2009年7月28日火曜日

独善的、自己完結

無くて七癖という言葉がある。無いと思っていても7つぐらいはクセがあるのなら、私などは70種類ぐらいのクセがあるのだろう。

クセを例にとるまでもなく、分かっているようで分かっていないのが自分の性格や性質だ。指摘してくれる他人もなかなかいない。

もちろん、40年以上も自分をやり続けているのだから多少の傾向や路線は分かっているつもりだ。それでも意外な場面で意外な自分の様子に気付くこともある。多分60%ぐらいしか自分のことを把握していないのかも知れない。

人様に対して、その人のビミョーな点を指摘することは難しい。難しいというか、そんな指摘はハナからしないようにしている。たいていの人がそうだろう。

逆にいえば、自分に対しても誰かがビミョーな問題点を指摘してくれることはない。だれもが独善的で自己完結のなかで生きているようなもの。

仕事や組織も同じだ。同じ人間、同じメンバーで動いていると問題点は埋没する。前例、慣例が幅を効かし、小さな変化すら拒絶する体質になってしまう。

人事異動で空気を入れ換えようとしても組織全体に染みわたっている澱みはなかなか消えない。大手企業がさかんに社外取締役みたいな制度を導入したがるのもそうした弊害を憂いてのこと。

中小企業の場合、一般的にワンマン体質になりやすい。ワンマン体質こそが中小企業の強さという見方も出来るが、自己完結、独善的という要素は強まる。

経営者自身が自らの澱みに気付かないという点では、大きな組織が持つ弊害と同じ。上手く歯車が回っている時は強さになることが、低迷期には浮上の妨げになる。

客観的に問題点を指摘してくれる第三者の存在がつくづく大事になるわけだ。

中小企業の場合、なかなかそれに見合う第三者を見つけるのは大変だが、顧問税理士をそういう位置付けにすることは難しくない。

社外役員などと大げさに考えるのではなく、あくまで客観的な指摘を積極的に求めることで随分と有益な情報が手に入るはず。

経営者の中には顧問税理士を単なる計算代行屋といった認識で見ている人も多い。「余計なことを言わずに税金が安くなることだけ考えていればいいんだ」みたいな感覚で捉えている人もいる。

経営者は経営のプロとしての自負があり、税理士を「先生」と呼称しながらも、四の五の経営のことをうるさく言われたくないという意識が少なからずある。

対する税理士のほうも、うさん臭く思われかねない現実に敏感になっているところもあって、求められない以上、積極的に貴重な分析情報を提供しない。

以前、わが社が発行する新聞で、税理士から見たダメな経営者に関するアンケート調査を実施したが、なかなか興味深い結果が出た。

細かい話は割愛するが、ダメ経営者に共通しているのは、自分の足元が見えていない点。簡単に言えば、現状認識がまるでできていないということ。数値というシビアなモノサシで企業を分析する税理士にとっては、経営者のひとりよがりが気になるようだ。

具体的には、「過去の人のつながりを否定する」とか「提案、発言内容が若手からだとそれだけで拒否する」、そのほか、「節税しか頭にない」、「すぐ日本経済を語りはじめる」といった指摘もあった。

多くの企業を見ている税理士には想像以上に蓄積情報がある。自負心の強い経営者は想像以上に独善的。こういう悪循環になっているわけだ。

もっとも、経営者の多くが、指摘されそうな問題点をあらかじめ把握していることもある。ことさら第三者にシタリ顔で指摘されたくないという意味で、外部の意見に耳を傾けないわけだ。

「そんなこと百も承知なんだけど・・」っていう感じだ。いろんなしがらみや事情によってその問題点は改善されない。

とはいえ、第三者に指摘されるような問題点を抱えていれば、いずれその病巣が広がって企業を窮地におとしめる。やはり、分かっていようとも第三者に指摘され続けることは麻痺しないためにも大事だろう。

いずれにせよ、経営者に対して客観的数値というこれ以上ない材料とともに意見が出来るポジションにいるのが税理士。経営者としてもっと上手に使いこなさないともったいないと思う。

※※1週間ほどブログ更新をお休みします。再開は8月3日か4日を予定しています。暑さ厳しき折、皆様ご自愛下さい!!

2009年7月27日月曜日

ウナギ

ウナギを外しまくっている。悪循環、負の連鎖が続いている。なんのことはない。自分の横着でウマいウナギを逃している。

そんなにしょっちゅう食べるわけではないが、私自身、ウナギは大好きだ。東京の名店と呼ばれる店にも随分行った。

よく冷えた冷酒のツマミにはわさび醤油で味わうウナギの白焼きが一番合う!。こんな信念を曲げずに20年以上になる。

先日、久しぶりに真っ当なウナギ専門店に行こうと計画。ところが土用の丑の日が近かったせいもあって予約が出来ない。

日本橋で2件、神田で1件、築地で1件、ことごとく「今月は予約は受けない」とか「その日は満席だ」とか言われてしまった。

その程度であきらめるようじゃ救いもないが、立て続けに断られたのでウナギ自体が恨めしくなって、相変わらずの寿司屋通い。こういうこだわりの無さがその後のダメダメな日々に続く。

ウナギ専門店にふられまくった数日後、風邪気味だったので、まっすぐ帰宅。その際、滋養をつけようとウナギのことが頭をよぎる。時間も遅かったので、なんと近くの吉野屋で鰻丼を購入して持ち帰る。

「牛丼屋で鰻丼」。絶対ダメじゃん!そんなことバカでも分かりそうだがやってしまった。

フタを開けたらどんぶり飯ばかりが目に入る。ウナギが小さい。しょぼい。寂しい。悲しい。

まっとうなウナギ屋なら、お重のフタを取った瞬間、目に飛び込むのはウナギばかりのはず。大きいウナギだったら端っこのシッポのほうを折り返してあるほどだ。

吉野家のウナギをそういうウナギと比べること自体、無意味なのだが、フタを開けた瞬間に感じたあの寂しさは想像を絶した。

4人分か5人分の鰻丼を買ってきて、ひとつのどんぶりにウナギだけを総結集すれば、それなりの鰻丼になりそうだ。残ったどんぶり飯をどうするのかが問題だ。

牛丼だったら牛皿というメシ無しの一品がある。牛皿を別注で買ってきて牛丼にトッピングすればスペシャル盛りは際限なく可能だ。

鰻丼の場合はどうだろう。たしか「うな皿」という単品メニューは無かったからコトは簡単ではない。

さて、その翌日、この日も体調が優れずまっすぐ帰宅。またまた滋養をとろうと今度は自宅近くの魚屋の店頭にあった蒲焼きが目に入った。

「愛知県産、当店でさばきました。タレも当店特製」と貼り紙まである。迷わず買った。蒲焼き一枚が吉野屋鰻丼の3つ分の値段だ。それが普通だろう。期待して持ち帰る。

家でそそくさと食べる。マズい。素直にマズい。タレもまずい。まともなのは山椒だけ。泣きたい。

思えばあの魚屋は普段ウナギなど置いていない。そんな魚屋がさばいた自家製ウナギだ。美味しいはずがない。骨もやたらと気になる。また失敗だ。

その後、週末にウナギを食べた。奥方様にデパートで買ってきてもらった。ここ数日の中ではマトモだった。一応、専門店のウナギらしい。もちろん、温め直しというジャンルでのマトモさだ。嬉しくなるほどウマいものではない。でも確実に軌道修正だ。

数日後、会社終わりにウナギでも食べようと思いつく。ウナギというよりアルコールへの意識が強かったせいで、またまた失敗。

池袋という立地が微妙だ。でもそこそこ有名な老舗があるので行ってしまった。

いま思えばウナギが美味しくて有名なのではない。珍しいウナギの各部位を串焼にして出すことで有名な店だ。

池袋西口の繁華街に立派な店舗を構える。オヤジのオアシスみたいな店。串を頼んだ。レバと肝とカシラ。

ウナギの肝と呼ばれる部位は一般的に臓物系全般を指すらしい。この店のレバ串を食べると、肝とレバの違いが良く分かる。ウナギのレバ串はとてもウマかった。

串と枝豆でいい調子で飲み始めていた私だ。ウナギの白焼きも早めに注文する。冷酒に変えた時にじっくり楽しもうと企む。

ところが10分もしないで白焼きが登場。オキテ破りだ。ヤバい。おそるおそる食べてみる。味がない。マズい。串はウマかったのに、この落差はなんなんだろう。わさびと醤油をやたらとベチョベチョつけて食べる。

気を取り直して「うざく」を頼む。今度は2分で出てきた。ウナギ専門店としてそういう感覚でよいのかっ!と突っ込みたくなる。

そんな店でも最後にうな重を注文する私は、ただのバカ食い野郎だ。ウナギが食べたいという思い込みは、注文後数分で白焼きを出すような店であっても衰えない。

案の定、頼んでから6分ぐらいでうな重が運ばれてきた。

甘いタレ、ビチャッとしたウナギ・・。想像した通りだ。でも完食。

ここに書いた出来事は1週間ちょっとでの話だ。0勝4敗みたいなもの。いま頭の中にあるのは敗者復活戦のことばかり。1回で5勝分ぐらいの満足感を味わいたい。

いつどこに行くか、いろいろ検討中。負の連鎖に終止符をうつ日は近い。

2009年7月24日金曜日

ホワイトカラーの税金

自民、民主の政策論争。はっきりその違いが分かる人は少ないと思う。断片的に主張していることの違いは分かっても、イデオロギー的対立が薄まった以上、当然の傾向だろう。

税は政なり、政は税なりとよく言われる。税制の方向性が国の舵取りを象徴するといった意味合いだ。

自民党も民主党も「消費税を廃止します」的な極論は口にしない。せいぜい増税のタイミングについて考え方が違うだけだ。

どちらか一方が「法人税を引下げます」、もう一方は「いやいや法人税は増税します」みたいな食い違いもない。大枠ではさほど隔たりがあるようには見えない。

税制をめぐる大胆な提言はまともな政党としては謳いにくい。万年野党で良ければ財源論抜きの減税政策だけ語っていればいいが、政権を狙う段階になるとトーンダウンする。

こうなると、当たり前でわかりきった、面白味のない税制提案が主流になってしまいがちだ。

最近の税制論議でまことしやかに言われている“定説”がある。


「終身雇用制度が崩壊した以上、退職所得控除は縮小すべき」。

「サラリーマンの給与所得控除は、実際に必要な経費より高額だから縮小すべき」。

いずれも政府税制調査会が取り上げているテーマでもあり、一見、もっともらしい素材ではある。

表立って所得税増税とは主張できないのが永田町、霞ヶ関のつらいところ。大衆課税の代表である所得税を“上方修正”することは政府サイドから見れば荒技だ。

税率を上げます、などと言えない以上、各種控除の縮小という形で増税を狙いたいが、この場合でも、増税という表現はまず使わない。

不公平の是正、時代に合わせた整理。。。こういった表現が中心だ。

「給与所得控除」を改めて考えてみたい。数千万人の納税者が適用されているポピュラーな制度だ。趣旨としては、サラリーマンが事細かに経費精算をしなくて済むよう、収入ごとに一定額をあらかじめ経費的なものとみなすもの。

ごく大雑把な表現だが、年収1500万円だけど課税所得は1千万円といった場合に、さっ引ける500万円の部分の多くが給与所得控除と考えれば分かりやすい。

給与収入1千万円超の人の場合、控除額は、「給与収入×5%+170万円」なので、給与収入1200万円の人を例にとると230万円が控除額ということ。

もちろん、累進制があるため、低収入の人ほど控除額の割合は高く、年収3~400万円程度だと給与収入の3割以上を控除してもらえる仕組みだ。

これがはたして必要経費として妥当な水準かどうかは人によって異なる。アクティブに動いている高所得者層にとっては間違いなく足りないだろうし、ボーッとしているだけの低所得サラリーマンにとっては多過ぎるという見方が一般的かも知れない。

自営業者に比べて、必要経費相当分をあらかじめフィックスされてしまうのはおかしいというのが“サラリーマン業界”の昔からの意見。税務訴訟も繰り返されてきた。

なんでもかんでも必要経費にしている(ように見える)自営業者のように自分達にも実際の必要経費計上を認めろという理屈だ。

そのため、国としてもガス抜きを目的にサラリーマンの実額経費申告を認める制度を作ってはいるが、まったく機能していない変な制度として知る人ぞ知る存在になっている。

「給与所得者の特定支出控除」というのがその制度だ。条件を満たせばお仕着せの給与所得控除ではなく、実額の経費申告を認めますという内容。

ところが、条件が厳しい。普通は越えられないハードルだ。まず、支出する費用が下記の5種類に限定されている。おまけに支出総額がその人の給与所得控除より多くなければダメという仕組み。

1 一般の通勤者として通常必要であると認められる通勤のための支出
2 転勤に伴う転居のために通常必要であると認められる支出のうち一定のもの
3 職務に直接必要な技術や知識を得ることを目的として研修を受けるための支出
4 職務に直接必要な資格(一定の資格を除きます。)を取得するための支出
5 単身赴任などの場合で、その者の勤務地又は居所と自宅の間の旅行のために通常必要な支出のうち一定のもの

一般的には会社が負担してくれる費用が中心。これらをすべて自腹で支出し、おまけに年間の出費が給与所得控除より高い金額になるケースは常識的に考えにくい。

例年、適用者はわずかに2人とか5人とかそういう問題外の水準にとどまっている制度だ。

わが社の新聞ではこの制度を以前から問題視しており、サラリーマンの「特例」どころか「得0(ゼロ)」と表現してきた。

わざわざ作った制度の適用者が全国で数人という実態はまさしく異常事態だと思う。にもかかわらず漫然と放置されたまま。

こういう実態を放置したままで、一方の給与所得控除の縮減に向けた議論だけが先走りはじめている。給与所得控除の見直しに踏み込む以上、ある意味で表裏一体ともいえる特定支出控除を根っこから見直す必要がある。セットで議論すべきテーマだろう。

むしろ、毎月の源泉徴収と年末調整で課税関係が完結するサラリーマン税制自体を見直す時期に来ている。

申告納税制度の基本中の基本は、自ら申告することにほかならない。現在のサラリーマン税制は計算も申告も納税も会社におまかせ。会社側も疑問に思わず、せっせとサービス労働にいそしむ。

その結果、自分の納税額も把握せず、税に関心ひとつ無いホワイトカラーが大量に生み出されたわけだ。なんだか先進国とは思えない構図だ。

次の選挙でどう転ぶか分からないが、歴史の転換点になるかもしれない選挙だ。今日、グチグチと書いたような内容が、近い将来、根本的に是正されるきっかけになればいいと思う。

2009年7月23日木曜日

珍味は美味


冒頭のこの画像、眺めているだけでヨダレが出る。珍味オンパレードだ。こんな品書きを撮影しようと思うあたりが、私のフェチの極みだ。

カニの内子、ますこ、ウニ塩辛・・。抱かれてもいいって感じだ(意味不明でスイマセン)。当然すべて食べた。美味美味。

それにしても、なぜ世の中の珍味達は美味と呼ばれないのだろう。珍味などという威厳のかけらもない呼称は珍味達に失礼だと思う。

このメニューは、函館・湯の川にある「鮨処 木はら」のもの。函館の有名店だ。湯の川温泉に宿を取ることが多い私も何度か訪ねた店。

すこし派手目な六本木的なお寿司屋さんといえば的確だろうか。声の大きなお客さんが数人でタバコをプカプカさせながらガハハハ賑やかに飲んでいそうな店だ。

珍味も豊富、魚も豊富、鮮度もOK、アルコールの品揃えもバッチリ。営業時間も長い。函館の相場よりは多少高めの値段設定だが、何かと重宝する。

正直、シャリが美味しくないので私的には高級海鮮割烹という認識。そこそこの規模の店なので、放っておいて貰いたい気分で中途半端な時間帯だと使い勝手がいい。

この時は毛ガニ甲羅焼きも注文。ほぐした身とタップリのミソを混ぜ合わせて肴にする。無条件で旨い。珍味オンパレードの他に、適当に刺身ももらって冷酒をくいくい。最高だ。

結局、今シーズンの私は、夏場なのに珍味攻めの日々からなかなか抜けられずにいる。

先週末のある日、子どものイベントか何かで朝っぱらからわが家には私一人。炊きたての白飯は用意されていた。冷蔵庫でおかずを探すが、目に入ったのはイクラの瓶詰め。

結局、誰の視線も気にせずに済むイクラ丼大盛りだ。そんなもんばっかり食べている。

精進料理とか野菜料理を食べようと考えていた某日、私が座っていたのは、銀座の珍味どころ、いや「鮨・九谷」だ。

函館で旬のイカが旨かったぜ話をしきりに展開していたら、東京では実に貴重な逸品の登場。函館と同じスルメイカのワタだ。

北海道ではゴロと呼ばれるワタ。東京では主に塩辛用に使われておしまいらしいが、ナマで食べても最高だ。さすがに東京の九谷では、イカワタをルイベ状で出していた。それでも舌の上で溶け出す味はウットリクリーミースペシャルだった。

その後も健康的なもの、不健康そうなものをとり混ぜアレコレ食べたが、箸休めのようにオールスターセットも登場。見るからに麗しい面々だ。ウニ、イクラ、カニミソ。やはり抱かれてもいいって感じだ。

握りに移ってからも結局、スジコを食べる。美味しい素材がいろいろとあるのにこの手のものばかり食べている。ナントカのひとつ覚えとは私の食の好みを言うのだろう。

旬の旨いものを横目につい珍味ばかり摂取してしまう私だ。間違いなくグルメと呼ばれる人種ではない。

2009年7月22日水曜日

モノの値段

作家の角田光代さんがとある雑誌のエッセイで傘の値段を面白おかしく考察していた。
モノの値段を考える時、昔と大きく変わったのが傘の値段という話だ。

確かにいつのまにか傘にも使い捨て感覚がつきまとうようになった。500円傘は当たり前、300円傘も珍しくない。おまけにコンビニをはじめそこら中で売っている。

昔、傘はもっと大層なものだった気がする。低価格商品の普及のせいなのか、コンビニが増殖したせいなのか、はたまた私自身が傘にこだわる洒落っ気をなくしたからだろうか。

少なくとも私にとって傘はいま貴重品ではない。ビニール傘が中心になっちゃったからだが消耗品的位置付け。そうなると自宅に温存してある上等な傘はますます出番がなくなる。

そんなことを考えながら私が思春期や若者時代に認識していたモノの値段が随分様変わりしているケースに気づいた。

ファーストフードには特にビックリだ。ハンバーガーが100円で食べられるし、シェイクなんて自販機のジュースより安い。牛丼も200円台で食べられる。

欠食児童だった中高生当時にこんな状態だったら、小遣いは間違いなくハンバーガーの大量摂取に消えたと思う。スーパー肥満太郎になっていただろうから当時の価格を良しとしたい。

喫茶店の値段も同様。100円とか200円でくつろげる店などなかった。高校生当時、友人達と放課後の喫茶店通いが日課だったのだが、日々必要な“サテン代”に苦しんだ記憶がある。

なんとか悪友達もやりくりしていたが、そうはいってもバイト禁止の高校生だ。さすがに連日の喫茶店代捻出はキツイ。

私が通った学校は、学食利用でも弁当持参でもどちらでも良かったので、多くの場合、親からもらう学食代を温存して喫茶店代に充てていた。

昼休み前に弁当組の友人が席を外しているスキに人の弁当を盗み食いして空腹をしのいだこともある。いまさら反省しても遅いが最低だ。その弁当を子どものために一生懸命作っていた母親の気持ちを思うと胸が痛む。

どうして若い頃ってあんなに非道になれたのだろう。。。

浮かせた学食代で喫茶店に行くのだが、300円は最低限必要だった。渋谷あたりの洒落た店だともっと高かった。30年近く前の話だ。いまより確実にコスト高だった気がする。

あの頃、思い返せばポイント制度みたいなシステムもなかった。家電量販店とかのポイント還元などは夢のまた夢。随分と進化したものだ。

1000円カットの床屋もいつのまにかゴロゴロある。合理的で安価なものこそ美徳という風潮が強まるとともにどんな分野でも価格破壊が起きている。

激安とか量販という概念は20年、30年前だってあったが、いまほど一般人の生活に浸透していなかった気がする。確実に今よりもムダに高いモノが多かった気がする。

100円ショップがなかったことも大きい。雑貨ひとつ買うにも当時はそこそこな出費が必要だったので結構慎重だった。いまは雑な買い物を平気でしてしまう。

唐突だが、女性のハダカを拝見?するのも今より確実に高価だった気がする。

私は行ってませんけど、当時ハヤリ始めたノーパン喫茶とかのコーヒー代は平気で2千円ぐらいの設定だった気がする。

行ってませんけど、「ノゾキ部屋」とかいうジャンルの店があった。半畳ほどの個室に入れられてノゾキ穴から向こうの広い部屋を見るとライオンみたいな髪型のオバサンが服を着たり脱いだりしている。それだけ。それでも3千円ぐらい取られたような気がする。

行ってませんけど、いまは10分1000円とかのおさわりパブがあるらしい。つくづく若者時代にそんなものがなくて良かったと思う。

行ってませんけど、一般的に“ヌキ系”と呼ばれる風俗営業店もお試し価格とかそういうキャンペーンを利用すると5千円ぐらいで済むらしい。つくづく若者時代には価格破壊が起きていなかったことに安堵する。

してませんけど、援助交際という名の少女売春も“相場”が大暴落しているらしい。単純に考えてプロが業務として管理していないなら、安易な値下げによる暴落は当然だろう。なんともビミョーな話だ。

その昔、そっち方面のお遊びが格安だったら、バカな若者だった私は結構ひんぱんに行っちゃった気がする。いまどきの若者はソッチ方面がお手軽で実にうらやましい。

エロ系に限らず、価格が崩れたものは身のまわりに相当ありそうだが、極端な低価格志向って少し気持ち悪くもある。

20年、30年前には想像もしなかったネット社会まっただ中。ネットオークションをマメにチェックすれば欲しいものは格安で手に入る。

新品の定番商品的なものは楽天あたりのショッピングサイトで実売価格が低い順に一覧表示される。消費者にとっては便利な時代だ。

ところで、低価格志向とは別に高級品には高級品の市場価値がある。ネットショッピングなどでもホンモノの一級品が格安で買えるケースは少ない。

ただ、ヤフーのオークションなんかを定点観測すると良く分かるが、需要と供給のバランスが崩れればそこそこの高級品の価格はすぐに崩壊する。そういう時代なんだと思う。

一方で、ネット社会だからこそホンモノの一級品の市場価値も浮き彫りになる。1円スタートのオークションだろうが、最終的には常識的価格で決着する。

以前、とある陶器の花入れをオークションサイトで見つけ、添付写真をじっくり観察すると、分かる人には分かる著名陶芸家の作品であることが判明。

出品者はどうやらその認識がない様子。他の出品物は日用品ばかりで陶器などはない。商品説明も実に素っ気ない。スタート価格も格安。こりゃひょっとして掘り出し物が買えるぞとばかりに落札する気満々でチェックしていた。

オークションの終了期限が近づいた途端、面白いように入札の嵐。どんどん価格が跳ね上がる。最後はウン十万円というその作家の作品の適正価格で終了。

1000円スタートだった商品だ。出品者はたまげただろうが、虎視眈々とチェックしていた人が大勢いたわけだ。消費者の眼力ってそんなものかもしれない。

どんなジャンルだろうと、販売価格、再販価格に生産者側が制限を儲けても、市場側がその値段に価値を見出さなければ、たちどころに適正価格への引下げを余儀なくされる。

デパートのいいなりで高い買い物をさせられていた時代とは確実に様変わりしている。デパートの凋落は一種の必然だろう。

なんかまとまりがなくなってきた。何を書きたかったのか良く分からなくなってきた。ご容赦。

2009年7月21日火曜日

脱税


節税なのか脱税なのか。その明確な違いは分かっているようで分かりにくい。一般的には合法的手段なら節税、法令違反を承知の上なら脱税と分類される。

実際には、そう単純ではなく、極論すれば、税務行政当局が気にくわないと思えば「脱税」のレッテルを貼られかねない。

合法だと思って納税者が行った行為でも行政側は、さまざまな角度から否定しようと躍起になることがある。事実、白が黒に変わってしまったことは過去にもあった。

「気の効いた節税策」というものが世の中に出回らないのはそのせいだろう。出回っている節税策は、さほど大きな税額減少効果がなかったり、現実的な商取引の中で使いにくい仕組みだったり、はたまた既に規制される道筋がついている方法だったり。

「気の効いた節税策」は結局、オモテには出てこない。税金の専門新聞を発行していると随分とその手の情報が集まってくる。なかには当然、活字にしにくい話や、行政当局に裏取り取材がしにくい話も少なくない。

当局側からわが社の現場記者が勉強会的な集まりに誘われることもある。深く静かに広まっている節税策について、こちら側が掴んでいる情報を聞き出したい行政側と、それに絡んだ規制動向などを取材したい記者側の思惑が絡んでそういう誘いにつながる。

民間企業オーナー経営者側の視点で節税情報や動向を取材しているわが社の記者にすれば、思考の立ち位置は民間側。行政側が「規制してやる」という立ち位置なのに対し「規制されてしまう」という角度でモノを見る。

その立ち位置の違いのせいで、逆に当局側から適度な規制導入に向けて知恵を貸せと言われるケースもある。なんとも微妙だ。

税金に関する仕事をしながらつくづく思うのは、スペシャルな節税とかスペシャルな脱税と呼べるような手法は決してオモテに出ないということ。

どんなに高度で複雑で専門家がうなるような手法でも、オモテに出ている時点で既に行政当局側にバレてしまっている。

オモテに出ている以上、行政当局側にはすべてが摘発事例であり、納税者側にとっては失敗事例だ。

「脱税に成功事例ナシ」。税金の世界でよく聞くフレーズだ。この言葉の意味を「成功する脱税方法なんて無いですよ、すぐ見つかっちゃうから」といったイメージで受け止める人もいるが正しくない。

成功している脱税は決してオモテに出ることはないから“事例”は存在しないという意味だ。

誰も知らない、誰も気付いていない脱税方法があっても、知っているのは当事者とその周辺だけというのが常識。

上手くコトが運んでると、ついつい自慢したくなるのが人間のサガ。そんな背景から画期的な?手法もバレちゃうことが多い。

そんな人間のサガを乗り越えて成り立っている誰も知らない脱税方法。。。世の中に結構存在していると思う。

2009年7月17日金曜日

鮨で痛飲 銀座よしき

銀座8丁目にある「鮨 よしき」。若い主人が一人で切り盛りする小さめの店だ。まだオープンしたてだが、適度なお籠もり感と周辺よりはお手頃な価格設定も相まって続けて訪ねてみた。

気の効いたツマミをアレコレもらってから、握ってもらう今風のおまかせスタイルだが、話の流れ、酔っぱらいかたの流れで、そこそこ臨機応変にアレンジしてくれる。

アルコールのラインナップも多いわけではないが、酒好きが喜ぶ銘柄をいくつか揃えている。自ら提供する食べ物との相性をしっかり考えているようだ。


この日は、塩辛とかアワビのキモ和えでチビチビ。塩辛に隠し味で投入されている生姜が印象的。

アワビのキモも定番。私が顔を出した最近の3~4回ともにレギュラー珍味として常備されていた。アワビの刺身を和えるだけでなく、残しておいたキモダレにイカ刺しを入れてもらっても酒飲みがニンマリする味だ。


味の濃い上等な岩ガキのほか、カニの身とカニミソを混ぜてオーブン焼きにしたような料理も登場。卵黄をトッピングして焼いてあるらしく、コッテリ感が強い。

痛風予備軍にとって、この手の料理は悩ましい。手を出したら後で後悔するような女性みたいなもの。ダメだダメだと自制心が囁くが、結局手を出してしまう。

だいたい、先日の函館旅行の際に、珍味系の旨いものを大量に摂取したので、本来ならしばらく控えないといけない。

にもかかわらず、函館から空輸したタラコやスジコ、時鮭の卵である“ときこ”に鱒の卵である“ますこ”がわが家にはラインナップされてしまった。

尿酸値方面に不健康な外食を避けてまっすぐ帰宅しても、「ますこさん」、「ときこさん」という綺麗どころが私を待っている。
毎日毎日四六時中珍味攻めはさすがにまずいだろう。

それに加えて、この季節、カニミソとかイクラ醤油漬けとかそういう素敵なものをお中元として頂戴する。バンザイだ。でも調子に乗って食べまくったら危険だ。

先週末、たまには酒を抜こう、珍味も抜こうと決意して、子どもと同じくパスタだけで夕食を済ませよう決意。たまにはそういう日も必要だ。

ところが、出てきたのはマヨネーズがしっかり入ったタラコスパゲッティー。どこまでも魚卵攻撃だ。結局、子どもの分まで横取りして食べる。

話が随分とそれてしまった。

銀座「よしき」での時間だ。毎度酔ってしまうので、何をどのぐらい食べたか数日経つとコロッと忘れてしまう。塩水ウニとかイワシ、カマスあたりが旨かった記憶がある。握りのシャリもいい塩梅だった。

この日、関西から出張で来ていた御仁と隣り合わせになったので、アーだのコーだのと無駄話に花を咲かせた。お店にとっては迷惑かも知れないが、そういう気軽な空気感もこの店の特徴かもしれない。

また行かねば。

2009年7月16日木曜日

政治の季節 風はどっちに

総選挙は8月30日に決まった。ほぼ任期満了といえる。当初は2年ぐらいでの解散も想像されていたなかで、4年間が過ぎた。ひとえに前回総選挙での自民党圧勝が大きな要因だ。

さてさて真夏の選挙戦、今のところどう逆立ちしようと民主党の勝ちだ。単独過半数もありえる。民主党の勝利というより自民党の自滅みたいなものだが、順当に行けば9月初旬には鳩山由紀夫首相が誕生する。

いま、まさに民主党はお祭り騒ぎ。はしゃぎすぎ、慢心をいさめる声が出るほど楽観的な空気が支配している。

世襲問題を批判する民主党からは政治家4代目となる小泉元首相の次男について「ルパンだって3世までだ」というハチャメチャな批判の声まで出ている。凄い例えだ。意味不明だ。

対する自民党は麻生バッシングが収まらない。内閣不信任案は全員一致で否決したくせに身内の与謝野財務相からも辞任を求められ、首相の四面楚歌モードは極限状態。

武部元幹事長などは麻生首相を「徳がない」とまで酷評。人として徳がないと言われるのは凄いことだと思う。「徳がないほど酷い人間を首相に担いだのは誰?」って言いたい有権者は多いだろう。私も素直にそう思う。

ちなみに私はどちらかといえば自民党支持に近い。これでも一応経営者のはしくれだ。労働組合が重要基盤となっている民主党に肩入れする気は起きない。かといって今の自民党を応援する気もない。

個人的に社会党とか共産党は論外。話題にするのもイヤ。平沼赳夫代議士の動向には注目していたが、カギを握るほどの第三極になるかどうかは微妙だ。だから支持政党が見あたらない。

仕事柄、各党の政治綱領を目にする機会は多いが、変な話、共感できるのは“幸福実現党”ぐらいかもしれない(本気じゃないです・・・)。

先日、民主党関係者とアレコレ情報交換した。結構生々しい話も聞けたのだが、昨今のあまりの“順風”にかえって戸惑っている様子が印象的だった。

東京都議選で圧勝した民主党、都議選直後に衆院選に持ち込みたかったのか、ちょっと間を置きたかったのかは、微妙な問題だったらしい。

勢いを保ったまま解散・総選挙に持っていきたい意見と、揺り戻しを恐れる意見とが相半ばした様子。

選挙民の心理は、保守勢力にお灸を据えすぎると、まるで自制するかのような揺り戻しにつながる。これまでも何度も見られた現象だ。

保守と革新という構図自体が崩壊している以上、そんな方程式は当てはまらないかも知れないが、“中庸意識”みたいな感覚が選挙情勢に影響を及ぼすのは確かだ。

調子にのりすぎた宮崎県知事がアッという間に逆風にさらされている状況は、有権者の“中庸意識”が発揮された典型的な例だ。

あの騒動はまさしく愚の骨頂だ。化けの皮という表現がまさしく「そのまんま」当てはまる感じだ。

勢いがありすぎても警戒される、出過ぎてしまった杭は必ず打たれる。この摂理が民主党にどう作用するかが気になるところだ。

さきの民主党関係者との話に戻るが、いま彼らが恐れているのが、“情”に流れる展開になることだという。

各種世論調査はもちろん、どこをどう見たって自民党に勝ち目はない。ただ、意外な盲点がひとつ。「同情」とか「弔い」とかその手の浪花節的展開になれば風向きは一気に変わる。

誰が、というわけではなく、自民党中枢の顔が売れている誰かに不測な事態でも生じたら一気に政権交代ムードは飛んでしまうというのが民主党サイドの懸念だ。

ある意味、そんなとんでもなく確率の低そうな話が懸念材料になっていること自体、民主党の圧倒的優位を証明している。

とはいえ、大平元首相が一般消費税導入をめぐる逆風の中、総選挙に突入してまもなく急逝、弔いムードで一気に自民党が大勝したような歴史的事実もある。

8月30日の投票日までどのような動きがあるかまだまだ不透明。圧倒的有利の民主党だって、爆弾はいくつも抱えているし、さっきの宮崎県知事の例もある。風が突然、逆風に変わることは珍しくない。

ここから1か月、各陣営入り乱れて、高度な情報戦、攪乱作戦が展開される。それこそ魑魅魍魎が大活躍する1か月になりそうだ。

どんな結末が待っているか興味深い。

2009年7月15日水曜日

シンコ 青魚賛歌

禁煙は意外に簡単に成功した。悶々とする苦悩をブログのネタにしようと考えていたのに予想外に簡単に終わってしまった。

家で愛飲する黒豆茶と毎日摂取している黒酢のせいで血圧が相当下がった。今では上が100チョット。こんなに下がると逆にふらつくんじゃないかと心配だ。

なんだかんだと健康になってきた。タバコも吸わない、血圧も高くないとなったら、デブのままでも問題ない。遠からず行う予定の血液検査が楽しみだ。

とはいいながら、珍味好きの宿命で尿酸値は高値安定を続けているはず。冬場は白子、アンキモ、カラスミ等々のオールスターの季節なので仕方ない。ただ最近は夏場なのに魚卵などのプリン体含有量の高いモノばかり食べている。

ある晩、珍味に頼らずにお寿司屋さんでの時間を楽しもうと計画してみた。高田馬場・鮨源にてヘルシー指向の青魚オンパレードを実行してみた。

まずはカツオ。タタキ風に炙ってもらってニンニクスライスで堪能。青魚といってもカツオの場合はちょっと別格。実はプリン体の含有量の多い魚なのだが、魚卵系じゃないからヘルシーだと都合良く解釈。

ナマのサンマがあると聞いて迷わず注文。充分に脂がのっていて刺身にしたら絶品。刺身だけでなく塩を振った皮目を炙ったタタキ風の逸品も登場。大根おろしをトッピングして食べる。最高だ。

一般的に青魚といえば、アジやイワシ、サンマあたりを指す。どちらかといえば食物連鎖の下位のほうにいる。実に献身的な面々だ。食べられる宿命を生まれながらに背負っている。

おまけに青魚には、DHAとか脂肪酸とかが豊富らしい。どんな効能だかは知らない。でも聞くところによると頭が良くなったり、痩せられたりするらしい。バカデブオヤジの私としては毎日でも食べる必要がある。

鮮度の良い旬の青魚を食べていると身体が喜ぶような気がする。多分気のせいだろうが、どうせならそんな気分で楽しみたい。

「ウニ山盛り」とか「こぼれイクラ」などは死ぬほど旨い。でも、食べ続けていると、気のせいだが身体からつらそうな悲鳴が聞こえる。

牛丼とかハンバーガー、ピザ、カツ丼なんかもそうだ。ウホウホ食べていても、身体の奥から悲鳴が聞こえるような気がする。

さてさて青魚だ。目の前のネタケースには極上青魚が燦然と輝いている。切り身になったばかりのアジが私を呼んでいたので、ワガママオーダーでアジフライを注文。

刺身用の上等な素材でアジフライだ。おまけに小骨すら無い。すべてふっくら。贅沢アジフライをソースをもらって堪能。最高だ。

この日は、青魚以外にも鰻の串焼などを注文して夏バテ予防に取り組む。握りも青魚中心にした。

イワシやアジってモノが良ければどんな高級魚にも引けを取らない旨い魚だと思う。生き腐れと呼ばれるように足が速いせいで敬遠されてしまうが、本来の実力は相当なもの。

「国民魚」と呼んでもいいと思う。

この日のハイライトは、青魚界のマイケル・ジャクソンとでも呼びたい「シンコ」様だ。私にとって今年の初物だ。

いわずと知れたコハダの赤ちゃんだ。スミイカの赤ん坊である新イカとともに夏のスーパースターだ。

口に含んだ瞬間から、柔らかくなめらかな禁断の食感に感動。はかなげな感触が堪らない。甘噛みしながら味わうような感じ。実に官能的だ。

画像は4枚づけのシンコと普通のコハダ。コハダはコハダでやっぱり旨い。

煮ても焼いても食えない魚として敬遠されていたコハダ。塩や酢の魔法で江戸前の寿司ダネにとって欠かせない存在になった。つくづく先人の知恵と工夫に敬服。

そんなコハダの赤ん坊まで初夏の風物詩に仕立て上げた江戸っ子のセンスとどん欲さにバンザイ三唱って感じだ。

満開の桜、一面の紅葉とおなじくらい季節感を表わしているシンコ。今年は何匹ぐらい食べちゃうのだろうか。。。

2009年7月14日火曜日

下品な時間

新宿・歌舞伎町で久々に遊んだ。加齢と共にすっかり足が遠のいてしまったが、たまに行くと楽しい。さすがに世界の歌舞伎町だ。街全体が下品!。

旧友となんとなく新宿に行き、都庁側の野村ビル50階で夕食。土佐料理「祢保希」でカツオやクジラで冷酒をグビグビ。男同士で見るには切ないほどの夜景のなかで過ごす。

腹ごなしにぶらぶら歩いて歌舞伎町。慎太郎知事肝いりの浄化作戦で楽しくなくなったかと思いきや、相変わらずの下品なネオンの洪水だ。

その昔、日米野球で来日したバリー・ボンズが試合もそこそこに出かけたソープランドも入口付近が豪勢にリニューアル。勝ち組なんだろう。

ホロ酔いの我々の目的は「変な店に行きたい」。風俗店に行きたいわけではない、かといって当たり前のキャバクラに行く気もない。若い頃は随分と変な店に行ったが、最近はどんな変な店があるのか、ポイントはその一点だ。

歌舞伎町ではかつて何度もボラレたことがある。生粋の東京人としては恥ずかしい過去だ。ちょろっと呑んだだけでウン万円とか、オネエサンに手を引かれて入った店で怖いお兄さんとコンニチワみたいな経験もある。

顔が青くなったり、心臓が止まりそうになるほどエキサイティングな経験をしているのに、バカ男連合の構成員である我々は歌舞伎町をうろついてしまう。

風林会館あたりの路上で立ち止まってキョロキョロしてみる。その行為自体がチャレンジャーだ。怪しげな店の呼び込みがアッという間に寄ってくる。

昔は、呼び込みといえば自分より年上の怪しげなオッサンというイメージだったが、こっちがオッサンになってしまった今、声をかけてくるのはホスト風の小僧ばかり。こんなところにも時代の流れを感じる。やたらとまとわりついてうるさい。

夏の夕暮れの雑木林で蚊に襲われる感じ。バリ島・クタビーチあたりでみやげ物売りのおばちゃんに取り囲まれる感じにも似ている。うっとおしいし、危険だ。このままだとまた怖い目に会う。

近くにある飲み屋さん専門の無料紹介所に逃げ込む。応対に出てきた兄さんに「変な店を紹介してくれ」と頼んでみる。するとまもなく、変な店の従業員が我々を迎えに来た。

たどりついたのは「コスプレパブ」。詳細は割愛。あまり面白くなかった。

懲りずに紹介所に戻る。「もっと変な店はないのか」と怒ってみる。ほどなく、もっと変な店から従業員が迎えに来てくれた。

たどり着いたのは、絢爛豪華な和風の空間。結構広いし楽しそうだ。はたしてどんな感じで変なのだろうか。

案内されてビックリ。ボックスというか座席というか、客が過ごす場所は横になるしかない造り。いい感じに枕があって、足を乗せる場所もフカフカ。小さいちゃぶ台に飲み物がセットされる。

ゴロンとしながら一杯。実にぐうたらだ。やってきた女性も当然隣で横になる。かなり変なシチュエーションだ。そこから先の詳細は割愛。外国人とかは大喜びしそうなコンセプトだ。

その後、別なバカ男連合の構成員達が仕事を終えて合流。ちゃんとした店で飲み直す。相変わらずの昔話で盛り上がってちょっと落ち着く。

変な店探検を延々夜更けまで続けられないところが若くない証拠かも知れない。

たまに行くなら歌舞伎町は楽しい。心が洗われる感じと正反対。心がくすんでしまう猥雑な感じ。さすがだ。

2009年7月13日月曜日

年齢 イメージ 天下り

いつの頃からだろうか。「年齢」の概念、とくに「年寄り」のイメージが様変わりしてきた。

本格的な高齢化社会の到来によって「お年寄り」と表現するのが的確な年齢は後ろに後ろにずれている。

60歳や65歳といえばまだまだ現役バリバリだ。60歳代のイメージは明らかにひと昔、ふた昔前とは変わった。麻生首相が68歳、鳩山民主党党首が62歳、小沢前党首は67歳。

政治家以外に目を転じるとタモリやビートたけしもとっくに60代、田村正和も65歳、西田敏行も今年62歳になるらしい。松崎しげるですら今年60歳だ。

織田信長の頃なら「人間50年」だったわけだから凄い変わり様だ。60歳あたりは時代が時代なら好々爺といわれかねない年齢だ。昔のサラリーマンの定年が55歳だったことを思うと隔世の感がある。

労働法規の関係で60歳定年制が定着したのも束の間、最近は企業の定年年齢は65歳に引上げられている。その一方で国家公務員の定年は基本的に60歳のまま。今日はこのテーマを取り上げたい。

公務員の60歳定年制は早急に見直されるべきテーマだろう。どっかの諮問委員会か何かが延長に向けて議論しているようだが、さっさと実行すればいい。

キャリア官僚を例にとると、特殊な人事慣行もあって50歳代で勇退を迫られるケースも珍しくない。

キャリア官僚は、50歳前後から再就職先をあっせんされ、まるで間引きされるかのように退職する。同期入省組の出世レースで最後に残った1名を事務次官にするための仕組みだ。

事務次官を頂点にしたピラミッド型の人事形態を維持するための不文律だ。早いケースだと50歳ぐらいで退職させられてしまう。とはいえ、天下のキャリア官僚だ。その後の処遇もシステマチックに用意される。

これが天下りの裾野を際限なく広げてきた背景だ。毎年毎年同じ境遇の退職者が生まれるため、ひとつの組織に長期間在職するわけにも行かない。必然的に天下り先、天下りポストは増殖するわけだ。

50歳やそこらで退職してもらう以上、役所としてもその後10年以上は面倒を見る必要がある。役人自身にとって切実な問題だけに天下り先確保は役所にとって大事な営業課題だ。

腐っても?キャリア官僚だ。高度な専門知識を持つ人もたくさんいるし、元来優秀な人材ではある。にもかかわらず知識経験とは無関係の組織に天下るケースも見受けられる。

公益法人改革は古くて新しいテーマだ。定期的に一定の見直しが決定し、実行される。かといって、議論を終わらせるのではなく恒常的に議論し続ける必要がある。

問題の根源は公益法人の肥大化とそれに関連する行政の非効率性にある。しかし、その根っこに横たわる退職公務員の処遇確保問題が聖域であるかのように旧態依然のままだと結局何も変わらない。

話を複雑化しないで、公務員の定年年齢とかのベタな部分を思いっきり見直すことで随分と風向きは変わるはずだと思う。

2009年7月10日金曜日

銀座 クラブ 黒服

銀座でいま一番不可思議なのが、タクシーの乗場規制だろう。夜10時を過ぎると指定乗場以外ではタクシーを拾えない。

バブルの名残りにしてはあまりにトンチンカン。人出も少ない、タクシー利用者も激減。それでもタクシー渋滞華やかし頃と同じルールがまかり通っている。

日付が変わりそうな時間になっても、指定乗場に長蛇の列が出来るようなことはない。それなのに好き勝手な場所でタクシーを拾えない。実にマヌケな光景だ。

逆に10時前などは、空車がよりどりみどり。3ナンバー車など室内が広い車種を選ぼうなどというワガママもごくごく簡単。ほんの1~2分キョロキョロすれば好みの車種が見つかる。

タクシーの状況と景気動向は切っても切れない関係だが、やはり不景気はかなり深刻。
ネオン街へのダメージも相当なもの。

夜のクラブ活動をしていても威勢の良い話は聞かれない。繁盛店はそれなりに賑わっているが、以前より客の入りが読みにくくなっているようだ。

客の流れが変わってきたとはいえ、繁盛店は繁盛店としての地位が変わらないところが凄いと思う。

「今日なんかガラガラですよ」というセリフをよく聞く。とはいえ、同じ「ガラガラ」でも本当に客がいないパターンとギュウギュウ詰めじゃない程度に空いているパターンとでは全然違う。

勝ち組クラブでは、当然後者のパターン。素人目には充分賑わっているように見えても、所々に空きがあるという感じ。それでも繁盛店からすればガラガラという認識だ。

6丁目の「M」しかり、8丁目の「G」しかり。充分混雑しているように見えて、よくよく聞いてみると、早い時間が全然ダメとか遅い時間の客の退きが早いとか結構シビアなようだ。

ところで、勝ち組とか繁盛店として定評のあるクラブは他の店と何が違うのだろうか。
そんなに真面目に通うわけでもない私だ。核心は分かるはずもないが、いつも気になっているテーマだ。

綺麗な女性の存在だろうか、価格だろうか、店の大きさや装飾だろうか。どれも欠かせない要素だ。でも銀座あたりでいっぱしの店をやっていれば、そのぐらいの要素はそこそこちゃんとしている。

では何がポイントになるのだろうか。大きな要素が黒服の存在だろう。彼らのレベルが店のレベルを左右しているのは間違いない。

夜の蝶が主役のクラブだ。バーテンでもなければ接客をするわけでもない黒服は、いわばディレクターとかプロデューサーだ。

彼らの出来次第で主役が活躍できるかどうか決まると言ってもいいだろう。割と重要なポジションだ。私もデレデレと鼻の下を伸ばすだけではなく、たまに黒服達の動きを眺める。結構面白い。

同じ男衆でも大きく分けて2種類に分類される。女性陣から信頼されている黒服と小馬鹿にされている黒服だ。

その違いは彼らの動きを見ていれば一目瞭然。信頼されている黒服は視線の広さと動き回る範囲がダメ男君とは格段に違う。

決定的な違いは記憶力だろう。記憶力というか、集中して注意力を保っているかどうかだ。

客の顔や名前を頭にインプットすることは彼らにとって重要なことだが、この部分で差が付く。

この部分がキチンと出来ている黒服は「仕事」をしている。客の顔も覚えずに漫然と過ごしている黒服は「作業」をしているだけ。どんな分野のビジネスでもこの違いは大きい。

思えば6丁目の「M」に通うようになったのも黒服氏の大層な記憶力。そんなに足繁く通っていた客でもないのだが、ある時期まったく行かなくなって4~5年ほどブランクが開いた。その後、ひょんなことから訪ねた際に感心させられた。

予約もせず、ふらっと店に入っていった私をベテランの黒服氏はしっかり覚えてくれていた。「お久しぶりです」のひと言も大げさでなく、ごくあっさりとさりげない。以前同様に席に案内された。

ブランクはあっという間に感じなくなり、ごく自然に何年も前と同じような気分で楽しく酔っぱらった。プロの仕事を見せつけられた。

8丁目「G」も有名な人気店。最近初めて覗いたのだが、やはり黒服氏の注意力がプロの仕事を感じさせる。

とある日の夕方、店のそばの道で黒服氏に挨拶された。まだ何度も通っているわけでもない客に店の外で気付いて愛想を振りまく。なかなか出来ないことだ思う。

「後で顔出します!」。単純な私はそう言っちゃうし、実際に行ってしまう。そんなものだと思う。

以前、8丁目に新しくクラブを出店したてのの男性経営者と夕暮れの道ですれ違った。ほんの半月ほど前に彼の店で結構な時間無駄話を交わしたのだが、目があった彼はこちらに気付かない。素通り。さすがにビミョーな印象が残った。それ以来その店には顔を出していない。そんなものだと思う。

銀座の街もキャバクラの客引きが増殖して新宿みたいな感じが漂うこともある。夜の蝶ならぬ夜のカラスと揶揄される男どもが増えているわけだが、プロの黒服と呼べる面々は数えるほどだろう。

どうせならプロの仕切っている店でグダグダと呑んでいたい。

2009年7月9日木曜日

言い換え 言い逃れ

プロというとチョットおこがましいが、一応、新聞製作の現場で働いている以上、言葉に関してはそこそこうるさいほうだ。

うるさいというか、人一倍神経を使わねばならないといったほうが適切だ。新聞業界はある意味、言い換えることが使命みたいな世界だ。

共稼ぎ、後進国、床屋に町医者、婦人警官に登校拒否児などなど。日常普通に使っている言葉だが、すべて原則として言い換えの対象だ。

共働き、発展途上国、理髪店、開業医、女性警官、不登校の生徒。。。ざっとこんな感じに言い換えることになる。

「キチガイ」なんかはもってのほか。どんなに会話で使っていようとも活字にするのは厳禁。「カーキチ」なんかもトバッチリ?で使用しないことが原則。

「精神障害」なら良くて「キチガイ」がダメというのも正直ピンとこないが、定められたルールって、いつしか絶対視されていく。

父兄とか老婆も言い換えの対象。それぞれ、父母、老女にしないとダメというのがジェンダー問題に配慮する新聞業界のルールだ。

当然、女中さんや産婆さんもダメ。お手伝いさんや助産師さんが正解。なんかニュアンスが変わってしまう気もする。

孤児院なんていうのもダメ。児童養護施設などに修正する必要がある。こっちはニュアンスがだいぶ変わってしまう。

「あしたのジョー」とか「タイガーマスク」に出てくるのはあくまで孤児院だろう。児童養護施設という表記だとイメージが伝わらない気がする。

無意味に思えるものも多いが、不快に思う人が存在する可能性があれば、すべて言い換えの対象にするのが基本だ。

闇雲な言葉狩りと過剰なまでのメディアの自主規制が、日本語のニュアンスや文化的背景をおかしくしている部分は確かにある。

配慮が必要な意味で言葉を言い換えるのはある程度仕方ないが、コトの本質を隠すような言葉の使い分けには気持ち悪いものも多い。

言い換えというより言い逃れと表現したほうが適切なのが、援助交際とか不倫とかソッチ方面の言葉だ。

「若い時にエンコーしちゃったことがあります」って言われるのと「若い頃、売春してました」っていわれるのではずいぶんイメージが違う。

「ワタシ、目一杯恋してます!」より「いまどっぷりと不倫してます」のほうが凄く重い。言い換え、言い逃れの妙だろう。

自衛隊の海外派遣は、「海外派兵」だし、公営ギャンブルだって「公認賭博」だ。

コトの本質を隠す言い換えは、人権などへの配慮から生まれた言い換えよりもうさん臭い感じがする。

仕事柄、個人的に昔から気に入らないのが「公的資金」という言葉だ。思い起こせば、いにしえの住専問題当時に定着した言葉だと思う。

破綻した住宅金融専門会社の後始末に税金を使う際に出てきた。「公的資金で補てんする」などといわれると「皆さんの税金で尻ぬぐいします」という意味合いが妙に薄れる。

最近になって産業再生法の改正なんかを契機に大企業救済のために「公的資金投入」がさかんに話題になっている。

「公的資金」の定義が単純に税金というわけではないなどと役人には指摘されそうだが、四の五の言っても元を正せば国や自治体の収入は税金だ。逆に言えば「公的資金は税金ではない」とは言い切れない。

「公的資金の注入」イコール「税金使って助ける」という意味だ。そういう観点で今後の経済ニュースを予想すると、今後しばらく間違いなく“税金の大盤振舞い”を報じる話題が続出する。

ちなみに、脱税のことを「公的資金拠出拒否」などとは言い換えない。納める側には、そんな言い逃れを許してくれない以上、税金を使う側も言語感覚はシビアであって欲しい。

2009年7月8日水曜日

函館 梅乃寿司

4か月前、寝台特急北斗星に乗りたくて登別と函館を旅した。しょっちゅう函館に行く私としては、たまには旅行パターンに変化をつけてみたかったので夜行列車を選んだ。

この時、訪ねた函館のお寿司屋さんが抜群だったことはこのブログでも書いた。随分アチコチと函館で寿司屋めぐりをした上での実感だった。今回の函館旅行でも真っ先に訪ねてみた。

函館に着いた日の昼間、少し遅めの時間に電話して訪ねた。店の名は梅乃寿司。有難いことに4か月ほど前に一度だけ来た私を覚えていてくれた。大将はまだ若いが、さすがにこの事実だけでも店のレベルが分かる。

夜にゆっくり訪ねようかとも考えたが、人気のお店だし週末だ。貴重なスペースをヨソ者が1席だけ占有するのも気がひける。時間をずらした昼間の来訪で大正解。夜の予約は一杯だったそうだ。

お天道様が高かろうが、こっちは旅先の休日だ。夜と同様に呑んだり食べたり。極楽極楽・・・。

つまみを多めに頼んでビール、冷酒、焼酎と楽しむ。カウンター越しに見える庭木が日射しを浴びている。太陽燦々の時間に飲む酒はやっぱり旨い。

生ウニ、イカの刺身あたりからスタート。旬の上物を食べると不思議と身体にエネルギーが湧いてくるように思う。

毛ガニのミソあえも絶品。仕込んだばかりのタイミングだったそうだ。茹で上がって身をほぐしてミソと和えたばかり。

冷蔵庫に入れるとそれなりに風味が飛ぶらしいので、出来たてを堪能できたことはラッキー。さすがに旨味が濃厚。ホントはもっと大量に食べたかったが、格好悪いからそういうことは言わずに我慢する。

珍味好きな私だ。珍味といえば魚卵だ。この時期、北海道といえばマスコだ。女子バレー選手ではない。鱒の卵だ。

イクラより小粒で味わいもイクラより軽やかな感じ。ほぐさないスジコ状のままチビチビ楽しむ。エロティックデリシャス!と心の中で叫ぶ。

軽く炙っただけの上物のタラコも登場。率直に旨い。マスコ、タラコ、ウニも一応卵だから、これだけで随分と生まれ来るべき命を大量に摂取したことになる。

無数の命を身体に取り込んだから元気バリバリだ。きっと尿酸値もバリバリ上昇している。

そのほか、銀だらのカマの焼きものを食べる。これまた素材の良さが活かされて美味しい。ペロペロ腹に収まる。





握りもいろいろ食べた。画像をすべて撮ったわけではないので順不同だ。一応、上から本マグロ、ボタンエビ、蝦夷アワビ、ホッキ貝、ウニだ。

なかでもホッキ貝が印象的だった。軽く炙って塩を振った状態で食べた。炙ったことに加え塩味の加減でホッキが格段に美味しくなっている。甘みと香りが引き出された格好だ。

鮮度の良さ、素材の良さだけで勝負するお寿司屋さんは多い。正直、客としてはそれで充分満足できる。いい素材を安定的に仕入れるだけでも賞賛に値する。

鮮度と素材だけでもウマいものはウマいが、それに加えてもう一段美味しくしようと少しの手間を加える姿勢が店の格やレベルを決めるのだろう。その点で、こちらのお店は実に上等だ。

北海道のお寿司屋さんは比較的シャリに「?」マークが付くケースが多い。砂糖が強すぎたり、味が弱すぎたりといったパターンだ。梅乃寿司はこの点も問題なし。いいことづくめだ。

お値段は函館では高いほうだろうが、東京基準で考えれば問題なし。東京中心部だったら間違いなくこの値段では無理。

お寿司屋さんに限らず、飲食店の印象ってクセモノだ。初訪問が好印象だと2回目までにその印象が大きく膨らみすぎちゃうことが珍しくない。

勇んで再訪したものの思っていたほどじゃなかったという経験は私にもいっぱいある。すぐに単純に感激する私の弱点でもある。

こちらの店では、初訪問時の感激が大げさではなかったことを再認識する結果となった。

またすぐにでも行きたい。。。

2009年7月7日火曜日

函館 ころぽっくる

また函館に行ってきた。なんかクセになっている。ここ4~5年の間に10回は行っただろうか。すっかりホームタウンのつもりだ。

北島三郎記念館と夜景鑑賞はなぜか未体験だったが、今回は夜景のほうに初トライ。思っていた以上に素晴らしかった。数日ぶりに綺麗に見えた日に当たったらしく、翌日はまた曇っちゃったのでラッキーだった。

いつもは、夕方以降に函館入りして、さっさと珍味とアルコールに取り囲まれるのだが、今回は羽田発朝一便を利用。9時には到着してしまった。

レンタカーを借りて恵山のほうへ。とくに目的はなかったが、なんとなく海沿いをドライブ。1時間ちょっと走ったら「とどほっけ」という凄まじい名前のエリアに着く。

漢字でどう書くかは忘れた。「ホッケをむさぼり食うトド」がウロウロしてそうな場所かと思ったが、穏やかな景勝地で花に囲まれた灯台なんかもある。

水無海浜温泉とやらが名物らしいので行ってみた。結構ワイルドだ。海にそのまま浸かる感じ。一応、しっかりお湯が湧いている。ぬるめでいつまでも入っていられそうだ。

波の音を聞きながら極楽気分になれる。よく見ると小魚が泳いでいたり、カニの死骸が転がっていたり、ちょっとギョッとするが話の種にオススメ。

今回も宿泊先は「湯の川プリンスホテル渚亭」。海沿いの露天風呂が私のお気に入り。相変わらず夕食無しのパターンで予約。今回は部屋にも小さな露天風呂が付いていた。

部屋付き露天からの海の眺めも悪くない。とはいえ、大浴場の露天風呂が素晴らしいので部屋の露天には2泊で1回しか入らなかった。ちょっともったいない。

夜景と変な温泉の他に初体験だったのが、「ころぽっくる」という和食屋さんだ。私の場合、函館ではお寿司屋さんを攻めるのが基本パターン。2泊3日で5件のお寿司屋さんをハシゴしたこともある。

「ころぽっくる」は、居酒屋路線ではなく、ちゃんとした和食屋。地元の有名店。いわゆるちゃんとした店だ。郷土料理屋さんというジャンルだろうか。

コース中心なのかと思っていたが単品もあるらしい。大型の毛ガニも常備しているらしい。カウンター席に陣取って旬のウマイもの三昧の時間を過ごした。

生きているイカがこの時期の函館のご馳走だが、前菜代わりに小ぶりな活イカをさばいてもらう。真イカ特有のコリコリ感が堪らない。殺したての割には?甘みもあって抜群。


ゲソの部分はタタキ風に細かくアレンジ。ゴロ(わた)がまた泣きたくなるほど旨い。上質なウニに匹敵するほどクリーミーでコッテリ。さすがにこの時期の真イカのゴロは函館ならではの“スター珍味”だ。

前菜の2番手にウニ刺しも頼んでみた。こちらも上質な旬の生ウニだ。文句なしに旨い。カニを食べに来たのに一体私は何をしているのだろう。

さてさて毛ガニ。こちらの店では、800グラム以上の毛ガニしか扱わないそうだ。相当大きいサイズだ。まずは脚の洗い。冷水でシメて花が開いた状態で登場。

甘くて甘い。そのうえ甘い。単に生で食べるより、冷水でシメたせいだろうかエグみのような雑味は感じない。うっとりだ。

網焼き状態の甲羅ミソ焼きが運ばれてきた。ほぐした身の肉と味噌を和えて食べるのだが、サイズがサイズだけに食べ応え抜群。大きい毛ガニはミソがイマイチとかいわれるが、全然問題なし。官能的な味だ。

ほくほく、ふーふー言いながらアッという間にたいらげようとした私にお店の大将がカウンター越しにストップ指令。

命令に素直に従って、おあずけを喰らった犬のようにおとなしくしていた私の前に運ばれてきたのは“神の水”だ。熱めに燗されたお酒が登場。甲羅酒だ。

少し残した身やミソ、そこから出た水分が混ざり合って絶妙な旨味が私の全身全霊を幸せに導く。この甲羅酒を前にしたら、ダイナバイト・バディのセクシーオネエチャンに誘われても毅然と断れる自信がある。


続いて毛ガニの脚身のてんぷらだ。毛ガニの味自体が濃いので衣に風味が負けていない。初体験の味だ。最後に鉄砲汁。細身の脚をたくさんぶち込んであるので、最高のダシが出る。言うこと無し。

料理は丁寧、素材も上質、味も良い。お店も綺麗で接客もキチンとしている。なんで今まで来なかったのだろう。

お寿司屋さんめぐりばかりしているとはいえ、海鮮系居酒屋にはアレコレと行った。中途半端な素材に雑な料理で落胆したことも何度もある。この店をもっと早くから知っていれば良かったと痛感した。

2009年7月6日月曜日

こんな夢を見ている

「こんな夢を見ている」。宇宙飛行士になりたいとか、大富豪になりたいとか、もう一回結婚したいとか、そういう願望という意味の夢ではない。

眠っている時の夢が最近変なので、その話を書こうと思う。

禁煙のきっかけも妙に気持ちの悪い夢を見たことだと書いたが(6月19日付)、このところ寝苦しくなってきたせいか、ロクな夢を見ない。

つい最近見たのは、恐怖のフランス人形だ。

等身大のデカいフランス人形が、とある倉庫の屋根裏でほこりをかぶっていた。大人の女性ほどの背丈があって顔は昔ながらの無表情なフランス人形。なぜかセーラー服を着ている。

私が何気なく、顔面にパンチを見舞ったところ、むくっと起き上がった人形がニヤッと笑う。そして私に向かってパンチを繰り出してくる。

パンチ力はさほど強くないのだが執拗にパンチを繰り出す。逃げれば小走りに追ってきて笑いながらパンチを繰り出す。

倉庫の管理人らしき初老の男が、物音に気付いてやってくる。そして私にこう言う。「スイッチを入れたのですね」。「止め方を教えろ」と叫ぶ私に、初老の男は大きく首を振る。「誰も止め方を知らない。あなたが死ぬまで止まらない」。

驚く私に男は続ける。「最初に覚えた遊びを永遠に続ける人形なのです。どこに隠れようとも必ずスイッチを入れた人を探し出す人形なのです」。

どうやら、私が放ったパンチを人形は遊びだと認識したらしい。人形が目をそらしたスキに、倉庫から逃げ出しクルマに乗り込む私。

急いでエンジンをかけ、ハンドルに手をかけると、奇声とともに倉庫の2階の窓をぶち破って人形がクルマのボンネットに飛び降りてきた・・・。

夢の当事者以外には怖くも何ともないのだろうが、私にとっては思い出すだけでゾッとする。

フランス人形に思いあたることなど何もない。なんであんな夢を見たかまったく想像がつかない。どういう深層心理なんだろうか。

続いての夢は、これまた奇妙な夢。私が水中撮影に没頭している時の設定だ。乗り合い船に同乗した別のダイバーグループとともに潜水していたのだが、その内の一人がどんどん落下していく。

水中でバランスを保つには中性浮力を維持することが鉄則なのだが、ビギナーダイバーがどんどんドロップオフの底に向かって落ちていく。

グループの引率者とともに私も凄いスピードで深度を下げて助けに向かう。水深30メートル、33メートル、37メートル、40メートル・・。大深度になればなるほど圧力の関係で落下スピードは早まる。

水深50メートルに近づいた時、我々は追いつかないと判断。残念ながら救出を断念。こっちも潜水病の危険があるので、ゆっくりと浮上を開始。

既に夕方、水中は薄暗くなり、落ちていったダイバーは見えない。

その時、聞こえるはずのない悲鳴が海の底から聞こえてきた。水中ではどんなに叫ぼうともせいぜい1~2メートルの範囲にしか声は伝わらないのに、延々と悲鳴は続く。

その後、水深20メートル近くまで戻ってきた時、悲鳴は歌声に変わった。海中を包み込みうように響く。悲しげな曲調で、見捨てられたことを恨むような意味の歌詞だった。

どうしてこんな怖い夢を見るのだろうか。潜水関係も1年以上ご無沙汰だから、こちらの夢も思い当たることはない。

夢が何かのお告げなら、何を告げられているのだろうか。。夢が深層心理を表わすのなら、私はどんな心理状態なのだろうか。。

ちっとも分からない。こういうのを分析できる人がいたらゼヒ意見を聞いてみたいものだ。

2009年7月3日金曜日

鮨源 山わさび

山わさびが最近私のまわりで活躍中だ。西洋わさび、ホースラディッシュと呼んだほうが有名だろう。ツンツンガッツリと辛い風味がクセになる。

北海道では非常にポピュラーな存在。寒い気候によって辛味が増すらしく北海道名物といっても大げさではない。

普通のワサビが水辺で栽培されるのに対して、山ワサビは畑の土の中で育つ。爽やかな辛さではなく、力強い辛さはそのあたりに理由があるのだろう。

冷や奴、蕎麦、肉料理の脇役として活躍することが多いようだが、私の場合は魚貝類とセットで味わうことが多い。

若い頃の北海道旅行の際、イカ刺しの薬味として初体験した。そのせいでイカソーメンとかイカ刺しといえば、どうにもこうにも山わさびが欲しくなる。

東京でも、北海道にルーツがあるお寿司屋さんあたりだと山わさびを置いてある。必ずイカを頼んでツンツンとした辛さに身悶えることにしている。

ブリなどの脂ののりが強い刺身に使ってみても美味しい。大根おろしをセットにして旨いものならたいてい山わさびと合う。

以前、網走に行った際に、とあるお寿司屋さんですべての刺身を山わさびで食べさせられたことがある。ちょっと辟易とさせられたが、脂っぽいものだけでなく、意外に貝類との相性も良かった。

先日、ホームグランドともいうべき高田馬場の鮨源で思わず山わさびに遭遇。普段あまり頼まないイカを迷わず注文。スミイカとアカイカを薄く切ってもらったり、ソーメン風にしてもらったりして楽しむ。

どんなイカにも無条件でマッチする山わさびにニンマリ。数日後に函館に行く予定になっていたのだが、近場で北海道気分になってしまった。

でも、この時期函館のイカは真イカ、いわゆるスルメイカだ。活イカ状態ならコリコリ硬い食感が独特。一応、スミイカとは全然違う。

東京ではあまりスルメイカはポピュラーではない。やはり函館に行く甲斐はあると一人自分を納得させる。

なんだかんだ言っても「寿司は東京が一番」。分かっているのに定期的に函館あたりをふらつきたくなるのが私のクセだ。

この日の鮨源でも、「山わさびを東京で味わっちゃったけど、函館のイカは種類が違うから」とか「ボタンエビは函館で食べるからブドウ海老ちょうだい」などと騒ぐ。

食べ物のことだけを考えれば、北海道までわざわざ行く必要は無い。でも、どうにも行きたくて仕方ないので、必死に函館行きの大義名分を作ろうとしてしまう。

「毛ガニだってオレを待っているし・・」とつぶやいていたら、板さんがニンマリと「クリガニ」を出してくれた。青森のほうでポピュラーな毛ガニの小型版みたいなカニだ。

恐るべし鮨源。。とことん東京で充分だぞ!って囁かれている気がした。このクリガニ、ヘタな毛ガニより旨かった。活ガニを店で茹でたそうで、ミソも少ないながら爽やかに旨い。

この日の鮨源では、突出しに出てきた珍味も抜群だった。サバの卵と白子。鮮度がよいせいだろう。味付けはあっさり淡いにもかかわらず珍味特有のコッテリクリーミー感が嬉しい。

ブドウ海老の頭がこんがり焼かれて出てきた。ミソが濃厚でウットリする。さすがに独特の甘みを持つブドウ海老だ。東京には旨いものが集まってくる。


山わさび、カニそして珍味やエビミソにいたるまで東京には良い素材がてんこもりだ。私が北海道で勇んで食べまくるウニだって、鮨源には極上のバフンウニ、ムラサキウニが常備されている。ミョウバンを使っていない無垢な逸品が味わえる。

わざわざ飛行機で函館まで行って、観光客値段の「ウニいくら丼」とかを食べちゃう私は変なのだろうか。

2009年7月2日木曜日

歌舞伎町でキンキラ焼肉

20代の頃、焼肉ばかり食べていたが、不思議と飽きなかった。眠れない深夜にクルマを飛ばして「一人焼肉」という不摂生もよくやった。

当時は牛角もなく、安楽亭もなく、安くて旨い焼肉屋を探すのに苦労した。高くてそこそこ旨い焼肉なら「叙々苑」が代表格だったが、若い頃はそうそう行けるわけもなく、ご馳走の代名詞だった気がする。

いつの間にか焼肉ドカ食いをしなくなるに連れ、叙々苑が身近になった。たいして肉を食べなくなったので高くつくこともない。とはいえ「チャンジャとユッケで焼酎」みたいな使い方ばかりするようになって、だんだんと行く機会も減ってしまった。

先日、ちょっとしたお礼を兼ねた食事会をする必要が生じて、久しぶりに叙々苑に出かけた。相手はまだまだ若いご夫婦。おまけに酒を飲めない。もっとも私が苦手とするパターンだ。

「酒を飲まない若者」。焼肉しかないだろう。叙々苑あたりなら喜ばれるだろう。一応、お礼の意味合いもあるので、叙々苑の高級バージョンにしよう。

単純な三段論法で新宿にある「游玄亭」に行った。歌舞伎町に建つその名も「叙々苑ビル」一棟まるごと“焼肉の館”だ。

正直、趣味がよいとは言えないキンキンキラキラな内装にたじろぐ。座席は個室を利用しなくても、適度に仕切られているせいでお籠もり感は高い。

普通の叙々苑には用意されていないメニューもある。さすがにお値段も高いが、例えば、「上ヒレ」あたりは普通の焼肉屋では味わえない美味しさだろう。

韓国焼酎のチャミスルがあったので、グビグビとロックで楽しむ。アルコール度数が低めで、やや甘い味わいがキムチやチャンジャと合う。

レバ刺しがメニューになかったので塩ユッケを頼む。キムチとこれさえあれば私は充分幸せだ。時たま焼いた肉を食べる。結構楽しい。

センマイ刺しも注文する。妙にオシャレに盛られていて笑える。こんな細工のせいでお値段が高くなるのはちょっと困る。でも美味しい。キムチとユッケとこれさえあれば私は十二分に幸せだ。

いろんな肉を頼んだが、みんな普通に美味しい。石焼きビビンバやビビン麺あたりも無難に美味しい。ちょっと辛さが足りないが、これも叙々苑の特徴だろうから仕方ない。

結局、游玄亭というキンキラに行く意味って何だろう。通常店舗とのメニューの差別化がもっと激しかったら意義もあるだろうがよく分からない。

とはいえ、「歌舞伎町でキンキラ焼肉」というシチュエーションが必要な人々は意外に多いのだろう。いろんなスジの人達にとって貴重なランドマークであることは間違いない。

さすが新宿、やっぱり魔界だ。

2009年7月1日水曜日

俳優K 無所属の時間

中年生活を過ごしていると、頑張ってる旧友とか、活躍している同級生とかの話を聞くと素直に嬉しくなる。

小学校から高校まで同じ学校に通った男に俳優のK君がいる。性格俳優というジャンルになるのだろうか、演技力や存在感で定評のある売れっ子だ。

小、中、高12年間の同窓時代、K君と同じクラスになったことはなかったように思う。小学校の聖歌隊で一緒だった記憶があるが、親しく付き合った記憶はない。

私の場合、聖歌隊は態度不良で途中でクビになったし、日本一の難関大学に合格するようなK君とは必然的にあまり接点がなかった。

先日、K君の人物像を特集したテレビ番組を見た。子育てや仕事のエピソードとか小学校時代の思い出話も披露され、結構面白く見させてもらった。

ドラマや映画と違い、素の状態で話している姿を見れば、自然と“人となり”が見て取れる。競争の厳しい世界で今の地位を築くまでには相当の苦労や葛藤があったことは容易に想像がつく。

画面に映るK君からは、20年以上あの世界で生き抜いてきたプロとしての迫力とそれを支えたであろう豊かな人間性が感じられた。誉めすぎか・・・。

何より感心したのは大学の話や親の話が一切番組で話題にならなかったこと。

K君はもともと両親ともに有名人。とはいえ、彼だけは本名で活動しているし、もはや、二世タレントという範疇で彼を語る人はいない。

世代によっては、高名な両親よりK君のほうが遙かに知名度は上かも知れない。実際、二世とか世襲というイメージで取り上げられたのはデビュー直後ぐらいだったように思う。

大学の件も、確かに「俳優K」にとっては別段前面に押し出す話ではないのだろう。潔い話だ。高学歴をウリにクイズ番組ではしゃぐタレントとは一線を画しているみたいだ。

普通だったら、スーパー学歴を自慢するだろうし、七光りだって最大限アピールすると思う。そういう武器に頼らないで「K個人」で勝負している点は率直に凄いと思う。

K君を見ていて一冊の本を思い出した。「無所属の時間で生きる」という城山三郎さんの随筆だ。

戦後最大の経済人といわれた石坂泰三元経団連会長が、忙しいスケジュールの合間でも空白の1日を設定するよう工夫していたことに由来する話だ。

何にも属していない環境に自分を置くことで、自らを甦らせ成長させる。城山さんが主張したいのはそういうこと。

日本のすべてのビジネスマン、特に中高年男性にとって非常に含蓄のあるテーマだと思う。

会社の看板や、出身大学なんかにしがみついて生きている人は結構多い。仕方のないことかも知れないが、ハタから見ていて格好良いものではない。定年退職後に一気に濡れ落ち葉になってしまう人達の典型的パターンだ。

「一個人」という雑誌がある。ああいうタイトルの雑誌が存在すること自体、多くの人が「一個人」になれないでいる証であり、その克服が男社会の課題なんだと思う。

私自身、意識して無所属の時間に身を置こうとのたうち回っているが、なかなか難しい。思ったようにいかずにイライラする原因にもなっている。

なんか話がそれてしまった。

独立自営の最たるジャンルで着々とポジションを切り拓いてきたK君。まさに無所属で頑張ってきたのだろう。彼の活躍は同級生にとって大きな励みになっている気がする。