2022年12月28日水曜日

年末のドタバタ


先日また胃カメラを飲んできた。人生初の「3ヶ月後の再検査」である。これまでは別に問題がなければ1年後、ちょっと怪しいと半年後に再検査を指示されたが、3ヶ月後を指定されたからちょっぴりビビっている。

 

結果は年明けだからまだ問題はないが、久々に“病人気分”で胃カメラを飲んだ。とはいえ、このブログで何度も書いているように私はこの強力鎮静剤で落としてもらう内視鏡検査が大好きである。今回も不安よりワクワク気分で出かけた。

 

いつもは尻からの内視鏡検査もセットで行う。お尻カメラもやる場合はクリニックに向かう4時間前から2リットルの下剤を飲むハメになるのがツラいのだが、この日は胃カメラだけ。朝飯を抜くだけでノーストレスである。

 

そしてクリニックにて待ち時間もナシにすぐに検査開始。相変わらず強力鎮静剤の注射が効き始める頃の快感を全身で味わう。ちょっとクラっとしてきて天井がグルグルするような感じになると必死に落ちないように抵抗してみるのが楽しい。ものの数十秒後には必ず気を失うのだが、その手前でムダに頑張って耐えてみるのが妙に身持ち良い。

 

変態である。

 

今回、胃の中の問題の箇所を探すのに少し手間取ったとかで途中でボンヤリ覚醒してしまったのは残念だった。苦しいとかツラい感覚は無かったのだが「チェッ!起きちまったじゃないか」という無念ともいえる感覚が強かった。

 

一応その後はまたストンと落ちたのだが、いつもは看護師さんに起こされるまで熟睡するのに今回は自ら起きてしまいぐっすり眠れた感覚が足りなかった。ちょっと欲求不満だ。それでも全身が弛緩したせいでいつものように肩凝りも取れていた。

 



空腹状態での検査が終わった後はドカ食いが楽しみである。洋食気分だったのでクリニックから歩いて行ける銀座の老舗・煉瓦亭に出かけた。ところが昼時のせいでまさかの行列。

 

食事のために列に並ぶことが絶対に出来ない私である。洋食気分は変えられないので近くの「グリルスイス」に向かう。移転して間もないグリルスイスは小洒落た空間に変わっていて悪くない。以前の食堂っぽい感じから小粋なレストランっぽい雰囲気になっていた。

 




タルタル気分だったのでエビフライを頼む。大ぶりの海老が3本だ。食べ応えがあって嬉しい。他にこの店独特のシチューのようなハヤシライスにオムレツをトッピングしてもらった。5年前ならもう一品は頼むところだが最近はこの程度で満足してしまう。淋しい限り。

 

バクバクと食べて自分が病人予備軍だということを忘れることが出来たのだが、数日後に顔が腫れる事態が発生して難儀した。人生初体験である。さすがに師走だ。どうもすんなりとはいかない。

 

だいぶ昔に銀のかぶせものをした治療済の歯の根っこに細菌が溜まって炎症を起こしたのが真相。もちろん後日歯科医に診断されて知ったことだが、いきなり歯茎の上の方が痛くなりアッという間に頬の裏側や鼻の横の内側が腫れだして痛くなってしまった。ヒゲを剃るにも困ったほど。

 

外見上も片方だけ膨らんでしまい仕方なく歯医者さんに行ったのだが、原因は分かったものの「膿を切開して出す」と妙に怖いことを言われた。それを聞いただけで冷や汗が出たのだが、その日は「まだ膿を出す段階ではない」などと言われてしまった。

 



結局その日はヒーヒー騒いでいるのに痛み止めをもらった程度で帰されてしまい翌日また出かけるハメに。面白いもので一日経ったら頬の裏側の腫れが少し下がってきたみたいで前日までと比べると歯茎がかなり膨らんでいた。

 

しっかり膨らんでいる箇所がないと切開し甲斐がないらしく、この日の状態を見てようやく切開処置をしてくれた。ただでさえ痛いのに歯茎を切って膿を出すわけだから小心者の私は気絶寸前の気分だったが無難に終了。一気にラクになっていった。

 

実はこの日、時を同じくして母親が開胸手術をしている時間だったので、そっちの深刻さや大変さを想像して何とか騒がず泣かずにジっとしていられた。

 

母親は肺に水が溜まって厄介な状態だったので手術に至ったのだが、そこに至るまでの体調不良やら入院騒ぎでこのところちょっとドタバタしていた。どうやらデリケートな私?はそっちの心配やストレスのせいで歯の根っこが暴れたのだと思う。

 

何ともだらしない話だが、男という生き物は弱いものだと再認識した。いずれにせよ普段はたいした用事もなく日々を過ごしているのに師走になった途端にこんなことが重なるわけだから不思議なものである。

 

自分の体調も母親の件も年末年始に絡まなかったことはラッキーだったといえる。母親の入院は年を越しそうだから今年の年末年始は実家に行くこともなくイベント感とは無縁で終わりそうだ。コロナのせいで病院の面会が出来ないという状態は身内に入院患者がいる人には物凄い問題だという現実を改めて痛感した。

 

というわけで、年末年始の休みはしみじみと自分の人生観なんかを今一度じっくり考える時間にしようかなどと珍しく殊勝なことを考えている。

 

娘も母親(私の元嫁)宅に泊まりに行くみたいだし、一人で除夜の鐘を聞きながら沈思黙考するのも悪くない。

 

とかいいながら、きっとエロ動画をフルボリュームで鑑賞しながら鼻くそをホジくっている自分の姿が頭に浮かぶ。そっちの確率が97%ぐらいだと思う。それも現実である。やはり生きている限り煩悩とは友達みたいだ。

 

 

★今年の更新は今日でオシマイです。来年は12週目から再開します。皆様にとって実り多い年が訪れるように祈っています!

 

 

 

 

 

2022年12月26日月曜日

即席麺の郷愁


即席麺。この言葉を見るとヨダレが出る。カップ麺ともインスタント麺とも違う。「即席麺」である。言葉の定義は知らない。漠然とカップ麺ではなく袋麺をイメージする。

 

カップ麺と袋麺はナゼか微妙に違う。気のせいだろうか。真剣に考える話ではないかもしれないが、私にとってはウン十年にわたる謎である。

 

個人的には袋麺のほうが美味しく感じる。お湯を入れるだけのカップ麺より面倒だからそう思うのかもしれない。とくにサッポロ一番は無敵だと思う。

 

マルちゃん正麺みたいな本格派が台頭しているが、袋麺はサッポロ一番やチャルメラみたいなゲジゲジみたいな麺じゃないと気分が出ない。

 

即席麺というジャンルに普通のチルド麺のようななめらかさは場違いな気がする。あくまで個人的な意見です。ごめんなさい。

 

その昔、「マダムヤン」という高級袋麺が登場した時に麺がちゃんとしていて驚いたのだがビミョーな違和感もあった。「袋麺なのにちゃんとしている」ことが何とも落ち着かない気分にさせた。

 

今も時々無性にサッポロ一番が食べたくなる。あらかじめ丼に水を100㏄ぐらい入れておき、麺は鍋の中でほぐれ始めたら大半のお湯を捨てて粉スープを混ぜたら一気に丼に移す。そうすれば熱すぎることもなく余熱で麺が柔らかくなることもなく、あのボソボソとした駄菓子みたいな麺を堪能出来る。私流の作り方だ。

 

即席麺のあのゲジゲジ麺の食感は他の何物とも違う独自の味わいと郷愁?がある。ジャンクフード界の世界遺産的な尊さがあると思う。

 

先日、そんな即席麺のアレンジ版を自宅近くのタイ料理屋で発見した。八丁堀にある「バンコクポニー食堂」というカジュアルなお店だ。屋台料理の延長みたいな気軽なメニューが豊富な地元の人気店である。

 

「タイのインスタント麺炒め」なる料理をメニューに見つけたので間違いなくウマいはずだと注文してみた。東南アジアでは外食メニューに即席麺を使った料理が出てくることが珍しくない。日本では見かけない光景だろう。

 



一口食べてみた感想は「やたらとウマい」である。衝撃的なウマさと言っても大袈裟ではなかった。シンプルな味付けなのだが即席麺の良さが完璧に引き出されている。味の説明が上手に出来ないのが心苦しいが、ほんのり甘みもあって万人受けする味に仕上がっていた。やみつきなりそうだ。

 

タイ料理の定番のヤムウンセン(春雨サラダ)をツマミにビールをグビグビ飲みながらこんな即席麺炒めが出てきたらビールがいくらあっても足りない。ツマミでも美味しいしシメの料理としてもイケる感じだった。

 

即席麺の世界でいま若者に人気なのが「プルダックポックンミョン」である。何だかヘンテコな呪文みたいな名前だが、ラーメンだか焼きそばだか分からない不思議な和え麺である。

 


 

韓国人気もあって若者がこぞって食べている。私には無縁なはずだが一緒に暮らす娘がハマっているせいで我が家にはいくつも常備されている。

 

端的にいってやたらと辛い即席麺である。いろんな種類があるのだがどれも辛い。分別ある?大人が食べるシロモノではなさそうだが、麺が独特で麺だけで評価するならかなり美味しい。

 

即席麺になめらかさは不要だと書いたが、プルダックポックンミョンの麺のなめらかさは、マルちゃん正麺やラ王みたいななめらかさとは違った印象。例えるならタリアテッレやタリオリーニと呼ばれる平打ち麺のパスタみたいな感じ。

 



 私が味見したのはカルボ味というラインナップの中ではマイルドなものだったのだが、普通の大人には辛くて無理だと思う。なぜ若者達はあんなにヤケクソみたいな辛さの麺を喜んで食べるのか不思議で仕方がない。

 

数年前に「蒙古タンメン中本」のカップ麺がバカみたいに辛かったから大人向けに改造した話を書いた(https://fugoh-kisya.blogspot.com/2019/03/blog-post_27.html)が、プルダックポックンミョンも辛さのないマトモな味の新製品を出したら私は喜んで買うと思う。

 

麺は魅力的だったから付属のスープは捨てて別の味で食べるなら中高年にもオススメだ。私もあの麺をいったん水でシメて冷やし中華のタレをかけて食べたいと思っている。でも我が家にあるストックは娘が後生大事にキープしているのでなかなか実現できていない。

 

即席麺の世界も日々進化しているようで、サッポロ一番一辺倒の私には驚くような商品がたくさんあるみたいだ。いろいろ試してみたい衝動もあるのだが、私はサッポロ一番ですら後発組の「ごま味」や「塩とんこつ味」を食べたことがない。

 

まずはサッポロ一番のシリーズ全制覇から始めることにしたい。来年の新たな目標として頑張ろうと思う。頑張るほどの話ではない…。

 

 

 

 

 

 

 

2022年12月23日金曜日

テレビとロス



クリスマスである。だからどうしたコノヤローなどとは言わない。いや、ホントは言いたい。何だかゾワゾワする日である。

 

幼稚園から高校までカトリックの学校に通ったくせに私はクリスマスが苦手だ。若い頃はちゃんとそれっぽいデートなんかもしたが、いっぱしの大人になってからは苦手になった。

 

このブログでもこの季節はキリスト様の誕生日で騒ぐよりも赤穂浪士の討ち入り「忠臣蔵」で盛り上がるべきだと何度も書いてきた。いまだそんな主張が国民運動になる気配がないのが哀しい。

 

私が「忠臣蔵」のファンになったのは小学生の頃に観たNHKの大河ドラマ「元禄太平記」がきっかけである。1975年の放送である。大石内蔵助役の江守徹が実に渋かった。

 



いたいけな少年のその後の趣味嗜好に影響を与えたのが大河ドラマだったわけである。今年の「鎌倉殿の13人」を観て歴史好きになった少年も多いのだろう。

 

「鎌倉殿の13人」はまれに見る傑作だったと思う。終わってしまった“ロス状態”がツラい。前半の中心だった大泉洋演じる源頼朝や菅田将暉演じる源義経が死んじゃった後は歴史上の有名人も少ないから退屈な話になるだろうと思っていたが、予想に反して後半の面白さは前半を凌ぐほどだった。

 

最終盤の展開も凄かった。超重要事件である承久の乱などほぼナレーション説明程度で流しちゃって主役は完全に「北条政子」だった。政子役の小池栄子が素晴らしかった。グラビアアイドルとして世に出て胸をブルブルさせていたのも今や昔、もはや大女優の貫禄である。

 

あれだけ抜きん出た面白いドラマを作ってしまったら来年のマツジュン演じる「家康」はキツいだろうなあ~などと余計な心配をしてしまう。

 

今日はこのままドラマの話を書き続ける。“ロス”といえばフジテレビのドラマ「サイレント」も終わってしまって悲しい。素直に素晴らしい作品だったと思う。最終回はちょっとビミョーではあったが……。

 

気付けば私も“めめ”こと目黒蓮のファンになってしまった。手話だけで言葉を発しない役だからこそ感情表現の巧みさ、切なさが印象的だった。将来はキムタクみたいな位置付けのスターになってもおかしくない逸材だと感じた。

 



「鎌倉殿の13人」と「サイレント」が終わってしまったクリスマスなんてちっとも楽しくない。基本的にはこの2つしか定期的に観ていなかったから残念で仕方がない。

 

残るは朝ドラ「舞い上がれ」だけである。前作の「ちむどんどん」があんまりだったから「舞い上がれ」は最初から期待して観ている。とはいえ、朝からドラマを観るほど余裕がないからNHKオンデマンドで2週間分ぐらいをまとめて観る。

 

“めめ”こと目黒蓮が主人公の恋人役である。「サイレント」を観た後で「舞い上がれ」を観ると、めめが普通にしゃべっていることに感動する。よく分からないが「良かったな」とつぶやいてしまう。

 

先日、3週間分を一気に観た。小憎らしかっためめが徐々に爽やかな好青年に変化して主人公に告白した。年甲斐もなくキュンキュンしてしまい、とっくに寝ていた娘の寝室に行って報告をしたほどである。

 

主人公の福原遥は10年以上前にEテレの子供向け料理番組をやっていた。まだ小学生ぐらいだった。まだ小さかった娘が観ていたので覚えている。「マインちゃん」という名前で頑張って料理っぽいことをしていたコがいまや朝ドラの主役でめめの恋人である。

 

父親的目線で必死に応援してしまう私だ。長年に渡って何の気なしにテレビを観ていると楽しみ方が変わってくることを今更実感している。まあそれだけ歳をとったということでもある。

 

私に残された楽しみである「舞い上がれ」は時節柄、大晦日の紅白では特別コーナーが設けられるはずだ。今から楽しみである。ダウンタウンの「笑ってはいけない」が放送されなくなってから大晦日の楽しみは紅白ぐらいになってしまった。これまた典型的な「年寄り型の過ごし方」である。

 

ということで、クリスマスが過ぎればいよいよ今年も大詰めである。テレビドラマをあーだこーだと語っていられる年の瀬を迎えられた自分の平和っぷりがちょっと嬉しい。

 

 

 

2022年12月21日水曜日

銀座の夜のクラブ活動



 以前ほどではないが夜のクラブ活動に励むようになった。11月末の我がオジサマバンドライブには銀座から夜の蝶や黒服さん達が結構来てくれてバンバン盛り上げてくれたから御礼参りも兼ねてふらふらと顔を出す機会が増えた。

 

我がバンドのチケット代は3500円だ。どう考えても割に合わない.。でも世の中そう割り切れるものではない…。それがイキってものである…。痩せ我慢こそ大人の男の美徳である。

 

コロナで閑古鳥だったのが懐かしいことのように現在の繁盛店は昔と同じように活気に満ちている。それでこそ銀座である。銀座で飲むということはプラスのエネルギーの中に身を置くことが主眼である。

 

発光体のように自らエネルギーを弾けさせていた若者時代とは違って中高年になるとどうしても“衰弱”してくる。意識してエネルギーを補充しないと枯れそうになる。そういう意味では夜のクラブ活動は一種の健康増進効果がある。

 



今では換気に力を入れるお店ばかりだし、そもそも普通の飲食店ではマスクもしないで大騒ぎしているわけだから銀座のクラブだろうと新橋の炉端焼き屋だろうとリスクは同じだろう。

 

10年近く前ならばアフターにも繰り出す元気があったが今はちょこっと1軒か2軒顔を出してさっさと帰るようになった。加齢だけでなく夜遅くに外にいる習慣が無くなったせいだと思う。

 

不思議なもので豊島区や文京区に暮らしている時のほうが深夜の銀座をうろついていた。中央区民になって銀座がご近所になった途端に足繁く通うことが無くなった。いつでも行ける感覚がそうさせるのだろう。

 



有難いことにこの画像のような特製ボトルを用意してくれている店もある。もっと通わないといけない気持ちはあるのだが、モチベーションが上がらないから腰が重い。カワイコちゃんが気のある素振りでも見せてくれればいいのだが、最近はそういうのを真に受ける純情さが欠けているから問題である。

 

あの世界で女性目当てでハッスルするにはしっかりとバカになる必要がある。「ひょっとするとオレに気があるんじゃないか」「あの目付きはオレに惚れてるな」等々、男らしいバカさを丸出しにしてこそ楽しめるものである。

 

私もそんなバカな場面は何度も経験した。それはそれで楽しい時間だった。いかんいかん懐古趣味になっている。今からでもそんな錯覚に陥るように自らを律して?頑張らないとなるまい。

 


 

この画像は魅力的な胸元を眺めてアホ丸出しの私である。顔の一部しか載せていないが元画像の私の顔は実に幸せそうだ。ある意味イキイキしている。渋い顔を作って気取っているよりよっぽどエネルギーに満ちている。

 

一昔前には夜の街を舞台に色っぽい“事故”もちょこちょこあったのに今のように達観した顔でオールドパーを舐めているだけでは老け込んでしまう。改めて頑張ろうと思う。

 

「言い訳コロナ」によっていろんなことが億劫になった人は多い。コロナ禍を理由にしたサボりは大袈裟に言えばこの国から活力を奪っている。個々の人々にとっても同じだ。コロナだから人に会わない。コロナだから出かけない等々、そんな話は回り回って自分の首を絞めるだけだと思う。

 

私自身、オジサマバンド活動の集客のため?に半ば渋々夜の銀座に出かけ、ライブの御礼参りにまた顔を出すようなことを繰り返しているわけだが、それが無かったらまったく行かなくなったかもしれない。

 

行けば行ったでキチンとバカ話に花を咲かせて楽しく過ごす。何となくプラスの「気」を吸収したような気分になる。現役感を実感できるし更なる奮闘を決意したくもなる。ちょっと大袈裟か。

 


 

この画像の私もキリっとカッコつけた表情をしている。こういう場面じゃなければフヌけてボーっとした顔で過ごしているからこれはこれで「男を頑張る時間」なんだと思う。

 

先日、新橋駅で出勤前の馴染みの黒服さんにバッタリ出くわした。34年前は一緒に店以外でも飲み明かしたこともある。お互いの誕生日プレゼントを交換したこともある。なのに名前が思い出せなくてアセった。まだ爺さんと呼ばれる歳でもないのに問題である。

 

1年の終わりになるともろもろ反省ばかりが頭に浮かび新しい年はこうしようああしようと思いがちだ。その観点でいえば来年はもっと現役感を実感する場面に身を置こうと思う。「言い訳コロナ」からの完全脱却を抱負にしよう。

 

 

 

 

 


2022年12月19日月曜日

ソーキをぶりぶり


若い頃は苦手にしていたのに中年になってから好きになったものが結構ある。極端なケースではトンカツに添えられているキャベツだ。昔はいっさい手をつけなかった。いまは箸休めにヤツの存在は欠かせない。お代わりしちゃうこともある。

 

薬味も似たような感じだ。蕎麦屋に行っても若い頃は申しわけ程度にちょこっと入れるだけだったが今ではドバドバ入れたい。若造当時は人目が無ければ薬味を一切入れずに蕎麦を味わっていた。ヤボだったと思う。

 

ペヤングを始めとするカップ焼きそばのかやくですら開封せずに捨てていた。まったく具の無い焼きそばを頬ばるのが幸せだったのだが、今ではカップ焼きそば用の乾燥キャベツだけをAmazonでわざわざ買ってしまうほどあの“謎キャベツ”が好物になった。

 



 好き嫌いを克服したというより味覚の好みが変わったのだろう。その証拠にハンバーグやステーキに必ず付属してくるニンジンは絶対に食べない。「これは頼んでませんよ」といつかお店の人に言ってしまいそうなぐらい苦手だ。

 

鍋にエラそうに入っている春菊は一瞬で鍋から退場させるし、カツ丼の上に当然のように居座っているグリーンピースも瞬時にどかす。お子ちゃま的な味覚は今も変わらない。

 

先日、沖縄そばが無性に食べたくなって有楽町の交通会館地下にある専門店に出向いた。店の名前はいつも忘れる。正確にはソーキそばが食べたくなったというのが正しい表現だ。

 


 

沖縄そばを初めて食べたのは大学生の頃だった。40年近く前のことだ。沖縄の食べ物を東京で手軽に食べるような時代ではなかったから初体験の衝撃は今もしっかり覚えている。正直言って美味しいとは思わなかった。

 

「何じゃコレ?」。それが感想だった。そばだと聞いたから日本蕎麦のイメージで向き合ったのだが、うどんだかきしめんだか分からない謎の麺が出てきて驚いた。おまけに味があるのかどうだか分からないようなアッサリしたスープ。ついでに言えば、そばなのに紅ショウガは載っているし骨付き豚肉が乗っかっている。衝撃だった。

 

豚アバラ肉の煮込みであるソーキは1個だけだったから肉食の若者としてはそれのみに満足して他はまったく気に入らなかった。当時は牛丼にも紅ショウガをトッピングしない“お子ちゃま舌”だったから悪印象しかなかった。

 

その後、潜水旅行で数え切れないほど沖縄に行き、なかば渋々と沖縄そばを食べていたが、ソーキがたくさん載ったソーキそばが好きになり気付けば中毒みたいにソーキ、ソーキと寝言でも叫ぶようになった。ウソです。

 

というわけで、若い頃にウマいと思わなかったのに後になって大好物になった食べ物の代表が沖縄そばでありソーキそばだ。

 

唐辛子の泡盛漬けである「コーレーグース」をぶりぶり投入してスープがまるで飲めなくなるぐらい辛くするのも悪くない。ソーキをてんこ盛りにすればスープを飲まずとも満腹になるからそんなヘンテコな食べ方もするようになった。

 

気付けば紅ショウガも好きなって初体験の時にネガティブな衝撃だった部分がすべて魅力に思えるようになった。数年前に潜水せずにただ沖縄にボーッと一人旅に出た際も23日でソーキそばを6回も食べたりもした。

 



この日訪ねた沖縄そば専門店はカウンター中心でどこぞのイートインみたいな手軽な店だが、味のほうはかなり本格的で気に入っている。ソーキの味付けもなかなかだ。

 

ソーキそばに別盛りで単品ソーキを注文してそばの上に追加で載せると得も言われぬ美しい姿になる。「ソーキぶりぶりそば」の完成である。ラーメンを食べる時もチャーシューをぶりぶり乗せたい私にとっては眺めているだけで目の保養になる。

 

それにしても沖縄そばの麺を「そば」と表現することへの違和感はいまだに消えない。とはいえ、沖縄きしめん、沖縄細うどんって呼ぶのも違う。いっそ「沖縄麺、ソーキ麺」でいいような気がする。

 

そんなどうでもいいことを真剣に考えながらソーキそばを一心不乱に食べている時間が好きだ。折を見てまた食べに行こうと思っている。次は別皿ソーキを2つ追加して「クレイジーソーキそば」としてムホムホと頬ばりたい。

 

 

 

 

 

 

 

2022年12月16日金曜日

熱燗ちょうだい


冬の醍醐味といえば熱燗だ。熱々にしてもらった燗酒をクイっとやる瞬間の喜びはこの季節ならではである。あまり美味しくない日本酒でも熱々の燗酒にすればそれなりにイケる。

 

好みに合わない冷酒や開栓して時間が経ち過ぎた冷酒を飲まされるなら熱燗が無難である。銘柄のウンチクなんかも聞かされずに済むのが良い。ズラっと銘酒を揃えている店だろうと「熱々の燗酒ちゃうだい」の一言で黙って熱燗専用の無難な酒が出てくる。

 



熱燗のウマい季節にはそれに合う肴が揃っているのも嬉しい。塩辛いモノなら何でも合うのだが、やはり冬ならでの珍味を並べるのが季節感として正しい。

 

焼いた白子あたりを突っつきながらチュルチュルと燗酒をすする。オジサマにとってパラダイスだ。若い頃からこういう取り合わせは好きだったが、やはり人生の厄介事をくぐり抜けてきた中高年になってからのほうが染みる。人生劇場も酒を飲む際のスパイスみたいなものかもしれない。

 



香箱ガニ、セイコガニ等々、いろんな呼ばれ方があるズワイのメスも初冬ならではの逸品だ。内子外子のねっとり感がウリだ。ご飯のおかずというより酒の肴として活躍する存在だろう。


北陸のほうでは開高健が好んだことで知られるその名も開高丼が人気だ。ドンブリ飯の上にセイコガニの中身を7杯だか8杯分ほど盛り付けるらしい。おかずとして大活躍しているわけだが、私にとってはセイコガニはやはり酒の肴だ。ご飯の友というイメージは無い。

 

「身が無いから嫌い」と言う野暮なオジサンもいるがもともとそういうカニではない。いわゆるカニの身肉を楽しむなら他のカニを食べた方がマシだ。昔は安価だったが最近は名称にこだわるようなイメージ戦略のおかげで妙に高くなったのが残念である。

 

上の画像、香箱ガニの隣にはスジコ、手前は甘海老の昆布締めだ。新富町の穴場的お寿司屋さん「なか山」での一コマだ。こんな組み合わせで燗酒を飲んでいたらありとあらゆる悩み事さえ瞬間的には忘れることが出来る。うっとりする時間だ。

 

東京ではイクラは塩漬けが定番だったが、今は醤油漬けが主流になった。醤油漬けも大好きだが、塩イクラが絶滅危惧種みたいに珍しくなってしまうと昔ながらのそっちの味も恋しくなる。味覚の欲求はつくづくワガママだと思う。

 

スジコだと塩漬けがまだまだ定番のようだ。塩味のほうが酒の肴にはより魅力を発揮すると思う。箸で頑張ってほぐした断片を口に放り込んで燗酒に後を追わせる。こんな作業も楽しい。

 

イクラを小さいスプーンで食べるのもラクチンだが、スジコのあの簡単にはいかない厄介なところが愛おしかったりする。個人的な感覚です。スイマセン。

 



冬の定番と言えばアンキモである。あのネットリした食感と独特の旨味とコクは酒の肴業界の英雄的存在だ。安酒場だとネットリ感がまるで無いハムみたいな変なのが出てくることがある。真っ当な店で頼むのが大事だ。

 

白子にしてもアンキモやスジコ、他にも冬の定番・カラスミあたりは揃いも揃って成人病的視点から見ると避けるべき食べ物である。ここがツラいところだが毎日毎日食べるわけじゃないなら気にし過ぎるのもシャバダバである。

 

私も「たまにだから」と自分に言い聞かせて食べるようにしている。問題は「たま」の間隔、頻度だろう。月に一度なら本当に「たま」だ。週に一度だとちょっと怪しい。私の場合は「中3日」ぐらいを「たま」だと考えている。毎日食べなければ大丈夫なのに中3日も間隔が開けばたぶん問題は無いはずだ。たぶん。

 

牡蠣も冬の味覚だ。疲れ気味の時や無理してオネエサンがたとの“試合”が立て込んだりすると無性に牡蠣が食べたくなる。鰻より牡蠣のほうが元気回復に効き目があるように思う。実際のところは不明だ。

 

牡蠣グラタンや牡蠣パスタなど外食で牡蠣料理を頼むとちょこっとしか牡蠣が入っていないことが多い。あのシミったれた感じがイヤで牡蠣は主に自宅で摂取している。

 




レトルトをベースに適当にアレンジしたパスタソースを作って茹でたてパスタを和えるだけで贅沢牡蠣パスタが簡単に完成する。パスタ麺100グラムに牡蠣を10個以上入れるのが私の定番だ。

 

ついでにエリンギやアサリなどを加えると多品目摂取という健康課題もこなしたつもりになって気分が良い。エビやタコを加えるのもアリだ。

 

何でもかんでも具材として入れていると一食のパスタの材料費が34千円になることもある。富豪級である。富豪というかバカというのが正しいのかもしれない。


よく分からない結論になってしまった…。





2022年12月14日水曜日

エンガワの握り


エンガワ。寿司ネタの中でも私の大好物である。読んで字のごとく「縁側」である。ヒラメなどが泳ぐ際にヒラヒラ動かしている外側の部位だ。



 

鶏の首肉であるセセリがウマいのと同じく、ヘコヘコ動いている部分は運動量のせいなのか妙に美味しい。

 

お寿司屋さんでエンガワを頼む場合、「エンガワちょうだい」ではなく「エンガワある?」が正しい。端っこの部分だから大量にあるわけがない。だからこそありつけたときに嬉しい。

 

この方程式が通用しないのが回転寿司屋である。常にエンガワが大量にある。いまや若い世代を中心に回転寿司で出てくるエンガワが“正統なエンガワ”になっている。

 

私もあの謎のエンガワは好きだ。子供達と回転寿司に出かけたらコーンマヨとエンガワばかり食べる。ジャンクな味が楽しい。正確には“エンガワモドキ”だが、そんなウンチクを語っても仕方ない。

 


 

詳しくは知らないが深海魚みたいなブヨっとした魚の身がヒラメなどのエンガワの味に似ていたことで一気にブレーク?して今に至る。全身があの味だから大量に常備されるわけだ。だから端っこの部分というわけでもないのに名前だけ端っこを連想させる。

 

ちょっと脂っぽくて旨味に富んだエンガワモドキは炙ってもそれなりに美味しい。“イマドキ寿司”を象徴するようなネタだろう。

 

トロだって江戸時代には捨てられていたし、ウニだって戦後になってから寿司ネタになったそうだから、エンガワモドキもいずれ本家を押しのけて寿司ネタの基本形になるかもしれない。

 

サーモンと同じくいずれ昔ながらの寿司屋のネタに採用されることを虎視眈々と狙っているような気がする。ここまで普及するとウンチクや良し悪しを通り越して需要と供給の関係で存在感が高まり続けるのだろう。

 

その昔、寿司屋でいっぱしの雰囲気を漂わせる客になりたいと一念発起して長年にわたり“客としての修行”に明け暮れた私である。エンガワモドキのこともサーモンのことも「あんなもん寿司ネタじゃないわい」と毛嫌いした時期もあった。

 

客修行も3周ぐらいこなした感じだから今では小うるさいことは気にしなくなった。カジュアルな寿司屋ではサーモンマヨも喜んで食べる。回転ならエンガワざんまいである。

 

「タラバは本来ヤドカリの仲間だからカニじゃないぜ、足の数だって違うよ」。そんなことを通ぶって語ったところで結局は嬉々としてタラバの脚をむさぼるのと同じである。

 

美味しいと感じればモドキだって大いに歓迎すべき。これが結局は真理なんだと思う。邪道だ何だと言い始めたらコンビニのおにぎりコーナーに並ぶ大半の商品がヘンテコな食べ物という扱いになってしまう。

 

ドライカレーおにぎり、オムライスおにぎり等々、おにぎりという概念を吹き飛ばすようなオンパレードである。恐る恐る、かつ、こっそり食べてみると案外ウマくてニンマリしてしまう。王道か邪道か考えてみたところで仕方ない。ウマいものは人を幸せにする。それだけである。

 

 本家のエンガワだってシメたてだと旨味が足りないから時には残念な感じの状態もある。天然モノの鰻が必ずしもウマくないのと同じで、食べ物だから味の良さに100%完璧はない。

 


 

と、モドキのほうをやたらと擁護してしまったが、さすがに本家のエンガワのちゃんとした状態のヤツはすこぶる美味しい。私が好きな寿司ネタの上位には必ずエンガワが登場する。

 

ホシガレイ、マコガレイ、マツカワガレイなどお寿司屋さんによってこだわりもあるようだが、私程度だとどれも同じように美味しい。そこそこのお寿司屋さんが仕入れている以上どれも上質だからエンガワも当然にウマい。

 

ホントは3貫でも4貫でもエンガワの握りばかり食べたいのだが、さすがにそんな暴挙に出る勇気は私には無い。だから延々とそればかり食べられる回転寿司のエンガワに妙に惹かれるのかも知れない。

 

欲求不満になるかどうか。これまた味の感想を大きく左右するポイントなのだろう。

 

 

 

 

2022年12月11日日曜日

悪魔的にウマいもの

 

俳優の渡辺徹さんが61歳で亡くなった。「太陽にほえろ」の刑事役でデビューした頃はスラッとした2枚目だったが、その後は超巨漢になっていった。その後、体重管理に努力していたようだが結局は早くに亡くなってしまった。

 

私も30代の頃に体重がほぼ100キロまで到達したことがあるから、その後の彼のダイエットなどには注目していた。やはり若い頃の不摂生は後々も響くのだろう。

 

菜食主義みたいにストイックな食生活で長生きするか、暴飲暴食を楽しんで太く短く生きるか。一概にどちらが良いとは決められないが、さすがに61歳は早い。

 

渡辺徹さんには「赤ウインナー事件」というエピソードがあるそうだ。榊原郁恵さんと結婚してしばらく経った頃、いつも高級ウインナーが食卓に並ぶので「赤いウインナーがなぜ出てこないんだ」とヘソを曲げて家出したらしい。

 

ちょっと分かる気がする。昭和の男の子にとって赤いウインナーは郷愁を誘う存在だ。そりゃあシャウエッセンのほうが美味しいのは分かっているのだが、赤いウインナーは別次元の至高の一品である。

 


 

育ちの良かった?私の子供時代、実家で赤ウインナーが出てくることはなかった。ちゃんと茶色だった。だからこそ外で出会う赤いウインナーに魅了された。原材料が何だか分からないブキミさはさておきアレはアレのウマさがある。

 

ケチャップをつけた時の赤VS赤の美しさは抜群だし、ソースをかけた時の赤と黒のコラボも男心をくすぐる。今も私は大衆酒場で赤ウインナーがあれば何が何でも注文する。

 

「赤ウインナー」という固有名詞があること自体がその存在の特別感を象徴している。赤飯や銀シャリといったメデタイ感じにも通じる。わざわざ毒々しい人工的な色を冠に戴く大胆さが素敵だ。

 

今日はウインナーやソーセージ全般の話を書くつもりなのだが、赤ウインナーの話になるとつい熱くなってしまう。

 

ウインナーやソーセージ、はたまたフランクフルト等々、名前に定義はあるようだが、今日は全部ウインナーで統一する。

 

ウインナーと聞いただけで昭和の男の子はヨダレが出た。共食いみたいな下ネタ話ではない。ナポリタンもウインナーが入っているから子供にとってのヒーロー?だった。

 

私もナポリタンには思い入れがあった。邪魔で仕方なかった悪魔のようなピーマンをどかしてウインナーのカケラをを必死に探していた覚えがある。

 

お弁当のおかずの定番もウインナーだったし、家での食事でもウインナーを油で炒めてソースをかけて食べるのが大好物だった。

 

元を正せば、羊やら家畜の胃袋だかにミンチ肉や血を詰め込んだ食べ物である。そう考えると何やら恐ろしく気持ち悪いが、世間のウインナーのイメージにはそんなオドロオドロしい感じはない。印象操作?はつくづく大事だと思う。

 

先日、銀座のクラブ活動を前に新橋をうろついていた際、いつもは満席の名物的炉端焼き屋に空席があるのを見かけて迷わず突入した。「炉端 武蔵」である。こういう店があるから新橋は楽しい。

 


 

中高年なら誰もがこの店の佇まいを気に入るはずだ。特別ウマいものを出す印象はないが、そんなことは二の次だと言えるぐらいの風情だ。もちろんマズいわけではない。

 

この日はアサリバターやつくね、ニシン焼きなどを食べたのだが、やはり一番嬉しかったのはウインナーである。別に炭火で焼く必要はないのだが、炉端焼き屋で食べるウインナーは普通よりウマく感じる。

 

青空の下のバーベキューで食べるウインナーと似た感覚だろう。ケチャップまで添えられてホロ酔いの私はその姿を見ているだけで鬱々した気分などどこかに飛んでいく。

 


 

何がここまで私を夢中にさせるのだろうか。謎である。普通にちゃんとした肉を食べればいいのにウインナーのほうがナゼか嬉しい気分になる。秘密の中毒成分が入っているのかも知れない。

 

夏のビヤホールでウインナーの盛り合わせを食べるのも最高だが、冬の炉端焼き屋で突っつくのも最高だ。旬も無ければウンチクも不要。実にすがすがしい食べ物だと思う。

 

書いているだけでまた食べたくなってきた。いま私の頭の中に浮かんでいるのは、油でベトベトに炒めたウインナーをケチャップとマヨネーズとソースを全部ベタっと塗りたくって頬ばるイメージである。

 

それこそグルメという言葉の対極にある悪魔のような絶品料理だと思う。

 

 

 

 

 

 

2022年12月9日金曜日

美女とか美魔女とか

     


今日は更新が間に合わなかったので、美女や美魔女に関して学術的?に考察した過去記事を載せます。


それにしても何年も前からちっとも成長しない我が思考回路がなんとなく残念な今日この頃である。

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2015/08/blog-post_17.html


http://fugoh-kisya.blogspot.com/2017/06/blog-post_14.html





2022年12月7日水曜日

ふるさと納税 宝探し


12月、ふるさと納税に励まないといけない季節だ。近年、税金や社会負担は上がる一方だからせめてもの意趣返しにせっせとふるさと納税に励むことは大事だ。

 

それなりの所得を得ている人は、言うまでもなく金持ち冷遇政策の犠牲になっている。所得税にしても基本の税率などは変えないまま控除の縮減といった目立たない改悪によって増税攻撃にさらされている。

 

本来、必要経費的な意味合いで制度化されているホワイトカラー向けの給与所得控除は数年前に高所得者には上限が設けられ、その後、ドサクサみたいにさほど高所得ではない階層まで上限が適用されるようになった。

 

純然たる増税だ。収入によって経費が膨らむのはバカでも分かる話なのに今の税制では収入が850万円を超えたら控除額は一律になる。

 

年収850万だろうが年収5千万円だろうが、経費は同じというトンチンカンな理屈がまかり通っているわけだ。おまけに高所得者には所得税の基礎控除すら適用されなくなった。こすっからい制度改悪でボディブローのように増税攻撃をくらっている形だ。

 

稼ぐことが悪みたいな扱いになっている以上、税制上唯一ともいえる“金持ち優遇制度”であるふるさと納税は積極的に活用すべきだろう。

 

簡単に言えば、本来納めるべき税金の一部をヨソの自治体に寄付してお礼の品物をもらう仕組みだ。寄付した金額は本来地元に納める税金と相殺されるから返礼品の分がまるまる余得になる。


寄付できる上限金額は収入に応じて高くなる。ごく大ざっぱにいえば、年収2千万円なら60万円、3千万円なら100万円ぐらいが寄付の上限額になる。


今は各自治体からの返礼品は「寄付額の3割まで」という制約があるから、年収2千万円の人が60万円を寄付したらその3割の20万円弱の返礼品が手に入るわけだ。

 

というわけで、私も例年せっせと食べ物中心にいろんなものを全国から受け取っている。ウン十万円の寄付をして高価な返礼品をもらうのもアリだが、根がセコい私は1万、2万の寄付を無数の自治体に行い、ちまちまといろんなものをもらっている。





ちなみに、いにしえの武田久美子で有名になった「貝殻ビキニ」は私が使っている専用サイト「ふるさとチョイス」では扱いが無かったことは幸いだ。「さとふる」を使っている友人にシャレで手配してもらったことがあるのだが、その自治体の「貝殻ビキニが欲しくてわざわざ寄付したヤツの一覧」には彼の名前が保存されているわけだ。ウッシッシ。

 

さてさて、先日は珍しく高めの寄付をした。娘が欲しがっていた高級ヘアアイロンが名古屋市の返礼品リストにあったから8万円近くも寄付した。実質タダで手に入るわけだから高い安いの問題ではない。

 


 

私が受け取る返礼品はコメが一番多い。今は山形米の「雪若丸」一択だ。ここ数年コメは返礼品だけで賄っている。他にはイクラや筋子、ウニといった自分で買うにはちょっとためらいがち?な珍味をもらうことが多い。上の画像は北海道・増毛町からの塩ウニ。私のお気に入りだ。

 

豚肉好きだから全国からウマそうな豚肉をもらう。各地の人気店の焼豚も随分味見した。それに限らず黒豚トンカツや生姜焼きなどの出来合いの冷凍品を入手している。

 



 

最近では岐阜のどこかからもらった豚肉セットがなかなか良かった。焼豚、煮豚、豚めしの元がセットで、炊きたてご飯に混ぜるだけの豚めしがとくに私好みでリピートしている。

 

普通に買ったら1缶で1000円以上もするコンビーフもお気に入りだ。買うのはイヤだがもらえるなら率先して欲しい品物だ。コンビーフ感が変わるウマさ。そのままでも美味しいが、これで炒めご飯を作ったり、コンビーフたっぷりのソーメン炒めを作って楽しんでいる。

 



 鹿児島のどこかの食堂の大人気メニューだという鶏そぼろも私のお気に入りだ。冷凍で小分けされて送られてくるので使い勝手がいい。たかがそぼろと思っていたが、味わい深いその味付けにドンブリ飯を何回もお代わりしたくなる。

 



 こういう地域密着型の人気店が出している逸品を無数の返礼品の中から見つけるのは宝探しみたいで楽しい。沖縄からソーキ盛り合わせを取り寄せたり、青森の自然牧場から湯煎するだけで美味しい調理済み豚肉を取り寄せたりしている。

 

他にも鹿児島からウナギ、千葉からクジラベーコン、安曇野の野菜ジュース、佐賀から白いいちごなど例を挙げればキリがない。面倒がらずに返礼品選びを頑張ればちょっとした幸せが手に入る。

 

わが家に4つもあるハズキルーペもすべてふるさと納税の返礼品だ。まだ寄付額の3割という規制が無かった頃に手に入れたのでだいぶオトクだった。

 



つい先日、正月に新調しようと思ったバスタオルが届いた。商品を見るまで不安もあったが充分満足出来る品物だったのでこれまたリピートしそうである。

 

電動シェーバーをそろそろ買い換えたいので、これもふるさと納税の返礼品から選ぼうかと思案中だ。強いていえば確定申告の際に精算されるとはいえ、寄付金額は当然ながら先に支払わないとならない。

 

性根がセコい私はそれを気にして躊躇することもあるのだが、そんなセコさでは富豪を目指すことなどまるで無理である。もっと大胆に剛気に自分に許されている寄付枠を使い切れるようにならないとダメだ。

 

 

 

 

 

 

2022年12月5日月曜日

川の流れのように


アッという間に年末になった。オッタマゲである。年々、時間が経つスピードを早く感じるようになった。1年がアッという間ではなく2年、3年前のこともつい最近だったように感じる。

 

こんな感じで凄いペースで年老いて死んでいくのかと思うと毎日毎日を無駄にしてはいけないと殊勝な気分になる。でも結局は無為に日々を過ごしている。そんなもんだろう。

 

先日、夜遅くに疲れて帰宅したら娘に「顔にラメが付いてるわよ」とビミョーな指摘を受けてたじろいだ。娘はきっと幻を見たのだろう。今後は顔の表面にも気をつけないといけない。

 

まあ、老け込まないためには時にはラメにまみれる?ことも必要だ。生きている限りあらゆる行動にはすべて言い訳が付いて回るから何とかごまかしていこう。

 

さて、時間に対する感覚の話だ。時の経過を早く感じるようになったのは中年以降である。10年前にはこのブログで既にそれについて考察している。

 

川のほとりの歩き方

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2013/12/blog-post.html

 

月日の流れを川の流れに見立てた話だ。川の流れはいつも一定であり年月の流れも同じ。ただ、川のほとりを歩く人間は加齢とともに歩き方が遅くなり、昔のように歩いているつもりでも川の流れが速くなったように感じるわけだ。

 

置いてきぼりみたいな例えだ。何だかシャクにさわるが、考えてみればただ単に置き去りにされているわけではない。

 

若い頃は前だけを向いて黙々と歩いていたが、年齢とともに目に入る景色に足を止めたり佇んで沈思黙考したりすることが増える。その分、人生という歩みの中に深みも加わった。。。はずだ。

 

いわば視野の広さがもたらした現象かも知れない。若い頃とは比べられないほどいろんなものが見えるようになったから、川がどんどん流れていくことに意識が向きにくくなる。きっとそういうものだろう。

 

アンチエイジングという言葉を使いたがる人の気持ちも分かるが、私は若い頃に戻りたいとはまったく思わない。視野の狭かった自分を思い返すとゾッとする。若者時代に対しては「ご苦労さま」という感覚しかない。

 

もちろん、もろもろタフだった肉体面は取り戻せるなら取り戻したいが、総合的には今のほうが断然良い。疲れやすいし目はかすむし生き物としての劣化は着実に進んでいる。ちょっと激しい行動をとったらすぐにヨレヨレになっちゃうのは困ったものだ。それでも若い頃より今のほうが快適だ。

 


           



先日のバンドライブの翌日も全身がバテバテで難儀した。30代の頃に草野球で完投した時よりも疲労困憊だった。基本的に座って歌っていただけなのに情けないことである。

 

あちこちが筋肉痛になったのも切ない。飛んだり跳ねたり踊ったりしたわけでもない。きっと無駄に全身に力が入っていたのだろう。やはり意識して鍛え直さないと今後の暮らしにも影響しかねない。

 

30代の頃、かなり年上の知り合いにヒマさえあれば体を鍛えている人がいた。驚いたのがその理由だ。「セックスのため」。ただその一念だけで日頃から鍛えていると真顔で話していた。

 

若かった私には考えつかない発想だった。異常な好色家だと思って小馬鹿にした記憶がある。本気で頭がおかしいのではないかと思ったのだが、自分がその歳になってみると彼の気持ちがちょっと分かるようになった。

 

川の流れから話がだいぶ逸れてしまった。でも時の流れについて考えるとイヤでも自分の「今」を意識してしまう。まだまだ終了には早いが、それでも確実に人生後半戦の真っ只中だ。一日一日の充実を目指したくなること自体がその証である。

 

「あなたが無駄に過ごした今日という日は、昨日死んだ誰かが死ぬほど生きたかった明日」。そんな言葉をよく耳にする。まさにそうなのだろう。分かってはいるのだが、なかなか毎日を充実させることは難しい。

 

せめて毎日を楽しい気分で過ごすことを目指そうと思う。「11回は声を出して笑う」。自分の中でそんな目標を立てているのだが、来年からは「11回は爆笑する」に修正するつもりだ。

 

実現したら間違いなく幸せな1年になることは間違いない。

 

 

 

 

 

 

 

2022年12月2日金曜日

チャーシュー汁?


いまや国民食となったのがラーメンである。ラーメンが嫌いな人を見つけるのが難しいぐらいだ。昭和の頃は醤油、味噌、塩ぐらいで今のように百花繚乱状態ではなかった。つけ麺だって「つけ麺大王」だけが異質な雰囲気で存在していたような気がする。

 

当然のようにちょくちょく食べるが、私はひょっとするとラーメンがあまり好きではないのかもしれない。必ずチャーシュー麺やらパーコー麺といった具材が主役みたいなものを注文する。

 

単なるラーメンというメニューをお店で選択した記憶がない。具材無しでも食べるのはウチで時々作るサッポロ一番ぐらいである。

 

冷やし中華はナゼか具材無しで麺だけでも嬉々として食べるのだがラーメンとなると勝手が違う。我ながら不思議だ。

 

某日、友人が勧めてくれたチャーシュー麺を食べに東京駅のラーメンストリートを訪ねた。ラーメン屋さんの密集地帯だ。職場から徒歩圏だからラーメン好きなら頻繁に行けるのだが、確か過去に一度しか行っていない。

 


 

「ひらこ屋」という煮干しがウリのラーメン屋さんのチャーシュー麺である。なんとも見た目が美しい。チャーシューが物凄く好きな私は興奮してしまった。

 

とはいえ、チャーシューは確かに美味しいのだが、あまりに薄っぺらい。パっと見はチャーシューだらけで嬉しかったのに食べてみると薄すぎるから男心をくすぐらない。

 

肝心のラーメンも非常にサッパリしていて私には物足りなかった。ベトベトの気持ち悪いコッテリラーメンよりはマトモだがちょっと爽やかすぎる感じ。

 

トータルで満足出来なかった私はその足で別な店に突入してしまった。あと数年で還暦を迎えるオジサマがラーメン屋をハシゴするのは無謀なのか英雄的行為なのか。きっと後者だろう。

 

2軒目は「玉」という店だ。これまた煮干しラーメンの店だったが、私は煮干し系はどちらかといえば好きではない。でも店前メニューのチャーシューの画像に惹かれて「チャーシュー濃厚とろりそば」なる一品を選んだ。

 


 

チャーシューが薄くないのが良かった。チャーシュー麺の2連チャンという偉業?に自分の精神状態が心配になったが、頭の中がチャ-シューに占拠されていたから仕方ない。肉を中心にバクバク食べた。麺をちょっと残してしまったのが普通の人みたいで良かった。

 

結局、私はラーメンを食べたいわけではなくチャーシューのトッピングとして麺を楽しんでいるみたいだ。もっと言えば「口の中に麺だけがある状態」が好きではないみたいだ。

 

後日、自宅でチルド麺の味噌ラーメンを食べた時も口の中が麺だけにはならないスペシャル仕様にしてみた。画像では分かりにくいが巨大ドンブリに麺は2玉、スーパーで売っている刻みネギを全部投入、メンマ、ザーサイもドッサリ。そして炒めた豚肉である。

 

生姜焼きロースロース肉を200グラムである。塩コショウと適当なステーキソースで軽く味付けしてラーメンの上にドカンと鎮座させた。ボリューミースペシャルである。

 



豚肉をかじりながら麺もすする。ザーサイだらけの麺をすする。メンマまみれの麺をすする。ネギまみれにした麺をすする。これの繰り返しである。最後まで口の中が麺だけになることがなかったことが幸せだった。

 

ラーメンの美味しさを日夜追求している全国のラーメンファンに対して申し訳ないような気持ちになった。でも私にとってラーメンの麺はもはやメンマやザーサイと同じような位置付けに近いのかもしれない。

 

ふと想像してみた。美味しいラーメンスープにメンマとザーサイとその他に煮卵やネギだけ入っていて、そこにウマいチャーシューがテンコ盛りになっている一品があったとする。たぶん私は麺が無くても満足してしまうだろう。

 

チャーシュー麺ではなく「チャーシュー汁」。世の中を敵に回すようなそんなメニューが用意されている店があったら行ってみたい。ダイエットにも最適だろう。

 

ヘンテコな結論ですいません。