしい思い出だ。

いま、ネット上で検索する場合、都市名もしくは国名を入力するだけでも、自動で候補地が羅列され、その中からクリック一つで目的の空港を入力可能。

おまけにスターアライアンスだとかワンワールドといった航空連合のおかげで、運航会社をまたいで縦横無尽に乗り継ぎ便を見つけることが可能になった。

私のような昔の人の感覚だと、ルフトハンザのウェブページではルフトハンザしか検索できないようなイメージがあったが、いまでは提携航空会社便もバシバシ出てくるので実に簡単。

今回予定しているのはJAL便なのだが、行きはエールフランス、途中の移動はアリタリア、帰路になってようやくJALの機材に搭乗するパターンだ。なんとも便利な話。

海外出張が多い人ならもはや常識なのだろうが、私のようなドメスティック男にとっては、ここ10~15年ぐらいの進化が妙に不思議に感じられる。

さてさて画策中の旅の話。問題はタバコだ。昨年の増税値上げを機に、やめていたタバコを国家のために吸い始めて、すっかりチェーンスモーカーだ。欧州路線は平気で12時間以上飛んだりする。強制禁煙が結構ストレスだ。

だから往復とも夜便を予定している。これなら出発を待つ空港でぶりぶり飲酒して、機内では睡眠導入剤でコロッと寝られる。はずだ。

考えてみれば10時間以上のフライトなどもう随分とご無沙汰だ。もともと飛行機が好きではないので、ここ数年、旅先は遠くてもせいぜい7~8時間の場所をあえて選んできた。

小さい画面で映画を見るのは嬉しくないし、どう頑張ったって機内食が美味しいはずもない。ゲームをピコピコする性分でもないし、読書するのもせいぜい2~3時間だ。

人目があるからエロ雑誌を見るわけにもいかず、ビジネスクラスに乗っても、キャッチボールできるほど広いわけではない。乗務員が隣に座ってお話ししてくれるわけでもない。

そういえば、過去に一度だけ乗務員さんが私の隣の空席で合計2時間ぐらいお相手してくれたことがある。ガラガラの飛行機だったこともあるが、まさに珍事だった。アメリカ系の会社の日本人乗務員だったのだが、あれはあれで安全運航上?由々しき問題だろう。でもちょっとだけ自慢?だ。

今回はエールフランス便にも乗るわけだが、いつだったか、夜便では乗務員が客のサイフを盗んで逮捕された事件があった。フランス人恐るべし。ぐっすり寝たいのに迷惑な話だ。

サイフはパンツの中にでも入れておこうと思う。