2024年7月26日金曜日

よもやまごと

 

最近の暮らしの中で発見したことは「睡眠と耳栓」の関係である。


いま住んでいるマンションの隣ではだいぶ前からビルの解体、新築に向けた工事が行われている。私の寝室は建物の端っこに位置しているので1メートル先が工事現場だ。朝の早い時間からガンガンうるさくて日々拷問みたいに感じていたのだが、耳栓をするようになって一気に改善した。

 

はじめは飛行機の中で使うようなチャチな耳栓を使っていたのだがAmazonでいくつも立派な?耳栓を購入したことで静寂の中で眠れるようになった。

 



 

騒音対策が目的だったのだが、騒音がない時でもガッチリ遮音状態でいると眠りの深さがそれまでより格段に向上していることに気づいた。嬉しいオマケみたいなものだ。「耳栓をして眠る」。かなりオススメです。

 

猛暑が続く日々だから睡眠の質は重要だ。今はエアコンを285度の弱設定にしたまま部屋の隅に置いたサーキュレーターを回した状態で寝ている。ついでに最近実行し始めたのが「長袖長ズボン」で寝ることである。

 

テレビの情報番組で知ったのだが、半袖半パンで寝るよりも睡眠の質が確実に上がるらしい。かれこれ四十数年に渡って夏場はTシャツ短パンで寝ていた私にとっては革命的な変化である。

 

こうして耳栓とセットで寝る態勢を変化させたことで気のせいか朝の寝覚めが以前よりスッキリしているような感覚がある。気のせいだとしてもこれって大事なことである。長年の習慣に囚われ過ぎるのはダメだと感じる。

 



気のせいついでに言うと最近新たに飲み始めたクエン酸もスッキリ感に影響があるのかもしれない。噂によるととにかくクエン酸を摂取していれば無敵だと聞いたので何がどこにどう効くのかまるで知らないまま日々せっせと数十粒を飲んでいる。

 

サプリ頼みの暮らしだから毎日アレコレ飲むのが面倒なのだが、何となくそれぞれを時間を空けて飲んだほうが良いと思いこんでいるせいで結果的に水を飲む量もトータルで増えている。


人間やはり大事なのは水分と睡眠だ。無理に長生きしたいとは思わないが、生きている間はスッキリしていたい。良さそうなものはいろいろ試し続けようと思う。

 



野菜の王様とも呼ばれるモロヘイヤのサプリも新たに飲み始めた。結構高い商品みたいだが、ふるさと納税で取り寄せているので実質負担はない。肉やコメを返礼品でもらうのも良いが、お高いサプリも返礼品で手に入れるにはアリだと感じる。

 

健康オタクになるつもりはないし、ジャンクフードもヤメるつもりもさらさらないのだが、食品添加物の怖さを解説した本をナナメ読みしちゃったせいでこのところコンビニ飯と菓子パンを食べていない。

 

ヘルシー路線にことさら意識を向けるようなタイプの人を小馬鹿にしながら生きてきた私だ。いまさら「そっちの人」みたいに思われるのはシャクだが、やはり賞味期限がやたらと長い菓子パンなんかは気にしたほうがいいと思う。

 



近頃はマイクロプラスチック問題で人体にも影響が出始めているとか、日本中で売られている天然水の多くにも有害物質が混ざり始めているとか、右を向いても左を向いても「有害問題」の話が多い。

 

正直、還暦近くになっていまさら気をつけても仕方ないと思うのだが、娘と同居している以上そうもいかない。私が菓子パンばかり買うとつられて娘まで食べちゃう。今までみたいな頻度だとさすがにマズいと感じているわけだ。

 

ソーセージだとかハムだとかレトルトハンバーグみたいな好物を敬遠するのは裏切り行為?みたいでイヤなのだが、今までさんざん食べてきたからしばし小休止してもいいだろう。

 

というわけで、睡眠の質を上げて上質なウナギや上質なトンカツや上質なオムライスなどをどしどし食べて生きていこうと思う。






2024年7月24日水曜日

アーカイブ

 今日は更新が間に合わなかったので過去ネタを一つ載せます。6年前に書いた話ですが今も同じように感じています。


若気の至り精神

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2018/08/blog-post_17.html




 





2024年7月22日月曜日

イヤだイヤだ

 

世の中がやたらと窮屈になってしまった象徴的な話がオリンピック女子体操エースの飲酒喫煙問題だろう。19歳の大学生がタバコと酒を理由に代表離脱となりとっとと日本に帰国させられたそうだ。

 

ルールはルールだ。守らないといけないのは当然だ。とはいえ人間だからルールを逸脱することもある。問題はその後だ。マリファナを吸っていたとかならともかくタバコを吸ったぐらいでオリンピック代表の座を引きずり下ろす判断は大人として適切だろうか。

 

厳しく注意するとか、一定期間の外出禁止とか、罰を与える方法はいくらでもある。一般には想像できないぐらい厳しい鍛錬を経て五輪で活躍するチャンスを得た人である。代表に選ばれるために積み重ねた努力をいとも簡単に剥奪するのはさすがに気の毒だ。


自己責任だ、自業自得だ、無責任だといった声も多い。お咎めナシとはいかないのは理解できる。批判されて当然だが、罰の重さとしてはたして適当な判断なのかは疑問だ。

 

19歳の飲酒や喫煙に世間が目くじら立てて騒ぎ立てるようになったのはいつ頃からだろう。写真週刊誌が未成年を伴って飲酒したアイドルなんかを糾弾するようになってからだと思う。ここ15年、20年ぐらい前からだろうか。

 

私が若造だった頃、すなわち昭和の終わりごろは「高校卒業」が一つの分かれ道だった。高校さえ卒業していれば学校の先生だろうと警察官だろうと飲酒喫煙の現場を見ても問題視しなかった。

 

高校の卒業式のあとの飲み会に先生たちが参加してくれるのも普通のことだったし、歌舞伎町で酔ってフラついていても警察官から「大学生か。気をつけて帰れ」と言われるだけだった。

 

近年、成人年齢が何だかよくわからない理屈で18歳になった。でも酒やタバコは20歳からというヘンテコな境界線はまるっきり意味不明だと思う。

 

18歳なら選挙に行ける。パチンコというギャンブルも出来る。結婚だって勝手に出来る。なんてったって成人である。もっと言えば風俗店に入れるし、風俗店で働くことも許される。いわばハードな風俗店で驚天動地な変態プレーを楽しんだり、それで稼いだりすることも可能な年齢だ。

 

そう考えると19歳のタバコや酒をめぐる大人たちの対応はもう少しおおらかであって然るべきだと思う。鬼の首でも取ったかのように血祭りにあげるような話ではない。キチンと注意するだけでいいと思う。

 

完全無欠、品行方正、聖人君子じゃなきゃいちいち叩かれる窮屈な風潮はネット社会の副産物だと思う。ネットの世界だけでオタクが騒いでいるだけならともかく、今回の事件のように実際の社会の現場でもそんな傾向が強まっているとしたらヘンテコな話だ。

 

都知事選で一躍時の人になった石丸さんだって既にアンチによる揚げ足取り的アラ探しが騒々しくなっている。幼稚というか、何だかチマチマした世の中になったことを痛感する。

 

些末な言動一つをあげつらって身勝手に自分なりの正義を一方的に振りかざしながら目立った人を圧殺しようとする。実にチンチクリンな精神性だ。有名人の不倫タタキにしてもモテる人への嫉妬にしか思えない。あんなもの単なる家庭内のトラブルでしかない。

 



それこそ昭和のモテ男「火野正平」なんて当時は国民総出で普通に面白がっていただけで教科書的正義を振りかざして非難する人は少数派だった。


今でこそゆったりと自転車を漕いでいる火野さんだが、数十年前はそれはそれはお盛んだったようで、追っかけるレポーターも追っかけられる火野さんもそれ自体をショー化していた印象さえあった。

 

「時代が変わった」「もうそんな時代ではない」。バカの一つ覚えみたいに何でもかんでもそんな言葉で片付けようとするのも凄くイヤだ。


時代という言葉を都合よく使って、あたかも今がすべて正しいと錯覚させたがる風潮が薄気味悪い。いつの時代にも必要なはずのおおらかさなど全てが断罪されてしまう。

 

例の石丸さんの発言のキリトリで「女、子ども」という部分が随分とバッシングを浴びたようだ。前後の話の流れによっては普通に使う日本語の常套句である。

 

「女、子どもには難しくて理解できないよな」といった使い方だと差別的意味合いになるが、「こんな重いモノは女、子どもには持たせられない」といった使い方は逆に親切心に溢れた言葉にもなる。

 

短絡的で偏狭な攻撃心だけで悦にいっている正義中毒みたいな現象は一種の現代病だ。この病気がもたらすのは「言葉狩り社会」である。これってかなり怖い。歪んだ全体主義にも繋がりかねず、かつての言論統制と同様の危険性すら感じる。

 

ちょっと話がそれてしまった。

 

まあ、私ごときがここで何を書こうが世間の空気を変えることなど不可能だ。そんなことは分かっているが、今はまだ自由な言論が許されているわけだから一人でも多くの人が怪しげな世間の風潮に「?」を言い続けることは無意味だとは思わない。


なんだか力んだ書き方になってしまった。


それにしてもつくづく思うのは自分がもう人生後半戦の年齢に達していて良かったという点だ。

 

こんな窮屈な時代に若者だったら大変だ。愛のある毒舌ひとつ口にすることが出来ない。ちょっと脱線するだけで死刑判決に相当する罪を犯したかのように糾弾される。これから現役世代の中心になっていく若者にはご苦労さまという言葉しか出てこない。

 

全国的に今年も猛暑がやってきた。日本中が暑さでイライラする。そんなイライラに連動するかのように身勝手で自己満足的なくだらない正義感モドキで他人を攻撃する人が増えちゃうのが心配だ。

 

 

 

 

2024年7月19日金曜日

もっともっと


「もっともっと」というパターンに陥るのが好奇心や欲求である。人間の業みたいなもので楽しい経験をすればより楽しいことを求め、ウマいものを知ればよりウマいものが食べたくなる。

 

半世紀以上生きてくると「もっともっと」をアップデートさせてきたわけで充分にいろんな体験を積み重ねきた。そろそろ打ち止めにしても良さそうなものだが、まだまだ煩悩の火は消える気配がない。

 

そんな欲求をワガママなことだと思う一方でそれこそが生きるエネルギー源だと感じる。欲求が無くなったらと想像するとそれはそれで怖い。一気にすべてがしぼんでしまいそうだ。年をとったらとったなりの欲求を見つけて楽しまないとダメだと感じる。

 

潜水して写真を撮影する趣味に没頭していた頃は、どんなに素晴らしい水中景観を見ても「もっと綺麗な場所があるはずだ」と次々に計画を立てた。趣味に限らず通常の旅行にしても最高に楽しい経験をすればそこに何度も行けばいいのに、“もっと上の最高”があるような気がしてアチコチに出かけたくなった。

 

もっと変な例を出せば「エロの道」だって然りである。ウブな若造の頃は女性と密着するだけで鼻血ブーになるぐらいだったのに、気づけば「もっともっと」の連続で中年になる頃にはすっかり変態オヤジが完成した。

 

まさに「知ってしまった哀しみ」だろう。つくづくエロ本を眺めるだけで充分に興奮できた頃が懐かしい。あの頃の自分が今の自分を見たら首を吊りそうな気がする。

 

話を戻す。

 

若者の頃に戻りたいとは思わないが、若者をうらやましく感じるのはこれから数え切れないほどの「初めての感動」が待っていることである。ウマいものに出会うにしても1回目と2回目以降の感動はまったく異なる。「お初」の喜びに勝るものはない。

 



お寿司屋さんでウニをツマミに酒を飲みながらふと若い頃のウニとの付き合い方を思い出した。上等なウニなど知らず変に茶色っぽい臭みもあるような安物でも喜んで食べていた頃は、ウニをテンコ盛りにして酒の肴にする発想すらなかった。

 

今ではウマいウニに感動するでもなく当たり前のように食べている。「もっともっと」をウン十年繰り返してきた結果である。これって不幸なことかもしれない。

 

舌が肥えたと言えば聞こえはいいが、一種の感性の劣化である。一般に高級品に分類される食べ物に関しては年齢とともに口にする機会は増える。たとえば北京ダックなんて昭和の頃には1枚食べただけで贅沢感に浸れたのに大人になってからは大量に注文して残してしまったこともある。学生時代なら吐いてでも全部食べ尽くしたはずだ。

 

ステーキしかり。若い頃は最上のご馳走だったのに今では二口、三口も食べればゲンナリしちゃう。中途半端に上物も食べてきたせいで廉価版だと見下したような反応までしてしまう。

 

ウナギにしても子供の頃はスーパーで売っている冷蔵パックの安い切れ端みたいなヤツだって万歳三唱するぐらいの喜びを感じながら大事に大事に食べていた。

 

ウニにしてもウナギにしても歳を重ねるうちにだんだん上物にめぐり逢い、最上級のモノにたどり着いた時には目ん玉が飛び出るぐらいの顔で「何じゃあコレは~‼️」と感動した。

 

あの感動は二度目以降はなくなってしまう。二度三度と食べるうちにただうなずくだけになる。そのうち些細なことでケチまでつけ始める。諸行無常である。

 

大半の若者は極上のウニやウナギにこれから遭遇するわけだから“目ん玉飛び出るモード”をまだまだ何度も体験できることになる。これは素直にうらやましい。食のウンチクを語り始める歳になるとああいう感動を味わえなくなる。

 

などともっともらしいことを書いてきたが、先日ふと食べてしまったヘンテコなラーメンのせいで若者たちの味覚が少し心配になったのも事実だ。

 



その名も「油脂麺」である。ジャンルでいえば油そばになるのだが、名前からして「油」プラス「脂」である。別な店で軽く飲んだ流れでラーメン好きな友人と食べに行った。

 

油そば自体は何度か食べているが、ここまでハード?な一品は未体験である。すなわち「お初」だ。さすがに目ん玉飛び出るほどウマいだろうという期待はしていなかったが、ホロ酔いだったからワクワク気分でチャレンジしてみた。

 

結果は惨敗だった。半分ぐらい残してしまった。お店の名誉のためにいえば若い頃なら余裕で完食したはずだ。今の私には無謀なチャレンジだった。あくまで若者向けに作られた食べ物である。私が良し悪しを語ったところで意味はない。

 

でも私が若者時代にこういう食べ物は存在していなかったと思う。もちろんクドい系のラーメンはあったが、油そばというジャンルが確立されていなかったし、当然ここまで攻撃的?な麺料理は記憶にない。

 

今の時代ならではの一品だとしたら私の若い頃とは若者の味覚自体が変わってきているのだろう。だとしたら今の若者は、私の世代がたどってきた「お初の感動」を我々と同じ感覚では受け止めない可能性がある。

 

ちなみに鰻重に卵黄を落とす食べ方が一部で人気になっているらしい。それも若者世代の味覚変化の影響なのだろうか。なんだか自分が物凄く歳をとってしまったような気がする。

 

 

 

 

 

 

2024年7月17日水曜日

酒の相手


酒との付き合いは中学生の頃からだ。祖父のイタズラでコーラにウイスキーを入れられて酩酊したのが14歳ぐらいだったか。それから40ウン年が過ぎた。酒にまつわる思い出は数え切れないほどある。

 

「酒を飲めない人は人生を半分ぐらい損している」みたいな話を聞くことがある。半分はともかく、あながち大げさではないかも知れない。そのぐらい酒の存在は日常に彩りを加えてくれる。

 

とか言いながら私の場合、若い頃はゲロゲロゲーばかりだった。吐くために飲んでいるのかと思えるほどだった。ある意味エネルギッシュだった時代だ。

 

年齢を重ねるうちにゲロッピーな日々も終わりを告げた。無茶な飲み方とも無縁になり普通になった。当然ながら何年も前から吐かなくなったがそれはそれでチョッピリ淋しい気もする。

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2011/11/blog-post_04.html

 

コロナ禍をきっかけに酒量はだいぶ減った。付き合い酒が激減した影響だ。なんなら「たしなむ」程度になった。酔うのは好きだが、酔った後の疲労感が昔より格段に重い。それを思うと少量で切り上げる。先日も鰻屋さんで冷酒を2合飲んだだけで帰宅後に身体が重くてうたたねから復活できない有り様だった。

 

先日、久しぶりに銀座で飲んだ。馴染みのオネエサンに強制連行されて和食屋さんであれこれ食べながらゆるりと過ごす。

 



ウナギも好きだが、うなじも好きな私としては浴衣姿の綺麗どころと飲む酒はなかなかである。どうでもいい話で盛り上がりながらビールにハイボール、焼酎などをダラダラと味わった。

 




男同士の酒も楽しいが、“withおんな酒”はまた別の良さがある。いくつになってもその点は現役である。一応、相手は饗応を専門職として生きている女性だからこちらが不快になるような会話は無い。ここが肝心である。だから平和な時間だった。

 

最近は「饗応オネエサン」の新規開拓もすっかりサボり気味だ。これもまた加齢の典型的症状かもしれない。なじみのオネエサンと昔話をしているほうが新顔さんの意味不明な話を聞かされるよりラクチンである。

 



ラクチンなほうを選んでしまうのはどんな分野においても進化を妨げる。その意味ではもっと開拓精神も必要だが、最近は夜になると眠さが勝ってしまい面倒なことはつい避けてしまう。アフターまで付き合ってワイワイ騒いでいた頃とは別人になってしまった。ちょっと反省。

 

話は変わる。

 

同居を始めて2年になる娘と飲む時間も私にとって大事な時間だ。子供が生まれると「将来は一緒に酒を飲んだりするのかなあ」などと親なら誰もが想像する。でもその時点では片手で持てるぐらいの小さい存在だから現実感はまるでない。

 

過ぎてしまえば20年はアッという間で、気づけばごくごく普通に一緒に酒を飲むようになっている。我が家の場合、娘が一人で寝酒を楽しんでいるのに私はお茶を片手にくるみゆべしを食べているような逆転現象も頻発している。

 

しょっちゅう二人で外食するのでその際は何となく晩酌タイムを共にしていることになる。これって冷静に考えたら幸せな時間だろう。嫁に行ってしまえばそんな場面はなくなるわけで、何気なく過ごしている当たり前の時間が実はものすごく尊い時間なんだろう。

 


先日も近所にふらっと出かけて新規開店した蕎麦屋に父娘で入ってみた。蕎麦の前に刺し身や鹿のステーキ、蕎麦豆腐、親子煮などをツマミに軽く飲んだ。会話の内容はどうってことのないものばかりだが、差し向かいでダラダラ話すことが単純に有意義な時間だと思う。

 

娘は家でもやたらとアーダコーダと喋っている。とにかく私は聞き役だ。その日の出来事や世相、芸能ネタ、色恋ネタ、はたまた法律問題などノンジャンル無制限のオシャベリ大会である。

 

蕎麦屋にいる時も娘が機関銃のように喋りまくっていたから、夏バテ気味の私は「もっと無駄話を聞いてくれる友達を増やしたらどうだ?」と言ってみたほどだ。でもそれは間違いだろう。よく考えたら大人になった娘が何でもかんでもギャンギャン話してくることは父親として喜ばしいことである。

 

父親を毛嫌いして会話もしない、洗濯物も一緒に洗わせない、部屋にも入れないといったトンチンカンな若い女子はこの世にゴマンといる。そんな悲惨な環境に暮らす人に比べたら私などは幸せ者だと思わないといけないのだろう。

 

全地球上には80億人ぐらいの人間がいるらしい。そんな中で一緒に酒が飲めて本音で語り合える相手がいることは決して当たり前のことではない。というわけで、娘のどうでもいい話をこれからもどしどし聞いてみることにしょう。

 

 

 

 

 

 

 

2024年7月12日金曜日

相変わらずのウナギ


コンビニ飯や菓子パンを食べなくなって2週間がたった。別に健康になった自覚はない。そんなにすぐに影響が出るはずもないが気持ちは別だ。「きっと身体が喜んでいる」と思い込んでご機嫌である。

 

そのせいか、ウナギを食べる機会が今まで以上に増えている。大谷翔平の月間ホームラン数を基準に毎月ウナギを食べる回数をカウントし始めている。6月は夕飯に10回もウナギを食べたのに翔平さんは12本もホームランを打ったから完敗である。

 

さて、先月だったか、関西風の蒸さないいわゆる直焼きの鰻重の人気店に出かけた話を書いた。結局私は関東風しか認めない偏狭な人間であることを痛感したが、自宅近くにやたらと評判の良い鰻屋さんがあることを知り、これまた関西風の直焼きウナギ専門店なのに懲りずに出かけてみた。

 

小伝馬町近くにある「躻」と書いて「うつけ」と読ませるカフェみたいな店だ。風情や渋さはまるで無い。この時点で古典的人間である私の気持ちは沈む。そしてオーダーはQRコードを読み取ってやれとの話を聞いて一層沈む。

 




まずはうざくや肝焼きで一献やりながらひと息。初めて行った鰻屋さんでは最上の鰻重を頼んでみるのが私の中のオキテだが、こちらの最上位はその名も「マウンテン」なる怪しげなネーミングの一品。出てきてビックリ、なかなかコメまでたどり着けないほどウナギが山盛りだった。

 

テンコ盛りにウナギが乗っかっていると不思議なもので有難みを感じない。実に贅沢な話である。せっせと上の方に乗ったウナギを大口あけて食べ進める。はやくコメにたどり着きたい一心で味わっているヒマもないほどがっつく。


 



で、ちょっと落ち着いて肝心の鰻重の味を私なりに吟味したのだが、かなり美味しい。カフェっぽい内装、QRコードでの注文と続いてイライラしていたのに美味しく感じたわけだからかなりのものだろう。

 

先月食べた関西風直焼きウナギは日比谷の「うな富士」という大人気店のものだったが、個人的にはこちらの店のほうが断然しっくりきた。「うな富士」で気になった“焦げ感”が気にならずウナギそのものの旨さが伝わってくる。

 

もちろん、蒸す行程をいれた関東風の方が好きなのは変わらないが、直焼きでもこの店の鰻重なら素直に喜んで食べたくなるレベルだった。QRコード方式じゃなかったら再訪すると思う。

 

別な日、市ヶ谷の愛人宅を訪ねた後に寄ってみたのが「阿づ満や」。愛人宅に足を運ぶたびに気になっていた店だが、この日が初訪問だ。

 

ちなみに「愛人宅」というくだりは単なる私の見栄だ。そんな書き方をしてみたくなっただけです。ごめんなさい。

 

さてこちらのお店は創業から200年以上の歴史を持つ老舗だそうだ。変に敷居が高い感じではなく初訪問でも居心地の良い空間だった。高齢の元気なお女将さんがチャキチャキ取り仕切っていて常連のオジイサンがいい感じに酔っていた。

 




こういう雰囲気の店は素直に好きだ。妙に落ち着く。ビールから冷酒に移行して相変わらずうざくや肝の煮たやつを肴にこっちもホロ酔いモード。

 

気づけばお女将さんと常連のオジイサンとのやり取りに割って入ってしばし歓談。オジイサンからはナゼだか「智恵子抄」の完全版だという箱入りの本をもらうし、お女将さんからは小粋なポストカードをもらう。何だか妙に楽しい時間だった。

 



肝心の鰻重もさすが東京の老舗である。ふんわりととろけそうな仕上がりで文句なし。近所にあったら頻繁に通いたくると思う。ウナギ以外のツマミ類もそこそこあったし、本格鰻重をシメに出来る小料理屋さん的に使わせてもらうのもアリだと感じた。

 

話は変わる。

 

少し前に牛丼の吉野家の鰻重が数年前の悪印象を覆す味に進化していたことを書いた。たまたまだったのかと思ってその後も何度か食べたがやはりそれなりに美味しい。

 

というわけで吉野家のライバルである「すき家」「松屋」もきっと昔よりはマトモな鰻重を提供しているのだろうと実際に食べてみた。

 

すき家は酔ったついでに店舗に入って食べた。タレが甘すぎた印象はあったがウナギ自体はやはり数年前の「牛丼系ウナギ」より数段マトモになっていた。

 



 松屋もしかり。ウーバーで頼んだのだが、ちゃんと美味しい。どこも高値傾向が当たり前になった鰻専門店もヘタな仕事をしていたら牛丼チェーンに客を取られるのは間違いないと思う。

 

ウナギ2枚載せにしたところで2千円台だ。牛丼に比べれば富豪価格だが、中途半端な鰻専門店で高い値段を取られるならこちらで充分かもしれない。

 

何年か前に牛丼屋の鰻丼のマズさを実感した際に、子どもたちがみんなウナギ嫌いになってしまう危険を感じた。そうなったら将来的に鰻文化が廃れてしまう。真面目にそんな心配をしたのだが「牛丼系ウナギ」が奮闘してくれれば結果的に鰻文化の未来も明るいはずだ。

 

なんだか上から目線みたいな書きぶりになってしまった。世界遺産である日本料理の中でも特筆すべき存在が鰻重だと思っている私としては、専門店のウナギだけではなく、すべての鰻食の水準を高く維持して欲しいと切に願っている。

 

 

 

 

 

2024年7月10日水曜日

膵臓問題とケチャップ

 

今年も半分が終わった。びっくりだ。私個人の上半期は膝の負傷、長引いた結膜炎、通算3度目のコロナ感染と体調面にいろいろ問題があった。下半期は何もない事を祈っているのだが、7月に入って早々にまたもや気になることが起きた。

 

半年ぶりに膵臓を超音波内視鏡でチェックしてもらったのだが、懸案のデキモノがちょっと成長してしまったようで要注意状態になってしまった。

 

一昨年から監視しているデキモノだが、昨年は大きさに変化がなく生検でも悪性ではなかったので様子見をしていた。ところが今回調べたら1,5倍になっていたとか。サイズ的には3ミリだったものが4,5ミリだからたいしたことはなさそうだが、ドクターによると67ミリになったら「ちょっとヤバい」とのこと。

 

そのぐらいのサイズになったら開腹手術をしたほうがいいと言われてさすがの私も少しビビり気味である。腹腔鏡とやらでチャチャっとやって欲しいと言ってみたのだが、膵頭部にあるデキモノだと場所の関係上、開腹手術になるらしい。そうなったら2週間は入院だとか。オイオイ!って感じである。

 

この日は内視鏡検査のために朝から何も食べずに過ごしていた。検査は14時半からだったので空腹バリバリだった。検査後のドカ食いのことしか考えていなかったのに怖い話を聞かされたせいで食欲が一気に無くなった。

 

検査は日本橋高島屋に近いクリニックだったので、検査後は高島屋の中の資生堂パーラーでオムライスとグラタンをガッツリ食べる予定にしていた。ところがションボリモードになった私はクリニックを出た後、どこをどう歩いたのかも覚えていないほど呆然としていた。

 

というのはウソです。検査でちょっとバテたのでまずはゆっくりタバコを吸おうと高島屋の近くにある喫茶店に向かう。時々タバコ休憩に利用している老舗の喫茶店「げるぼあ」だ。

 

実はこの店、“喫茶店オムライス業界”では名の知れた人気店である。私はタバコ休憩でしか使ったことがないので食べたことはないが、ランチ時はかなり賑わうらしい。

 

中途半端な午後の時間だ。お客さんもまばら。一服してたらアッという間に空腹の絶頂にいることを思い出した。ついでにこの店のオムライスが人気だということも思い出した。俄然食べる気満々モードに突入した。

 

注文したのは当然のごとくオムライスだ。ついでにナポリタンも頼んでしまった。いまさっきまでウツウツしていた還暦間近のオジサンにしてはヤンチャな行動だと思う。

 



昔ながらの正統派オムライスがやってきた。いまどきのふわとろオムライスも捨てがたいが「喫茶メシ」だからこんな感じの仕上がりが何だか嬉しい。素直にウマい。奇をてらわない普通な感じが妙に落ち着く。チキンライスの味もしっかりめでバランスが良かった。

 

開腹手術ってこんな感じで腹をかっさばかれてケチャップみたいに血がドバドバ出るのかなあ、などと我が身に置き換えてイヤな想像も頭をよぎる。でも空腹が勝ってそんな恐怖はすぐに引っ込んでガツガツと食べ進んだ。

 



昔ながらのオムライスにホッコリするとともに「つけ合わせスパゲッティ」に久しぶりに出会ってムホムホした気分になった。実は私はこれが大好物である。たいていは味がない。具もない。味気ない。そして冷たい。でも何だか私の心を捉えて離さない。

 



きっと単品でこれだけが出てきたらちっとも嬉しくないのだろうが、洋食メニューの横にチョコンと鎮座していると途端に愛おしくなる。箸休め的に少しずつ食べる。

 

味がないから漬物みたいに主張してくるわけでもなく、メインの食べものに戻った際にまた味覚を甦らせて主役を引き立ててくれる名脇役だと思う。脇役というよりエキストラ程度の立ち位置かもしれない。

 

続いてナポリタンが鉄板の上でジュージューいいながら登場。これまた昔ながらの王道の風格が漂っている。日本人が生んだ奇跡の一品と表現しても大げさではない。いつかイタリア・ナポリに専門店を作ってみたいものだ。

 



 モチっとした麺に酸味の効いたアノ味が口の中に広がる。「これだよこれ」と一人つぶやく。最近、自宅で何度もナポリタンを自作したのだが、アルデンテ気味に仕上げてしまいどうもシックリこなかった。やはりナポリタンはパスタ料理とは一線を画した日本料理である。

 

朝から何も食べていない午後3時半過ぎの食事である。2品しっかり食べてちょうどよいぐらいだった。実に幸福な気分になって膵臓問題をしばし忘れた。「食」という文字は「人」を「良」くするで構成されている意味を痛感した。

 

さてさて、膵臓問題は年末に改めて超音波内視鏡でデキモノのサイズを測って成長度合いによって検討することになった。どのみちいつかは大きくなっちゃうのだろう。いわばしばらくは執行猶予状態である。

 

考えようによっては早い段階から敵を見つけてしっかり監視できているわけだから運が良いとも言える。物事は前向きに解釈しないとしょうがないからそう思い込むことにした。