2020年9月30日水曜日

至福のお茶 東京駅の穴場

日々、タバコを吸うために職場近くのプロントを利用しているが、カフェなどのお茶を飲む業態は意外に奥が深い。

 

渋いマスターがこだわりの珈琲をいれてくれる昔の喫茶店はもはや絶滅危惧種状態だ。

 

増殖する一方のファストフード的カフェも便利だが、時にはちょっと高級路線でやたらとホゲホゲできるカフェで時間を過ごしたくなる。

 

最近私のお気に入りが東京駅にある「TORAYA TOKYO」だ。ようかんの「とらや」が展開している隠れ家カフェ?である。

 

東京駅直結のステ―ションホテルの2階にある。ステーションホテルの2階というより丸の内南口の2階回廊部分に構える。

 



 

丸の内側から見た東京駅の美しさはなかなかのものだ。夜景などはうっとり見惚れる。

 

丸の内口はアーチ状の洒落た造りで、せかせか歩いていると気づかないが、ボケッとのんびり目線を上に向けると壮観である。

 



 

この2階部分の回廊にトラヤのカフェがある。穴場だと思う。和のスイーツがてんこ盛りだ。ケーキだとちょっとクドいという時に最適。上質な煎茶とともにゆったりした時間が過ごせる。

 



 

ようかんだけではなく、生菓子やぜんざいといったメニューが豊富に揃う。夏には高級かき氷もある。

 

お店の規模も広めなので、座席感覚もゆったり、椅子もゆったり。時々、やたらと上品なお爺さんが一人でお茶を飲んでいたりする雰囲気も良い。

 



 

いつも断然こし餡派の私だが、ここの粒餡がやたらと美味しい。最初に食べたときはびっくりしたほど。

 

セットで頼める煎茶がまたウマい。始めに茶葉と湯が用意されて、美味しく飲むための説明付き。普段いかに雑にお茶を飲んでいるかを痛感する。

 



 

すっかりコンビニスイーツのトリコになっている私だが、こういうお店で“本気の甘味”を堪能すると、工業製品的スイーツと文化芸術的スーツの違いを感じることが出来る。

 

甘いモノとお茶をすするために、わざわざこういう店に出かけるのも大人の楽しみ方だと思う。

 

話は変わる。時々、銀座某所にある隠れ家的カフェに出かける。ビルの地下にひっそり?佇む小洒落た店だ。

 

ややメルヘンチックとも言える内装だが、とにかく造りがゆったりしていてノンビリできる。小さい個室もいくつかあって、明るい時間からの密談にももってこい?である。

 



 

アフタヌーンティーをウリにしているようで、それを目当てに来る妙齢の女性客も多いみたいだ。

 

やはり、こういう店で一息いれると、プロントでの一息とは違って心なしかしっかり充電した気分になる。

 

ちなみに、さきほど書いた「トラヤトーキョー」が入っている東京ステーションホテルのロビー階のカフェも雰囲気が良い。

 

ひとつひとつの椅子が大きいだけでなく、空いていればソファ席も少人数で占有できる。ホテル自体が駅舎の中で隠れるように存在しているため、カフェも隠れ家的な雰囲気だ。

 

八重洲側のガチャガチャ感とは同じ駅とは思えない丸の内側の様子は、いい歳したオジサマ、オバサマが過ごす穴場だと思う。

 

皇居側の玄関である丸の内側の風情はさすがに天下の東京駅って感じだ。ただ電車に乗るために使うだけではもったいないと思う。

2020年9月28日月曜日

銀座 連日の焼肉に想う



 

立て続けに焼肉屋に出かけた。私にとっては異常事態である。若い頃に食べ過ぎたせいで焼肉が苦手になって久しい。

 

とはいえ、世の中は焼肉好きだらけだから付き合わないわけにはいかない。なんと2日連続で夕飯が焼肉という事態に陥った。

 

奇しくも2日間とも同じビルの中の店だった。銀座4丁目交差点近く。一件目は「サロンドエイジングビーフ銀座」という店。

 

山形牛の熟成肉がウリらしい。ちょっとバブリーな装飾で若い人には嬉しそうな雰囲気だ。焼肉屋さんの風情もこの30年ぐらいで随分変わったものである。

 

今ではすっかり“焼き奉行”専門の私だ。同行者が食べる肉をウンチクをいいながら焼きまくって、自分はチャンジャかキムチで酒を飲むばかりである。

 

ところが、ここでは店員さんが最適な焼き加減を見極めながら焼いてくれる。贅沢だ。焼き奉行の仕事がないから、私は飲みに専念。



 


肉は熟成タンと通常のタンを一切れずつ食べ比べしたのと、スライスわさびを乗っけて食べる肉を一枚もらったぐらいでツマミばかり食べていた。

 


久しぶりに味わうユッケがとてもウマかった。甘すぎるタレで意味不明な味になっている店も多いが、こちらのユッケは生肉の味わいを堪能できた。

 

銀座でそれなりの店構えの焼肉屋が上等な肉を出すのは当然だろう。焼肉以外のちょっとした工夫やアレンジが気が利いていると、偏屈オジサマである私は途端に嬉しくなる。

 



 

こちらの店で私を嬉しくさせてくれたのが「センマイの三杯酢和え」なる一品。抜群だった。

 

センマイといえばたいていはデロっとした怪しげなタレに付けて食べる。三杯酢和えというスタイルは初体験だったが、個人的にはこの食べ方のほうが断然ウマいと思った。

 

さて、次の日の夜に出かけたのは同じビルの違うフロアにある「にくTATSU 銀座店」。こちらは近江牛の専門店だとか。

 

オーソドックスに自分で焼くスタイルだから、この日は同行者のためにシモベのように肉を焼いて過ごした。

 

20代の頃、一人でカルビ5人前ぐらい平気で食べていた私だが、いまや霜降り肉を見ると胸焼けしそうになる。哀しい退化である。

 

牛丼みたいな出がらし肉だったらドカ食い出来るのに不思議で仕方がない。

 

おまけに近頃のちょっとした焼肉屋では、赤身肉を頼んでも結構サシが入っていて、2枚ぐらい食べれば満足してしまう。

 

この日のヒレ肉も名前の割にはアブラギッシュだったから、結局、キムチだチャンジャだセンマイで飲み専門モードになる。

 



 

とはいえ、何かしらトピックが欲しいからメニューをしっかり点検。すると「タンカツサンド」という気になる一品を発見。この店の人気メニューだとか。

 

煮込んだタンを元にしたタンカツを甘めのソースとパンで味わう。これは大いにアリだ。焼肉にゲンナリしがちな中高年には嬉しい一品だと思う。



 


 

さすがに銀座の一等地に構える店だけあってニクいメニューがあるものだ。こういう新発見が楽しめるなら焼肉屋さんに出かけるのも楽しい。

 

ちなみに2日連続で焼肉屋に行ったのに体重が減っていた。やはりチャンジャやセンマイでは太りようがない。

 

「焼肉屋って案外安いなあ~」などと金満オヤジみたいに感じていたのだが、考えてみれば私は肉をほとんど食べていない。そう考えるとやはり安くはない。

ヘンテコな結論である。

 

 

 





2020年9月25日金曜日

大人の味覚 銀座そうな 築地宮川

欲望の最たるものは食欲だろう。ウマいものを口にすると顔がほころぶ。ウマいものと簡単に書いたが「ウマいものイコール不健康」だ。ここが残念である。

 

かといって毎日毎日美食三昧するわけではない。時々なら健康を気にせず不健康的な悪魔の味わいを堪能すべきだろう。

 



 

ビーフンにカラスミをドバっと合わせた一品である。銀座の隠れ家レストラン「そうな」の人気メニューだ。

 

見た目で楽しんでからぐちゃぐちゃにかき混ぜて味わう。ニンマリする味だ。この日、私は食事の前半に突き出し感覚で注文して、あれこれ食べた最後にもこれをお代わりした。

 

この店、雑居ビルの地下でカウンターのみ。まさに知る人ぞ知る構えだ。コロナで客足は減り、さすがに以前より入りやすくなった。

 

まさに今が穴場だろう。空いているから多少のワガママも言いやすいしマイペースでウマいものを楽しめる。

 

和洋中なんでもあって、それぞれが高水準の味だから有難い。

 





 

酢豚にメンチカツにウニとトリュフのグラタンである。どれも抜群。

 

ウニとトリュフのグラタンはトロりとした卵黄も“エロ濃厚”な味わいを引き立てる。不健康バンザイと叫びたくなる。

 



 

親子丼の上だけバージョンである。どの料理もタマゴの使い方が上手だから、これも絶妙な火加減である。こういうツマミで酒を飲むのは男子の本懐みたいなものである。

 

カラスミ、ウニ、タマゴなどは中高年にとっての“要警戒食品”である。でもウマいんだからしょうがない。いまや背徳感まで味覚を高めているような気がする。

 



 

最後にカレーを味わうのも悪くない。こういうお店がわざわざ用意するカレーがマズいはずがない。炭水化物という悪魔だって私を幸せにしてくれる。敵視してはいけない。

 

好きなモノを好きなだけ食べて満腹になれば、近隣にいっぱいある銀座のクラブに出かける意欲は失せていく。

 

軽く寿司をつまんだぐらいだと、つい夜の部活に励みたくなるが、満腹だと私は家に帰りたくなる習性がある。財布にとっては良いことでもある。

 

別な日、築地にある宮川本廛に出かけた。どこもそうだが、こちらもコロナ禍のせいで以前より入りやすい。

 

ウナギ屋さんに行くと「肝焼き、まだある?」と尋ねるの大人のタシナミだ。さほど混雑していない今の時期は肝焼きも品切れになっていないことが多い。

 



 

きっとこれも不健康食品なんだろう。でも、冷酒をカピカピ飲みながら、山椒をふった肝焼きの苦みを味わうのは至福の時間だ。寿命がちょっとぐらい縮んでもいいかとさえ思う。

 

そして、白焼き、鰻重へと続いていくウィニングロード?である。ちゃんとした店がちゃんと出してくれるウナギは中高年が享受すべきニッポンのウマいものの筆頭格である。

 



 

生まれ変わったらさっさとオジサンになりたい、いや、最初からオジサンに生まれ変わりたいと思えるほど、中年の食欲を完璧に満たしてくれるのがウナギだと思う。

 

ウマいものを食べ続けて、頃合いの良いタイミングで苦しまずにポックリ逝く。どんな功徳を重ねればそんな手じまいが可能になるのだろうか。

 

そんな最期を保証してくれる権利がもし売っていたら、一族郎党の全財産を売ってでも手に入れたいものである。

2020年9月23日水曜日

ランパブと初恋の味

気づけば秋である。今年も残り3ヶ月ちょっとだと思うと、肛門屁の出口、いや、光陰矢の如しである。

 




 

食欲の秋である。今年は夏バテがキツかったから、松茸やら生のイクラが妙に嬉しい。夏が終わったことを実感する。

 

この画像は新富町のお寿司屋さん「なか山」で撮った。シャリが美味しい店なので握りをがんがん食べたいところだが、旬の肴を前にすると酒中心の時間になってしまう。

 

思えば土瓶蒸しは不思議な食べ物だ。夏の盛りには決して食べたいとは思わない。蝉時雨には絶対に似合わない一品だ。

 

ところが、秋風を感じ始めた途端に急に魅力的な一品として浮上する。季語みたいな食べ物である。

 

味に関してもウマいマズいを超越した存在だろう。もちろん、滋味溢れる味わいは単純に美味しいが、あくまで主役を張るようなウマさとは違う。

 

極端に言えば、土瓶の蓋を外した瞬間の香りと見た目がすべてだ。目に飛び込んでくる松茸の姿にそそられ、鼻をくすぐるアノ香りによって脳の中の幸せスイッチが押される。

 

“ファーストアタック”こそが土瓶蒸しの立場を支えているわけだ。ぶっちゃけ話みたいになるが、土瓶蒸しが残り半分ぐらいになると誰もが本音では飽きちゃう。

 

その昔に流行したランジェリーパブみたいだ。入店して最初の5分ぐらいはその光景にドギマギしてムホムホするが、慣れちゃうと何も感じなくなる。

 

我ながら変な例えだと思う。脱線した。軌道修正。

 



 

この日は丸のサンマが無かったのでさばいてあるやつを焼いてもらった。サンマは焼くのが一番だ。

 

肝が無いのは残念だが、握り用だから小骨はいっさい無い。赤ちゃんかお爺さん向けみたいな食べ方だが、見方を変えれば贅沢な一品である。お寿司屋さんならではの焼サンマの楽しみ方だろう。

 

この日はこれ以外に毛ガニを少しもらい、カツオを刺身で味わい、コハダとガリ、たくあんを細かく刻んでもらって酒のツマミにした。

 



 

というわけで、相変わらず握りは少ししか食べられなかった。毎度のことだが、寿司好きとは言えないパターンに陥ってしまった。

 

旬を楽しむ小粋な男のような書きぶりだ。でも、早めの時間にそんなヌルい食べ方で終わってしまうと遅い時間に小腹が空く。

 

こうなると、小粋なつもりどころか最低最悪のヤボな時間が待っている。カップ焼きそばである。

 

なぜ私はカップ焼きそばを自宅にストックしてしまうのだろう。買わなきゃ食べずに済むのにいつだってウチに常備してある。

 

ペヤングがあるとついつい食べちゃうから、ペヤングは買わないと心に決めて実行しているのに、見慣れぬ他のカップ麺を見ると反射的に買ってしまう。



 


カップ焼きそばのアノ毒々しい見た目、毒々しい香り、毒々しい味わい、どこをとっても悪魔的な魅力に満ちあふれている。

 

土瓶蒸しをランジェリーパブに例えるならば、カップ焼きそばはいったい何なんだろう。

 

峰不二子みたいな愛人だろうか。いや、それはそれで飽きちゃうこともあるだろう。数十年連れ添った奥さんだろうか。いや、それもまた意味合いが違う。

 

時々思い出す初恋の人かもしれない。記憶の中で美化され続けて、飽きるどころか、時折無性に恋しくなる。

 

私にとってカップ焼きそばは初恋の味である。

 

意味不明な結論になってしまった。

2020年9月18日金曜日

愛煙家の嘆き

久しぶりに二日酔いになった。今年初である。二日酔いはシンドイが、何だか妙に嬉しくもあった。かつての日常が甦った感じとでも言おうか。

 

一歩間違えばゲロッピーなのに、久々の“日常”に満足してニタニタしながら眠りに落ちた。

 

コロナとともに飲酒量が減り、だいぶ酒が弱くなったのだが、こんなことを繰り返すうちに復活するのだろう。

 



 

さて、日常といえば大きく変わったのがタバコをめぐる環境だ。私の喫煙歴は40年近くになる。何年かはやめていた時期はあるものの、いまだにスパスパする。

 

職場では匂いの出ないプルームテックで凌いでいるが、ほぼ毎日午後に一度は近くのプロントの喫煙席に陣取る。

 

百害あって一利無し。そういう人は多いが、私にとっては百害あっても七十利ぐらいはある。

 

本当に美味しいと思って吸っているのか何度も冷静に確認したが、素直に美味しい。マズいのは二日酔いの時ぐらいだ。

 

マズければ簡単にやめるだろうから、毎日重度の二日酔いになれば禁煙達成だろう。でもその前に肝硬変で死んじゃう。

 

美味しさだけでなく、やすらぎ、憩い、ホッコリ気分といった要素もある。今後も人様に迷惑をかけない範囲で楽しむつもりだ。

 

それにしても世の中の嫌煙ファッショはヒドいものだと思う。昭和の頃を思えば手のひら返しと言っていい。半沢直樹もビックリである。

 

誰もがどこでもスパスパしていたあの頃と現在とで肺ガンなどのタバコ関連死が増えているならともかく、そんな話は聞いたことがない。

 

まるで社会悪みたいに扱われている。困ったものだ。気付けば世界の中でも日本の喫煙環境は劇的に変化した。ヨソの先進国では屋外では結構自由にタバコを吸えるが、日本では屋外がやたらと厳しい。

 

4月からの法令改正で、飲食店は原則みんな禁煙になった。中でもダメ、外でもダメだから不便で仕方ない。

 

もっとも、蛇の道は蛇で、いまだに愛煙家に優しい飲食店も意外に多い。私も喫煙可能な料理屋、寿司屋、焼鳥屋などをいくつかリストアップしている。いまや秘密結社みたいな感じだが、私にとっては精神安定剤のような存在だ。

 

10月からタバコがまた値上がりする。もはや1500円超えは当たり前になった。私が高校生の頃は1150円~180円が普通だったから、3倍の水準だ。


この3~40年でタバコの値段は3倍に跳ね上がったわけだが、もりソバやタクシー料金、牛丼の値段などはたいして変わっていない。


タバコだけが驚異的な値上がり率だ。ほぼ税金なのに大量に買っても誰からも感謝されない。むしろ蛇蝎の如く嫌われる。

 

ヤケクソ気味に書いてしまうが、とっとと13千円ぐらいにしやがれとも思う。そうなれば「ウワ~、タバコをお吸いになるんですね。リッチマンなんですね。ステキ!!」とでも言われる時代になるのではないか。

 

筒井康隆の短編に「最後の喫煙者」という名作がある。30年以上前の作品だが、着実にその世界が現実になりそうである。

 

内容は地球上で最後の喫煙者になった男が嫌煙運動との戦いを振り返るもので、確か最後は軍隊に攻撃されて剥製にされちゃう話である。

 

現代の魔女狩りとも言える嫌煙ファッショがエスカレートしていく風刺の効いた作品だ。愛煙家にはゼヒ読んで欲しい。

 

なんだか、昨今のマスク警察やら自粛警察みたいな風潮も似たようなものを感じる。少数派を排斥するヒステリックな運動がまるで正義かのように勘違いされているのはオゾましい。

 



 

先日、所用で新橋に出向いたのだが、この画像のような素晴らしい喫茶店を見つけた。3階建ての店だが、全館喫煙可能だ。

 

当然ながら繁盛していた。本気でこの店の経営者に賛辞を贈りたくなった。駅に近い一等地だ。さすがオジサンの聖地・新橋である。

 

ほんの10分、20分でも、こんなオアシスで一息入れることで諸々気持ちが切り替わってリフレッシュできるのだから有難い。

 

「全面喫煙」。アマノジャクというか、単に世の中への逆張り戦略ではあるが、都内中心部では確実に需要はある。

 

コロナのせいで社会の在り方が大きく変わってきているが、ドサクサ紛れに「全席喫煙」という潮流が一部でいいから根付いてほしいものだ。

 

今日は純粋に愛煙家の愚痴だ。中身のない話に終始してしまった。しょうがないからプロントで一服してこよう。

2020年9月16日水曜日

死者の数を比べてみる

日本でインフルエンザに感染する人は毎年1千万人前後だ。死者数は3千人ほど。関連死を含めると1万人ぐらいが亡くなっている。

 

新型コロナはこれまでの約8ヶ月で感染者が7万数千人、死者は約1500人という水準だ。

 

ちなみに8月までの3ヶ月間に小中高生で新型コロナに感染したのが1200人弱、半数が無症状で重症者はゼロだったそうだ。

 

感染対策が功を奏したのは確かだが、上の数字を冷静に見比べると、今年初めの“パニック”は何だったんだという気持ちにもなる。

 

もちろん、未知のウイルスだから必要以上に恐れ、神経質になることは必要だ。でも当初言われていたような事態になっていないのは確かだ。

 

もちろん、これから寒くなる季節を迎えるから油断は禁物だが、数字が雄弁であるのも見逃せない事実である。

 

今現在、多くの人の意識や行動様式は「42万人死亡説」が飛び交った今年春の段階とさほど変わっていない。見えない敵が相手だから仕方ない話だが、あの頃と事情は変わってきている。

 

外食は危険、電車は危ない、飲み会は禁止、学校も職場もリモートが当然みたいな風潮は、今年春ぐらいの世情の中で根付いた。

 

毎年インフルエンザでの死者が3千人、関連死を入れれば1万人、交通事故での死者数は4千人(平成の前半は毎年1万人前後)、入浴中に亡くなる人は2万人。

 

そうした数字を見れば、コロナの死者数は少ない水準だ。これをもって生活や行動様式を極端に変える必要があるのかは今一度検証すべきだろう。

 

「薬やワクチンが無いから」。新型コロナに関してはその一点が過剰反応の大きな理由である。

 

もっともだとも思えるが、逆に言えば、薬もワクチンも無いのに感染者数、死者数ともに当初言われたような水準には程遠いわけだ。

 

もちろん、国や自治体は最悪のケースを想定して慎重姿勢で臨む。それを闇雲に責めることは出来ないが、今のまま漫然と自粛の延長みたいな風潮が続けば社会活動はどんどん停滞する。

 

誰もが実感していると思うが、いま世の中を覆っているのはダラけたムードだ。リモート、在宅といったスタイルがもたらした副産物だろう。資源の無い国でダラけた状態が続けば経済は死んでしまう。

 

いまは中途半端な助成金や給付金でギリギリ凌げているケースもあるが、それだってインチキは物凄い数で横行しているし、国や自治体の財布も無尽蔵ではない。

 

とはいえ、全面解禁、元通りで動きましょうと言えないわけだから、私がアーだコーだ書いても始まらない。でも、無節操に何でもかんでも漫然とコロナのせいにしてダラダラしていると社会経済は修復不能のレベルに陥る。

 

今は街の人出も減ったままだ。飲食店やデパート、対面販売の世界で混雑を見かけることは激減した。

 

一説によると人口減少が始まっているこの国の来たるべき近未来の予行演習という見方もあるらしい。

 

確かに20年、30年、はたまた50年後を考えれば人口はドッと減って、高齢者だらけになり、都会のど真ん中ですら今の地方都市のシャッター商店街みたいに淋しい光景に変わっていくことは確かだろう。

 

コロナ禍の今の都市の姿がそんな将来像を物語っているという指摘だが、みすみすそんな悲観的なスタイルを先取りするのもシャクである。

 

最低限の予防に努めながら以前の行動に少しずつ近づける意識を持つこと。当たり前のことだが、ダラけずにこの感覚を維持することを怠ってはいけないと思う。思考停止が一番マズい。

 

2020年9月14日月曜日

鶏チャーシュー問題

以前にも書いたが、私がラーメンに求めるものは豊富なチャーシューである。一切れ、二切れのチャーシューが乗っかっているのは淋しい。

 



 

こういうヤケクソみたいなチャーシューメンは別だが、あくまで口の中で豚肉と麺が絡み合って欲しい。

 

そんな豚野郎のような私にとって近頃気になるのが「鶏チャーシュー」なるシロモノだ。


偏屈オヤジみたいで恐縮だが、「鶏チャーシュー」という意味不明、いや、謎の存在がどうにも腑に落ちない。

 

だいたい、名前自体がヘンテコだ。チャーシューは豚肉である。正式に調べたわけではないが、まず間違いない。

 

中国式と日本式は違うという話は知られているが、根本の素材が豚肉であることは大前提である。

 

鶏チャーシューを別に憎んでいるわけではない。私は鶏肉だって大好きだ。でも「いったいその名前は何なんだ!?」と問いたい。

 

ラーメンに載っている肉はチャーシューだから鶏肉だってそう呼んでやろうという気持ちは分かるが、豚にも鶏にも失礼な話ではある。

 

先日、東京駅そばの「福味」という人気のラーメン屋さんに入った。醤油ラーメンがメインのお店だ。

 

お品書きを見たらチャーシューメンが無い。こりゃダメだと帰ろうとしたのだが、よく見たら「チャーシュー皿」というメニューがあった。ホッと一安心。当然、トッピングするために追加注文した。

 



 

ラーメンは非常に美味しかった。スープもとっても美味しかった。チャーシューも悪くない。でも、普通のチャーシューとともにコッソリ?鶏チャーシューが混ざっていた。

 

いつもラーメンをつい斜めから語ってしまう私だが、この店はかなり満足できた。とても美味しかったからブツクサ言う話ではないのだろう。

 

いや、でも違う。チャーシュー問題を素通りするわけにはいかない。

 

チャーシュー皿と聞けば普通はチャーシューがやってくると思う。ところがこの店では鶏肉とチャーシューが半分ずつだった。

 

チャーシューが大好きな私がチャーシュー気分バリバリで対峙したラーメンだったから、鶏肉は想定外だ。少しションボリしたほどである。

 

それだけ「鶏チャーシュー」というヘンテコな造語が世の中に浸透しているのだろうか。

 

鶏は鶏であってチャーシューではない。私のような偏屈オヤジのために鶏肉バージョンの良い名称はないものだろうか。

 

棒々鶏でわかるように「ジー」とか「チー」が鶏のことらしい。だったら鶏チャーシューではなく「ジーシュー」「チャージー」などテキトーな造語が編み出されればいいと思う。

 

日本語読みで「ケイ」だから「ケイシュー」だっていいし、何だったら「トリシュー」とか「チャードリ」だっていい。

 

うーん、全部イマイチだ。全然しっくりこない。きっと先人達も悩みに悩んで、結局「鶏チャーシュー」という極めて日本的な曖昧かつ調子の良い言葉に落ち着いたのだろう。

 

そしていま、日本中でこのヘンテコ造語がこっそり、かつ確実に着実に大胆に浸透している。いまさら私一人ごときが四の五の言ったところで後戻りできないほど根を下ろしている。


うーん、なんだか釈然としない。モヤモヤする。

 

普通のチャーシューをこよなく愛する私としては完全に負けた気がする。無力感の極みである。切ない。まるでハシゴを外された岸田政調会長ぐらいの切なさである。

2020年9月11日金曜日

銀座のクラブを調査してきた

タイトル通り、久しぶりに夜の銀座に出てきた。8ヶ月ぶりぐらいである。早い段階でコロナの発生源となって一気に社会から目の敵にされてしまったのが銀座のクラブだ。

 

その後、例の宣言中はすべての店が灯りを消し、解除後はとりあえず再開していたようだが、聞こえてくる話は暗い話ばかり。

 

閉店や夜逃げの話を始め、ネガティブな話が基本である。こればかりは仕方ないことだが、ここ最近、賑わう店はそれなりに賑わい始めているようだ。

 



 

確かにコロナの影響で一定の層においてはカネ余り状況になりバブル的な現象も起きている。

 

一般的なメディア報道では打撃を受けた層ばかりがピックアップされるが、逆も真なりは世の常である。イヤな言葉だが、新たな勝ち組が生まれているのも事実だ。

 

私はちっともウハウハではないが、有難いことに今はまだ軽傷もしくは何とか現状維持程度で済んでいる。もちろん、この冬以降の社会情勢によっては予断を許さないが、暗いことばかり言っていても始まらない。

 

さて、そんなこんなで銀座のクラブをジャーナリスト精神!?で取材してきた。

 

いわゆるゴージャス系のそれっぽいクラブと小じんまりとしたミニクラブの2軒を覗いてきた。

 

どこの店もやたらと感染対策に気を配っている話は聞いていた。今回訪ねた店もその通りで、普通に考えれば感染リスクが物凄い高い場所とは思えない状況だ。

 

だいたい、満席でガンガン賑わっているわけではないから、人との距離は取れている。昼時の定食屋や混んでいるおそば屋さんやラーメン屋さんのほうが、よほどビビった気持ちになる。

 

働く人々はフェイスシールドかマスク姿だ。入店の際のハイテクな検温と手指スプレーの徹底なども踏まえれば、世の中の対人商売の中でもとくに注意が払われているのは確かだろう。

 

ミニクラブのほうでも卓上にはやたらとデカいアクリルのパーテーションがセットされていた。

 



 

そりゃあもちろん、不特定多数の人々が行き交うという点ではリスクはある。他人様に対して「安全だからドシドシ行きましょう」などと言うつもりはない。

 

ただ、そのうえでの個人的な感想としては、あそこまで徹底している以上、闇雲に害悪のように片付けてしまうのは少し大袈裟なように思えた。

 

とあるクラブでは席に案内された際に、黒服さんが、まずテーブル全体を消毒スプレーで拭き始めた。かなり徹底している。

 

その数日前に会社の人間数人と職場近くの薄汚い中華料理屋で会食した際は、テーブルはベタついていた。そのほか諸々を考えればそっちのほうがよほどリスクは高かっただろう。

 

まあ、いまのご時勢はあまり夜の街の味方をすると不快に感じちゃう人も多いだろうから、あまり擁護するような書き方は控えよう。

 

その夜はいろいろと話を聞き込んだが、夜のクラブ街はそれなりにお客さんが戻った店とスッカスカの店にハッキリ分かれているようだ。

 

やはり元々持っている顧客の数が決め手みたいである。某有名店は夕方まだ明るいうちからオープンして、お客さんの食事も出前でまかなうなどイマドキっぽい戦略で営業しているそうだ。

 

どこの世界もウィズコロナで知恵を絞っていることを実感した。

 

私も今回ひょんな事で取材?に励んでみたが、やはり以前のように気軽にふらふら訪ねるかどうかはビミョーである。

 

いまや「行かないことが普通」になったのが私にとっての“ニューノーマル”である。既に生活パターンに染みこんでいるから、今後も取材活動を継続できるかはビミョーだ。

 

 

 

2020年9月9日水曜日

カバー曲の魅力

いま買おうか迷っているのが「昭和名曲カバー集」というCD4枚組だ。通販無駄遣いシリーズ?かもしれないが、気になっている。

 

http://www.um3.jp/shop/g/g07219/

 

「音楽のある風景」という通販番組で紹介されていた商品だ。この番組、寝付けない深夜にテレビを付けると必ずやっている。

 

たいていは昔の歌謡曲や青春フォークなどを哀愁タップリに流しながら購買意欲をそそらせてくれる番組である。

 

今回は、昭和の名曲を名だたる歌手達がカバーした全70曲が収録されている。番組では少しずつ収録曲が紹介されるのだが、館ひろしの「夜霧よ今夜もありがとう」と火野正平の「生きてりゃいいさ」に妙に惹かれた。

 

買っちゃいそうである。

 

昔の名曲のカバー曲がハヤり出したのはいつ頃だっただろうか。近年では徳永英明がカバーアルバムを大ヒットさせたことがきっかけになったのだろう。

 

いまや歌唱力自慢の歌手なら誰もが過去の別人のヒット曲をカバーしている。

 

わがハマショー師匠の「悲しみは雪のように」を五木ひろしが歌っているのを聞いた時はさすがに金縛りに遭った。まあ、それは問題外である。

 

以前は“人のフンドシ”的なイメージがあって安直なカバー曲ブームに抵抗があったが、最近は素直に良い曲は良いと思えるようになった。

 

とくに昭和40年代頃の名曲カバーが好きだ。当時の音源だと演奏や音質がちょっと頼りないことが多いが、昔のイメージを踏襲してダイナミックに甦っていると何だか嬉しい。

 

朱里エイコの名曲「北国行きで」を徳永英明がカバーしているバージョンはとくに好きだ。

 

YouTubeで音源を探したが見つからなかったので、ここで紹介できないのが残念。男声のボーカルのほうが合っているかと思ったほどだ。

 

代わりに徳永版の「駅」と「時代」を載せてみる。

https://www.youtube.com/watch?v=0aASgMv5odU

 

https://www.youtube.com/watch?v=Z1RzSEBKLt8

 

コロナで活動再開のめどが立たない我がオジサマバンド活動でも「駅」は何年か前に演目に加えて必死に歌ってみた。

 

アマチュアバンドだからカバー曲を中心に構成するのだが、やはり「駅」は一度は挑戦したい曲だと思う。

 

わがバンドでカバーした曲としては「見上げてごらん夜の星を」の「ゆず」バージョンもある。

 

原曲は坂本九。私が生まれる前の曲である。さすがに大昔的なイメージだが「ゆず」のカバーアレンジがカッチョ良くてそちらをマネさせてもらった。

 

https://www.youtube.com/watch?v=s3f6FIRQVWA

 

久保田早紀の大ヒット曲「異邦人」もアコースティックバージョンで演目に取り入れたことがあるが、この時、参考にしたのは本家の曲ではなく、元コメコメの石井竜也がカバーした曲だ。

 

この人も歌唱力があるので、いろんな歌をカバーしている。「異邦人」とともに八神純子の「みずいろの雨」を貼ってみる。

 

異邦人

https://www.youtube.com/watch?v=ZTdgvq_2Rmc

 

水色の雨

https://www.youtube.com/watch?v=NGUt4l9ksG4

 

 昭和歌謡のなかでも屈指の名曲と言えばちあきなおみの「喝采」だ。さすがに様々な歌手がカバーしている。

 

でも、ちあきなおみを越える世界観を表現できる人はいない。カバーしたくなる歌だが、カバーする人が増えれば増えるほどちあきなおみの凄さが引き立つ。

 

越路吹雪の「愛の賛歌」なんかも同じ次元かも知れない。「あの人だからこその歌」を実感するのもカバー曲を聴く一つの楽しみ方だろう。

 

JUJUの歌う「喝采」は思ったより良かった。ちあきなおみの表現力とは比べられないが、演歌の大御所みたいな歌手がキチンと歌うより味わいがある。

 

https://www.youtube.com/watch?v=aCQxOU0gQYs

 

ちょっと変わったところではクレイジーケンバンドのボーカルの人が熱唱する「あの鐘を鳴らすのはあなた」がなかなか格好良い。

 

男キーだから一緒に歌いやすい。私も運転中に一人こっそりこれを流しながら熱唱しちゃうことがある。

 

あの鐘を鳴らすのはアナタ

https://www.youtube.com/watch?v=XkpQsr9j5Sw

 

 結局、名曲として親しまれている曲は秀逸なメロディーラインと歌詞の物語性がマッチしていることが基本だ。誰が歌っても聴く側の耳にスムーズに入り込んでいる。

 

原曲とは違う違和感もあるが、名曲の持つ力のおかげで聴き込むうちに馴染んでくるケースも多い。

 

昭和の名曲の特徴を極端にいえば、職業作詞家が練りに練った小説のような物語を、これまたプロの作曲家が日本人の耳に心地よい予定調和のようなメロディーで包み込んでいる点だろう。

 

だから年月が過ぎても色あせない。聴いていてどこか安心する。カバー曲には賛否両論があるだろうが、あくまで原曲をリスペクトした復刻という観点で制作されている分には大歓迎である。

 

最後に名曲「喝采」の石原裕次郎バージョンを載せてみる。なかなか渋い。こういうのが染みる年齢になったのかと思うとちょっと複雑だ。

 

https://www.youtube.com/watch?v=4l3TkyGFd3s

 

2020年9月7日月曜日

不摂生を楽しむために

健康オタク。人によっては私のことをそう呼ぶ。意外だ。でも、やたらとサプリや薬を愛用?しているから、見方によっては正しいのかも知れない。

 

とはいえ、運動は嫌いだし、シムで頑張ろうという気持ちは1ミリもない。ヘルシーな食べ物は大嫌いだし、酒も飲むしタバコも吸う。不摂生に罪悪感はない。

 

そんなテキトーな生活なのに、真面目に薬やサプリをキチンと摂取している生活ってヘンテコといえばヘンテコである。

 

血圧や逆流性食道炎、コレステロールの薬は医者から指示されているから仕方がないが、それ以外はすべて自発的だ。

 

ビタミン類、DHA入りのセサミン、ノコギリヤシ、、リジン、プロポリス、、ナットウキナーゼ等々、他にも毎日500㎖の青汁を欠かさず飲む。


 


他にも毎朝、ヨーグルトドリンクのR1や野菜ジュース、ハゲ予防の薬だって欠かさない。

 

飲み合わせの問題も考えて、156回に分けて摂取しているわけだからクスリ漬けみたいな日々だ。

 

慣れているから別に面倒でもないし、ストレスはないが、そうした類いのモノに縁のない人から見れば異常な生活かも知れない。

 

そんなに気をつけるぐらいなら、タバコをやめて酒も控えて適度な運動をすればいいだろう。誰もがそういう。

 

もっともらしく聞こえるが、まったくマトハズレである。

 

私が薬やサプリや青汁をせっせと飲む理由はただ一つ。

 

タバコを美味しく吸い、酒を楽しく飲み、無駄な運動をしないで暮らすためである

ヒネクレ者の強がりみたいだが、本当にそうである。

 

「酒もタバコも女もやらず、百まで生きたバカ」という名言がある。これってフラチな人間の開き直りのようにも聞こえるが、実にマトをえた言葉だと思う。

 

モノのない時代や、はたまた飢饉の時代に暮らしていたら、健康も不健康もあったものではない。ただ生きることに必死だ。

 

文明の発達したいま、おまけに飽食が問題になるような先進国に生まれたことは人類史上的な観点から見れば極めて特異なことだ。

 

生まれる時代が100年違うだけでまるで様相は異なるし、今の時代だって地球の中で生まれる地域が違えば飢えに直面していたかもしれない。

 

人間の身体にとって飽食の状況は決して良いことではない。それによって健康を害して死んじゃう人も多い。

 

だから炭水化物ダイエット、糖質制限、断食道場などなどがポピュラーになる。そんな話は飽食の今だから成り立つ話で、裏を返せば実に贅沢かつ幸せな世界に暮らしている証でもある。

 

私がせっせとサプリや薬や青汁を摂取するのも、それだけ飽食や不摂生を楽しめていることの裏返しでもある。

 

もっとそんな暮らしを続けたいから、一見、健康オタクみたいな取り組みに励んでいるわけだ。

 

健康のためにジョギングを頑張りすぎて心臓マヒで死んじゃう人がいる。気の毒だが、そういう残念なパターンに陥るのはイヤだ。

 

「楽しい不摂生」を続けるためには、一応、ある程度は身体をいたわらないといけない。

 

いわば「不摂生のために健康に気をつける」。これが基本だ。でもそれこそが、QOLQuolity of life)の大原則のように思う。

 

2020年9月4日金曜日

甘い生活

酒も飲むくせに甘いモノも結構好きだ。スイーツ男子と呼ばれるマニアみたいな人は別だが、一般的なオジサマという種族の中では私は結構甘いモノを食べる。

 

娘に連れられてスポンサーとして付き合わされることが多いが、時には率先して糖分過多の時間を過ごす。

 



 

これは日本橋高島屋の新館と本館の間の路地に構える「HUGO&VICTOR」という店のチョコレートパフェだ。パリで人気のチョコレート屋らしい。

 

まあまあウマいのだが、昭和の喫茶店で出てきたぶっきらぼうな?チョコレートパフェがDNAに刻まれている私である。マカロン乗っけて気取っている感じが鼻につく。

 

いかんいかん、素直に喜ばないとただの偏屈ジジイみたいである。疲れ気味で甘いモノが欲しいときにはオススメである。

 



 

こちらは有楽町にある「6th by ORIENTAL HOTEL」という人気のカフェのパンケーキだ。デブまっしぐらみたいな食べ物である。


次の総理大臣の大好物がパンケーキらしい。あの人は以前、スープカレーばかり食べて十数キロのダイエットに成功したらしい。


まあ、そんなことはどうでもいい。パンケーキである。粉モンにバター、ハチミツ、アイスクリームだ。身体に悪そうなモノほどウマいというのが世の中の真理である。

 

江戸時代や戦後の食糧難の時代に生まれていたら絶対に口に出来ないシロモノである。そんなものを味わえるだけで幸せだ。

 




 

東京駅の向かいの商業ビルに入っている千疋屋パーラーのパフェはフレッシュな果物を使っているのがウリだ。果物だから罪悪感を気にせず楽しめる。

 

ただし、バカみたいに高いのが問題である。パフェに2~3千円も払うのは尋常ではない。ある意味、高いからこそ美味しいと感じてしまうパターンの象徴だ。

 

マンゴーのパフェなんてフィリピンだったら10分の1の値段で食べられそうだが、富豪?としてはそういうミミっちいことを書いてはダメである。

 



 

こちらはグッと庶民的なデニーズのかき氷である。素直に美味しい。年々、保守的な性質になっているから、何の変哲もないこういう一品は嬉しい。

 

今年は例年になく夏バテを実感したから、かき氷には随分救われた。ウチの冷凍庫にもかき氷をいくつも常備し、ほろ酔いで帰宅した後に何度も食べた。結局、あずき練乳が一番好きだという事実を確認する日々だった。

 

先日、遅く起きた週末に「朝食にドーナッツ」というアメリカンデブみたいなことをしてしまった。

 

ウーバーイーツである。「クリスピークリームドーナツ」が配送時間15分ほどで頼める状態だったので、6個入りをキャラメルラテとともに注文。

 



 

甘いドリンクを手にドーナッツである。ただただ甘い。正直に言ってウマいとかマズいという次元ではない。甘いの一言である。

 

個人的な感想としてはチョコ系はイマイチでオーソドックスなやつが好みだった。マンゴークリームが入ったやつも悪くなかった。

 

若い女の子もビックリの朝食風景だが、さすがに口の中が甘くなり過ぎて、直後にサッポロ一番を作ってしまった。

 

長生きできない食生活である。

 

つくづく家系的に糖尿の心配がないことが有難い。ご先祖様に感謝である。

2020年9月2日水曜日

邪念、煩悩バンザイ

 安倍さんの辞任に対する感想はただ一つ。辞めるのが遅すぎ。

 

こんな有事の際にずっと国会は開かない、8月はほとんど官邸で働いていない。それだけで充分に国会や政府が機能不全だったのは間違いない。

 


「予備費10兆円」という財政国会承認主義という大原則中の大原則をすっ飛ばしたトンデモ話にしても、国会出席が大変だからという理由だったのではと想像したくなる。

 

おまけにダラダラと無為な日々が過ぎた背景に首相在任日数の問題があったのなら最低最悪な話だ。

 

病気は気の毒だが、病気を理由に批判をしてはいけない空気が広まったことには違和感もある。

 

さてさて話は変わる。経済情勢は悪化の一途だ。ホントに新型コロナは迷惑千万である。

 

経済と聞くと難しいイメージだが、要はカネの流れのことだ。コロナ禍で経済が悲惨な状況になっているのもステイホームなどでお金が動かないからである。

 

買い物をする、集まって外食をする、旅行をするといった行動がチンマリしちゃった以上、政治家や官僚が知恵を絞ろうが経済は停滞する。

 

今のご時世になってつくづく感じるのは、結局、経済を支えているのは「ゆとり」や「ムダ」、「贅沢」といった“必要最低限以外”の人間の行動だという点だ。

 

私自身を例に取っても、ここ半年以上、銀座で酒は飲まない、大がかりな旅行には行かない、スーツも新調していない、女性相手に御馳走や贈り物をする機会も減った。ウーバーイーツだけを潤わせている。

 

羅列してみると、邪念みたいなことばかりである。ひょっとすると経済だ消費だと言ったところで、それを回しているのは邪念や虚栄心、見栄、下心、スケベ心みたいな話ばかりだろう。

 

個人消費なんてものはしょせんその程度のことが原動力だ。人と近づくな、集まるな、移動はするな、家にいろという生活習慣を前提にしたら消費は低迷し経済は沈没する。

 

男女を問わず、見た目を気にしたり、身につけるモノにこだわるのは、他人様の目を意識すればこそである。そこには見栄、虚栄心といった心理がある。

 

デートで高いレストランに行くのもプレゼントを買うのもカッチョいいクルマに乗りたいのも然り。

 

別に男女間に限った話ではないが、人様の歓心をかいたい思惑が消費行動の土台を支えている部分は大きい。

 

今のように人との交流が絶たれていれば人様の目を気にする場面も激減する。経済がメロメロになっちゃうのは仕方がない話。

 

国の経済対策など急場凌ぎになればいい方で、やはり以前のような“普通”に戻らないと何も始まらないのが現実だ。

 

わが国では千兆円単位もの個人金融資産の半分以上を高齢者が抱えている。高齢者にお金を使ってもらうためにこれまでも孫への無税贈与推進策などが行われてきた。

 

もちろん、そういう教科書的な話も結構だが、もっと俗っぽい観点で高齢者に遊んでもらうことを奨励したほうが手っ取り早い。

 

節度やわきまえなどという曖昧な制約で高齢者をおとなしくさせちゃうより、高齢者にイキイキワクワクお金を使ってもらうほうが間違いなく経済は活性化する。

 

それこそ高齢者向けの“恋活”を煽ったり、高齢者専用の極上風俗を官営で展開したっていい。非常識ぐらいの取り組みが必要だろう。

 

人間の消費行動の原動力としてスケベ心が大きなウェイトを占めているのは間違いない。そんな現実にフタをしたって上っツラの話だけで終わってしまう。

 

お金を使えば使うだけ何らかのポイントを付与したり、お金を使いまくった人だけに減税の恩恵を与えるとか知恵はいくらでもあるはずだ。

 

とはいえ、肝心の高齢者がコロナ禍の中ではもっとも動きにくいから話は深刻である。高齢者にも無症状や軽症という事例はあるはずだが、やはり重症化しやすいと言われればすべてが止まってしまう。

 

堂々めぐりになってしまったが、大事なのは「復活の日」を楽しみに、あきらめの境地を避けて虎視眈々と「普通」に戻る日を待つことだ。

 

私の周辺でも今回のコロナ禍によって一気に老け込んでしまった知り合いがいる。言ってみれば「男終了」みたいな空気が漂い始めている。

 

世の中のオジサマ、オバサマにいま一番大事なのは、男終了、女終了といった感覚に陥らないことだ。まだまだ邪念や下心、適度な見栄や必要な範囲の虚栄心は捨ててはいけない。

 

人生には彩りが大事だ。もう歳だから、こんな歳だから、等々のネガティブな気持ちばかりだと簡単に老け込んでしまう。

 

邪念、煩悩こそ楽しく生きていく必須アイテム?だと思う。エロ結構、バカ結構。そんな意識でドンヨリした日々を明るく過ごしたい。

 

なんだか必死に自分に言い聞かせるみたいな話になってしまった。