2021年8月30日月曜日

花を愛でる

 

ここ最近のこのブログを見返すと食べることぐらいしか書いていない。何とも情けない。もっと心が豊かになる話題もたまには書かないといけない。

 

とはいえ、思いつきで文化的、芸術的な話が湧いて出てくるはずもない。強いて言えば最近はガラにもなく道ばたに咲いている花に目が向くようになったことぐらいだろうか。

 

前にもここで書いたのだが、私のスマホに入っているGoogleレンズというアプリをマメに使っている。

 



目に付いた花にスマホを向けカメラ画像のようなアプリを作動させると瞬時にその花の名前と似ている花がいくつか表示される。

 

ついでに花の原産やら由来やらの解説も表示される。つかの間の文化的?気分を味わえる。

 

その昔、私の母親がアートフラワーの先生をしていたこともあって、子供の頃は随分と花に接する機会はあった。

 

にもかかわらず私は花にまったく興味が湧かず、アートフラワーの材料で蝶や虫を作ってもらって喜んでいた。

 

まさに情緒ゼロ。単なる食い意地のはった子供だったのだろう。あの頃、花に詳しくなっていたら、今頃はちょっとシャレたオジサマになっていたはずだ。

 

大人になってから和花に興味を持ってわざわざ図鑑を買ったこともある。「ホタルブクロ」の得も言われぬ情緒に惹かれたのがきっかけだ。

 

結局、凝り性という私の性質は花に関しては発揮されず、ロクに花の名前を覚えることもなく年月は過ぎた。向いていなかったのだろう。

 

それでも、水中写真にハマっていた頃にはリゾートのプールにプルメリアやハイビスカスを浮かべて清涼感のある写真を撮影するのが好きだった。

 




もう10年ぐらい前の撮影だがなかなか良い写真である。自画自賛だ。

 

そういえば、コロナで休止状態の我がオジサマバンド活動で披露した自作の詩の名曲「スパイダーリリー」も花の名前をタイトルにした。

 

東南アジアでちょくちょく目にしていた怪しげな花の姿が印象的だったので、ちょっと官能的な路線の歌詞に仕上げてみた。

 

ちなみにスパイダーリリーの画像はこんな感じ。

 


 

中年になってからは梅の花に魅せられて毎年のように近場の梅林見学に出かけているが、それぐらいしか花と接する機会は無かった。

 

都会暮らしをしていると、なかなか花を愛でる機会は少ない。地方の高原なんかを旅すると気になる花はいっぱいあるのだが、名前どころか種類すら分からないのが残念だ。


ある時、北海道を旅した際にやたらと目に付く花の名前が気になって、これまたスマホアプリで調べたらあの有名なハマナスだと知ったことがある。


名曲「知床旅情」をしょっちゅう口ずさんでいたのに肝心のハマナスの姿を知らなかったことが凄く残念な気がした。

 

いっぱしのオジサマだからそれなりに花の名前に通じていたほうが良いのは間違いない。スマホアプリのおかげで普段の散歩で花の名前を知ることが出来るのは便利だ。

 



 

いまわが家の近くの墨田川テラスでは咲き乱れるキバナコスモスやサルビアが私の目を楽しませてくれる。

 

とかなんとか分かったような書きぶりだが、その名前だってGoogleレンズの機能のおかげで知ったわけだ。

 

夏の散歩は暑くてシンドイものだが、道端の花の名前を調べて小休止するのもオツだ。これを田舎暮らしで繰り返せばかなり花に詳しくなれるはずだが、さすがにそればかりは難しい。






 

 

 

2021年8月27日金曜日

エンゲルって誰だ?

 

なにげなく使っている言葉の一つが「エンゲル係数」である。エンゲルって何だろう。おそらく人の名前だと思っていたが、調べてみたらドイツの学者さんだそうだ。

 

エンゲルさんのおかげで私のバカみたいな食生活を反省する日々である。いつの間にかウーバーイーツがライフラインかのようになってしまった。




Eatsパスという仕組みを使って毎月そこそけオトクになっているみたいだが、これだけトクするためには一体どれだけウーバーを使っているのか逆に怖くなる。

 

もはやウーバーは私にとって光熱費の一つである。中央区在住だからお店は選び放題である。ファストフードはほぼすべて網羅されているし、銀座・日本橋あたりの有名店からもデリバリー可能だ。

 

コロナ禍もあって、重役出勤みたいなパターンが増えたから、朝からウーバー、夜もウーバー、買い忘れた日用品もウーバーがコンビニから運んできてくれる。

 


 

先日は、朝から甘いモノが欲しくなってドーナッツを運んでもらった。一人暮らしなのに6個パックを頼んでしまう点がダメである。

 

相変わらず雑な食べ方だ。とりあえずすべて味見はしてみた。フードロス極まるって感じだ。反省。

 

吉野家、松屋、すき家、なか卯、スタバ、マック、モス、ロッテリア、ロイホ、デニーズあたりの有名どころもちょくちょく頼む。面白みはないが外さないのが良い。

 

バーガーキングがわが家のエリアをカバーしていないのがちょっと残念だ。

 

その他、中華やトンカツ、イタリアン、ウナギに豚丼専門店などそれぞれの分野でいくつもの店が選べるから、横着に生きていくには実に便利な時代になったものである。

 

昭和の頃の出前といえば、選択肢の少なかったお寿司屋さんの握りを始め、近所の蕎麦屋からのノビちゃった麺類や丼モノ、街中華の料理か、せいぜいピザ屋ぐらいだった。

 

美味しさを求めるというより、一種の手抜きか、お客さんへのもてなしが出前の基本だった。

 


 

いまや小洒落た料理だって普通にデリバリーされる。画像はウーバーで頼んだスペイン料理。イカスミパエリアやアヒージョといった料理が簡単にデリバリーされちゃうわけだから時代は変わった。

 

また、それぞれが普通に美味しいから有難い。出前専門の怪しい店ではなく、実店舗を構える真っ当な店から来るわけだから当然といえば当然ではある。

 

こちらは近所で繁盛している肉料理店からのデリバリー。オードブル盛り合わせに鴨肉、牛赤身肉である。

 



こんな料理が2030分で玄関先に届くわけだから、こちらはハイボールやらシュワシュワドリンクを用意すれば簡単にいっぱしの肉バルディナーと洒落込める。

 

もともと私はストック癖があるから自宅には食材を始めレトルト食品や冷凍モノが大量にある。それなのにウーバーを使いまくっているからエンゲル係数は爆上がり状態になってしまう。

 

自分でこれを書きながら改めて自分の愚かさを痛感した。やはりモノを書くことは意外に大事だ。さすがに少しは控えようと今は決意している。

 



 チマタで人気の「俺の~」シリーズのお店もウーバーを見ているといろいろ出てくる。この画像は「俺のグラタン」というお店からのデリバリー。

 

チキンとポルチーニのドリアとツナとコーンのグラタンを中心に注文した。そんな料理名を書いているだけでまた食べたくなる。

 

トリュフ風味のマッシュポテトも妙にウマかったし、ガーリックチーズトーストがまさに背徳の味だった。ガーリックトーストに甘味のあるコッテリチーズが塗ってある。

 

思い出したらまた注文したくなった。きっと今晩も頼んでしまいそうだ。ちっとも反省出来ていない・・・。

 

 

 

 

2021年8月25日水曜日

真面目な話を書いてみた


今日はちょっと真面目な話です。すいません(笑)。

 

最近、寝る前の読書タイムでは、歴史探偵の異名でも知られた半藤一利さんの本をよく読む。歴史モノを読むとついついそこから学ぶ教訓みたいなことが頭に浮かぶ。

 

とくに近現代史の研究で知られた半藤さんが、著書や講演で何度も指摘していたのが戦時中の日本政府にまん延していた楽観論だ。

 

「起こって欲しくないことは起きない」という考え方が事態を悪化させたというもの。あの当時の政府だけでなく、日本人の一種の特徴のようなものだとの指摘だ。

 

確かに私自身の考え方を思い返してみても、つい最悪の想定は避けてしまう傾向はある。根拠なき「そんなこと起きるはずがない」という考えは時にヤバい事態から目を逸らす逃げにつながる。

 

かつての戦時中、国民の命を守る役割を担う政府の意識がそんな次元にあったかと思うと実に切ない。

 

楽観論に基づく国の暴走が310万人というとんでもない数の犠牲者につながった。結果論ではあるが、現実的な判断が賢明になされれば原爆の悲劇だって避けられたわけだ。

 

そんなことをツラツラ考えながら、新型コロナへの国の対応が常に後手後手に回る現状は過去の失態から何も学んでいないように映る。

 

医療体制の逼迫は1年以上前から指摘され続けてきた話だ。「そのうち収まる」「なんとかなる」「ワクチンが出来れば終わる」みたいな最悪の事態を想定しない素人感覚の成れの果てが今の状況だろう。

 

医療体制に関する根本的な手立てを講じることもないまま漫然と時間だけが過ぎ、あげくの果てに繰り出された対策は自宅療養の強制という何とも呆れたお粗末な話。

 

国民皆保険制度の放棄ともいえる愚策である。これってトンデモナイ失態ではなかろうか。

 

政策理念として、公助や共助ではなく真っ先に「自助」を掲げる菅首相だ。エボラ出血熱と同列だと国が定義する指定感染症にかかっても自己責任で対処しろという考えなのだろう。

 

つくづくデモや税金不払い運動につながらないのが不思議なぐらいだ。

 


話は変わる。

 

後手後手、場当たり的、無能など政府の新型コロナ対策への批判は増すばかりだが、その延長線上で、いわゆるロックダウン待望論が強まっている。

 

強制的な私権制限について専門家や知事会、一部野党までが声高に要求している。一種のトレンド?みたいになっている。

 

政府はロックダウン法制の制定には否定的だ。その裏にある思惑はさておき、慎重になるのは真っ当なことだ。そんな議論より抜本的な医療体制の整備を検討するほうが建設的だ。

 

ロックダウンを断行した国はいくつもあるが、実際にコロナの封じ込めに成功した例はないのが現実。

 

たび重なる緊急事態宣言に“慣れ”と“飽き”が広まったいま、おまけにワクチン接種も進んでいる中で、あえて強力な私権制限を安易に立法化する必要はない。

 

ロックダウン支持派の議論では、個人の外出制限などへの罰則ばかりが焦点で、最重要課題であるはずの補償についてはカヤの外だ。

 

補償なき私権制限という考え方はかつての“大本営時代”の悪夢を思い起こさせる。ドサクサ紛れに政府に強権を与えることは危険だろう。

 

莫大な補償や責任問題を避けたいというのがロックダウンに否定的な政府の本音だろうが、闇雲な権力強化を防げるなら政府の思惑はどうあれ今のまま消極姿勢を貫いて欲しいものだ。

 

強力な私権制限という切り札を与えていいと思うほど国民は今の政府を信用しているかどうか。。。その一点を考えれば話は簡単だ。安易な私権制限を国民のほうから求めるのはトンチンカンだと思う。




2021年8月23日月曜日

ホットドッグ


前回のパンの話のついでに頭に浮かんだのがホットドッグである。ハンバーガーの陰に隠れてちょっと地味な存在だ。

 


 

ウィキペディアによるとアメリカ人は一人あたり平均で年間60回食べるそうだ。考えてみるとなかなかのものだ。

 

平均で1ヶ月に5回である。毎週1回は食べる計算だ。平均だからホットドッグ好きな人は余裕で月に10回ぐらいは食べるのだろう。

 

私もホットドッグは好きだ。でも年間に数回しか食べない。ハンバーガーのような専門店が少ないこともあるが、普段の暮らしでホットドッグが無性に食べたくなる機会がない。

 

近所に専門店でもあれば頻繁に食べるのだろうが、なかなか目にすることがない。ハンバーガーショップのメニューの片隅に載っていることもあるが、頭の中がハンバーガーで占められていたら注文することはない。

 

“ハンバーガーを押しのけてまでは食べない”。これが平均的日本人のホットドッグに対するスタンスだろう。

 



 一説によると熱々のソーセージを手で持てなかったからパンに挟んだのがルーツだという。150年ぐらい前、ドイツからの移民が茹でたてソーセージを売っていた際のことらしい。

 

なんだかそんな話を聞くとホットドックにもロマンを感じる。


名前の由来はソーセージがダックスフンドの形に似ていたからだとか、ソーセージに犬肉が使われているのではと疑われたからとか諸説あるらしい。


犬肉説にはビックリだが、こればかりは昔から“ミンチ肉イコール怪しい”という風潮があるから仕方ないのだろう。


そういえば私が子供の頃、某ハンバーガーチェーンの肉は猫の肉が使われているという都市伝説が広まっていた。決まって「バイトしている知り合いが見ちゃったらしい」というパターンで始まる話だった。ゴミ捨て場にネコの頭だけの死体がゴロゴロあったという凄い話である。


各店舗でいちいちミンチ肉から作っているはずはないのだが、信じちゃう少年達も結構いた。のどかな時代の牧歌的な話である。


話がそれた。

 

私のちょっとした憧れがアメリカの野球場でホットドックを食べることだ。これまで結構な数の国々を旅して結構好きなことをしてきたが、本場・メジャーリーグを生で観戦したことがないのが残念無念である。

 

若い頃は何度もアメリカに行ったが、中年になってからヨーロッパばかり行きたがるようになったせいだ。

 

何となくアメリカを敬遠しちゃうようになったから、今後もチャンスは無さそうだ。でも、もし「死ぬまでにやりたい10の事」を実践するとしたら「ボールパークでホットドッグ」は5番目ぐらいには入ると思う。

 

ロスやボストンの球場の名物ホットドッグも捨てがたいが、時々NHKのメジャーリーグ中継で見かけるアホみたいなサイズの一品にもかじりついてみたい。

 


 

考えてみればケチャップとマスタードの味しかしないのが基本的なホットドッグである。真っ当なヤツなら刻まれたピクルスやオニオンがアクセントになって独特の風味を醸し出す。

 

シャウエッセンみたいなウマいソーセージではなく、ちっとも味に深みのないソーセージのほうが全体の味のバランスが良くなる気がするから不思議だ。

 

作るのは簡単そうだが、家でわざわざ作ろうと思わないのもホットドッグの宿命だ。買い食い専門路線を徹底しているところがヤツの真骨頂と言えよう。

 

だったらもっと街中にホットドッグ屋さんがあっても良さそうだが、これまで生きてきた中で近所に専門店があったことはない。

 

ネットで調べたら意外にホットドッグ専門店は存在する。とはいえ、牛丼屋に対する豚丼専門店の割合のようにさほど多くはない。なんだか残念だ。

 

アマノジャク精神を旨とする私としては、ハンバーガーの陰に隠れた存在であるホットドッグをとことん追究してホットドッグ評論家を目指すのも悪くないかもしれない。



2021年8月20日金曜日

朝からウーバー


私のダメダメな点はいろいろあるが、その一つが「朝からウーバーイーツ」である。朝っぱらから出前でメシを食うという行為が何となく人としてダメな気がする。

 

朝は白米。これを大原則としてウン十年生きてきたが、最近は以前よりコーヒーを飲みたくなるせいでパン食もこなすようようになった。

 

歳をとるといろんな分野でこだわりが薄くなるが、「朝からパン」も私にとってはちょっと革命的なことだ。

 

コーヒーといっても本格的なブラックなどはちっとも美味しいと思わないので、少し甘味のある軟派な路線?が好きだ。

 

スタバだったらスターバックスラテの低脂肪乳バージョンにエスプレッソショットとキャラメルシロップを追加するようなパターンである。

 

ウーバーイーツでスタバを利用する際のお決まりである。スタバ以外のコーヒーチェーン店だったら黒糖ラテみたいな商品を好んで頼む。

 


 

コーヒーとご飯は合わないから、必然的にパン食になる。私にとっての定番がスタバの「あらびきソーセージ&スクランブルエッグ イングリッシュマフィン」である。

 

マフィンとやらを知ったのはその昔、マクドナルドが朝メニューに加えたことがきっかけだ。

 

マックのソーセージマフィンは好みではないのだが、スタバのこれは素直にウマい。何が違うかよく分からないが、タレというかソースの差だと思う。

 


 

マフィンに加えてドーナッツなんかも頼んでしまうのがデブのデブたる証である。冷静に味わえばたいしてウマくもないのだが、不思議とコーヒーと一緒に味わうと得も知れぬ幸福感がある。

 

「朝からウーバー・パン食バージョン」の第二弾がカフェ・ベローチェである。実店舗に入ったことはないのだが、デリバリーではしょっちゅうお世話になっている。

 

漠然と「チェーン店のコーヒー屋の食べ物なんて・・・」とついつい見下しがちだったのだが、デリバリーをきっかけに意外に美味しいメニューが揃っていることを知った。

 


 

ベローチェの「カイザーサンドツナメルト」である。冷たいサンドイッチに比べれば断然美味しい。もっちりしたパン、ツナがチーズと渾然一体となって腹が減った朝飯には最適だ。

 


 

トーストサンドもチーズがとろっとしていて美味しい。コンビニのサンドイッチも美味しいと思うが、やはり温かいものには適わないと思う。

 

ベローチェでは各店舗で手作りするサンドイッチもウリみたいだが、私が決まって注文しちゃうのがピーナッツサンドである。

 

なんの特徴も無いピーナッツバターが入ったサンドイッチなのだが、一切れサイズで売っているのが嬉しい。ついでに一切れ、デザート代わりに一切れぐらいがちょうどいい。

 



 昭和の子供にとって大いなる憧れだったピーナッツバターである。なぜか今ではあまり見かけない。ランチパックシリーズぐらいだろうか。

 

やたらと種類が豊富なコンビニのサンドイッチにもピーナッツサンドは無い。フルーツサンドばかりがハヤっているが、ピーナッツバターの復権に期待したいものである。

 

ベローチェのピーナッツサンドは素朴な味である。説明しようがないアノ単なるピーナツバター味である。でもウマい。ホッコリする味だ。

 

コンビニのサンドイッチも時々ドカ食いしたくなる。ツナサンドの怪しげなマヨマヨした味付け、タマゴサンドのフラチなマーガリンぶりぶり感に惹かれる。

 

なんとも身体に悪そうである。でもその背徳感が美味しさを引き立てる。「たまにしか食わないんだから平気平気!」。いつもそんな言い訳を心の中で叫ぶ。

 

わりとしょっちゅう食べているのに「たまにしか食わない」などと自分にウソをついてまで禁断の味に手を出してしまう。

 

ついでにいえば、結構な量のパンを残して一応健康に気をつけているようなつもりになっている。

 


 

食品ロスという観点からも罪深いことだが、人目のない一人暮らしで気ままに暮らしているせいで、ダメダメな部分がどんどん加速している気がする。




2021年8月18日水曜日

夏の寿司


夏の暑い時期、お寿司屋さんで一献傾けるのが好きだ。とか言いながら、冬も春も秋もお寿司屋さんのカウンターでシッポリ過ごすのは楽しい。

 


 

結局、一年中、お寿司屋さんに世話になっている。

 

先日、ネットの番組で某著名人が寿司を語る場面を見た。「回転寿司が一番好き。ちゃんとした寿司屋だと好きなモノを食べられないから」とのこと。

 

いつのまにか、おまかせ一辺倒の寿司屋が増えたヘンテコな風潮を象徴する話だ。店の都合を押しつけるお寿司屋さんが幅をきかすようになったのはいつからだろう。

 

やはり寿司は好きなモノを好きなペースで好きなだけ食べるのが基本だ。カウンターに陣取るのもそのため。

 

まあ、そんなことばかり語るのも偏屈オヤジみたいだから適当にしておく。

 

夏のお寿司屋さんでホロ酔いになる際に格好のツマミがウニだと思う。夏はウマいウニが多いというだけでなく、冷酒との相性が単純に良い。

 



 握りで食べるのももちろん美味しいが、ウニ単独で口に入れたときの幸福感はまた格別だ。

 

私の中の「冷酒に合うツマミコンテスト」では過去30年ほど1位の座にあるのがウナギの白焼きだが、それに次いで上位にいるのが夏のウニだ。

 


 

シャリと一緒に食べてもまた違った美味しさがある。醤油、塩それぞれで味わいが変わるところもウニの奥深さだ。

 

普通に握ってもらうだけでなく、時々はウニ巻きを注文する。

 

海苔無しで握ってもらうウニの握りも絶品だが、ウニ巻きにするとどことなくウニが控えめな感じになってそれはそれで悪くない。シャリの美味しいお寿司屋さんなら尚更オススメだ。

 

夏の寿司で外せないのがコハダだ。初夏のシンコは赤ちゃんのホッペタを思わせるはかなげな食感が堪らないが、この季節は親であるコハダが美味しくなる季節でもある。

 



 

このブログで13年ほど前にコハダにまつわるウンチクを書いたことがある。当時、時々通っていたお店で仕入れてきた話だ。

 

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2008/08/blog-post_12.html

 

感じの悪い書き方になってしまうが、やはりコハダは大型大衆店ではなく、職人気質の親方が切り盛りするちゃんとしたお寿司屋さんで食べるに限る。

 

大衆店では海鮮サラダ巻きやサーモンマヨナンチャラなどジャンク系の寿司を食べていれば間違いない。TPOというか、そのあたりの使い分けは大事だ。

 

繊細な仕事が必要なネタであるコハダはもちろん、煮蛤、赤身の漬け、海老、穴子といった古典的なラインナップはそれなりの店で食べるべきものだ。

 





 20代の終わり頃、寿司屋のカウンターでオドオドしない大人になりたいと一念発起して、その後20年ぐらいは随分とアチコチのお寿司屋さんのノレンをくぐった。

 

いわば客としての修行!?を重ねてきた。今では開拓精神は薄れてしまったが、気付けば一応自分なりのスタイルは確立した感覚がある。

 

それが正しいかどうかは分からない。中途半端な知識のせいで変に凝り固まっているだけかもしれない。

 

オドオドすることはさすがに無くなったが、そのせいで逆に未知のものへの探究心や好奇心が無くなっているとしたらバカみたいな話ではある。

 

また初心に返ってお寿司屋さん探検に繰り出したい気持ちはあるが、コロナ禍の今はそれも難しい。

 

先日、ひょんな事から某焼鳥屋でその昔何度か通ったお寿司屋さんの大将と偶然遭遇した。また行ってみたいと思ったのだが、コロナのせいで今は予約制だとか。ふらっと一人で行くにはなかなか難しい状況だ。

 

結局、いつもの店でいつもと同じようなモノばかり食べてしまう日々である。ちょっと刺激が足りない。

 

こうやって歳ばかりとって気付けば狭い世界で生きていくお爺さんになるような気がする。ちょっと切ない。




2021年8月16日月曜日

親バカの話

 このところ頻繁に子供たちに会っている。これって幸せなことだ。ダウン症の息子はともかく、二十歳になった娘も私に対しては反抗期もなく育ってくれた。


かなりの甘甘父ちゃんとして過ごしてきた成果?なのか、たまたま運が良かったのかはよく分からない。私が憧れた昭和の父親像のような威厳みたいな雰囲気はカケラも作り出すことができなかったが、いまさらそんな路線は似合わないし結果オーライである。


先日、夏恒例の”元家族旅行”に行ってきた。箱根・仙石原にある東急ハーベスト系の「翡翠」に2泊の小旅行だが、ちゃんとした父みたいな顔で過ごしてきた。




ダウン症の息子はもう14歳になるが、まだまだ無垢なままである。私より濃いスネ毛を誇示する癖に幼子のような面があって親をほっこりさせてくれる。いまだにシャボン玉ですら真剣に堪能するあたりが何とも面白い。


私自身、純粋さをいつまでも忘れないようにしたいなどと考えているが、ヤツの純粋さには逆立ちしても敵わない。発達の遅さを嘆くこともあるが、それよりも純粋さに時にハッとさせられることが増えた。しょっちゅう何かを教えられたような気分になる。


箱根も東京と変わらない暑さだろうと思っていたが、仙石原あたりはかなり涼しく、夕暮れに息子とハードな散歩に出かけた際も案外気持ちよく歩き回れた。蝉時雨の中をあてもなく散歩できたからよいリフレッシュになった。




部屋付きの露天風呂をぬるめの温度にして息子と一緒に遊んだ。風呂で遊ぶおもちゃまで買い込んで出かけたのは正解だった。水鉄砲で風車を回したり実にベタな遊びに精を出してみた。意外に楽しかったのでこっそりウチでも一人でやろうかと考えている。


別な日、娘がわが家に遊びに来た際に夕飯を作ってくれた。子供に食事を作ってもらったのは人生初である。ちゃっちゃと作ってくれたのは「そぼろ丼」だ。





大げさに手の込んだ料理をいくつも作ってもらうよりも、一人暮らしを始めた娘がしっかり自立し始めていることを感じられるような日常食だったので、こちらも構えることなく普通のノリで普通の顔をしてウマいウマいと食べた。でも心の中は嬉しさで涙チョチョギレ様態だった。


私の感覚では割と最近?まで私に肩車をされて喜んでいた娘である。手慣れた感じでささっと食事を作ってくれたわけだからそれだけで感激である。親バカ丸出しだが、親バカになれること自体が私には幸せだ。


なんだか単なる親バカ話になってしまった。いろいろと心情を書き連ねたらキリがないほど書いてしまいそうだから適当にしておく。


気が狂いそうに暑い日ばかりで、おまけにコロナは一向に収束する気配がない何ともやりきれない日常が続いている。嘆き節しか出てこないような日々だが、個人的には子供たちのおかげで救われている。




2021年8月13日金曜日

アーカイブ

 ちょっと旅行に行ったりしていたら更新が追い付かなかったので、今日もアーカイブを二つ載せます。来週からまた通常に戻ります。


卑怯か否か

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2012/08/blog-post_15.html?m=1


咳をしても一人

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2014/09/blog-post_29.html?m=1


2021年8月11日水曜日

海の話

 都合により更新が間に合わなかったので海に関する過去ネタを二つアップします。


リタイア状態の潜水道楽だが、このまま完全引退となってしまうのもシャクだから、コロナがいつの日か収まれば何とかあと数回ぐらいはトライしようと思っている。


魚とSM女王

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2013/05/blog-post_20.html?m=1





2021年8月6日金曜日

冷たい麺


昔は夏が好きだったのに歳を重ねるとただただキツい。実際に昔の暑さとは質が変わってきたから、これから先、毎年毎年お年寄りが暑さのせいで死んじゃうケースは増えそうだ。気をつけなければ。

 

さて、暑さが本格化すると冷たい麺を頻繁に食べたくなる。冷やし中華狂いの話をさんざん書いてきたが、そうめんなども格別に美味しく感じる季節である。




 昨年知ったノンオイルそうめんを今年も何とかの一つ覚えのように食べている。そうめんは結構カロリーが高いのだが、その理由は油が使われているからだ。

 

だったらノンオイルを選べばゲソゲソに痩せるはずだと思って食べ始めたのだが、単純に美味しいからすっかりファンになった。

 

結局食べ過ぎるからちっとも痩せないが、普通のそうめんよりは健康的だと信じて食べ続けている。

 

ネットの世界をふらつきながら画期的なそうめんや冷やし中華を探すことが多いのだが、その際に見かけた黒ごまそうめんが最近のお気に入りだ。

 

意外にごまそうめんは世の中で人気を集めているらしく、いろんな業者が競うように発売している。

 

とりあえず、ちょっと高級路線のものを選べば間違いはないだろうと思って選んだのをきっかけに好きになったのが、長崎県の「手のべ陣川」というメーカーの黒ゴマ麺だ。

 


 

そうめんではなく、ひやむぎほどの太さで黒ゴマがしっかり練り込まれている。ザラっとした感じがするのかと思ったのだが、ツルンとした食感でほのかに黒ゴマ風味を感じる。

 

ひやむぎやそうめんも大好きだが、時にあっさりし過ぎているせいで「メシを食ったぜ」という気分にならない。「食べた」というより「すすって飲み込んだ」という印象だ。

 

その点、黒ゴマ麺はゴマ風味というアクセントのおかげで“味わった感”が増すから満足感がワンランク上回るような気がする。

 



あくまで個人的な印象だが、黒ゴマというひと味が追加されただけで、何となくゴージャス?に変わる。不思議だ。

 

そういえば、「ゴージャス松野」は今も元気で頑張っているのだろうか。ホストになったりレスラーになったり歌手になったり奮戦していたが、最近はあまりその名を耳にしない。

 



話がそれた。

 

先月、冷やし中華研究における結論めいた話を書いたが、相変わらずちょっと変わった商品を見つけると取り寄せてしまう。

 

最近トライしてみたのが、飛騨高山の老田屋という麺屋さんの「梅味冷やし中華」である。

 

ゴマダレは別として冷やし中華のあの酸味のあるタレは柑橘系が定番だ。レモン、かぼす、スダチ、はたまたシークワーサーを使用したものまで食べてきたが、梅味は初体験だ。

 



製麺屋として100年以上の歴史があるメーカーだけに麺の完成度はなかなかのもの。標準ダレと梅味と両方食べてみたが、個人的には標準味に軍配だった。

 

梅味も悪くないのだが、やや梅風味が目立ち過ぎる印象があった。私の場合、おかずを別皿に用意して冷やし中華は具を乗せずに食べるから尚更そう感じたのだろう。

 

トッピング次第ではかなり画期的な冷やし中華になるかもしれない。

 

今日はそうめんの話を書こうと思ったのだが、結局冷やし中華の話になってしまった。




2021年8月4日水曜日

永井荷風にたどり着く


不良老人という言葉をよく聞く。嫌いな言葉ではない。目指せるものなら目指してみたい。

 

世間がイメージするお爺さん像から逸脱して破天荒に生きるお年寄りは率直にカッチョいい。「死ぬまで現役」を実践するような生き様に憧れる。

 


 

不良老人の元祖といえば永井荷風だろう。文化勲章までもらった文豪だが、知れば知るほど“文化勲章っぽくない”人である。ちょっと調べてみたら、受賞当時、結構な批判や嘲笑が文壇を中心に広まったらしい。

 

反社会的な作品ばかり書いてきた上に、国への批判的論説も多かったから、当然、辞退を予想していた面々はかなり驚いたらしい。

 

辞退しなかった理由は文化功労者年金が魅力だったからだとか。その俗っぽさが実に素敵である。社会派みたいなゴタクを並べずにウハウハ喜んじゃうあたりが突き抜けている。

 

https://books.bunshun.jp/articles/-/3256

 

ストリッパー達に囲まれて文化勲章をお祝いされる画像が今もネットで簡単に見つかるほど、最後まで“お盛ん”だった人だ。ある意味、辞退しないこと自体がシニカルな態度だったのかもしれない。

 

というわけで、徐々に老人に近づく私が最近やたらと興味をそそられるのが不良老人・永井荷風大先生である。

 




ハマりやすい性格だから平行していくつもの本を読んでいる。いつもは古い文体や文章は読むのが億劫で敬遠しがちなのだが、荷風大先生の作品は楽しく読んでいる。

 

30年前の映画「墨東奇譚」も観た。代表作の映画化だが、実際には日記文学の最高峰と言われる「断腸亭日乗」の記述をうまく織り交ぜながら荷風自身の生涯を描いている。

 

津川雅彦が二枚目過ぎるのが玉にキズだが、荷風ワールドを手軽に知るにはもってこいの映画だと思う。Amazonプライムビデオで観られるのでオススメ。

 



 荷風大先生の作品を端的に表現するなら人間の業と寂寥感に尽きる。ついでにエロの突き抜けぶりが凄い。

 

かの「みうらじゅん師匠」は人生の3分の2はいやらしいことを考えてきたと豪語しているが、荷風大先生は“レベチ”かもしれない。

 

煩悩との向き合いかた、煩悩との付き合いかたを生涯をかけて追究した人だと思う。単なるエログロなどとレッテルを貼るのは簡単だが、荷風大先生の作品はそんな薄っぺらいものではない。

 

あの世界観を単なる低俗なものと決めつけつけるような見方は「性道」の深淵を覗こうとしない退屈な人間の視点に過ぎないと思う。

 

荷風大先生の小説は、女であること自体を売る女性達が中心に描かれる。明治の頃は芸者、大正昭和初期はカフェの女給、戦後は進駐軍相手のパンパンなど、社会の陰の部分で必死に生きる女性が中心だ。

 

それに向き合う男の心の揺れ、打算、葛藤などもまた人間の業を描いていて何とも奥深い。

 

常識や秩序、固定観念といった人間を縛っているよもやま事と、そこを超えたしまった際に見えてくる景色が巧みに描かれている。

 

なんだか分かりにくい表現になってしまった。

 

理性と欲望のせめぎ合いに悶々とする男女の本能的な「どうしようもなさ」を何とも情感たっぷりに表現しているのが特徴だと思う。

 

小説の世界だけでなく、荷風大先生は自身もまた異常者扱いされてしまうほど個性的だったようだ。平たく言えば偏屈ジジイである。

 

誰も信用せず、自分勝手で協調性はない。まさに無頼の極みだ。最期までその姿勢を崩さず勝手気ままに生きたことを喜びとしていた人だ。

 

そんな生き方を淋しい人生などと評するのはマト外れだろう。秩序という枠に収まっていないと落ち着かない俗物根性的感覚で捉えれば、淋しい晩年にみえるのだろうが、好き勝手に生きて一人でポックリ死んでいった生き方は実に潔く格好良い。

 


 

ちなみに「荷風になりたい」というマンガまで買ってしまった。「女帝」「夜王」「黒服物語」などネオン街劇画の第一人者・倉科遼の作品だ。

 

特定の中高年層にとってこの漫画のタイトルは心に刺さる。まさにその通りって感じだ。

 

最近知ったのだが、永井荷風は若い頃、わが母校・暁星学園でフランス語を学んだそうだ。私が幼稚園から15年近く通った場所に若き日の荷風大先生がいたと思うと妙に感慨深い。

 

おこがましいし、口幅ったいが、私だって「荷風になりたい」。

 

 

 

 

 

2021年8月2日月曜日

保守的な舌を持つ男


食べるのは好きだから斬新なモノも食べたいと思うのだが、舌が年々保守的になってきたせいで定番モノについ惹かれてしまう。

 

カップ麺はめまぐるしく新製品が誕生するのにコンビニに行けば、カップヌードル、どん兵衛、ペヤングあたりが中心に居座っているのと同じかもしれない。

 

伝統は安心。未知は恐い。これって人間の防衛本能みたいなものだろう。私にとっての中華料理のフカヒレもその一つだ。

 

どこの店でもフカヒレの姿煮といえば高い。高いのにハズしたら悲しい。中途半端に安い場合はまずハズレにあたってしまうことは多い。

 

先日、フカヒレのウマさで泣く子も黙る赤坂の維新號に出かけてきた。私が「不幸のフカヒレ」と呼んでいる逸品が一番の目的だ。

 



 もう10年ぐらい維新號以外ではフカヒレの姿煮を食べていない気がする。他の店で食べられなくなったことは不幸なことだからそう呼んでいる。

 

美味汁と呼びたくなるようなスープが極上だ。フカヒレ抜きでこのスープだけで満足である。フカヒレ抜きで注文すれば安く済むなどとフラチなことも考えるのだが、さすがに恥ずかし過ぎて口に出せずにいる。

 

トロリとした美味汁はコクがあって濃厚で、それのみで完成した料理と言ってもいい。まさに「旨味の権化」と表現したくなる味わいだ。

 

そのままで良し、フカヒレをまとえば尚良し、ご飯にかけても良し、紹興酒のアテに舐めるも良しといった感じだ。

 

正直、他の料理はいらないからこれだけで充分なのだが、さすがにそうもいかず他にもアレコレ注文した。

 





 全部ウマいのだが、維新號ではやはりフカヒレの余韻にひたすら浸るのが王道だと思う。あ~また食べたい。

 

続いての保守的メシの店は銀座の資生堂パーラーである。洋食好きな私が時々無性に行きたくなるお店の一つだ。

 

ある意味、東京洋食の総本山みたいなイメージの店だから、私のような固定観念男は「資生堂パーラーでメシを食っている」という気分だけで何でも美味しく感じる。実に単純である。

 

舌平目のフライについてきたタルタルソースだって「資生堂パーラーのタルタルだぜ」というアゲアゲ補正が作用するから残さずきっちり味わってしまう。

 



 

ビーフシチューもうまいし、何よりもベシャメルソースが大好きな“ベシャメラー”である私にとっては「小海老とバターライスのホワイトソースグラタン」が最高だ。

 

「小海老とバターライスのホワイトソースグラタン」。何度でも言いたくなる。声に出して読み上げたいほど官能的な響きだ。

 




 

デミソースのシチューとベシャメルソース系の料理を交互に食べていれば残りの人生は充分幸せに過ごせるような気がする。

 

この日のシメはオムライスである。喫茶店でも食べられるオムライスという料理は奥が深い食べ物だと思う。これまた「名店で食べてるんだもんね」というミーハー根性のせいで一層美味しく感じる。

 


 

この上品かつ端正な姿に萌える。ジッと眺め続けていたいのだが、それだと冷めちゃうからガツガツ食べる。一言でいえば丁寧。それがすべて。あ~また食べたい。

 

若いときはブランド志向に走ったこともあったが、さすがにこの歳になると闇雲なブランド信仰など無くなる。

 

ただ、どのジャンルにおいてもブランドと呼ばれるまでになったことには理由がある。飲食店もまったく同じだ。やはりポッと出のお店にはないホンモノの力がある。

 

舌が保守的である以上、定番モノを飽きずに食べているのは間違いではないだろう。変に刺激を求めるよりそれはそれで堅実な楽しみ方だと思う。