2026年8月10日月曜日

高級か大衆か

 

近年、よく言われるのが「真ん中がダメ」という話。飲食店に例えるなら、すごく高い店とすごく安い店は繁盛するけど真ん中の価格帯だと厳しいという話。

 

飲食店に限らず、世の中のあらゆる分野に浸透している考え方だろう。二極化、格差固定みたいな経済ジャンルの話題にもこういう話は出てくる。

 

さて、話が難しくなりそうだから本題に移る。日頃グルメだなんだと自慢気にSNSに映える画像を投稿している人は多い。インスタのリール動画を参考にさせてもらうこともあるから文句を言うつもりはないが、どうしても“中庸”の店が紹介されることは少ない。ちょっと残念だ。

 

まあ、SNSなんて幸福自慢みたいな側面があるから必然的にカッチョイイお店や予約困難店や妙に高価な店が中心になるのも仕方ない話だ。

 

どんなジャンルだろうと高級店と大衆店は存在する。一人5万もとるような意味不明な寿司屋が謎に繁盛する一方で、くら寿司にも行列は出来る。いきなりステーキみたいな気軽な店が人気だが、やはり一人10万ぐらい取るステーキハウスもしっかり客を掴んでいる。

 

鰻しかり、天ぷらしかり、蕎麦しかり、カレーライスやハンバーガーにも言える話だ。今どきは5千円ぐらいするハンバーガーも平気で売られているらしい。それはそれで食べてみたい気もする。

 

さてさて、ヨソの国の料理なのにひょっとしたら和食の一ジャンルかと思えるほど日本人の間に定着したのが中華料理だ。

 

実に多種多様である。丸美屋の麻婆豆腐などは普通の日本人の普通の家庭料理である。中華料理だと思って食べている子供などいないと思う。それをいったらラーメンも元は中華料理である。大勝軒のつけ麺やニ郎系ラーメンを中華料理だと思って食べている人も皆無だろう。

 

先日、市ヶ谷にある中国飯店に行く機会があった。都内にいくつかの店舗を構える高級中華料理の象徴的な老舗だ。昨今、一般化した「町中華」と呼ばれるジャンルのお店の対極みたいな路線だ。

 



 

ピータンの味の豊潤さ、チャーシューも蜂蜜っぽいソースを上手にまとわせているこだわりかたなど、いちいちさすがだと感心した。画像の他にもいろいろ食べたがどの料理も丁寧かつ繊細。高級路線の存在意義みたいなものを改めて実感した。

 


 

こちらは名物の松の実入り黒チャーハン。職人技のような食感、味付けで文句なし。大げさではなく毎日でも食べられそうな感じだった。

 

「毎日でも食べられそうな感じ」って単純にいえば誉め言葉だ。でもそれが必ずしも食における満足感を完璧に満たすわけでもない。そこが実に面白いと思う。

 

人間はワガママだから時に“猥雑な欲求”に走りたくなる。すなわちジャンク系の喜びだ。ジャンク系のウマいものって不思議なもので、その場では相当な満足感を得るのに、決して毎日でも食べたいとは思わない。それこそ猥雑な欲求である。

 

町中華で例えるなら油ギトギトのホイコーローやら臭いが気になる焼き餃子、カタ焼きそばあたりだ。独特の存在感があるラインナップだ。ナゼだか分からないが同じ中華系でも高級中華の繊細な味よりそっち系を身体が求めることは多い。

 

財布にゆとりがあるかどうかは別だ。もしサマージャンボ7億円が当たってもギトギトしたホイコーローが食べたい気分なら高級中華のフカヒレ料理より断然そっちを優先しちゃう。そんなもんだと思う。

 



 チャーハンも奥が深い。たかがチャーハン、されどチャーハンで、高級路線の店では感心するほどのパラパラな仕上がりに遭遇しがちだ。そしてそれに大いに感動する。ところが町中華でチャーハンを食べたい気分の時はパラパラ感にまったく期待していないから複雑である。

 

よく言えばしっとり、悪くいえばテキトーな炒めご飯である。でも、塩コショウの分量を間違えたような怪しげな濃い味付けに悶絶する。おまけに町中華のチャーハンに必ず付いてくる「謎スープ」がまた魅惑的だ。

 


 

飽きてきた頃にチャーハンを謎スープに浸して食べると得も言われぬ快楽が身体の中を駆け抜ける。ウーバーでチャーハンをデリバリーする場合、多くの店が謎スープを付けてこないことが今の私の最大のストレスである。チャーハンにあのスープをビシャビシャするのが醍醐味なのに実に残念である。

 



この画像はデリバリーでやってきたカタ焼きそば、天津飯、ホイコーローである。そういう気分の時にそういうメンバーが揃ったらまさに無敵だ。高級店でフカヒレの姿煮や北京ダックを出されてもこっちの気分の時なら迷わず町中華の面々を選ぶ。

 

誤解のないように書き加えるなら高級中華をディスっているわけではない。そっちはそっちで私の大好物である。あくまで2極化の両極をそれぞれ楽しめることが日々を、いや人生を充実させる大事な心がけである。大げさか。

 

SNSなどで高級店のことしか語らないようなグルメぶった人ってその点でとっても退屈な人だと思う。大きなお世話だけど…。

 

 

 

 

 

 

2026年8月7日金曜日

愛しのドーナッツ

 

時代とともに呼び方が変化するものがある。BMWなどは今でこそローマ字をそのまま発音するか「ビーエム」と略して呼ぶのが普通だ。ほんの30年ぐらい前まではたいていの人が「ベーンベー」と呼称していたことを知る人は減った。ベンツのチューニングメーカー「AMG」しかり。昔はだれもが「アーマーゲー」と呼んだ。

 

いずれも古いほうが本国の読み方を踏襲していたわけだが変われば変わるものである。高級時計の「ヴァシュロン・コンスタンタン」も昔は 「バセロン・コンスタンチン」と呼ぶのが普通だった。こちらは本国読みに戻った代表だろう。

 

スパゲッティーもいつの間にか「スパゲティー」「スパゲティ」に変わった。「ッ」一文字とはいえ今となってはその一文字を声高に叫べないような社会の“圧力”を感じる。「ッ」が入ると途端に格下になったかのような変な感覚がある。

 

さて、ここまでは前フリである。今日は「ドーナツ」の話。これまた昔は誰もが「ドーナッツ」と呼んだ。「ッ」が撤去されてしまったパターンである。でも不思議なもので話し言葉ではいまだに「ドーナッツ」と呼ぶ人が多い。高齢者だけの傾向だろうか。「ッ」を入れたほうが発音しやすい気がする。

 



さてさて、還暦も過ぎ、オジイサン世代への突入を間近に控える私だが、実はドーナッツが大好きである。アメリカ人みたいである。私の周りの同年代でドーナッツを嬉々として食べている人は見当たらない。

 

若々しいのか、子供舌なのか、味覚がヘンテコなのか、おそらく一番目の理由が正解だろう。ウマいんだからしょうがない。時おり無性に食べたくなってそういう気分の時は必ず食べる。一ヵ月に最低でも3回はガツガツ食べていると思う。

 

スタバのドーナッツは美味しくないことで定評があるが、私の場合、スタバの実店舗にいる時やデリバリーでそれしか選択肢が無い時は喜んで注文する。レンジでチンすればそこそこウマい。

 



最近は「クリスピークリームドーナツ」が世間でブイブイ言ってるイメージがある。私も時々買う。まあ、人気が出るのも分かる。悪くはない。でも私にとってはナンバー1の存在ではない。

 

私の場合、ウーバーでのデリバリーか有楽町マルイの店舗で買って帰ることが多いのだが、わりと最近、同じマルイの1階に新たなドーナツ屋が出店したので、その仁義なき戦いぶりに感心した。

 



 

「ランディーズドーナツ」というのがそれ。なかなかそそるディスプレイのせいもあっていつ見てもお客さんがレジにいる。人気があるようだ。ドーナッツ好きオヤジとしては試さないわけにはいかないので早速たくさん買ってみた。

 

まあそれなりだった。あくまで個人的な好みの問題だが、ワンフロア下に店舗を構える「クリスピークリームドーナツ」ではなくこちらを選ぶ理由は無さそうに感じた。

 

 


強いて言えば甘いクリームペーストの上に焼いたベーコンが散りばめられているドーナツは画期的な味がした。私の場合、ドーナッツを食べる際は3個も45個も食べたくなるので必然的に途中で甘さがキツくなる。ベーコントッピングという秘策がとても良いアクセントになってくれた。

 

デリバリーで頼んだことがあるドーナツショップは数多い。有名なところでは「ジャックインザドーナツ」も何度か頼んだ。他にも小規模な店から生ドーナツやら米粉のドーナツやらあれこれ頼んでいる。

 




ハヤリの生ドーナツとやらも嫌いではないが、クリーム入りの商品などは単なる菓子パンみたいでドーナツ的な満足感とはイメージが違う。まあ、甘い気分の時に食べるから四の五の言いながらムシャムシャ食べまくってしまう。

 

で、結論から言えば「ミスドは偉大だ」という絶対的真理である。「ミスタードーナツ」はもともとアメリカのチェーン店だが半世紀以上前に日本に進出。その後、日本独自の路線を歩んで今に至る。

 

ちなみにアノ名作中の名作である「ポンデリング」は日本が開発した商品だ。さすが日本人!と言いたくなる。創造性より応用力の高さを象徴している。

 



後発のいくつものアメリカ系ドーナツショップと比べるとミスドの“日本的な雰囲気”は独特だ。半世紀以上にわたる数々の企業努力のおかげで、まるで日本土着のドーナッツ屋さんみたいな現在の雰囲気に繋がっているのだろう。

 

何だかんだいってミスドのドーナツは他のショップより美味しい。個人の嗜好だが、私としては断固そう思う。食感なのか甘さの加減なのか良く分からないが総合力で他を圧倒していると思う。

 

なんだかミスドの回し者みたいになってしまったが、ここ数年、ウーバーのおかげでやたらといろんな店のドーナッツを食べまくってきたからこそ辿り着いた結論だ。

 

日本で歴史を重ねて進化した味わい。これって日本人にとっても財産だと思う。そう考えるとミスドと同じような時期に登場して昭和の頃にバチバチ競い合っていたダンキンドーナツが撤退したことは残念だ。頑張り続けてくれていれば日本っぽく進化したウマいドーナツは2巨頭状態だっただろうから妙に惜しい気がする。

 

 

 

 

 

 



2026年8月3日月曜日

いいかげん

 

「いいかげん」、「いい加減」。同じ言葉でも何となくニュアンスが違う。前者は無責任、投げやり、おおざっぱといったネガティブな意味合いだ。後者はもちろん、適度、ちょうどいいといった肯定的な響きになる。

 

「いいかげんにしろ」。相手に伝えるにしても場面や状況で意味合いは変わる。日本語の奥ゆかしく面白い部分だろう。こんなことを書き始めたのは私自身がどんどん「いいかげん」になってきているからだ。

 

そうはいっても「いいかげん」になっちゃったつもりが実は「いい加減」になっていたような展開もある。分かりにくい書き方でスイマセン。

 


 

シンコの握りだ。夏の風物詩である。寿司通を気取るならシンコのウンチクを延々語らないと始まらないほどのド定番である。30年近く前に一念発起して客としての寿司修行?を始めた私もシンコと聞くだけでアドレナリンが出ちゃう日々を長々と過ごしてきた。

 

そんな私も還暦を過ぎ、これまでやたらとこだわってきたあらゆる分野のあらゆることへの執着が徐々に薄まってきた。シンコも然りである。


ほんの23年までは56月あたりからシンコはまだかとソワソワしていた。初モノ食いをイキの極みだと信じていた江戸時代の洒落男のDNAが染みついているのかと思うぐらい頭の中がシンコ一色だったこともある。最近はそうした執着心が急速に弱まってきた。

 

良いか悪いかではなく“薄まる感覚”自体が年の功なのかもしれない。もちろん、お寿司屋さんにシンコがあれば喜んで食べる。でも、シンコ狙いでガツガツしていた頃と違い、今では半分その存在を忘れている。「そういえばシンコってあるの?」。そんなヌルい感じで店主に尋ねて無事に出てくればニンマリする。

 

こだわりが無くなっちゃたわけではないのだが肩の力が抜けたような感じだ。これこそが「いい加減」なんだと思う。

 

でも、ほんの23年前に私からシンコのうんちくを口うるさく力説された人からすれば、シンコの存在をヘタしたら忘れちゃってる今の私のヌルさは「いいかげん」そのものに映るはずだ。

 


 

こちらは東京駅そばの「平田牧場・極み」という店で食べたヒレカツだ。この日、トンカツの気分になったのに自分がいた場所から移動するのが面倒になってこの店を選んだ。

 

いつもならお気に入りのトンカツの名店までタクシーを飛ばして駆けつける。移動距離が極端に遠くなければ迷わずそうしていた私だが、この日は「いいかげん」モード発動である。

 

とはいえ、出てきたヒレカツが充分ウマかったので単純に満足。わざわざ移動して思い入れのある名店に行ったら行ったで得難い満足感を味わえるのも確かである。そういうこだわりも捨てがたいのだが時に面倒なのも事実だ。

 

「面倒くせ~」。すなわち投げやり的な「いいかげん」精神に従うのも時には必要だ。いつもいつもハッスルしてこだわりの男を演じ続けるのもツラい。こうやって適度に種々のこだわりが薄れていくことで老境という世界に突入しやすくなるのだろうか。それはそれで良いのか悪いのか判断がつかない話である。

 



こちらは銀座の土佐料理「祢保希」で食べたカツオの塩タタキだ。何の変哲もない一品だが、私にとっては革命的?である。醤油系、ポン酢系のタレ以外でカツオのタタキを食べたことが無かった。


その食べ方が絶対だと信じて疑っていないのに塩タタキなる一品を注文してしまう私の変節というか柔軟性?に我ながらビックリした。「いいかげん」になってきた証だ。

 

でもたいしてウマくなかった。やはり王道のタレ味にしておくのが賢明だと痛感した。とはいえ、こういうハズレを経験すると自分のこだわりをもっと大事にすべきだと思い直すきっかけにもなるから悪くない。

 

ちなみにカツオのタタキには醤油とポン酢のミックスが一番美味しいというのが私のこだわりだ。どちらかを多めにするかは好みの問題。私自身は5050だ。醤油とポン酢を半々で安直なタレを作る。スライスした生ニンニクとこのタレがあれば言うこと無しって感じだ。

 

話がそれた。

 

「いいかげん」と「いい加減」をめぐる私の迷走はもちろん食における店選びに限らない。それこそいろエロな場面で直面している。そもそも「加減」とは文字通り加えたり減らしたりの世界である。力の入れ具合、抜き具合も同じ。あらゆる分野でその按配が上手いか下手かが人としての器量の決め手にもなる。

 

 

 

 

 

2026年7月29日水曜日

明け渡す気持ち

 

気持ちに身体が付いていかないという現実を初体験したのは25歳ごろの頃だ。中学、高校の一時期、学校とは別のテニススクールに通ってスカしていた。元野球少年だったからテニスもそれなりにサマになっていた(はずだ)。カッコばかり気にしてスクールに通ってくる女子にモテたくてスカしていた。

 

で、スカした目的だったからスクールを卒業しちゃったらテニスとも縁遠くなった。その後、25歳ぐらいになった頃に某テニスコートで久しぶりにラケットを握る機会があった。この時が衝撃的だった。

 

気持ちと頭では飛んできた球を余裕で打ち返せるつもりで反応しているのに、あと、23歩が届かない。23歩の距離だと惜しいと言えるレベルではない。まるっきり歯が立たない感じだった。

 

たかだか25歳ぐらいで運動能力が一気に劣化していることを実感してかなりビビった。思えば、あの日を境に今に至るまで30有余年に渡って緩やかに体力低下の坂を下り続けているのだろう。

 

脳の記憶って切ないもので実際の身体機能と昔の身体機能の切り替えが苦手だ。バッティングセンターに行っても120キロぐらいのストレートが妙に速く感じる。しばらくして目が慣れるとしっかり球の軌道は見えるのに振ったバットが当たらない。昔の感覚で頭の中はイメージしているのに肝心の身体の機能から必要な俊敏さが失われているわけだ。

 

昨年、自転車で大転倒して10か月ぐらい膝の不調に悩んだのも若い頃の「チャリ脳」がそのまま甦ってしまったからだろう。肝心の腕や足の瞬発力が追いつかないことに気付かなかったのが原因だ。

 

うだうだ書いてしまったが、今日の本題は前フリとは全く関係ない「満腹になっちゃう早さ」である。一応、これも気持ちに身体が付いていかないという切ないテーマである。

 

ガンガン食うぞ!と張り切っていたのに意外にしょぼくれた量で終わった時には切実に哀しい。

 



 

先日、神保町近くの如水会館でやっていたサマービュッフェに意気揚々と乗り込んだ。運営はニッポンの洋食の本家みたいな東京會舘である。

 

ゴールデンウィーク頃に初体験した時にシャトーソース付きのピラフやらローストビーフ、舌平目のボンファムっぽいメニューなどが食べ放題だったことで興奮した。スイーツ界の重要文化財とも言えるマロンシャンテリーのミニサイスまで食べ放題である。

 




今回は残念ながらシャトーソース付きピラフなど私を狂わせる逸品たちは無かったのだが、それでも揚げたて天ぷらはぶりぶり食べられるし、タルタルソース付け放題?のエビフライもあったし、魚料理やアイスバインなんかも用意されていた。

 

いわゆるホテルカレーっぽい欧風カレーが常に潤沢にあるのも嬉しい。この日はやたらと具材がゴロゴロ入ったチキンカレーだった。実に幸せな味だった。

 



一応、画像で見るとそこそこ食べたように見えるが、前半に食べたローストビーフのせいで空腹がわりと早く収まってしまい、焼売だのエビフライをツマミに白ワインを調子に乗ってグビグビしていたらモノの30分もしないうちに満足感が押し寄せてきてしまった。

 

ビュフェに向き合う男子としては実にだらしないことだ。なんとかローストビーフをお代わりしてチキンだらけのカレーもガツガツ食べたのだが、デザートはちょっとしか食べられなかった。寿司にも蕎麦にもミニ鰻丼にも手が出ず。負けである。

 



前回ウマかった焼き立てのパンケーキにアイスクリームをのっけてシロップをぶりぶりかけるヤツも楽しみにしていたのに、まったくもってたどり着けなかった。

 

もちろん歳を考えれば普通の量なのだろうが、今までドカ食いをさんざん自慢しながら生きてきた立場上、しみったれた現状がもどかしい。

 

牛丼も特盛りではなく頭の大盛りで済ませることが増えた。定食っぽいものを食べる際に「ご飯大盛り」と言わなくなった。デリバリーでマクドナルドを食べる際、パンの大半を捨てるという暴挙に出るのだが、以前なら5個ぐらい注文していたバーガー類も今では3つ程度で収まっている。

 

ケンタッキーフライドチキンを食べる際には、鶏の皮だけでなく衣もすべて剝ぎ取って食べるというフトドキぶりを発揮するのだが、以前ならフライドチキンを単品で8個か9個取り寄せていたのが今では6個程度だ。

 

ここ12年で確実に人並みに成り下がってしまった。健康のためには良いのだろうが、半世紀近くにわたって大食漢という位置にどっかり居座っていたことを思うと、その座を去らねばならない現実が妙に切ない。

 

引退するアスリートの気持ちがつくづく理解できるようになってきた。全然違うか…。

 

 

 

 

 

 

2026年7月27日月曜日

バカは死んでも…

 

自分のバカさを自覚しているつもりだったが、思った以上のバカっぷりに哀しくなった。ヘンテコな買い物を立て続けにしてしまいちょっぴり自己嫌悪である。

 

まずは歯ブラシ要らずで歯が綺麗になるというフレコミの謎の機械である。インスタのリール動画を見ていた際に出てきた広告に興味を持って、怪しいとは思いつつポチっと購入。

 


 

その後、同じ商品がアマゾンで半額で売っていることに気付いて地団駄を踏む。ボケ老人的行動に近づいている。

 

そんなことよりこんな商品を買うこと自体が私自身のフヌケぶりを象徴している。そんなに優秀な機械なら世の中にもっと普及しているはずだ。マウスピース状のこれに歯磨きを塗って口にくわえれば全自動でブラッシングが完了するらしい。

 

一瞬でも信じた自分が切ない。届いた実物を見た瞬間、物凄い違和感だった。歯型は人によって違うからこんな定型マウスピースが万能なはずはない。

 

一応、試してみちゃった私の往生際の悪さがまた哀しい。スイッチを入れたら確かにモゾモゾ動いている。でもあくまでモゾモゾみたいな感覚だ。歯の隅々まで物凄いパワーで協力にブラッシングされるイメージとは程遠い。

 

いったい誰がこんなものを喜んで買うのだろう…。オレか…。

 

お次は耳掃除が革命的に楽になるらしい秘密兵器である。発想が素敵だ。ホジホジしたりグリグリするわけではない。綿棒でかえって耳垢を耳の奥に押し込んじゃう心配もない。なんてったって「強力に吸い込む」方式だから画期的である。

 



商品紹介のページを見て悩まず買っちゃう私の思慮の浅さが哀しい。日常生活すべてにおいて横着したい私の気持ちの弱さの表れである。

 

で、ウキウキしながら使ってみた。耳に突っ込んでスイッチオン、なんだかビュービューと吸い込まれる音がする。耳の中で掃除機が活躍してくれている感じ。きっと膨大な量の耳垢が吸引されるはずだと期待に胸を膨らませる。

 

で、しっかり両耳ともに吸引して耳垢回収場所をパカンと開けてみた。すると乾いた耳垢がちょこっとだけ回収されていた、2~3カケラ程度だ。ふむ、私の耳の中は普段からかなり綺麗なのかと思い、念のためいつも使っている黒い綿棒を耳に入れてみた。

 

引っこ抜いたらドッサリ耳垢が付いていた。??である。いったいあの吸引は何だったのか。あの程度の吸い込みでは耳の中に居座っている“大物”たちを吸い出すには役不足だったらしい。考えてみればそれもそうだ。耳穴の壁にしっかり付着したヤツらが爽やかな吸引程度で剝がれるはずもない。

 

いったい誰がこんなものを喜んで買うのだろう…。オレだ…。

 

ネット配信の映画やドラマをよく観るのだが、よほどの事情が無い限り無料で視聴できるものだけを選ぶ。こだわりをもって観たい作品など滅多にないのでわざわざ有料の作品をみることはない。

 

もちろん貴重な昔の名作や話題の最新作みたいなものなら有料で見たい人の気持ちも分かる。映画好き、ドラマ好きならそういう選択も当然だろう。

 

とはいえ、私のようなノンポリ男にとっては無料で見られる作品がいくらでもあるわけだから有料という選択肢はない。それ自体が単なる無駄遣いになってしまう。

 

で、週末のヒマな夜になんとなく見始めたのが竹内力の「欲望の街」シリーズである。竹内力扮する萬田銀次郎が活躍する「ミナミの帝王」シリーズが妙に好きだった私にとっては、その後日談かとすら思える設定やストーリーが新鮮だった。

 


 

Amazonプライムビデオで無料で視聴できたからシュールな?世界観を楽しみながら観ていた。一晩に一気に4話まで進んでしまうほどハマった。

 

が、しかし、ナゼか5話からは有料だった。ちょっとショックだ。さすがに1500円はビミョーだ。似たような世界観の映画やドラマの無料版はいくらでもある。

 

でも、B型気質のサガか、わざわざ5話以降も有料で見始めてしまった。自制心がつくづく弱い自分が残念である。その後、数千円分を「欲望の街」に投下している。

 

結局、今日ここに書いたスペシャル歯磨きマシーンとスペシャル耳掃除マシーン、そして竹内力にこの数日でウン万円の出費をしてしまった。

 

さすが富豪である…。

 

 

 

 

 

2026年7月22日水曜日

16年前

 扁桃炎になってしまい更新できなかったので過去ネタを一つ。16年前、まだ良き家庭人を演じていた頃に書いた話だ。


元嫁にあげてしまった家の靴専用小部屋ややたら広く作った玄関の画像が妙に懐かしい。


ちなみに最後に載せている2点の靴の画像だが、16年後の今も現役で活躍してくれている。時間経過の概念が狂ってきたのか、物持ちの良い粋人なのか、自分でもよく分からない。


https://fugoh-kisya.blogspot.com/2010/12/blog-post.html





2026年7月17日金曜日

白い毛の問題

 

還暦を迎えて半年以上が経つ。節目だからといって何かが変わるわけではないが、面白いもので還暦を迎えたあたりから体調の変化は顕著になってきた気がする。

 

まず第一に疲れが取れにくい。前からそういう傾向はあったが拍車がかかった感じだ。すなわち体力がガクンと落ちてきた感じがする。昨年アレコレ努力して退治した倦怠感とはまた違った「バテ」みたいな感覚だ。

 

5年前、10年前と比べて体力が落ちてくるのは当然だが下降カーブが急になってきた印象がある。キックボクシングジムにも何とか通っているのが救いだが、それが無かったらと思うとゾっとする。

 

こればかりは抗えない自然界の掟だから仕方ない。こうやって老人への準備が整っていくのだろう。まだコケたり階段でつまずいたりしていないからせいぜい足腰への負荷は適度に意識して過ごそうと思う。

 

それよりも心情的にイヤなのが「眉毛の白髪化」である。バテバテの現実は背筋を伸ばして見栄をはればごまかせるが、白い眉毛はストレートに老化を実感するから困りものだ。

 

考えてみれば10年以上前からヒゲの白髪化はグングン進み、鼻毛なんて半分ぐらいが白い。ようやく白髪軍団が我が眉毛の存在に気付いて狙いを定めてしまったようだ。

 

ちょこちょこ抜いてはいるが、そのうち追っつかなくなるのは間違いない。自分が村山元首相みたいな風貌に近づいていることが衝撃である。眉毛が白くなるなんてほんの5年ぐらい前までは考えたこともなければ心配したこともなかった。例外は無いはずなのに自分の身に起きることを想像していなかったわけだからそれ自体が若さだったのだろう。ちょっと切ない。

 

そういえば“下の毛”もかなりの白髪化が進んでいる。思い立った時にあられもない格好でまとめて抜く作業に励んでいるのだが、あの姿は我が人生の中でもトップレベルで恥ずかしい格好だ。

 

この歳になればもう放置しても良さそうなものだが、一応、まだ現役なので目立つ白いヤツは撤去したい気持ちもある。以前、オジサマ好きの若い女子に下の毛が白くなっていく寂寥感を嘆いてみせたのだが、帰ってきた答えは「枯れた感じで萌えるから抜くな」だった。

 

真に受けたいところだが、世の中、そんな変態指向の女性ばかりではないはずだ。いまだに何が正解か分からずヒマな夜中に涙目になりながら引っこ抜いている。諸行無常とはまさに毛の色だと感じる今日この頃である。

 

睡眠の質が変化してきたのも最近の特徴だ。寝入りは悪いのだが、いったん寝てしまえばかなりドップリと寝るようになった。2年ぐらい前までは深夜に一度はトイレに起きるのが標準だったのが最近はノンストップである。水分摂取量は変わっていないのに不思議だ。

 

でも寝るのにも体力がいるからノンストップで8時間ほど寝られちゃうのは体力が上がってきているのだろうか。体力が落ちたと書いたばかりなのに矛盾している。睡眠体力はまた違う種類のエネルギーなのだろうか。謎だ。

 

それにしても“もうすぐ老人”という現状でもハゲなかったことは我が人生における“僥倖”の最たることかもしれない。中学高校時代から髪が薄いのなんのと人様からイジられることがあったが、今も年齢相応?に毛髪は頑張ってくれている。

 



 これについては私自身の努力の賜物である。20年近く前から有効といわれる対策をサボらず励行してきた成果だ。飽きやすく気まぐれな私にしてはよく頑張ったと自分を褒めてやりたい。

 

今も鮮明に覚えているのだが、20年近く前に娘の幼稚園で撮られた親子画像に唖然とした。誰だこのハゲ親父は?と思った人物が私だった。面白いもので毎日自分の顔を鏡で見ていてもハゲの自覚が無い状態だと、無意識にハゲてなかった頃の自分の顔を投影してしまい“滅びゆく大草原”には気づきにくいらしい。

 

環境破壊や自然破壊も手遅れになってから気付くのと同じようなものだろう。現実をきわめて客観的に映し出す写真を見ることでようやくハゲ散らかし始めていた我が頭髪問題に向き合うようになったわけだ。

 

有難いことにAGA治療、すなわちハゲ治療が世界的に進化してきたタイミングだったのは幸いだった。有効性が実証されている飲み薬、塗り薬をキチンと毎日続けたことで気づけばしっかり毛髪は再生してくれた。毛根がギリギリで残っていたのだろう。

 

他にも毛髪の健康状態に良いといわれるサプリも飲み続け、シャンプーもそれっぽいヤツをあれこれと選んできた。食生活まで変えるほどの根性はなかったが、なんだかんだ言って60歳にしてはまあまあ妥当な毛量を維持しているように思う。

 

やはり20年近く前、ハゲを自覚し始めた時に某かつら業者を訪ねて手付金まで払ったのだが、思い直してキャンセルしたのも正解だった。残存毛髪に縛りつける方式のかつらだったのだが、ヅラを被ってしまったら塗り薬は使えないし頭皮環境も悪化するから急きょキャンセルした。

 

30万円の手付金はムダになったが、その後は涙ぐましい努力のおかげで何とかなったので“縛られる人生”とは無縁でいられた。思えばハゲ対策に本気になった大きなきっかけは、私の亡きあと娘の記憶に残る私の姿がハゲ親父だったらイヤだという一心だった。

 

ちゃんと家庭をもって娘を授かったからそんなふうに思えたわけで、その一点だけで私の結婚経験はムダではなかったと思える。

 

歳をとると何でもかんでもこうやって自己正当化をはかるようになる。ヘンテコな結論になってしまった。