2022年9月30日金曜日

登別の湯


北海道に行ってきた。登別温泉と札幌に一泊ずつの気軽な旅行だ。同行者は今回も大学生の娘である。

 

秋めいてくると途端に温泉に行きたくなるのだが、今回は濁り湯を堪能したくなって北の大地に向かった。登別は私の大好きな温泉地でこれまで5回以上は訪ねている。

 

海外に行けてないから貯まりまくったマイレージを利用して千歳空港へ。そこからレンタカーで登別まで1時間ほどのドライブである。

 



 登別にはいくつも良い宿があるが、大浴場や露天風呂のスケール感でいえば「第一滝本館」と「まほろば」の2択だろう。シッポリ高級志向の「滝之家」も捨てがたかったが、お忍び旅行じゃないから大露天風呂を優先した。

 

今回泊まったのは「まほろば」。バカでかい露天風呂がウリの大型ホテルである。娘が幼稚園の頃に連れてきたことがあるが記憶には無いらしい。というわけで秋風と巨大風呂を堪能してきた。

 

大浴場だけで充分なのにちょっと奮発して濁り湯の部屋風呂が付いているお高い部屋を予約した。硫黄の香り漂う湯に浸かりながら週刊誌も読めるしタバコだって吸えちゃう。シャンパンだって持ち込めるのだが、娘と一緒だからそういうバブリーなことはしなかった。当たり前だ。

 



 

硫黄泉が掛け流し状態の部屋風呂も良かったが、室内もなかなか快適だった。寝室と居間スペースに別れており専有面積はかなりのもの。のんびりとホゲホゲした時間を過ごせた。

 

部屋代にコストがかかったから夕飯は一番リーズナブルなビュッフェを選んでみた。北海道の大型旅館の多くが凄まじい品数の気が狂ったような?ビュッフェを用意している。あれはあれで気分がアガる。

 

とはいえ、そういうビュッフェ形式だと味のほうはイマイチというパターンが通り相場でもある。ところが今回のビュッフェはコロナ禍の影響もあるのか、常識的な品数で一品一品の味もちゃんとしていた。嬉しい誤算だった。

 


 

食べ放題のカニもたいていはシャバダバなのだが、今回用意されていたズワイは臭みもあまりなく思った以上に身がギッシリ詰まっていた。食べ放題レベルとしては上等だった。

 

お高い部屋を取った客への特典としてビュッフェメニューとは別に蝦夷アワビと毛ガニを盛った一皿も出てきた。思考回路が単純な私は何だかトクした気分になった。

 


ちょこちょこと料理を楽しみながら生ビールをグビグビ。温泉で火照った後には最高である。バター味の謎のパスタまで食べちゃうあたりが私のダメな点である。

 


 

ビュッフェのシメには食べ放題のイクラをてんこ盛りにしたご飯をかっ込んだ。口の中はもちろん全身の隅々までゴキゲンモードになった。「イクラは飲みもの」と言いたいぐらい大量に摂取した。幸せってこれを意味する言葉だと感じた。

 

夕飯の際にはあまり調子に乗って吞んでしまうとその後の温泉がキツくなるからアルコールは控えめにしてみた。それはそれで何だかもったいないような気がしたが、そのぐらいじっくり長々と濁り湯に浸かることを身体が求めていた感じだ。あくまで温泉第一だった。

 

登別の大型旅館の特徴は何種類もの源泉を引いていることだ。今回の宿も2種類の硫黄泉の他、酸性系の湯、塩系の湯が楽しめた。泉質にこだわりたい人にはオススメだ。

 

大浴場に数え切れないほどの浴槽があってタイミングによっては巨大風呂も一人貸し切り状態に出来た。イクラ食べ放題と同じぐらい幸せだった。夜の気温は結構低かったので露天風呂の気持ちよさも格別だった。

 

唯一の心残りが大浴場に用意されていた滑り台を使わなかったことである。誰もいないタイミングもあったから一人で奇声を上げながら温泉に突っ込む滑り台を楽しめたはずなのについついトライせずに終わってしまった。


 

訪日外国人が増え始めたら大浴場がガラガラ状態になることはないだろうから絶好のチャンスを逃してしまった。惜しいことをした。

 

温泉の効能を書くつもりがヘンテコなまとめになってしまった。

 

 

 

 

2022年9月28日水曜日

ドライカレー


気に入った店に行くとついつい決まった料理ばかり注文する。メニューにはいろいろ載っているのに定番モノを頼んで満足してしまう。

 

私の友人でラーメンばかり食べている男がいるのだが、彼の場合、積極的に変わり種メニューにチャレンジしている。間違いなくマズそうなものでも注文する変態ぶり、いや、高潔な意気込みに感心する。

 

http://blog.livedoor.jp/kin_nosuke/

 

つい決まったモノばかりを注文する私はきっと臆病なのだろう。失敗を恐れて無難な道を選ぶ。大袈裟だが人生の縮図みたいだ。もっと冒険しないといけない。

 

洋食屋さんに行けばクリームコロッケやエビフライ、オムライス、ハヤシライス、タンシチューといった安全な選択をしがちだ。

 

ポークソテーやホタテフライなども美味しいはずだが、いつも似通ったモノばかり選んでしまう。何度もポークジンジャーを頼もうとしたのだが「生姜焼きか・・・」という退屈な固定観念が邪魔をする。

 

先日、茅場町近くの洋食の名店「新川・津々井」で意を決して普段は頼まないような一品にチャレンジしてみた。ここはオムライスが二種類あってどちらも絶品。だからご飯モノといえばそればかり頼みたくなる。

 

そんな固定観念を振り払うように注文してみたのが「ドライカレー」である。これが正解だった。素直に美味しかった。何となく懐かしさも感じた。

 


 

ドライカレーというとキーマカレーのような汁っぽくないカレー料理を指すこともあるようだが、昭和人の私にとってはカレー風味の炒めご飯こそがドライカレーである。

 

思えばウン十年前はドライカレーはもっとポピュラーだった気がする。最近は目立った活躍?を見聞きすることはない。誰もが知っている存在だが、熱狂的なファンは見当たらない地味な食べ物である。

 

カレーライスはもはや日本の家庭料理だが、今のように独自の進化を遂げる中で派生的に誕生したのがカレー味の炒めメシ、すなわちドライカレーだ。いわば日本料理と呼んでも間違いではない。

 

明治以降の西洋化にともなって開花した“ニッポンの洋食”というジャンルを象徴する食べ物の一つだろう。「老舗洋食店で提供されるドライカレー」。こういう背景があると単純な私はすぐに嬉しくなる。

 

正直、なんてことない味である。それを言っちゃあおしまいみたいな感想だが、それこそがドライカレーの正しい味だと思う。良くも悪くも中途半端。でもその曖昧な感じが逆にウリだ。中途半端の完成形とでも言うべきか。

 

カレーの気分ではなく白メシの気分でもない。ひと仕事加えられたコメ料理が食べたい時にちょうど良い。この店のドライカレーもカレー風味が強すぎない点が秀逸だった。

 

カレー味ではなくカレー風味であることが大事。カレーライスが食べたいわけではないから、そこは案外重要なポイントだ。

 

炒めたコメと時折感じるタマネギの甘みがほんのり漂うカレーの香りに包まれている。なんてことない味だと表現したが、なかなか得がたい美味しさだと思う。

 

銀座の老舗洋食店「煉瓦亭」でもオムライスかチキンライス、ハヤシライスのどれかを注文するのが常だったのだが、ある時、浮気心で「ハムライス」にトライして感激したことがある。これまた「なんてことない味」なのだが時折無性に食べたくなる。

 



 決まった店で決まった料理ばかり食べることを格好良いと思う自分もいる。なんとなく池波正太郎や永井荷風みたいな格好良さである。

 

その反面、加齢のせいで好奇心が弱まった裏返しなのかもという思いもある。私はたかだか50代である。意識して自分の好奇心を煽らないとどんどん老けそうだから、やはり永井荷風大先生の路線を選ぶのはちょっと早い。

 

たかだかドライカレーを注文してみただけでそんなことを考えるわけだから私も相当な暇人である。でもドライカレーひとつで自分の習性に気付かされたのも事実だ。

 

たかがドライカレーされどドライカレー。

 

うーん、実に平和である。

 

 

 

 

 

2022年9月26日月曜日

怒ってるバカ

 

怒ってるバカ。これって凄くみっともない。SNSなんかを見ていてもやたらと怒ってる人を目にする。正義感ぶるのも結構だが「アンタは何様だい?」と言いたくなる。本人は怒ってる自分に酔っているからタチがわるい。

 

とか言いながらこんな話を書き始めたのは私のバカ話を紹介するためだ。

 

ATMでお金を引き出したのに肝心のお札を取り忘れたり、コインパーキングにクルマを駐めたことを一週間忘れるようなマヌケな日常はこれまでも書いてきた。

 

最近はやたらと物忘れも激しく、アゴにひっかけたままのマスクをどこに行ったか必死で探したり、家のカギをクルマや会社に置き忘れて帰宅することも珍しくない。

 

家のカギは財布に予備を入れてあるので困った事態にはならないが、いつか財布をどこかに置き忘れそうでそうなったら一巻の終わりだ。

 

父の日に娘にもらったのも小型の置き忘れ発見ブザーである。クルマのカギと家のカギにくっつけている。見つからない時にはスマホから指令を出すとブーブーピロピロ音が鳴る仕組みだ。もはや徘徊老人に近い扱いである。

 

若年性痴呆の可能性もゼロではないが、さすがにそこまで深刻ではないと自分では思っている。物忘れの原因は加齢もあるもののやはり緊張感の欠如に尽きると思う。

 

中高年になると鈍感力が強まる。これ自体は結構なことだ。無駄に肩に力を入れて生きていた時代と違ってどこかホゲホゲした気分で過ごすことが増えた。よく言えばおおらかになったわけだが、その分、いろんな方面にピンと張っていたアンテナみたいな感性はユルユルになる。

 

鈍感の「鈍」は「なまくら」と読む。もともとは切れない刃物のことを意味する言葉だ。まさしく私の感性はなまくら状態だ。注意力が散漫になってドジも頻繁にやらかす。

 

つい先日、寝間着を新調しようとユニクロのオンラインストアであれこれとTシャツやスウェットを購入した。ユニクロは店舗ではなくネット上では3Lや4Lサイズがよりどりみどりだ。寝間着や部屋着はダボダボに限るから季節ごとに利用している。

 



マンション暮らしだと不在時でも宅配ボックスがあるから安心だ。だから時々注文したこと自体を忘れかける。今回のユニクロもふと届いていないことに気付いて注文履歴を確認したら既に配達済みだった。

 

宅配ボックスのナンバーも記載されていたので取りに行ったのだがボックスの中はからっぽだった。バカな私はやたらと腹が立って勢い込んで配送業者に連絡して文句を言ってみた。

 

先方は平身低頭である。配達員に確認してすぐに折り返すとのこと。しばらくして連絡が来たのだが、配達員は間違いなくそのボックスに入れたとか。どうにも話がかみ合わない。私の怒りはかなり激しくなる。

 

「モノを置きに来るだけなんだから普通に当たり前のことをやってくれよ。バカは使わないでマトモな人間を働かせるべきじゃないか?」等々、強い口調で怒ってみた。

 

再度確認するとのことで私のイライラは爆発寸前になった。次はいよいよ罵詈雑言を浴びせようと身構えていたところに折り返しの連絡が来た。

 

平身低頭の業者さんは住所の確認とやらで私の登録住所を語り始める。「中央区○○~・・・」。ふむふむと聞いていた私は自分の耳を疑った。相手が伝えてきたのは私の引っ越し前の住所だった。

 

そこから私は電話越しなのに一気にペコペコモードに切り替わった。Amazonやウーバーなどは引っ越しと同時に住所変更を怠らなかったのだが、たまにしか使っていなかったユニクロは前の住所のままだったわけだ。

 

当然、3月まで住んでいたマンションの宅配ボックスに配達されたわけで、私が怒りまくっていたのは大いなる失態だった。顔から火が出る思いとはこういう瞬間を言うのだろう。ひたすら配送業者さんに謝ったことは言うまでもない。

 

「怒ってるバカ」。実に恥ずかしい。親切な配送業者さんは既に見知らぬ人が入居している私の引っ越し前のマンションの管理人や入居者とやり取りしてくれて荷物を再配達してくれた。

 

菓子折でも持って詫びたいところだったが今のマンションの宅配ボックスに再配達されてすべて完了である。


恥ずかしさだけが残った。半沢直樹が相手だったら土下座して詫びるハメになるぐらいの失態だった。

 

大事なのはこういう失態を忘れずに二度と同じ間違いを犯さないようにすることだ。とはいえ、ATMもコインパーキングもカギを忘れることもすべて何度もやらかしている私のことだから多分ダメだ。

 

少なくとも自分はバカだということだけはしっかり自覚しないといけない。簡単に怒ったりしない心掛けも大事だ。怒ってるバカほど恥ずかしいものはない。怒りにまかせてブツクサ興奮している姿って人間の行動の中でも一番醜い姿だと思う。


教訓。オレのふり見て我がふり直せ。

 

以上です。

 

 

 

 

 

 

2022年9月21日水曜日

マスクをめぐる喜劇


マスクを外せない日々が続いている。世間様の無言の同調圧力に打ち勝つほど私は肝っ玉がすわっていない。

 

さすがに散歩の時は外す。それでもアリバイみたいにマスクはポケットに入れずに手で持ったりする。チキン野郎みたいで残念無念である。

 

少なくとも屋外でマスクをする意味は無いはずだ。誰もが分かっているのに思考停止のままだ。病気など何らかの事情でマスクが出来ない人もいるらしいから、そろそろ常識的判断で着脱を実行する段階だと思う。

 

とはいえ、私自身、社内の会議などではマスク着用のままだし、職場の自室から出て他の部屋に行く際にもわざわざマスクを着けてしまう。しゃべりもしないのにマスクをする意味はない。やはり思考停止だ。

 

4回もワクチンをうって元気に過ごしているのに何だかトンチンカンの極みである。外したい気持ちはあるのだが、それはそれでイキってる人だと思われるのもシャクだ。我ながら情けない。

 

新橋あたりを歩いているともはや喜劇みたいな光景が展開されている。混雑している飲食店では誰もがマスクを外してワイワイガヤガヤ過ごすのにお会計を終えて外に出ると途端にマスクを着ける。

 

外を歩くためにマスクをつける。実にヘンテコだ。さっきまでデカい声で騒ぎ高笑いをしていたのに一歩外に出たらマスク・・・。ビミョーである。

 

他にも喜劇みたいな話はいろいろある。満席でギュウギュウ詰めの飛行機。いうまでもなく前や後ろとの間隔は非常に狭くソーシャルディスタンスどころではない。

 

着陸して乗客が機内を降りる際に流れる機内アナウンスは「お降りの際はお一人ずつ距離をとってください」である。苦笑するしかない。

 

コロナ禍が始まった当時に国があれだけマスクマスクとうるさく強要したわけだから、状況が大きく変わったいま、やはり国が先頭を切ってマスクのメリハリ利用をPRすべきだろう。それが言い出しっぺの責任だと思う。

 



 

御年73歳の英国・チャールズ国王の画像である。大衆に近づき親しく歓談する光景だが、いつどの場面でもノーマスクである。脱マスクを象徴するシーンだろう。

 

エリザベス女王の国葬をネット中継で観ていたのだが集まった大群衆の中にマスクをした人を見つけるのは難しかった。荘厳な葬列よりも沿道の人々がマスクをしているかどうかばかりチェックしてしまった。

 

ご訪英された天皇陛下もご参列された際や前日のレセプションではマスクを外されていた。世界標準としてはそれがごく普通だったわけだ。貴重な前例になることを期待したいところだ。

 

もちろん皇室にそんな役回りを担っていただくのは筋が違う。やはり首相や官房長官、厚労大臣あたりが率先してTPOに応じたマスクとの付き合い方を実践すべきだろう。


来週行われる安倍元首相の国葬には海外から多数の要人が参列する。マスク至上主義の我が国では参列者にマスクを強制するのだろうが、はたして騒がない、喋らない場面でそうすることが正しいのだろうか?。実に興味深い。

 

繰り返しになるがコロナ禍の初期と今では状況が違う。入国制限も大幅に緩和され遠からず規制全廃も視野に入っているのはその証だ。マスクへの意識を変えないのはむしろ不自然ともいえる。

 



 

こちらは言わずと知れた大谷翔平先生の活躍シーンと観客席だ。とっくの前からマスク姿は見かけない。日本では野球観戦だろうとコンサートだろうといまだにマスクは強制される。

 

ちなみにアメリカのコロナ死者数は100万人を超えている。イギリスは20万人超。日本は4万人である。

 

もちろん、日本のマスク至上主義が死者数の差に繋がっているという見方も出来なくはない。でも当初よりコロナが弱毒化している現実を前にすると諸外国が脱マスクへ切り替えたことは現実的な対応だと感じる。

 

私がここでブツクサ書いても仕方ないのだが、こういう声が少しずつでも広がっていくことに期待したい。少なくとも外にいるときはノーマスクで当然という空気が醸成されて欲しい。

 

私自身も別にいきがったりするつもりはないが、TPOに応じてマスクの着脱に励んでみよう。スパっとやめちゃいたいところだが勇気がないから一歩ずつ脱マスクに舵を切ろうと思う。


まずは散歩の際にわざとらしく見せびらかすように手に持ってしまうマスクをポケットに入れるところから始めよう。なんだか自分の小心者ぶりが哀しくなるが、まずはそこからである。

 

 

 

 

 

2022年9月16日金曜日

大谷翔平ラブ


野球少年だった私は王選手のホームランを何度もナマで目撃したことが自慢だ。800号を達成した時も後楽園球場で観戦していた。

 

長島選手の全盛期やカネヤンの全盛期はさすがに見ていないが「世界の王」の生ホームランを見ていた事実は私より年若の野球愛好家に対して物凄く自慢できちゃう話である。

 

という前ふりは大谷翔平を語るためのものだ。


大谷翔平の全盛期をリアルタイムで見ている我々は幸運だと思う。彼は歴史である。端的にそう表現するしかない。もし大谷翔平の出現が世間の野球熱が今より遙かに高かった30~40年前だったら一体どれほどの大フィーバーになったのだろう。

 


 

いずれにせよ、いま大谷翔平を見られることはラッキーなことだろう。50年後、いや30年後でもその頃の野球少年に対しては、王選手のホームランを見たぜ、という自慢よりも大谷の話は価値のある自慢になると思う。

 

4年前に大谷ラブを熱く書いたことがある。その頃は今ほどの活躍はさすがに想像していなかった。あの松井秀喜ですらアメリカではホームランは30本程度が限界だったから大谷がメジャーで12を争うホームランバッターになるとは思えなかった。

 

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2018/04/blog-post_9.html

 

「エースで四番」。子供の頃に野球が得意だったなら誰もが二刀流である。高校野球まではそんな選手はたくさんいるが、プロの世界で1シーズン通して二刀流を実現させた人はいない。

 

体力があるだけでは無理だ。調整能力が常人には考えられないレベルだと思う。メンタル面においても超人だ。精神力、集中力はもちろん、いわゆる野球脳がプロ野球選手というエリート集団の中でも並外れているのだろう。

 

野球が物凄く得意な少年でもプロに進めるのは数百人に一人、いやもっと少数派だろう。その中で一軍に残るのは一握り、レギュラーになれるのはそこからまた一握り。メジャーに行くチャンスを掴めるのもまた一握り。

 

そして、あちらに行った後にそこそこ活躍できるのがほんのわずか。タイトル争いに絡むぐらいの大活躍をする選手はほぼゼロ。かつてのイチローだけである。そう考えると投手部門と打者部門の両方でトップクラスの成績を収める大谷翔平は奇跡の存在だ。

 

ベーブルースとの比較ももはや無意味だ。野球の質やレベルがまるで違う。「ベーブルース以来の~」という表現はそろそろ聞き飽きた。むしろ比較対象として釣り合っていない。大谷翔平は大谷翔平であって唯一無二としか言えない。

 

近代プロ野球において二刀流自体が事実上初めてだから大谷翔平を比較するのに値する人は野球界にはいない。競技種目を問わずオリンピックの金メダルを何度も連続で取るような偉業と肩を並べるぐらいの凄さだと思う。

 

いわばカール・ルイス級だと言っても大袈裟ではないと思う。鳥人・ブブカや裸足のアベベ、水泳だったらイアン・ソープ、サッカーだったら神様・ペレあたりと比べちゃいたいぐらいだ。ちょっと大袈裟か。いや、大袈裟ではないと思う。

 

残念ながら大谷の所属するエンゼルスがメジャーの中でマイナーな存在だから大谷フィーバーはまだまだ発展途上だ。だからヤンキースのジャッジとのMVP論争が起きている。


個人の活躍内容という点では間違いなく大谷がMVPにふさわしいが、チームが優勝争いにまるで絡まない低迷ぶりだから行方はビミョーだ。

 

ホームランを量産してチームを優勝争いに邁進させるジャッジも凄いが、野球界の常識として二刀流をトップクラスで維持している以上、クドいようだが大谷は唯一無二であり、今の成績だけで充分にMVPに値する。

 

実質的な二刀流大爆発元年だった昨年の衝撃が凄すぎたから今年の活躍がちょっと過小評価されている気がする。


超常現象並みの凄さなのに、凄すぎるゆえに一種の麻痺、思考停止状態が生じて単なるホームランバッター(失礼!)と比較されてしまっている。根本的に間違っている。


ちなみにかつてのマグワイアのようにシーズン70本のホームランや4割バッター、30勝投手が誕生するシーズンがあったとする。どれも歴史的偉業だが、大谷翔平が今年ぐらいの活躍をしていたらあくまでMVPは大谷翔平だと思う。二刀流をこなすことはそのぐらいの偉業だ。


他の野球選手が誰一人として出来ないことを普通にやってのけている以上、大谷翔平は「永年MVP」として別枠扱いにするのが妥当だと思う。

 

毎年発表される「ベストジーニスト」ではキムタクが「永久ベストジーニスト」として選考対象外になっている。それと同じである。


何だか例えが一気にシャバダバな方向に行ってしまった。すいません。

 

でも言いたいことはそういことだ。大谷翔平がシーズン通して二刀流で活躍している以上、いつだってオールスターに出るべきだし、常にMVPに該当するはずだ。もはや現役特別殿堂選手(何じゃそれ?)として表彰制度の枠外に置いたほうが無難だろう。

 

冒頭の画像のような大谷選手の姿を見るのが好きだ。ユニホームが泥んこだ。先発投手なのにバカスカ打ってランナーとしても走りまくるからこんな見た目になる。この姿こそが彼が歴史そのものであることの証だと思う。

 

未踏の地を進む大谷翔平だから通算記録みたいなものは意味がない。投打両方でいつまで活躍できるかが興味深い。少なくともあと5シーズンぐらいは二刀流でのフル回転を見せてほしいものだ。





 

2022年9月14日水曜日

ファストフード幸福論

 

ファストフードの中毒性って結構凄いと思う。時々、というより割と頻繁に食べたくなる。都市伝説を鵜呑みにするようでイヤだが中毒になるスペシャルエキスが混ざっているのかと思えてしまう。

 

世代的にマックの日本上陸とともに育ってきた私だ。子供の頃はまだ今みたいに外食産業が賑わっていなかったからマックの衝撃は大きかった。

 

サンテオレ、ドムドムバーガーなどには見向きもせずにマックを愛していたが、ロッテリアやウェンディーズあたりが斬新なメニューを投入してきたのでそっちも喜んで食べた。

 

時々、ケンタッキーフライドチキンにも目を向け吉野家にも頻繁に通った。その後、すかいらーくを筆頭にファミレス全盛時代になり、気付けば大人になった今もファストフードが大好きだ。

 

大人になるとさも自分はファストフードなんか興味ないぜ、みたいなシタリ顔をする人は多い。あれはいけない。あんなにお世話になったのに身勝手だ。巨人の坂本選手じゃあるまいし、やはり世話になった人への礼節!は大事だ。

 

いっぱしのグルメを気取ったところで仕方ない。私の身体はファストフードに育てられた部分も大きい。昔よりはゆとりがあるから今はコストを気にせずふらちな大人食いが出来るのも嬉しい。

 



 

ビッグマックの倍バージョンである。相変わらず上のパンと下のパンをハズして中身を貪る。肉肉しくてウマいし、パンをどかすことでその他のいろんな種類のバーガーを味見できる。何より苦しくならないのが有難い。

 

子供の頃、親にせがんでビッグマック2つを含む合計9個のハンバーガーを食べさせてもらったことがある。わが人生の幸せな出来事ベスト10に入る素晴らしい時間だった。

 

当時のマックは安い路線ではなかったから富豪級の贅沢だった。もちろん純朴だった私はパンを残すことなど考えもしなかった。今とは大違いだ。

 

先日、ウーバーでバーガーキングの商品をあれこれ持ってきてもらった。久々のバーカーキングだったから一人なのに5個ぐらい頼んでしまった。

 


 

バカでかいといったニュアンスを意味するワッパーに齧り付くと若かった頃を思い出す。この日はチーズ入り、肉2枚のワッパーをむしゃむしゃ食べた。

 

本格バーガーショップがなかった昭和50年前後はハンバーガーのサイズと言えばマックが標準だった。ビッグマックを大きく感じた日々が懐かしい。

 

その後、もっとデカいのがアメリカ人の標準サイズだと知り、後発のバーガーキングの代表作・ワッパーの迫力に妙に納得した覚えがある。ビッグマックはパンばかり増えているだけで中身の迫力が足りないことを知った。

 

久しぶりに食べたワッパーは正直言ってマックよりウマい。中毒のせいでマックの頻度のほうが高いのだが、冷静に先入観抜きに食べたら絶対にワッパーに軍配が上がる。肉を食らったぜという満足感が強い。

 


 

あいかわらずパンを除外して中身ばかりをムホムホ食い散らかした残骸の画像だ。人として絶対に間違いである。有名人がこんな画像をSNSに上げたら活動休止に追い込まれるレベルだ。

 

有名人でなくても非難ゴーゴーは必至だ。ごめんなさい。でもこんなフシダラな食べ方のおかげで結構な種類のバーガーを味比べすることが出来る。

 

ピザのパイ生地だけをまるまる残したりケッタッキーフライドチキンの衣と鳥の皮を全部剥がして食べることもある。それはそれで太りすぎないための自己管理だ。成人病のリスクも抑えられるしひいては国家の医療費抑制に貢献できるかもしれない。屁理屈でスイマセン。

 

ファストフードと言えば犯罪的に甘いものも忘れてはいけない。私が思い立ってウーバーで注文するのがクリスピークリームドーナツである。何を食べても甘い。

 



不健康そうな味である。それこそが煩悩の塊である人間が喜ぶ味とも言える。甘味のないコーヒーを片手にこんなドーナツを食べるのは幸せの極地である。

 

甘すぎるぐらいのスイーツ、コーヒー、そしてタバコをセットで堪能すると今の時代に呑気に生きていることを心の底から嬉しく感じる。

 

これが江戸時代だったらありえないわけだし、100年前でも難しいだろう。今の時代だって未開のアフリカの奥地で暮らしていればこんな贅沢は味わえない。

 

全地球の歴史的観点から見てもそんな時間を当たり前のように過ごせることは宝くじに当たったみたいに幸運なことだと思う。

 

なんだかやたらと大袈裟な書きぶりになってしまったが、手軽な値段でガッツリ美味しくむさぼれるファストフード天国みたいな場所で生まれ育ったこと自体がとても幸運なことだと痛感する。

 

変に高尚なグルメ道みたいな話も嫌いではないが、還暦になろうと古稀を迎えようともファストフードを幸せいっぱいの顔で頬張るジイサンになりたいものだ。





2022年9月12日月曜日

健康か不健康か

 

コロナの後遺症と思われる重い倦怠感も無くなり、まあまあ快適に過ごしているのだが、この12年の間に顕著に自分の劣化を感じることが増えた。

 

疲れやすさと酒に弱くなったことでそれを痛感する。酒に関してはやはりコロナ禍のせいで付き合いの席が減ったことが影響しているのだろう。

 

コロナ禍でもわりと気にせず外食、晩酌は続けてきたが、付き合い酒と違ってマイペースの一人飲みが多かった。いわば自分に甘い?飲み方が定番になった。

 

もちろん自分に厳しく肝臓を攻めまくってもメリットは無いわけだからそれで結構なのだが、以前に比べれば酒の許容量が半分程度になった気がする。

 

ちょっと調子に乗って数年前と同じぐらいの量を飲むとその後がキツい。気持ち悪くなる手前のドンヨリ感に襲われる。次の日にも残る。そのことが既にストレスになっている。

 

その昔、いや、ほんの数年前までは酒の力を借りて女性を口説いてネンゴロ展開に持ち込んでいたことを思うと隔世の感がある。銀座でしっかり飲んでアフターのついでにハッピーな展開になってもヘッチャラだったのに今ではまず無理だ。(何がだ・・・?)

 

先日、お寿司屋さんで1時間ちょっとの一人酒。生ビール2杯に焼酎水割り2杯だけだったのにガッツリ酔った。その後、帰宅して着替えるのも歯を磨くのも面倒に感じるほどだった。さすがに不便である。

 

先月に人間ドックなみにアレコレ検査した結果が出たのだが、肝臓の数字はバッチリだった。γ-GTPもほぼ標準に近い数値。この10年の中では最も良い結果だったのに不思議である。やはり肝臓は甘やかしているとダメなのだろうか。

 


 

血液検査ではコレステロールに関する数値がすべて基準値内に収まっていた。これまたかつてない偉業!である。好きなものだけを何も気にせず食べている初老男としては奇跡みたいな話である。

 

珍味も食べたいだけ食べる日々だが尿酸値も正常だったし、血液検査だけみれば表彰状モノの優秀さである。毎年毎年たいてい35カ所ほど基準値超えになっていたが、別に気にせず節制もしなかったことが逆に良かったのかも知れない。

 

ただ、血液検査以外では少しだけ気になる箇所も見つかった。例年ちょっとしたポリープは見つかるのだが、今年新登場の胃のポリープが良性とは言い切れない怪しさがあるかもとのことで3ヶ月後に再検査になった。

 

ちょっと怪しいケースでも今までだと再検査は半年後と言われていたのだが、3ヶ月後を指定されるのは初めてだ。不健康自慢を面白おかしく語り続けるためにも何も無いことを祈ろう。

 

肺と腹部のMRI検査の結果はちょろちょろとした指摘を受けたものの、いずれも1年後の再検査というレベルなのでとくに問題はない。総じて健康状態は良好である。

 



 

酒に弱くなったのは理由も分かるし仕方がないのだが、疲れやすさは一体なにが原因なんだろう。やはり純粋に加齢という結論なのだろうか。

 

甘めのコーヒーをやたらと飲むようになったり、相変わらず炭水化物を控えない食生活のせいで糖質過剰を起こし疲れやすくなったという可能性もある。

 

毎日ちゃんと寝ているし週末は真面目に散歩もする。でもちょっと動き回ったりちょっと一戦交えたりすると次の日の疲労感が大きくて困っている。やはり週末の散歩ぐらいの運動量では追いつかないのだろう。

 

いまさらジムで鍛えたり水泳に励んだりするのは億劫だ。今まで好き勝手に食べ、好き勝手に吞み、あえて鍛えるようなこともせず、あるがままに生きてきたライフスタイルにもいよいよ限界が来たのだろうか。

 

私の目標は70歳の段階で「野菜なんか食べなくても身体を鍛えなくてもちっとも問題ないですよ」と自分の実体験を元に世界中に声高らかに宣言することである。

 

この目標のために何だかんだ自堕落なまま生き続けようと身勝手なことを考えているのだが、そんなお気楽主義がどこまで通用するか我ながら興味深い。

 

 

 

 

 

2022年9月9日金曜日

こんな時代こそ「どぶろっく」


YouTubeを見ていると世の若者がテレビを見なくなるのも必然だと思う。最近はリール動画というヤツなのか、短くサクっとまとめられた動画がポンポン見られるから飽きない。

 

テレビ番組の一部やインパクトのある部分だけを見られるからついつい関連で流れてくる動画にも目が向く。

 

私は矢沢永吉のファンではないし、どちらかといえば興味がないほうだったのだが、リール動画で永ちゃんのインタビューの切り抜きやドキュメント番組の一部を観ていたら面白くなってしまった。

 

いまやすっかり永ちゃん関連動画を積極的に探しに行くほどだ。結構笑える。いや、笑っては失礼だ。あんな感じで突っ走って来た彼の歴史が垣間見えてただただ面白い。感服。もはや尊敬している。

 

狩野英孝がなぜか若者の間で知名度が高いことが不思議だったのだが、それもネットの世界での活躍によるところが大きいらしい。

 

時々テレビでも放送されているが、「クセのある歌」というある種のジャンルを確立した立役者?らしい。実際かなり笑える。

 大きな古時計

https://www.youtube.com/watch?v=5njEPkXbQ5w

 

アレコレとネットで彼のクセ歌を探していたらあの「ゆず」を従えて名曲「栄光の架け橋」を大真面目にパロっていた。芸人さんってやはり異才である。

 https://www.youtube.com/watch?v=H6eNP2q79RE

 

さて、私が強力にオススメしたいのは「どぶろっく」だ。一応売れっ子という範疇に入るのだろうが、もっともっとスーパースターになっていいと思う。彼らの確立された歌芸は唯一無二である。

 


 

この二人は保育園から大学までずっと同級生だったらしい。息が合っているのも当然だ。大袈裟だが凄い才能の二人を引き合わせた神様に感謝したいほどだ。

 

今の時代、面白くもない漫才がちょこっとウケただけでヒナ段要員して騒がしくテレビに出まくっているタレントは多い。芸人の芸の部分が怪しい連中も多いが、どぶろっくはあくまで歌芸に専念している感じが素敵だ。

 

Wikipediaをみていたらギターを弾いてないほうの坊主頭が作詞作曲担当なんだとか。ちょっと驚きである。

 

下ネタ系を得意とするが、音楽的センスも言葉選びも間の取り方もすべて高次元で融合している。ネタの軽薄さのせいもあって軽く見られているのかもしれないが、お笑いというジャンルにおいて傑出した存在だと言っていい。


いま世の中は、ちょっとしたスケベな冗談も、やれセクハラだのやれ性加害だのとやたらと大袈裟に糾弾される暗黒の時代になりつつある。実にイヤ〜な空気が広がっている。


昔からいやらしい話や下ネタは人々が打ち解けていく中での潤滑油みたいなものだった。明るく楽しくスケベな話でワイワイやるのは人間らしい健康的なことだと思う。


いや、人間だけでなく神話の世界だってスケベは重要だ。岩戸に引きこもってしまった天照大神。出て来てもらおうと他の神様が卑猥な踊りを繰り広げたら皆の楽しげな笑い声につられてお出ましになって地上に平和が戻ったのは有名な話である。


ヘタをするとちょっと過激なワイ談を話しただけで「性的暴行」などと言われそうな今だからこそ、スケベ平和論を地道に主張したいものである。


政治家なり香川照之なり「やらかしちまった」面々に対しても「バッカだねえ」の一言で済ませればいいのに、さもレイプ犯と同等みたいにとことん糾弾する風潮は気持ち悪い。綺麗事大魔王が世の中に溢れていて哀しくなる。


子供なんて誰もがウンコチンチンっと騒げば大笑いするわけだし、いちいち下品だ不快だと目くじらを立てる野暮天はカッチョ悪い。


どぶろっくの二人には今の窮屈な言葉狩り、いや、スケベ狩り、下ネタ狩りみたいな風潮に負けずに、みんなが大好きな下品路線を堂々と貫き続けて欲しい。

 

もはや伝説のイチモツの歌にしてもこれでもかこれでもかというクドさを徹底するあたりに美学?を感じる。

 

https://www.youtube.com/watch?v=jkantGgcf7k

 

売れ始めた頃の「もしかしてだけど」とイチモツの歌ばかりが有名だが、どぶろっくは数え切れないほどの名曲を世に送り出している。

 

私が好きな曲をいくつか載せる。ぜひしっかりとした音量で視聴できる環境でお楽しみください。

  


Dear My Friend

https://www.youtube.com/watch?v=sWz2lGJvNBw

 

 

Sun'nin Day Love

https://www.youtube.com/watch?v=MicaQew-IDk

 

 

友達のままで

https://www.youtube.com/watch?v=BuStVNbGlS8

 

  

ワクチン 輝く未来へ

https://www.youtube.com/watch?v=zqv6smZ15Bg

 

 

COWPER

https://www.youtube.com/watch?v=EadDQsyFiWk

 

 

二つの思い

https://www.youtube.com/watch?v=fZTbbOYp6NE

 






2022年9月7日水曜日

浅草の引力

 

15年近く前にこのブログで浅草という街の“逆張り精神”について書いたことがあった。

 

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2008/03/blog-post_27.html

 

街ごとの個性というか、その街独特の匂いのようなものが薄れてきた今の時代にあって、浅草だけは世の中のどうでもいい流行に背を向けた潔さがあるという趣旨の話だ。

 

あれから随分と時間が経過した。コロナ前のインバウンド景気が後押しして今の浅草はだいぶ綺麗になった。15年ぐらい前とは見違えるほどである。

 

怪しげな薄汚い路地なんかももいまや絶滅寸前だ。ちょっと淋しい気持ちもあるが、あの街の独特のパワーはちょっとぐらい外見が綺麗になっても変わらないのが嬉しい。

 

オシャレとか垢抜けているというジャンルとは一線を画しているのが素敵だ。そんな街のたたずまいが魅力的である。

 

私の祖父は浅草の人だ。それ以前のご先祖様の中にも浅草の腕っこき職人なんかもいたらしい。ときどき無性に浅草に行きたくなるのはDNAのせいかもしれない。

 

バブル景気に湧いた当時、若造だった私はアマノジャク精神でデートの場所を浅草にすることが多かった。

 

カフェバーだエスニックだ、ティラミスだナタデココだなどとカタカナばかりがカッチョいいともてはやされた当時、流行や最先端とは無関係の浅草に妙な居心地の良さを感じた。


都心の学校に通っていたから高校生の頃までは流行に必死にアンテナを反応させていたが、二十歳を過ぎるぐらいから何だかそういう路線が薄っぺらく感じて浅草の独特な空気感に惹かれたのだろう。

 

やれ西麻布だ、やれ表参道だぜ~と浮かれる世相に背を向けて「東京人こそ浅草だ」と頑固に主張して最先端を追いかけたがるミーハーなワンレンボディコンのオネエサンを鰻屋や天ぷら屋、蕎麦屋、とろろ屋あたりに連れ回していた。

 

オッサンっぽいことへの憧れもあったのだと思う。今は正真正銘のオッサン道を極めている立場だから浅草で感じる居心地の良さは昔より遙かに強い。

 

おまけに中央区民になってから意外に浅草が近いので以前より出かける機会が増えた。今の職場の最寄り駅から浅草までは地下鉄で10分程度で着く。自宅近くの隅田川から船でアプローチするのも案外手軽だ。

 



 

先日、釜飯が食べたくなって浅草に行った。わざわざ浅草に行ったのは、私の中に「釜飯は浅草」という謎の固定観念があるせいだ。一種のノスタルジーである。

 

訪ねたのは雷門から近い位置にある「麻鳥」という店。老舗のようだが建物は新しく座敷も明るく綺麗で快適だった。浅草ではやはり畳の席に座ると気分がアガる。私の性格は実に単純だ。

 





 

釜飯を待つ間にアレコレと注文。穴子の肝の煮付け、本マグロの刺身、煮込み、つくねである。マグロ以外は茶色を通り越して黒っぽいのが東京っぽくて嬉しい。見た目ほど味は濃いわけではなくどれも丁寧に作られた印象で美味しかった。マグロの刺身も下手な寿司屋より上質に感じた。

 

浅草は今や観光地的側面が強いからテキトーな料理を出す店も少なくないみたいだが、こちらは全体にキチンとウマいものを出してくれた。

 

中途半端な居酒屋で飲むよりこういう店で過ごすのは大人の分別?として正しいと思う。居酒屋ほど安くはないが間違いのないものを食べるためには逆に安心できる値付けだ。

 

そして釜飯登場。五目釜飯とウニ釜飯である。一品料理の味や素材がちゃんとしていたから具だくさんの五目釜飯がマズいはずはない。ウニ釜飯も名前負けしない量のウニがしっかり投入されていた。幸せになる味わいだった。

 



何より私にとって最高の調味料が「浅草で釜飯を食っている」という事実である。味なんて多分に気分の良し悪しに影響される。そういう意味では平日の夜に人の少ない浅草で畳に腰を下ろして過ごしていることが釜飯の味を一層引き立てていた。

 

半世紀をゆうに超える人生の中でいろんな経験をしてきたが「死ぬまでに一度は浅草に住んでみる」という計画はまだ実現していない。

 

わりと真面目に考えているのだが、あの街に住んだら連日連夜ウマいもの巡りをしてぶくぶく太って肝臓もやられて早死にしちゃうかも知れない。

 

もっと食が細くなってからにしたほうが良さそうだ。

 

 

 

 

 

 

2022年9月5日月曜日

鴨の誘惑


牛、豚、鶏の順番で食べたい肉をランク付けしていたのは若い頃の話。今では鶏か豚がトップの座を争い、次いで馬や羊あたりが割り込んできて牛肉は最下位になってしまった。

 

30年ぐらい前までは焼肉屋ばかりに出かけ毎日毎食カルビでも嬉しかったことを思うと隔世の感がある。人間の嗜好は簡単に変わるものである。

 

わりとしょっちゅう焼鳥屋さんでいろんな部位を楽しみながら晩酌タイムを過ごす。私が好きなのはモモ肉やセセリやハツだ。さっぱり済ませたければ胸肉やナンコツ、クドい味が欲しければハツモトやボンジリあたりか。

 

鶏ではないが焼鳥屋の準レギュラーである鴨も大好きである。時々無性に食べたくなる。焼鳥屋だけでなく蕎麦屋でもたいていは鴨せいろが欲しくなる。

 

普通に食べている鴨はいわゆるアイガモだ。マガモもとてもウマいらしいがお目にかかる機会はなかなか無い。アヒルとマガモを掛け合わせたのがアイガモである(違ってたらスイマセン)。食用にするために改良された生き物だ。

 


 

北京ダックの例で分かるように鴨アヒル系は皮の美味しさが独特だ。まあ鴨に限らずどんな肉も皮周りはたいていウマいのかもしれない。

 

適当なことを書いたが鴨肉はよく分からない。アヒルもマガモも合鴨も英語で言えばダックとひとくくりにされている。正直言ってレストランで出てくる鴨がアヒルなのか合鴨なのかジビエなのかチンプンカンプンである。

 

鴨肉消費量世界一のフランスでは産地の違いで鴨肉のランク付けは随分とシビアらしい。産地だけでなく部位ごとに好みとこだわりが別れるみたいだ。日本人にとってのカニみたいなものなのだろうか。全然違うか。。

 

相対的に日本よりも海外のほうが鴨肉の地位?が高いように感じる。名門「トゥールダルジャン」の存在や北京ダックの人気がその証だろう。とはいえ当たり外れがあるのも鴨の難しいところでもある。

 

10年ぐらい前にパリに一人旅に行った時に食べた鴨が印象深い。印象深いと言っても良い意味ではない。ビックリするほどマズかったことにショックを受けた。

 

その旅では街中の中華惣菜屋で買った冷えたチャーハンや焼きそばをホテルの部屋で食べるというシャバダバな食事が多かったので、ちょっと奮発して真っ当なレストランで真っ当な値段の鴨を注文してみた。

 

これが誤算だった。ジビエだったのか何なのか、呆れるほど臭かった。ウマいマズいを通り越して鼻がひん曲がるほど。一口食べただけで挫折した。あとはエシレバターを塗りたくったパンだけを大量に食べて空腹をごまかした。

 

あれ以来しばらく日本でも鴨肉が食べられなくなったほどだった。繁盛店だったしその他の料理は美味しかったからあの鴨料理は今だに私の中では謎である。

 


 

さてさて、カモネギという言葉があるだけに鴨と葱の相性は抜群だ。こればかりはフランス料理や中華料理でもない日本の味だと思う、焼鳥屋でも鴨肉の間に挟まれたネギを肉と一緒に頬張れば幸福感に浸れる。鍋で味わう鴨だってネギの存在が不可欠だ。

 

上の画像は自宅近くの鶏料理屋さんで食べた鴨しゃぶ。ネギまみれにして味わう鴨はなかなかウマかった。これから涼しくなってくるとこういうモノが恋しくなる。

 

鴨肉はあまり火が入りすぎても良くない。半生ぐらいだとウナるほど美味しいのに火が入りすぎると別モノかと思うぐらい劣化?する。いわゆるタタキぐらいで楽しむのが無難だろう。

 



 銀座一丁目にある焼鳥屋「葡萄屋」に行くと頼みたくなるのが鴨のタタキだ。結構ボリュームがあるので誰か連れがいないと味わえない。一人でふらっと訪ねた際にはいつも我慢である。

 

鰻屋さんの「う巻き」みたいなものだ。あれも一人だと頼みづらい。最後の鰻重までたどり着けなくなる。なんだか例えがヘンテコになってしまった。

 

鴨の魅力は鶏肉とは一線を画したあの旨味というかコクというか独特の風味だ。私のボキャブラリーでは上手に表現できないのが残念だ。

 

サッパリしているかのように思わせておいてパンチの効いた脂の部分がジュワジュワと口の中に広がる。鳥肉感とは別モノ。かといって豚肉の感じともまったく違う。クセという意味ではヤギ・ヒツジ系に通じる雰囲気も無くはないが、やはり孤高?の味わいだと感じる。

 


これを書いているだけでまた鴨を食べたくなってきた。秋から冬に向けて鴨肉で幸せになる機会は増えそうだ。

 

 

 

 

 

2022年9月2日金曜日

香川照之騒動に思う

 俳優・香川照之へのバッシングが止まらない。何ともビミョーな話だと思う。三年前の乱痴気騒ぎで当事者同士でカタがついた話を蒸し返して尾ひれをつけて攻撃する空気ってちょっと怖い。


旧友を擁護したい気持ちだけでなく純粋に違和感がある。過去の話であり訴訟沙汰の当事者でもなかったわけだから、裏があるというか何か作為的な感じもする。何かしらの虎の尾でも踏んだのだろうか。




CM降板も相次いでいるようだが、商売上、大衆迎合するしかないスポンサーとしてはここまで炎上が続いたら仕方がないのだろう。


これがジャニーズ事務所や大手芸能プロ所属のタレントだったらここまでの騒ぎになったのだろうか。ふた昔前の和泉元彌バッシングの際も後ろ盾の事務所が無かったことが反発勢力を勢いづかせたらしい。それと似た感じがする。


もちろん世の女性達の中にはセクハラ行為をした人間を見るだけで不快になる人はいるだろう。その理屈の前では「あらあらバカだねえ。気をつけろよ」という鷹揚な感覚は太刀打ち出来ないわけだ。


正直言って男目線ではただただ気の毒だ。非難覚悟で言ってしまえば夜の酒場でのスケベなイタズラが「性加害」なる重々しい言葉に脚色されて断罪されるのはどうかと思う。ましてや後になって謝罪して決着しているわけだから過剰なヤッカミにも思える。


つくづく自分が一般人で良かったと胸をなでおろしている。そう感じる人は2千万人ぐらいはいる気がする。すいません、さすがに言い過ぎか。。


パワハラおじさんだの酒癖が最悪だのバッシングのネタはそういう次元だ。それはそれで褒められた話ではない。でも薬物だのレイプだの脱税だのといった犯罪と同じようなノリで叩き続ける世間の空気感は気持ち悪い。


騒動当初に擁護派の声が多かったことも、いわゆる"正義中毒"や"マナー警察"みたいな人達を燃え上がらせてしまった原因だろう。つくづく有名税というヤツの大変さを感じる。


多目的トイレでちゃっちゃとセックスに励んだ芸人、ひき逃げを起こして平然としていた俳優、かつては深夜の公園で全裸になって捕まったアイドル、婦人警官をクルマで跳ね飛ばして逃げたアイドル、もっと昔にはパンツに勝手にマリファナが入っていたと強弁した名優等々、有名人の騒動はいくらでもあったが、今回の騒動は実に小粒な話だと思う。


まあ、正義感バリバリの立派な聖人君子からすればコトの大小は問題ないという理屈になるのだろう。それが正論と言えば正論なのだろうが、随分と窮屈な社会になったものである。


そう考えること自体が既に時代とズレていると叱られるのかもしれない。それならそれで仕方ない。それが私の感覚だ。無理してそれを直そうとも思わない。


ついでに感じるのがSNS社会の気持ち悪さだ。声なき声ではなく、過激に意思表示する一部の人間の声がさも世論の大勢かのように世間に広まっていく。


それこそ、騒動について何とも感じていない人や別に叩くほどの話ではないと思っている人はあえてSNSで意思表示することはない。結果、トンガった声ばかりが世間の耳目を集める。なんとも気持ち悪い話だ。


今回の騒動はベタに表現すると、出る杭は打たれるの見本みたいな話だ。出過ぎた杭は打たれないという表現もあるが、出過ぎてたぐらいの売れっ子・香川照之でも後ろ盾の部分や様々な思惑が絡んだ反発勢力の力には抗しきれなかったのだろう。


こうなったら大晦日恒例の番組だったダウンタウンの「笑ってはいけない」に復活してもらいたい。世間を騒がせた有名人の禊ぎコーナーが一種のウリだったからゼヒ香川照之を起用してもらいたい。


「ブラジャー仮面」とでも名乗って吹っ切れて弾けて欲しいものだ。大真面目にそう思う。