2014年4月30日水曜日

「邦題」。摩訶不思議な世界


映画「アナと雪の女王」が大ヒットしている。観たわけではないが、松たか子のカッチョいい歌声をアチコチで耳にする。

映画の原題は『Frozen』だ。随分とイメージの違う邦題を付けたものである。悪くないセンスだと思う。

『フローズン』のままだったら、『アイスエイジ』の二番煎じみたいで面白くないし、何もイメージできない。タイトルの秀逸さが大ヒットに少なからず影響しているはずだ。

「邦題」って実に奥の深い世界だと思う。英語圏とはまるで違う言語を使っているわけだから、原題のニュアンスなんて分かるはずがない。

その昔、トム・ハンクスが主演した大ヒット映画『プライベート・ライアン』は、原題のまま日本で公開されたが、あの場合の「プライベート」は、「二等兵」の意味だ。

私自身、随分経ってからそんな事実を知った。「私的な」という意味だと思っていたから、チンプンカンプンだった覚えがある。でも、『ライアン二等兵』という邦題だと、社会派作品としてのイメージが確立できなかったのかもしれない。


映画史上、邦題の傑作と言えば、『慕情』だろう。ウィリアムホールデン主演の香港を舞台にした切ないラブストーリーである。私も小学生の頃から何度も観た。名作中の名作だ。今も誰かに恋心を抱いたら、必ず『慕情』のテーマ音楽が頭の中で鳴り響いたりする。

原題は『Love is a many splendored thing』である。「愛とはたくさんの輝きに満ちたもの」といったニュアンスのようだ。当時の映画配給会社も悩んだのだろう。邦題次第で興行成績も大きく変わる。『慕情』という言葉自体、分かったようで分かんない言葉だが、アノ映画は、どっからどう転んでも『慕情』じゃなきゃダメだ。

命名した人のセンスに脱帽である。完璧だと思う。

60年代の名作『俺たちに明日はない』というネーミングも実に素晴らしいセンスだ。似たような言葉の言い回しは、数十年経った今もドラマや映画で使われている。原題は『Bonnie and Clyde』。実在した強盗達の名前である。確かにこの原題通りだったら、日本人にはちっともピンと来ない。わずかな文字数で映画の世界観を引き出していると思う。

映画の邦題を上げていてもキリがないが、個人的には30年前の『カリブの熱い夜』が印象深い。


私が何度も出かけたメキシコ・コスメル島が舞台だから思い入れが強い。タイトルからすると恋愛映画みたいだが、実はドンパチ映画だった。原題は『Against All Odds』。

ネットで言葉の意味を調べてみたが、「抵抗にもかかわらず」とか「見込みがない」とかそんなニュアンスの意味みたいだ。ちなみにGoogleの翻訳サイトの素晴らしさ?にはビビった。「Against All Odds」を「カリブの熱い夜」と一発で訳した。どんだけ飛躍してるんだろう・・・。

この映画はロケ地の美しさとフィル・コリンズが歌って大ヒットさせた同名の主題歌が良かった。

https://www.youtube.com/watch?v=wuvtoyVi7vY

主題歌の邦題は『見つめてほしい』である。『Against All Odds』という原題とは逆立ちしたって似ていない日本語である。映画の邦題と主題曲の日本語タイトル。二つもカッチョいいタイトルが生まれたのだから画期的である。

さてさて、映画よりもスンゴいことになっていたのが洋楽である。今でこそ、原題そのままで流通しているが、若者達が洋楽ばかり聴いていた80年代から90年代にかけては、それはそれはヘンテコな邦題が溢れていた。

マイケルジャクソンの『BEAT IT』もなぜだか『今夜はBEAT IT』だったし、やたらと安易に『恋の~』とか『涙の~』とか余計な前置詞が付くことぐらいは朝飯前って感じだった。

スティービー・ワンダーの名曲『心の愛』。よく分からないタイトルだが、なんとなく曲調もしっとりしていて、優しい感じだから一応シックリくる。ただし、原題は『I just call to say I love you』である。直訳すれば「好きだって言いたいから電話したぜ~」である。

シンディ-・ローパーの大ヒット曲『Girls Just Want To Have Fun』。どこでどうスッころんだのか、日本でのタイトルは『ハイスクールはダンステリア』だ。英語の原題が長ったらしいからって、随分と思い切ったものである。やけっぱちみたいなネーミングだ。

ビリージョエルの『Tell Her About It』は『あの娘にアタック』である。なんだかな~である。

もっと凄いのは、Lover boyというバンドがヒットさせた『Working for a weekend』である。誰もが週末を楽しみに働いてるんだぜ~という趣旨の軽快なロックなのだが、日本語タイトルは『それ行け!ウィークエンド』である。

「それ行け!」である。本気で考えた上でのネーミングなのだろうか。実に安直な感じがする。

なんだかんだ言って、一番ヒドいのがトム・ジョーンズの「恋はメキ・メキ」だろう。

『If I Only Knew』が原題だが、歌詞の中に出てくる♪~make you love me~♪
という音の響きだけを捉えて、トンチンカンな日本語タイトルに変身した。

一生懸命歌うトム・ジョーンズの姿も、この日本語タイトルを思いながら見ると、なんとなく切なくなってくる。

https://www.youtube.com/watch?v=EaUmOo4dljc

なんだか、この手の話題を書き続けると、際限なく続きそうなのでこの辺にしておく。

2014年4月28日月曜日

ひとり酒


♪ひと~り酒、手酌酒、演歌を聴き~ながら~♪

「酒よ」BY吉幾三である。

一人で飲む時間が結構好きだ。といっても、この歌のようにドンヨリ暗い雰囲気で飲んでいるわけではない。

ウキウキとまではいかないが、気ままに楽しく酔っ払っている。

シラフだった自分が少しづつ酔っ払う感じがいい。誰かと一緒だと酔っていく過程に気付かない。ひとり酒だと段々と視界が狭くなってフワフワしていく感覚を実感できる。

酒様々!と思う瞬間である。

高いユンケルを飲もうが、エゾエースとか赤まむしドリンクを飲んでも、酒のように自分が変化する実感はない。


酒を飲んで酔っ払う感覚に気付いた古代人を尊敬する。世界中で大昔からいろんな酒が開発されてきたわけだから、飲酒自体が人間の業みたいなものだろう。

日本でも昔は、酒イコール神事だったらしい。処女の巫女さんが口の中で長い時間噛み続けた米をツバと一緒にツボに吐き出し、発酵させて酒を醸したという。

結構気持ち悪い話ではある。

酔っ払うこと自体が一種のトランス状態だから、酔うこと自体が神がかり的な意味合いで受け止められていたのだろう。

今の時代、口噛みの酒などというゲテモノを飲まずとも、ウマいアルコール飲料はテンコ盛りだ。考えてみれば何て素敵なことなんだろう。

先人への感謝、神への感謝を込めて日々飲み続けないといけない!

話がそれた。

一人酒の話だった。

一人で飲む場合、料理屋さんだろうとバーだろうと、カウンターに陣取るケースが多い。

目の前の板前さんと話をしたり、お運びのオネエサンをからかったりするだけでなく、近隣の客の会話に聞き耳を立てることもある。

他人様の話を盗み聴きするのは趣味の良い話ではないが、カウンターでホゲホゲ飲んでいれば、いやでも隣のオヤジの話が耳に飛び込んでくる。

思えば、このブログだって、そんな聞き耳のおかげでネタにつながったこともある。

以前、とある居酒屋でホモ同士と思われる男二人が歌舞伎装束の香川照之の画像をスマホで見ながらやたらと萌えまくっていたのには笑えた。

小学校の時、学芸会で同じ舞台に上がったことを自慢?したかったのだが、ソッチの趣味はないので、ダンボ耳状態で彼らのディープな話を聞かせてもらった。

ワイ談に精を出すオッサン達にもいろいろな種類がある。実際に第三者として聞いていると、単なる下品話とセンスの良い色気話とでは随分差がある。

誰それとヤッただの、ヤリたいだの、そんなゲスな話をしているオッサンはたいてい顔付きもチンチクリンである。

まあ、私も人のことは言えない。悪友なんかと飲む時には、きっとチンチクリンな顔でくだらないワイ談に精を出しているはずだ。

先日、某所で聞き耳を立てたワイ談は悪くなかった。文字にするとロクでもないのだが、貝類を女性に見立てる例の話?だった。

貝の種類に詳しい中年男の解説が具体的かつ文学的で何とも情緒があった。今の季節ならではの生のトリ貝のような旬な?話も盛り込まれる。アワビに至っては肝の形状とかそっちでの役割?に至るまで、まさに微に入り細に入りって感じだった。

勉強になった。フムフムと聞き入ってしまった。

最後のオチも良かった。

アサリやハマグリ、シジミあたりを料理する際には、熱を通すことで貝はパックリと口を開く。

人間の女性も同じ。気持ちが高まって熱くなれば準備OK!みたいなまとめ方だった。

あれ以来、シジミの味噌汁を飲むたびに、パカッと口を開けた貝を眺めて、乱交みたいな情景を思い浮かべて怪しい気持ちになる。私もかなりアホである。

一人酒の話を書いていたつもりが脱線してしまった。

一人で飲んでいると自分の飲んだ量がはっきり分かるから安心である。仕事飲みのお酌合戦とか、ホステスさんにガンガン水割りを作り直されると気付かぬうちに飲み過ぎる。

そんなことより、イヤでも自分と向き合う時間が持てることが一人酒の醍醐味だろう。

私もいっぱしのオトナだから、「自分探し」などというチンケな趣味はない。あくまで日常のヨモヤマ事を自分なりに頭の中で整理できる効用が大きいと思う。

日々、雑多なことに追われていると、おろそかになるのが「考えること」である。周りを見ても「考えない人」が妙に多いように思えてならない。

少しエラそうな言い方になるが、自分の頭で考えずに、ただ惰性で行動している人があまりに多い。

ちょっと考えれば分かることでも、すぐに誰かに頼ったり、指示を仰ぐことが習い性になっている。

あれじゃあ、まるで脳ミソが動いていないのと同じだ。若者ならともかく、30代、40代にもそんな傾向は広がっているように感じる。

極論だが、そういう人ほど一人でシンミリ飲んでみればいい。きっと様々なことに気付いたり、知恵が浮かんだりするはずだ。

でも、そういう人々は、きっと、そんな場面でもスマホの画面に夢中になったままなんだろうなあ。

「沈思黙考」って凄く楽しいのに、実にもったいないと思う。

2014年4月25日金曜日

「天切り松」とか


「やめられない止まらない」。言わずと知れたかっぱえびせんの広告コピーである。

地味なフレーズだが、実に的確な宣伝文句だと思う。

私の場合、キャラメルコーンもカールもハッピーターンも一度食べ始めると、なかなかやめられない。

それでも「やめられない止まらない」というフレーズは、かっぱえびせん専属だと確信している。

いきなり、くだらないことを力説してしまったが、「やめられない止まらない」という言葉を一冊の本のせいで思い出した。


「天切り松」シリーズの最新刊が今年になって9年ぶりに発売された。ようやく読む機会があったのだが、いやあシビれた。相変わらず最高という言葉しか浮かばない。

浅田次郎ワールドの魅力が最大限に詰まったシリーズだと思う。今回の作品が第5巻になるのだが、読み始める前に復習のつもりで第4巻をパラパラめくってみた。

面白くて面白くて、結局第4巻も全部読み直しちゃった後で、最新刊に移った。まさに「やめられない止まらない」感じである。

大正ロマンが香る東京を舞台に、いわば「義賊」にも似た活躍をした盗っ人一家の思い出話が独特の話法で語られるという設定だ。

義理と人情に厚く、イキでいなせな盗っ人一家の逸話が威勢の良い江戸弁で彩られている。

一種のオムニバス形式でいくつものストーリーが展開しているのだが、歴史上の有名人物が随所に登場してくるところが面白い。

これまでも東郷平八郎、山県有朋、愛新覚羅溥傑、竹久夢二、永田鉄山あたりの渋めの著名人が登場する。永井荷風なんてしょっちゅう出てくる。

今回は、昭和7年、初来日したチャップリンが5・15事件に巻き込まれそうになった逸話が巧みにストーリーに組み込まれていた。

小説の好みなど極めて個人的なものではあるが、この「天切り松」シリーズは、小説というエンターテイメントの面白さがすべて詰め込まれていると感じる。

大正以降のモボモガに代表される大らかな空気と、一方で戦争に向かって確実にキナ臭くなっていく世相、明治維新から続く薩長支配への嫌悪感が行間から滲み出ていて、作者の超絶的な力量に圧倒される。

最新巻とその前の4巻を熟読したことで、改めて1巻から3巻を読み返したくなった。一気に読みたいから、遠からず予定している少し長めの旅行に持参しようと思う。


こちらの本は、伊集院静さんの最新作。銀座の「夜の部活」で時々見かける御仁だ。実はこの本、筆者との付き合いからか、まとめ買いをしていた7丁目の某クラブがお土産として活用していたようで、私もおこぼれをいただいた。

自分で買いもしないでアレコレ言うのもまずいが、かなり面白かった。割と分厚い一冊だったのだが、寝付けぬ夜に一気に読み切ってしまった。

この作家の作品でおなじみの無頼な男が主人公である。無頼というか、ヤサグレというか、世間からハミ出ちゃった男の話だ。

男として生まれると、若い頃、一度は不良に憧れる。そんな感性を思い返して読み進み、これまた「やめられない止まらない」状態になった。

先に逝く人を失ってから分かる痛み、喪失感というどうすることもできない切なさを噛みしめる男の生き様が描かれている。

私自身、半世紀近くも生きてくると、さすがに人生の機微みたいなものを身をもって知る場面が増えた。

今さら不良になりたいとは思わないし、無頼を気取る純情さも持ち合わせていないが、時々は不毛な思索にふけることだってある。

年相応に押し寄せてくる切なさとかやるせなさとの折り合いの付け方には苦心する部分もある。そんなことで悶々としている。

悶々としたところで何も変わらない。そんなことは百も承知だが、それでも悶々とする。結局はそれ自体を日常の一部だと割り切って消化しようとする。

きっと世の中の中年男は、そんな心の攻めぎ合いを繰り返しながら年を取っていくものなんだろう。

「いかに切なさを肯定できるか」。世の中、肝心な事は結局それなのかもしれない。

何だか堅苦しい言い回しになってしまったが、そんな気分の中年男ならこの一冊は楽しめるはずである。

いまさらだが、本はいい。ひとときでもそっちの世界に没頭させてくれる。ジンワリと何かが心ににじんでくるような読後感の本をもっともっと読まねばなるまい。

2014年4月23日水曜日

客室露天風呂の楽しみ方


旅行好きを自認してウン十年過ごしてきた。国内ではホテルより旅館を選びたくなる。温泉に浸かって鼻歌を歌うと旅に来たことを実感する。

先日、岡山に行った際には倉敷の日航ホテルに泊まったのだが、近隣の旅館を選ばなかったことを後悔した。

地元では上等なホテルという触れ込みだったが、ルームサービスすらやっていない二流ぶりで、値段だけが上等なビジネスホテルだった。


さて、温泉旅館の最近の風潮が部屋に専用の露天風呂を設けるパターンだ。ここ10年ぐらいで一気にポピュラーになってきた印象がある。

普通の客室との価格差も昔よりは縮まってきた。それでもあまりに安価だと、壁に囲まれた眺めも無い狭い空間に、急ごしらえで小さな浴槽を置いたようなオヨヨなことになる。慎重に選ばないと満足には程遠い結果になる。

部屋の露天風呂自体は良い感じなのに、ただの沸かし湯というパターンも多い。ちゃんとした温泉を部屋まで引っ張っているかどうかも大きなポイントだ。

ということで、「露天風呂付き客室」と一口に言ってもピンキリである。北海道から九州までアチコチで実際に宿泊してきたが、「眺め、浴槽の広さ、泉質、解放感」すべてを満たすのは数えるほどしか無かった。



箱根仙石原の「仙郷楼」、登別「滝乃家」、愛媛・道後の「道後館」、熱海「石亭」あたりの客室露天風呂は、ちゃんと源泉がガンガン使われていて快適だった。

箱根と登別は濁り湯だったから尚更風情タップリで、登別のほうは、目の前に拡がる山の斜面に鹿が歩いていたりして何とも情緒があった。


函館・湯の川温泉の「湯の川プリンスホテル渚亭」は、客室露天風呂が日本一多いという触れ込みの宿。ベランダスペースに急ごしらえしたような風呂もあるが、何と言っても眺めが最高だ。

風呂に浸かりながら津軽海峡が眼下に広がる。夏場はイカ釣船の漁り火が水平線にきらめく。なかなか得がたい体験が出来る。

その他、記憶をたどってみたら結構アチコチで露天風呂付きの部屋に泊まってきた。箱根・芦ノ湖の「佳松」、北海道・定山渓の「翠山亭」、群馬・老神「仙郷」、香川・琴平「琴参閣」、湯河原の「白雲荘」、同じく「海石榴」、伊豆長岡「正平荘」、伊東「淘心庵米屋」、河口湖「湖山亭うぶや」、長野・上諏訪「鷺乃湯」、広島・鞆の浦「汀邸・遠音近音」、島根・玉造「長生閣」、群馬・伊香保の「木暮」などなど。

善し悪しはそれぞれだったが、細かいことはさておき、好きな時間に好きなことをしながら露天風呂にドップリ浸かれるのは至福の時間である。

妻子持ちだった頃は、妻子と行った。子どもが小さい場合、周りを気にせず温泉気分を味わえるのがメリットである。

もちろん、恋人同伴でムフフな旅の時もあった。いやでも親密度は増す。濁り湯ならお連れ様の恥じらい?にも対処しやすい。

一人旅の時にもたまに露天風呂付きの部屋に泊まる。贅沢だが、いろいろ気持ちが煮詰まった時などは思い切って散財するのも悪くない。あまりチープな空間だとリフレッシュできないから、たまの贅沢ならオススメである。

さてさて、専用の露天風呂で何をすべきか。


愛煙家にとっては、露天風呂でプカプカ煙草を吸う時間は最高の贅沢である。他の客がいる大浴場では無理な話である。

私も煙草に限らず、お気に入りの葉巻を持ち込んでノンビリとホゲホゲすることが多い。実に幸せだ。

飲み物を持ち込むのも自由だ。アルコールに限らず、オロナミンCだって普段より美味しく感じる。

冷蔵庫で冷やしておいたピッコロサイズのシャンパンなんかを星空の下で飲むのもオツなものである。非日常を味わえてワクワクできる。

週刊誌や本、マンガを持ち込めるのも客室露天風呂の醍醐味だろう。私の場合、たいてい、気楽なエッセイや週刊誌とか、コンビニで売っているヤクザもののマンガとか「黄昏流星群」みたいな中年向きのマンガを嬉々として読んでいる。

まあ、四の五の語ったところで、部屋に露天風呂がついているト聞くと、結局はラブラブな相手とムフフな展開なんかをニタニタ想像する人カが多いのが社会の常識である。

でも、実際には、そんなことをしたらノボせるだけだし、血圧が上昇して生命の危険?にさらされる恐れもある。中高年だったらやめておいた方が賢明である。軽く酒でも飲みながら葉巻を吹かし、エロ週刊誌を読んでいたほうが安全だと思う。

なんだか、こんなことを書いているだけで、また温泉に行きたくなってきた。また思いつきで出かけようと思ったが、世の中連休シーズンで手配が難しい時期である。

おとなしくしていよう。

2014年4月21日月曜日

中華料理の魔力


今日は、というか、今日も食べ物の話。中華料理について四の五の書こうと思う。

ひとくちに中華料理屋といっても、街場にあるチャーシューワンタンメン880円の店もあれば、高級フカヒレ姿煮ラーメン8800円の店までさまざまだ。

大衆店から超高級店まで、まんべんなく日本人の食文化に浸透している点では、世界のどの国の料理屋よりも馴染み深い。

職場の近くにある気軽な中華料理屋に時々出かける。豊富な種類のランチセットに背を向けて、いつも私が注文するのは「豚肉もやし焼きそば」である。

妙にウマい。麺を焦がした部分も少なすぎず多すぎず、味付けも正しく?濃いめで嬉しい。

私は基本的に昼飯は食べないことが多い。でも、重度の二日酔いで朝飯を抜いた日とか、スサンだ状態になるとこの店の焼きそばが食べたくなる。

一度だけ夜に訪ねたことがある。あんなウマい焼きそばがあるんだから、他の一品料理も上等だろうと思ったわけだ。

結果は、二度と焼きそば以外は注文しないと誓うハメになった。

やはり、何を食べてもまんべんなくウマい店は希少な存在である。中華料理屋のようにメニューがバラエティに富んでいれば尚更だ。

高い値段を取る高級路線の店でも、名物料理はウマくても他の料理はイマイチというケースも多い。


先日、ガッツリ美味しい中華が堪能したくなって、ひょんなことから恵比寿・ウェスティンホテルの「龍天門」に行ってみた。

以前から評判の高い店である。私自身、10年ほど前にワンサカ食べて大満足だった記憶があるが、恵比寿に縁がなかったので、それ以来である。

いやあ、物凄くウマかった。それこそ何を食べても美味しかった。味覚なんてものは個人差があるはずだが、この日食べたモノは全部大当たりだった。

いくつか注文した点心も全部ウマかった。とくに大葉とエビのシュウマイが最高だった。


他にも、あんがかかった福建チャーハンもウホウホ言いながら食べた。この画像はネットから適当にパクってきました。スイマセン。

香港裏町風焼きそばと名付けられた一品も、ネーミング通りのジャンクな雰囲気に仕上がっており、独特な風味がクセになりそうな感じだった。

個人的に「何を食べてもまんべんなくウマい中華料理店」といえば、麻布にある「富麗華」とか銀座の「福臨門」が思い浮かぶが、私の中で、この「龍天門」のランク付けが急上昇した感じだ。

中国にちっとも思い入れはないのだが、割と頻繁に中華料理は食べたくなる。フレンチ、イタリアン、コリアン等々、「外国の料理」というジャンルの中で最も身近なのが中華である。

フカヒレだの北京ダックだのと聞くだけでヨダレが出る。ヨダレどころかすぐに食べに行きたくなってしまう。


龍天門に行った翌日には北京ダックが頭の中に浮かびっぱなしだったので、銀座の「全聚徳」に出かけた。北京ダックの専門店である。

北京ダック以外の料理は、まあまあという感じだが、そんなことはどうでも良い。ここの北京ダックは皮だけでなく身肉も一緒に食べるから食べ応えがある。


皮だけを小皿に盛って、砂糖をドバドバ降りかけて味わうのも全聚徳ならではのお楽しみである。

紹興酒とともに味わうと天国に旅立ったような気分になる。

肝心の北京ダックはウェイターさんがアレコレとトッピングを変えながらいくつも作ってくれる。

今回、大当たりだったのが、この店特性のXO醤を入れるバージョン。甜麺醤とケンカしないかと心配だったが、逆に複雑味が増して美味しかった。


作る人によって不思議と味わいが変化する。薄皮でダックをくるむ時の力の入れ加減というか、締め加減で食感は随分と変わるらしい。

なかなか奥深い世界みたいである。

ということで、ウマい中華料理を食べ続けたので、当然、体重が増えてしまった。因果応報である。

体重計の冷酷な数字が目に入った瞬間、中華料理なんて二度と食わないと心に誓った次第である。

2014年4月18日金曜日

瀬戸内海の春 生シャコ


春である。春は瀬戸内海で魚を食べたくなる。よく分からない理屈だが、ちょこっと岡山に行ってきた。


瀬戸大橋である。相変わらず雄大な姿に圧倒される。日本人はとてつもなく凄いモノを作ったものである。

完成時の日本中の熱狂ぶりも凄かった。20年ぐらい前の話かと思っていたが、記念碑を見てビックリ、もう32年も経っていた。

どうも最近、時間の経過に関する自分の感覚がヘナチョコである。

「最近」という言葉の意味、時間の幅がどんどん拡がっている。冗談ではなく、「平成」はすべて「最近」という感覚である。

この春、わが社に平成4年生まれの若者が入社した。卒倒しそうになった。私に言わせれば、つい最近生まれた人である。

その前にも若い女子とシコタマ騒いでアレコレしていたのだが、あとあと平成生まれだと聞いて複雑な気分になった。

肛門いやがられ、いや、光陰矢の如しである。

話がそれた。旅の話だった。


十数年ぶりに倉敷を散策した。岡山といえば、兵庫寄りの備前焼の里である伊部周辺に出かけることが多かった私だが、今回はそっち方面はパスした。

行けば行ったで、わんさか焼き物を買ってしまうので、万年金欠太郎としては、テキトーな散策で時間をつぶすことにした。

そうはいっても、倉敷にも備前焼の販売店がゴロゴロあったので、ついつい覗いてしまった。でも運良く、観光土産チックな商品が中心だったので冷やかすだけで済ます。


とかいいながら、渋い品揃えの店を見つけて珍しい発色の徳利を衝動買いしてしまった。黒備前の手法で注目されている40代の作家の作品。

個人的にオーソドックスな備前焼以外には興味が湧かないのだが、この徳利には一目惚れしてしまった。

備前の土に黒く発色しやすい別な土を塗って焼成しているのだろうか。景色が素晴らしい。口元の青い発色がなかなか出せないらしい。

掌で転がしながら眺め続けたい一本である。この画像を眺めているだけで、酒を飲みたくなる。まいったまいった。

さてさて、岡山で楽しみにしていたのが、生のシャコである。東京で生シャコを出す店など聞いたことがないが、瀬戸内海エリアでは割とポピュラーだ。

その昔、備前焼の里・伊部の寿司屋で初めて口にして以来、機会があれば食べたくなる珍味である。


想像以上に甘味が強い。エビカニ方面数々あれど、生で食べる時の身の甘さはシャコがトップレベルではないだろうか。

肝臓疾患がある人が食べると、ヘタをすると死んじゃうと聞いたこともある。今のところそこそこ元気な肝臓を持つ私としては積極的に食べておかないとなるまい。


握りで食べる前には、刺身でワンサカ食べた。冷酒と合わせて幸福の絶頂を味わう。画像は食べ散らかした後の頭の部分です・・・。

この店、下調べして訪ねた評判の良い寿司屋。生シャコ以外に、サワラや穴子など瀬戸内海の魚をいっぱい食べた。正直言ってオススメできるほどの店ではなかったので店名は伏せる。


生シャコ以外で印象的だったのは、名産品の黄ニラの握りぐらいだった。まあ、楽しくグビグビ飲んで酔っ払ったから満足する。

やはり、日本中からウマいものを集めている東京の寿司屋で好き勝手に食べていると、味覚が図々しく?なってくるのだろう。

地方に行っても余程珍しいものに遭遇しないと感激できない。若い頃は、地方の安酒場で出される魚にいちいち喜べた。あんな純真さはすっかり消えてしまった。

加齢のせいだけではない、流通事情の劇的な進化が「地方ならではの珍しいもの」をいつの間にか普及品にしてしまった面もあるのだろう。

帰りは高松空港から飛行機に乗る予定だったので、瀬戸大橋を渡って香川県に入る。

橋1本で結ばれているほど近距離だが、瀬戸大橋が出来て、たかだか32年で岡山と香川が融合するはずもなく、四国に入った途端、景色?が変わる。すなわち、岡山では見かけなかった「うどん」の看板ばかり目に入る。

高松は30年近く前に初めてふらっと旅した。当時、東京ではまず見かけなかった本物の讃岐うどんに驚愕した思い出がある。

あの頃、東京でうどんと言えば、「真っ黒つゆにフニャフニャの麺」が一般的で、讃岐うどんのシコシコ感は希少価値だった。

それにしても「うどん県」と名乗り始めた香川県の決断は凄いと思う。恥ずかしげもなくスッポンポンになって歌い出すような潔さである。

うどん関係者以外の県民にとってはオヨヨなネーミングだろう。でも分かりやすくて良い。投げやりというか、開き直りにも思えるが、とにかく英断だ。

確かにいろいろ考えても他の呼び名は無い・・・。


この写真は高松空港で見たオッソロシイ装置である。県内の名産品が陳列されているコーナーの一画に設置されていた。

冗談だと思って半信半疑で蛇口をひねったら、冷たいうどんダシが出てきた。実にビミョーである。美味しいとかマズいとかそういう問題ではない。単なる悪趣味だろう。

変なまとめになってしまった。

2014年4月16日水曜日

ニッポンの洋食


「洋食」。わかりにくい呼び方である。「和食」に対する意味ではフレンチやイタリアンなど西欧料理全般を指すが、明治以降に独自に進化した「ニッポンの洋食」という意味で定義するとニュアンスが異なる。

ということで、私は相変わらずコロッケ、エビフライ、オムライスといった「日本的な西洋風の料理」を意味する洋食が大好きである。

ハヤシライス、タンシチュー、カキフライ、ドリアにグラタン、コーンポタージュ等々・・・。そっち系の洋食である。

街を歩いている時にハイカラな書体で「洋食」と書かれた看板が目に入ったりすると条件反射でヨダレが出てくる。

考えてみれば、私のスペシャル大好物である「とんかつ」もポークカツレツというニッポンの洋食がルーツだ。

名前を日本風に変身させて、味噌汁や漬け物を脇役に陣取らせることで、純日本料理みたいな顔をしているが、あれも「洋食」のひとつである。

ウスターソース、トンカツソース自体が「ニッポンの洋食」のシンボルである。これをビシャビシャかけたくなる食べ物はすべて「洋食」だ。

ウスターソースは、明治時代に欧米から輸入されたらしいが、日本人の口には合わず、改良を重ねて現在の味に進化した。

世界に誇るべき「メイド・イン・ジャパン」の代表だと思う。作り出した先人に心から感謝したい。勲章とか国民栄誉賞をあげてもいいぐらいだ。

有名な老舗洋食店もいいが、適当に入ってみた街場の洋食屋さんがイメージ通りだと妙に嬉しくなる。


先日、西荻窪の洋食屋さんにフラッと入ってみた。三笠会館との関係を思わせる店だったが、メニューを見て、お手軽な価格設定に少し警戒した。

ところが、さすがに繁華街から離れた住宅街に佇むだけのことはある。充分に美味しい。いや、値段を考えればかなり優秀な店だった。

ビックリするほどウマいわけではないが、雑な定食屋とは異質な、「昭和の東京の正しい洋食の味」が楽しめた。

エビフライについてきたタルタルソースもウヒョヒョヒョだったし、ハンバーグのソースもじっくり丁寧に作られていて、自宅の近くにあったら頻繁に通ってしまうだろう。

店の向かいにあるデニーズのほうが断然混雑していたが、ファミレスよりもこっちの店のほうが職人の手作り感が強い。負けずに頑張って欲しいと素直に思った。

別な日、日本橋の「たいめいけん」に出かけた。常に混雑している1階席ではなく、コストパフォーマンスの悪い2階席に陣取る。

正直、2階席の価格設定は高すぎると思うが、ゆったり過ごすための差額だと割り切るしかない。

同じメニューでも3~4割料金がアップするのが2階席の特徴である。一応、素材や調理法を変えてあるとの触れ込みだが、その実態は私には分からない。

まあ、窮屈なスペースでせわしなく食べるより、シャンパンでも抜いてノンビリしたい時なら我慢しないといけない。

冒頭の画像はタンシチューである。口に入れるとニンマリする。ポーカーフェイスで食べ進むことが出来ない感じである。


エビフライも妙に高いせいだろうか、やたらとデカい。最近、エビフライに取り憑かれている私としては大興奮である。

タルタルちゃんもタップリブリブリである。眺めているだけで心が豊かになる。

画像を撮り忘れたが、名物のコキールサンジャックも美味しかった。なんだかキザな名前だが、単に帆立のグラタンである。

タルタルソースをべとべと塗りたくったエビフライにコッテリホワイトソースの帆立のグラタンである。

シャンパンをグビグビ飲み続けてしまう。
白ワイン好きなら、最強最高の酒のアテだと思う。

寿司屋で無理やり白ワインを飲むんだったら、こういう料理と一緒に味わったほうが健全かつ自然だと思う。

さてさて、メインイベントはオムライスである。こんなもの毎日食べたらコレステロール過多で早死に必至である。そのぐらい卵どっさりだ。



うやうやしく登場する時はチキンライスの上にオムレツがプルル~ンっと乗っかっている。

ひとしきりそのセクシーな姿を視姦したら、おもむろにオムレツをかっさばく。

ふわん、ポワン、ドシャ、ベロン、でろでろ~って感じで崩れたオムレツがチキンライスを覆い尽くす。辛抱タマランちん状態である。

専用のトマトケチャップをデロリと塗ってガッツリと頬張る時の幸せをどうやって表現すれば良いだろう。完璧なる幸福感である。

味なんてどうでもいい。その視覚効果、そしてドッサリ卵とケチャップとチキンライスが渾然一体となって、口の中に拡がるその事実だけでエクスタシーである。

摂生のために、ちょこっとだけ食べようと思うのだが、まあ無理である。あるだけ食べてしまう。

この手の店に行くときは、お相撲さん並みの大食漢でも連れて行ったほうがいい。じゃないと必ず食べ過ぎる。

それにしても、いわゆる「ニッポンの洋食」って無条件でウマいと思う。ミシュランの星付きとかの得体の知れない西洋料理の高級店でうやうやしく出てくる料理より間違いなくウマい。

でも、世間一般の目は、「得体の知れない西洋料理の高級店」ばかりモテはやす。ニッポンの心ともいえる洋食のエゲツないまでのウマさを声高に叫ぶ人が少ないように思う。

ということで、エビフライとかオムライスとか、そっち方面の爆裂的美味なる状況を今後もしつこく讃え続けていくことにする。

2014年4月14日月曜日

月の灯り



時々、夜の道を歩きながら月を眺める。

別にセンチな気分になったり、ロマンチストを気取るわけではない。ふと月が目に入ると意味もなくボケっと眺めてしまう。

その昔、月を見つめることが不吉と思われていた時代があったそうだ。平安貴族などは水面や杯に映した月を愛でたらしい。

ちょっと分かる気がする。

怪しげな月の光には人知を越えた力がある。吸い込まれそうな不思議な気分になる。

もう20年以上前に、「月の魔力」という本を読んだ。月をめぐる不思議なエピソードや具体的なデータが網羅された面白い一冊だった。

人間の身体は大半が水分で出来ているから、潮の干満と同じく、月の満ち欠けでさまざまな影響が出ることはよく知られている。

本の中で客観的なデータとともに紹介されていたのは、満月の夜に凶悪事件が起きやすいとか、狼男伝説も満月の夜に急に体毛が伸びた事例が起源になっているとか、実に興味深い話だった。

月見と言えば満月である。平安時代の人々が、直接月を見ないようにしていたことも理にかなっていたのかもしれない。

人工的な灯りが街中を照らす今の時代と違って、昔の人は自然との関係が濃密だったから、月への想いとか畏怖も想像以上に強かったのだろう。

ネオンなんかまったくない時代に、中秋の名月を見たら、かぐや姫伝説が生まれるのも当然だと思う。

ちなみに今月は明日が満月である。

満月の日には、感情が不安定になりやすいそうだ。大事なデートの予定がある人は延期をオススメする。

さてさて、月と言えば秋が代名詞だが、春の月もなかなか趣がある。

「朧月」。おぼろ月である。ボンヤリかすんでいる状態が「おぼろ」である。春は空気中の水分が多いから、月の光も潤んだように見えるらしい。

それなりに情緒があって悪くない。生暖かくなった今の季節、見晴らしの良い場所でボンヤリと月を眺めるのも一興だと思う。

冒頭に載せた画像は、何年か前に網走で見た月だ。

午後の遅い時間だった。流氷を見に岬に向かってクルマを走らせていた時に、やけに神秘的だったので思わず見とれてしまった。


月の表情は季節や場所で随分と変わる。この写真は函館の初夏である。津軽海峡に浮かぶイカ釣り船の漁り火を月が見学しているような光景だ。

携帯電話のカメラでもそれっぽく撮影できたぐらい空も海も明るかったことが印象的だった。


こちらはバリ島のリゾートにて。ビーチ沿いのレストランは月灯りが最高の装飾になっていた。昼間の灼熱ぶりと好対照な優しい光のトーンが綺麗だったから、頑張って一眼レフを手持ちで撮影した。


バルセロナの海に浮かんでいた三日月は、スマホで必死に撮ってみた。イマドキのスマホはなかなか頑張ってくれる。

もともと、月を撮影する趣味はないのだが、印象的な月が目に入るとついついシャッターを押したくなる。

本格的に月の撮影方法を研究して、新たな趣味にすれば結構楽しいかもしれない。

そうはいっても、神秘的な月に出会えたら、カメラをいじくり回しているより、肉眼でしっかり愛でたほうが健全な気もする。

なんだか話がまとまらなくなってきた。

ちなみに、やたらめったら願望が多い私だが、以前から憧れているもののひとつがナイトレインボーと呼ばれる夜の虹だ。

南太平洋やハワイ、日本でも石垣島とか屋久島あたりで見られるという究極の神秘的光景である。

満月前後の強い月の灯りが「地上における最高の祝福」と言われる現象を引き起こすそうだ。

死ぬ前に一度でいいから見てみたいものである。

2014年4月11日金曜日

嫌いなモノ・・・・

スパゲッティナポリタンである。イタリアには存在しない純日本料理?である。時々無性に食べたくなる。昭和の味である。

この日、ナポリタンがやたらと美味しく感じた。しばし理由を考えてみた。

そして気付いた。ピーマンが入っていない!実にお子ちゃま向けだが、その一点が美味しさの最大の理由だった。

筋金入りの野菜嫌いとして生きている私だが、年齢とともに若い頃の志も揺らぎ、時々野菜をムシャムシャ食べてしまうことがある。

そんな軟弱な私でもピーマンだけは一貫して忌み嫌っている。色もイヤだし味も最悪だ。

ピーマン好きな人、ごめんなさい。

その昔の人気番組「料理の鉄人」では、冒頭、鹿賀丈史が生のピーマンだかパプリカをかじるシーンがあった。アレを見ちゃうと、その後どんなウマそうな料理が出てきてもダメだった。

私の頭の中は「ピーマン生かじり」のブキミさだけが印象に残った。ピーマンは敵である。いや難敵と言ったほうが的確だ。

苦いからマズいのではない。「マズいのに苦い」のがピーマンの恐ろしさである。手の付けようがない悪徳ぶりである。

ピーマン。名前自体が気色悪い・・・。レタスとかキャベツ、トマトだったら音の響きも悪くないが、ピーマンって何だ?売れないミュージシャンみたいな響きである。

意味不明でスイマセン・・・。

チンジャオロースに入れてどんなに濃い味付けで調理してもピーマンの味と香りは消えない。あんなに自己主張する野菜は珍しい。

クソブスのくせに自己顕示欲ばかり強い最悪な女みたいな感じである。

クソブスで自己顕示欲の強い人、スイマセン・・・。

ということで、今日は最近の「嫌いなもの」をアレコレ書こうと思う。

極めて個人的な意見なのでご了承ください。

うーん、何だか書きにくいのだが思いきって書く。

「ふなっしー」。あれが大嫌いだ。恨みはない。好きな人、ゴメンナサイ・・・。

最近ますますメディアへの露出が増えている。目障りで仕方ない。何が面白いのかサッパリわからない。

「ふなっしー」そのものより、アレを面白がらなきゃいけないような世間の風潮が気持ち悪い。右へならえ!的な無思想な流され感がイヤだ。大げさだろうか。

子どもならいざ知らず、あんな気色悪い着ぐるみを大のオトナが、待ってましたとばかりに微笑ましい顔で見守っている空気がイヤだ。

百歩譲って冷静に見直してみたが、ちっとも面白くもないし可愛くもない。

もともと「ゆるキャラ」とかいう得体の知れない物体どもが好きではない。「可愛いでしょ?」というカマトト的いやらしさがプンプン漂っていて苦手だ。

ジブリの映画みたいな妙な気持ち悪さがある。

書いてしまった・・・。

ジブリ好きな人、ごめんなさい。

なんだかジブリ作品だと言うだけで、熱狂的に支持しなければいけないみたいな空気が漂っていないだろうか。

文句すら言えない大政翼賛会?的な、集団ヒステリー?的な、そんな雰囲気がメディア中に広まっているみたいで落ち着かない感じになる。

ゆるキャラと同じで、子どもが熱狂している分には気にならないのだが、オトナが大騒ぎして有り難がっている風潮が妙にひっかかる。

叱られそうだから話題を変える。

朝っぱらのワイドショーがこぞってやっている「占い」が苦手だ。自分の星座の運勢が最悪だと言われたら朝からイラつく。

占いコーナーになったらチャンネルを変えるのだが、しばらく経つとそこでも占いが始まる。せめて順位付けせずにそれぞれの星座のラッキーーカラーとか、良い点だけを紹介して欲しいものだ。

テレビと言えば、子どもに毛が生えたような女子アナがシタリ顔でコメントするのも気持ち悪い。

ニュースを棒読みするだけだって、落ち着いたオトナにやってもらいたいのだが、学生みたいなアナウンサーが社会問題について感想にもならないような感想を無理矢理難しい表情を作って話し出すとムシズがはしる。

こういう感覚自体が私自身の加齢の証明なのだろうか。時代から取り残されているのかもしれない。

ちっとも面白くないお笑いタレントが騒いでいるバラエティー番組もそうだが、世の中、高齢化社会と言いながら、テレビの方向は若者目線のままだ。

くだらない番組が多いからオトナがテレビから離れたのか、オトナがテレビを見ないからくだらない番組が多いのか、間違いなく前者だと思う。

さてさて、テレビ論を展開しても始まらない。

「嫌いなもの」の話だった。

「プロ意識のない人」。これも昨今、恥ずかしげもなく増殖している。

お金を取る以上、どんなジャンルでもプロである。こういう常識が通用しなくなっている。

レジ打ちの仕事だって、バイトだとしてもプロである。こんがらがって上司を呼んできて、その指導を仰ぎながら客を待たすなんてことは「恥」でしかない。

私の場合、そんなもんに文句を言うほど親切ではないから、おとなしく舌打ちしながら待っている。問題は、そうしたお粗末な展開をバイトも上司も恥だと思っていない昨今の空気である。

恥の意識がない人間は成長もない。「恥」を感じない人が増えていることに腹が立つ。

タクシーの運転手も同じ。「新人なもんで道に詳しくないんですよ」とか言われることが多い。本来、それ自体、プロとしてダメだが、ある程度仕方のない話ではある。問題は、図々しく堂々と居直っているヤツである。

そんなタクシーに当たると、我慢するのもイヤなので、とっとと降りることにしている。

誤解のないように言うが、たとえば、お茶の水から銀座だったり、池袋から新宿だったり、そういう単純なコースなのに、一切悪びれずにこちらに道案内をさせようとするヘタレの態度が気に入らないわけだ。

こんなテーマで書き殴っていくと際限なく文句をつらつら並べ立てそうだから、もうやめよう。

怒りっぽくなったり、偏屈になるのは、年を取った証拠である。

そのことに腹が立つ。

2014年4月9日水曜日

宗教とか畏怖の念とか


時代とともにバカ親が増えているそうで、学校現場はクレーム対応が重要業務になっているとか。

「いただきます」「ごちそうさま」というセリフにまで文句を付けるアホ親もいるそうだ。

給食費を負担している以上、そんなセリフを学校に言う必要は無いという屁理屈でねじ込んでくるらしい。

本来、「いただきます」、「ごちそうさま」という言葉は、作り手やお金を出してくれた人に言うものではない。

あくまで「命をいただきます」、「命をごちそうさま」というのが大元の語源である。

日本人の伝統的、習俗的な感性に基づく基本的な挨拶みたいなものである。学校に文句を言う筋合いの表現ではない。

日本人は古来、「八百万(ヤオヨロヅ)の神」を信じ畏怖の念を抱いてきた。一種の土着信仰的な宗教観だろう。

すべてのものに神が宿るという感性は、ことさら特定の宗教に依存するまでもなく、日本人独自の道徳心を高めることにつながった。

何百年、いや千年単位でつないできたそうした感性が日本人の規律維持や情緒面にまで影響をもたらしてきたわけだ。

ところが、敗戦を契機に、それまでの価値観が否定され、「旧式の感性=間違っている」という乱暴な図式で物事が片付けられる場面が増えてしまった。

敗戦からおよそ70年。アチコチでじわじわとヘンテコな事態が生じるようになってしまったのだろうか。空恐ろしいことだと思う。

宗教観というと大げさで誤解を招きかねないが、正しく畏怖の念を持つことの大事さを痛感する。

自然界の全てのものに神が宿ると信じてきた日本人の宗教観は、乱れた生活を正すために普及した西欧社会の宗教観とは大分違うのだろう。

墓参りにお寺に行って、その後でクリスマスを祝い、続いて神社に初詣に行く日本人の感覚は無節操といえば無節操だ。とはいえ、長い年月にわたって培ってきた宗教観を思えば、ある意味理解できる。

雨、風、星や月、野に咲く花や森の木々にまで「畏れ」を感じてきた日本人の感性からすれば、畏怖の対象は特定の神様に絞る必要は無いわけだ。

無宗教、もしくはそれに近いということを声高に言う人は少なくない。私自身もそんなタイプである。信心のカケラもない。

一応、実家の宗教は浄土真宗だが、それとて、戒律がゆるいことが先祖代々が檀家になっていた理由だろうと睨んでいる。

死を実感する年齢ではないからなのかもしれないが、自分の墓とか葬式のやり方なんかにも興味が無い。

肝心の自分が死んじゃってるのだから四の五の言っても始まらない。白州次郎だったか「戒名不要、葬式無用」と遺言したそうだが、さもありなんと思う。今のところ、それが本音だ。

アマノジャク感覚で言ってるわけでもなく、ひねくれ根性で強がっているつもりもない。

一応、日本人独特の「畏怖の念」みたいな感性は備えているつもりだ。

畏怖の念などと言うと難解な雰囲気だが、「バチが当たる」とか「お天道様が見ている」とか、そういう習俗的な畏怖心は人並み以上に意識している。

教育とか躾を考える時こそ、そうした「畏怖の念」を大事にすべきだと思う。

今日、こんな話を書こうと思ったのは、娘の中学の入学式でいろいろと思うことがあったからである。

キリスト教の学校に通っている娘は、4月から中学生になった。歴史のあるチャペルで厳かな雰囲気で行われた入学式に父親として参加したことで改めて「畏れ」の大切さを痛感した。

私自身、幼稚園から高校までカトリックの学校に通った。夏にはひんやりしていたチャペルに忍び込んで半裸で昼寝するようなアホガキだったくせに、どこか宗教的施設や行事に対する「畏怖」は感じていた。

キリスト教を信じる信じないという次元ではない。節目節目で「恐れ」とはまったく異質な「畏れ」という感覚を学び、味わったことは意味があったと思う。

日々、勝手気ままな言動を繰り返し、無宗教みたいな顔をしているくせに、「バチが当たる」などの日本的畏怖心はしっかり自分の行動規範に影響している。

私が持つ畏怖心がたとえ日本的土着宗教観に根ざしたものだとしても、やはり幼少期から長年叩き込まれたキリスト教教育が影響した面はあると思う。

スポンジみたいに何でも吸収する年代に、しつこく「目に見えないものへの畏れ」を言われ続けたのだから、キリスト教だろうが仏教だろうが、自然と宗教心みたいな感性は刺激されていたのだろう。

在学中はイタズラの罰として、しょっちゅうマリア像を磨かされ、宗教の授業は睡眠時間にあてていたアホガキが卒業してウン十年経ってから、こんな殊勝なことを思っている。

宗教教育、あとからジワジワ効き目が現れるのだろうか。

ちょっと不思議な気分だ。

2014年4月7日月曜日

インド料理


ここ20年ぐらいでやたらと増えたのがカレーの店だ。インド、パキスタンなど一応特色はあるようだが、ココイチとかとは違う、いわゆる本場っぽいカレー専門店だ。

わが社の近辺にも徒歩5分以内の範囲に3軒もある。どこもそこそこ美味しい。サラリーマンのランチに人気があるのも頷ける。

そのうちの一軒に時々出かける。複数のカレーを選んでサフランライスかナンをモリモリ食べて1000円程度だからバンザイである。

そう言いながら、私の場合、ランチメニューには無い「ビリヤニ」(炊き込み御飯とかピラフみたいなもの)を無理矢理作ってもらって、2ピースほどのタンドリーチキンをお供にガッツリ食べたりする。

アマノジャク精神のせいで、ついつい周囲の人と違うものを食べたくなるのだろうか。タチが悪い・・・。

四半世紀ほど前、インド料理屋さんは今ほど街中に溢れていなかった。私にとって時々出かける専門店は「ハレの食事」みたいな感覚だった。

デートの時もよく利用した。大学生の頃にちょこちょこ行った六本木の「モティ」では、やはり大学生だった長嶋一茂になぜかやたらと遭遇した。彼はいつも美人を連れていたことを思い出す。

他にも銀座の「アショカ」、「デリー」、渋谷の「ムルギー」などに出かけてヒーヒーフーフー言いながらカレーを食べていた。

麹町の「アジャンタ」は、通っていた学校に近かったから、子どもの頃に「アッチの本格カレー」を初体験した店でもある。

昭和50年代の話である。衝撃だった。辛さにビビっただけでなく、「母親のカレー」もしくは「ボンカレー」ぐらいしか知らなかった少年としてオッタマゲる味だった。

今もアジャンタには時々出かける。老舗中の老舗だけに、最近乱立したようなカレー専門店とは料理の種類や味わいの奥深さが違う。時々無性に食べたくなる。



銀座の「ラージマハール」も都内では結構古いほうだと思う。先日、10年以上ぶりに出かけてきた。

中央通りの雑居ビルの上の方に位置するこの店は、外からは想像できないほど広い。イマドキの喫茶店に毛の生えたような窮屈さばかり感じる店とは違い、ゆったり過ごせるのが良い。

タンドール料理と言うのだろうか、タンドリーチキンなどを作る例の窯を使った一連のメニューが美味しい。

タンドリー系のエビや魚の美味しさは、一等地に長く店を構える老舗ならではの安定感がある。エビもプリプリでシャンパンとか白ワインを合わせてグビグビ飲むのも悪くない。



カレーの種類も豊富である。昔ながらの専門店らしいクドい味付けである。こってり系が特徴的な印象がある。でも素直にウマい。ライスだろうがナンだろうが、ガンガン食べ進んでしまうような味だ。

二人で出かけたとしたら、それぞれが3種類のカレーが選べるメニューを注文すれば合計6種類のカレーが堪能できる。

ちなみにインドカレーを食べたい気分の時は、間違いなく空腹マックスの時である。

必然的にドカドカ食べてしまう。この年になるとあの手の料理をがっつり食べると胸焼けにつながるのが残念な問題である。

予防策は適量にとどめておくことしかない。でも、わざわざインド料理屋に闘いを挑みに行って適量で済ますなどという行動はヘタレの極みである。

全裸で横たわるセクシー美女に手招きされたのに、おでこにキスをしただけで帰ってくるようなものである。

そんな非常識で野暮なバカになるのはゴメンである。あんなこともこんなこともしないとマナー違反である。

ということで、店を訪ねるからにはアレコレ味合わないといけない。私の場合、食前に太田胃散をカッチリ服用して試合会場に臨む。そして、たらふく食べ終わったあとは、医者から処方されている胃散を抑える薬を飲むことにしている。

こんな工夫?を心がけるだけで、何とかその後は平穏でいられる。でも、そんな努力をしないと無事では済まない年齢になったことが切ない。


長嶋一茂も同じように苦労しているのだろうか。

2014年4月4日金曜日

いい女


「いい女」。実に抽象的な言葉だ。でも、気になるフレーズである。瞬時に反応したくなる。

グラビアに出てくるボッキュンドッカ~ンみたいな体型の人を「いい女」と思う男もいれば、頭脳明晰で地味なリケジョこそ「いい女」だと思う男もいる。


まさに定義など無い。もちろん「いい男」だって簡単には言い表せないし、結局は個人個人の趣味嗜好の世界ということになる。

極論すれば「悪い女」以外はみんな「いい女」である。スットコドッコイみたいな結論だが、私にとってはそれが真理だ。

昔から「悪い女」に引っかかってしまうマヌケな私が言うのだから間違いない。

なんだか話がこんがらがってきた。

軌道修正。

恋愛に対する考え方は、「愛されるより愛したい」のか「愛するより愛されたい」のか、基本的な立ち位置で変わる。

何だかんだ言って、場面場面でその両方の感覚を併せ持つのが人間の業だと思う。

こちらが犠牲を払ってでも愛したくなる女性は「いい女」だし、愛されていることを節目節目で実感させてくれる女性も「いい女」である。


あれこれとゴタクを並べているが、結局「いい女」の定義は分からずじまいである。この画像のようなカッコでデートしてくれる人は間違いなく「いい女」である・・・。

さてさて、最近つくづく思うのだが、男も女も「変化球の使い方」が大事である。ストレート一本勝負では、カドがたつし、何よりバカっぽく見える。

ウソはダメだが、やんわりオブラートに包んだ言葉を上手に使える人は魅力的だと思う。

思ったことを咀嚼せずにすぐに口に出すのはスマートではない。頭が悪いというか、センスがない証だろう。

その昔、結構いい仲になった女性がいた。私が結構グイグイ攻め過ぎたので、途中で相手が息切れしたようで、オブラートに包んだ言い回しで適度な距離をとられてしまった。

その時、アホな私は、相手の遠回しな言い方の意味を読み取れず、あとになってヤンワリと避けられていたことに気付いた。

気付いたときの気まずさ、恥ずかしさを今も思い出す。センスがどうこうなどとエラそうに書いているが、あの時の自分のマヌケぶりは今もトラウマになっている。

結局、男も女も魅力的かどうかの分かれ目はセンスの有無だろう。空気の読み方を始めとする人付き合いの上でのセンスだ。

この部分がキチンとしている人は、気配りが的確に出来る人である。男女の関係だけでなく、仕事上の付き合い、近所付き合いにいたるまで上手にこなせる人だと思う。

まあ、センスを気にして、あまりこねくり回しても、それはそれで問題である。

♪人の心 
裏の裏は
ただの表だったりして♪

大黒摩季も「ららら~」と叫びながらそんなことを歌っていた。あまり考えすぎても混乱するだけだ。

ポジティブな心を表現するときはストレートに、その逆の時はオブラートに包んだ表現方法ができるようなスマートな人間を目指したいものだ。

ちょっと話を変える。

変化球、オブラートなどと書いてきたが、言い回しの妙で相手に不快感を与えない例を夜の街でよく耳にする。

世の男性どもを上手に持ち上げる職人技を持つのが銀座の女性達だが、彼女たちが職業上、使いこなしている言葉の言い換えには感心させられる。

ただのデブを「頼りがいのある人」、ただのハゲを「男らしい人」と言い換えるのは序の口である。

ガラの悪い横柄な客は「豪快な人」、すぐ怒るタチの悪い客は「エネルギッシュな人」に変身する。

ムスッとして退屈な客は「哲学的な人」や「アカデミックな人」になるし、スケベ丸出しの客は「ノリのいい人」「イタズラっこ」に化ける。

似たような意味でも印象はまるっきり変わる。ウソすれすれと言えなくもないが、
実にマトを得ている。日本語の面白さである。

それ以外に頻繁に耳にするのが「おモテになるでしょう?」という意味不明なフレーズである。

「あんた、モテないタイプね」と言われて喜ぶ男はいない。だから「モテるでしょ?」が乱発される。

私もご多分に漏れず、会話が途切れたり、会話の糸口を探している綺麗ドコロから教科書的なそんな言葉を浴びせられる。

そうはいいながら、デートにすら誘われないのが現実である。

あの世界では、日本語の微妙なサジ加減に夜な夜な男性陣が勘違いさせられる。

「アナタのこと、気になり始めそうです」、とか「好きになっちゃいそうです」等々、世の男性がボケっと聞いているとムフフと思わされるフレーズが飛び交う。

冷静に直訳すれば「アナタのこと、今現在ちっとも気になっていません」であり、「今のところまったく好きではありません」という意味である。

相手を喜ばせながら、実は何一つ核心に迫る話はしていない。言質を取られない巧みな話術という意味で国会の官僚答弁をも上回る凄さである。

おっとっと・・・。「いい女」の話を書こうと思ったのに、結局「悪い女」への恨みつらみみたいな話になってしまった。

まあ、いいか。

2014年4月2日水曜日

神経質VS無器用

春の陽気は窓を開け放ちたくなる陽気である。有り難いことに花粉症の気配もまったく無いので、週末などは、網戸越しにチュンチュン鳥が鳴いているのを格好のBGMにしている。

そんな陽気だとマメに部屋を綺麗にしたくなるから不思議だ。室内の掃除だけでなく、布団を干したり、アチコチ雑巾で拭いてみたり、結構真面目に取り組んでいる。

綺麗好きという言葉とは無縁だった若者の頃が懐かしい。20代の一人暮らしの時は、室内を歩くだけで綿ボコリが舞っていた。

水回りもカビだらけだったし、だいたい、換気という概念自体が無かった。洗い物も面倒だから紙皿を使ってそのまま捨てていた。

紙皿じゃない安物の皿を使うこともあったが、洗いそびれてガビガビになるまで放置して、結局捨てちゃったりした。しまいには自宅から食器が無くなって難儀したほどだ。

掃除はしない、洗い物はしない、換気はしない・・・。あの頃、きっと室内空気の汚染度は相当なものだったと思う。

おそらく、当時の鍛錬?のおかげで、中年になった今でも、空気が悪い場所で咳き込んだり、ツラい思いをすることが無いのだろう。

若い頃の苦労は買ってでもしろ、というが、若い頃の不摂生はオトナになってから活きてくるのかもしれない。

さて、今の一人暮らしになってから、割と綺麗好きに変身した。この年になって汚い住まいに暮らすのは侘びしい。なかば意地になってキチンとしている。

ということで、引っ越しまもなく勇んで「ルンバ」を購入した。お掃除ロボットである。

ところが、最近はルンバ様の出番が激減してしまった。

私の性癖なのだろうか、どうも、動き回るルンバを追いかけてしまう。おまけにヤツが働きやすいように、椅子をテーブルの上に載せたり、床に置いてあるものを整理したり妙に慌ただしい。

「ルンちゃん、そっちじゃないよ~」とか声をかけてしまったことも数知れない・・・。

そんな自分が切な過ぎるので、今では「クイックルワイパー」と「コロコロ」で完結することが多くなった。いつかルンバがシビレを切らして勝手に暴走するんじゃないかと不安な日々である。

普通の掃除機だと、フィルターの手入れがイヤだ。その点、クイックルワイパーとコロコロだと、その場で汚れた吸着面が捨てられるから気分が良い。

実は、両方とも今のマンションで一人暮らしを始めるまでは使ったことはなかった。何となく存在は知っていたが、いざ使ってみたら大興奮状態だった。

楽しい。その一言である。目に見えて汚れが取れて、そのままポイッと捨てられる便利さが素敵である。

洗面台や浴室入口の足下マットは、コロコロに任せるのが確実だ。実際に強力掃除機と比べてみたが、コロコロのほうが優秀だった。

今のマンションは80平米弱の2SLDKである。一部屋は荷物部屋にしているから実質的には1LDKだ。この程度なら掃除も苦にならない。

もっと広い住まいへの引っ越しを考えているが、掃除を考えると二の足を踏む。どうしたもんだろう。

話を戻す。

風呂場のカビ予防に役立つ煙幕みたいな商品も愛用している。バルサンみたいに少量の水を加えることで筒状の缶から煙がモクモク湧き出るヤツだ。

1ヶ月に一度で充分らしいが、そこは富豪である。半月に一度は利用している。効果はそれなりにあるようで風呂掃除が格段にラクになった。

掃除だけではない。今では食事のあと、間髪おかずに洗い物も終わらせてしまうクセがついた。良いことだが、何となく自分が神経質野郎になっていくようで少し不安である。

家事全般について、知らぬ間に自分の流儀が確立されてきてしまった。男の場合、こだわり出すとキリがない。専業主婦のようにうまく手を抜くことを覚えずに一生懸命に努力してしまう。

ちょっとヤバいのではないか。

気付けば週末の行動がパターン化してきてしまった。どんなに疲れていても、どんなに二日酔いがヒドくても、自分流の家事に精を出す。

人として正しいのかもしれないが、こんなことに真剣になっていると、ゆくゆくは意固地な偏屈ジジイになりそうである。

ということで、最近はインターネットで家政婦サービスとかの情報を集めるようになってきた。

何でも自分で出来てしまうのは良いことだと思う。ただ、度を過ぎると、誰かに頼ってみたり、誰かと一緒にいたいという感情さえ消滅しちゃうかもしれない。

社会性の欠落した仙人みたいな老後になるのは困りものである。やはり「無器用な男」でいたほうが人様への感謝とか有り難みが感じられるはずである。

まだまだ朽ち果てずに色恋の10や20はこなしたい?から、自分自身のためにも「なんにも出来ない母性本能をくすぐる男」を目指してみようかと思う。