2023年5月31日水曜日

タマネギ、LGBT、コーヒーカップ


年齢的に疲れやすいのは仕方ない。問題は疲れを貯めないようにすることだ。睡眠をたっぷりとるのが大事だが寝過ぎると逆効果になるらしいから厄介である。

 

糖質の過剰摂取はダルさに繋がるそうだが、米も麺もやめられないし甘いモノも欲しくなる。糖質抜きの生活なんてストレスでかえって身体を壊しそうだ。なかなか難しい。

 




コンビニで売っているとろろを2つほど一気飲みすると何となく元気になる気がする。ネバネバは健康に良いらしいが、オクラやモロヘイヤあたりだとマズくて逆に死んじゃいそうだから私はとろろ一辺倒である。

 

最近はタマネギを本能的に接種する機会が増えた。居酒屋でオニオンスライスを注文しちゃうこともある。野菜嫌いとして生を受け野菜を親の仇のように忌み嫌ってきた私がわざわざお金を払ってタマネギを食べるようになったわけだから相当な進歩?である。

 

進歩というか、それだけ疲労回復に向ける意識が強くなったのだろう。もっと言えば若い頃は元気になる食べ物なんか気にしなくても勝手に元気だったわけだ。

 

タマネギは強壮剤としての効能もあるから、かつての修行僧は食べるのを禁じられていた。要するに悶々としちゃうぐらい元気になる食べ物だということ。

 

昔と今では食べ物も変わり栄養満点のものは百花繚乱である。今さらタマネギで急に元気になるとは思えないし、実際に元気になる実感はないが、疲れをとるのに効果があるらしいからせっせと食べている。

 

もともと疲労回復効果が高いといわれる豚肉は週に34回は食べている。その他にわりとマメに食べる鰻、そしてとろろとタマネギが私の身体を何とか保っているような気がする。

 

その他、日常のサプリはビタミンCにプロポリス、セサミン、青汁などを長年飲み続け、ここ2年ぐらいは補中益気湯という漢方にも頼っている。ダルさ改善に最適と言われる漢方である。効き目は正直言ってよく分からない。

 

一応、これだけの“努力”はしているのに疲れのせいで結構グダグダすることは多い。サプリや漢方や鰻やタマネギをやめちゃったら一体どうなるのだろう。ひょっとして廃人みたいな状態になるのだろうか。それともまったく変わらないのか物凄く興味深い。

 

まあ、何だかんだ言っても疲れた疲れたなどと口にするから疲れた気分になってしまうという悪循環に陥る。ネガティブな気分でいるとどうでもいいことにもイライラしてしまう。

 

最近イラつく話題といえば、何でもかんでもハラスメントという曖昧な名目で言動が制限されることやLGBT法案をめぐる国会の迷走がある。

 

何でいまさらあんなビミョーな話を法制度に盛り込もうとしているのかよく分からない。ヘタに法整備を済ませたヨソの国では“ジェンダーレス正義”を盾に女装したスケベ男が女性用トイレなどで乱暴を働く事件が起きている。

 

差別でも何でもない単なる区別をも禁止しかねないヘンテコな風潮を法律で後押ししたらヤバい事態になるのは誰だって分かる話だろう。

 

「私は男だ」と言い張る女性が相撲の世界に入ってきてマワシ一枚で土俵に上がるようになったらどうするのだろう。極端な話だがそういう屁理屈みたいな事が起こりかねない話である。

 

この国ならではのもっと変な例えを書きたくもなるが、コトによったら不敬罪?で炎上しそうだから適当にしよう。

 

そんなことより私が最近イラつくのはコーヒーカップの持ち手の部分の問題である。実に小さい話でスイマセン!

 



私の手の指はバカでかいわけではない。にもかかわらずシャレたコーヒーカップの輪っか状の持ち手部分に指が入らない。アレって指を入れるものではないのだろうか。マグカップの持ち手には指を入れるからコーヒーカップも同じだと思うのだがどうなのだろう。

 

詳しい人によるとあの持ち手に指を入れるのは正しくないらしい。あくまで指でつまむのがマナーだとか。だとしたらアノ思わせぶりな輪っかスタイルは腹立たしい。つまんで飲んでみても落としそうで落ち着いて飲めやしない。

 

せっかく純喫茶でひとときの安息タイムを過ごそうとしても「持ち手問題」のせいで私の神経は乱れまくる。こういうことの積み重ねで疲れるのだろうか…。バカである。

 

チェーン店のコーヒー屋が爆発的に広まって普通の喫茶店を凌駕してしまった理由の一つがコーヒーカップの持ち手問題だったのではなかろうか。今は味気ない紙容器が主流だが持ち手で困惑する必要はない。

 


 

この画像はイマドキのコーヒー店で出てくる紙容器である。ちなみにプラスティックの蓋の吸い口部分は開けた後に後ろ側にポコっと押し込んで使う。そんな誰でも知っている常識を私は昨年ようやく知った。それまではチギって捨てていた。恥ずかしい話だ。

 

そんな非常識な私がコーヒーカップの持ち手問題を嘆いたところで説得力はまるで無い。無念である。

 

 

 

 

 

 

2023年5月29日月曜日

散歩しながらウマいもの

 

都心中心部に住む楽しみの一つが近隣の飲食店の多さだろう。日本橋周辺は渋い老舗はたくさんあるから今後の探索が楽しみだ。まだ馴染みのないエリアを散歩しながらウマそうな店をめぐるのは新鮮な気分になる。

 

用も無いのに回り道をしたりムダに歩く機会も増えた。行ってみたい店はどんどん増える。運動不足解消にもなるからしばらくは散歩が趣味になりそうだ。

 

先日、とにかくバテバテだったのでスタミナをつけようと珍しく韓国料理屋さんに入ってみた。焼肉屋ではなく鍋などをアレコレ揃えているディープな店だった。その名も「韓国亭」。

 

客層も韓国系の人が多い感じで本格的な料理を楽しめそうな気配。デートや接待に使う雰囲気とは無縁だが、サンコンさんのサインが飾ってあるようなフランクさでタバコも吸える。

 

表に「デジカルビ」の看板が出ていたのでそれを目的で恐る恐る入ってみた。要は豚焼きである。牛ばかりの印象がある焼肉系と違い、家庭料理系の店だと用意してあることが多い。

 

無料で出てくるキムチ、ナムルなどをツマミに待つ。この店のデジカルビは調理場で作って来るスタイルだとか。この日ばかりは疲れていたので自分で作らされるよりも有難かった。

 


 

出てきたのがこれ。実に潔い。豚肉とニンニクだけ。野菜など余計なモノは一切無し。無心に豚肉を頬ばった。味が強めだったが素直にウマい。放置していたニンニクも店のオバチャンに「せっかく入れたんだから食え」としつこく勧められたので頑張って食べる。疲労回復目的だから良しとする。

 

クッパ系でシメようかとも思ったが、オススメらしいジャージャー麺を注文する。韓国に行った時にも感じたが、あちらの人はやたらとジャージャー麺が好きみたいだ。中華料理的ではなくあくまで韓国的なジャージャー麺である。

 



これまた濃い味で挽肉ではなくこまぎれの牛肉がゴロゴロ入っていて食べ応えがあった。熱々の麺もしっかりコシがあったし何となく元気が出そうな味だった。

 

こんな歳になって味の強いものばかり食べるのも無理があるので、別な日はこれまた初訪問の蕎麦の店に出かけた。日本橋本町寄りの隠れ家的な立地の「京都鴨そば・浹(あまね)」という店。

 

お江戸日本橋というエリアで京都という看板を掲げた店に入るのもビミョーだが、鴨と蕎麦とくれば突撃したくなる。夜は一品料理も多い蕎麦割烹として使える店。

 

ここはちょっとした会食にも使えそうなモダンで綺麗なお店だった。お酒の品揃えも悪くない。全体に上品で丁寧な印象だった。

 


                                                              



鴨のつくね。焼いた鴨、からすみなどで一献。オツだ。焼酎の蕎麦湯割りもドロっとした蕎麦湯を使っている点が嬉しい。それだけで蕎麦飲みするにはバッチリな店だと言える。

 

肝心の蕎麦は正直言って「普通」だった。高級蕎麦専門店というより街場のお蕎麦屋さん系のそれに近い。とはいえ、鴨せいろのつけ汁がとても濃厚で独特の旨味に溢れていたのが良かった。


熱い鴨蕎麦も頼んだが、こちらのつゆはかなりアッサリだったので、せいろのつけ汁をこっそり追加投入したら断然美味しくなった。

                                                               


お次は人形町まで散歩した際に入ったカフェのかき氷である。以前にも来たことがあるが、暑かった週末の散歩ついでに改めて寄ってみた。

 

最近はかき氷が若者の間でブームになっていて週末の人気店は行列になることも珍しくないようだ。その点、この「Pomp」というカフェは穴場だろう。席が空くのを待つこともなく歩きまくってヒーフー言っていた私に涼味を提供してくれた。

  

黒ごまきなこ、マンゴーミルクである。そりゃあ火照った身体で食べるわけだから単純明快に美味しい。フルーツカフェという触れ込みだからマンゴーもちゃんとウマかった。

 

                                                              

それにしても「かき氷バブル」みたいな風潮はいつまで続くのだろう。昭和の頃は高価なイメージなどまったく無かったかき氷が今や高級品である。

 

フルーツをドッサリ使っていればそこそこの値段になるのも分かるが、そうでない路線のかき氷も平気で2千円ぐらいの値付けを見かける。

 

つくづく自分がオジサマという生きもので良かった。若造だったら氷に高い金を払う気にはならなかったと思う。牛丼を23杯食べたほうが幸福だったはずだ。

 

思えばスイーツ全体が数十年前より全体的に高値路線になってきたように感じる。ラーメンみたいである。これもまた国が成熟した証なのかもしれない。

 

まあ、美味しければそれだけ得られる幸福感も大きくなる。闇雲に安さばかり求めるよりはマシだと納得しようと思う。

 

 

 

 

 

2023年5月26日金曜日

炒めたコメに悶絶

 

麺が大好きだがコメのほうがもっと好きだ。体重問題という厄介事がなければ毎日毎日コメを腹いっぱい食べたいと思う。

 

炊きたての白米ももちろんウマいが、炒めたコメ料理も物凄く好きだ。イタメシより“炒めメシ”のほうが興奮する。

 


 

自分でも時折せっせとチキンライスを作るが、3回に2回はお金が取れるレベルの絶品に仕上がる。エンドレスで食べ続けたい気持ちになる。

 

さて、炒めたメシの王様的存在はチャーハンだろう。タイのカオパット、インドネシアのナシゴレンなども捨てがたいが、日本人にはチャーハンが基本みたいな感覚がある。

 

先日、新宿まで出かけてヒルトン東京の老舗中華「王朝」で食事をする機会があった。久しぶりに高級中華のチャーハンを味わった。特に特徴は無かったもののパラパラ具合と濃すぎない絶妙な味付けのせいでドッサリ食べてしまった。

 


 

町中華のちょっと攻撃的な?クドいチャーハンも捨てがたいが、時には高級中華の品のある逸品を食べるとチャーハンの奥深さを痛感できて悪くない。ただ、品のあるチャーハンだと下品なほど大量に食べたくなるのが困りものである。

 

チャーハンじゃない炒めメシといえばガーリックライスも堪らない。ちょっとハイカラな一品だ。コメとガーリックのマリアージュ?である。ガーリックライスを初めて世に出した人は顕彰されて然るべきだと思う。

 


 

こちらは人形町にある「肉系居酒屋・肉十八番屋」という店で食べたガーリックライスである。馬刺しや牛レアカツ、ハラミの塩焼きなどを味わってからのシメだ。モリモリ食べてしまった。

 

ガーリックライスも「うかい亭」のような高級店とカジュアルな肉料理屋ではまったく別モノが出てくる。どっちもどっちの良さがある。カジュアル店のほうが“男メシ感”が強いのが特徴だろう。

 

年々、味覚がお子ちゃま寄りに戻っている私の大好物の一つがオムライスだ。オムも捨てがたいがライスが主役だと個人的には思う。薄巻き卵焼きではないフワトロオムレツが乗っかるイマドキのオムライスはオムが主役になりがちだが、やはり肝心のチキンライスがウマさのカギを握る。

 


 

「日本橋たいめいけん」の「たんぽぽオムライス」だ。フワトロ卵をナイフでかっさばいてチキンライスを覆い尽くす前の画像である。オムも魅力だがライス部分の色合いや粒感にこそオムライスの醍醐味があると思う。

 

私が作るチキンライスをオムライスに発展させたら世界が震撼するほどウマい一品になるのだが、私にはオムの部分が上手に作れない。仕方ないからから幻のスペシャルオムライスということにしておこう。

 


 

こちらは八丁堀のカジュアルなタイ料理屋で出てきた海鮮のカオパットだ。やたらとコク深い味に仕上がる調味料がジャスミンライスとバッチリ融合して美味しかった。辛さもまるで無い万人向き。タイ料理の引き出しの多さに感心した。

 

炒めメシを嬉々として食べることが多い私だが、最近やたらと「グランドパレスのピラフ」を思い出してヨダレが出る。昨年ホテル自体が閉館してしまったせいで名物ピラフが食べられなくなってしまった。

 

厳密にいえば炒めメシではないが、謎ソースをビチャビチャかけて食べるピラフは私にとっては50年前に出会ったソウルフードとも呼べる逸品だった。物凄く恋しくて堪らない。

 



 お堀端にあるグラパレの親分・パレスホテルに行けば今も同系統のピラフが食べられるのだが、先入観のせいかどこか微妙に違う感じがして最近は食べていない。

 

改めてグラパレの名物ピラフの画像をしみじみ眺めてみたのだが、やはりヨダレが洪水状態になってしまった。四の五の言わずにパレスホテルに行って大盛りで注文しようと思う。






2023年5月24日水曜日

思い出を捨てる


何だか大袈裟なタイトルだが、引っ越しとは「思い出を捨てる作業」だと感じた。ちょっとセンチな感じだが、実際には新居で脳天気にウキウキ暮らし始めている。

 

この5年で3度目の引っ越しだった。ジプシー、ボヘミアン状態の人みたいである。中央区が気に入っているので今回は日本橋だ。何かと便利だが、コンビニが遠くなったことが弱点だ。

 

とはいえ、徒歩3分でセブンイレブンがあるから文句は言えない。たまたま前の住まいやその前の住まいがごく至近距離にコンビニがあったせいですっかり贅沢な感覚になっている。実にだらしない。

 

今回も段ボール100箱近い荷物の大移動となった。随分と事前に不要品を捨てたのにナゼだか荷物が多い。断捨離には程遠い。

 

深夜の通販番組につられて買った運動器具や使っていない古い家電、ちょっとしたサイズの家具なんかも処分したから身軽になったつもりだったがまだまだである。

 



ちなみにこの画像は我が私物の中で最古参のズボンプレッサーである。これは捨てられない。使用歴は何と45年である。ほぼ半世紀も現役だ。いまも普通に使えている。懐かしのナショナルのロゴが素敵だ。

 

中学生になった時に制服のズボンがしわしわにならないように買ってもらった思い出の品である。中学の制服に始まり、大人になってブランド好きだった頃にはアルマーニやらフェレのスーツのズボンをピシっと伸ばしてくれた。

 

今も私のスーツ姿を整えてくれる大事な存在である。それにしても45年という商品寿命には感心する。さすが経済成長期のメイドインジャパン家電だ。今どきのスマホのように信頼性に欠けるモノとは大違いだ。

 

今回の引っ越しで思い切って捨てたものはいろいろあるが、20年近く前に前にバリ島で大量に買い付けた家具や雑貨も随分オサラバした。

 

家庭人だった頃に建てた家のためにコンテナ輸送までして運んだ物の一部だ。現地で家具や雑貨の問屋みたいな店を回ったことが懐かしい。最近はあまり活用していなかったがそんな経緯で買ったせいで捨てられずにいた。いざ捨ててしまえば惜しいとも思わない。人間の気持ちなんてテキトーである。

 

壺も3つほど処分した。日本全国窯場巡りの旅の思い出もたくさんあるのだが、とにかく邪魔だったから仕方ない。それでもお気に入りのデカい壺は3つばかり手元に残した。

 

10回以上出かけたバリ島への旅も日本中で窯場巡りをしたことも我が人生にとって欠かせないトピックだった。そんなことを思い返すと「捨てる」という行為にちょっとセンチになった。

 

とはいえ、頭の中のインプット・アウトプットと同じで時には“放出”も必要だ。人生後半戦とはいえ、まだまだ先があるから古いモノとの別れをいちいち惜しんでもいられない。

 



ついに処分したのがクリスチャン・ラッセンのデカいリトグラフである。20年以上飾らずに仕舞い込んでいたのだがようやくオサラバした。デカいくせに厚みが無いから何となく納戸の端っこにプチプチに包んだ状態で放置したままだった。

 

30年以上前にハワイで買った時は30万円ぐらいだった。当時のラッセン人気はなかなかのものだったから衝動買いをした時のワクワク感を今でも覚えている。


ちょっとデカいから処分するにも有料だろうと思っていたのだが、同居する娘が買取業者に尋ねたところ1万円で買ってもらえるとのこと。娘に全権委任である。


1万円とはいえ、わざわざ業者がウチまで引き取りに来てくれたからこちらは梱包や発送など面倒な手間も無かった。買取業者としては510倍の値段で売れるアテがあるのだろう。今もラッセンを欲しい人がそんなにいるとも思えない。謎だ。

 

このリトグラフは20代の頃に寝室に飾って反同棲状態だった女性と眺めた思い出がある。以前はハワイにも何度も出かけた。そんな旅の思い出も詰まっていた。でも処分したらとてもスッキリした。

 

去って行ったモノとは別に新加入したモノもある。DENONのテレビ用サウンドバーである。サブウーハー別置きの5万円程度の商品だ。引っ越し後に突如音が出なくなった10年以上前のヤマハの簡易ホームシアターセットの代替えだ。

 



これが当たりだった。音が出なくなったヤマハ製のセットはウーハーを兼ねたデカいアンプとスピーカー3本で構成されていたが、今回のサウンドバーは実にお手軽。電源を繋いでテレビと一本配線を繋ぐだけで終わり。ウーハーは無線で勝手に繋がる仕組みだ。梱包を開けてからセット完了までほんの数分で済んだ。

 

肝心の音質は10年前のヤマハの大袈裟セットと同等かそれ以上の水準。音楽を再生しても耳に心地よい。買って正解だった。


ついでに10年前に購入したテレビも新調したくなってきた。とりあえず最近は出費だらけだから我慢我慢(笑)。


はたしていつまで我慢できるだろうか。物欲も食欲も性欲も無くなってくれたらラクチンなのだが、そんなことでは“生ける屍”になっちゃうから困ったものだ。

 




 

 

 

 

 

2023年5月22日月曜日

過去モノ

 引っ越しのバタバタで更新出来なかったので過去ネタを一つ載せます。


http://fugoh-kisya.blogspot.com/2015/05/blog-post_29.html

2023年5月19日金曜日

頑張れ若い人


イオニスト。ララポーター。最近聞くようになった言葉だ。イオン、ららぽーとで買い物や食事、デートまで手軽に済ます人々のことを指す。大都会に憧れることなく地域密着型で暮らす若者をマイルドヤンキーと称するのと似た感覚だろう。

 

若者の幸福度は7割を超えているらしい。格差の拡大、貧困の固定化といった暗い世相なのに一種のあきらめが幸福の概念を小さく縮めているようだ。

 

非正規だろうがそこそこ給料がもらえてマックでお腹が満たせてスマホ代が払えて日々何となく楽しく過ごせることを幸福だと感じるらしい。何ともビミョーな話だ。

 

「足るを知る」という考え方はもちろん大事だ。不平不満を募らせるより現状を肯定することは生きていく上で必要な考え方だ。でもそれって結構なキャリアを積み重ねた上の大人の世界での話である。20代の若者が小さくまとまって上昇志向を持たないことと混同してはいけない。

 

この30年近く世間に漂っているのが閉塞感だ。閉塞とは文字通り「閉じてふさがっていること」の意味だが、しばらく辛抱すればいずれまた道が開けるのか、永遠にふさがれたままなのか、その違いは大きい。元気な若者世代が動き回ってくれないと閉塞した状況が固定化しそうな気がする。

 

バブル世代と呼ばれた私のような年齢層は時代に恵まれていたのは事実だ。高度成長期に育ち、ぐんぐんと国が力を付け“ジャパン・アズ・ナンバー1”といった今では信じがたいフレーズが罷り通っていた時代だ。それこそ強力な円の力を背景に「アメリカを買っちまえ」などという暴論さえ珍しくなかったほどだ。

 

あんな時代に若者でいたことは幸運でしかない。放っておけば経済や自分の収入も右肩上がりに上昇すると盲信していたわけだからヒドい話である。今の若年世代に何事かを説いたところで説得力がないのは確かだろう。

 

それを踏まえた上でも「時代のせいにして逃げるのは簡単だ」ということは強調したい。若者にはいつの時代にも直情的なパワーがあり、中途半端に世渡りを覚えた中高年よりも遙かに無鉄砲さや大胆さ、簡単に達観しないエネルギーという武器を持っている。

 

その武器を磨かずに仕舞い込んでしまい疲れた中高年と似たような行動パターンで過ごすのは実にもったいない。まさに宝の持ち腐れだ。

 



ホストの帝王・ローランドの名言?に「夢って寝ながら見るものじゃない」というのがある。言い得て妙である。次から次に夢を描けるのは若年世代だ。大谷翔平だって高校時代に細かい目標達成チャートを作成していたことが有名だ。あれを50歳を過ぎてからやれと言われても無理がある。

 

上昇志向に背を向けて、ちまちまとした幸福感に浸ってしまう若者が増えている現状は、逆に言えば上昇志向を持った若者にとってはチャンスだろう。言葉は悪いが、上流下流のうち上流の立場に立つための競合相手が少なくて済むという理屈にもなる。

 

20代の頑張りって必ずそれ以降の人生に好影響を与える。その10年の間に蓄積された力は中年になったら20年、30年経っても敵わないぐらい意味のあるものになる。

 

退屈な成人式の訓示みたいになってしまった。イオニスト、ららぽーたーについて書き始めたら収拾がつかなくなってしまった。

 



今週また引っ越しをしてすっかり「中央区びいき」になってしまった自分をイオニスト達と似たようなものだと書きたかったのに迷走してしまった。

 

この5年で3度目の引っ越しである。中央区に来て新富町、八丁堀に続いて今度は日本橋である。どうにも狭いエリアだけで行動している。冒険心が欠けているが、東京の中心地だけに便利さもあってこのエリアが妙に気に入ってしまった。

 

杉並区生まれの私にとって銀座や日本橋は子供の頃には縁遠い場所だった。一種の“オノボリさん感覚”で過ごしているのかもしれない。いつかは浅草に家を構えて夜ごとオヤジ的晩酌に適した店をハシゴしようと考えているのだが、そんな“夢”はまだ先になりそうだ。

 

 

 

 

 

 

2023年5月17日水曜日

男のサガ


今年80歳になるロバート・デ・ニーロに最近子供が生まれたそうだ。ただただ尊敬する。ひいお爺ちゃんでも不思議じゃない年齢でパパになったわけだから偉人だ。




マネしたいかと言われたらさすがにノーである。いまさら子育てなんて体力的に無理な話だ。

 

大富豪だったらすべてを人任せにしていっぱいお金を負担すればいいのだろうが、そうは言っても時々は「アブブブブ~!」とか「お腹すいたんでちゅか?」とか「いないいないばー」とかをしないとならない。大変だと思う。

 

クリント・イーストウッドは66歳、ジョージ・ルーカスも69歳で子供を持った。ミック・ジャガーも確か70歳を過ぎてから子供が出来たそうだ。皆さん凄いエネルギーだと思う。

 

日本ではかつて加山雄三の父である上原謙が70歳ぐらいでパパになったり、ファンファン大佐・岡田眞澄が60代でパパになったことが話題になった。そういえば郷ひろみも58歳で双子のパパになったらしい。

 

皆さん家に帰ったら「アブブブブ~」などと言ってたのかと思うと尊敬に値する。普通ならありえない歳で子供を持つことは究極のアンチエイジングなのかもしれない。

 

男としていつまでも女性の尻を追いかけるのは分かるが子供まで欲しいと考えるのは凄いと思う。きっと純愛体質というか愛情が深いのだろう。余計なことを考えずに相手の女性との間に愛の結晶を欲しいと思うわけだから実に正直かつ誠実な姿勢だと思う。

 

もっとも単に投げやりな気持ちで“出たとこ勝負”みたいに避妊を考えない人もいるのだろうが、上に書いたような皆様がそんなパターンだとは思いたくない。きっと純愛主義者だと思いたい。

 

女性を追いかけるのは男性の生殖本能だ。誰がどうしようと不思議ではないが、地球上で唯一、一般的な生殖年齢を過ぎてもそういう行為をしたがるのは人間だけである。人間以外のすべての生き物は“適齢期”以外にはそういうことをしない。

 

人間は大脳が発達したことによってセックスを単なる生殖行為から愛情表現やレジャーみたいな路線に広げてきたわけだ。いわば、中高年、はたまた老人になってもそういうことが出来るのは人間だけに許された特権みたいなものである。

 

だとしたらそれを堪能しないのはもったいない話である。機能的にダメになったら仕方ないが、そうじゃないのに引退しちゃったような顔をして生きていくのは宇宙の真理に対する挑戦である。

 

私ぐらいの年齢になると男性陣は大きく二つに分かれるイメージがある。まだ機会があれば頑張るためにアンテナを張っている男と、もうそういうのは卒業したよとスマシ顔をしている男の2種類だ。

 

いい歳して過剰にギラギラしているヤツは困ったものだが、男という生き物であることを忘れちゃったようなヤツも感心しない。適度に現役。この部分は忘れてはいけないと思う。

 

別にいちいち女性とネンゴロにならなくたって構わない。食事や酒を楽しむだけだって時にはドキドキしたりハラハラしたりする。そんなシチュエーションを楽しむことまで“卒業”しちゃうのは淋しいことだ。

 

最近、何を勘違いしたのか若者しか見ないような高校生純愛映画を立て続けに観る機会があった。きっかけは娘に勧められて観た「君の膵臓を食べたい」という映画である。

 



なんとも不思議なタイトルである。だいぶ前に若い世代の間で大ヒットした映画である。正直言うと、この春すい臓ガンの精密検査を入院して受けたばかりだから観る気になった。

 

いい映画だった。泣いてしまった。見終わってみればこのタイトルも実に深い。何とも切ないストーリーに胸が締め付けられた。自分にまだそんな感性が残っていることを嬉しく感じたぐらいだ。

 

若い頃の純愛など今の自分には無縁なものになってしまったが、思い出せば自分にだってそんな時代はあった。キュンキュンしていた頃を思い出すだけでもこういう映画に浸ってみるのは悪くない。

 

その後もいくつか“高校生純愛系どっちかが死んじゃうパターン”の映画を観た。「君の膵臓を食べたい」に比べればどれもイマイチだったが、どの作品もいわば「私の分まで生きてね」という部分がキモになっていた。

 

というわけで、一気にさきほど書いた高齢者色恋話に話を戻す。「私の分まで生きてね」ならぬ「私の分まで奮戦してね」である。男であることを卒業しちゃった中高年の中には機能的な問題やさまざまな事情で女性の尻を追えなくなった面々もいる。

 

そんな人たちの分まで頑張れる男は頑張らないといけない。適切な生殖年齢などウン十年前に終わっているが、そんなことは気にせず人類にだけ許された煩悩をしっかり味わって生きていこうと思う。

 

 

 

 

 

 

2023年5月15日月曜日

ブラウンの誘惑

 

いまさら言うまでもないがウマい食べ物は茶色い。古今東西それが真理だ。ナゼだかは分からないが“ブラウンフード”を食べていればニンマリ出来る。

 

私が嫌いな言葉の一つが緑黄色野菜である。文字ヅラを見るだけでゲンナリする。緑に黄色である。おまけに野菜だ。果物やお菓子ならともかく「メシ」のジャンルに緑や黄色はいらない。

 

青も赤も紫もいらない。いや、赤に関しては私が愛するイクラや馬刺し、マグロの刺身、赤ウインナーなどがあるから例外にしよう。

 

そう考えると野菜は全滅だ。もともと野菜嫌いだから仕方ない。野菜でも昔のぬか漬けの漬かり過ぎちゃったヤツは大好きなのだが、あれはキュウリも茄子も茶色くなったぐらいが最高だ。やはりブラウン!である。

 

その昔、北海道のどこかで流氷カレーと名付けられた青色ベースのカレーに遭遇したことがある。別にマズくはなかったのだが青いカレーという見た目の段階で単純にブキミだった。

 

カレーはもちろん、唐揚げ、天ぷら、トンカツ、シチュー、焼きそば、鰻の蒲焼き、焼き鳥、おでん、味噌汁、ハンバーグ、クロワッサンや納豆に至るまで茶色のオンパレードである。

 

カラメル化反応やナンチャラ反応といった調理過程に生じる味を良くする作用が茶色に関係するという科学的な根拠もあるらしい。茶色だから身体に悪いというわけではない。

 

しっかり調理されたウマい料理の中で茶色じゃないのは黄色にとどまる卵料理ぐらいだろうか。卵料理が茶色だったらちょっと興醒めだからそれはそれで結構だ。

 



先日、息子が泊まりに来た際には甘甘父ちゃんとして茶色メシばかり食べさせた。母親と暮らす家ではちゃんと野菜も摂取しているらしいから束の間の“無頼メシ”を堪能させた。

 

焼きそばに冷やし中華にメンチカツ丼、牛丼である。どれも大盛りだ。青少年であれば素直に嬉しい食べ物である。青少年時代をとっくに終えた私だって全部大好きである。今朝も冷やし中華にチャーシューをドッサリ乗せて食べてきた。

 

私が息子の年だった頃はそれこそ茶色メシだけしか食べていなかった気がする。袋麺の即席焼きそばにしても具は一切入れずに麺だけを23つ食べていた。茶色一色だった。

 

夏になるとドンブリ飯に大量のなめ茸を載せて麦茶をかけてかっ込んでいた。あれも茶色一色だった。ラーメンにもチャーシューやメンマを大量にトッピングするから真っ茶色だった。

 

還暦がそう遠くない年齢になったいまでも茶色メシばかり食べているわけだから、野菜農家の皆様には申しわけない気がする。

 

自分のスマホ画像フォルダを改めて見返してみてもブラウンフードばかりが目立っている。ウニやイクラといった黄色、赤の他はほぼすべてが茶色い。褐色天国である。

 





 


          

新橋の小料理屋「かとう」で食べた肉豆腐、八丁堀のモツ焼屋での串盛り、新富町の怪しげな中華で食べたジャージャー麺、有楽町交通会館地下の「沖縄そば」、どこかの居酒屋でのホッピーとハムカツ、そして初めて行った「はま寿司」のチーズハンバーグ握りという不思議な一品もすべてブラウンオンパレードである。

 

どれもこれもウマいから参ってしまう。私のヘビーローテーション?であるトンカツやウナギを除いても茶色の大攻勢である。見返しているだけでヨダレが出てくる。それにしてもチーズハンバーグが寿司になっている今という時代にビックリ仰天である。

 

話のついでに下の画像は娘に連れられていった銀座一丁目近くのカフェで食べたかき氷である。イチゴとナンチャラのかき氷だったのだが、これまた茶色いソースがこんもりとトッピングされていた。

 


かき氷こそ青、赤、黄色、緑とカラフルな色合いで楽しませる一品だが、そんな世界にまで茶色が進出しているわけだ。ブラウンさん恐るべしって感じである。

 

というわけで今日もまたオチのない話になってしまった…。






 

2023年5月12日金曜日

アーカイブです

 今日は更新が間に合わなかったので過去ネタを載せます。参照しているニュース記事はリンク切れになっていますが、当時書いた内容は今でも同じ状況かと思います。

「美人過ぎる◯◯」という言い回しや若さが正義かのような風潮にイチャモンをつけてみた話です。

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2015/08/blog-post_17.html








2023年5月10日水曜日

メンチカツに光を


コロッケかカツか。揚げ物の世界においてこの違いは大きい。カツのほうが格上のような響きがある。コロッケを立ち食いしたと聞いても違和感はないが、カツを立ち食いしたとなるとピンとこない。

 

メンチカツをメンチコロッケという名で売っている店がある。よりカジュアル感を強めようという狙いだろう。気持ちは分かるがメンチカツを愛する私にとっては邪道な呼び方に聞こえる。

 

普通のコロッケのことをポテトカツや芋カツとは呼ばない。そんな反則をしてもコロッケはコロッケである。あくまでメンチはカツであって欲しい。コロッケとは格が違う。

 


 

とかく安い挽肉を使った料理は怪しい目で見られがちだ。腐りかけの売れ残り肉を混ぜ混ぜしただけじゃないのか、という疑念が生じる。私もそう思う。きっと実際にそんなパターンは多いだろう。

 

安いハンバーグ、安いシュウマイ、安いメンチカツ。どれも危険な香りがする。実際にそんなのを食べると胃に不快感があるし口の中も臭くなるから困ったものだ。

 

お総菜コーナーで仮に100円と300円のメンチカツがあったとする。買うべきは後者だ。挽肉料理に安さを求めるのはちょっと恐い。

 

前ふりが長くなったが、メンチカツの立ち位置ほど不安定なものはない。安くて怪しいパターンもあれば高級洋食店の妙に高い逸品までさまざまだ。

 

上の画像のメンチカツは築地の人気とんかつ店「はせ川」の一品。こういうちゃんとした店だと安心してウマいメンチカツにありつける。大衆居酒屋でつい注文しちゃうメンチカツとは次元が違う。

 

一定水準以上の店のメンチカツはニッポン洋食界の英雄的存在になり得る美味しさだ。にもかかわらず怪しい大衆酒場あたりのシャバダバなメンチカツに足を引っ張られて世間一般でメンチカツが美食談義?の場に引っ張り出されることは少ない。実に残念なことだと思う。

 

先日、3年ぶりぐらいに銀座の「惣菜」に出かけた。ジャンルを問わずウマいものを揃える隠れ家的な名店である。ウニのグラタンやトリュフソースで味わうゆで卵などニクい料理を堪能した。

 




他にもカラスミをブリブリ撒き散らしたビーフンなどアレコレと堪能したのだが、やはりメンチカツの美味しさに泣きたくなるほど感激した。大袈裟だ。でもウマかった。

 

箸で切った際に溢れ出る肉汁。「にくじゅう」ではなく「にくじる」とつぶやきたくなる。溢れ出るにくじるを皿に顔を近づけてすすりたくなったがさすがに断念した。

 



 冒頭の画像のような腕の良いトンカツ屋さんのメンチカツに勝るとも劣らない逸品だった。ソースと肉汁の相まった至高の液体!?が私の五感を揺さぶる。小ぶりなところもニクい。ちまちまと大事に食べるしかない切なさもM的性格な私には嬉しい。

 

こだわりがある店に限って「お味はついてますからそのままでどうぞ」などと余計なことを言うものだが、断固私はソースをかける。ソースを使わないメンチカツなど醤油を使わないマグロの寿司みたいなものだと感じる。

 



こちらは荻窪にあるトンカツの人気店「たつみ亭」のメンチカツ。その昔、知る人ぞ知るBSのテレビ番組「東京とんかつ会議」でも取り上げていたお店だ。ひょんなことで訪ねたのだが看板のトンカツよりもメンチカツのほうが気にいった。

 

ドッシリ感が印象的だった。ご飯のお供に実に最適だった。酒のツマミにちょうど良いメンチカツもあれば、ご飯と共に味わいたいメンチカツもある。メンチカツの楽しみ方は意外に全方位だと実感した。

 

乱暴な言い方をすればメンチカツはハンバーグを揚げたようなものだ。それにソースをかけて味わうわけだから年々味覚が幼稚化している私にとってはまさに悶絶する味わいである。

 

今まであまたの洋食の名店に通ってきたが、根っからの“ベシャメラー”だからついついクリームコロッケを注文しがちだ。でも頭の中ではメンチカツにするかクリームコロッケにするかで激しく悩むことは多い。

 

ここ数年はベシャメルソースの呪縛から逃れられずにいるのだが、ワンパターンになってきたからこれからはメンチカツにも光を当てていこうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

2023年5月8日月曜日

好奇心よどこへ


開拓精神が薄れてきたことをちょっと心配している。食べ物の話である。気がつけばいつも同じようなものばかり食べている。昔はキチンと西へ東へウマいものを求めてお店の開拓に励んでいたが最近はサッパリである。

 

好奇心が弱まることは人生をエンジョイする上で問題である。コンビニでおにぎりを選ぶ際も「昆布」を必ず買う自分が残念だ。冒険心が足りない。

 

女子を連れてディナーに出かける時も勝手知ったるお寿司屋さんか鰻屋さんばかりになる。注文するものも似通ってくるし、こんなことではワクワク感という人間にとって最も楽しい感情を味わえなくなってしまう。

 



先日、珍しく白ワインが飲みたくなった。せっかくだからシャレオツなフレンチやイタリアンに出かければいいのにその日も結局「たいめいけん」である。慣れ親しんだニッポンの洋食屋でベシャメルソースがあれば白ワイン気分も満足する。実に単純だ。

 

若い頃、カフェバーなるジャンルの店が人気になれば一晩で45軒ハシゴしてせっせとその後のデートに備えていた。あの情熱みたいな気持ちはどこに行ってしまったのだろう。

 

結局、老け込むか否かの分かれ目は「好奇心」に尽きるのではないか。好奇心があれば何かしら新たな発見があるし何より行動的になることがメリットだろう。

 

最近は趣味らしい趣味も無くなってきたし、以前はマメに出かけていた旅行に行く意欲も薄れてきた。これも私にとっては一種のコロナ後遺症なのかもしれない。ウジウジ、ボケボケとダルダルな時間を漫然と過ごしてきてしまったツケである。

 

今日からコロナも「5類」になった。普通の風邪みたいな位置付けだ。いよいよいろんな言い訳に使えなくなる。今月は引っ越しもあるし改めて気合いを入れて人生をエンジョイすることにしよう。

 

と、自分に言い聞かせるような書きぶりだが、私のワンパターン生活は自炊する場面も同じだ。同居する娘いわく「パパが作るものはいつも同じ」である。確かにそうかもしれない。

 

チキンライスにドライカレー、ツナパスタにミートソース、あとは豚肉を豚丼のタレで焼くか生姜焼きにするぐらいである。

 



意を決していつもとは違う簡単パスタを作ってみたのがこの画像。コンビーフとカットキャベツ、しめじを麺つゆをベースに味を整えた謎パスタである。味はフツーだった。やはり慣れないことはするものではない。

 

パスタのほかに頻繁に作る焼きそばは私にとっての大定番だ。簡単で失敗もない。カットキャベツと豚肉を入れてアッという間に出来てしまうから最低でも週に一度は作っている。

 



 時おりオイスターソース系の焼きそばを作って酢をぶりぶりかけて食べることもあるが、目玉焼きもソーセージもハムも唐揚げもソースで食べたいソースマンとしては焼きそばはソースが基本だ。付属のソースとは別にお気に入りのウスターソースを追加することもある。

 

日本のソースは考えてみれば実に偉大だと思う。世の中にはソースチャーハンだのソースラーメンといった変わり種もあるそうだから老後の趣味を「日本全国ソース料理めぐり」にするのも悪くないかもしれない。

 



この画像のソース焼きそばは平たい麺がニクい見るからにウマそうな一品だ。日光に行った際に土産に買った宇都宮焼きそばである。豚バラ肉を大量に入れて作ってみた。

 

ところが、画像とはうらはらに一口食べてビックリ。食えたもんじゃなかった。宇都宮焼きそばのせいではない。私が作り方を間違えてしまった。油断大敵である。

 

普通の焼きそばはチルド麺を具材と一緒に炒めれば済むのだが、この麵は炒める前に茹でる必要があったことを見逃していた。包装紙に書かれている作り方など読む気もなかった私の負けである。

 

渾身の作業が無駄になってしまった私は食えない焼きそばを前にしてしばし途方に暮れた。とはいえ、天性のソースマンだから豚肉とキャベツを救出して急きょ解凍した白米を用意して「豚キャベツ炒め」をおかずにそれなりの一食に変えた。

 

要は焼きそばソースで炒めただけの豚肉とキャベツである。ちょっと切ない感じは認めるが味のほうは案外ウマかった。ソースの偉大さを改めて痛感した。

 



こちらはキャベツと豚肉を無事に救助した後の焼きそばの残骸である。無駄にソースをまとった姿が哀れである。麺好きな私はなんとか二次利用できないかと考えたのだが良いアイディアが浮かばず捨ててしまった。今年一番の失敗作だった。

 

今日も何が書きたかったのか分からない内容になってしまった。

 

 

 

 

 

 

2023年5月1日月曜日

照明と枕


いい感じの灯り。ロマンチストってわけではないが、そんな灯りにナゼか惹かれる。まあ、誰だってそんな灯りが嫌いなはずはないから普通のことだが、そんな光景に出会うとしばしボケっと佇んだりする。

 



 

築地界隈の裏路地と夜の永代橋だ。こういう感じが何となく好きだ。ウキウキする感じとは違うホッコリした気分になる。

 

高校生ぐらいの頃、殺風景な自分の部屋を変えたくてヘンテコな置物や照明にこだわった。小遣いで買える程度のガラクタばかりだったが、その昔に流行ったプラスティックで出来たフラミンゴの置物やちゃちな照明器具を置いて悦にいっていた。

 

昭和のあの頃、なぜだかフラミンゴの置物や照明器具をアチコチで見かけた。カフェやバーは今から思えばシャビーなネオンライトで飾られ傍らにはフラミンゴだった。

 


 

クリストファー・クロスの大ヒットアルバムのジャケットもフラミンゴだったから世界的なハヤりだったのだろうか。謎である。

 

ムーディーな照明を見るとすぐに欲しくなるのが私の悪い癖である。ムーディーという表現はほとんどヘンテコ、ケッタイと同じようなニュアンスかもしれない。

 

以前このブログで風呂場でムーディー!な照明を使っていることを書いたが、画像で見ると昔のラブホ的なケッタイな感じである。でもそれはそれで私の憩いだ。

 

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2021/02/blog-post_26.html

 

今だって昭和レトロ雑貨を扱うネットショップでムーディー?なネオンライトをついつい買いそうになる。いつもあと一歩の所で「それってシャバダバだぞ…」と理性が囁いて私の邪魔をする。

 



 

さてさて、睡眠の質を高めるためには眠りに落ちる前の時間の脳の安らぎが大事だと聞いて最近は以前よりも怪しい灯りの中で眠る前の時間を過ごしている。

 

ベッドヘッドに装着したテープライトや地球儀風の置き型照明をつけてひとときを過ごす。いろんな色が楽しめるのだが、なんとなく寝る前は紫色を選ぶ。

 


 

画像で見るとあまり趣味が良いとはいえない感じだが、実際には結構ヒーリング効果があるような気がする。少なくともテレビやスマホを寝る直前まで見ているよりはこんな灯りの中でボーっとしているほうがマシだと思っている。

 

ダサいラブホ。きっとこれを読んでいる人にはそうとしか見えないのだろうが、私にとってはこれで案外リラックス効果がある。もともと昔は頻繁にラブホでリラックスしていたからかもしれない。

 



眠りの質を高めるために灯りより大事なのが枕である。最近もこのブログでデカい枕を買ってちょっと失敗だった話を書いたが、あの時からまた新たに2つも枕を買ってしまった。枕難民みたいな状況に陥っている。

 



枕だけでなく、やたらと増えてしまった枕の高さを微調整するためのシートなどもわざわざウン千円も出して買ってしまった。もはや枕を取っ替え引っ替えすることが趣味になりつつある。

 

おニューの枕のうち一つは「無重力」という意味不明のフレコミだったので期待して到着を待った。使ってみた感触はウォーターベッドの枕版みたいな感じだった。初めて横になって頭を乗せた時はちょっと感動した。

 



ところが長時間使ってみると第一印象と随分違う。ふらふらして何だか妙に落ち着かない。ホールド感が皆無というか、収まる場所がいつまでも見つからないような感じでイヤになった。

 

もう一つはあまり特徴のない低反発枕だったのだが、無重力枕の半額程度の安物にしてはなかなかフィット感が良い。個人的に高めの枕が好きなのでこれに高さ調整シートを入れてみたら結構なお気に入りになった。

 

最低でも一週間、欲を言えば半月は使い続けないと自分との相性が判断できないのが枕である。そういう点ではまだ油断できないから困ったものだ。

 

ゴールデンウィークはたいした予定もないから我が家に溜まりまくった枕達をすべて引っ張り出して高さ調整シートを入れたり抜いたりしながらマイベストピローを探し求めてみようと思う。