2025年7月9日水曜日

チョイ悪、チョイもれ

 

雑多な日記みたいなこのブログだが、人様の目に触れる以上はどこか気取ったことばかり書いてしまう。人間、そんなに楽しいことや愉快なことばかりに囲まれているわけではない。たまには大いなる恥についても書いてみようかと思う。

 

加齢とともに顕著になったのは白髪の増加と視力の劣化だ。こればかりは恥というジャンルではない。年齢相応の帰結である。

 

同じように年齢が原因の劣化の中で多くの人がナイショ?にしているのが「尿もれ問題」である。そりゃあシモ方面だから恥ずかしいテーマである。なんならEDのほうが声を大にして叫んでも後ろめたさは感じないかもしれない。

 

尿もれは後ろめたい。「うしろメタファー」の極みかもしれない。おしっこが漏れちゃうわけだから深刻だ。大じゃなくて小だから私も平気で語っていられるが、これが大の漏れだったらさすがの私も隠すはずだ。

 

尿もれ。なんとも切ない響きである。私自身の名誉のために説明すると、一応私だって「ちゃんとすればセーフ」の状態である。でもこの「ちゃんとする」の加減が若い頃と変わってきてしまった。

 

トイレに行って用をたす。シャーッと放出してフリフリして終了である。ところが、フリフリに至るまでの「間」に問題が起きがちだ。すなわち、放出し終わったつもりがまだ残っているパターンだ。

 

「よし、終わったな」とジュニアを格納するタイミングにズレが生じてきたわけだ。終わったつもりが終わってないケースが出てきた。一大事である。

 

その自覚をもって「いや、まだ終わってないぞ」と自分に言い聞かせて、もうひと息、いやもうひと踏ん張りする時間を取らないと「事故」が起きる。その一呼吸だけ時間にゆとりをもってから格納作業に移行すれば無事に済む。

 

じゃあ毎回そうすればいいと言われそうだが、そこが問題である。最近はようやく以前よりもしっかり完全終了を確認するようになったので事故は激減した。

 

とはいえ、コトはそう簡単ではない。半世紀以上に渡って毎日毎日何度も何度も放尿してきた私だ。そう簡単にリズムは変わらない。それこそ身体が覚えている「放尿スタイル」に別なフォロースルーを加えるような変更は難しい。

 

王選手の一本足打法のようなものである。タイミングがすべてだ。ついつい昔のままの感覚で切り上げようとすると事故発生だ。人間の習性ってそう簡単に100%切り替えられないことを痛感する。

 

初めて事故を起こしたのは2,3年前のこと。喫茶店のトイレでせっかちに終わらせたらグレーのスーツのズボンにピーっと濡れた直線が浮き彫りになった。席に戻ってから乾燥するまでの時間が切なかった。

 

初めての衝撃にショックを受けてドラッグストアで尿もれパッドというナプキンの分厚いようなヤツを買った。それを下着に装着してみたがあまりに残念な姿だったのですぐに全部捨てた。

 

その後、終了確認に注意を払って何とかやり過ごしていたが、やはり時には事故に遭う。で、見つけたのが「尿もれ対策下着」である。その気になってネットで探すとあるわあるわ、まさに百花繚乱状態だった。

 



嬉々としていくつも取り寄せた。ただ、ガードする部分が妙に分厚いヤツが主流で、私のようなビギナーにはちょっと大袈裟な商品ばかりだった。

 

で、無駄な買い物を何度も繰り返しながら「チョイ悪」ならぬ「チョイもれ」系の軽めの商品をいくつか見つけた。見た感じも普通、裏返しても普通。よくよく触ってみると格納箇所付近の布地がちょっと工夫されている。

 

今ではお気に入りの「対策下着」が随分と揃ってきた。なんなら女性とムホムホな場面で下着の上からスリスリナデナデされようが肝心の個所がゴワついていないから対策パンツであることがバレることもない。

 

そういう商品を開発してくれたメーカーには心から感謝したい。株主になって支えたいと思うほどだ。

 

このブログをお読みの中高年男子の皆様の中にも「事故問題」に直面している人は多いはずだ。よく吟味した対策下着を購入することを強くおススメする。

 

ポイントは女性にスリスリナデナデされてもバレないようなゴワつかない素材が使われているかどうかである。ただ、その種の商品はあくまで「チョイもれ」専用だ。「中もれ」「大もれ」の人だとどうしてもゴワつき感のある商品になってしまう。

 

というわけで、私も「チョイ」のうちは良いが、「中」や「大」に到達してしまったら男としての引退を迫られそうだ。

 

そんなのはイヤだからまだまだジタバタしてみようと思う。

 

 

 

2025年7月7日月曜日

愚痴とピスタチオ

 

夏風邪はしんどい。身をもって経験した。風邪なんて12日で治るものだと半世紀以上信じて生きてきたのだが、余裕で1週間以上もダメだった。慣れっこになっている扁桃腺炎よりもタチが悪かった。

 

熱自体はさほど高くないのに喉が妙に痛かったので近所の医者に行ったら「単なる風邪」との診断。抗炎症剤と咳止めをもらっておとなしくしていたが34日経っても良くならず咳は強まるばかり。

 

薬もなくなっちゃう頃合いで近所の呼吸器内科に改めて行った。結果は咳喘息だとか。この歳になってから喘息になるなんて想定外である。キチンと直さないと本格的な気管支喘息になるらしいので吸引する薬などももらって奮戦した。

 

喉の原因が炎症というより咳のし過ぎの筋肉痛みたいになった。何かと厄介である。「単なる風邪」だからナメていたわけではないが、ちゃんとおとなしくしていたのに悪化しちゃったから我が身の免疫力に自信が無くなった。

 

こうなるといつも飲んでいるサプリなどを全部ヤメたくなる。インチキだ!と叫びたくなるが、その一方でサプリのおかげでこの程度で収まっていたのかもという魔の囁きが聞こえてくる。で、結局ヤメる勇気も出ずに効いているのか分からないサプリを飲み続けているわけだ。

 

そういえば先日スマホを変えた。アンドロイドからアンドロイドへの機種変だ。改めて各社の商品の特徴を調べたがサッパリ分からないので以前と同じシャープ「アクオス」の現行機種にした。

 

それにしてもたったの3年でバッテリーが消耗して買い替えなきゃならないのがバカバカしい。15万ぐらいする家電製品としては実にヒドい話だ。おまけに説明やらデータ移行やらで2時間以上も拘束された。昔と比べて進化しているのだろうか。

 

肝心のスマホだって、フリーズしたり、ワケもわからず繋がらなくなったりすることが普通だ。再起動なんて行為が一般的だという現実が実に歯がゆい。そんなテキトーきわまりない商品に生活の結構な部分をゆだねているわけだから実に悩ましい。

 

デジタルだ、ITだと世の中が変わり始めて久しい。確かに便利になったが、社会全体がユルユルになってきたこととスマホの不安定さは関係があるように思えてくる。

 

多少の不具合や不完全でも「そんなもんだよ」と受け入れちゃう。作る側も売る側も客が黙ってるからユルい商品だって平気で市場に投入する。故障知らずの昭和ニッポンの家電で育った世代としては何だか騙し討ちにあったような不思議な気分だ。

 

と、私が文句を言ったところで何も始まらない。実を言えば機種変でのデータ移行が自動で処理されない「秘密のフォルダ」の整理にやたらと手間がかかったからイラついたのだろう。中身が怪しいモノばかりだからドコモショップの人にも聞けないし難儀した。そういう余計な機能を使っていなければもっとスムーズにコトは運んだのだろう。

 

暑いのにグチばかり言っててもダメだ。ちょっと涼しい話題にテーマを移す。私が最近やたらとハマっているアイスクリームの話だ。日本橋のコレド室町近くに出店した「COCO GELATO」という店のピスタチオアイスが悶絶するほど美味しい。

 



 通りすがりに食べてビックリした。そのほかの各種のフレーバーすべてが上質で濃厚で素晴らしいのだが、ピスタチオは別格だと感じる。

 

福岡のお店らしい。通販でも手に入るし、ふるさと納税の返礼品でも取り寄せられる。ピスタチオアイスの愛好家だったら脇目もふらず味わってほしい。

 

ここ十数年ぐらいでわが国でもピスタチオアイスは定着したが、230年前は滅多に見なかった。昔からヨーロッパに行くたびに冬でもピスタチオアイスを興奮しながら食べていた私にとっては嬉しい進化だ。

 

でも、でもである。中途半端にピスタチオチョコをコーティングしてあるだけだったり、風味が人工的過ぎたり、芳香剤みたいな味がする商品も多いのが実情だ。

 

もちろん、日本中のピスタチオアイスを食べ比べたわけではないのだが「COCO GELATO」のピスタチオは文句のつけようのない美味しさだ。私の知る限りでは日本一である。

 


 

量が多くないのに安くはない。とはいえ、これほどまで私をトリコにするわけだから今の2倍の値段でも買っちゃうと思う。コク、旨味、食感すべてが最高だ。なんだか店の回し者みたいな書きぶりだが、この夏、私の相棒はコレで決まりである。




 

 

 

 

 

 

2025年7月4日金曜日

「おじや」と「おやじ」

 体調が復活しないので今日もまた過去ネタです。バカみたいな話です。


https://fugoh-kisya.blogspot.com/2016/08/blog-post_5.html






2025年7月2日水曜日

師匠

 夏風邪が長引いてちょっと困っている。咳喘息とやらに該当するらしく、人生初の吸引する薬も出された。何事も初体験はちょっと嬉しいが、こういう初体験はできれば避けたい。


というわけで、今日も過去ネタです。3年前に書いた高田純次師匠の話だ。遠からず80歳になるわけだからビックリだ。


https://fugoh-kisya.blogspot.com/2022/10/75.html




2025年6月27日金曜日

魔性の女

 夏風邪になってしまったり機種変したスマホがトンチンカンだったりと何かと不調で更新をサボってしまいました。


というわけで「魔性の女」についてアレコレ考察した過去ネタを載せます。


https://fugoh-kisya.blogspot.com/2012/03/blog-post_30.html




2025年6月25日水曜日

黒歴史

 サラダと名前がついていれば全て野菜っぽい健康的な食べ物だと信じて疑っていなかったバカな私の過去ネタです。


https://fugoh-kisya.blogspot.com/2016/06/blog-post_17.html




2025年6月23日月曜日

タマゴの世界

 

タマゴの世界は奥が深い。外食の際などテキトーなタマゴを無頓着に食べがちだが、ウマいタマゴとマズいタマゴの差は思った以上に大きい。あまり神経質になるのもイヤだが、家で食べるならそれなりにタマゴにはこだわりたい。

 

食料品など日常の買い物はたいていネットスーパーで済ませてしまう私だが、タマゴは単純に高い商品を選ぶ。高いといっても6個入りで500円~800円ぐらいだ。ごく普通の10個入りパックに比べて23倍の値付けだが「なんとなく安心」をその値段で買っているような気がする。

 

廉価品より高いほうが味が濃い目だ。というか、安いタマゴには味がない。大量生産の廉価品はニワトリのタマゴというより一種の工業製品だという指摘もある。文明が進んだ今の社会で、ましてや都会暮らしをしていると本来のタマゴの味など分からなくなるのかもしれない。

 

高い値付けのタマゴもすべてウマいわけではない。なかにはさえない商品もある。とはいえ、鶏の飼育環境や餌にこだわっているらしいので「なんとなく安心」して食べている。

 

TKG、すなわちタマゴかけご飯を家で食べる時はコクや旨味が強いタマゴを選びたい。専用醬油もずいぶんと試してお気に入りを常備している私としてはその点にはこだわりがある。

 

最近のお気に入りは大分県で作られている「蘭王たまご」だ。通販でも買えるが、ふるさと納税の返礼品として頻繁に取り寄せている。返礼品だと最低単位が20個なので賞味期限内に食べきれないこともあるが、その場合は茹で卵をいくつも作り置きして間食用にしている。

 




「蘭王たまご」は単純明快に美味しい。コクや旨味が格段に強い。オレンジ系の黄身も美しい。通販の単価も凄い高値というわけでもない。これより高い値付けのタマゴも高級スーパーに行けば珍しくないが、私の経験ではそうした高級品よりもウマいと感じる。

 

TKGはもちろん、目玉焼きにしても茹で卵にしてもそこらへんでテキトーに買うタマゴとは一味も二味も違う。ベーコンエッグを作ってみてもタマゴの主役感が強い。

 

もともとこのタマゴの存在を知ったのは銀座の焼鳥屋さん「串銀座」でのこと。一品メニューの温玉に感激して4回おかわりしたこともある。ツマミだけでなく温玉を乗せたそぼろ丼も食べたくなる。このブログでも何度か書いてきたネタだ。

 

銀座界隈には焼鳥屋は星の数ほどあるが、私がこの店をリピートするのは単純に「蘭王たまご」を食べたいからだ。店側は焼鳥やそのほかの鶏料理を一生懸命作ってくれるのだが、私の目当てはあくまでタマゴだ。そんな本音は店主には内緒だ。

 




これが温玉そぼろ丼の画像だ。黄身の色が実にウマそうだ。実際にウマい。これが味がしっかりしたそぼろと相まって幸せな味になる。白米を永遠に食べられそうな気がする。

 

自宅ではそぼろを作ったり絶妙な温玉に仕上げたりするのが面倒だからもっぱらTKGを満喫している。時々は目玉焼き、もしくは茹で卵にして味わっている。

 

茹で卵の場合、沸騰したお湯に7分半程度、緩めの半熟が私の好みだ。黄身がちょっとこぼれそうなぐらいな状態でトリュフ塩を一振りしたらそりゃあもう悶絶である。

 

たかがタマゴ、されどタマゴである。自分の好みのタマゴを見つけて思い入れたっぷりに味わうことは日常にちょっとした彩りを添えてくれると思う。

 

 

 

 

 

2025年6月20日金曜日

アッパレ!カツ丼

 

何かとバタバタで更新が怠りがちだ。たいして忙しいわけでもないのに何事においても集中力が衰えてきているのだろうか。とりあえず暑さのせいにしておく。

 

思えば、私の世代は小学校、中学、高校にエアコンなど設置されていなかった。夏は下敷きを団扇代わりにするだけでしのいでいた。おまけに部活は水飲み禁止の時代だった。いま思えば違う星の話みたいに感じる。

 

40年以上も前のことだから確実に気象状況が変わったのだろう。ゲリラ豪雨なんて言葉もなかったし、熱中症という言葉も一般的ではなかった。時々、日射病で医務室に行くヤツがいる程度だった。

 

そう考えるとこれから30年、40年先はどこまで地球は暑くなるのだろう。こちらは死んじゃうから構わないが、今の若い人が私の年齢になる頃には異常な気温の中で暮らすようになるのだろう。お気の毒だ。

 

さて、話は変わる。

 



最近、やたらとカツ丼を食べたい気分になる。もともとトンカツが大の好物なのだが、カツ丼とトンカツの関係は考えてみれば不思議だ。派生形と呼ぶには随分と様相が変わる。

 

トンカツといえばソースである。ニッポンの洋食の大定番として誕生したトンカツに合うように日本人が開発したのがトンカツソースという崇高な調味料である。トンカツソースあっての料理ともいえる。

 

時々「お塩でどうぞ」やら「おろしポン酢も合いますよ」みたいな余計なことをいうお店もあるが、あくまでトンカツはあのソースあってこそ完成する食べ物だろう。

 

対するカツ丼はソースのソの字も感じさせない仕上げ方なのにそれはそれで別次元のウマさに到達している。地域によってはソースカツ丼が定番であるケースもあるが、ここでは卵とじで麺つゆを基本にした古典的カツ丼に絞って語る。

 

トンカツソースという絶対的エースに背を向けて、おまけに揚げ物本来のウリである食感さえ無視して出来上がるのがカツ丼だ。脇役であるタマネギも絶妙なマッチングをみせる。原点であるトンカツにはキャベツこそ付いてくるもののタマネギが同席することはない。思い切った「進化」を遂げたものだと思う。

 

詳しいことは知らないが、街場のお蕎麦屋さんがカツ丼文化を発展させたことは間違いない。親子丼、天丼しかりでアノ麺つゆの味わいをコメの世界にも広げてくれた功績は素晴らしいと思う。

 

そんなことをシミジミ感心しながらカツ丼を頬張っている人はいないだろうが、トンカツ専門店で普通のトンカツ定食とカツ丼を両方注文してみると、ウマいものを追求してきた先人たちの努力に敬意を払いたくなる。まるで王・長嶋の「ON砲」にも匹敵する文化遺産的2大巨頭のように思える。

 



いつだったか、銀座のトンカツ屋さん「梅林」でカツ丼の上級バージョンを注文したことがある。かっ食らおうとしたら隣から妙に熱い視線を感じた。二人連れの外国人観光客からの「ガン見光線」だった。かれらは普通のトンカツ定食を前に喜色満面だったのだが、隣に座った日本人が食べようとしている得体の知れないドンブリものに心を奪われたかのような顔で覗き込んでいた。

 

偏屈な私は彼らにカツ丼を解説してあげることもなくスカした様子で「こっちはそんな平凡なトンカツなんてしょちゅう食ってるんだよ。たまには高級カツ丼も悪くないぜ、キミらにはまだ早いんじゃないかな」と横顔で語ってみた。

 

外国人からみれば生の卵黄まで乗っかったナゾのカツ料理はニッポンの神秘に映ったのではなかろうか。いや、彼らの目にはゲテモノに見えたのかもしれないが真相は不明だ。

 



この画像は函館のみに展開するファストフードの「ラッキーピエロ」のカツ丼だ。こういう気候になってくると私にとって第二のふるさととも言える函館に行きたくなる。函館といえばウニ丼、いくら丼がエースだが、今の私はラッキーピエロのカツ丼が妙に恋しい。

 

最近は節制を基本にしていたので、カツ丼を食べる際にも上ばかり食べてご飯をほとんど食べないという人の道に外れたことばかりしている。

 

でも、一説によると75日にはみんな死んじゃうかもしれないようなので、そんなバカげた食べ方をしている場合ではない。上はロースとヒレのダブル、ご飯も大盛り、そんなカツ丼を夢中になって食べたい気分である。





 

 

 

 

2025年6月16日月曜日

トマトすき焼き


肉だけ食べていれば太らないという都市伝説のような話をよく聞く。素直に信用する気にはならないが、きっと何かしら根拠みたいなものはあるのだろう。

 

信じる者は救われる精神で私も肉だけをムホムホ食べる機会が増えた。牛より豚のほうが好きなので我が家の冷蔵庫や冷凍庫には豚肉ばかり保管されている。

 

ふるさと納税で取り寄せている沖縄のパイナップルポークは旨味たっぷりでヘタな牛肉を食べるより幸せな気分になる。ネットスーパーで買い物をする際も鹿児島産黒豚の一点買いである。ちゃんとした豚肉は誰が何と言おうと牛肉よりウマいと言い切ってしまいたくなる。

 

かといって牛肉をまったく食べないわけではない。下の画像は暇な時に作ってみた自家製牛丼である。以前、ネットでみたレシピで作った豚丼が美味しく出来たので、似たような感じで牛丼にもトライした。

 



 結果はイマイチ。味自体は悪くないのだが使った肉のせいか固くなってしまった。やはり脂身の多いバラ肉じゃないと牛丼らしさは出ない。結構良い肉を用意した時点で選択ミスだったわけだ。

 

話は変わる。某日、京橋にある日本料理屋「婆娑羅」に行く機会があった。1年ぶりぐらいだろうか。トマトすき焼きをウリにした店だ。

 

ウマいトマトを使うだけでなく、牛肉のほかはタマネギしか具材が用意されていない点が私には嬉しい。白菜やネギやシラタキの姿はそこにはない。私の天敵である春菊もない。なかなか素敵だと思う。

 


 

すき焼きの前には箱に詰められた八寸が出てくる。これが毎度美味しい。正統派日本料理店の技量が凝縮されている感じだ。

 

この日はそのほかにカラスミや酒盗を頼んでのんびり一献。八寸を始めこういうチマチマしたツマミを突つきながら過ごすのが嬉しい。

 


 

すき焼きはお店の人が作ってくれる。トマトがやたらと美味しい。看板商品だけのことはある。肉汁をまとったタマネギとトマトだけ食べていても満足しそうだ。

 

すき焼きの肉は普通の和牛と松坂牛が用意されている。いつも普通のほうが食べたいのだが、ここに来るのはたいていが‟おもてなし”の時だから上級バージョンである松坂牛を注文してしまう。私にはちょっと重たい。

 




肉をつける卵が温かい状態で出されるのも悪くない。こういうひと手間が日本料理の細やかさである。外国人観光客だったらきっといちいち大げさに感動するような気がする。

 

トマトすき焼きのシメはパスタである。こちらもお店の人がその場で仕上げてくれる。すき焼き鍋の残り汁をベースにしたアルデンテの平打ち麺だ。食べる際に残った卵汁を適量追加投入することで得も言われぬニッポンのパスタになる。

 



内装も高級感があってゆったりできる。銀座あたりにあったらもっと混むはずだが、京橋という立地のせいか夜の時間帯は大混雑していることが少ないのも良い。穴場だと思う。

 

トマトすき焼きだけでなく、この店で出すトンカツも非常に美味しい。でも、前に来た時にトンカツのせいですき焼きの肉やシメのパスタにゲンナリしちゃったことがあるのでこの日はパスした。

 

ウマいトンカツがあるのを分かっているのに注文しなかった自分が残念である。節制という言い訳のせいで自分の魂が弱っていくみたいである。

 

「つまらない大人にはなりたくない」と歌っていた佐野元春のガラスのジェネレーションでも聴き直して反省しようと思う。

 

 

 

 


2025年6月13日金曜日

胃袋の大きさ

 

節制を意識するようになって3か月ほどが経った。目的だった倦怠感退治にはどうやら成功した。「適度な運動、適切な食事」という厚生労働省に褒められそうな暮らしを実践していたらかなり元気になった。体重も10キロ以上減った。

 

ダイエットをしていた自覚はないのだが、10キロも減量に成功すると変な欲が出てきて、今の私は単なるダイエットオジサンと化してしまった。ちょっと問題である。

 

何が問題かって目指すべきゴールを設定していない点である。今だけだとは思うが前ほどの空腹感を感じない状態だから、これ幸いとばかりに体重減を目指してシャバダバな食生活を続けている。

 

ベルトやズボンがおかしなことになってきたから適当に切り上げないと面倒だ。ゆるゆるズボンをベルトで締め上げている姿は上着を着ていれば目立たない。でも、いよいよ暑くなってきたからスーツの上着は脱いだ状態になる。「身体に合っていない服を着たダサいオジサン」である。

 

いっそのこと100万ぐらい投下してスーツを何着か仕立て直そうと思うのだが、過去の人生でリバウンドしなかったことは一度もない。さすがに勇気が出ない。思い切って持っている衣類をすべて入れ替えするぐらいの根性がないことが私の凡人たる証である。

 

減量生活といってもサラダばかり食べるような寂しい生活はイヤだ。キチンと?ジャンクフードも食べたい。先日はサムライマックのトリプル、すなわち肉3枚バージョンとビッグマックの倍バージョンをデリバリーして食べた。もちろん、パンはすべて排除するというヘンテコな食べ方である。

 

サムライマックの肉はバーガーキングの肉のように割とマトモだから3枚版を味わっていると良い感じのハンバーグを堪能している気分になる。

 

倍ビッグマックは肉4枚だが、こちらは「マック標準肉」だから4枚だろうと肉々しい感じはない。そういえば大昔の「猫肉騒動」を知っている人はみんなすっかり年寄りになった。

 

一応、マックの肉を7枚という贅沢?な食事ぶりだが、パンを除くとズッシリ感も満腹感もないし、実際に翌日に体重が増えることもなかった。

 

話は変わる。減量といえどもウナギを無視する生活は私には無理だ。大好物まで絶つようなストイックさは無いので最近も何度かウナギ大会を開催した。

 

さすがに鰻重のご飯を少なめにしてもらうようにはしている。なんなら「少な目で」ではなく「極少で」と頼む。鰻重の前に白焼きやその他のツマミも食べるからシメのコメまでバンバン食べるわけにはいかない。

 


 

おかげで鰻重の画像もこんなに寂しげだ。これは銀座の「神田川」での画像。胃が小さくなりつつある私はこれでも結構満足できてしまう。暴飲暴食の人生をウリ?にしてきた私としては実に寂しい話だが、今はちょっとだけ我慢の時である。

 

別な日、日本橋の「大江戸」に出かけた。この店の鰻重はランクが6段階ぐらいに分かれている。最上級の「極上」はそれこそ飽きるほどのウナギがモリモリである。10年、いや5年、いや3年前ぐらいまでは常に「極上」を食べていた私だが、この日は下から2番目のサイズにした。

 

減量、節制に関係なくここ12年は「極上」のボリュームを厳しく感じている自分が残念である。これが還暦間近の現実だろうか。この日も同行者に食べさせた極上を前に私のウナギはチンマリしていた。

 



別な日、自宅で大豆ハンバーグなるものをムシャムシャ食べた。そんなものを買ってしまう自分がちょっとイヤだが、実はこれは節制目的で買ったのではない。だいぶ前に近所にある宮城県の物産特売所みたいな店で味見したところ妙にウマかったのでまとめ買いをした。

 

ずんだシェイクを飲みに行っただけなのに余計な買い物をしてしまった。試食コーナーの魔の手にやられた。プレーンな状態でも薄く塩味はついていたが試食の際はマヨネーズをつけた状態で出された。マヨ好きな私は一気に心を鷲掴みされて買ってしまったわけだ。




 正直言うと買ったはいいものの冷凍庫の中で眠ったままだった。我が家には他にもウマいものはいろいろあるから大豆ハンバーグという不気味なヤツの出る幕はなかったわけだ。同じシリーズのいわしハンバーグも冷凍庫に眠っている。

 

先日、冷凍庫を整理するついでに存在を思い出して一度に大豆ハンバーグを3枚ほど食べてみた。マヨ醤油とマヨソース、そしておろしポン酢をそれぞれ小皿に用意してとっかえひっかえ味変して味わった。

 

単純にウマかった。幸福感を感じるほどウマいわけではないが、サラダチキンをかじるよりもマトモな食事をしている気分になれた。これはこれで悪くない。

 

よくよく考えたらマヨネーズがウマいというだけの話かもしれない…。

 

 

 

 

 





2025年6月9日月曜日

未知の場所


好奇心は歳とともに弱まっていく。ついつい自分の知っている範囲の中で安穏と過ごしがちだ。それに問題があるわけではないが、やはり知らない世界を覗くことは刺激になる。

 

もともと私は社交的ではない。人当たりは良いほうだと思うが、進んで新しいジャンルに足を踏み出すことは苦手なほうだ。このままでは「内向的ジジイ」というタチの悪い生き物になっちゃいそうだから気を付けないといけない。

 

先日、医療関係のイベントというか、シンポジウムのような集まりに参加してみた。主催者である旧友への義理みたいなつもりで出かけたのだが、なかなか面白かった。旧友の誘いがなければ知らなかった世界である。

 



その名も「医療は人生を手術する」と題するガンマナイフ開業30周年を記念したイベントだ。ガンマナイフとは「切らずに切る」ことを可能にした治療法で放射線の一種であるガンマ線の照射で脳腫瘍の患部などを切除するもの。

 

この第一人者である某医大教授が中学高校の同級生で、大人になってから何かとお世話になる機会があった。彼自身、過去に大病をした経験があるせいで患者目線をとても大切にする人格者だ。

 

彼の講演を聞いていると「医者と患者」の在り方を根っこから考え直したくなる。漠然と医師の言いなりになってしまう患者は多い。私もそんな傾向がある。専門家相手に門外漢がアレコレ言うのはどうかという一種の常識が邪魔をしてしまうわけだが、はたしてそれは双方にとって良いことなのだろうか。

 

友人の医師は「患者は医師にもっと意見を言うべき」と主張する。そうは言っても一般の患者にとってそれは簡単なことではない。でも彼いわく「何がしたいのか、どうなりたいのかを教えてほしい」という。

 



すなわち、制限はつくにせよ治療後に趣味の山登りを続けたいのか、楽器演奏を続けたいのか、具体的にどんな目標を目指して治療後を生きていきたいのかを共有して、それを実現させるための方策を建設的に考えたいという趣旨である。

 

活字で書いてしまうと当たり前のことのようだが、実際にはエラそうな態度の医師は多いし、大病院では初診の患者と目も合わさない医師もいるぐらいだから、そんな本来は当たり前のことを強く主張する彼の意見が新鮮に思えた。

 

「医者だって一瞬で患者になる」。重い病気を経験した彼の言葉には説得力がある。患者という存在は言い換えれば正常な状態ではない人である。丁寧に接して欲しいといった表面的なことも大事だが、それ以上に本来はその人は何をしていて何がしたくて、どのように生きている人物なのかを共有することが基本中の基本だと痛感した。

 

学会のような堅苦しいイベントかと思って出かけたが、途中でシャンソンを聴く時間があったりフィナーレは会場に集まった数百人がナゼか「オーシャンゼリゼ」を合唱するというアットホームな雰囲気だった。

 



感じたのは出不精ではダメだということだ。やはり知らない世界に身を置いてみると何かしら得るものはある。年齢とともに知った場所にしか行かなくなっている自分を反省する機会になった。

 

最近は、キックボクシングジムと大学野球観戦ばかりの日々だからもう少し日常に変化をつけようと検討中だ。

 

とはいえ、今日から大学野球の日本選手権が始まるから、しばし、そこに熱中してしまいそうだ。昨年初めていくつかの試合を生観戦したのだが、名前も知らない大学が結構強かったりしてなかなか面白い。

 

だいたい全国に大学リーグが30近くも存在することを昨年まで知らなかったわけだから、これも一種の未知の世界だった。全国の大学リーグで春のリーグ戦を制したチームが集まってトーナメントで優勝を争う。

 

昨年は東京六大学代表の早稲田と東都大学代表の青学が決勝で激突して青学が勝った。雪辱を期す早稲田は今回も東京六大学を制したから、再び決勝での青学との熱戦に期待している。


なんだか話が大きく逸れてしまった。。。





 

 

 

 

 

 

 

 

 

2025年6月6日金曜日

サボタージュ

 更新が出来ていないので過去ネタを一つ載せます。


優しいオジサマ

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2015/04/blog-post_22.html



2025年6月2日月曜日

カロリーゼロ理論

 

「コロッケはサラダだ」。「ドーナツは穴が開いているからカロリーゼロ」。お笑いのサンドイッチマンが語るそうした話が大好きだ。

 

とかく世の中はラーメンは太る、揚げ物は太る等々、‴太っちゃうシンドローム‴に覆われている。何かを口にすれば体重が増えるのは当たり前だからあまり気にしてもキリがない。

 

プチ節制生活で体重が10キロほど落ちたのだが、結局は食べる量がすべてだと思う。一応、炭水化物や揚げ物は控えめにしているが、神経質になってもストレスが溜まるだけだ。

 

甘いものもちょこちょこ食べている、ただ、前ほどドカドカ食べなくなった。あとは今のようなドカ食い禁止状態を習慣にできれば体調も維持できるはずだ。過去に10キロ以上の減量に何度も成功してはリバウンドを繰り返した私の経験からするとそこが一番難しい。ドカ食いほど生きていて幸せを実感する場面はない。

 

この春は毎週末のように大学野球を観戦したのだが、野球場には肉系のどんぶりやカレー、ポテトや唐揚げなどデブ御用達の食べ物が溢れている。その誘惑に負けないようにするのが一苦労だった。





東都リーグが使う平日の神宮球場は売店が閉まっており、東都2部の使用する大田スタジアムなどはハナからそういう売店がないから誘惑は弱めなのが有難かった。

 

売店が開いている東京六大学の試合の際には誘惑に負けないようにわざわざ自宅からナッツ類を持参してビールのつまみにした。とはいえ、午前中から2試合も見ているとどうしたってちゃんと空腹になる。

 



で、サンドイッチマン理論?のように「肉だけ食べていれば太らない」と自己暗示をかけてフランクフルトばかり食べていた。はたしてあれが正しい肉なのか実にビミョーなところだが、体重にもきっとプラセボ効果があると信じてレモンサワーのお供に楽しんだ。

 

そんな努力をするくせに別途持参したウエハースやポッキーなんかも食べていたので減量効果はゼロだったはずだ。そんなもんだろう。

 



話は変わる。サンドイッチマン理論でいえば蕎麦はカロリーゼロの象徴的な食べ物かもしれない。蕎麦はそもそも花の実だろう。蕎麦畑の画像を見る限りあれは草だ。そこになる実を元にしている以上おそらく花や葉っぱを食べるのと相違はないはずだ。だからカロリーゼロだと信じてみる。

 

先日、築地にある「さらしなの里」に出かけた。ここの蕎麦は単純明快に美味しい。ご立派な店構えの老舗有名店が都心にはいくつもあるが、行列が出来る店でもたいしてウマくもない店も多い。その点、こちらは風情の点ではイマイチだが、並んでもいないし何より蕎麦がかなり美味しい。

 




ツマミのメニューも豊富だ。これは沖シジミの酒蒸し。抜群だった。シジミとは思えないサイズで食べ応えがあり、おまけに残った汁にちょこっとだけ蕎麦を入れて出してくれた。滋味そのものだった。

 



鴨焼や天ぷらも安定して美味しい。蕎麦がきなども頼んで蕎麦焼酎の蕎麦湯割りでウヘウヘしながら過ごす時間が楽しい。個人的には都内屈指の優良店だと思う。

 

この日は同行者に蕎麦の3種盛りを頼んでもらい、私は十割蕎麦を注文してちょっとづつ味見をした。計4種類の味を楽しめた。季節の変わり蕎麦は茶そば。茶そばを初めてウマいと感じたのもこの店だった。

 



茶そばは文字通りお茶を練りこんであるからカロリーはゼロだ。真っ白い更科蕎麦は蕎麦の実の中心部分だけを使っているからカロリーゼロだ。十割蕎麦もただ花の実を食べているからもちろんカロリーゼロ。もり蕎麦は二八、すなわち二割は蕎麦以外のなぎが使われているが、もしそれが自然薯だったりすれば野菜だから?カロリーはゼロだろう。

 

思い込みは大事だ。まさに信じる者は救われる世界である。というわけでこの日の夕飯もローカロリーで済ますことが出来た!?。ウッシッシ!!

 

 

 

 

 

2025年5月30日金曜日

男と女


もう13年ほど前に「男と女」というタイトルでアレコレと考えを書いていた。ひょんなことで読み返してみたのだが、この当時は自分がまだまだ青臭くて現役感バリバリだったんだなあと感じた。

 https://fugoh-kisya.blogspot.com/2012/09/blog-post_24.html

 

10年以上も経つとさすがにいろんなことが様変わりする。当時書いたことはフムフムとうなずけるが、今はもっと達観の域というか、投げやり?みたいな感覚が強まった気がする。突き詰めて言えば「人生すべて出たとこ勝負」みたいな思いが強くなったのだろう。

 

男女の仲をいろいろと考察したところで結論なんて出るわけないし、すべて成り行きである。そう言っちゃうと元も子もないが、結局は考えるだけ無駄なような気もする。

 

「神様はサイコロをふらない」という通り、しょせんはすべてが必然だ。男女の仲についても上手くいくか否かは出たとこ勝負でしかないと思う。

 

とはいえ、世の中には男と女の2種類しかいないわけだからその関係性についてアレコレ悩んだり考察することは人類の永遠の研究課題でもあるのだろう。

 


 

さてさて、話は変わる。この2か月ほど意識して節制を心がけているせいで私の体の細胞たちが元気に活性化してきた気がする。いろいろ元気になってきた。いや、いろえろ元気になってきたと言うほうが的確か。

 

運動を心掛けるようになったこと、体重が落ちたこと、小麦類やコンビニメシを控えるようになったこと、テストステロンサプリを飲み始めたこと、睡眠時間を多めにとるようになったこと等々どれが最大の要因かは不明だ。おそらく複合的な効果だろう。

 

ダルさや倦怠感を退治したかったのがきっかけだが、最近は調子が良い。結構元気になったことを実感する。

 

最近も朝から夕方まで職場で過ごした後で某女子と仲良しタイム!をこなし、別な女子の夜ご飯に付き合いながら一杯ひっかけ、その後に銀座のクラブに繰り出すというモリモリ元気な1日を過ごすこともできた。

 



正直に言うとちょっと無理しているような感覚もある。でも“適度な無理”って案外大事だと感じる。隠居気分でゆったりし過ぎると身体も脳もどんどんそっちを標準と認識し始める。そうなると活力を失いドンヨリしちゃう。適度にバタバタすることは元気を維持するためには必要だろう。

 

でも「無理してる感じ」って何だか悔しい。10年以上前には無かった感覚だ。それだけ自分の劣化が進んでいる証でもある。見る人が見れば「ジタバタしてるヤツ」である。カッチョ悪い。

 

この歳になると、いろんな面で自分がいつまで現役でいられるのかをつい考える。アンチエイジングという言葉は好きではないが、かといって何もしなければどんどん現役感は弱まってくる。困ったものだ。




この画像は映画界の巨匠・今村昌平監督の知る人ぞ知る名言だ。冗談のようで実に核心を突いた凄い言葉だと思う。男子として生を受け半世紀以上たった今だからこそこんな格言が胸に刺さる。

 

「そんなことしか頭にないのか!?」と立派な人達に叱られそうだが、これは一面の真理であることは間違いない。男性本来の野生感覚、DNAみたいなものであり、一種の長患い、すなわち宿痾みたいな本質ともいえる。

 

大げさに言えば生命エネルギーの根っこだ。仕事や人間関係、日常生活のよもやま事に至るまですべてに影響を及ぼす部分でもある。知らん顔してうっちゃったままではダメだと思う。

 

何だか必死に力説してしまった。冒頭に紹介した十数年前の話に比べると、いかに自分に余裕がなくなってきたかが分かる。いかんいかん、もっと呑気に構えて現役生活を過ごすべきだろう。

 

余計なことを考えずにヌルっと日々を過ごすことが精神衛生上は良さそうだ。適度にがんばろうと思う。

 

 

 

 

 

 





2025年5月28日水曜日

キャンセル界隈

 

最近このブログで「エモい」という若者言葉に共感した話を書いた。若者言葉といえばいつの時代もヘンテコだ。いい歳してマネしているとカッチョ悪いだけだが、時には妙に納得して使いたくなるものもある。

 

いま若者の間で使われている言葉に「キャンセル界隈」がある。もともとは風呂に入りたくない人たちが「入浴キャンセル界隈」と言い出したことがきっかけらしい。

 

「〇☓界隈」はどんどん多様化して「外出キャンセル界隈」「ご飯キャンセル界隈」「人付き合いキャンセル界隈」など、何かしらの行動をやめちゃうための言い回しとして普及している。

 

ネット界隈(笑)でもこうした言い回しが特集されていた。https://www.j-cast.com/2025/01/26500869.html?p=all

 

この記事では何だかんだと細かな分析がされているが、若者たちは難しいことなど考えずに気軽に使っている。

 

端的に言えばちょっとだけ後ろめたい行動について「キャンセル界隈」を付けることで同士の存在を意識して緩やかな連帯感につなげようという感覚なんだと思う。

 

そのため「キャンセル」の頭にくっつく言葉はどちらかといえばネガティブな、人様から感心されないような行為となる。風呂に入らない、人付き合いをしないなどの決して褒められない内容が定番になる。

 

だから私のように最近になって頑張って節制していることを「デブキャンセル界隈」とは言わない。後ろめたくない、むしろ褒められるようなテーマだと「キャンセル界隈」に馴染まないわけだ。

 

どっちにしろヘンテコな言葉だから大人たちが四の五の語ったり考察するほどの話ではない。と、気取ってはみたものの個人的には妙に気に入った使い方がある。「健康キャンセル界隈」がそれ。

 

時々、ネットの動画で簡単な料理レシピを眺めているのだが、見るからに身体に悪そうな脂ブリブリガッツリ系のメニューにキャッチフレーズのように使われている。

 

いやはや実に的確な表現だろう。「脂マシマシ」などという暗号みたいな言葉でガッツリ系のギトギトラーメンを食べる動画などにも「健康キャンセル界隈の人にオススメ!」みたいに使われている。

 

たまたま節制中の私にとっては禁断の言葉である。実に魅力的な響きだ。もともとジャンクフードも大好きだし、チャーシューが20枚以上入ったラーメンにもヨダレを垂らす私にはとても麗しい言葉に聞こえる。

 

健康、健康とやかましい世間の風潮に真っ向から歯向かっているようで潔い言葉だと思う。個人的に大好きな言葉になった。今は実践できていないことが歯がゆい。

 

「キャンセル」が付いていない「界隈」にも面白い言葉がある。感心したのが「伊能忠敬界隈」である。やたらと歩く人のことを指すそうだ。長距離を歩いてしまった時などに使うらしい。なかなか趣のある言い回しだと感じた。

 

というわけで、きっと老若男女問わず誰もがなんらかの「界隈」に属して、何らかの「キャンセル界隈」を経験しているはずだ。

 

私自身のことを考えてみても、週末は「髭剃りキャンセル界隈」だし、平日も重役出勤がクセになって「目覚まし時計キャンセル界隈」である。最近は「夜の銀座キャンセル界隈」もすっかり定着してしまった。

 

もっと言えば生きざまそのものが「結婚生活キャンセル界隈」である。確かに「界隈」がくっつくと自分だけではなく他にも仲間がいてくれるような安心感がある。

 

もちろん、女性関係についてはまだまだ現役でいたいので「性交渉キャンセル界隈」に陥ることは避けたい。でも、いい歳して「年増の女性キャンセル界隈」を標榜していることは反省しないといけない。


なんだかなぁ~。。




 

 

 

 

 

 

 

2025年5月26日月曜日

柔らか系の話

 更新が間に合わなかったので「下ネタ界隈」?の過去ネタを2つ載せます。


過去フェチ

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2016/04/blog-post_25.html


下着の話

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2016/05/blog-post_27.html





2025年5月23日金曜日

プチ幸せ

 

日常のちょっとした喜びを大げさに喜ぶことは大事だと思う。「足るを知る」ではないが、不平不満を漏らすより嬉しい気分に浸るほうが建設的だ。

 



某日、居酒屋で出てきた「生グレサワー」がやたらサービス濃厚バーションだったことが嬉しかった。店によっては鼻くそ程度しかグレープフルーツが入っていないヤツが出てくるが、このぐらい色鮮やかだと妙に嬉しい。

 

血圧の薬を飲んでいる私にとってグレープフルーツは食べてはいけない代表格の存在だ。そう言われると無性に食べたくなるもので、飲み屋さんでサワー気分の際にはグレープフルーツサワーを注文したくなる。

 

血圧の薬は朝に1回の服用だ。夜に摂取するグレープフルーツは薬の作用に影響しないだろう。たぶん。だからここぞとばかりに「生グレ」を飲む。なんなら継ぎ足しでおかわりしてグレープフルーツの果肉を増やしたがる。

 

どうでもいいことのようでこういう「プチ幸せ」が自分の精神衛生をノーマルに維持してくれる。サービス精神旺盛な「生グレ」を出す店には感謝である。でも、この画像のサワーを飲んだ店がどこだったか忘れてしまったことが悔やまれる。

 

タクシーを拾おうとして瞬時に空車が目の前に来た時や、帰宅した直後に雨がザーザー降ってきた時なんかもプチ幸せである。「はい、ラッキー」とアッケラカンと済ますより「いやあ、なんて運がよかったんだ。物凄くハッピーなことだなあ、なんて素晴らしいのだろう!」としつこくプチ幸せを噛みしめると退屈な日常にちょっとした彩りが加わる。

 

ちょうど画面に目をやった瞬間に大谷翔平サマがホームランを打った時もことさらその一瞬のめぐりあわせを大げさに喜んでいれば、心の平穏は結構長持ちする。きっと表情も穏やかなままでいられるはずだ。

 

そんなホトケ?みたいな考え方に日夜努めていたら物凄くハッピーなことが起きた。日頃の精神修養?がもたらした幸せだと信じたい。

 



大谷サマのボブルヘッドが手に入った。これが配られた日にドジャースタジアムで観戦していた某近親者からお土産としてもらった。大ハッピーである。単なる立ち姿ではない。滑り込んでいる格好のボブルヘッドである。貴重だ。メルカリに出せば高値で売れそうだが、そんなことは一瞬も考えずに家宝にすることにした。

 

本気で嬉しかったからもう1枚画像を載せる。バンザイ!

 



話を戻す。思えば日常の中にちょっとした喜びはたくさん溢れている。どうでもいことのようでも、それを心底ハッピーだと受け取ることで平凡な日々が非凡になる。ストレス対策、もっと言えばうつ病予防にも効果的だと思う。

 

サッポロ一番の茹で加減が狙った通りに仕上がった、デリバリーで届いたつけ麺の麺が乾いていなかった、チャリで爆走中に信号が立て続けに青だった等々、そんな程度でもサラっとやり過ごすことなくしつこく喜びを味わうと結構楽しい気分になれる。

 

莫大な遺産を相続した、万馬券が当たった、さらには、やたらとモテまくった、脱がせてみたら思った以上に峰不二子級だった、予想外の床上手にヘロヘロにされた等々の喜びはプチ幸せではない。


そちらはスペシャルハッピー大事件だから話は別だ。そういうスぺクタル系?以外のほんのちょっとした日々の瞬間をポジティブに捉えるように心がけたい。

 

そういえば、毎週のように観戦に行っている東京六大学野球でもこの春のリーグ戦では貴重な体験ができた。六大学100年の歴史の中で初の「延長戦での逆転サヨナラホームラン」と「ノーヒットノーラン」を立て続けにナマで見ることが出来た。そのほかの退屈な凡戦でも真面目に観戦していたご褒美だったのかもしれない。

 



プチ幸せを大げさに喜ぶ心がけ。なんだか安っぽい新興宗教みたいな話だが、実践できればおおらかな気持ちで過ごせて悪くない。人生後半戦だからこそそんな意識で過ごそうと思う。

 

 

 

 

 

 

2025年5月21日水曜日

アーカイブ

 更新が間に合わなかったので過去ネタを一つ載せます。


オノマトペ








2025年5月19日月曜日

楽しい節制


キックボクシングジムに通い始めて3か月。週二回のペースをなんとか維持している。なかなか立派!である。とはいえ、毎度毎度、自分の劣化を思い知らされるのも事実である。


固まってしまった身体はなかなか厄介だ。いつまで経っても中段回し蹴りが限界。昔のように脚が高々と上がる気配はない。それもまた自分の年齢を正しく認識するために必要な現実かもしれない。

 

体力もちょっとついてきた感覚がある。これは嬉しいことだ。なにより最大の目的だった倦怠感の退治はほぼ完遂したと言ってもいい。長いこと悩まされてきた謎のダルさはすっかりなくなった。寝起きも快調である。

 

身体を動かすことに励んでいるついでに体重を落とそうという欲も出てきた。そっちをメインにすると一喜一憂しそうでイヤだ。あくまで狙いは倦怠感の退治だからあえて体重計にはだいぶ前を最後に載っていない。でも8キロぐらいは落ちているはずだ。ゆるくなった服の感じで分かる。


ちなみにいま8キロの重りを持って歩けと言われたらツラそうだ。そう考えると倦怠感の原因は体重そのものにあったのだろうか。

 

食事にもちょっと気を使っているせいで胃袋が小さくなってきた。強烈な空腹感は感じないし、そこそこの量で満足できるようになった。もちろん、それでも普通の人レベルではある。

 

キックボクシングジムに行った日はバテバテになって食べる気がおきないので夕飯抜きになる。これって胃腸を休ませる効果もあるから身体には悪くない。今後、ジム通いに慣れてしまったら運動後に平気でドカ食いしそうだから、何とかこのバテバテ状態は続いてほしいものだ。

 

ここしばらく夜には炭水化物をなるべく避けるようにしている。美容にしか興味がない若いオネエサンみたいで情けない話だ。小っ恥ずかしい。でも、還暦を前にどこまでそんな生活が続けられるかマゾ的な興味が湧いてきた。だから寿司や麺類をしばし口にしていないことが淋しい。

 

とはいえ、肉はしっかり食べている。いろえろ付き合ってくれる女性陣と外食する際も焼肉屋で済ませることが増えた。さんざん肉をふるまってこちらはキムチやナムルやチャンジャをつまんで酒を飲み、肉は23切れでオシマイ。

 

一人飲みの際はモツ焼き屋で梅きゅうやら肉モヤシ炒めやら純レバみたいなツマミを頬張って串焼きを5本も食べればかなり満腹になる。ウナギ三昧の日々より財布にも優しいことがハッピーである。

 





先日は、赤坂にある肉十八番屋という居酒屋で快適な時間を過ごした。エビとアボカドのマヨ和え、馬刺しと豚肉の岩塩焼あたりを並べてサワーをぐびぐび。シメの麺だのコメだのを食べずに終わってもハッピーだった。

 




そう考えるとプチ節制を始める前の無軌道な乱食ぶりがいかにヒドかったかを実感する。それはそれで幸せなことだが、おまけとして倦怠感が付いてきたのならさすがに少しは制限すべきだったと思う。幸せの裏側には必ず魔物が潜んでいることを今更ながら感じる。

 

まあ、そんなゴタクを並べていてもいつかはこのプチ節制モードにも終わりは来る。やはり深夜のペヤングは悪魔的に魅力があるし、寿司屋の帰りにマックのフィレオフィッシュを食べるのは最高だ。そんな習慣から引退しちゃうのは人として違うような気がする。ある意味それはそれで健康の証でもある。

 

今のところプチ節制の暮らしにさほどストレスを感じていないのが救いだ。私にとって最大の敵は「我慢」である。我慢が苦手なワガママな私がそれを感じないうちは続けられそうだ。


血圧もガッツリ下がって処方されている薬を一つやめるという快挙にもつながった。このまま1年ぐらい同じ暮らし方だったら体重だって学生時代の水準まで戻りそうである。さすがにそれは目指していないが。

 

歳を重ねてから身体を絞りすぎるとたいていは貧相な様子になる。おまけに必ず「病気ですか?」と聞かれる。そんな状態になることは望んでいない。いつまで節制を続けるのかは難しい問題だ。

 

性格なのか単に頭が悪いのか、私の場合「適度にこなす」というのが苦手だ。「やるか、やらないか」の二択みたいな感じだからプチ節制も終了後が心配だ。たとえ10キロ痩せようがほんの半月もあれば7キロぐらい太る気がする。

 

まあ、それでもトータル3キロ減なら上等かもしれない…。





2025年5月16日金曜日

東京駅、奉行所、西郷さん

 

日本橋エリアの暮らすようになって身近な存在になったのが東京駅だ。レンタルチャリでうろうろ走っている時もつい丸の内側の美しい駅舎を通るコースに行ってしまう。

 


 

国の重要文化財に指定されているのも当然の佇まいだ。その昔、オランダを旅した際にアムステルダム駅が東京駅にそっくりだったのでそちらが元祖なのかと思ったが、資料的にはアムステルダム駅を参考にした記録は無いらしい。今になって画像と比べると似て非なるモノにも思える。

 

明治時代にこんな素敵な建物を作った当時の日本人の意気込みに感心する。プチ歴史好きな私としては当時の世相や庶民感情、技術力などを勝手に想像して関係した人々の気持ちに思いを馳せるのが楽しい。

 

丸ビルあたりから見る夜景も素晴らしい。これぞ東京という言葉しか浮かばない。飽きもせず見ていられる。実際に下の画像は用もないのに丸ビルに入ってテラスから撮影した。根っからの東京人である私もこの眺めを前にするとオノボリさんみたいに気分がアガる。

 



 丸の内北口と南口がある両端の屋根がドーム状になっている部分は、中から見上げると実にシャレたデザインになっている。これまたボーっと見ていられる。往来する人々は私のように暇人ではないようで誰も上を見上げていないのが実にもったいないと思う。

 



東京駅には近現代のいろんな歴史が垣間見える。丸の内南口の切符売り場横には原敬首相が暗殺された現場を示すレリーフが掲示されている。歴史を大きく変えたともいわれる事件の現場だ。とはいえ、99%の人はレリーフを気にすることもなく通り過ぎていく。そんな無常観を眺めているのもいとをかしって感じだ。




話は変わるが、東京駅に限らずレリーフや記念碑、歴史の由緒書き看板を見るとしっかり読み込みたくなるのが私の習性だ。ちっとも知らない事柄や業績だろうとナゼか必死に読んでしまう。その時代を想像して空想にふけるのが楽しい。

 

有楽町駅の交通会館寄りの広場には「南町奉行所跡」という碑がポツンと建っている。毎日のようにテレビ各局の街頭インタビューが行われている場所だ。とくに由緒書きがあるわけでなく素っ気ない感じがシュールだ。

 



江戸の奉行所といえば「遠山の金さん」である。あれは創作ストーリーだが、モデルになった遠山金四郎というお奉行さんは実在していた。まさにこの場所で「お裁き」が行われたのかと思うと空想気分も盛り上がる。

 

お次は職場近くで見つけたレリーフだ。京橋にある私の職場の周りは再開発が盛んだが、新しく出来たビルにヒッソリと歴史に関するレリーフが設置されることも多い。これは東海道五十三次で知られる歌川広重の住居跡。

 


 

自分が日々過ごしている場所のすぐそばだ。200年前にはここで一連の絵が描かれていたのかと思うと妙に不思議な気分になる。今はビルだらけの場所の200年前の景色を好き勝手に想像してみるのも楽しい。

 

お次は「西郷どん」である。こちらは人形町に近いエリアを散歩していた時に発見した。鹿児島のイメージしかない西郷さんだが、考えてみれば一時期は明治新政府でゴリゴリ辣腕をふるっていたわけだから東京に住まいがあったのも当然だ。

 



この周辺を上野の銅像のような姿で犬を連れて散歩していたのかと想像してみると何となく楽しい。近隣に住む江戸っ子たちが薩摩からやってきた革命の親分を見てどんな陰口を叩いていたのだろう。そんな空想にふけると歴史的な由緒書き看板の有難さを痛感する。

 

キリがない話だが、東京の都心部だけでなく全国主要都市の中心地にはそれこそ数えきれないほどのレリーフや記念碑、由緒書き看板が存在する。そればかりを目的に散策したら飽きずに過ごせそうだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

2025年5月14日水曜日

エモい!!

 

バズる、ガチで、エモい等々、若者言葉はさまざまだが、言いえて妙みたいなヤツも多い。「ガチで」の語源は「ガチンコ」だとか。なかなか的確である。

 

エモーショナルを元にした「エモい」もわりとよく聞くが、いま一つ分かりにくい。ネットで正確な意味を調べたら「心が揺さぶられること」だとか。まあ、いわゆるサウダージみたいなニュアンスだろう。

 

この歳になってそうした若者言葉を口にするのは恥ずかしいが、先日ひょんなことから「エモい」を実感する場面があった。中野駅近くに用事があって出かけた時のことだ。

 

今の住まいは神田駅か東京駅が近いので中野までは中央線で一本である。中央線は子供のころに通学で頻繁に利用したが、ここ数年、いや数十年ぐらいほとんど無縁に過ごしていた。

 

私の実家は荻窪駅に近い。飯田橋にある学校まで小学校から高校までの12年間も電車通学だったので主に中央線に世話になった。総武線や地下鉄東西線なら乗り換えなしだったのだが、中央線で四谷で総武線に乗り換えるのが時間的には一番早かった。いわば青春時代、いや思春期の思い出が中央線には詰まっているわけだ。

 

で、エモい気分になったのは中野駅から帰宅する際の中央線である。最近になって中央線にグリーン車が導入されたので話のタネに利用してみた。ほんの十数分の距離なのにバカみたいだが、そこは富豪モドキだから仕方がない。

 




高い位置にある座席から昔々の通学時代に目にした景色がゆったり眺められたことで妙に郷愁に浸ってしまった。普通車両よりも車窓からの眺めがダイレクトに目に飛び込んでくる。東中野や代々木、千駄ヶ谷や信濃町をすっ飛ばしながら疾走する眺めはウン十年前と基本的には一緒だ。

 

変わらぬ景色に反して私自身はすっかり変わった。老眼になって脂肪も増えて毛量は減り白髪は続出、眉毛も伸び出し耳からも毛が生えてくるような加齢なる日々を迎えている。源氏物語でいうところの「もののあはれ」みたいなシミジミした気持ちになった。

 

初めて車窓からその景色を眺めたのはもう50年以上前のことだ。50年の歳月である。なんだかワケもなく感慨無量になって思わず「エモいよ。エモい…」と若者みたいにつぶやいてしまった。

 

そのせいもあってか、その後は「エモい」を乱発するようになった。猿のオナ〇ーみたいである。

 

腕時計の形を残して日焼けしてしまった肌を見れば、かつて“全集中”で取り組んだ水中撮影の日々を思い出して「エモいなあ~」とつぶやいてしまう。2030代の頃は一年中こんな日焼け状態だったことが妙に懐かしく感じる。

 



4月、5月の日差しをナメていたせいで今の私はヘンテコな日焼け状態にある。大学野球を毎週末のように観戦していたら腕時計の跡どころか半袖シャツのおかげで見事な?ドカタ焼けだ。

 

他にもカップ焼きそばでも「エモい」気分になった。ローソンが発売した「ラッキーピエロ焼きそば」が原因である。ラッキーピエロといえば函館だけで展開するローカルファストフード業界の雄!である。函館をマニアックに愛してきた私にとって特別な存在である。

 https://fugoh-kisya.blogspot.com/2020/10/blog-post_5.html

 

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2021/06/blog-post_11.html

 

全国的にはまさに知る人ぞ知る存在なのに天下のローソンがラッピの焼きそばを売り出した。これは一大事である。食べないわけにはいかない。

 

とはいえ、自宅の周りにはセブンイレブンばかりなので通りすがりに購入する機会がないまま日々は過ぎていった。コンビニの商品入れ替えはやたらと早いからラッピ焼きそばが販売終了になってしまったら大変である。

 

というわけで仕方なく無駄に高いコストを払ってネット経由で買ってみた。都会に住んでいるくせにバカみたいである。

 



で、さっそく食べた。普通に美味しかった。スパイシーより甘めが好きな私にとっては好ましい味付けに仕上がっていた。でも、しょせんはカップ麺の味だった。

 

以前、札幌のやたらとウマい味噌ラーメンの名店「みそ吟」の名を冠したカップ麺を食べた時に感じた徒労感?にも似た感覚だった(https://fugoh-kisya.blogspot.com/2024/12/blog-post_18.html)。カップ麺はカップ麺。そんな当たり前のことにいつになっても気づかない自分のバカさ加減が残念である。

 

でも、地域限定にとことん徹しているあのラッピがカップ焼きそばを監修して自宅に居ながらにして味わえるという厳然たる事実は私にとって「エモい」の極みだった。