2019年11月29日金曜日

愛の歌を作ってみる

わがオジサマバンドのライブまであと1週間ちょっとだ。もうジタバタできない段階だ。全体練習も終わってしまった。あとは個別メンバーとのすり合わせだけである。




MC台本もそろそろ仕上げないとならない。素人なりに楽曲構成や演出を考えているので、ただ歌って演奏するだけならもっとラクチンだと思う。

基本的には35人体制であれこれと演奏するのだが、今年は楽曲によっては最大8人編成になる。練習も一堂に会することは難しく、これまで各パートごとにメンバー間で何とか調整してきた。

3曲だけ参加してくれるドラマーは、わがバンド史上最年少である。少年と呼んでいい年齢だが、ドラム歴は8年だとか。中核メンバーである我々母校の後輩でもある。本番の緊張感とどう向き合えるかがポイントだろう。

春から数えて10回以上は練習を重ねた。当初は中核メンバーである同級生3人だけでカラオケボックスで呑気に過ごしていた。その頃に比べると別次元の仕上がりになってきた。

マッサラなところから形を整えていく作業は楽しい。クリエイティブなどと言うとキザったらしいが、アーでもないコーでもないと創意工夫して、一つの曲がうまく収まった時は結構な満足感がある。これが面白くて今まで続けてこられたのかもしれない。

クリエイティブといえば、オリジナル曲である。ヒット曲のコピーですら自分達仕様に仕上げるのに四苦八苦するが、オリジナル曲はまったくの「無」から始めるわけだから仕上がった時の満足感は大きい。

今年は新曲と5年ほど前に作った曲の再演を予定している。素人の知らない歌を聴かされてもお客様としては退屈だ。もっとオリジナルを増やしたい気持ちを抑えて2曲だけに留めた。

5年前にこのブログで自作曲についてアレコレと書いた(http://fugoh-kisya.blogspot.com/2014/10/blog-post_27.html)のだが、今も思うのはプロの作詞家の語彙力の凄さだ。

野球選手が千本ノックを受けて守備が上達するように、趣味の世界とはいえ、ただただ数をこなして歌詞を作り続けるほかには進歩する方法はないのだと思う。

今日は今年のライブで披露するオリジナルの2曲について自作の歌詞を載せてしまう。

まずは5年ほど前に作った、いわば不倫の男女を描いた歌だ。「絡まる糸ならば ほどかずにいればいい」という歌詞が個人的には気に入っている。



 スパイダーリリー


   まぶしく光る月
   妖しく香る波

  ガムランの響き風に漂う

  甘噛みに肩が染まる 
  吐息に濡れる夜

  つかの間のハイダウェイ
  刹那に微笑む共犯者たち
  ミスキャストはいらない

  苦しげなため息を
  唇でふさぎ込み

  溢れ出る夜露 指でぬぐい

  答えなど求めずに 
  未来など求めずに

  溺れていたい 
  ロータスの花が開くまで



  風にそよぐ稲穂
  黄昏が近づく

  暗闇を待ちきれず
  ほとばしる熱情

  この時を刻み込む
  恥じらいもむき出しのまま熱く
  険しく踊り続ける

  裁かれる日が来ると 
  分かっているけれど

  止まらない思い 胸を焦がす

  そしてまた絡み合う 
  溶けるまで絡み合う

  狂おしく咲く 
  スパイダーリリーのように

  ああ二つの影 揺れてる
  震えるように

  寄り添いながら結ばれぬ
  行き止まりの旅

  裁かれる日が来ると
  分かっているけれど

  止まらない思い 胸を焦がす

  そしてまた絡み合う
  溶けるまで絡み合う

  狂おしく咲く
  スパイダーリリーのように 


次は新曲だ。12月のライブに合わせて今年の夏の暑さの中でクリスマスを必死にイメージして作った歌詞だ。

長く付き合ってきた男女を想定したラブソングである。作詞した私も作曲したメンバーも独身である。そんなもんだ。

ちなみに、ラブソングは単なる男女の好いたハレただけでなく、親が子供に向ける愛情に置き換えて聴いてみても成立すると思う。




 Christmas for you


  イルミネーションの中 
  はしゃぐキミの笑顔 
  時が止まればいいと願う

  すれ違った日もあった 
  離れていたことも 
  今では不思議な過ちかもね

  どこかで響くキャロルの音色に
  キミは足を止めて

  イタズラなまなざしで僕を見つめ
 「ロマンチックは苦手でしょ?」 
  そう言って肩をすぼめた

  メリークリスマス フォーユー
  今夜だけは 照れずに 言うよ

  メリークリスマス いつも 
  そばにいて
  その胸の鼓動を感じさせて



  僕のポケットの中 
  つないだ指の強さ
  それがキミの答えなのかな

  若かった日の出会い 
  無器用なままで 
  いくつもの季節を過ごしてきたね

  歩んできた道も折り返して 
  いま思い出すのは

  悔しさやつらいことばかりだけど
  キミに会えたこと ただそれだけで 
  何よりの幸せ

  メリークリスマス フォーユー
  大好きなんて 言えないけれど

  メリークリスマス これが
  キミに贈る 
 精一杯の 愛の言葉

 冬の夜空に 浮かぶ白い星
 月明かりがキミを照らしている

 いつの日までも 絡みつく心は
 ほどかずにいるよ

 メリークリスマス フォーユー
 聖なる夜に いま誓う

 メリークリスマス キミの
 笑顔だけは 守り続けていくよ



2019年11月27日水曜日

プロに磨かれた靴


趣味は靴磨きだなどと洒落たことを語っていたのだが、最近は横着になって靴の管理をサボっている。

本気で靴磨きに励むと、私の場合、やたらと気合いを入れて汗だくになるほど夢中になる。アレはアレで体力を使うから最近は軽く布でこする程度でごまかしていた。

それではダメである。キチンとクリームも塗って適度な周期で管理しないと靴は元気を失う。

で、反省したついでに人の力に頼ることにした。専門の業者にビカビカに磨いてもらっておけば、その後しばらくは軽く掃除するだけで靴の元気さは維持できる。



新橋に拠点を置く「靴みがき本舗」の支店が八重洲地下街の「Shoeshine TOKYO」である。私の職場から近いから頼んでみることにした。

まずは5足ほど持ち込んでみた。お手並み拝見というわけではないが、自宅近所にある靴磨きショップのほうが安いから、仕上がりを確認したかったわけだ。

1足につき2300円である。10足以上頼んだら結構な金額だ。牛丼を70人ぐらいに御馳走できるレベルだ。富豪みたいである。



結果がこれだ。バッチリである。予想以上にバリバリに綺麗にしてくれた。横着な私にとっては神の仕事である。

鏡面仕上げの美しさだけでなく、かかと周りも丁寧に磨いてくれて、コバ周りもしっかり掃除してくれた。リピート決定である。



8年前に買ったタニノクリスチーである。お気に入りの1足なのでやや疲れが目立っていたが、一気に輝きを取り戻した。

靴磨きの道具は細かなものまでたいてい所持しているし、綺麗に磨くコツも自分なりに知っている。でも、ここまで美しく仕上げるのは至難のワザだ。

やはりプロの仕事は次元が違う。それなりのコストを支払って享受する必要があるのだろう。多少高かろうと、私にとっては靴は趣味の世界だから散財も仕方ない。

こちらも8年モノのJ.M.ウェストンだ。バーガンディーカラーがフランスのエスプリを感じさせる?お気に入りの1足だ。



これまたビッカビカに甦った感じである。なんとも艶めかしいツヤで私を悩殺してくれる。私が悩殺されても仕方がないのだが・・・。

結局、この後で8足ほど追加で持ち込んだ。量が量だから一週間かかるのだが、ワクワクしながら待っている。

結局、牛丼を80人ぐらいにおごれる出費になってしまったが、良い靴は良い場所に連れて行ってくれるという格言もある。良しとしよう。

ちなみに、預けて磨いてもらった靴は、お気に入りの靴ばかりだ。すなわち私にとって一軍や一軍半の靴ばかりである。

ヨレてしまって生気を失った二軍、三軍の靴はそもそも愛着を感じなくなっているから預けていない。

考えてみれば、そういうヘタレてしまった靴のほうがプロの技によって物凄く変貌を遂げる。むしろそっちの靴を磨いてもらうほうが正しい活用法である。

そっちも預けてしまうと、いよいよ牛丼を100人以上におごる事態に陥る。日頃の横着のツケにしては痛い話である。



2019年11月25日月曜日

寒空 かき氷 冷し中華


いよいよ寒くなってきた。11月なのにもう「ズボン下」を履いてしまったほどである。

それなのにかき氷を食べてきた。ズボン下を履きながらかき氷である。なんともファンタスティックだ。



目白にある和菓子屋さん「志むら」である。夏場は平日の午後も夕方も行列が出来ちゃうぐらい名物のかき氷目当ての人が押し寄せる。

ここ数年、メディアの影響なのか一気に混雑するようになった気がする。ふわふわ食感が心地良いかき氷は1年中頼めるのが嬉しい。

季節ごとに限定メニューも用意されており、この日は、マロンミルクティー、くるみ餡というメニューを注文した。

シロップ的な甘さとはまったく違う自然な甘味が大人には嬉しい。室内は暖かいわけだから、春も秋も冬もかき氷は美味しく味わえる。

コンビニのアイス売り場にしても、夏場にはかき氷がいろいろ揃っているのだが、秋になると一気に無くなってしまう。

私の場合、飲み過ぎて帰宅した後に、一口頬張りたくなるのはアイスクリームではない。さっぱりしたかき氷である。みぞれ、宇治金時みたいな優しい味にホッコリするわけだ。

そういう意味では秋から春はシンドイ季節である。きっと同じような思いをしている人は多いはずだ。

「ガリガリ君」は一年中置いてあるのだから、他のかき氷だって頑張ってもらいたいものだ。

季節外れといえば冷やし中華である。一応、普通に麺を茹でて水でしめてそれっぽいタレをかければ冬でも食べられる。でも、秋になると途端にどこの店でも置かれなくなることが悲しい。



わが家には冷やし中華のタレを常備しているので、冬場でも具の無い冷やし中華を嬉々として食べる。

もともと具はチャーシューと紅ショウガで充分だと思っているので、極めて簡単に作れる。

クドいものを食べて酒も飲み過ぎちゃったような日の翌朝に食べるモーニング冷やし中華が大好きだ。アッサリスッキリ爽やかである。

先日、冷やし中華のタレを探そうとAmazonを覗いてみたのだが、袋麺なら今の時期も冷やし中華は売られていた。

チルド麺のほうがウマいが、最近の袋麺はかなり進化しているらしい。せっかく市場に出回っているなら、冷やし中華ラバーである私としては買わないわけにはいかない。

さっそくまとめ買いをした。実際に食べてみたが、チルド麺と遜色ない美味しさだった。床暖房を入れた部屋で厚着をしながら食べる冷やし中華は実にウマい。最高だ。

皆様にもゼヒ真似をしていただきたい。飲み過ぎた晩のシメに、二日酔いの朝の酔い覚ましに、ぜひ冷やし中華を堪能してもらいたい。

盛りそばやつけ麺を食べるつもりなら、ちょこっとだけ目先を変えて冷やし中華である。アッサリスッキリ爽やかだ。

なんだか、どこかの回し者みたいな書きぶりになってしまった。

今度の週末は、カニや牡蠣をトッピングして冷やし中華のスペシャルウインターバージョンを作ってみようと思う。

2019年11月22日金曜日

目が疲れるから


パソコンにスマホ、テレビに読書。これじゃあ眼も疲れる。ただでさえ老眼が進んでいるのに、目の酷使は連日続く。



ホカロンみたいなアイマスクを試してみたが、なかなか気持ちよい。効能は分からないが単純に心地良い。職場でも時々これをつけて10分ぐらい沈思黙考する。

ちょっと気に入ったモノを見つけると途端にバージョンアップ商品を買いたくなるのが私の悪いクセである。

というわけで、いつものようにAmazon探索をせっせと行い、アイマッサージャーなる怪しげなグッズを購入した。

こんなものに5千円も出すのはどうかとも思うが、この歳になると健康系、リフレッシュ系にはつい財布のヒモが緩くなる。



なんだか大げさなマシンである。装着すると戦隊モノのヒーローみたいである。ボタンを押すとあっと言う間にジンワリ熱くなる。

夏場だったら汗が出るぐらいしっかり暖かい。それに加えて目の周りを軽くトントン叩いたり、空気圧でグーっと押してくれたり、なんだか妙に気持ちよい。

トンチンカンな音楽が流れるのに困惑したが、ちゃんと説明書を読んだら消すことが出来た。

開始と終了時には、外国人の変なイントネーションによる日本語が流れる。これが消せないのがウザい。

15分経つと自動でオフになるので、マッサージを受けながら眠りはじめていると、突如「アリガトゴザマシタ~」という音声で終了を告げる。ビビって覚醒してしまう。

枕も新調してみた。最近、片側の肩甲骨あたりの筋に違和感があり、枕にも原因がありそうだったので良さそうなものを二つも買ってしまった。




横向き枕のほうは当たりだった。眠りが深くなった気がする。肩周りも以前よりラクになった気がする。

つくづく物欲の方向性が変わってきたことを痛感する。ファッションや道楽っぽいものよりも、健康グッズやら快眠グッズにやたらと目が行く。

正しく歳を重ねてきた証拠だ。そっち方面のグッズに詳しいエキスパートを目指すのも面白いかも知れない。

ふるさと納税を利用してハズキルーペをいくつも入手して職場や自宅のアチコチに置いてある。

それ以外にも老眼鏡もいくつも置いてあるのだが、外にいる時に便利なのが財布に入れておけるコンパクトなやつだ。






これもAmazonで見つけた。普通の長財布に格納できる薄さが魅力だ。ペコペコっと折りたためるから実に便利でオススメである。タバコとライターの間に挟んでみた画像を見れば薄さが一目瞭然だ。

首にぶら下げておいて必要なときだけかける老眼鏡も時々使っている。二つのガラス面が磁石でくっついたり離れたりする。



何かと便利だが、時々何かの拍子に磁石がパカンと外れてメガネが真っ二つになるので同席している人がビックリする。ウケ狙いには悪くない。

これまで遠近両用の眼鏡も何個か作ったのだが、50年以上にわたって裸眼で生きてきたせいで、メガネを常時着用することがどうにも苦手だ。

若い頃と同じ状態に戻れるならレーシックみたいな手術も考えるべきかも知れない。

2019年11月20日水曜日

脚とヒールの関係


ある女性が言うには、男性と話す際には必ずその人の手を見るそうだ。もちろん顔や全体像も見るのだろうが、一番気になるのは手だとか。

手を見れば人となりは一目瞭然だという。まあ、爪が伸びていたり、汚れていたり、くたびれている手にはその人の生活が滲み出るだろうから、マトを得ているのだろう。

ついでに言うなら、その男性と親密な関係になれるかどうかを、その手で自分が扱われることを想像して判断するそうだ。

なかなか深い話である。

男の場合、女性のどこを見ているのだろう。もちろん顔やスタイルはいやでも真っ先に目に飛び込んでくる。そこは別として、どの部分に目が行くかは人によってさまざまだ。

目元や唇はもちろん、胸の膨らみ具合が気になる人もいるだろうし、肩幅が気になるという人もいた。手が気になるという意見が聞いたことがない。女性との大いなる違いだ。



脚に目が行くというのも男性目線の特徴だろう。私も脚は気になる。スカート姿という女性の服装も影響しているはずだが、女性がパンツ姿でも、足首付近をつい見てしまうことはある。

フェチというレベルではない。男性なら誰しも女性の脚は好きだ。フェチというのはもっと倒錯している。

下の画像のようなラインを魅力的に感じない男性はいない。ネット上には「脚が好きな男性の深層心理」みたいな意味不明な話が飛び交っているが、実に不毛な話だと思う。



ただただ本能的に惹かれる。それだけのことだ。女性のおっぱいやお尻が嫌いという男がいないのと同じ次元だ。

ちなみに脚ではなく足好きというパターンもいるらしい。脚線ではなく、くるぶしから下の足である。足の指とか足の裏に興奮を覚える人が結構いるそうだ。こちらは立派なフェチだと思う。足フェチだ。

普段は隠れている部分だから、見えた時にそこに魅力を感じてムホムホするのだろうか。隠れていたものが見えちゃった時の萌え萌え気分は分からなくはない。

でも足の裏は汚そうだし、足の指も臭そうだから個人的にはあまり興味がない。私は極めて真っ当で真面目な人間だったみたいで喜ばしい。

足フェチの人達はとにかく「裸足」にこだわるらしい。人様の趣味をどうこう言えないが、私は靴を履いている時の脚線美が一番好きだ。



ブーツ姿も嫌いではないが、やはり「ハイヒールと脚」の組み合わせが一番セクシーでカッチョいいと思う。

女性のヒール靴は脚を綺麗に見せることが目的で作られているわけだから、私のような単純スケベ野郎は簡単にその戦略にやられてしまう。

ヒールからふくらはぎ、膝上から太ももまで続くラインは自然界と文明がコラボして編み出した最高の芸術だと思う。




わが国では室内では靴を脱ぐのが当たり前である。必然的に女性とネンゴロになる際は、極めて残念ながら我が愛しのハイヒールは脱ぎ捨てられてしまう。

ホテルなら靴を履いたまま過ごせるが、スリッパに履き替えられてしまえば一巻の終わりである。

今まで何度となく「靴は履いたままでどうぞ」と言いかけたが、さすがに物凄く不自然だからいつも心の中でつぶやいている。



単に脚線美が好きなのはフェチではなく普通のことだと力説してみたが、結局私の場合は「ハイヒールの脚」にこだわってしまう以上、一種のフェチなんだろう。

なんだか負けた気がする。。。



2019年11月18日月曜日

悪魔の一品


チマタで話題になっていた「悪魔のおにぎり」を今更ながら食べてみた。1年で5000万個以上も売れたというローソンの大ヒット商品である。




酔っ払った帰り道に買った。ほんの一口だけ味見しようと思ったのだが、一口で済むはずはなく、アッという間に全部食べてしまった。

さすがに悪魔である。寝る前だったから味見だけに留めるという固い決意は瞬時に壊れた。秒殺である。

ヒット商品の多くがネーミングの勝利みたいな要素があるが、これもその一つだろう。

天つゆ、天かす、青のりなどで味付けしてあるから誰もが美味しく感じる。でも、これが天つゆ味、天かす味といったネーミングだったらこんなに売れるはずはない。

「悪魔」だからつい手に取る。食べてみてクセになる味だから納得する。そんな感じだ。

さて、悪魔的な食べ物といえば、誰だって思い当たるものがあるはずだ。脂肪分が多い、カロリーが高いといった不健康に直結するのにヤメられないヤツである。

ラーメンのスープしかり、ポテトチップしかり、生クリームしかり、はたまたアンキモや白子、いくらといった珍味系も悪魔っぽい。



私にもいろんな悪魔が取り憑いている。タルタルソースもそのひとつ。許されるなら毎日毎食だって食べたい。

寒くなってくると世の中にカキフライが出回る。カキという季節モノを愛する美食家のような顔をしながら、私の狙いはタルタルソースである。

生ガキも焼いたカキも嫌いではないが、タルタルソースが付いてこないから、あくまで二番手、三番手である。

海のミルクだ、亜鉛が豊富だ、どこそこ産のカキが最高だなどと分かったような顔をしながら実はタルタルソースを食べたいがためにカキフライを注文する。



タルタルべっとり。このうえない幸せだ。カキの風味などちっとも感じない。中身が他の貝だとしても気付かないかもしれない。

ちなみに同伴者がいた場合、その人がこんなにべっとりタルタルを使ったらきっと殺意を覚える。私の取り分が減っちゃう。恋仲だったら別れると思う。

私はマヨラーではない。なのにタルタルソースが大好きだということは、やはりタマゴへの偏執的な愛情が原因だろう。

先月からコレステロールの薬を処方されるようになってしまったから、私の身体はタマゴをぶりぶり食べてはいけない状態である。



上等なオムライスを例に取ると、タマゴ自体はともかく、一緒にバターなんかもしっかり投入されているから、さすがに食べ過ぎは良くない。画像は九段にあるホテルグランドパレスのオムライスだ。

薄皮風の昔ながらのオムライスならタマゴ問題はだいぶ改善されるのだろうが、今の主流はふわとろ系である。これがまたウマいから困ってしまう。



こちらは日本橋たいめいけんのオムライスである。ナイフでオムをかっさばくとドロリンチョとタマゴが崩壊してチキンライスをエロティックに包み込む。

辛抱堪らんってヤツである。私にとってはまさに悪魔の一品だと思う。

悪魔にしょっちゅう絡め取られたらマズいので、洋食レストランに行く頻度を落としている。だから日々、オムライスが恋しくなる。

そんな心理状態のせいか、職場の近くの居酒屋にいくと必ず注文してしまうのが「すじ玉」である。



フワッとしたオムに牛すじ煮込みが包み込まれている魅惑の逸品である。職場の人間と行けば何人かで分け合うのだが、まれに一人でふらっと行ってしまうと途端に悪魔に変身する。

結構な量なのに当然ながら一人で完食してしまう。ウマいからちっとも飽きずにペロッと食べ終わってしまう。悪魔そのものである。

そして、ホロ酔いになりながらトボトボ歩いて帰宅するわけだが、オロCの自販機の前で必ず寄り道してしまう。



酔った後にオロCをガブ飲みしてバズーカ級のゲップをすることが今の私の楽しみだ。

考えてみればオロCも砂糖がドッサリだ。これまた悪魔かもしれない。





2019年11月15日金曜日

ダメな大人 痩せる食べ方


体重を増やさないためには余計なモノを食べてはいけない。そんな思いが私を「罰あたり喰い」に走らせる。



デリバリーのピザの残骸である。残骸というか、ピザの生地だけ残して具材だけ食べた後の姿である。

一種の炭水化物抜きである。薄いのやらモッチリやらいろんな生地を選ばせてくれるピザ屋さんにぶっ飛ばされそうなヒドさである。

普通に食べるのと比べれば遙かにカロリー減である。行儀の悪さという意味では最悪だ。でも健康法の一つと自分なりに言い訳している。

一人暮らしをしていると誰かにとがめられることはないから、時々ヘンテコな食べ方をする。

大人としてダメである。その都度、反省してドンヨリした気分になるのだが、一晩寝ると忘れてしまう。いや、1時間ぐらいで忘れる。

デリバリーでハンバーガーを頼んでも、パンをほぼ残す。上のパンと下のパンを器用に唇でずらしながら中の具の部分だけを吸い込むように食べる。

ビッグマックみたいな真ん中に薄いパンが挟まっているパターンだと除けきれないから、真ん中部分は禁断の御馳走としてうやうやしく食べる。

ビッグマックは上から「パン、肉、パン、肉、パン」という構成である。上と下のパンを除けて「肉、パン、肉」として食べるわけだ。

その結果、1個じゃ足りずに2個、3個と食べてしまう。結局はカロリー過多だから意味不明である。



サンドイッチもなるべくパンを残す。片側のパンだけはじめからどかして横位置にして食べる。サンドしていない状態だ。だからいっぱい食べてしまう。やはり意味不明だ。

カツサンドだとパンに染みこんだソースが惜しいからついつい両面のパンを食べてしまうが、その代わりに端のほうのパンを残す。単に行儀悪いだけである。

最近、ハマっているのがケンタッキーフライドチキンの「衣の剥がし喰い」である。
揚げ物は衣がやはり気になる。店では絶対に出来ないが、ウーバーイーツでケンタが自宅に運ばれてきたら、必ず丸裸にしてしまう。

鶏肉は皮の部分がカロリーの塊である。フライドチキンの衣とともに皮も剥いでしまうと低カロリー食品に変身だ。

だったらサラダチキンを買ってくれば良さそうなものだが、そこはさすがにカーネルサンダースである。

衣を全部剥がして丸裸にした寒々しいチキンでもしっかりケンタの味である。充分アブラギッシュだし、充分しょっぱい。すなわち美味しい。

考えてみれば、衣を剥がしてもあの味がするってことは、どれだけ強い味付けなのかという意味でもある。ケンタ、恐るべしである。

衣を除くと当然食べる量は減る。子供に人気のドラム(脚)なんて剥き出しにすると実に淋しくか細い雰囲気を漂わせる。



だから34つではちっとも満足感がない。この食べ方を考案?したせいで私にとってケンタのチキンは「1回につき8個は食べるもの」になってしまった。

8個も食べるなどというと呆れられそうだが、皮と衣を全部どかしたら誰でもそのぐらいペロッと食べられると思う。

剥がした衣の残骸の写真はあまりにフシダラなので撮っていない。

家族がいて、子供の目もあるなら絶対にこんな食べ方は出来ないと思う。そういう意味で、ちゃんと家庭人でいることは社会道徳遵守という意味では大切なことなんだろう。

罰あたりな食べ方を平気でしてしまうことは単身男の大きな問題点だ。その分、不健康になっていくというツケがついて回る。

私の健康も日に日に蝕まれているはずだ。仕方ないからサプリをガンガン飲もうと思う。

2019年11月13日水曜日

涙が出る幸せ


今日は我がオジサマバンドの活動とハマショー師匠の話。

ライブ本番まで3週間ちょっとになってしまった。プロが使うレベルの青山のちゃんとしたライブハウスでの開催だから、きっちり仕上げないとカッチョ悪い。

練習もいよいよ残りわずかだ。かなり厳しく真剣に取り組んでいる。私の役割はメインボーカルである。



ボーカルというよりフロントマンだ。歌がウマいというわけではなく、MCという立場だからセンターを任されている。

MCの構成もそろそろ固めないとならない。素人バンドは全体の構成力や小ネタなんかに気を配らないケースが多いが、我がバンドは素人なりにその辺も一応重視している。

以前のバンド時代も含めれば8年連続で大勢の皆様の前でライブを披露する。そう書くとベテランみたいだ。

でも今も大緊張状態になるのは以前と同じだ。MCでしゃべりすぎるのも緊張の裏返しである。緊張を隠すのがちょっとウマくなったのが過去7年の収穫かも知れない。

基本はアコースティック系のバンドなのだが、演目によってはエレキギター、エレキベース、ドラムも加わる。



その他にも曲によってキーボード、バイオリン、フルートも参加する。すべてのメンバーが全員揃って練習できる機会はなかなか作れないが、デジタル時代だから練習音源を共有してカバーしている。

全部で15曲程度のライブだが、オリジナル2曲の他は、中年世代ならだいたい知っているような曲を選んだ。それなりにバラエティーに富んだ仕上がりになるはずである。

このブログを読んでくださっているかたからもご来場申込みをいただいた。実に有難いことだ。行って損したと思われないように奮戦しようと思う。

ちなみに、まだ座席には余裕があるので、お時間がある方はぜひ遊びに来てください。128日の日曜15時スタートです。ご希望のかたは当ブログのコメント欄でお伝えください。

さて、先週末、浜田省吾師匠のライブに出かけてきた。ファンクラブイベントの抽選に当たって、いそいそと東京国際フォーラムの公演に参加した。



今回のライブは80年代前半に発表された特定の3枚のアルバムの曲だけを披露するという企画である。私にとってはまるまる高校生時代に聞いていた曲だらけだ。

セットリストの予想が当たっちゃうぐらいのマニアである私にとっては大感動の時間だった。

若くてピュアだった自分が熱い気持ちで聴いていた曲ばかりだ。30年、いや40年近くの時間が過ぎた今になって聴き直すわけだから感慨ドップリである。

ライブ前半、客席総立ちで会場は大盛り上がりである。ハマショー師匠の楽曲の中でも高校生や10代の少年を描いた懐かしい曲がバンバン続く。

来ているお客さんは中高年ばかり。アラフィフ、アラ還が中心だろう。そんな昔の少年がノリノリで楽しんでいる。私も負けずにウォーウォー叫ぶ。

ふと気づくと涙ぐんでいる自分に気づいた。われながらちょっとビックリである。バラードでもないのにウルっときてしまった。

1980年のアルバムに収録されていた「反抗期」という曲にとくに気持ちが揺さぶられた。当時、不良になりきれなかった中途半端な私が胸を熱くしながら聴いていた1曲だ。

人としての葛藤を覚え始めた頃の歌だ。あれからウン十年、自分なりの人生を歩んできた。なんとか夜逃げもせず、気も狂わず穏やかに生きている。

そんな道のりを思い返している時に、いわば原点みたいな頃の歌が身体に降りかかってきたわけで様々な感情が渦巻いたのだろう。

悲しい涙ではない。うれし涙でもない。ただジンワリと涙がにじみ出てくる。郷愁にかられた涙だ。ノスタルジーってやつである。

音楽の力って凄いものだと今更ながら痛感した。感情がいとも簡単に揺さぶられる。イヤな涙ではなく、心地良い涙だった。



私にとって、やはりハマショーは師匠である。いや、今っぽく言えば神である。ライブの帰路、来年のカレンダーやマグカップなどを大人買いしてしまった。

お布施、奉納、ご寄進である。