2023年9月29日金曜日

オトナの食べ物?

 

若い頃には見向きもしなかったのに今はシミジミ味わう食べ物は多い。お吸い物なんて昔はその存在意義すら理解不能だったのだが、今では出汁の旨味にウットリする。

 

誰に教わるでもなく年齢とともに勝手に感動できるようになるから実に不思議だ。秋の気配とともに恋しくなるのが土瓶蒸しだ。若い頃にはちっとも惹かれなかったが、いつの間にかこの季節には欠かせない一品になった。

 



これは新富町のお寿司屋さん「なか山」で出てきた一品。液体のくせに酒の肴にもなる卓越した料理だと思う。外国人旅行者には土瓶蒸しで陶然とする感覚は理解できないはずだ。

 

大人の味と一口に言っても幅広いが「外国人旅行者が理解できそうにない味」が一種のキーワードになるような気がする。イカの塩辛、あん肝、奈良漬けあたりの美味しさは日本人ならではの味覚だと思う。

 



うざくである。築地の宮川本廛で食べた。私は中央区界隈で4,5軒の鰻専門店を利用するが、どの店でもうざくは外せない。これと白焼きを肴に一献傾けながら鰻重を待つ時間が大好きだ。

 

まさかウナギ自身も自分が酢とキュウリに混ぜ合わされるとは思っていなかっただろう。名店のうざくはキチンと温かいウナギを使うのが嬉しい。これもオトナの食べ物の代表格だと思う。

 

先日、実家を訪ねたついでに荻窪の老舗蕎麦屋「本むら庵」に出かけた。20代の頃から利用している店だが、若い頃は蕎麦をいくら食べてもちっとも満腹にならないから天重をメインにしていた。今ではツマミをあれこれ食べて蕎麦を二枚も食べれば大満足である。

 



蕎麦がきもこの店では欠かせない。これもまたオトナの食べ物だ。もっちりした食感で切り揃えた蕎麦とはまるで別物の味わい。これも若僧時代は何の感慨もなく惰性で食べていたが今では目の前に置かれるとウキウキする。

 

この店のせいろは900円なのに対して鴨せいろは1800円もする。2倍の値付けだけあって鴨せいろのつけ汁がなかなかのもの。細かい鴨肉とネギがどっさり入った温かい汁だ。せいろを浸して味わうとこの上なく幸せな気分になる。

 




最近は東京でも趣向を凝らしたうどん屋が増殖して若者がうどん屋に行列を作っている光景を見かける。歳のせいか「それは西の食いモンだろう?」などとディスってしまう私だが、やはり東京人としては蕎麦がイチ押しである。

 

この春に引っ越した日本橋界隈には蕎麦の名店がいくつもある。なのにまだちっとも開拓できていないことが最近の私のストレスでもある。どうでもいい肴をつまみに安酒場で飲むよりも蕎麦飲みに励む方が正しいオトナだと思う。頑張らないといけない。

 

さて、風流人を目指しているかのような書きぶりになってしまったが、ジャンク飯をかっこむことから卒業出来ないのが私の悪い癖である。それも飲んだ後の2軒目にドカ食いをしがちだ。脳の中に悪魔が住んでいるのだと思う。

 



某日、寿司屋でしっかり飲み食いした後に時計を見たらまだ夜の8時前、脳の中の悪魔が「8時前に食えばカロリーはゼロだよ」と囁く。バカな私はそれを信じて吉野家に突入。

 

以前なら「特盛り」を嬉々として食べたのだが、さすがに最近は自制している。白米は通常の量で上だけが多い「頭の大盛り」に留めている。「並」を注文することだけは男のプライドが邪魔をして出来ない。

 

この時は“肉々しい”気分だったので通常より肉が多い「肉だく牛丼」にしてみた。「頭の大盛り」との違いがよく分からなかったので半熟たまごを追加するついでにタッチパネルで「頭の大盛り」も選択してみた。

 

肉がたくさんの牛丼、おまけに頭の大盛りということはバカが考えても肉でいっぱいである。それでも合計で800円程度だ。日本経済の凋落ぶりにこの時ばかりは感謝したくなった。

 



出てきたのがコレだ。肉タワーみたいなのを想像していたが残念ながら肉が別皿でやってきた。でも肉々しい気分の私には幸せな眺めである。別皿肉もドンブリに加えて紅生姜を乗っけて半熟卵を混ぜ混ぜしてかっこむ。

 



得も言えぬ幸福感に包まれた。寿司屋でツマミをあれこれ頼んで握りも10貫近く食べた直後だったのだが余裕で完食。つくづく健康体でいることの大切さを痛感した。

 

こんな食事を続けていたら健康体でいられる時間も残り少ないかもしれない。まあ、こんな暴飲暴食をしなくても身体がダメになる時は来るわけだから出来る時にガッツリ食いをするのも悪くない。

 

とにもかくにも街の至る所に牛丼屋があるニッポンバンザイである。

 

 

 

 

 

 

2023年9月27日水曜日

胸キュン


「趣味がJKみたい」。最近、大学生の娘からそんな事を言われる。若者が観るような映画にハマってオイオイ泣いている私の純情ぶりが娘にはまるで女子高生みたいでブキミに映っているようだ。

 

以前、帰宅した際に「頬っぺたにラメが付いてるわよ」と指摘され、以来、ウチでは時々「ラメ男」と呼ばれている。いわば「ラメ男なのに趣味が女子高生みたいなオジサン」である。ヘンテコである。

 

だいぶ前に全国の高校生が涙した映画「君の膵臓が食べたい」に感激して以来、若者の胸キュン映画をナゼかよく観るようになった。我ながら変だと思う。

 



先日は、今年始めに若者界隈で評判を集めたNetflixの配信ドラマ「初恋」にドハマりしてほぼ一気に観てしまった。これまた感涙の極みだった。主人公の高校生時代を演じた八木莉可子という女優さんが何とも素敵だった。

 

Netflixの配信ドラマといえば「聖域」という相撲道を極めていく不良少年の成長物語もとても面白かったが、胸キュンを求める私としては「初恋」のハラハラドキドキ感のほうが堪らなかった。

 

純情、純愛という私にとっては無縁になってしまった大昔の感覚を今になって切なく懐かしがっているのかもしれない。これもまた人生を振り返る年代になってきた証なのだろう。

 

青春胸キュン系ではないが、「そしてバトンは渡された」という最近の映画も素晴らしかった。青春ジャンルとは違うがこれもまた胸キュン映画と言える。永野芽郁ちゃんが実に可愛かった。大森南朋や市村正親がいい味を出していてなかなかの名作だと思う。

 


単なる恋愛映画よりもちょっとファンタジーがかった作品に昔から惹かれる。悪くいえば奇天烈な話に妙に引き込まれる。

 

若い頃はトムハンクスが名を売ったB級コメディみたいな奇天烈系にハマった。愛した彼女が実は人魚だったという「スプラッシュ」、子供の頃に戻りたいと願っていたらホントに子供になってしまった「ビッグ」などは何度も観た。

 

デパートのマネキンが人間に変身するその名も「マネキン」という奇天烈ラブロマンス映画も大好きで今もスターシップが歌った主題歌「Nothing's Gonna Stop Us Now」をしょっちゅう聴いている。

 

それらの洋画は1980年代の作品だ。時代の空気も相まって能天気に楽しめてちょっぴりホロっとする名作ばかりである。

 

その後の私の趣味を決定的にしたのが1990年の洋画2本だ。「ゴースト・ニューヨークの幻」と「オールウェイズ」である。両方とも主人公が死んじゃって生き残った彼女を必死に守る奇天烈なラブストーリーである。

 



単純明快な私はこういう映画を見ると妙に感情移入してしっかり泣く。正直に言えば号泣する。ちょっと変かもしれない。

 

要は「死んじゃったけど成仏しないで誰かのもとに出てくる」みたいな作品は総じて私の好みである。浅田次郎原作、高倉健主演の「ぽっぽや」、東野圭吾原作、小林薫と広末涼子の「秘密」あたりの日本映画も泣けた。

 

やはり東野圭吾原作の「ナミヤ雑貨店の奇跡」、浅田次郎原作の「地下鉄(メトロ)に乗って」あたりも本来ありえない奇天烈話なのだが、そこが私にとっては魅力的だった。

 

アニメ映画「君の名は」もそっち系の話だと聞いたので今年になってようやく観てみたのだが、しっかり泣いた。子供が観る映画だろうとまったく興味がなかったことを後悔したほどだった。

 

「死んじゃってる」「タイムスリップしちゃう」。こういう要素をうまく織り込んだ映画だと私の涙腺は崩壊する。現実から遠すぎるから逆に感情移入しちゃうみたいだ。

 

そんな私をまた大泣きさせた映画に出会った。昨年暮れに公開された「月の満ち欠け」がそれ。大泉洋と目黒蓮、有村架純が熱演している。

 


メメと架純ちゃんの切ないラブシーンに泣き、大泉洋の切なさに泣き、この30年ぐらいの軌跡を時代を交互に描きながら感動の終盤に持っていくストーリー展開にすっかりやられてしまった。

 

親子の愛、夫婦の愛、恋人への愛がすべて詰まっていた。悪役なんて一人しか出てこない。上で紹介した映画「そしてバトンは渡された」で最高の善人役だった俳優だけが悪者。とにかく私には刺さりまくる作品だった。

 

気付けば50代も半ばをとうに過ぎ、純愛だの夫婦愛だのとはすっかり無縁になった私だ。そんな環境に身を置いていると、映画が描く美しく尊い人間の絆みたいなものに憧れにも似た気持ちを抱くのだろう。ちょっとセンチな気分になる。

 

いま思えば夫婦愛はさておき、若い頃の胸キュンな純愛は人生経験の中でも貴重な時間だったと痛感する。あんな気持ちになるのは来世までお預けである。

 

もし私が池に斧を落として拾ってくれた神様に願いを一つだけ叶えてやろうと言われたら、きっと純愛の気持ちを感じさせてくれと願うはずだ。きっとそうする。

 

いや、やはり「どぶろっく」の歌と同じように「大きなイチモツをください」と頼んでしまうような気がする。

 

以上です。

 

 

 

 

 

2023年9月25日月曜日

思い出と胸焼け


自分が若造だった頃、中高年世代をオッサンと小バカにする一方で、重厚感や円熟ぶりに一種の畏怖の念も感じていた。気付けば私もそっち側の人である。若者に畏怖の念を抱かれるはずもない日々を過ごしているが、それなりに重厚感は出てきたのだろうか。どうも怪しい。

 

オジサマ世代になってみたらみたで案外頭の中は若造時代と似たようなものだと感じる。もちろん、知識や経験を重ねてそれなりに人としての幅は広がり、変に力まなくなったが、若い頃に勝手にイメージしていた“立派な大人”とは違う気がする。

 

尊敬する祖父が5060代の頃は何を考えていたのか、どんな感覚で日々を過ごしていたのか、最近はそんなことが頭をよぎる。祖母もしかり、ご先祖様達の中高年時代の頭の中を覗きたい気持ちになる。

 

そんなことを考えながら夜の銀座をブラついていたら老舗の天ぷら屋「天國」を見つけた。以前は中央通り沿いにビルがあったが、少し奥まった路地に移転していた。この店の特製かき揚げ丼を祖父が好きだったことを思い出して暖簾をくぐってみた。

 



昔ながらの東京の天ぷらは関西勢に押されて最近はあまり人気がないように感じるのは気のせいだろうか。私自身もあまり食べていない。衣がちょっと重ためで天つゆにビシャビシャつけて食べたくなるのが私が思う東京流である。

 

芸術的に薄い衣をまとい、お塩でどうぞ、などと言われる天ぷらは個人的には苦手だ。もちろん好みの問題ではある。美味しさだけで選ばされたら東京風は確実に不利?である。でも身に染み込んだDNA的感覚で私は天つゆビシャビシャで食べる天ぷらが大好きだ。

 



というわけで久しぶりの天國である。目指すはかき揚げ丼だが、その前にちょろっと晩酌。塩辛は正しく塩辛く、ツナとオニオンスライスの盛り合わせはちゃんとしたツナがたっぷりで抜群の一品だった。

 




普通の天ぷらも少し頼む。海老とキスだ。いい感じに衣をまとっている。大根おろしをどっさり入れた天つゆに浸して味わう。正しい東京天ぷらである。もっといろいろ注文したかったのだが、シメのかき揚げ丼のために我慢する。

 

まだまだ満腹感には程遠いちょうどよい頃合いで特製かき揚げ丼がやってきた。4千円ぐらいのなかなかの値付けである。他に用意されている季節のかき揚げ丼や海老などの天丼に比べても別格の値付けだ。

 



で、小エビと貝柱のみで作られたかき揚げがデンと乗っかったドンブリが登場。茶色を通り越して凄い色である。「これだよ、これ!」と一人つぶやきながら大事なことを思い出した。非常に大事なことである…。

 

かき揚げ丼はあくまで祖父が好きだった一品であり、子供の頃に同行していた私は常に違うものをバクバク食べていた。実は私は特製かき揚げ丼が好きではなかったことを急に思い出してしまった。

 

まさに後の祭りである。思い出補正のせいで勝手に懐かしい味だと思いこんで注文してしまったわけだ。ショックである。

 

でもウン十年も経っている。きっとオジサマ世代になった私なら美味しく感じるはずだと悪い記憶を振り払って無心に食べ始めた。キリっとした味付けのタレがかかった白米はウマいのだが、肝心のかき揚げがビミョーだった。

 


 

ファンの人には申しわけないが私の味覚が子供時代のままだったせいか、ちっとも感動しない。ただただ重たい。頑張って食べるハメになった。祖父を思い出しながら郷愁に浸るつもりがフードファイト状態になってしまった。

 

「思い出は美しすぎて」みたいな話にしたかったのに結果は胸焼けバリバリである。店を後にした後で膨満感解消のために少し歩く。結局、夜のクラブ活動エリアに足が向いてしまった。

 

太田胃散をもらうことを第一目的に久しぶりに顔を出すクラブで一休み。かつて祖父が愛したオールドパーを炭酸割りにしてグビグビ飲んでゲップを連発してから帰路についた。

 

思い出は必ずしも美しいものではないと痛感させられた秋の夜だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2023年9月22日金曜日

尻を追いかける


尻を追いかける。いうまでもなく好色男に使われる言葉である。「いい歳していつまで女のケツを追っかけてるんだ!?」。私が1年に365回ぐらいは言われる言葉でもある。

 

「尻を追いかける」を辞書で紐解くと「色を好み、女性にやたら好意を振りまくさま、ちょっかいを出してばかりいるさま」だという。ふむふむ。ちょっかいを出すぐらいの私にもピッタリ?である。

 



「オッパイを追いかける」とは言わないところが実に正しい。世の中にはオッパイ星人と呼ばれるオッパイ愛好家がたくさんいるが、私は女性の魅力はあくまで尻だと考える。すなわち尻派だ。「いい歳して…」と避難されようがいつまでも尻を追いかけ続ける男でいたいものである。

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http://fugoh-kisya.blogspot.com/2015/03/blog-post_6.html

 

さて、「いい歳して…」問題である。はたして何歳までが“尻追い人”として非難されずに済むのだろう。一般的には中年と呼ばれるあたりで根拠の曖昧な「分別」という壁に突き当たる。多くの人がそこで引退してしまう。

 

しかし、そんな線引きは実に馬鹿げている。現に老人ホームでは80歳を過ぎたような老人たちが恋のサヤ当てを演じて傷害事件まで起きたりする。


「バカだねえ。みっともない」と大半の人はそんな事件を鼻で笑うが、私はある意味うらやましく感じる。自分がその年になってそこまでの情熱を持っていられたら幸せだろう。

 

かの大岡越前のエピソードで知られるように女性の性欲は俗に「灰になるまで」とも言われる。男性だって「灰になるまで精神」は必要だと思う。たとえ機能に問題があっても異性を求める気持ち自体は失くす必要はないだろう。

 

ジャニーさんみたいにタチが悪いのは別だが、たかだか中年ぐらいの年齢でそっち方面から引退しちゃったような顔をするのは考えものだ。

 

とかく常識なんてものは安定秩序を求める一種の同調圧力が生んだ根拠曖昧な得体の知れない空気みたいなものである。そんなものに闇雲に縛られていては人生は味気ないものになる。

 

サッカーの三浦カズだって50代半ばを過ぎて今だに現役だ。非常識の極みである。でも彼にとって年齢は単なる数字に過ぎないのだろう。現役選手で居続けることは彼にとっては常識であり自然な姿なのだと思う。

 

私もいまだに“尻追い人”を実践している。正直に言えば時には面倒に感じる。まっすぐ帰宅してビール片手に豚丼特盛を食べながらバラエティー番組を観ているほうがラクチンなのは事実である。

 

でもそんな時間ばかりではオスとして錆びつくだけだ。時には自分に鞭打ってシュっとした顔を作ってオネエサンの尻を目指す。「あわよくば…」というヘタれた考えではなく、あくまで「何としてでも」ムホムホな展開になるよう知恵も絞るしカネも出す。

 

これって結構なエネルギーが必要だ。時に疲れてバテバテになる。バカと言われればその通りだがバカで結構だ。この歳になるとバカなことに熱中するのは案外大事なことだ。

 

先日、若いオネエサンと鰻屋さんに行った。細めのオネエサンだからスペシャルな鰻重は食べ切れないと睨んで、私の方はショボい鰻重にしてみた。オネエサンから回ってくるはずの厚みのある鰻を食べれば充分だと判断したわけだ。

 



ところが、いつまで経ってもオネエサンから鰻が回ってこない。ちんまりと痩せた鰻を食べながら待っていたのだが、気付けば厚みのある極上鰻は全部オネエサンに食われてしまった。

 

満塁で押し出しフォアボールを与えてしまったような、リレーでバトンを落としちゃったような、何とも言えない切ない敗北感を味わった。

 

この詰めの甘さは“尻追い人”として生きていく私の弱点である。仕方ないからそのオネエサンには違った意味でしつこくお仕置きをしてしまった。ガハハハ、何ともベタなオヤジの戯れ言である。

 

まあ、こんな平和な日常を過ごしているのは幸せなことだ。人生後半戦、まだまだ現役で頑張ろうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

2023年9月20日水曜日

変態的嗜好


誰もが他の人からすればビックリ仰天の嗜好を持つ。下ネタ方面のことしかり、食べ物のことしかりである。下ネタ方面の変態的嗜好については書き始めたら三日三晩でも足りないぐらいだが、今日はそっちではなく食べ物の話。

 

カップヌードルに酢を大量投入して喜んで食べている知り合いがいた。私も普通の醤油ラーメンには酢を入れて味変を狙うことがあるから全否定は出来ないが、カップヌードルと酢の組み合わせはビミョーだろう。

 

もちろん、本人が旨く感じるのなら他人がとやかく言う話ではない。私の場合、カップ麺だと「緑のたぬき」などの蕎麦に関してはヘンテコな食べ方を実践している。お湯を入れたらすぐに食べ始めるという変態的嗜好だ。

 

ラーメンやうどんのカップ麺だと熱湯を入れてから1分ぐらいは待つのだが、ナゼか蕎麦だと速攻で食べ始める。ボリボリゴソゴソした食感が最高だ。お菓子を食べているような楽しさがある。

 

子供の頃は変態的な食べ方ばかりしていた。すき焼きの鍋が焦げないように用意される牛脂の塊を嬉々として食べたし、炊きたてご飯に普通の酢を大量投入してビシャビシャになった米をさらさらとかっ込んだりもした。

 

誰にでもそんな独自の食べ方や好みがあるはずだ。世間に認知されれば変態扱いされないだけで、たとえばお好み焼き屋の「そばめし」などは奇天烈としか言えない。もっと言えば日本人の大定番である納豆だって違う食文化の国の人が見たらゲテモノにしか見えない。

 

納豆スパゲティ、しらすピザ、そんな和洋折衷系のメニューはよくよく考えれば変態バリバリなのかもしれない。

 

さて、変態的とまでは言えないものの、人様に熱弁してもあまり共感してもらえない私の好物が「つけ合わせスパゲッティ」である。洋食屋さんのメンチカツやエビフライの横にどうでもいいような感じでちょこっと盛られるアイツである。

 

たいていは味が微妙に薄い。もちろん具は一切無し。常温が基本である。ウマいマズいという論評の外に置かれた存在であり、正式名称があるのかどうかも分からない。阪神・岡田監督の「アレ」ではないが、あの“謎麺”のことは便宜上「アイツ」と呼ぶことにする。

 

一度でいいからアイツを山盛り食べてみたいと昔から思っている。勇気がなくてそんな注文はきっと死ぬまで出来そうにない。

 

タヒチやアフリカに行ってみたいという願望と同じぐらい私にとっては憧れである。このブログでも5年ぐらい前にもその事を熱く語った。

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2017/08/blog-post_25.html

 

そんな私にアイツを山盛り食べるチャンスがやってきた。最近発見した簡単調味料「ケチャッピー」のおかげである。その名もファンキーなこの商品はあえるだけでナポリタンが出来るというシロモノである。

 



今までちゃんと具を用意して使うか、チキンライスを作る際に流用していたのだが、ある日ふと気付いた。「これを規定量より少なくして具を何も入れなければアイツが出来るじゃないか!」。ちょっと変態的な思いつきである。

 

で、実践してみた。麺を茹でてフライパンでケチャッピーを加えて炒めるだけである。ところが、ところがである。天性の料理人?としての血が騒いでしまい、血迷って具を入れたくなってしまった。その時点で既に計画崩壊である。

 

合いそうな具が見当たらなかったのでシャウエッセンをハサミでカットしてマッシュルームとともに投入。ケチャッピーは規定量の3分の1程度にして定食屋で出てくるような頼りない味に仕上げる予定だったのに、シャウエッセン投入と同時に妙な色気が出てしまい勢いで規定量ぐらいの量を入れてしまった。

 



おまけに仕上げに粉チーズをぶりぶり投下、もうアイツとは呼べないちょっとした子供だまし的ナポリタンになってしまった。大失敗である。おまけに熱々を食べてしまった。アイツなら常温で食べるのが正しいはずだったのに大脱線だ。

 

味の方は普通にそこそこウマかった。それ自体がアイツとは一線を画してしまった感じだ。アイツはウマいマズいという感想とは無縁のぶっきらぼうな感じが魅力である。実に中途半端なモノを作ってしまったわけだ。

 

やはりアイツは意外に強敵だ。簡単にチャッチャカ作れちゃうような生易しいものではなかったわけだ。甘く見ていた私の負けである。今回の失敗の教訓は空腹の時に作ってはいけないという事だ。

 

アイツを完璧に仕上げるためには満腹の時にいやいやながらやっつけ仕事で作るのが正解だろう。そうすれば味見もせずに正しくテキトーな味になるし、イヤでも冷めちゃって常温になる。食い意地の張った私にはなかなか難しい取り組みだが、いずれ再挑戦するつもりだ。

 

 

 

 

 

2023年9月15日金曜日

浅草今昔、そしてメヒコ


この10年で大きく変わった街はどこか。渋谷もずいぶん変わったが、浅草の変貌ぶりにも目を見張るものがある。スカイツリーが出来たのが2012年。その頃から浅草が一気に息を吹き返した感じだ。

 

スカイツリー以前の浅草といえば薄汚い路地があちこちにあってサビれた感じが強かった。アマノジャクな私はそんなうらぶれた空気の中に身を置きたくてちょくちょく出かけた。

 

モダンにオシャレに発展する都内各地の繁華街を横目に我関せず的に独自路線?を歩むそんな浅草の雰囲気は東京生まれの人間が好むノスタルジックそのものだった。

 

進化する都心に比べて置き去りにされているような印象があったが、この10年の変わりようはかなりのもの。コロナ前のインバウンド激増効果もあって、気付けば急激に美化が進みすっかりモダンな観光都市に変貌した。

 

どこで買えるのか聞いてみたくなるようなヘンテコなジャンパーを着て謎めいたキャップをかぶった怪しいオッサン達の姿も昔に比べると激減した。

 

以前はすれ違いざまに「おー、タバコ一本くれ」などと声をかけてくる見ず知らずのオッサンに遭遇することもあったが、あの人達はどこに追いやられたのだろう。

 

うらぶれ感が浅草から失われたことを私が残念がったところで仕方がない。地元の人にとって活気が甦るのは単純に喜ばしいことだ。大昔には東京一の繁華街であり流行発信源だったのが浅草である。昭和レトロ路線をモダンにアレンジして独自の進化を続けて欲しいものだ。

 

私が学生時代、すなわち昭和の後半ぐらいまでは東京の繁華街にはそれぞれカラーや匂いがあった。今はどの街も画一化してしまった印象がある。せめて浅草は独自の匂いを醸し出す街であって欲しい。

 

天ぷらやすき焼き、鰻や釜飯といった古典的ジャンルに名店が多いのも浅草の特徴だ。洋食屋さんにもウマい店がいくつもある。歳を重ねるに連れそっち方面のウマいものにしか興味がなくなった私にとっては魅力的だ。死ぬまでに一度は住みたいと思っている。

 

先日、あてもなく浅草散歩に出かけた。杉並区、新宿区、豊島区と暮らしてきた当時にはやたらと遠く感じた浅草も中央区に住むようになったら電車で10分程度で行けるようになった。もっと頻繁に散策しに行かないともったいない。

 

この日は何となく“浅草的ジャンクめし”を食べたい気分だったので久しぶりに「シーフード・メヒコ」を選ぶ。茨城県で人気のレストランみたいだが、浅草店は街の空気に妙にマッチした雰囲気が漂う。

 

オシャレだとか高揚感だとかは無縁のヌルい感じで昔ながらのレストランといった風情が良い。ヤケクソみたいなカニピラフが名物でだいぶ前にこのブログでも紹介した。

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2016/01/blog-post_6.html

 

今はウニキャンペーンの時期だったようで、怪しげなウニメニューが並んでいた。ウニを乗せたステーキ、ウニを塗ったロブスター、ウニピラフなどである。

 

こういう使われ方のウニが美味しいはずはないと頭では分かっているのだが、ここは浅草である、ここはメヒコである、という一種投げやりな?な思い込みによってそれらを注文することにした。

 



つぶ貝の刺し身と海老カクテルという謎の組み合わせを手始めに生ビールをグビグビ。このユルい感じが浅草でありメヒコである。

 



海老カクテルの実に素っ気ない無造作な感じが妙に嬉しい。味もごく普通だ。でも「浅草のメヒコでメシ食ってるぜ」という現実が私にとっては魔法のようで妙に楽しい気分になる。

 

で、ウニステーキとオマール海老のウニ焼きがやってきた。実にベタで実に無造作でそのまんまな感じが潔い。。こういうウニをお寿司屋さんで食べるウニと比較してはいけない。とりあえずウニっぽい風味を感じられれば十分満足である。

 




ステーキはともかく海老のほうはメニューの画像とずいぶん違う。ウニを乗せ忘れたのか調理中に落っこちてしまったのだろう。まあいいか。

 

肝心の味のほうは極めて普通である。でもそれでいい。それでいいんだメヒコ!って感じである。意味不明ですいません。

 

名物のカニピラフを頼むつもりだったのだが、「煮込み牛タンドリア」というメニューが私を呼んでいたのでそっちに心変わり。「バターライスの上にホワイトソース、その上にデミグラスソースがのった満足コンビネーション」というメニューの説明文を見たら頼まずにはいられない。

 


で、出てきたのがコレである。真っ黒くろすけである。さすがだメヒコ!と快哉を叫ぶ。イマドキこんな見た目の冴えない一品を出してくる無造作な感じが私のM心を刺激する。インスタグラマーなら撮影を断念する見た目だ。

 

一口食べる。ウマい。普通にウマい。見た目より遥かにマトモだ。余計なコマ切れ野菜など全く入っていない素っ気なさも良い。凝りまくった料理にはない達観した世界観である。

 

ちょっとほぐしたら多少は見栄えが良くなった。そうでもないか。端っこの方はソースとバターライスが焦げ付いちゃってそれはそれで美味しい。感激しないけど遠からずまた食べたくなる味とでも言っておこう。

 


 

浅草で洋食といえば人気店のヨシカミや名店グリルグランドなどいくつも行くべき店がある。そんな中でメヒコを選んだわけだからこういうドリアに出会えたことはある意味で「いとをかし」である。

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2020/02/blog-post_12.html

 

聞くところによると浅草に遊びに行く若者たちは増殖したカフェっぽい店の“バエる”スイーツなどを買って歩き食いや立ち食いをするばかりで昔ながらのレストランに入らずに帰ってしまうことが珍しくないらしい。

 

実にもったいない。せめてレトロな喫茶店でナポリタンを食べたりクリームソーダを飲むべきだと思う。

 

 

 

 

 

 

2023年9月13日水曜日

焼豚男

 

ラーメンを食べる時、貴重なチャーシューを温存して、減っていく麺とのバランスを取りながらちょっとずつ噛じったりしたことはないだろうか?

 

私はある。何度もある。学生の頃まではいつもそうだった。麺は残っているのにチャーシューが無くなった後のあの寂寥感は砂漠に一人置き去りにされたような切なさがある。

 

一人で砂漠にいた経験はないのだが、そのぐらい寂しい気持ちになる。だから私は大人になってからはチャーシュー麺しか頼まないのが基本だ。チャーシューをちびちび噛じることなく最後の麺をすする時にも肉をセットで味わう。これこそが大人になった喜びだ。

 

食べているのがはたしてラーメンなのかチャーシューなのか分からないのが私のラーメン道だが、そんな私をムホムホ興奮させる逸品を食べる機会があった。「喜多方ラーメン坂内」のキャンペーンのおかげである。

 



「焼豚まみれ祭」なる麗しいキャンペーンをやっているという情報を入手し、わざわざお店のインスタをフォローして特典のスペシャルラーメンを食べに行ったわけだ。メガ盛りチャーシューラーメンである。画像を見るだけでゲンナリ、いやワクワクする。

 

正直、運ばれてきた時は「無理かも」と弱気になった。若者じゃあるまいし、さすがに23枚も入ったチャーシューは我が人生でも経験がない。少したじろいだのだが元々この店のチャーシュー麺は私の好物だ。とりあえず無心で食べ始めた。

 

何が嬉しいってとにかく麺を一口食べるごとにチャーシューを一緒に頬張っても最後までチャーシューが無くなる気配がない。これって物凄い幸せだ。かつてチャーシューの残量を必死に考えながら麺をすすっていた日々に思いを馳せて涙が出そうになった。

 


ものの10分もしないうちに完食してしまった。麺量が普通だとチャーシューがドカ盛りだろうと思ったほどキツくない。キツいどころか最後まで美味しく味わった。期間限定なのが惜しいほど迫力に満ちたラーメンだった。

 

さてさて、私はチャーシューが大好きだから街ブラしている際にウマそうなチャーシューを見つけると衝動買いをしてしまう。チャーシューの面白さ?は店やメーカーによって味の差が非常に大きいところである。

 

ハムやソーセージなどはどこで何を買っても想定内の味だが、チャーシューとなると凄くウマいのから凄くマズいものまで百花繚乱である。自分好みのチャーシューを見つけると宝くじで3千円が当たったぐらいの喜びを感じる。

 



 

最近の私のお気に入りが「人形町今半」の惣菜店で売っているチャーシューだ。自宅から徒歩圏にお店があるので毎週末のように買いに行く。

 

この惣菜屋さんはすき焼きコロッケやメンチカツが人気だが、チャーシューも安定して美味しい。暑い夏の盛りには冷やし中華と一緒に頻繁に食べまくった。

 

いちいち取り寄せるのは面倒だから散歩ついでに買える点が有難い。引越し前の住まいでもわりと近くにチャーシューをウリにするお肉屋さんがあったので頻繁に買いに行った。「肉のたかさご」という月島の精肉店だ。

 



相場よりちょっと高値なのだが、ある意味それが美味しさの証ともいえる。ブロックだけでなく5枚程度からスライスされた商品も揃っているので用途に応じて色んなサイズを購入した。

 

ちなみに市販の焼豚の場合、安くてウマいのは私の経験上ほぼ皆無である。引っ越しで「肉のたかさごロス」になっていた私だが人形町今半に救われた感じだ。

 

先日、新たにウマいチャーシューを売る店を見つけた。散歩ついでに発見した「焼豚・福の屋」がそれ。日本橋のコレド室町にあるお店で、ラーメン屋さんかと思っていたら焼豚屋が基本だった。

 

イートイン形式でウマそうなラーメンを出しているのだが、私の狙いはパック売りされているチャーシューだ。画像はブロック肉だが、部位の違うチャーシューが少量からでも買える。これまた安くはないのだが優しい味付けで豚肉の旨味が感じられて気にいった。

 


コレド方面もよく散歩するコースなので私にとっては徒歩圏2軒目のお気に入りが出来たわけだ。食料品の大半はネットスーパーで配達してもらうのだが、チャーシューに関してはちゃんと自分の足で買いにいったほうが間違いない。

 

ウマいチャーシューを10枚ぐらい投入するとどうでもいい味のチルド麺のラーメンも私にとってはご馳走になる。そんな食生活で大丈夫かと思うこともあるが、スープは半分以上残すようにしているからたぶん大丈夫だろう。

 

 

 

 

 

 

 

2023年9月11日月曜日

ジャニーズ騒動 100%株主


今更ではあるが先日のジャニーズ事務所の記者会見のことを書く。かの少年隊で飛んだりはねたりしていたヒガシが年商1000億円とも言われる会社の社長になった。昔の紅白で司会の加山雄三から「仮面舞踏会」を「仮面ライダー」と曲名紹介されたのも今や昔である。

 



いろんな方向からの質問攻めに黙り込まずに答えていた姿が印象的だった。ああいう場で何も読まずに淀みなく答えるのはなかなか難しいはずだ。話している内容はフワフワと抽象的で、かつ精神論ばかり。まあ、政治家の答弁と同じで何となくそれっぽく答えることが彼の役割だったわけだからソツなくこなした点には感心した。

 

そもそもジャニー喜多川という創業者個人の犯罪の話だ。本人は死んじゃっているわけだし、単なるタレントだった新社長さんや副社長が集中砲火を浴びるのはちょっと気の毒だとも言える。

 

いずれにせよ、社名は変えない、ジュリー社長は代表権を持ったまま役員に残る、おまけに彼女が株を100%持ったままという部分を見れば、単純に何が変わったのかよく分からないのが普通の感覚だろう。


それにしても今になって一気に多くの企業がジャニーズタレントを使ったCMなどを取りやめる動きを見せているのは凄く気持ち悪い。それこそ「何を今さら」って感じである。周知の事実だったわけだから急にコンプラ大明神みたいな態度を取り始めるのはいやらしい感じだ。


出演タレント自身の不祥事ではないのにキリがない話に思える。そうした企業はよほど清廉潔白で世間から非難されることは何一つ無いのだろう。たいしたもんだ。ジャニーズ事務所の肩をもつ気はサラサラないが、そんなイマドキの風潮が何だか気味悪い。


ジャニー氏の変態話などある意味周知の事実だったわけだから、まさに手のひら返しだ。それなら今までジャニーズタレントを起用してきたことを謝罪するぐらいじゃなきゃウソだと思う。

 

さてさて、100%株主である代表取締役が別にいる状態で新社長は何が出来るのだろう。会社組織の現実を考えたらそういう話でしかない。非上場会社である。絶対的オーナーが代表権を持って常勤役員にいるわけだから単純に考えてその会社は紛れもなくオーナーの会社である。すべての重要事項はオーナーの意向でしかない。組織人なら誰だって分かる理屈だ。

 

既に亡くなっている創業者の犯罪でその会社が損害を被り莫大な補償をする事態になったら、普通に考えて会社としては創業者の遺産を相続した遺族に賠償請求をするのが当然だと思う。

 

今回の騒動の場合、ジャニー氏の犯罪に伴う賠償を会社が負担するのなら、ヒガシ新社長は相続人であるジュリーさんに賠償請求を起こすのがスジだろう。

 

仮にそうしたくても遺族に賠償請求をするという内容が取締役会で決議できるのか、請求相手は自社の代表取締役であり100%株主である。実際にはありえない話である。

 

性犯罪以外のいわゆるメディア側の「忖度(そんたく)」の話はまた別問題だ。一般的に力がある会社なら協業他社を敵対視して自社に有利になるようあの手この手で努力する。どんな業界でも同じ。競合する相手を蹴落とそうとするのは営利企業なら当たり前の話。

 

メディア側が自分の都合を考えてジャニーズ事務所にもろもろ忖度するのも言ってみれば自由ではある。あくまでタチの悪い性犯罪を知っていた上で報道や検証を放棄した部分が問題であって、追及されるべきはその体質だ。

 

広告などで大スポンサーになってもらっている企業の不祥事を報道することに及び腰になる構図と同じ。原発報道で煮えきらない報道にとどまる現実も東京電力というスポンサーへの忖度でしかない。

 

大手メディアはNHK以外すべて純粋な営利企業である。持ちつ持たれつの構図は報道機関を名乗るメディアの限界という話でもある。

 

なんだか話がまとまらなくなってきた。

 

それにしてもあの会社の株は100%ジュリーさんが持っているのが凄い話だ。配当はいったいどのぐらいなのか、そもそも役員報酬はどんだけ凄いのかなどと下世話な興味が湧いてしまう。

 

ちなみに今のような窮地に立たされたら私だったら責任を取る格好で役職すべてを辞任して全株売り払って逃げ出しちゃうと思う。そのほうがよっぽどラクだ。

 

年商1000億円の会社である。はたして全株を手放そうとしたらいくらで買い手がつくのだろう。想像もつかない。あれだけの人材、コンテンツを抱えて莫大な収入が間違いなく見込まれるわけだから買い手はいくらでも見つかるはずだ。

 

M&Aの世界では会社の純資産の他にのれん代をどのぐらい見込むかが売買価格のカギを握る。ジャニーズ事務所が年商1000億で仮に営業利益が150億円だった場合、のれん代は営業利益の5年分ぐらいで見積もってもおかしくないだろうし、不動産などの純資産もかなりあるらしい。何よりエンタメ業界で独自のノウハウもあるわけだから企業価値は相当なもの。そう考えたら少なくとも1000億円ぐらいにはなるのだろうか。

 

「もしジャニーズ事務所が上場したら時価総額は2000億円」という読み物を見たこともある。もろもろの数字を分析して弾き出していたみたいだからマト外れでもない数字なのだろう。

 

仮に1500億で売却したと仮定すると税金は分離課税の譲渡所得だから2割程度の負担で済む。手取り1200億円である。どんだけ遊んで暮らしても死ぬまで使い切れない金額である。

 

大王製紙の御曹司経営者が会社のカネをギャンブルで使っちゃって刑務所行きになった事件ではその金額のデカさが話題になったが、それでも溶かしちゃった金額は100億円である。そう考えるととてつもない金額だ。それもたった一人の株主個人に入るわけである。

 

比べる対象がトンチンカンですいません…。

 

というわけで話がとっちらかってしまった。


あれだけの高収益企業のオーナーだったらイバラの道を歩むよりとっとと大金を手にして隠棲しちゃいたくなるのが普通だと思うのだが、それを普通だと思っているところが私が富豪になれない理由なのかもしれない。









2023年9月8日金曜日

お若く見えますね


「お若く見えますね」。そんなことを言われることがある。素直に喜べばいいのに「そんなに貫禄ないですか?」などと嫌味な返事をしてしまう。お世辞をニコニコやり過ごせないのも私のシャバダバなところである。

 

若く見えるか老けて見えるか。普通は若く見られたいのだろうが程度問題でもある。たとえば50代後半の私が40代前半にしか見えないと言われたらちょっとムカつく。貫禄がないどころか幼稚に見えているのかと心配になる。

 

やたらと若作りに励むオジサンがいる。本人の自由だからとやかく言う話ではないが、時に痛々しく見えることがある。若々しく活動的な姿を目指すなら結構だが、単に若者のマネをしているようだと薄っぺらく感じてしまう。

 

まあ、そんな突っ張った書き方をしている私だって老け込んで見られることはイヤだし、老いに対する恐怖はちゃんとある。出来ることならせめて今現在の状態が10年ぐらい続いて欲しいと思う。

 

だったら老化防止に励めばいいのにアンチエイジング的な行動が苦手だから日々テキトーに過ごしている。顔を洗うのもただお湯でジャバジャバするか、髪を洗う際にシャンプーを流用するだけだ。スキンケアは乾燥肌で痒くなった場所にローションを塗るぐらいである。

 

洒落っ気を起こして一年前に白髪染めを買ったはいいが、説明書を読んだら妙にメンドーだったから一度も使っていない。体重計にもこの3ヶ月載っていない。かなりテキトーである。

 

先日ネットで見かけた「老化を加速させる5つの原因」とやらが全部私に当てはまっていて少しビビった。紫外線対策をしない、ジャンクフードを好む、あとはタバコやらストレスやらだった。どれも今さらやめられないことばかりだから困った困った。

 



ちなみに最新の血液検査の結果は自分でもビックリの好成績!だった。身体に良いことはサプリを飲むぐらいで、それ以外は好き勝手な食生活を続けているのに正直キツネにつままれた感覚である。

 

コレステロール系統がすべて正常値の範囲で肝機能、血糖なども問題なし。わずかに尿酸値が高かったが、10年前は今より遥かに高い数値で、それでも痛風発作は起きなかったから気にするレベルではない。

 

ひょっとすると日々なんとなく続けている各種サプリや青汁の効果が出ているのだろうか。だとしたらどれも中止できないからそれはそれで厄介でもある。

 



MRIの結果もとくに問題はなかった。ウダウダと書かれた解説を読んでみたが結論としては昨年から変化はなかった。実に優秀な健康状態といえよう。頻繁にダルさは感じるし、アルコールもめっきり弱くなったのでどこか異常が起きているのかと思っていたが真逆の結果だった。

 

変な話、もしこのまま今のような暮らしを続けて70歳ぐらいまで大過なく過ごせたら大袈裟ではなく凄い事だと思う。定説などすべてひっくり返る。

 

運動はしない、野菜は食べない、好きなものしか食べず、ジャンクフードもまったく避けずにコーラやジュースもスイーツも平気で飲み食いして、それでも健康状態は良好な70歳。そんな人になれたらそれこそ世界にその現実を声を大にして叫び続ける活動家になろうと思う。

 

気休めみたいなサプリや青汁は頑張って続けるつもりだが、それだけで済むなら残りの人生も好きなモノしか口にしたくない。身体に良いからという理由でマズいものを食べることほど切ない作業はない。

 

まあ、そんな都合の良い話はあまり期待できないが、そういう願望を言ったり書いたりすることも身体に暗示をかけるために必要だ。言霊だって信じたい。

 

というわけで、人生の目標としてはかなりヘンテコだが、そんな70歳を実現させるため健康的な不摂生に取り組んでみようと思う。

 

 

 

 

 

 

 

2023年9月6日水曜日

10年という時間


10年ひと昔とはよく言ったもので、10年前と現在を比べると、何かと日常に変化は起きている。このブログは日記的な意味合いもあるから、自分が10年前の今頃は何をしていたのかがすぐに分かる。

 

ガラケーからスマホに移行したのがちょうど10年前だった。随分前のような気がする。それが10年という歳月の重さだと感じる。

 

とはいえ、10年前からちっとも進歩していないことも多い。この歳になると10年ぐらいではビクともしない日常のパターンが染み付いているのだろう。

 

夜の銀座の偽装について真剣に研究していたり(

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2013/11/blog-post_29.html)、スケベな話を一生懸命になって書いていたり(http://fugoh-kisya.blogspot.com/2013/10/blog-post_18.html)、結局今と同じである。今と同じどころか30歳ぐらいの頃とたいして変化がない日常を過ごしていると言ってもいい。

 

お年寄りのシュールな川柳を楽しく紹介していたのも10年前だ。

 

「延命は 不要と書いて 医者通い」

 「恋かなと 思っていたら 不整脈」

 「深刻は 情報漏れより 尿の漏れ」

 

10年前はそんな傑作をさも自分には関係ないように紹介していたが、列挙したようなシュールな状況はこの10年のうちに確実に私自身も無関係ではなくなってきている。ヤバいヤバい。

 

一口に10年間といっても40代の後半と50代の後半の違いはそれ以前の10年刻みの期間とはビミョーに違ってきている。老人というステージにいよいよ近づくことで妙に「時間」というものへの想いが強くなってきた気がする。

 

日々を無駄にすることへの焦りみたいな感覚が以前より強まってきたことは確かだ。とはいえ、60代、70代とは違ってそのことに切実さがあるかと言えばまだそこまでではない感じである。

 

漠然と時間を無駄にしてはいけないと思い始める年代なんだと思う。ちゃんと実行できないけど頭ではそんなことを思い始めている。

 

思えば時間って本当に貴重である。昨日とても素晴らしいことがあっても既に過去の話であり二度と同じ時間は来ない。当たり前だがその繰り返しである。

 

「昨日死んだ誰かが生きていたかった日」が今日という一日である。そう思えばグダグダ過ごしたらいけないと分かっているのだが、いまだにグダグダしてしまう。

 



読みたい本が溜まったまま増えていくことが私のストレスの一つなのだが、「読む時間がない」というのは単なる言い訳に過ぎず、その程度の時間の確保を怠っていることは問題だ。

 

本を読まずに深夜までスマホでヘンテコなリール動画を見て夜更かししているわけだから、間違いなく時間の無駄遣いである。

 

女子高生が謎に踊る動画や生きたネズミをデカいカエルが一飲みする動画、コモドドラゴンが子ヤギを追い回して食べちゃう動画やら私が見ているのはそんなものばかり。

 

貴重な時間をそれに費やす日々は実にもったいない。それなら心が洗われる映画でも観たほうがマシだ。でもきっと今日もまたワニがカバと戦う動画に見入ってしまうのだろう。

 

読書の時間の確保などという真っ当な大人なら簡単に確保している時間を私はロスしている。まずはそれを軌道修正することを目指したいと思う。

 

ちなみに上の画像に写っている本のいくつかは読んでみたが「魂でもいいから、そばにいて」という一冊はとても感動した。

 


311の後の霊体験をまとめたルポである。オカルト的気分で読み始めたのだが、そんな次元の話とは一線を画していた。大切な人を突然亡くした家族の再生と絆の物語がいくつも網羅され、正直何度も涙ぐみそうになった。

 

「時間の大切さ」というテーマであーだこーだ書き始めたくなったのもこの本を読んだことがきっかけになったんだと思う。

 

つくづく何気ない日常の大切さと、その大切さに気づかないまま日々を過ごすことの残念さを思い知らされた深い深い一冊だった。

 

やっぱりカエルのリール動画より一冊の本のほうが役に立つ。当たり前か…。

 

 

 

 

 

 

 

2023年9月4日月曜日

攻めていかねば


気づけば9月である。今年も3分の2が終わったわけだ。いよいよ音楽活動に本腰を入れないといけない、わがオジサマバンドは11月末にライブを行う。真面目に仕上げモードに入らないとマズい時期になってきた。

 

わがバンドは元々はアコースティックギター2人とボーカルの私との3人編成で始めた。その後、演目によってサポートメンバーを加え、今では曲によっては8人編成のフルバンド仕様に発展!してきた。

 


趣味の世界とはいえ「次はこうしよう、ああしよう」と欲張ってきたせいで年々ハードルは上がっている。自分で自分の首を絞めているような感じもある。自画自賛だが今やかなり本格的なレベルに到達した気がする。

 

今年も新たな取り組みとして腕っこきのパーカッションの人に参加してもらうことになった。コンガやボンゴと言われてもよく分からないのだが、とにかく演奏に新たな彩りが追加された。おとなしかったアコギバンドが随分とパワーアップしたものである。

 

着々と練習を重ねているが、総勢8人ともなると全員が集まるのはなかなか大変だ。集まれるメンバーだけで練習を行い、その録音音源を欠席メンバーと共有して合わせていく。

 

演目は15曲。その他に小ネタもいくつかあるから結構なボリュームになる。総員結集練習は本番までにあと2回しか出来ない。昨年もそんな感じだったがライブ本番はバッチリ仕上がっていたから今年も何とかなるはずである。

 

パーカッションがやたらとカッチョいいので今年はボーカル無しのインストゥルメンタルの演奏も準備している。その曲では私の担当は見学だけである。練習の際に呑気に聴き入ってみたが結構ゾクゾクした。

 

ネタバレになってしまうが今年の演目の一つに松任谷由実の「真夏の夜の夢」のカバーがある。あれこそパーカッションが主役みたいに響き渡る曲だ。これまた練習音源を聴いてかなりテンションが上がった。

 



10年以上前に何となく始めた活動がいつのまにか私の日常において大事なものになった。始める時はちょっと億劫な気持ちもあったが思い切って踏み出してみて良かったと痛感する。

 

趣味のない生活は味気ない。かといって何かを一から始めるにもエネルギーが必要だ。中年になると「今さらそんなこと出来ないな~」とか言いながら何かと“守り”に入ってしまいがちだ。人生の残り時間は限られているわけだから、中年こそ興味を持ったことには何でもかんでも手を出したほうがいいと思う。

 

絵画教室に通うも良し、囲碁教室に通うも良し、サーフィンを始めるのだって健康に良さそうだし、草野球やサッカー、もちろんゲートボールもアリだ。お爺さんお婆さんが主流?のゲートボールに50代で参加すれば大谷翔平ばりの活躍をしてスター気分になれるかもしれない。

 

古典的な盆栽にハマるのだって結構カッコいいし、水泳に凝ってシニアの大会に出るのもカッコいい。社交ダンスだって役所広司主演の映画を鑑賞し直してみればきっとやりたくなる。

 

私も実はタップダンスにちょこっと興味を持っているのだが、興味を持った段階で思い切って教室を探すべきなのに躊躇したままだからシャバダバである。あんな芸当がちょっとでも出来たらなかなかオシャレだし何より健康維持につながりそうだ。

 

だいぶ前のことだが、城山三郎さんの「無所属の時間で生きる」という随筆を読んだ際に、仕事以外のプライベートを充実させることの大切さを痛感した。とかく勤務先や家族に縛られ自分が何者だか曖昧になってしまう人は多い。

 

仕事人間が退職したあといつまでも会社の看板に頼って新たな世界に馴染めないことは多い。「◯☓会社の誰それ」という肩書きありきの生き方しかしてこなかったツケは人生後半戦を味気ないものにしてしまう。

 

わがバンドメンバーともワイワイと楽しく飲んだりするが、中にはどんな仕事をしているのか知らない人もいる。趣味の世界ってそのぐらいのユルさが楽しいのだろう。

 

やたらと長生きするのはそれはそれで恐怖だが、私の年齢ぐらいだと順調であればまだ時間は残されている。自分自身の楽しみをたくさん持っているかどうかが最期の日の満足感を左右するはずだ。

 

老後の趣味として日本全国の城巡りや仏像巡り、はたまた橋巡りなんかも考えている私だが、老後などと決めずに今からでも始めれば510年後の知見の蓄積はその後に役立つのは間違いない。

 

ブツクサ言ってないで行動する人だけが充実感を手に入れるのだろう。頑張らないといけない。

 

と、自分に言い聞かせるような書きぶりになってしまった。まずはバンドライブに向けてちゃんと歌えるように精進しようと思う。

 

 

 

 

 

 

2023年9月1日金曜日

洒落っ気、見栄、気取り

 

イマドキの社長車といえばアルファードが人気だ。昔はワンボックスカーといえば貨物兼用か大家族向けの実用イメージしかなかった。いつの間にか高級路線に進出してVIP用みたいな位置付けに変わった。

 

広い空間、快適なシート、乗り降りも楽だから人気が出るのもよく分かる。時々アルファードのタクシーに乗ることがあるが確かに快適だ。ゆったりできるし乗り心地も良い。

 



とはいえ、欲しいかといえばちっとも欲しくない。会社の社用車だとしても別なクルマを選ぶ。あの形状のクルマには優雅な雰囲気は感じない。ファンの人ごめんなさい。あくまで個人的な感覚です。

 

優雅な雰囲気ってなんだ?と叱られそうだが、ワンボックスカーには高級車としての浪漫みたいな匂いを感じない。世代のせいだろうか。古い人間特有の思い込みかもしれないが、やはり高級車はロングホイールベースのセダンであって欲しい。

 

いつのまにか世の中から浪漫みたいなものが消えて合理的なことばかりもてはやされるようになった象徴がアルファード人気なのかもしれない。極論かもしれないが、昔よりおおらかさが無くなってきた時代ならではだと思う。

 

「洒落っ気」「見栄」「気取り」。そんな感覚って大事だと思う。中年以降の男なら尚更そういう意識は持っていたい。「こだわり」と言い換えてもいい。

 

身につけるモノをはじめ暮らしの中のあらゆるモノに対して「合理的」の一言では片付けられないこだわりを持つことは人生に彩りを与えるために必要だ。

 

無駄なことと切り捨てるのは簡単だが、無駄こそがゆとりである。大人の男たるもの人様に対してゆとりを感じさせる居ずまい、振る舞いをしていたいものだと感じる。

 

エラそうに書いてみたが、私自身、歳を重ねるに連れ昔よりこだわりが薄くなってきたことに忸怩たる思いがある。ついつい“安易なラクチン”に走ってしまう。

 

昔は傘ひとつとっても結構良いものを使っていた。ビニール傘なんて野暮の極みとバカにしていたが、いま我が家にはコンビニで買ったビニール傘が溢れている。

 

16本骨の高級傘をいくつも使い分けるようならカッチョいいのだが、イマドキのコンビニではビニール製ではないちょっと見たらマトモっぽい長傘が売っているのでそれで済ませてしまう。

 

今のようにモノに溢れた時代だと安くてマトモなモノはゴマンとある。言ってしまえば高級品は無駄という理屈になるが、高級品を持つことで得る高揚感は軽視できない。人間はそもそも欲や業の塊である。それを満たすことや満たしたいという気持ちが活力や向上心につながる。

 

セールで買った吊るしのスーツと奮発して買ったオーダースーツでは着ている時の気分は間違いなく違う。それが姿勢や表情、立ち居振る舞いに現れる。値段の高い安いだけでない。そこに自分なりのこだわりがあるかどうかが大事な要素だと思う。

 



銀座のクラブと新橋の居酒屋で出てくる酒は基本的には同じである。同じウイスキーでも値付けにとんでもない差がある。いわば銀座のウイスキーは無駄の塊である。

 

でもなぜ銀座のクラブという世界が成立するかといえば、合理的ではないものに価値を見出す人間の業や欲が普遍のものだからだ。「洒落っ気」「見栄」「気取り」という合理的なことの対極にある俗念が社会を支える原動力になっている証でもある。

 

最近すっかり夜の銀座にご無沙汰しているが、あの空間に身を置く時には居酒屋にいる時とは違う感覚になる。緊張するほどウブではなくなった今も不思議とちょっとだけシャンとする。

 



酔い進むとただのスケベオヤジに変身するもののホロ酔いぐらいだとこんな私でも結構キリっとした様子で過ごしている。いわゆる負け組みたいな人がいない世界であり、プラスのエネルギーの集まる場所だから「場の空気」によって影響を受けているのだろう。

 

決して上の画像のような眺めを楽しむ目的ではない?が、それでも綺麗ドコロがいっぱいいる場所だ。私だってちゃんとカッコつけたり洒落者のフリをする。そういう意識になることは普段はなかなか無いから“現役男”を維持したいという私の修練の場にもなっている。

 

暑さもそろそろ収まってくるだろうから銀座通いも再開しようと思う。だったら靴磨きにも精を出さないといけない。要するにそういう細かい部分にも気を配る感覚になることが大事なんだと思う。

 

よく分からない話になってしまった。