以前は娘と息子とセットで会う機会が多かったが、娘が一人暮らしを始めたことで、息子と二人だけで会うことが増えた。
ダウン症の彼はアッという間に大きくなって来年は中学3年生になる。いよいよ義務教育も終盤戦だ。
今日は久しぶりにウチのダウンちゃんの話を書こうと思う。
息子が小さい頃は、今とは違う葛藤が私の中にもあったのでこのブログでも随分と障害児の話題に触れていた。
ただ、何度書いても繰り返しのような話になってしまうので最近はあまり書いてこなかった。
http://fugoh-kisya.blogspot.com/2018/05/blog-post_16.html
ある意味、ネタ切れ?みたいなものだが、10年ぐらい前よりも、ある種の達観が強まったのだろう。
息子の話題になると、どうしたって「障害児問題」みたいな方向に話が行きがちだ。別に大袈裟に論陣を張るつもりはないのだが、ついついそんなノリになってしまう。
そういう路線の話になってしまうこと自体が息子を特別視しているような感じがして、ことさら彼の話を書くことに居心地の悪さも感じていた。
私自身、実際に以前のほうが彼を特別視していたのだろう。今のほうがきっと「普通」である。
普通だ特別だという表現自体が親としてヘンテコだが、さすがに健常児というワクではないからある程度は仕方がない。
小学校に入ったのがつい最近だった気がするから時の流れは速い。よくしゃべるのだが、残念なことに彼は言葉の発声能力が低いから親の私でも3~4割ぐらいしか聞き取れない。
数の概念や文字の学習能力も全然ダメだ。学校も母親もいろんな角度から相当あれこれとトライしたが、どうしても身につかない。
同級生のダウンちゃん達よりも学習能力がまるで足りないから学校生活はなかなか厳しいみたいだ。
それでも支援学校の先生達は息子の大らかで穏やかな人間性を評価してくれて、他の生徒とは違うアプローチで彼を指導してくれる。実に有難い話だ。
時々ふと思うのだが、離婚という選択をせずに彼のそばで私もサポートをしていたら、彼の学習能力は今よりほんの少しはマシだったのだろうか。。
鬱々とそんなことを考えるのだが、それはそれで自意識過剰気味の発想かもしれないし、いまさらムニュムニュと思い悩んでも仕方がない話だ。
可愛かったアイツも今では結構巨大になり、私のお下がりの服もモノによってはゆったり着こなしてしまう。
上の画像と比べると別人だ。まあとにかくよく食べる。私だって中学生の頃は常に空腹だったから当然といえば当然だ。
この画像はウチでスペシャル冷やし中華を食べさせた時のもの。私に似て彼は冬でも冷やし中華を食べたがる。
ウチに来るたびいつも食べたいものを何度も尋ねてみるのだが、いつも必ず「冷たいラーメン」と強硬に主張する。
画像は、麺を2玉、そこに特盛りの牛皿をトッピングして、サイドにセブンの「金のハンバーグ」である。
野菜っぽいものはゼロ。彩りもまるで無し。超絶的な手抜きだが、中学生はこういうものが大好きだ。彼もウキウキしながら瞬時に食べきる。
ダウンちゃんは肥満になりやすい傾向もあるので、母親はいつも食べさせる量に気を遣っている。だから彼は自宅でドカ食いをする機会が少ない。
甘甘父ちゃんである私は、彼がウチに遊び来るたびにドカ食いを放置してしまう。いや、すすんでドカ食いをさせてしまう。ダメパパである。
健康に良くないのは分かるが、彼の境遇を思うと、つい好き勝手に飲み食いぐらいさせてやろうと思ってしまう。
自分が中学生の頃を思えば、野球部の練習に励んだり、悪友達と喫茶店をハシゴしたり、時には女の子達とチャラチャラ遊んだり、あれこれと忙しくしていた。
もっといえば、エロ本にドキドキしたり、着るものにこだわり始めたり、お気に入りのスニーカーを探し歩いたり、イタズラ心で酒やタバコにも手を出していた。
ダウン症の我が息子にはそういう楽しみがない。実に気の毒?である。だからついつい不憫に思って甘やかしてしまう。
もっともらしい言い訳だが、こういう考えかた自体が間違いとも言える。不憫に感じるのは、私が自分の中学生時代を基準に彼のことを考えているからだ。比較すること自体がこっち側の価値観に囚われている証だ。
この時点で、私にとっての「普通」を押しつけているわけで、彼には彼の「普通」がある。息子なりの楽しみや世界観があるという大前提をないがしろにしている。
彼はお気に入りの音楽に合わせて踊ったり歌ったり、DSを器用にイジりながらゲームに没頭したり、子供だまし?みたいなオモチャ照明に長々と見入っていることが純粋に好きだ。
タバコをくわえてカッコつけたいとか、樽酒を味わってみたいとか、風俗に行ってみたいという感覚は無い。いや、聞いたことがないから分からないが、風俗は行きたいかも知れない…。
いかんいかん、話がそれそうだ。
いわば不憫に思っているうちは、まだまだ私が彼に対する理解を深めていないのかも知れない。
そんな甘甘でダメな父親だから、彼に会うたび、彼の穏やかで幸せそうな表情からいろんなことを教えてもらう。
いつも何かに満たされないような、何かが足りないような感覚で生きている俗物的凡人である私からすれば、息子が持ち合わせている鷹揚な空気感や裏表の無い純粋さ、感情表現の誠実さにハっとさせられることは多い。
障害児をめぐっては、存在意義などという実に不快な言葉が使われることがある。それが一般社会の現実であることは確かだ。ハタからみればそういう言葉を使う気持ちも分からなくはない。
でも、家族という社会の中の最低単位の中で身近に接してみれば、存在意義などという言葉がいかに陳腐で無意味なものかを痛感する。
使命だ、役割だなどと大袈裟に強調するつもりはないが、読み書きもロクに出来ない我が息子だって周りの人にさまざまな影響を与えてくれる希有な存在だ。
座敷わらしや福助伝説と同じである。お化けと一緒にしては息子に叱られそうだが、間違いなく彼は彼の“仕事”をこなすために生まれてきたのだと思う。
少し前、ウチに遊びに来たときに散歩の途中で通りすがった水上バスに乗せる機会があった。
心の底から嬉しそうにハシャいだ彼の笑顔を見ているうちに私のほうがやたらと愉快な気持ちになった。
彼はその後、会う人会う人すべてに私と船に乗った話を自慢するらしい。父親の面目躍如である。
今日は何が書きたいか分からないままダラダラと長くなってしまった。
どうしたって親は先に死んでしまう。ちょっと変わった我が子の行末が心配だが、子どもの将来を不安に思うのは子どもが健常であっても同じだ。
それなりに先の手立てを整えることしか出来ないし、あまり考えたところでキリがない。彼のこれからの成長に応じていろんな可能性を検討することになる。
とりあえず私もまだ元気だから、彼が愉快な表情になれる場面をたくさん作ってやろうと思う。
0 件のコメント:
コメントを投稿