2022年7月29日金曜日

「いい歳して」VS「煩悩バンザイ」


「年相応に」。何気なく使っている言葉だが、考えてみればこれって一種の圧力みたいなものだろう。中高年やお年寄りから活力を奪いかねない怪しい言葉?かもしれない。

 

「いい歳してそんなことして・・・」等々、私自身も普通に使っている。自分の行動を反省する際にも自虐的に使ってしまう。

 

「いい歳」って一体いくつのことなんだろう。「もう中学生になったのだから・・・」「高校生にもなってそんなことを・・・」など“いい歳攻撃”は既に子供の頃から機能している。

 

中年にもなればどんな場面で何をしようとも「いい歳」という魔法の言葉で行動が邪魔される。「いい歳してそんなことも知らないのか」「いい歳してそんなに食べやがって」「いい歳してエロ動画を見てるのか」など例を挙げればキリがない。

 

わきまえや分別は確かに大事だ。でもそれを拡大解釈することで誰もが平均的かつ平凡に目立ったことをしないよう抑えつけるために「いい歳して」が使われる。

 

よく考えればバカみたいな慣習?だと思う。時にはもったいない事態を招く。せっかく“据え膳”にありつけるのに遠慮したり、大はしゃぎできる場面で渋い顔を作ってみたり・・・。ついでに言えば、綺麗な脚の大人の女性がミニスカートを履かないことや、たかだか30歳ぐらいでビキニの水着を選ばないことだって女性社会における“いい歳攻撃”の弊害だろう。

 

例えがヘンテコになってしまった。

 

もちろん、最低限の常識やわきまえのない人間に対しては抽象的な圧力で頭を抑えつける必要もある。放っておくと暴走するバカ(私もそれか)は多いから社会秩序を守る意味では一種の必要悪みたいなものだろう。

 

とはいえ、世の中の変化はめまぐるしいから昭和の感性で「いい歳」を捉えるとズレも生じる。たとえば72歳の男がキザったらしく若い女性を口説くことを想定してみる。サザエさんパパ・磯野波平だって50代半ばの設定だ。72歳といえば立派なジイサマ?である。

 

当然、いい歳して何をしてるんだ!と世間様は言いたくなる。でも「72歳の男」の部分を「館ひろし」に読み変えたらどうだろう。なんとなく納得してしまう。いや、許せてしまう。言うまでもなく館ひろしは72歳である。

 




他にもある。「70歳にもなって現場で犯人と格闘している」。そう聞くと凄いブラック職場みたいだ。これもどう考えたって「いい歳」の極みみたいな話である。ちなみに水谷豊は70歳だ。

 

なんだか話が迷走してきた。

 

先日このブログで50歳をゆうに超えてからドラムを始めた友人の話を書いた。50を過ぎてから趣味を持つのは良いことだなどと分別くさく書いてしまったのだが、そう考えるといくつになっても新しいことに挑んだり、若い頃と変わらない感覚でアレコレ奮闘することはちっとも特殊ではない。

 

四十の手習いなどという言葉がある。あれだって今や死語に近い意味合いだろう。あの伊能忠敬センセイだって江戸時代に50歳を超えてから日本地図を完成させるために行動を始めた。


寿命が激的に延びた現代では四十の手習いという言葉があること自体が中年の行動を無駄に制限する風潮につながっているように思う。

 

まったく話は違うが、かつてのキリスト教社会では同性愛が発覚すると死刑になることもあった。いまやアメリカのすべての州で同性婚は合法とされている。社会の常識や感覚ってそれほど大きく変化するわけだ。

 

我々が漠然と思っている常識やしきたりはしょせん根拠の曖昧なものが多い。極論すれば世界の常識になっている一夫一婦制だって、モテ男に対する非モテ男の単なる嫉妬が生んだ宗教的戒律を隠れ蓑に編み出された制度である。

 

よく考えれば、たかだか20代の若さで死ぬまで他の人に心変わりしませんと神様に誓わされるわけだから無理な話である。神様に誓ったのに離婚しちゃう人は地獄に落ちるのだろうか。だとしたら地獄は大混雑である。

 

そこまで書くといろんな人に叱られそうだから適当にしておく。

 

というわけで、私みたいな「いい歳」したオジサマがまだまだ色恋に励むのはちっとも特殊なことではない。若い女の子の尻を追いかけることだって何も悪いことではない。

 

壮大な自己弁護になってしまった。

 

最近の週刊誌を読んでいると中高年向きの死に支度の話ばかりが特集されている。一時期みたいに「死ぬまでセックス」みたいな下ネタ特集が減っていることがちょっと気になる。

 



そりゃあ今まで生きてきた年月より死ぬまでの年月のほうが遙かに短いわけだからセックスどころではないと編集者が思い直すのも無理はない。

 

でも、だからこそ楽しいネタをもっと前面に押し出してほしい。死んだ後のことまで必死に考えたところでその時は既に死んでいる。

 

刹那的と言われようとも元気でいる間は「煩悩バンザイ精神」で過ごしていたいものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

2022年7月27日水曜日

「くろぎ」「ピスタチオ」

 

暑いのにセミの鳴き声を聞かないと夏本番という気分にならない。昔よりセミが鳴き始めるのが遅くなっているような気がするがどうなんだろう。

 

先日、文京区某所でセミの初鳴きを耳にして気分が上がった。ミンミンゼミである。あの響きは夏そのものだ。まだ私が住むエリアでは聞こえないのだがさっさと合唱を始めて欲しい。

 

セミの次はかき氷である。私の中でセミとかき氷は一心同体である。意味不明で申し訳ないが夏と言えば「セミとかき氷とスイカと風鈴」である。郷愁の音と味だ。

 

私が子供の頃はまだまだ発展途上国だったから今みたいなモダンなかき氷は存在しなかった。毒々しい赤や青のシロップこそがかき氷だった。ベロが変色するのが決まりだった。

 

時は流れかき氷も随分と洗練されてきた。今ではあちらこちらで画期的なかき氷が登場している。行列するような店も珍しくない。

 

昭和人?にとっては「かき氷を食べるために並ぶ」という行為が意味不明だが、そんなことを言っているようでは既に化石状態なんだろう。

 


 

こちらは東京駅にある虎屋直営のカフェで出てきた宇治金時だ。まさに王道みたいな感じ。変に時代におもねっていない凜とした感じが潔い。あんこが非常にウマい店だけにこの季節限定のかき氷を楽しむには穴場だと思う。

 

と、さも古典的なかき氷こそ素晴らしいみたいな書きぶりだが、別な日に1年ぶりに食べに行った“イマドキ系モダンかき氷”に悶絶した話が今日のメインである。

 

娘に連れられて上野広小路のパルコの中にある「廚 otona くろぎ」に出かけた。昨年のこの時期に初めて訪れて衝撃を受けた店だ。

 

今の季節は「枝豆クリーム」なる一品がイチ押しらしい。それと「みたらしクリーム」も注文する。もはやかき氷というジャンルを超絶した「氷スイーツ」という位置付けだと思う。

 



 

私のボキャブラリーでは味を上手に表現できないが、一言で表すなら「イヤになっちゃう美味しさ」だ。ネガティブな表現ではない。最初の一口でノックアウトされる。官能的、いや、エロい味わいである。一口食べただけで自分がフニャフニャになっちゃう感じだ。

 

ここまで来ると古典、モダンなどとジャンルを考えること自体が無意味だ。回し者みたいにベタ褒めしちゃうが、かき氷好きなら絶対に食べたほうがいいと思う。

 

値段がバカみたいに高すぎるのは問題だが、1年に一度ぐらいならこういう贅沢も楽しいと割り切るのもアリだ。まあ、それにしても高い。若い人が食べるには勇気がいるはずだ。メニューが極端に少ないから儲かるんだろうなあなどと余計なことも考えたくなる。

 

私は酒も好きだが甘いモノもかなり好きである。スイーツ男子と称されても不思議ではない程度に頻繁に甘いモノを食べている。

 


 

最近ハマっているのがセブンイレブンのピスタチオチョコレートバーである。始めて食べたときは美味しくて感涙にむせんだ。絶品だと思う。

 

コーティングされたピスタチオチョコレートの味わいが豊かで大粒のピスタチオクランチがホンモノ感を高めてくれて素晴らしい。250円ぐらいのやや高めの値付けだがどうでもいいハーゲンダッツを食べるより遙かに満足感がある。

 

ウマいピスタチオアイスを求めてネット検索にもずいぶん励んできたが、ネット検索だとナゼか私の煩悩を刺激するような「ピスタチオアイス」が出てきて思考停止に陥る。

 




 これはこれですこぶる美味だとは思うが、ただ舐めたり嗅いだり?するだけでなく、ちゃんと飲み込めるヤツをいろいろ探したうえでセブンのアイスバーは非常に高レベルだと確信する。

 

そういえば上で紹介した「くろぎ」のかき氷は季節ごとにいろんなバージョンが取っ替え引っ替え登場するのだが、ピスタチオクリームがラインナップされたことはあるのだろうか。

 

もし今後ピスタチオクリーム系のメニューが出てきたら1年に一度どころか週に一度は通ってしまうと思う。想像するだけでヨダレが出てくる。

 


 

いずれにせよ今はセブンのアイスバーに熱中するようにしよう。ちょっと溶けかかったぐらいの感じが実にウマい。

 

セブンの商品はすぐに入れ替わってしまうのでこれだけは定番化して常備して欲しいと切に願っている。

 

 

 

 

 

 

 

2022年7月25日月曜日

バンド活動の奥深さ

 

またまたコロナが広がっている。面倒な事だ。今年80歳になるバイデンさんも99歳の宮様も報道では重症ではないようなのでウイルスが弱毒化しているのは確かだろう。

 

感染爆発で世の中が止まってしまうことはすべての分野に悪影響を与えるのでこれからは上手に付き合っていくしかない。

 

3年ぶりにライブを予定している私のバンド活動だが、感染爆発の状況次第では今年も中止せざるを得ない。こればかりは秋頃の様子を見ないと判断が付かないのが困りものだ。とりあえず11月末の本番に向けて真面目に練習を続けている。

 

万一、今年も出来なかったとしてもこの何ヶ月間の練習は無駄ではない。昨年、一昨年とまったく練習する機会が無かったから、リハビリみたいな練習は今後のために大いに意味がある。

 

「還暦まで続けよう」というのが目標だ。それを維持するためにも集まってガチャガチャ練習することは大事だ。


ヘタレボーカリストである私だって今年の初め頃に比べればだいぶ声が出るようになってきた。ライブの有無に関係なく活動する時間を持てることは悪くない。

 



その昔、草野球に精を出したことがあったのだが、野球そのものの楽しさに負けず劣らず、その後の飲み会がとても楽しかった。運動の後にカツ煮を大量に注文して生ビールをグビグビする時間のために野球に取り組んでいたような気もする。

 

バンド練習にもそんな要素がある。練習後にバカ話をしながら飲むのは貴重な時間だ。いい歳したオジサマが仕事などまるで関係なく邪念抜きでワイワイ飲める機会はなかなか得がたい。

 

極端な話、さほど遠くない未来にヒマな年金生活を送る際の良い準備だとも言える。会社という居場所を失った途端に人生をもてあましてしまう男性は多い。実に淋しい事態だ。

 

そんな悲劇を避けるためにも趣味の時間を長く楽しめるようにしたい。還暦どころか古稀まで活動を続けることを密かに目標にしようと思う。

 

先日のバンド練習には新人ドラマーが参加した。彼も小学校からの同級生だ。先月の飲み会で彼がドラムを叩けるという話を聞いて急遽“入団テスト”を実施することになった。

 

ドラムなどには縁のなさそうな男なのだが、聞くところによるとコロナのせいで行動制限が厳しくなり、職場のお達しで趣味のゴルフも禁止されやることが無いからドラムスクールに通い始めたという。

 

というわけでキャリア2年ちょっとの腕前である。まだまだヘロヘロな感じも予想していたが、思った以上にしっかりパワフルなドラマーぶりを見せてくれた。

 

学校では私と同じく勉強には背を向けた一派に属していた男なのだが、ドラム用の譜面もきっちり読めることに驚いた。私などはギター教室に通っても譜面関係の話は全部パスした不届き者だ。彼の熱心さに感心した。

 



やはり人生50年を過ぎてから趣味を持つことは素敵だ。それこそQOL向上に役立つ。私もちゃんとギター練習に取り組まねばと大いに反省した。

 

ちなみにドラマーの彼とはたかだか15、16歳の頃、放課後に立ち寄った喫茶店で不良ぶって一緒にタバコを吸っていた間柄である。この歳になって真面目に演奏について語ったりするとは思いもしなかった。

 

ひょんなことで始め、何となく続けていたバンド活動である。時に面倒くさくなったりモチベーションが無くなったりしたこともあったが、40代の頃より50代の今のほうが愛着が湧いてきた。

 

それが積み重ねの大事さだと思う。もし、今の段階で一から始めようと思ったら腰は重いはずだ。歳のせいもあるがきっと一歩目を踏み出せないままだと思う。

 

そういう意味でもせっかく続いている以上、まだまだ続けていきたい。今年のライブの演目も9割方固まった。以前はメンバーそれぞれが勝手気ままに自分のやりたい曲を選ぶだけだったのだが、すっかりベテラン?バンドになったから今年はあくまでお客様目線での選曲を心がけた。

 

これから演奏順と合間のMCについても考えなきゃならない。例年私のしゃべりすぎが糾弾されるのも我がバンドの特徴である。今年も批難ゴーゴーになるように頑張らないといけない。

 

 

 

 

 

 

 

 

2022年7月22日金曜日

茶色の誘惑 「あげづき」など


若い頃のように傍若無人に食べるのは厳しくなったが、今も私は揚げ物が大好きだ。例外なく茶色いのが嬉しい。世の中のウマいものは茶色であることが前提である。揚げ物は茶色代表だ。

 

一時期、トンカツにハマってあちこちの人気店にわざわざ出かけた。さすがにどこも美味しかったが、高田馬場にあった「成蔵」と神楽坂の「あげづき」はとくに印象に残っている。

 

それぞれのお店の評判を聞きつけて通い始めた頃は普通に気軽に入れたのだが、その後いつのまにか大行列店になって足が遠のいてしまった。並ぶのが大の苦手だから仕方がない。

 

先日、日本橋界隈をブラブラしていたらコレド室町テラスという新しいビルに「あげづき」の支店を発見した。有難いことに空いている。迷わず入ってみた。

 


 

ガラガラの空間ならノンビリ楽しまないといけない。まずはビールだ。前菜3点盛りとオニオンスライスで久しぶりのウマいトンカツを待つ。ヨダレでろでろ状態である。

 



 

あれこれウンチクも書いてある。こういう言い訳、いや、注釈があると待つ時間も楽しい。ちなみに久しぶりの訪問だったから一番高いヒレカツを頼んだ。富豪みたいである。

 

こちらのトンカツは揚げかたの関係で色が淡いのが特徴だ。とはいえ茶色だからウマいのは当然だ。トンカツの他にメンチカツも1個だけ注文する。

 


 

メンチが先に来て欲しかったがヒレカツと一緒に登場。このメンチがなかなか良かった。まさにビールのためにあるような一品である。優しい味わいの極上ハンバーグのような塊が揚げられている。周りに誰もいないからウッシシとつぶやく。

 

肝心のヒレカツはさすがに素晴らしい肉質だった。上等な店で高い値段を取るヒレカツはハズれることはない。どうでもい店で食べるとパサパサの残念無念な仕上がりになるが、定評のある店ならヒレこそ注文すべきだろう。

 



本店に比べるとやや衣が邪魔な印象があったが、とにかく肉の揚げ加減が絶妙だったから文句を言うのは申し訳ない。肉の味の濃さ、柔らかさともに高いだけのことはある。

 

上等なトンカツがビールに合うのはもちろんだが、豚肉の力強さは芋焼酎と合わせるのもアリだ。ソースをまとったヒレカツに齧り付いて口中にアノ味わいが広がった直後にロックの芋焼酎をグビッと流し込む。泣きたくなるほどの充実感である。

 

安さを追い求めるのも大事だが、日々生きるための食事とは違い、楽しむための食事の場面では奮発して上等なものをあえて注文する方がQOLの点で正しい。そのぶん心が幸せを実感する。

 


 

こちらは別の日に食べた上等なヒレカツ。自宅近くの「甲州天山」という店の特上だ。確かこれも3千円オーバーだったが、こういう値付けの場合にはロースよりヒレのほうが感動は大きい。

 

衣がちょっと残念だったから行儀悪く衣を剥がしながら食べた。良い肉をしっかり味わうためにはそんなマナー違反も仕方がない。ビックマックの上と下のパンを捨てながら食べるよりは健全だと思う。

 

トンカツをめぐってはヒレ派とロース派が長年にわたって熱い議論を戦わせているが、個人的には「安い店ならロース、高い店ならヒレ」を一つの基準にしている。

 

高い店の高い値付けのロースはヘタすると脂が多すぎてちょっとキツいケースが多い。中年になれば奮発して上等なヒレカツを選ぶのが間違いないと思う。

 

などとトンカツのことばかり書いてしまったが、世の中にはウマい揚げ物がゴロゴロしている。コロッケしかりエビフライしかり、マックの芋だって揚げたては妙にウマい。

 

カキフライにしても揚げないで食べる牡蠣とはまるで違った美味しさがあるし、大衆串カツ屋で出てくるチーズ串をソースにベトベトつけて食べるのだって悶絶するほどウマい。

 

若い頃の暴飲暴食がたたって逆流性食道炎という持病と付き合っているのだが、それが無ければもっともっと揚げ物三昧の日常を過ごしたはずだ。つくづく若き日のアホな食べっぷりを後悔する。

 

そうは言いながら考えてみればわりと頻繁に揚げ物を食べている。単純に薬のおかげである。3割負担だから国に7割も出してもらって揚げ物を楽しんでいるわけだ。

 

ウマいトンカツを食べ続けるために愛国者でいようと決意した。

 何じゃそりゃ・・・。






2022年7月20日水曜日

♪わたし待~つわ


 

ウナガーだ、ウナギニストだなどと自称するほど私はウナギが大好きだ。年柄年中ウナギを食べたくなる。疲れている時は尚更だ。

 

もうすぐ土用の丑の日である。鰻屋さんがどこも鬼混みになるからその前後はさすがに避ける。職人さんの仕事が雑になりかねない大混雑する日にわざわざ食べようとは思わない。

 

そもそもウナギの旬は冬だ。夏場はウナギが売れなかったから江戸時代のスーパークリエイター・平賀源内が無理やり編み出したのが土用の丑の日にウナギを食べる習わしである。

 

江戸時代はおそらくウナギは天然モノばかりだろうから夏場は痩せたウナギしかなかったはずだ。エアコンも無いしきっと鰻屋さんは閑古鳥状態だったのだろう。特別なキャンペーンが必要だったわけだ。


有難いことに今は養殖技術の発達で一年中脂ののったウナギが楽しめる。中途半端な天然モノより真っ当な養殖ウナギのほうが美味しいのは間違いない。平賀源内さんがこじつけた「夏こそウナギ」というキャンペーンはむしろ現代社会にハマっていると思う。

 

バテやすい夏にはウナギで精をつけたくなる。疲労回復に効き目のあるビタミン類を豊富に含む滋養強壮食品だから、私が何とか日々元気に過ごしているのもひょっとしたらウナギのおかげかもしれない。

 

最近も1週間に3度もウナギを食べた。それぞれの店で白焼きも鰻重も堪能したから、少なくとも1週間で6尾以上のウナギを食べた計算になる。ウナギ供養のためにも疲れたなどと口にしてはいけない気がする。

 

以前より食が細くなったことがウナギ攻めに関しては良い効果を生んでいる。というのも以前の私なら「鰻重はご飯が見えてはいけない」というバカげたこだわりがあってテンコ盛り鰻重がある店ばかり通いがちだった。

 

冒頭の画像みたいな鰻重こそ正義だと信じていたわけだ。そんなフードファイト状態が当たり前になっていたせいで、最上ランクでも「ご飯が見える鰻重」を出す店にはついつい足を運ばなくなってしまっていた。

 

最近は白焼きや他のツマミも食べた後にテンコ盛り鰻重を食べるのがさすがにキツくなってきた。というわけで、ようやく私も「シメの鰻重はご飯の見える普通サイズ」で注文するようになってきた。

 

おかげで今まで足が遠のいていたお店にも行けるようになった。食後の苦しさも以前より遙かに軽減された。とても良い循環である。だから週に3度もウナギを堪能できるわけだ。

 




 

上から小伝馬町の高嶋家、人形町の喜代川、築地近くの竹葉亭本店の鰻重(鰻丼)である。どの店も共通しているのは店構えが「古くて渋い」ことである。私にとってこの要素は大事だ。

 

近代的なショッピングビルにも美味しい鰻屋さんはいくらでもあるが、ナゼか私は古めかしい建物を構える鰻屋さんに惹かれる。モダンな店、ジャズが流れる店みたいな雰囲気でウナギを味わいたくないという変なこだわりがある。

 

渋い風情の店をふらっと一人で訪ねてボケーっとウナギを待つ時間が好きなのかも知れない。待たされることが大嫌いなのに鰻屋さんだと不思議と待つことに喜びを感じたりする。Mである。

 




 

枝豆をつまみにビールで喉を潤し、肝焼きや白焼きが出てくるタイミングで冷酒に切り替え、緩やかに少しずつホロ酔いになっていく課程が楽しい。

 

牛丼屋みたいに秒速で鰻重が出てきたら興醒めだ。待つことも含めてウナギの味だと思う。まあ、そうは言ってもウマい鰻重が吉野家の牛丼みたいに秒速で出てきたらそれはそれで嬉しいかも知れない・・・。

 

いや、それはやはり反則だ。鰻重は待ち時間も味のうちだと一応断言しておく。

 

今日紹介した3軒とも渋さはバッチリだ。待つための空間はこうであって欲しい。一人ふらっと訪ねる場合は開店直後など空いている時間を狙うのが一種のマナーだ。

 

そんな空間でウナギ好きなら知る人ぞ知る冊子「うなぎ百撰」でもパラパラめくりながら過ごす時間は格別だ。うなぎ百撰の画像の下はそれぞれ高嶋家、喜代川の店内。「鰻屋さんっぽい感じ」はやはり大事だと思う。

 





以前、いまは無き寝台特急北斗星で北海道まで十数時間を一人のんびり過ごしたことがある。長い時間そこに居続けなければならないと不思議に気持ちが落ち着いた。ジタバタしたってしょうがないみたいな達観が心の沈静化につながったようだ。

 

鰻重を待つ時間はあの時の気持ちにちょっと似ている。ジタバタせずに待つしかない。そう割り切ってしまえば自然と心がほぐれてくる。そして鰻重が登場して蓋を開けたときの感激で一気に覚醒する。

 

味だけでなくそんな心の動きを楽しめるのもウナギの効能かも知れない。

 





 

 

 

2022年7月15日金曜日

デンデン虫 帝国ホテル


私にとってフランス料理といえばエスカルゴのイメージが強い。あまりフランス料理は好きではないが、エスカルゴはついつい食べたくなる。

 

もう50年近く前のことだが、欧州旅行に行った祖父が乾物状態のエスカルゴをお土産に持ってきたのが私とエスカルゴとの出会いだ。正直、気持ち悪いの一言だった。

 

デンデン虫の殻が大量にパッケージされていたわけだからブキミ以外の何物でもなかった。ヨーロッパ人なら食用という意識が優先するのだろうが、半世紀近く前の日本人の少年から見れば単なるデンデン虫だ。もっと言えば殻付きのナメクジである。

 

ナメクジに塩をふったら縮むぞ、みたいなイタズラをしていた身としてはエスカルゴも調理したら溶けて消えちゃうんじゃないかと思ったほどである。

 

でもバターとガーリック中心に味付けされたヤツは案外ウマかったので知らず知らずに好物になっていった。子供の頃の純粋さを失っていくことに比例してエスカルゴを美味しく感じ始めていったわけだ。

 

一説によるとエスカルゴは人類が最初に食べたものの一つにあげられるらしい。古代ローマ時代には既に養殖が始まっていたそうだ。なんとも歴史のロマンを感じる一品だ。

 


 

本場・フランスでも食べたが、スペインでも上の画像のようにドッサリ煮込んだエスカルゴが郷土料理屋などで出てくる。ワインのつまみには最適だ。ナメクジのイメージは酔っ払ってしまえば忘れる。

 

先日、10年ぶりぐらいに帝国ホテルの「ラ・ブラスリー」に出かけた。この店のウリになっている名物料理が並んだコース料理とは別に当然のようにエスカルゴも注文した。

 

普段あまりワインは飲まないのだが、エスカルゴと白ワインの組み合わせは最強だ。まあガーリックとバターの風味がワインにバッチリなわけで、デンデン虫そのものの味は正直よく分かっていない。

 



 スペインではトマトベースの煮込み味だったから、思えばエスカルゴそのものの味を私は知らない。エラそうに語っている割にはヘナチョコである。とはいえ、あれを塩コショウだけで食べたいとも思わないし、ましてや刺身は勘弁願いたい。

 

知りたいような知らずにいた方が良いようなそんな物体がエスカルゴである。やはりガーリックとバターの味をムホムホ喜んでいれば幸せだ。その証拠にデンデン虫の代わりにツブ貝などを使ったエスカルゴ風というメニューもあちこちで食べたが、正直そんなに大きな違いは感じなかった。

 

なんだか誉めているのかクサしているのか分からない話になってしまった。

 

さてさて、久しぶりに訪れた「ラ・ブラスリー」である。たまたまだったのかも知れないが、お客さんの数がまばらで以前感じたような活気が無くて少し残念だった。

 

それより何より私が楽しみにしていた「ピラフ」がメニューから消えていたのがショックだった。昔はこの店に来ればどんなに満腹になろうともピラフを注文した。フレンチである以上、ピラフ自体が邪道な存在とみなされたのだろうか。残念無念だった。

 




 

この店の名物であるシャリアピンステーキと海老と舌平目のグラタンエリザベス風とローストビーフである。フレンチが苦手な私でもこれらの王道メニューを味わっていれば幸せな気分になる。

 

歯が痛かったシャリアピンさんに出した柔らかステーキであり、エリザベス女王来日時に提供されたグラタンである。そんな物語性も古くからあるお店の面白さだろう。

 

帝国ホテルといえば、日本の西洋料理の曙みたいな存在だ。この店の料理もどことなく日本人に馴染みやすい味わいである。私のような年代の人間にとっては昭和の頃に覚えた西洋料理の味だ。

 

加齢と共に生活全般において保守的な傾向が強まっているのだが、こういう「昔ながら」が一番落ち着くししっくり来るようになった。洋モノが食べたい気分になったらまた来ようと思った。




ちなみにこれが10年以上前に食べたこの店のシーフードピラフ。これに特製ソースをかけながら味わうのが最高だった。強く強く復活を願う。






2022年7月13日水曜日

ゾワゾワした気分 追悼演説

 

子供の頃、かつて社会党の浅沼委員長が演説中に殺されたという話を聞いて過去の事件ながら衝撃を覚えた記憶がある。リアルタイムで接した今回の安倍元首相の事件への驚きはそれとは比較にならないほど大きかった。唖然とした。

 

元首相の殺害などという事件は歴史の教科書に載るような次元の話だと思っていた。現代社会で起きることではないと勝手に思っていた。

 

ネット上には白昼の惨劇を撮影した数々の動画が溢れている。繰り返し視聴してしまい精神的に参ってしまう人は多かったようだ。私自身も動画の見過ぎでゾワゾワした気分がなかなか消えなかった。

 

それにしてもあの警備のユルさはお粗末の一語に尽きる。批難されて然るべきだ。前首相ではなく前前首相だから手薄になったのだろうか。警察にとって間違いなく歴史的な汚点だ。責任は曖昧にすべきではない。

 

今回の事件については、民主主義への挑戦だの言論への挑戦だのメディアはことさら政治的背景をストーリー化したがったようだが、蓋を開けてみれば、煮詰まった人物の個人的動機による凶行だった。

 

そう分かったら分かったで、そういう煮詰まる人間を生んだのが安倍政治の傲慢さだとか、安倍元首相が民主主義の盾になっただとか、強引というかズレた言説も随分と見聞きした。

 

なんでもかんでも大上段に構えて理論付け、というかこじつけるような風潮は感心しない。今回の件でも先週末には「だから投票に行こう」といった論理のすり替えみたいな話が飛び交っていたことには違和感があった。

 

投票率の上昇と事件との因果関係は分からないが、投票率アップが結果として意味不明?な新顔議員をたくさん誕生させたという側面もある。

 

いずれにせよ今回の事件をどう捉えていいのか、まだちょっとモヤモヤしている。政治的な目的のいわゆる暗殺ではないにしても、あのような事件を起こす異質な人物が増加していることは今のこの国の問題だと解釈することも出来る。

 

テレビで誰かが言っていたが「自殺したい人が一発やり返してから死のう」といった刹那的な思い込みによる事件が増えているという。確かにそんな傾向は昔より強まっているのではないか。

 

思えば近年世間を騒がせる無差別殺人などは、社会から阻害されたような状態で変な思い込みに固執した犯人が起こしているケースが多い。現代社会の病巣みたいな話なのだろうか。


ちなみに「引きこもり」は現在100万人を超えるというデータもある。若者だけでなく30代、40代も相当数にのぼる。昭和の頃に比べれば明らかに異質だ。

 

社会との接点のない人が増えることで普通の人が普通に思う常識の外で生きる人も増える。こうした人々の感覚をそうでない人が理解することは難しい。

 

結果、社会の分断は進む一方だ。昔だったら「言わずもがな」で済んだ話も、すれ違いにつながり対立や恨みを生む悪循環に陥る。まさに現代社会の闇の部分が事件の根っこにあるのだろう。

 

いかんいかん、なんだか結局は私自身が今回の事件を「大上段に理論付け」したくなっているようだ。どうにも話がまとまらない。

 

それはさておき、「かつて安倍さんを批難した奴らは詫びろ」みたいなピントのズレた声がネットなどに溢れているのはどうなんだろう。

 

確かに常軌を逸した過激な安倍批判は問題だったが、民主主義って突き詰めれば言論でのケンカみたいなものである。為政者が批判を受けるのはごく普通のことだ。


安倍政権への批判がすべて事件を誘発したかのように短絡的に捉えられるのは正しくない。そんな空気が濃くなるとしたら逆に恐いことだと思う。

 

個人的に左翼は苦手だが、ネトウヨと呼ばれるような行き過ぎた右側の人々の声にもブキミなものは多い。行き過ぎれば「お上は正しい。逆らってはいけない」みたいな危なっかしい理屈につながる。

 

なんだか綺麗事ばかり書いてしまったが、結局なにが書きたかったのかよく分からなくなってしまった。

 

戦後政治最大級の事件だけに何かしら触れておこうと思って書き始めたのだが、どうにもまとまらない。

 

ちなみに国会では在職中の議員が亡くなると追悼演説が行われる。これまで数えきれないほどの追悼演説が行われてきたが、冒頭で書いた浅沼社会党委員長への追悼演説は時の総理大臣・池田勇人氏による名演説として語り継がれている。

 

安倍元首相への追悼演説は誰が担うのだろう。野党勢力がヘロヘロだから自民党の同僚が行う可能性もありそうだ。


麻生さんなら聞き応えのある演説になりそうだが告別式で弔辞を読んだから再度の演説は無さそうだ。野党に大物党首はいないし、菅前総理あたりに白羽の矢が立つのだろうか。

 




 

 

 

 

 

 

2022年7月11日月曜日

タマネギのおかげで

 

先日このブログでも書いた冷凍のタマネギみじん切りのおかげで、私の自炊もどき生活のバリエーションが少し広がった。なんだか簡単調理に励むことが楽しくなってきた。

 


 

他にも簡単調理に追加されたのが生のマッシュルームである。今までカット済みの缶詰マッシュルームしか使ったことがなかったのだが、生マッシュルームを常に保存して使うたびに大きめにハサミでカットして活躍させるようになった。

 

タマネギとマッシュルームをちょっと高級なオリーブオイルで炒めるだけで自分が料理達人になった気がして楽しい。あとは粉末コンソメと塩コショウ、そこから先は肉やコメ、麺などその時のメインに合わせてケチャップやソースなどで適当に仕上げる。


米や麺と混ぜなくてもタマネギ、マッシュルーム、肉だけで少し味を整えた上で、市販のレトルトシチューなどに追加すれば妙に豪華なシチューっぽい一品が完成する。たぶん一から自分で作るより確実に美味しい気がする。


 

最近はツナライスとチキンライスを作った。みじん切りタマネギを心配になるぐらいタップリ入れると思った以上に美味しくなることに気付いて今さら知る料理の奥深さを面白がっている。

 



 

ツナライスはケチャップ仕上げ、チキンライスはコンソメベースである。隠し味に白ワインやウスターソースなども投入している。

 

すべて目分量で仕上げるのでたいていは少し味が弱い。まあそのぐらいのほうが健康に良いのであまり気にしていない。

 

チキンライスは結構高いブランド鶏を使ったらどことなく味わいに深みを感じた。やはり素材は大事だ。大ぶりの一枚肉だったので皮は半分以上捨てて残りをハサミで適当なサイズにカットした。

 

まな板と包丁を使わないことに固執しているので“マイ包丁”ならぬマイハサミが私の自炊を助けてくれている。包丁はなんだか見ているだけで怖いし、真剣に料理をしなければならないような気がして敬遠している。

 

それにしてもネットスーパーだけでなく、今はウーバーイーツのマーケットもあるので足りない食材が15分程度で届くから便利だ。

 

上の画像のチキンライスにはバターも投入したのだが、作る準備を始めた段階でバターが無いことに気付き慌ててウーバーで注文したらすぐに届いた。都心暮らしならではメリットだと思う。

 

別な日、冷蔵庫に常備しているカットキャベツが溜まってきてしまったので、サッポロ一番塩ラーメンを応用した焼きそばを作ってみた。

 


 

ネットで何気なく目にした動画に触発されてトライしてみたのだが大正解だった。大いにアリだろう。簡単かつ独特なウマさを味わえる。

 

肉を炒めて適当なタイミングでカットキャベツを投入、その後、サッポロ一番の麺を入れて少量の水でほぐしながら具材と混ぜ合わせる。味付けはラーメンスープ用の粉だけである。粉スープを全部入れると味が濃いので半分だけで充分だ。

 

最後に添付のゴマをふって完成。こんな簡単な作業でサッポロ一番塩ラーメンの味わいそのままで焼きそばに変身させることが出来た。ソース焼きそばに飽きた時にはオススメだ。

 


 

ネット上に溢れる料理動画の中でも私が見るのは横着系ばかりである。「フライパン一つで作る○△パスタ」とか「レンチンするだけの○△炒め」みたいなあまりウマそうには見えないシロモノばかりだ。

 

そのまま再現しようとは思わないのだが、あくまでその簡単な工程の中に何かとヒントがあるような気がしてついつい見入ってしまう。

 

先日はネット動画を鵜呑みにして失敗もした。「レンジで簡単に温泉卵が作れる!」的な動画を見て、テキトーにマネをしたら、何かが間違っていたのかレンジの中で卵が爆発した。

 


 

運良くレンジを壊すことはなかったが、後始末に多大な労力を費やすことになった。簡単、横着、お手軽とは対極の重労働になってしまった。泣きそうになったことは内緒だ。

 

あくまで簡単、横着を旨にテキトーに料理ごっこをしているわけだが、実は心のどこかで本格的に料理を趣味にしようかという気持ちも芽生えている。

 

でも元来私は凝り性だし、本気になってしまったら料理道具はもちろん、食材などにもとことんこだわり始める気がする。そうなったらお金もかかるし太り続けるし大変だ。

 

やはり電子レンジ内で爆発した卵の掃除に励んでいるぐらいがちょうどいいと思う。

 

 

 

 

 

 

2022年7月8日金曜日

景気とスカートの長さ


暑さが厳しくなると女性の薄着がうらやましくなる。とくにミニスカートにサンダルは実に涼しそうだ。スーツに革靴という私の格好に比べるとそれだけで体感温度が10度ぐらいは違うはずだ。

 

にもかかわらず今はミニスカートがあまり流行っていないらしい。もったいない。ロングスカートばかり見かける。暑さ対策、電力対策、いや、私の目の保養のために綺麗な女性にはミニスカートを履いてもらいたい。

 

最近、週刊誌に素晴らしい特集が掲載されていた。ミニスカートに関する大真面目な考察である。私はこういう特集が大好きだからじっくり読んだ。

 


 

週刊誌お得意のグラビアにはあまり興味がない。袋とじのページを開封することも滅多にない。でもエッチ系の活字ネタは大好きだ。読まずに素通りするほど私は枯れていない。

 

ミニスカートが嫌いな男性っているのだろうか。いたいけな高校生が制服なのに極端なミニ丈にして闊歩している姿は感心しないが、普通のミニは私も大好きである。

 



女性の脚線美は男性には無い特徴的なシルエットだ。見せびらかすべきだろう。男がそこに視線を向けるのは何もエロ意識だけではない。純粋に綺麗なものを目で追ってしまう本能に近い。

 

ミニスカートは単純に女性の脚をアピールための衣装だから若者専用のアイテムにしておく必要はない。30代、40代、はたまたもっと上の世代だって適度に脚は出せばいいと思う。

 

極端なミニじゃなくても膝丈ぐらいのスカートは年齢に関係なくもっとポピュラーになっていい。女性のふくらはぎとハイヒールの組み合わせは純粋に綺麗である。わざわざ隠すのはもったいないと思う。

 

ミニスカートの歴史を調べてみたのだが、ファッションの歴史においてはまだまだ新参者みたいな存在らしい。

 

Wikipediaによると「1920年代以前は、西洋の女性は足首までの丈のスカートを着るのが通例であった。1920年代には、ココ・シャネルのデザインを筆頭にそれ以前の西洋の女性のスカートよりも丈が短いものが見られ始めた。しかし、1930年代は世界恐慌のため、1940年代は第二次世界大戦のため、女性のファッションは再び保守的なものとなった。1950年代後半から、一部の女性の間でスカートが短くなり始めた」とのことである。

 

その後、1960年代から改めてミニスカートに脚光が集まるようになったそうだ。世界的な流行の火付け役は、フランスのファッションデザイナー・クレージュだとか。そして多くのデザイナーがミニスカートを発表し始め、イギリス出身のモデル・ツイッギーが着用してから世界中のミニスカブームにつながる。

 

ちなみに日本で初めてミニスカートを履きこなしたのはアノ“冬彦さんのママ”・野際陽子らしい。本当だろうか。いずれにせよミニスカを掘り下げるだけでなかなか興味深い近代史を知ることが出来る。

 

さて、もちろん、そんな綺麗事ばかりではない。男のスケベ心は「パンチラへの期待」という実に切ない感覚でミニスカートを捉えることが多いのも事実である。

 



 以前ここで書いた「パンチラ問題」でそのあたりは深く?考察している。

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2015/12/blog-post_7.html

 

私も高校生ぐらいの頃は電車の中で向かいに座るミニの女性のパンチラが拝めないものかと座りかたを必死に工夫してみた。なぜか見えないものである。見えないからこそ楽しいという真理は大人になってから学んだような気がする。

 

上でも書いたように1920年代以前なら世の中にミニスカートを履いている女性はいなかったわけだ。そう考えるとミニに特別な規制のない今の時代に生きていることは幸せだ。

 

問題はいまミニが流行っていないことである。実に淋しい。一説によると景気の良し悪しとスカート丈には相関関係があるらしい。好景気ならミニが増え不景気だとロングスカートばかりになるという話である。

 


 

今まで何度か聞いた話だから案外ホントかもしれない。だとしたら今のロングスカートばかりの世相も納得できる。やはり景気浮揚こそが何事においても大事になるわけだ。

 

私の目の保養のためなどという小さなことではなく、天下国家の安寧のためにも世の中の綺麗な女性にはぜひミニスカートを履いていただきたい。綺麗じゃない人だって一応は履いて欲しい。

 

ヘンテコな結論になってしまった。

 

2022年7月6日水曜日

新橋の奥深さ 「炉ばたや」


喫煙者にとっては肩身が狭い世界になったものである。ウン十年前に私がタバコに手を出した当時は成人男性の喫煙率が80%近かった記憶がある。8割といえば変人や病人を除けばほぼ100%みたいな話である。

 

駅のホーム、タクシーの中、飛行機の機内、エラい人の前だってタバコを吸うことは普通のことだった。違う世界の話のようである。

 

若者には喫煙者が結構いるようだが、今の時代にタバコを吸い出す人は凄いと思う。私だったらこんな不便な状況だったらまず手を出さない。吸える場所を探すのが面倒で仕方がない。

 

まあそんな愚痴を書いても始まらないのだが、気軽な居酒屋ですら禁煙が当たり前の風潮はツラい。夜の街をふらつきながら「喫煙OK」と書いてあるお店を探すのは一苦労である。

 

蛇の道は蛇でタバコが吸える飲み屋さんはいくつも知っているが、開拓精神もあって新たにタバコフレンドリーの店を見つけると吸い込まれるように入ってみる。

 

しかし、たいていハズれる。10回に8回はダメである。やはり数少ない知っている店に行くべきだったと後悔する。

 

某日、銀座の外れの小料理屋を訪ねたらあろうことか満席で入れず、新橋まで歩いてタバコが吸える串焼き屋を目指す。暑い中たどり着いたらなんと閉店していた。

 

仕方なく他の店をいくつか覗くがどこもなぜか混雑。やけになって禁煙の店に入ろうかと思ったのだが、ふと目に入った風情のある店の入口にタバコOKとあったので飛び込みで入店。

 

「炉ばたや」という昔からあるお店のようだ。文字通り炉端焼きがウリみたいだ。賑わっていたがカウンターの端っこが空いていたのでとりあえず生ビールで喉を潤す。

 


 

突き出しで出てきたのは殻付きウニである。なかなか気が利いている。見た目だけでなく味も悪くない。こりゃあ期待できそうだと安堵する。

 

接客も丁寧だし、殻付きウニのおかわりにも快く応じてくれたし、機嫌良く酒を楽しむ時間に没頭する。久しぶりにタバコも吸えるマトモな飲み屋さん発見である。

 


 

枝豆も熱々で出てきたし、アンキモ甘辛煮みたいなニクい一品もある。客層も大人中心で居心地も悪くない。ありそうで無い店だと感じた。

 

シマエビの刺身とマグロの刺身でゆるゆると飲む。隣の客が食べていたアジの干物もうまそうだし、エイヒレもうまそうだ。最近は人が頼んだモノはみんな美味しそうに見える。年々意地汚くなってきたのだろうか。

 



 アジの干物が食べたかったが、干物は尿酸値が高い人は敬遠すべき筆頭の料理である。我慢して小ぶりのノドグロを塩焼きで注文する。

 

しっかりした焼き魚を食べる機会が意外に無いので無心にほじくって食べる。さすが炉端焼きの店である。ちゃんと美味しい。すっかり幸福な気分で夜を過ごす。

 


 

不思議なものでタバコが吸える飲み屋さんに入るとそれだけで満足してしまい、1時間で2本ぐらいしか火をつけない。吸っている時間としてはほんの10分に達するかどうかである。でもそのわずかな安息タイムがつくづく大事なのが喫煙者の習性だ。

 

ホロ酔いの時間は過ぎていき、この後はラーメン屋にでも寄ろうかという悪魔のささやきが聞こえてきた。誘惑に負けそうになったのだが、この店のメニューにあったトロタク巻きが私を悪魔から救ってくれた。

 

標準のトロタク巻きの他に特上トロタク巻きもあった。違いは刺身かすき身の違いらしい。当然特上を注文する。

 


 

クドすぎないトロが使われていたのでシメにちょうどいい感じだった。全部食べてしまった。でもチャーシュー大盛りラーメンよりは遙かにマシだろう。

 

大衆酒場よりは値が張るが、逆に大衆酒場よりも落ち着いて肴と酒に向き合える良い店だった。新橋の雑踏からちょっと離れた立地も穴場感があって大箱過ぎず狭すぎず、いろんな面でちょうどいいお店だった。




結局、機嫌良く酔えたので、その後ブラブラ歩いて銀座パトロールに出動することになってしまった。


タバコ難民のおかげでこういう思いがけず居心地の良い店に出会えることもある。たいていは失敗するのだが、当たりを見つけた時の喜びは大きい。禁煙したらこういう楽しさは決して味わえない。そんな無理矢理かつ強引な結論でまとめることにする。

 


2022年7月4日月曜日

炒めたコメの美味しさ

 

九段下にあったホテルグランドパレスが昨年閉館してしまって以来、私の大好物であるピラフとご無沙汰している。もともとコメが大好きな私にとってピラフという響きは魅惑的だ。聞くだけでヨダレが出る。

 

ピラフは本来炊き込むものだが、中華風ではない洋風系の炒めメシのことをなんとなくピラフと称する風潮もある。炊き込みメシと炒めメシでは随分違うのだが、美味しければ名称問題は小さな話ではある。

 




画像はフィレンツェで食べたポルチーニのリゾットとバルセロナで食べたイカスミのパエリアである。こういう料理があるからフランスやイギリスよりイタリア、スペインが好きだ

 

さて、パエリアやピラフ、リゾットなど生米から調理する炊き込み系よりも思い立ったら速攻で作れる炒めメシは普段料理をしない私でも時々手がける。冷凍ご飯がたまると消化するためにピラフ風炒めメシを作る。

 

面倒なことは嫌いなのですべて目分量だ。軽く油をひいて塩コショウと粉末鶏ガラスープが味付けの基本。その他にウスターソース、ケチャップなどを気分に応じて使い分ける。

 

先日はそれすら横着してレトルトのパスタソースをそのまま白米と一緒に炒めて失敗した。理由は定かではないがマズかった。やはり横着しすぎるのはダメだ。愛情を持って作らないとウマいものにはありつけない。

 


 

これがミートソース炒めメシである。一見それなりに仕上がっているようだが味のバランスが悪かった。大人向けのパスタソースだったから甘味を足せばマシになったような気がする。

 

いや、粉末鶏ガラスープを入れなかったせいかもしれない。炒めモノにはこの粉末が定番である。どうでもいい炒めメシでもこの粉末があれば味が決まる。安直だが事実である。

 



別な日、無性に食べたくなって挽肉だけの炒めメシを作ってみた。これは私が子供の頃に大好物だったもので頻繁に母親に作ってもらった。まさにソウルフードである。

 

塩コショウの他に鶏ガラ粉末、そしてウスターソースが味の決め手だ。どうってことない味なのだがアホみたいに食欲があった子供の頃に貪り食っていた料理だから今も時々食べたくなる。

 



子供の頃は挽肉ピラフと呼んでいた。なぜか当時と同じ味にはならないのだがほぼ再現出来ているので懐かしくバクバクと頬張る。こればかりはチビチビ食べずに口いっぱいに頬張るのが良い。

 

大人になってから初めて食べさせられたらきっとビミョーな感想しか出てこないだろう。ウチの娘もこれを食べてもちっとも喜ばない。でも私にとってはミシュランだとか食べログ4点台の店のメシより心が鷲摑みされる味だ。

 

別な日、無性に缶詰のツナが食べたくなって懲りずに炒めメシを作る。マッシュルームぐらいは投入したかったのに何も無かったから具材はツナだけである。

 

ツナしか入れない炒めメシを想像してみたがちっともウマそうではない。仕方なく細心の注意を払って味付けに取り組んだ。

 

塩コショウの加減、鶏ガラ粉末の量、醤油、ウスターソースを少々、ちょこっと日本酒も投入、隠し味に豚丼のタレをちょびっと。そしてケチャップで全体を整えた感じだ。

 


 

気持ちだけは真剣に、でも実にテキトーに味付けしたツナメシが完成した。感想は「普通」である。一応美味しかった。具がツナ以外何も無い以上これが限界みたいな味だった。

 

やはりタマネギのみじん切りぐらいは用意しないと厳しい。そんなことは百も承知だが、炒めメシのためにタマネギを買ってきて涙を流してみじん切りにするのはイヤだ。なんだか負けた気がする。

 

というわけで今後の突発的炒めメシ作りのために冷凍のタマネギのみじん切りを購入した。こんな便利なものが世の中にあるなんて良い時代になったものである。

 



 横着モノには有難い商品である。調子に乗っていろいろ探したらナマのタマネギみじん切りばかりではなく、飴色にソテーされたタマネギのレトルトみたいな商品もいくつも発見した。

 

カレー作りの際に投入するのが主な用途みたいだが、私の”テキトー炒めメシ”に加えても面白いかも知れない。

 

「まな板と包丁は使わない」。自炊における私のモットーである。炒めるか焼くかレンチンか、はたまた炊飯器で炊き込むか。これだけである。カットが必要な食材はハサミで切るか手でちぎる。

 

イマドキのネットスーパーには私のそんなこだわりを助けてくれる便利な食材の数々が揃っているのが有難い。

 

老後のために料理を趣味にしようと今まで850回ぐらいは決意したのだが、横着してもそこそこウマいものが出来るといつもあきらめる。

 

きっとこのまま年老いていくのだろう。ビミョーである。