2013年7月31日水曜日

ハワイ


もうすぐハワイに出かける。10年以上ぶりだ。ハワイ旅行などというとウキウキモードのように聞こえるが、今回はチト事情が異なる。 

12歳の娘と74歳の私の母親との3人旅だ。一風変わった組み合わせだ。なんと表現したらいいのだろう。

大過なく過ごすことが課題である。

カリスマスタイリストとして活躍する小学校からの同級生がいる。ヤツはハワイの高級コンドミニアムと東京を行ったり来たりしているようで、Facebookでは、いつもオッシャレ~なハワイでの日々を紹介している。

かなりうらやましい。呪いたいほどだ。

今回の私の場合、オッシャレ~な時間とは無縁になりそうだ。きっとワイキキの目抜き通りやアラモアナショッピングセンターをうろついて終わりそうだ。

まあ、良しとしよう。

大学生の時、初めてハワイを訪れた。僻地のような南の島に潜水旅行をし始めていた頃だったから、ワイキキの「街っぽい感じ」がしっくりこなかった。

「ただの都会じゃねえか」みたいな印象がある一方で、都市としての利便性も捨てがたく、何度も行っているうちにハマった時期もあった。

大学4年の春休み、それぞれたまたまハワイに来ていた友人達との合流が重なり、巨大集団となって遊んだこともあった。ビーチバレーならぬビーチ三角ベースに血眼になったり、クルマを連ねて走り回ったり、大勢で中華料理屋や焼き肉屋でドンチャン騒ぎをした。

20代の頃、仕事でハワイに滞在中の年上の女性を追っかけて、わずか2泊でワイキキに滞在したこともあった。アホである。高級シーフードレストランで奢ってくれるというからデカいロブスターを注文して怒られたりした。若気の至りである。

当時、ミーハーなダイバーにとって神様みたいに扱われていたクリスチャン・ラッセンのリトグラフも買ったことがある。これまた若気の至りだ。結構な値段だった。別送品申告の手続きを忘れて、慌てて東京税関の知り合いに掛け合う珍事件もあった。

ひょんなことから、なぜか兄夫婦と私の3人で出かけたこともある。一人者の私に気を遣った兄嫁が、そこらへんを歩いていた観光日本人女子をナンパしていた妙な思い出もある。

そういえば、15年ぐらい前には、ワイキキ郊外の教会で結婚式もやった。これまた若気の至りである。

その際、身内だけのパーティー会場に現地のウクレレミュージシャンと歌い手を呼んで余興をさせたのだが、この時も珍事があった。

そのハワイアン連中が気を利かせて日本語の歌を披露すると言い出した。どうせ「上を向いて歩こう」でも始めるのかと思ったら、五輪真弓の「恋人よ」を熱唱された。

ウェディングパーティーで大失恋の歌である。凄いセンスだ。


♪枯れ葉散る夕暮れは
 来る日の寒さをものがたり
 雨に壊れたベンチには
 愛をささやく歌もない ♪


こんな感じで切々と歌い始める。おったまげる。一応めでたい席である。笑うしかない。


♪恋人よ~さようなら~♪

♪この別れ話が~冗談だよと笑ってほしい~♪


大いにウケた。腹の底から笑った。でも、私の母親などは真剣にムッとしていた記憶がある。

あの時、既に将来を暗示されていたとは。

ハワイアン、恐るべしである。

社員旅行でハワイに行ったこともあった。あの時も切ない出来事があった。「サンセットクルーズ」をめぐる珍事である。

サンセットクルーズといえば、オノボリさん的である。少なくても私はそう思っていた。バリバリのハワイリピーターを気取っていた私は「かったるいなあ、そんなもん行きたかねえよ」と毒づいていた。

でも、内心は参加してみたかった。コッソリと楽しみにしていた。ところが、旅行会社の人間が私に誤った集合時間を伝えたため、参加できなかった。

ハラワタが煮えくりかえったのだが、カッコつけてた手前、そんな様子はオクビにも出せない。ウジウジと人目を忍んで落胆したことを覚えている。

ここ数年は、セキュリティーの強化などでアメリカ自体に行くのが億劫になり、ハワイに行く機会もなかった。

同行する娘は、昨年も一昨年も母親とハワイに出かけているので、私よりも詳しいつもりでいるらしい。

やれ、どこのパンケーキがウマいだの、どこのスイーツが最高だのと四の五のホザいている。

そんな甘ったるい時間だけでは教育上よろしくない。


父親の威厳を示す意味でも、ノースショアまで遠征してスパルタシュノーケリング教室を開催してやろうと企んでいる。

2013年7月29日月曜日


馬と聞くと何を想像するだろう。草原を疾走する美しい姿か、それとも競馬場のサラブレッドか、はたまた馬刺しかサクラ鍋か。
どれも魅力的だ。

もともと馬は神様の乗り物として尊ばれていたし、絵馬だの左馬といった縁起物系に登場することも多い。

実際にその姿を近くで見ると実に美しい。犬やネコや熊や鹿や牛や豚と比べても断然美しい。なんとなく別次元の生き物に見える。

そんな馬に敬意を表すため、先日行った函館でも競馬場に足を運んでみた。ギャンブルのためではない。馬を見るためだ。

そう書くとチョットかっこいい。


競走馬の美しさは別格だ。パドックでボケッと眺めているだけで、筋肉美や毛並みの美しさに見とれてしまう。

ランウェイを歩くかのような十数頭をじっくり見ていると、ついつい馬券も買ってしまう。私の場合、目が合った(ような気がする)馬をついつい買ってしまう。

で、散財する。

だいたい、競馬場のカネのかかった施設を見れば、儲かるのは胴元だけだとアホでも分かるのに何故か馬券を買ってしまう。

競馬新聞を読むわけでもなく、自分の誕生日だとか、好きな数字とか、そんな基準で単勝とか枠連を買うだけの私に幸運が舞い込むはずはない。

縁起物の左馬のいわれはいくつかあるが、「うま」を逆さにすると「まう」になるからという説もある。

私の馬券はいつも紙切れになって空を「舞う」。そんなもんだ。

食べてもウマいのが馬である。江戸時代、吉原につづく大門の門前にはサクラ鍋屋が何件も並んでいたそうだ。

馬肉は別名「蹴飛ばし」ともいわれる。そのぐらいパワーがつくという意味だ。遊郭で朝までズコンズコンとハッスルするための栄養源だったわけだ。

都内の老舗といえば深川の「みの家」とか、三ノ輪の近くの「中江」が有名だ。職場や家から近ければ頻繁に通いたいところだが、なかなか行く機会がない。

銀座の「こじま屋」も悪くなかった。レバ刺しなんかも食べられるし、上等な部位をアレコレ焼いて楽しめる店だ。


先日、千代田区某所にある某店を訪ねた。馬以外にもアレコレ楽しげなメニューが揃っていてワイワイ飲むには良さそうな店だった。

馬刺しも新鮮で臭みもなく、焼酎のアテにばっちり。その他、馬肉のタルタルステーキとか部位ごとのグリルとか、それなりに楽しめた。

シメに頼んだ馬肉のパエリアがオヨヨって感じだった。油が悪かったのか、何が原因か分からないが、気持ち悪さが翌日まで残ってしまった。

たとえ遠くても定評のある老舗に行った方が間違いないのは分かっているのだが、ついつい開拓精神が頭をもたげて失敗する。

先日も文京区内の某うなぎ店で、ありえないほどマズい白焼きとマズいお重に遭遇して倒れそうになった。長く生きてるクセにどうしてアホな失敗をしてしまうのだろう。

きっと、馬や鰻に対する日頃の信仰が足りないかもしれない。反省。

競馬に話を戻す。

元々ギャンブルをやらない私が初めて競馬場に足を踏み入れたのが函館だ。

寿司屋でさんざん昼酒を楽しみ、酔いざましに散歩していた時にフラフラ入ったのが初体験。

その後、函館競馬場は全面改修で休業していたが、今回久しぶりに新装なった綺麗な競馬場をうろうろすることが出来た。

旅先で競馬場にいると、なぜだか気分が高揚する。旅という異次元感覚とギャンブルという夢追い体験が融合するわけだから妙に楽しい。

わざわざ遠方までギャンブルに出かけることを「旅打ち」というそうだ。なんとなくロマンを感じる言葉だと思う。

日本全国「旅打ち」に出かけるような、そんなヤサグレた感じにチョット憧れたりする。

男はいくつになっても不良を気取りたい生き物なんだろう。

2013年7月26日金曜日

お笑い民主党


20年前、「お笑い北朝鮮」が大ヒット。まだ拉致問題が知られていなかった頃の話だ。著者のテリー伊藤はこの一冊で大注目されたように記憶している。 
あれから20年、いま「お笑い○○○」は何かといえば「民主党」をおいて他にない。



ほんの数年前、3人が船に乗って荒波と闘う選挙CMが放送されていた。まさにお笑いである。YouTubeで探せば動画も見られるので興味のある方はどうぞ。

その後、小沢さんは国策捜査に引っかかって勢いをなくし、先の参院選では地元・岩手ですら存在感を出せずじまい。

菅氏は、東京選挙区で党に公然と反旗を翻して分裂選挙をあおったが、応援する候補者はメロメロな負けっぷり。「桐島ローランド」にも遙かに及ばない得票数に終わった。反感ならぬ「反菅のせいでボロ負けした」と言われる始末。

そして今、党から離党勧告を受けるありさま。

国賊の鳩山というおじさんは、相も変わらぬルーピーぶり。話の外。

参院選での17議席という結果は「惨敗」には違いないが、正直17議席も取れたことに驚いた識者も多い。

自民党が1人区以外の選挙区で複数の候補を積極的に擁立していたら、民主党にとってもっと厳しい結果だったと思う。同じく、民主、共産以外の野党陣営が選挙協力を緻密に進めていたら違う結果だったことは確実。

去年まで一党で政権運営をしていた政党とは思えない凋落ぶりだ。

仕事で知り合った国家議員の中には民主党の議員も多い。思えば「おぬし、悪やのう」と言いたくなるようなタイプはいなかった。

それが良かったのか良くなかったのは分からない。でも、あの稚拙な体質は、そうした「民主党的な空気」と無関係ではないのかもしれない。

昔の自民党実力者のように、威圧感タップリでありながら清濁併せ飲むようなオーラを持った人物が政権政党には欠かせないのかもしれない。

野党共闘が議論されているが、ミニ政党みたいな集まりがピーチクパーチク言っても始まらない。お笑い社民党もそうだが、お笑い民主党も解体したほうが建設的だと思う。

健全な二大政党制のための選挙制度を構築してきたのに、自民党内でかつての「反宮沢闘争」みたいな内紛が起きない限り、今後しばらく政権交代は起こらない。

まあ、安定政権が安定的にまっとうな経済政策をとってくれれば政権交代など起きないほうがマシではある。

さて、お笑い民主党といえども、個々の議員には光る存在はいるようだし、そういう有為な人材が働ける環境を整え直した方が現実的だ。

いつの日か必ず起きる自民党の内紛の際に、分裂の受け皿となるまっとうな健全野党を作り直してもらいたいものだ。

そうはいっても、前年の国会議員数で金額が決まる政党交付金をタンマリ持っている民主党だから、今年いっぱいは稚拙な争いが続くのだろう。

それにしても自民党に味方している「運」がここまで続くとは驚きだ。運も実力のうちとはいえ、敵失ばかりが現状の力の源になった。

民主党の稚拙さが、単純に自民党有利に働き、そうはさせじと出てきた維新の会も勝手にメロメロになってしまった。

維新の伸び悩みは、橋下氏の舌禍ではなく、石原さん率いる長老軍団と安易にくっついたことが原因だ。あの選択を決断したズレた感覚が自民党を利する結果になったのは間違いない。


選挙も終わって今更政治ネタを書くつもりはなかったのだが、お笑い民主党のお笑いぶりが目について仕方がないので、ついついグダグダ書いてしまった。

2013年7月24日水曜日

函館


なんとなく函館に行ってきた。これまでに何回訪ねただろう。10回以上になるだろうか。一時は手頃な値段の中古マンションを別荘用に買おうかと考えたほど好きな場所だ。


函館の魅力は空港と市街地と温泉が近い距離に位置している点だ。羽田から1時間程度で行けるので、夕方ふいに出かけても、明るいうちに海を眺めながら温泉につかれる。

ウマい魚介の宝庫だし、散歩する場所にも困らない。実に気軽に「遠いところに来たで~」という気分に浸れる。

宿は湯の川温泉の海っぺりの露天風呂が自慢の宿。他にも泊まりたい宿はあるのだが、砂浜が目の前に広がる解放感たっぷりの露天風呂が恋しくて、いつも同じ宿だ。

温泉旅館だが、夕食抜きでも予約できるので、いつもふやけきったあとで市内にいくつも点在する魚のウマい店に突撃する。

函館で一番のお寿司屋さん「梅乃寿司」は、今回も満席で予約できずに途方に暮れる。金曜夜、土曜昼、土曜夜ともにパンパンらしい。

この段階で旅の楽しみが半減した。まあ仕方ない。着いた日はさっそく温泉でホゲホゲする。

金曜の夕方、大浴場にはほとんど人がいない。コンビニで買った「黄昏流星群」をサウナに持ち込み、うるうるしながら汗を流す(ホントは持ち込み禁止です)。

2時間ぐらい風呂場で過ごしたので結構ヘトヘトになる。メンドーだから、宿から歩いて3~4分の寿司屋「木はら」に行く。

この店は、ニクい酒肴が揃っていて、北海道気分をしっかり味わえる。




たらばの内子、マスコの醤油漬け、毛ガニのミソ焼きだ。冷酒を片手にこんなツマミを舐め舐めしていると、おのずと気分がほぐれてくる。ありえないぐらい柔和で穏やかな顔になっていたはずだ。

握りを少し食べてから、近くのラーメン屋へ。ハシゴ酒ならぬハシゴ食い。これが大失敗。クドくてしょっぱいだけでちっともウマくない。かなり後悔する。

翌朝、朝風呂を堪能してから、レンタカーで恵山方面へ。あてもなくドライブ。海沿いに点在する漁港には、この時期ならではの電飾を大量にぶら下げたイカつり漁船が休んでいる。旅情タップリだ。

朝飯抜きでぶらぶらしていたから、昼近くになって猛烈に空腹感に襲われる。目に付く食事処は皆無だ。仕方なく恵山の道の駅に入ってみる。

食堂に入る。なんか魚臭いし、期待できそうにないなあと落胆していたのだが、嬉しい誤算。1500円の「根ぼっけ定食」が悪くなかった。


刺身、塩焼き、蒲焼き、フライの勢揃いである。元々、ホッケは北海道で食べるに限る!と信じて疑わない私だが、この店のヤケのヤンパチみたいなホッケのオンパレードに結構感動した。

まあ、異様に空腹だったこともあるが、ニッコニコのウッキウキである。フライがとくにウマかった。蒲焼きも初体験。これまたクセになる味だった。




ついでに頼んだホッケの蒲焼き丼までかっ込む。満腹だ。しばらくホッケは見たくないほど食べた。相変わらず旅先のドカ食いが止まらない。

夜、露天風呂から水平線に並ぶイカつり漁船の漁り火が見える。演歌の世界だ。この日もサウナにコンビニで買った漫画をコッソリ持ち込む。

「サウナで漫画」。なんだかヤサグレた感じで悪くない。お陰で干からびるほどサウナを堪能できた。

で、翌日、朝風呂でホゲホゲして、朝飯を抜いて、朝市界隈を散策。空腹状態で函館朝市をぶらぶらすると萌え~って感じだ。ウマそうなものばかり並んでいてツラい。でも、Mである私は大興奮である。

目に入るのはカニ、活イカ、生ウニ、キンキ、ホッケ・・・。店先で焼いていたトウモロコシに危うく手を出しそうになるが、我慢我慢である。

昼近くになって「うにのむらかみ」へ。ここは朝市界隈のガサツなドンブリ屋と違って、値段は高めだが上質な素材を揃えている店。

フードファイト開始である。



礼文の方から届いたばかりの塩水ウニと通常のウニ刺しをもらう。前者はエゾバフン、後者はムラサキウニだ。空腹だから食べ比べたって何にも分からん。ただ、甘くてクリーミーでバンザイである。

生ウニだけでなく、この店の名物であるウニの醤油漬けも注文。これまた酒に合う。生ビールを焼酎に切り替える。昼酒は人生最高の楽しみの一つだ。


活イカもソーメン仕立てに捌いてもらった。まだ小ぶりだ。ハラワタも小さいけどコリコリしたミミと一緒に頬張れば泣きたいほどウマい。


生きた毛ガニも茹でてもらう。ミソが絶品だ。そのまま舐めて良し、身にトッピングして食べてもウマい。500グラムの毛ガニだったが、カニフォークですべてをほじくり出して完食。

そして真打ちだ。丼である。この店の魅力は、ミョウバンを使っていない本物のウニしか使わない点だ。朝市にウニ丼を出す食堂は数え切れないほどあるが、こういうこだわりは有り難い。

ドンブリもこれ見よがしにデカいサイズではなく、やや上品な大きさだ。ここで私の脳みそがフル回転を始める。

「大きなサイズではない」イコール「物足りないぞ」イコール「二つ頼んじゃえば問題ない」。

実に哲学的な洞察により、そんな結論に達する。この店の丼メニューにはハーフサイズも用意されている。でも私は女子供ではない。生きざまとしてそんなものを頼むわけにはいかない。


結局、ノーマルサイズの丼が二つやってきた。ウニ丼とイクラ丼だ。ヒャッホーである。どっちから食べるべきか、交互に食べるには何口でチェンジすべきか、そんな高尚なテーマが頭をよぎる。

ご飯は少し残そうと思っていたのだが、食べ始めたら、そういうインチキは卑怯だと気づき一心不乱に食べる。ウマい。

「痛風?コレステロール?、なんのことでっしゃろ?」。まさにそんな感覚だ。

魚卵だの珍味は頻繁に食べると身体に悪い。その点、私が前の日に摂取したのはホッケとラム肉少々である。だからこの日は何でもアリだ。

わずか1時間半ぐらいの間に、ウニ刺し、活イカの刺身、毛ガニまるごと、珍味ちょろちょろ、ウニ丼、イクラ丼である。オールスターである。大満足だ。この喜びのためだけに函館に行ったようなものだ。

満腹になった後、シメにソフトクリームをぺろぺろする。魚介攻めの後のソフトクリーム、これまた最高である。

そんでもって帰路につく。丸二日の小旅行。気温は20度ちょっと、快晴。実に快適で優雅な時間だった。

2013年7月22日月曜日

冷やし中華を考える


夏の偉大なる食べ物と言えば「冷やし中華」である。私の大好物だ。中華と言いながら、もはや立派な夏の和食だ。
大好物のくせに店で食べることは滅多にない。店の冷やし中華はゴテゴテし過ぎているから苦手だ。

冷やし中華は素っ気ない感じで家で食べるのが一番良い。

今日は極めて個人的な暴論に終始するのでゴメンナサイ。

外食でわざわざ食べないものと言えば、そーめんが代表だ。今の季節の家メシの定番である。


変な定食屋とかで時々そーめんを見かける。あれも不思議だ。涼しげに器に浮かぶそーめんの他に、さくらんぼなんかがトッピングされている。意味不明である。

そーめんは、素っ気ないからこそそーめんだ。ヘンテコなトッピングは法律で規制してもらいたい。

私にとって、冷やし中華も同じ位置付けである。

キンシタマゴ?、不要だ。キュウリの千切り?、不要だ。チャーシュー?、無くたって構わない。

カニかま、トマトだ、クラゲだの、キクラゲだの蒸し鶏だの、店によってはゴテゴテと着飾ることが多い。ムダである。

ちょっと偏った意見だが、心底そう思う。

冷やし中華の魅力は「甘酸っぱいタレ」と「ツルツルと喉ごし絶品な麺」という二つの組み合わせに尽きる。それだけで完成の域に達している。

余計な脇役達が混ざることで、麺好きをウットリさせるあの味が破壊されるような気がしてならない。

チャーシューは大好きである。ラーメンなら10枚でも20枚でも歓迎するが、冷やし中華の場合、スープで温まることがないからチャーシューの良さ台無しだ。

だいたい、チャーシューも自分が「肉である」という事実に甘えている。キュウリの千切りやキンシタマゴがライバルだから、自分が絶対的なチャンピオンだと信じて疑わない。不遜な感じがイヤだ。

あくまで主役は麺とタレである。

不遜なチャーシューを冷やし中華と一緒に口に入れてもモゴモゴバサバサした感じだけが際立つ。冷えたチャーシューだと白く浮き出た脂の部分も興醒めだ。アノ官能的な麺のつるつるした食感を妨害する。

チャーシューに恨みはないが、冷やし中華という小宇宙にはシャシャリ出てこないでもらいたい。

グダグダ書いてきたが、要するに私は「具の無い冷やし中華」が好きだ。ちょっと変態だ。ちょっと恥ずかしい。でも、「具無し冷やし中華」こそ私の夏の定番である。

外食で冷やし中華を頼まないのはそれが理由だ。具でごまかされている。たぶらかされていると言った方が的確か。

あくまで、冷たい麺をツルッと食べたいだけなのに具が威張ってる感じが不快だ。合コンでグイグイ来る女子みたいで気に入らない。

試しに一般的な店の冷やし中華の具を全部どかして眺めてみてほしい。

具をよけてみると麺がちょろっとしか無い。あれが腹立たしい。裏切られたような悔しさを覚える。そーめんを4束食べたいのに、2束しか茹でてもらえなかったような寂寥感に襲われる。

私にとっての正しい冷やし中華は「2玉の麺、具は無し」である。上からぶちまけるタレは1玉分で充分だ。じゃないと酸っぱすぎてダメだ。ツルツルした食感の麺を楽しむだけがヤツの醍醐味だから、タレは少なめでOKだ。

ごまダレは好きではない。しゃぶしゃぶにも言えることだが、ごまダレのベトベトした感じがイヤだ。さりげなくない。図々しい存在感が鼻につく。合コンでグイグイ来る女子みたいで気に入らない。あくまで「リンゴ酢」系が王道だ。

具の無い冷やし中華を外食で味わうわけにはいかない。「具、ぜんぶ抜きで!」と注文したら店の人にぶっ飛ばされそうだ。必然的に家で食べるスペシャル?な食べ物になった。

私の場合、具無し冷やし中華は夏場の朝食の定番だ。具が無い潔さが朝の爽やかさとマッチする。皿一枚で完結するし、ズズズッっとすすっているだけで済むから「あまちゃん」の大事な場面を見逃すこともない。

朝の忙しい時以外は食べない。その理由はただ一つ。貧乏くさい感じがイヤだからだ。いくら好みだとはいえ、具の無い冷やし中華の大盛りだけで大事な一食が終わってしまうと、敗北感のような憂いを感じる。

書いてしまった以上、カッコつけても仕方ないが、あの貧しい感じの食事風景は人様には見せられない。でもホントにそんな食べ方がベストだと確信しているから心は千々に乱れる。

これもひとつの自己矛盾である。哲学の道は深淵だ。


一般的なスーパーで出回っている生麺タイプの冷やし中華はたいてい体験済みだ。最近は、袋麺タイプの商品も麺自体がなかなかあなどれないから大量に常備してある。

凝り過ぎちゃったようなハイカラな商品より、シマダヤとかの定番モノが結局はウマい。オーソドックスこそウマい。サッポロ一番とかペヤングと似たようなものだろう。

ちなみに、9月を過ぎるとスーパーの店頭から冷やし中華は徐々に消えていく。そこからが本番である。

賞味期限の長いインスタント袋麺タイプの冷やし中華をドッサリ買い込むことで得も言われぬ幸福感に包まれる。冬眠の前にたらふく獲物を仕留めた熊のような気分になる。

秋風が涼しく感じる頃、紅葉がハラハラと落ちていく頃、そんな時期にズズズっと冷やし中華をすすっていると、過ぎ去った夏が私だけのために戻ってきてくれたような気分になる。

♪ストップ、 ザ、シーズン、インザ、サ~~ン!!♪ などと往年のTUBEの曲を口ずさみながら寒風の中で食べる冷やし中華は最高である。

それにしても、こんなくだらない話をよくもまあダラダラと書けるものだ。

我ながらどこかおかしいのだと思う。

2013年7月19日金曜日

スーツを作る


Facebookのザッカ―バーグCEOは同じTシャツを20枚買って着回ししているそうだ。横着の極みだ。でも中々いいアイディアだと思う。

こうも暑いと毎朝、着ていくものを選ぶだけでゲンナリする。一応、まっとうな社会人のふりをしないとならないので、スーツは欠かせない。

さすがにネクタイはしていないが、当然、靴下に革靴だ。暑い。生足サンダル、ノースリーブで行動する女子に強い嫉妬を覚える。

夏用のスーツを新たに2着作ったのだが、スーツ自体、涼しいはずがない。服の新調は気分が上がるはずだが、この季節はスーツを見ただけで憂鬱になる。


ここ何年か付き合っている仕立屋さんが宣伝用のFacebookにアップするために撮影した画像だ。新調スーツに身を包む私だ。「松方弘樹みたいだ」というコメントも寄せられていた。顔を隠しておいて正解だ。

デフレのせいで既成のスーツもだいぶ安くなったが、そこそこの品質を求めればそこそこの値段になる。

だったらオーダーで作ってもさほど価格は変わらない。一度シックリした出来上がりになれば、あとは生地を選ぶだけでラクチンだ。

ザッカーバーグを見習って、気に入った生地のスーツを一度に10着ぐらい作って、そればかり着ていたらどんなに気楽だろう。

私の場合、肩の形状に癖があるらしく、シックリした出来上がりになるまで結構メンドーだったが、最近はようやくバッチグーになってきた。

以前、四の五の言わずに仕立て屋のオジサンに完全にお任せして作ったみたのだが、これがイマイチだった。テーラーの責任と言うより、私の好みの問題だった。

出来てきたのは、細身でノータックパンツのイマドキのカッチョ良い系。身体にフィットしていたが、なんだか貫禄のカケラもない仕事の出来ないナンパオジサンみたいで気に入らなかった。

そんな経緯を経て、ようやく自分のスタイルが落ち着いてきた。あとは適度に無難な生地を選んで、定期的に作ってもらえばOKだ。

洒落っ気を出して生地を選ぶとたいていヘンテコになってしまうので、無難な路線で冒険しないことをポリシーにしようと思う。

もともと、オシャレ番長みたいな男は苦手だから、着るものにこだわらないことを美徳にしていた。ちょっと無頼な感じでいいと勝手に解釈していたが、そんな横着は若い時だけに通用する話だ。

いっぱしの中年だと、やはり身なりは大事だ。そこそこパリッとしていないとイカンと思う。

実際、私自身、仕事で接する相手の身なりは、しっかりチェックする。テキトーなヤツはテキトーな感じにしか映らないし、キッチリした人はキッチリしていることが多い。

人は見た目である。

さて、オーダースーツを作る際には、そこそこの遊びも楽しめる。袖のボタンホールの糸の色で遊んだり、裏地をあえてハデハデにしたり、結構面白い。



私の場合、数多く用意されている裏地見本から適当に選ぶだけで満足しているが、中には裏地を別注で作らせる人もいる。

金魚と花火である。高解像度の画像を用意して何度も試作を繰り返し、世界に1着だけの裏地が完成したようだ。

ちょろっとめくると金魚が2匹泳いでる図柄など、夏のスーツとしてはかなりハイセンスだと思う。

表側はごく普通のスーツだが、さっと脱ぐ時にこんな図柄がちらっと見えたらイキだと思う。こういうオシャレなら、巷でみかけるオシャレ番長とは一線を画すから格好いいと思う。

そういいながら、自分のスーツにはこんな絵柄を採用できない勇気のない私である。

仕方がない。

あくまで勝負はスーツの中のそのまた内側の下着の中である。

頑張らねば。

2013年7月17日水曜日

仮面夫婦


最近、アチコチで仮面夫婦という言葉を耳にする。「仮面夫婦」。言い得て妙だ。とてもわかりやすい。「仮面恋人」が成り立たないように、夫婦だけの特権?だ。
いま日本では、毎年20万~25万組の夫婦が離婚するらしい。40万人から50万人の離婚経験者が毎年誕生するわけだ。

離婚者数がこれだけの水準なら、仮面夫婦の数はその10倍以上は確実だろう。

そんな数字遊びをしていると世の中の大半の夫婦が仮面になってしまう。でも、きっと物凄い数なんだと思う。

イヤミでも何でもなく、心から御苦労様と言いたい。

世間体、子供の問題が仮面夫婦を続けていられる大きな理由だろうが、「面倒くさい」という理由も離婚を思いとどまるポイントだろう。

はっきりいって、面倒くさいことを理由に夫婦関係を解消しない程度なら、せいぜいプチ仮面に過ぎないような気がする。

「堪えられない」と「面倒くさい」を比較して後者が勝る程度なら、要は堪えられるということ。こんなパターンなら頑張り続ければいいと思う。

堪えられなくなったら、無理して続けても死んでしまうだけだ。これは決して大げさでは無い。家庭のストレスは仕事のストレスとは異次元の重さがある。

暗闇に沈み込む感覚とでも言おうか。

私自身、周囲を見回すと離婚経験者がゴロゴロいる。再婚したいヤツ、もうコリゴリなヤツ、裁判がいつまでも終わらないヤツ、それぞれの思いは違うが、ほんの20年、30年前とは世の中の様相が変わってきた。

若者の間で流行の「シェアハウス」の概念も、あと10年もすれば独身高齢者の間で爆発的に広まると思う。なんだかヘンテコな世の中が始まっていることを実感する。

仮面夫婦といえでも、運が良ければ、仮面時代を過ぎ高齢になって同志的感情が出てくれば、なんとか添い遂げることもあるだろう。

社会の安定のためには「添い遂げる」という古くからの美徳というか、呪縛を軽視してはいけないのだろう。でもそれがなかなか難しい。

しょせんは他人だ。生まれ育ちも違う環境だし、現代社会のように「個」が幅を効かす時代だと、男も女も我慢のハードルが低くなりがちだ。

経済的な問題も大きい。共働きしなければ家計が厳しい状況なら、「主人」も「家内」も言葉通りの意味にはならない。役割が曖昧になり、そのうち、夫婦の関係に意味を見出せなくなる。

女性の地位向上は結構だが、それをはき違えられても困る。専業主婦でホゲホゲできてるクセに夫へのリスペクトがまるで欠如しているトンチキも多い。

先日、松本清張原作の「坂道の家」という古いドラマを見た。マジメ一筋に働いてきた男がキャバレーの女に入れあげる。仕事も放り出し、仮面状態に近かった古女房にも愛想をつかされていく。

ところが、女に若い恋人がいたことを知った男は次第に狂気を帯びてくる。異常な独占欲の犠牲になって命の危険を感じ始めた女は、事故に見せかけて男を殺してしまう―――。

なんとも恐ろしく切ないストーリーだった。過去に5回もテレビドラマ化されている名作らしい。実に味わい深い作品だった。

不思議なもので、殺された男を単なるアホバカだとは言い切れない妙な気分になった。

仮面のまま暮らし、人生の秋冬が迫ってきた男のアガキというか、ふとした心の隙が作家の描きたかった部分だと思う。押さえきれない本能的な熱情を愚かと断じるのは簡単だ。でも、仮面のまま悶々と生きながらえ、心をむしばみ、不本意な晩年を送る生き方と比べて、はたしてどちらが人間的か、答えは簡単ではない。

極端にいえば、仮面を被ったままウツウツと最期を迎えることは、アホバカな非業の死と比べてもおかしくないぐらい哀しむべき事態なんだと思う。

ちょっと極端な考え方かもしれないが、個人的にはそんな感傷に浸ってしまった。

もちろん、好き勝手に生きればいいなどと刹那的な極論を主張する気はない。我慢することは大事である。ある意味、人間が社会生活を営む上での必須条件が我慢だ。

問題は我慢の限界ラインをどこに設定するかだ。忍耐強い性格の人間でも、こと夫婦関係においては、自分の許容範囲を過剰に広げてしまっている人が多いようにも感じる。

相手のことに無関心な仮面夫婦の増加は気持ち悪い現象だと思う。夫婦喧嘩に明け暮れるような、ある意味、健全な夫婦が減ってしまえば社会全体の空気が淀むのも仕方がないと思う。

今日は何かシンキくさい話になってしまった。


2013年7月12日金曜日

「音」の話


いやはや猛暑である。毎年のことながらゲンナリする。
といいながら個人的には夏が好きだ。自然のエネルギーが強く感じられるし、どんよりとした寒さより全てが活性化する気がする。

それにしても、こう暑いと恋しくなるのがセミの声だ。気のせいか、東京では昔よりセミが鳴き始めるのが遅く感じる。

強い日差し、勢いを感じる白い雲とくれば、セミの騒々しい鳴き声が加わらないと物足りない。

夏の音はセミに尽きる。ミンミンでもジージーでもいい。夕方のヒグラシのシュールな感じも堪らない。

参院選の候補者のガーガー騒ぐ声しか聞こえてこない東京の無粋な今がちょっと面白くない。

それにしても共産党が伸びている現実って何なんだろう。やるやる詐欺の民主党のお陰で健全野党が無くなってしまい、仕方なく共産党に目が行くのだろう。

でも、共産党は共産党だ。個人的には意味不明だ。無理矢理どっかの政党を選ばなくても、棄権や白票だって立派な権利行使だとつくづく思う。

話がそれた。

今日は音の話を書きたかった。

なんとなく耳にする音って、その時点の気分を大きく左右する。結婚式であればオメデタイBGMが集まった人を浮ついた気分にさせるし、葬式だったら坊さんのダミ声やポンポコした音が厳粛な気分にさせる。

「好きな音」を改めて思い起こしてみると、結構いろいろあることに気付く。

空港にいる時、絶えず聞こえてくる発着予定などを告げるアナウンス、東海道新幹線が停車駅に着く直前に流すピンピロしたメロディーなどは、旅好きな私にとって旅情を誘う好きな音だ。

夕方の商店街のざわめきなんかも悪くない。5時の時報を兼ねた「夕焼け小焼け」とか「七つの子」のメロディーがどこからともなく聞こえてくる。行き交う自転車のベルの音、もう絶滅?しちゃったが、豆腐屋さんのラッパの音が混ざれば完璧だ。「日々是好日」って感じの空気になる。

そんな音は、暮らしている街では気にも留めないのだが、見知らぬ土地にいる時に限って妙に耳に残る。やはり、それなりに感覚が鋭敏になっているのだろう。

その昔、小林麻美が“アンニュイの権化”のように歌う「雨音はショパンの調べ」が大ヒットした。日本語詞はユーミンだった。雨音をピアノの旋律に例える感性は凄いと思った。

実際、雨の音は悪くない。運転中に急に降り出した強い雨、車体を叩く音、ワイパーがせわしなく動く音、運転席という個の空間に籠もっている感覚が強く感じられて結構快適だったりする。

夏の夕暮れに急に降り出した時なんか、慌てる人々の焦った気配も加わって独特だ。木々の葉を叩く音と熱が冷まされるような匂いが混ざり合って「夏」を強く感じさせる。

秋の虫の声にもウットリする。とくに夏の終わりが最高だ。昼間の熱暑は相変わらずなのに、夜になると風が少しだけ涼しくなってくる頃、都会の隅のちょっとした草むらから聞こえる虫の音色に癒やされる。

自然の音ばかりではない。酒場の音も好きだ。

今年3月に20年もの歴史に幕を閉じたFM番組が好きだった。サントリー1社提供の名物番組で、「アバンティ」という酒場を舞台に、お客さんのウンチク話や体験談、日常会話に聞き耳を立てるという設定だった。

話の内容もさることながら、店のドアの開閉音やグラスの中の氷の音、グラスがぶつかる音、シャーカーを振る音などの効果音が絶妙だった。

さて、実際に酒場に腰を下ろして、音に注意を払うと、それぞれのテーブルやカウンターから聞こえる客同士の会話が心地よいざわめきになる。

居酒屋なら演歌、洒落たバーならジャズ、銀座あたりのクラブならピアノの生演奏が、適度な音量で客達のざわめきを包み込む。

家でノホホンと酒を楽しもうと思っても、酒場独特の喧騒が無いから何となくシックリこない。なぜかグイグイ飲めない。あれは不思議だ。

生活感の有る無しも影響しているのだろうが、それだけではない。きっと「音」の違いに違和感があるのだろう。

それっぽい音楽をBGMに流してみても、酒場にいる感覚とはまったく異なる。きっと酒場独特の「効果音」が根本的に足りないのが理由だろう。

そう考えると、外に飲みに行きたくなる心境って、酒場の音の中に身を置きたくなる部分もあるのかもしれない。もちろん、音だけで無く、「空気感」という魔物も影響はしているが、「音」の影響が思ったより大きいのは確かだ。

お勘定のうち、「音」に対価を払っている部分は何割ぐらいだろうか。

職場の音に耳を向けてみた。キーボードのカタカタ音、ファックスの機械音、電話の音、シュレッダーの音・・・。う~ん、聞こえてくるのは電子音ばかりだ。

あ~、沖縄あたりの浜辺でゴロゴロしたくなってきた。三線の音色をバックに波音に耳を傾けてボケッと葉巻でもふかしたいものだ。

そう考え出すと、ソク実行に移したくなる悪い癖があるから、この辺でやめておこう。


2013年7月10日水曜日

いまでしょ!


株価は上昇、日銀短観は大きく改善、高級マンションなど高額消費もさかん。ざっと最近の経済事情を活字にするとこんな感じだ。

上昇基調の景気動向をインチキと見る向きも多いが、現実の社会では今のところ冒頭で書いた現象は事実である。昨年、一昨年あたりとは確実に空気自体に変化が生じている。

2年前の今頃、日本中の関心事といえば震災復興への支援だった。ところが、わずか2年程度で「気運」にも変化が生じてきた。

震災関連の死者がもの凄い人数にのぼっているにもかかわらず、自民党政調会長は「原発事故で死んだ人はいない」と発言、その前には復興庁の幹部官僚がツイッターとかで暴言を連発。

国の復興予算は呆れるような屁理屈で復興に関係ない分野に投入される。都内の税務署の改修工事、刑務所の職業訓練、反捕鯨対策費にまで復興予算が回されていたのだから意味不明だ。

“お上”がトンチンカンである以上、それぞれの国民は国任せでは無い支援に改めて目を向けるべきだろう。

冒頭で書いたような景気好転の恩恵が少しでも被災地への寄付や義援金に回って欲しいと思う。

寄付や義援金はその性質上、震災発生直後に集中する。これ自体は致し方ない。良い悪いの話では無く、人間の心理はそういうものだろう。

もちろん、肝心なのは長期的な支援である。震災直後に被災地に寄せた気持ちは誰もが忘れずにいるはずだ。支援する側も2年前の「あの気持ち」を思い起こしたい。

思えば、こんな呼びかけ自体、本来は国が音頭を取って国民運動にすべき話だ。税金が原資である政党交付金をウン十億円も受け取っている自民党や民主党も、選挙PRのヘンテコCMに金を使わずに、被災地支援に国民の協力を呼びかける広報活動に予算をかけるべきだろう。

それこそ、売れっ子の林センセイを引っ張り出してきて「いまでしょ!」ってポーズを決めてもらえばいい。この半年で儲けちゃった人とかには確実に響くと思う。

2年前、震災発生直後から著名人らの高額義援金が話題を集めた。中には節税効果狙いや売名目的もあったといわれる。当然そうだろう。でも、大いに結構だ。

直接被災地に届く支援であれば思惑や動機など関係ない。肝心なのは直接心を寄せることだけだ。

税制上の寄付金控除、ふるさと納税等々、高額納税者であれば支援に高額なお金を回すことで節税メリットも生まれる。

黒字企業だって同じ。義援金は全額損金になるのだから、国の復興予算がインチキに使われるのなら、法人税を払うより被災地に寄付した方がマシだともいえる。

風化させてはいけない。


2013年7月8日月曜日

ヤマモトマサ!


ちょっと前の話だが、サッカーのカズがJリーグ最年長ゴールを更新した。46歳と4ヶ月。すっかり白髪混じりになっても、キレのあるシュートをぶち込んだ映像にはシビれた。中年業界の星だ。

思えば、Jリーグ発足が20年前のこと。その頃から既にスター選手だったのだから恐れ入る。走りっぱなしのサッカーの運動量は相当なものだ。あの年齢での活躍は素直に賞賛に値する。

40代のゴール数ではジーコが記録保持者だとか。なんとか追いついて更新して欲しいものだ。

さて、ここからが本題である。

カズの凄さは誰もが認めるが、カズよりも地味な存在のスゴイ人といえば、なんと言っても「山本昌」だろう。

来月48歳になる現役最年長ピッチャーである。


客寄せパンダではなく、功労者扱いでもなく、純粋に一軍の戦力として働いているのだから大変な話だ。

歴史的な選手と言っても大げさでは無い。48歳である。

何十年か経って野球好きの孫に向かって「イチローの現役時代をリアルに見ていたぜ」と自慢するのと同じぐらい「ヤマモト・マサ、見てたぜ」というネタは貴重だと思う。

50歳に手が届くのにビシビシ投げるピッチャーなんて今後そうそう現れるはずはない。彼のピッチングを何気なく見ているだけで「歴史の証言者」になれるわけだ。

山本昌。ウィキペディアで見てみたら、ベンツにBMWだけでなく、フェラーリとかランボルギーニミウラまで持っているそうだ。

山本昌、恐るべしである。

ストレートの球速は三十代は130キロ代前半だったのに、40を超えてから140キロを超す速球を投げ始めたそうだ。

山本昌、恐るべしである。

ラジコンの腕前もプロ級で全日本選手権で入賞しているらしい。

山本昌、恐るべしである。

山本姓の選手が他にいなくなったのにゲンをかついで、いつまでも任侠みたいな登録名を変えないらしい。

山本昌、恐るべしである。

父親が1966年度のNHKのど自慢全国チャンピオンになったらしい。

山本昌、恐るべしである。

キリがないからやめる。

とにかく48歳でプロ野球の一線で活躍する事実はもっともっと注目されるべきだ。存在自体が総理大臣顕彰とかのレベルだ。

投げ方がヘンなのもまた素晴らしい。昔からヘンだと思っていたが、いまも変わらずヘンテコリンなモーションだ。あれが流れるような美しいフォームだったら山本昌ではない。

ヤマモトマサという音の響きは、あのギクシャクしたフォームとセットで野球ファンの脳裏に刻まれている。

1球団の在籍で30年というのも最長不倒らしい。中日球団の懐の深さも誉められるべきかもしれない。

その昔、幼女に対するワイセツ事件を起こしてヨソの球団をクビになったピッチャーがいた。永久追放モンだろうと思ったのだが、その後、中日が拾って活躍させた。

そのせいもあって個人的には中日球団に良い印象が無かったが、ヤマモトマサを30年プレーさせている事実だけで全てOKである。

ちなみにヤマモトマサが更新している「プロ野球最年長勝利」は「最年長先発勝利」である。先発投手ではない最年長勝利記録は「484ヶ月」(1950年の記録)である。

物理的に今シーズンの達成は無理だ。だから絶対に今年で引退とか言い出さないで欲しい。アチコチ痛かったりするだろうけど来年以降も投げ続けて欲しい。


三浦雄一郎さんもスゴいけど、ヤマモトマサも相当スゴい。みんなで応援しましょう。

2013年7月5日金曜日

木を見て森を見ず

今日は久しぶりに硬派な話です。

多くの二代目、三代目経営者が思っていることの一つが「会社を国から買った」という感覚だ。

わかりにくい言い回しだが、親から引き継いだ側面よりも莫大な税金を負担して、ようやく経営を受け継いだという印象があるようだ。

相続税増税によって、一部の人の悩みでは無くなりつつある「相続」の問題。都内に一戸建てがあれば場合によっては課税対象になるぐらい裾野は広がる予定だ。

家や土地、現金が相続の主役のようなイメージだが、中小企業経営者にとっては「自社株」が大きな問題となる。

非上場であれば事実上、流通性、換金性は無い。にもかかわらず「評価」という洗礼によってアッと驚くタメゴローみたいな金銭換算をされることが珍しくない。

工場用地、事業所などが自前の不動産であれば、それらの価値がストレートに自社株評価に跳ね返る。たとえ業績がメロメロで資金繰りに窮していても、資産価値が自社株の評価額を押し上げる。

理屈としては仕方がない。ただ、その自社株を売ろうにも、そんな値段で売れるはずもない。結果、会社を引き継ぐには、評価額に見合う税金を何とか工面するしかない。

「国から買った」、「国に金を払って商売させてもらっている」。そんな感覚もあながち大げさではない。

気が遠くなるほど古い話で恐縮だが、律令時代の「班田収受法」を思い出す。農地はあくまでお上のものであって、農民が死んだら農地は返上するのが基本だった。

頑張って耕したところで、自分の農地にはならないのだから、農民がハッスルするはずもない。荒れ地が増えて、悪法の名の下に大転換を余儀なくされ「墾田永年私財法」が生まれたわけだ。

例えは極端だが、持っている資産に莫大な税金がかかる制度は、「資産は国のもの」と言われているような気持ちにもなる。最高税率が50%を超えるほどになれば、財産権もヘチマもあったものではない。

近年、諸外国の多くが相続税の廃止・縮小に向かっている。理由は単純。生前にさまざま税金を課税してきた残りだから。

すなわち、それまでかかっていた税金との二重、三重課税になっちゃうから相続税はナンセンスな存在という考え方だ。

わが国の場合、相続税そのものの存在を「富の再配分」という大義名分によって正当化している。人間、スタートラインは平等であるべきという実に崇高な?理想論みたいな発想に基づいている。

社会主義国家じゃあるまいし、この国が選択した経済体制の下では、スタートに相応の差がつくことは致し方ないのに、そんな当然の現実を否定する考え方が基本になっている。

もともと、わが国に相続税が誕生したきっかけは、富の再配分などと言う美名とはまるで関係ない事情によるものだった。

日露戦争の戦費調達。あくまでこれが理由だった。その後、いつの間にか「富の再配分」というお題目が取って付けたように登場して、それが金科玉条として今に至っている。

相続税の税収など全税収からみればわずかであり、所得税の10分の1程度でしかない。消費税を0.5%程度引き上げれば相続税収のすべてがまかなえる程度の水準だ。

したがってこんなものをイジったところで税収増につながるわけもなく、存在自体がお金持ちへのヤッカミや嫉妬でしかない。

ついでにいえば、国が大衆増税を打ち出す際のガス抜きに使われている側面もある。相続税増税、すなわち金持ちイジメを打ち出すことで、消費税や所得税などの大衆増税への不満を少しでも吸収しようというパフォーマンスである。実に不毛だ。

税制改正が論議される場合、一般ウケの良い「富の再配分」というロジックばかりが前面に押し出され、諸外国で普通に受け止められている生前に課税された税金との重複課税であるという「性悪説」が取り沙汰されることはない。

一種の思考停止みたいなものだ。木を見て森を見ずという言葉があるが、相続税の問題はまさにこの一言に尽きると思う。

2013年7月3日水曜日

常連さん

飲食店に入って、常連さん達が我が物顔でギャアスカ飲み食いしているのを見るとゲンナリする。

あの独特な空気感はたまらない。くるりと背中を向けて帰りたくなる。実際にそうしたことも数知れない。

とかいいながら、自分だって常連顔して通う店はいくつかある。なるべくギャアスカオヤジにならないように自戒しているが、酔ってしまえば分かったものではない。

どこかの店の常連になるということは、緊張せず、気兼ねなくノンビリ過ごせるから客にとっては有り難い。

その店がどんな一品を得意とするのか、時期によって何を用意してあるのか、おまけにメニューにないものまでアレンジしてもらうことも可能だ。

店のほうも一見さんより、ちょこちょこ来る客のほうが御しやすい。御しやすいというか、その客の好みが分かれば、より良いものを提供できるわけだから、ウマいものを提供する気持ちがあれば一石二鳥の関係である。

いまの時代、初めた来た客がランチメニューを一回食べたぐらいで、インターネットにマズいの高いのと批判を書き込んじゃうから飲食店も大変だ。

そうはいっても、常連ヅラされて、ビール一本で粘られちゃうのも困りものだから難しいものである。

ある時、個人経営の寿司屋の店主から開業時の苦労話を聞いた。店主が目指したのは、街場の出前中心の寿司屋ではなく、やや高級志向で本格的な店。寿司好きが集まる店にしたいと思っていたが、開店早々、近所のヒマなおっさん達が寄り合い所のように集まってきたそうだ。

イカの刺身とビンビールだけで長っ尻。地域の先輩であることをカサにきてエラそうに過ごす迷惑ぶりだったらしい。

この手のおっさん達の多くが、近隣の他の店から鼻つまみモノ扱いされていた面々だったとか。ヨソの店に出入りできなくなったから新店を狙って集まってきたらしい。

開店間もないし、お客さんは喉から手が出るほど欲しかった店主だが、さすがに我慢できず、「随分と闘っちゃいました」とか。

その後、奮闘努力の果てに「イカ刺し長っ尻オヤジ達」の駆逐に成功して、開店3年目ぐらいから店を軌道に乗せられたそうだ。

この話を聞いたのはもう10年以上前だ。それ以来、顔見知りになった店では、なるべくたくさん注文するようになった私だ。

でも、最近、食べられる量が減ってきたから、近いうちに「イカ刺し長っ尻オヤジ」に変貌を遂げるかもしれない。

ダラダラと書いてしまったが、今日これを書き始めたのは、常連ヅラしていたお陰で、嬉しく美味しいものが食えたからだ。

このブログでもよく書いている高田馬場・鮨源での話。

ちょこちょこ出かける函館ではマイカ(スルメイカ)のハラワタを生で食って喜んでいる私だが、東京では生のマイカはさほど珍重されない。

ヘタすれば塩辛作りのためだけに使われちゃったりする。でも、あのゴロ(ハラワタ)のナマは珍味好きにとって至宝である。

そんな話ばかりしてたら、ある時、「生きたマイカ、入れときましたよ」と天使のようなささやき。


まだ小ぶりのワタだったが、あの味である。クリーミーでセクシーなイカゴロである。ウヒョウヒョ言いながら食べさせてもらった。


6月の中旬にはシンコも食べた。ちょこちょこ顔を出していると、貴重な一品が登場した直後に味わえる。これから夏本番に向かって、新イカとかイクラのナマとか、そのあたりの「サマースペシャル」も出てくる。アンテナを張って、真っ先に食べさせてもらおうと思う。



そしてスペシャルな毛ガニちゃんである。オレンジ色の物体がクセモノである。実はこれ、毛ガニの内子だ。本当は食べる機会が無い部分である。

メスの毛ガニは資源保護の観点で全面禁漁である。捕っちゃっても海に帰すのが決まり。だから毛ガニ好きな私も内子や外子は食べたことはない。

で、この写真のメス毛ガニだ。正体は密漁モノみたいなものだ。店の名誉のために言うと、店がわざわざ密漁船を仕掛けたわけではない。当たり前か。

以前からロシア船が捕っちゃったメスの毛ガニが国内に流通することがあるらしく、その一部が回り回って入ってきたらしい。

以前からカニの内子だ外子だと知ったかぶって騒いでいた私のために内子がワンサカ入っていそうな個体を用意してくれた。

ミソもたっぷりで、内子とミソと身を混ぜ合わせて食べれば冷酒の肴として極上だ。

クイクイ飲んでしまった。

こればかりは、一見の店では体験できない。10年以上、雨の日も風の日も雪の日も揺れた日も通っていたせいで、得がたいものが食べられるわけだ。実に有り難い。

ここ数年、飲み屋さん、食べ物屋さんに関して、新規開拓の努力を怠っている自分の加齢?ぶりを反省していた。

新しい世界に挑んでいくような新店開拓も大人の遊びとして欠かせない。ある意味、大人の修行みたいなものだ。

でも、通い慣れた店に更に通うことで、時系列かつ体系的に?新しい経験が出来るのも確かだ。

ぶっちゃけた話、家で夕飯を摂ることが滅多にない暮らしだ。せっかくそんな境遇にあるのだから、馴染みの店での長っ尻と、大人の修行としての新店開拓をうまい具合にミックスして浮世を渡っていくことにしよう。

2013年7月1日月曜日

たいめいけんの2階席


最近、イタリア料理とかスペイン料理を食べる機会が重なった。やはり、食後がちょっと厄介だ。食べている最中は、ウマいウマいと喜んでいるのだが、あとになって胸焼け太郎だ。

実にだらしない。

20代の頃などは、週に3~4回はイタリアンを満腹になるまで食べていた。時代のせいもあったが、やれ、ゴルゴンゾーラだ、オリーブオイルだとニコニコしながら大量摂取していた。

それでも、胸焼けなどせず、膨満感もなく、食後すぐに横になって組んずほぐれつしたってヘッチャラだった。

逆流性食道炎は一生付き合っていく必要があるらしいから、あの頃の不摂生や組んずほぐれつが悔やまれる。後悔先に立たずである。立たせていたモノが違ったわけだ・・・。

そんなグチを書いていても仕方がない。胸焼け太郎の私が、ドカ食いしても食後に結構平然としていられるのが「洋食」である。


ハヤシライスとかタンシチューとか、クリームコロッケとか、あの手の「お子ちゃま大喜び系」の食事である。

洋食屋さんもピンキリで、もちろん、高級路線になれば、「たかが、されど」の奥深い世界が味わえる。お子ちゃま系などと思うことは地獄に落ちるぐらいの誤りである。

イタリアンにせっせと通っていた20ウン年前から、素直にウマい洋食屋さんにはちょこちょこ出かけていた。米ラバーである私としては、リゾットよりもニッポンの白米が有り難い。洋食屋さんは昔からオアシスだった。

赤坂・津つ井のビフテキ丼は懐が暖かい時のご馳走だったし、麻布のグリル満点星ではナントカの一つ覚えのようにオムライスをぺろぺろ食べていた。

日本橋・たいめいけんのハヤシライスなんかも大好きだったので、その後、我が社にほど近い距離のデパ地下にこの店のイートインコーナーが登場した時は幸せな気分だった。

しょっちゅう、カニクリームコロッケを買って帰って、家でオーブンでカラっと暖めて、「ブルドック・プレミアムソース」をポタポタ垂らして頬張っている。小さな幸せである。ヘタな店で外食するより幸福感に包まれる。

先日、日本橋のたいめいけん本店に行く機会があった。何度か行ったことはあるが、この日は「2階席」。いつも混雑している1階席よりも断然ゆったり食事が出来る。

一応、同じメニューでも1階席と2階席では値段が違う。夜にゆったり食事するためのショバ代と思えば仕方ない価格差だろう。

名物のオムライスを例に取ると、100円マックを7、8人にご馳走できるぐらい値段が違う。

一応、素材だか調理法も1階席と2階席では違いがあるらしい。ホントかどうかは知らないが、ホントだったら2階席のゆったり感は悪くない。

この日は、自慢の定番料理が少しづつ載った特選小皿料理のセットをシャンパン片手に味わっていた。それだけ食べれば充分なのだが、「オムライス」は欠かせない。


たんぽぽオムライスと名付けられたこの店の名物だ。ケチャップライスの上にふんわりとしたオムレツがどーんと乗っかっている。見ているだけでワクワクする。

このオムレツの真ん中あたりを切腹するかのようにかっさばくと、トロリとした中身が全体に広がって、ライスはまったく見えなくなる。




こんなご馳走を前にしたらコレステロールの数値など屁のカッパである。無心に食べる。

高級オムライスと言えば、ソースがデミ系だったり、シチューをそのまま使うことが多いが、このたんぽぽオムライスの最大のポイントはケチャップで食べさせる点だろう。

食べてみて気付いたのだが、定番中の定番であるケチャップが決め手だと思った。

味覚なんて十人十色だが、私の世代であれば、オムライスは間違いなくケチャップだった。そんな原点を思い起こさせる味だ。

極上のトロトロオムレツと極上のケチャップライス。そうなると料理人としても手の込んだスペシャルソースを使いたい感覚になるのも分かる。でも、あえてケチャップで食べることで、「正しきオムライス」の究極系が完成するのだろう。

なんか大げさだが、それが実感である。


このラーメンはセットメニューのシメに出てきた特製ラーメンだ。これがまた由緒正しき?東京醤油味でしっかり濃い味。ちぢれ麺もいい感じだった。

ゴテゴテラーメンが溢れる今、実に味わい深いラーメンだ。メニューを見たらラーメン類が結構種類豊富に揃っていた。

ケッタイで妙に高いラーメンを並んで食べるぐらいなら、この店の2階でのんびりビールでも飲みながら昔ながらのラーメンをすすった方が良さそうだと感じた。

洋食メニューのなかには、ヨソの名店のほうが断然ウマいものもあるが、さすがに名のある老舗だ。食べていて素直に楽しい気分になったから1階席の大繁盛もうなずける。

「食こそコンサバ」。そんな印象だった。