好き勝手に好きなものを食べて暮らしている日々だが、私に不足しているのが「味噌汁」である。
もちろん、マトモな料理屋で最後に味噌汁を頼めばやたらとウマい味噌汁にありつくことが出来る。
はたまた牛丼屋や定食屋だってたいしてウマくない味噌汁が黙っていても付いてくる。
私に欠けている味噌汁は「家庭の味噌汁」である。これだけはお金を出しても買えないシロモノである。
ちゃんとした料理屋で出てくる味噌汁はプロが作った逸品である。ウマ過ぎるぐらいだ。定食屋の味噌汁はたいてい妙に薄くてマズい。残したところで罪悪感も無い。
家庭の味噌汁はそれらとは一線を画す。家庭料理だから良くも悪くも雑だ。そこが魅力だ。時にはヘンテコな具も投入されている。
私が子どもの頃、実家の味噌汁に対して特別な思い入れも有り難さも感じたことはなかったが、今になって思い出すと何とも貴重?な一品だったように思う。
豆腐やお揚げ、もしくはシジミあたりが基本だったが、時々、残り物みたいな具が投入されていることもあった。
タマネギがドッサリ入っていたこともあったし、半熟卵が投入されることもあった。
見栄えなんて関係なく、腹を空かした子どもに「おかず」として食べさせるような意図もあったのだろう。
一人暮らしの今、あんな「我が家の味噌汁」を味わうことはない。こればかりはわざわざ自分で作ろうとは思わない。
自宅にはフリーズドライの味噌汁をストックしているが、滅多に飲まない。ヘタな定食屋の味噌汁よりは間違いなく美味しいのだが、何となく面白くない。
フリーズドライの味噌汁にお湯を注ぐ作業自体が好きではない。何だか冴えない。シャバダバである。自分が家庭人失格という烙印を押されたような気分になる。
やはり、家で飲む味噌汁は母親や奥さんが忙しそうにバタバタと、かつ面倒くさそうに作って、それを雑に盛り付けてこそ成り立つ一品だと思う。
日頃そんな味噌汁を味わっている家庭人の皆様は、当然ながらその素晴らしさに気付かず、何となく飲んでいるわけだ。私もそんな頃はあった。でも、あれはあれで実は得がたい逸品だということを今になって痛感する。
その昔、東海地方出身の人と暮らしたことがあった。当然のようにいつも赤だしの味噌汁だった。
赤だしが嫌いなわけではないのだが、私の育ってきた味とは全然違う。いつも違和感があった。でもいま思えば、ちょっと雑だったそんな味噌汁すら懐かしい。
その後の人生でも、家庭人を真面目にやっていた時は野菜がぶりぶり入った気持ち悪い味噌汁なんかも出された。今でも飲みたいとは思わないが、ああいう雑な味噌汁がある環境に身を置いていたことは懐かしく感じる。
やはり「家の味噌汁」という存在は、日本人にとって郷愁を誘う一品なんだと実感する。シングル生活を謳歌?している私には縁遠いものになってしまったことがチョッピリ残念である。
とはいえ、味噌汁のためにまた家庭を持とうとは思わない。さすがにそれはヘンテコである。不倫するのが楽しそうだから奥さんが欲しいという発想と同じで単なる論理破綻である。
よく分からない結論になってしまった。
2 件のコメント:
雑が魅力とは、人間にも当てはまる深い言葉ですね。もっとも本当にただ雑なだけの人には魅力がないのですが。
コメントありがとうございます。
雑にもいろんな側面がありますよね。
愛すべき雑も結構あるのだと思います。
歳とともにただ趣の無い雑な人間になってきている自分が心配です(笑)。
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