宗教的な訓話みたいなのが苦手だ。なんか嘘っぽく聞こえてついついナナメ目線で捉えてしまう。格言とかその手の教訓的なものも敬遠したくなる。
神父さんやお坊さんの話はもちろん、「あいだみつお」なんかも苦手。どうも素直に受け取れない。チャチャを入れたくなる。斜に構えた姿勢は私の悪い癖なんだろう。
そんなひねくれた路線でウン十年強がってきた私だが、最近は、ふとした時に教訓とか訓話とか名言みたいなものにアンテナが反応するようになった。あいだみつおは相変わらずダメだが、善良な言葉が心に刺さるようになってきた。
ようやく大人になったのだろうか。このところ、自分を覆ってきた鎧のような気持ちが随分と丸くなってきたように感じる。
人様が話している善良な話に素直にうなずく、善良な話を書物などで読めばウルウルするようになった。
深層心理の中で肩肘張って生きていくのが億劫になってきたのだろうか。大震災あたりから無意識のうちに無常観というか、すべてを達観するような気分が生まれたのかもしれない。
仕事上欠かせない「物事を斜に構えて捉える姿勢」は、考えてみれば寂しい話だ。善か悪のいずれかに分類すれば、そんな気持ちは悪でしかない。
斜に構えている程度なら、分別とか思慮深さという範疇に収まるが、これが猜疑心にまで進んでいくとどうにもややこしくなる。
世の中の諸悪の根源は猜疑心だ。素直に物事を受け取れず、悪い方悪い方に解釈する。疑ったり、妬んだりする心が持つ負のエネルギーは、まさに悪魔が心に巣くっているかのようだ。
いったん生まれた猜疑心は、その人の心の奥で勝手に膨張する。深く愚かに拡がっていく。あれを悪魔の囁きと言うのだろう。
夢にまで疑いの心が拡がり、毎晩のように思考がネガティブになる。
友達、恋人、家族、そして職場や社会に至るまで、争いはすべて小さな猜疑心から始まる。人の心の曇った部分が世の中に暗い影を落とす。
そうはいっても、人を信用することの難しさもまた一面で人類の課題みたいなものだろう。
子どもが教わるのは「知らない人についていくな」、「見知らぬおじさんの話を信じるな」。
ちょっと大きくなれば「男はオオカミなのよ、気をつけなさい」だし、「女の言うことなんか全部思いつきだ」とか、どうしたって人を信じるな、疑ってかかれという図式で大人になる。
「人を見たら泥棒と思え」なんて言葉もある。大前提として疑うことから人間と人間の付き合いが始まる。
もちろん、だからこそ信用できる関係を築けた時の喜びやそれによって絆が強くなる喜びが大きいわけだ。
信用できるか否か。結局、人と人の関係はその一点に尽きる。ごくごく当たり前のことだが、この一点の確証を得たい一心で人はもがき苦しむのかもしれない。
ガラにもなく、最近教わったマザーテレサの言葉を紹介したい。
人は不合理、非論理、利己的です
気にすることなく、人を愛しなさい
あなたが善を行うと
利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう
気にすることなく、善を行いなさい
目的を達しようとするとき
邪魔立てする人に出会うでしょう
気にすることなく、やり遂げなさい
善い行いをしても
おそらく次の日には忘れられるでしょう
気にすることなく、し続けなさい
あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう
気にすることなく正直で、誠実であり続けなさい
あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう
気にすることなく、作り続けなさい
助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう
気にすることなく、助け続けなさい
あなたの中の最良のものを、世に与え続けなさい
けり返されるかもしれません
でも気にすることなく、最良のものを与え続けなさい
実に美しい言葉だと思う。
まあ、正直に言って、そんな説教じみたことを言われても実践出来るわけがない。普通の人間は煩悩の塊だ。クヨクヨもするし、周りが気になって仕方ないし、エゴむき出しだし、欲も出る。
そうは言っても、今更ながらこんな珠玉の言葉に出会ったのには何か意味があるのだろう。せめてひとつでも実行できるように意識したい。
ああ解脱したい。
2011年11月30日水曜日
解脱したい
2011年11月28日月曜日
150億円で遊んだ人
大王製紙の前会長の道楽ぶりは、まあ何というか、何とも言えないというか、実に破天荒でスペシャルではある。変な表現でスイマセン。
良いとか悪いとか、今更そんな論評は無意味だろう。世の中の同族会社経営者の目線と一般サラリーマンの目線とでも受け止め方は全然違うのだろう。
同族会社には、相応の公私混同は付きものだし、それを100%すべて悪と切り捨てることは無意味だ。それこそが同族会社のパワーになっているのも真実ではある。
もちろん、程度問題ではあるが。
それはともかく、会社のカネを150億円も個人的に使っちゃったんだから豪快だ。大半がギャンブルですったことを本人が認めてるわけだから、ヒョヒョヒョのヒョだ。
そこまで突き抜けたら、もはや偉人?だろう。
40代、妻とは離婚。すなわちフリーの身だ。見た目もマトモだし東大も出てる。そんで150億円で遊ぶ。うーん、悶絶する。
常識で考えつくこの世の快適なこと、快感なこと、ワクワクすること、全部経験できたんだろう。あんなことも、こんなことも・・・。羨ましい・・・。
本人は返済の意向もあり、実際に持株などを処分すれば、使いまくったカネは返済可能だとも言われる。だとしたら逮捕はされたものの、重い量刑をくらう可能性は低い。
世界中に恥をさらしたのは確かだが、たった一度の人生、一瞬でもそんな経験が出来ちゃったのなら、御の字だと思っていてもおかしくない。
さてさて、この一件をただ羨ましがっているだけでは情けない。私の印象を少し書いておきたい。
といっても、大層なことを考えたわけではない。要は「日本もカジノを解禁しやがれ」ってことだ。
日本にも世界に誇れるカジノがあれば、あの150億円だって、わざわざ海外に流出しなくて済んだわけだ。実にもったいない。
変な話だが、本気でそう思う。カジノ推進の話はこの国でも古くて新しいテーマだ。とっとと解禁すればいいのに、反対派の声も強く実現していない。
競輪、競馬、ボートなどの公営ギャンブルが大賑わいで、反対論が強かったサッカーくじだって、今ではごく普通に世の中に定着している。
パチンコだって、勝ち金の両替に摩訶不思議な建前はあるものの、純然たるギャンブル。お隣のオッソロシイ国に随分とアガリが流出してるようだが、景気に関係なく大盛況だ。
まあ、事実上、国がギャンブルをドシドシ後押ししているのだから、カジノだけ特別扱いする意味が分かんない。どんどん作ればいい。
過疎になっちゃった地域とか、観光資源に乏しいどこかの島をまるごと使ったりして、この国の自慢であるハイテク技術なんかもガンガン駆使して世界的なスーパーカジノを作ればいいと思う。
尖閣諸島とか竹島あたりも有力な候補地だ!?。
メイド・イン・ジャパンのスーパーハイテクカジノを作って、そこに向けて豪華客船の航路を開いたりすれば一大産業が出来上がりそうだ。
間違いなく世界中のお金持ちはぶりぶりお金を使ってくれます。
だいたい、財政状態がヘロヘロなんだから、気取ったことばかり言ってたって仕方がない。なりふり構わず国庫を潤す話はすべて実行すればよい。
射幸心をあおるとか、旧態依然とした反対論だって、さっき書いたような公営ギャンブルが大盛況になっている状況を前にしたら、ちっとも説得力はない。
増税増税と国民を憂鬱にさせることばかり言わないで、もう少し国民心理をくすぐることを言い出すセンスが欲しい。民主党や霞ヶ関のオッサンにはそんなセンスが皆無なのだろうか。
「楽しみながら納めたい」。国に納めるものすべてにそういう観点からの議論があっていい。
今では当たり前になったクルマの希望ナンバーだって、「カネを出せば希望の番号がもらえる」なんて昔は考えられなかった。そのせいか、インチキや裏ワザやうさん臭い話も多かったが、希望ナンバーが取れるようになって余程スッキリした。
あれだって、通常より割増しの金額を払うことで自分の好きな番号を押えることが出来るわけで、その「割増分のカネ」は、純粋に受け取る側の粗利になる。小さい話だが、そういう発想の積み重ねだと思う。
地方税の世界で定着してきた「ふるさと納税」も各自治体が、納税先に選んでもらおうと、米や肉、果物といった地域色豊かな特典を納税してくれた人にプレゼントしている。
納税で特典などというと、非現実的なこと、不真面目なことといった印象を抱く人がいるが、そんなことはない。
いまどき、どんな世界でもポイント制とかキャッシュバックとか、何らかの特典を提供することで顧客満足度を高めている。
ふるさと納税で頑張ってる自治体のマネをして、国だって、納税者への特典ぐらい考えたっていい。
納税額の多寡に応じてプレゼントを用意したり、国の施設を安く使えたり、特典なんて簡単に作り出せる。
迎賓館に1泊出来ます、とか、政府専用機で遊覧飛行とか、国宝に一瞬さわれますとか、自衛隊の輸送機使って流氷見学なんていうのもアリだろう。
真面目に何年も高額納税を続けたら、政府系金融機関からの融資利率が優遇されるとか、国有地払い下げ情報が一足早く分かるとか、訴えられても裁判所が優先して扱ってくれるとか、いろいろありそうだ。
話がアチコチに飛んだが、突飛な話、素人の話、門外漢の話にこそ、局面打開のヒントがあるのも事実。
どうせ納めるのなら、どうせ取られるのなら少しは楽しい気分になりたいもの。それが人間の素直な心だろう。
「150億円で遊んじゃったアノ人」の話から随分と飛躍してしまった。
2011年11月25日金曜日
ドライブ
久しぶりに一人で長々とドライブをした。もう10年以上もそんなことをした記憶がない。いろいろイライラしていたある日、日帰り温泉にでも行こうとハンドルを握った。温泉気分はどこへやら、なぜかカッ飛びモードになって高速に乗って走り続けた。
温泉にも行ったが、結局ドライブ中心の時間だった。クルマの運転がストレス解消法という人がいるが、分かる気がした。
20代の頃はよく一人でドライブしていた。暇人だったから昼寝のせいで夜更けに目が冴える。仕方なく朝焼けを見に出かけたり、目的もなく高速を走ったりしていた。
その後、年齢を重ねるに連れ、助手席に誰かを乗せないと退屈するようになった。いや、そんな理由ではなく、アルコール中心の生活になったことで運転する機会が減った。
この日のドライブは、午後から夜にかけて結構な時間を愛車で過ごした。思えば、昨年クルマを変えて以来、こんなに長く一人でこのクルマと向き合ったことがなかった。
ひとりでガンガン走ってみると、愛車の性能に萌え~って感じになった。全体の質感、エンジンの力強さ、加速、制動力、コーナーリングの安定感など、全体に大したもんだと今更ながら感じた。
とかいいながら、クルマの性能を噛みしめていたのは少しの時間で、あとは葉巻を吹かしながら大声で歌ってばかりだった。
さすがに葉巻の香りが染みついちゃうのはイヤなので、窓は全開。寒いし、うるさいし、カーオーディオに合わせて歌う声は大声になった。叫んでいたような状態だ。
スッキリした。
ハマショーを叫ぶのに飽きたので、永ちゃんの「アイ・ラブ・ユー,OK」をうなったり、加山雄三をスカして歌ったり、ブルーハーツを吠えたり、誰にも聞かれないのをいいことに熱唱。
そのうち、演歌モードに突入。五木ひろしの「待っている女」、細川たかしの「望郷じょんから」とか、高山巌の「心凍らせて」なんかを歌う。
それにしても「心凍らせて」は名曲だ。
♪心凍らせて 愛を凍らせて
今がどこへも行かないように♪
何度も熱唱した。どう見ても間抜けな姿だったと思う。
話がそれた。
この季節、日が暮れるのが早いから、あっという間にトワイライトタイム。昼が名残り惜しそうに、夜が待ちきれないように攻めぎあう時間だ。
日没後のわずかな時間。黄昏のひととき。こういう時間帯に人の精神性は研ぎ澄まされるのだろうか。様々な悩みや想いが浮かんでは消えていく。
結論なんて出ないから結局は、♪こころ、こおら~せて~~♪とか熱唱しながらアクセルを踏み続けた。
この日は、秋川渓谷・十里木にある日帰り温泉に行って、混雑ぶりに辟易として、埼玉・狭山近辺にある温泉施設に行き直した。
当たり前だが、クルマでの移動は臨機応変にスケジュールを組めるのが便利だ。
アルコール漬けの身体になる前までは、結構なクルマ好きだった私だ。もともと、ドライブは好きなほうだった。
大学生の時は、陸路、北海道まで丸一日ひとりきりで運転したこともある。夜遅く、青森側から青函連絡船にクルマごと乗り込み、運転席で爆睡して函館に到着した。
その後、クルマでも寝泊まりしながら1週間かけて北海道の外周を回ってきた。楽しい思い出だ。
ちなみに現在の愛車は英国車。英国好きでもなんでもないのにおかしな話だが、輸入車の個性、輸入車の哲学みたいな部分に惹かれる。
ドイツ車を中心にイタリア車にも乗ってきた。それぞれが哲学というか、確固としたアイデンティティを持っている点に惹かれる。
「走れば何でもいい」。それも道理だが、「何事にもこだわりを持った大人」を演じ続けたい私?にとっては、やはりミニバンとかプリウスは敬遠したい(ファンの人、スイマセン)。
あと20年ぐらいしたら、きっと喜んで軽のミニバンを愛用すると思うが、まだまだその世界には背を向けていようと思う。
上質な欧州車が持つ官能的な空気は、やはり、単なる道具と割り切って作られたクルマとは異なる。エロティックな喜びを与えてくれる。
いきなりデータを出して恐縮だが、輸入車の新規登録台数は1996年に40万台に達したが、その後は減少し、2000年代には25万台前後になり、2009年には17万台にまで急降下。ピーク時の半分以下だ。
このあたりにも不況の影響がくっきり出ているが、その分、この国のドライバーから「浪漫」が減っていったという見方も出来る。ちょっと寂しい話だ。
とかいいながら、私自身、めっきり運転する場面が減っているのも確かだ。箱根や熱海あたりですら、電車で行きたがる。もっとクルマでの移動を見直してみたい。
最近は、昔ほど渋滞にはまることもなくなった。せっかくエコとかハイブリッドに背を向けたようなクルマに乗っているのだから、バンバンかっ飛んでいこうと思う。
この秋は少し酒を我慢して、もっとドライブに励もうか。
2011年11月21日月曜日
正しく健康的な酒
用事が無くても止まり木に立ち寄ることは大事だろう。職場と家の単純往復から文化や芸術、ましてや色恋?は生まれない。
同僚や友とわいわいしたり、異性としっぽりも嬉しいが、時にはひとりポツンと日常の様々を逡巡するのも悪くない。
そんな時は寿司屋のカウンターだ。随分断定的だが、先日、寿司屋のカウンターでそう思ったのだから仕方ない。
ひとりでバーでチビチビも良いが、あまりに変化のない時間の流れのせいで、つい携帯メールをチェックしたり、Facebookをいじりだしたり、結局わさわさしてしまう。
あくまで私の場合の話だ。
先日、良く行く高田馬場・鮨源でボーっと飲み食いした。ちょっと気分が上がっていかない日だった。何となく止まり木みたいな感じで訪問。
私にとって基本パターンみたいな注文の仕方をした。正しく不健康な酒飲みのオーダーだ。不健康といっても、もっとヤバいシリーズに没頭する時もあるから、この日は大したことはない。
お燗酒を飲みたい気分の時には、この程度の不健康は健康的な範囲だろう。よく分かんない表現になってしまった。


極上の本マグロの赤身と軽く酢締めされたサバを肴にアルコールタイムスタート。
やはり、鉄分の香りが芳醇なしっとり赤身は刺身界のスーパースターだろう。長島よりも王って感じだ。ノーラン・ライアンではなくグレッグ・マダックスという感じだろうか。
サバにはバッテラに使うような甘めの昆布もトッピング?してもらった。
アンキモ様がくれば、どうしたってビールから燗酒に移行。日本の冬よ、ありがとうって言いたくなる味わいだ。
メジマグロのトロっとした部分を辛味大根とともに味わう。これまた燗酒と混ざり合って、早々に気分が良くなる。

熱めの燗酒が喉を通りすぎていく瞬間が大好きだ。まさに快感だろう。ウィーとかオォーとかその手の音を発声したくなる。
アンキモに飽きたらず、白子も頼んだ。ポン酢が優しい味だから、白子のクリーミーエロティックな味が引き立つ。
なんかグジュベロ系?の肴が続いたので、カキを注文する。この日は、吸い物風に仕上げてもらった。薬味無し。ただただカキの風味を堪能する。厚岸のカキだとか。味が濃くて嬉しい。風味の弱すぎるカキが最近は出回りすぎだと思う。
この日は空腹ではなかったので、つまみはこの程度でやめた。普段は、今まで書いたようなラインナップに加えて、岩塩をパラっと降ってもらった純粋な生ウニを頼んだり、馬刺しや穴子の白焼きをもらったり、串に刺したウナギを一本焼いてもらったり、揚げ物を頼んだりしてウダウダする。
そうなると飲みすぎる。この日は、なんとなくボーッとしていた日だったので、適当に握り方面に舵を切った。

あまりにも赤身がウマかったので、素直に鉄火巻にしてもらう。鉄火巻といえば、どうでもいいマグロの赤身を使うのが普通だから、日本全国の寿司業界でスターの座に座ることはない。下っぱのような位置付け。
とはいえ、それをあえて極上本マグロで作ってもらうと、さすがに別モノになる。正しい赤身には正しい酸味とか旨味がつまっている。だからフムフムうなってしまうような鉄火巻が出来る。
まもなくシーズンが終わる生のいくらも握りで食べた。握りといっても、軍艦にせずに、シャリの上にドッサリぶっかけてもらった。悦楽のひととき。

まっとうなツマミにまっとうな握りを食べて、正しく酔っぱらってきた私は、結局、邪道モノもついつい頼んでしまう。
上はツナ軍艦。回転寿司ではノーマルメニューだろうが、高級寿司の世界では異端児。この店でも、もともとそんなメニューは無かったのだが、突出し用に作られている本マグロベースの極上ツナが、時にシャリを伴って私を幸福にする。
本当に美味しいと思う。ここ1,2年、この店の客の間でツナ軍艦ファンが着実に増えているのは疑いようのない事実だ。
そして焼おにぎりだ。邪道というか、上質なネタを揃えている寿司屋に対して失礼な注文ではある。おまけに、シャリに少しおかかをまぶしてくれだの、ゴマを少々とか余計なお願いをしたりする。
酔ってないと頼めない食べ物かも知れない。でもこれがウマい。シメにふさわしい。べったら漬なんかをかじりながらモグモグするのが最高だ。きっとどんぶりサイズでもぺろっと食べられると思う。
この日、食べ過ぎず、飲みすぎず、快適な気分で過ごせた。ウマイものをしこたま食べようと意気込んで出かけた時よりも、止まり木に立ち寄るぐらいの感覚で訪ねた方が快適な時間が過ごせる。
のどかな時間だった。
2011年11月18日金曜日
変態バンザイ
いきなりだが今日は変態について考えたい。
青虫が蝶に変わるようなくだらない話ではない。もっと学術的な変態の話だ。変態性欲と言うべきか。
私も他人様から変態野郎と言われ続けて30年(ウソです)。いろいろな変態話を聞いてきた。あくまで聞いてきただけである。
こんな高尚なブログで具体的なプレイ内容を開陳するわけにはいかないが、人間の欲とか業ってシロモノは奥深いこと甚だしって感じである。
スカトロ方面、縛り縛られ方面、グループ交尾方面などなど、世に言う変態のジャンルはいくつもある。いわゆるフェチ的なものも含めれば、「変な性癖」の種類は際限ないほどだろう。
女性とそういう場面になると、いきなり豹変して「このメスブタめがっ!」と叫ぶ紳士がいる。女性は皆ドン引きするらしい。想像すると爆笑してしまうが、それこそ人のそういう点を笑ってはいけない。
誰もが一風変わった萌え萌え嗜好を内面に抱えている。幼児趣味とか死姦とか許されないジャンルは別だが、誰もが持つ変な癖は本来尊重しあった方が平和なんだと思う。
人間の残念なところは、自分に縁のない嗜好に没頭する人を警戒し、排除しようとする点だ。どうしても同好の士で群れたがって少数派を異端視したがる。
変態問題についても同じ構図だ。もともと魂の命ずるままの性癖を変態などと呼ばれては堪ったものではない。その行為をするヤツが多いか少ないかだけで判断され、少数派という理由だけで変態のレッテルを貼られる。
私も随分腹を立ててきた。人と違うことをしたがるアマノジャクだったら即、変態になってしまう。
現代ではごくごく普通になっているプレイが、数百年前には誰もトライしていなかったとする。それだけでその時代の人から見れば変態行為だ。
古代ローマ時代などは、今よりもよほど性にオープンだったそうだ。奴隷も普通に存在した時代であり、一説によると上流階級の夫人の局部を舐める役目の奴隷すらいたらしい。
凄い話だ。でも、凄いと感じること自体が今時点の感覚であって、当時の上流階級においては凄くもなんともないごく普通の日常だったのかも知れない。
性の分野に関係ない話だが、「エラい人は一昔前の変人」である。カリスマとか、神格化される偉人の多くが、後世の評価によってそのような地位に押し上げられている。
現役バリバリの時には異端視されて石を投げられたりしている。そんなもんだ。
いま「キャー変態!」とか言われてイジケてる人も心配は要らない。きっと100年もすれば立派な男だったと讃えてもらえる。私も22世紀には、性人、いや聖人になっているかもしれない。
さて、変態をもう少し掘りさげよう。変態趣味は、どちらかといえば男の趣味の世界だと思う。
もともと凝った趣味に没頭しがちなのは男性だが、それ以外に根本的な構造の問題も多分に影響している。
「男のセックスは脳でするもの」。この普遍的な仕組み自体が、変な性癖の芽になっているのだと思う。
男性と女性では、快感の度合いが5倍だとか10倍、はたまた30倍も違うらしい。そのぐらい素晴らしい快感を与えないと出産という過酷な作業を放棄しかねないので神様がそう仕向けたらしい。
逆に、仮に男に出産を経験させたら、痛みに耐えかねて死んでしまうと言う話も聞く。
なんともシュールな話だ。
肉体的快感に劣る男性は、脳をフルに使うようになる。元来夢想家である男としては、いかがわしい妄想が暴走し、あっという間に変態が出来上がる。
そう考えると、つくづく男の情けなさというか、切なさが気になる。当然男である私は男の味方である。変態男に憐れみと同情を禁じ得ない。
必死で女性を追っかけて、いざそういう場面に至っても、脳の中におかしな光景が広がり、時に変なプレイを求めて、相手からぶっ飛ばされる。いやあ実に悲しい。
女性の皆さんには、そんな男性をもっと憐れんでいただきたい。男の妄想をアホバカと一蹴しないでもらいたい。
「人生に必要なのは真実より綺麗な嘘である」という言葉がある。そういう意味では、男女に必要なのは、くだらない真実より興奮する嘘なんだと思う。
2011年11月16日水曜日
悶々とする
親しくお付き合いをしている人が長年書いているブログを偶然見つけた。ブログを書かれていることは知っていたが、詳細は内緒にされていた。
見つけてしまった以上仕方あるまい。しっかりと読ませてもらった。覗いてしまった背徳感?にウキウキしながら熟読。
読んでみて深く反省。その人には今まで、随分と自分勝手な高説?を披露してきたので、自分の程度の低さが恥ずかしくなった。
もちろん、ブログなんてものは自分の言いたいことを好き勝手に書ける場だから、程度が低い高いなどと比べたり、優劣を付けるようなものではない。あくまで、私がその人にエラソーにのたまってきた言行が恥ずかしい。
その人のブログには「悪」がない。批判や攻撃といった負の力とはまるで無縁。いきがって世間様に文句ばかりつけている自分のネガティブな心を思い知らされた。
有名人は別として一般人が匿名で手がけているブログには、どうしたって人間性が如実に表れる。生きる姿勢と言ってもいい。
心根が優しい、視点が公平、偏った先入観に囚われない、謙虚な姿勢、知的好奇心の幅の広さ、芸術への素直な共感、郷土愛、家族愛、先人への畏怖・・・等々。
あえて総括的に分析すれば、その人のブログはそんな評価になろうか。誉め過ぎか。
ちょっとオカルトチックな内容とか意味不明にぶっ飛んでいる内容もあるのだが、全体的には上質な読み物だった。
というわけで、自分が4年以上書いてきたブログを読み返してみた。
偶然見つけたその人のブログが「能ある鷹」だとしたら、私の場合「能なし馬鹿」が書き殴っている感じだ。
随分と偏狭な思想に縛られているオッサンみたいだ。イヤミだし、気取ってるし、クドイし。もっと柔軟で爽やかな心を持つようにしよう。今更無理だろうか・・・。
以前書いたものを読み返すと、ブログを始めたときに完全匿名とはいえないスタートだったことも影響して、本音が全然書けていないことに気付く。
本音を書かずに綺麗事ばかり書いているから、本来は心が解放されるはずの「表現する」という作業が、逆に中途半端になってストレスになっているのだろう。
アレを喰ったコレを呑んだ、ああ良かったなどと書いているが、本当はマズかったことも多い。
本当はカップ麺のうまいまずいを詳細に語りたいし、「伝説のスタ丼」とかいう怪しいチェーン店の味を一刀両断にしたい。
銀座のクラブがどーだのこーだの書いているが、池袋の大衆酒場が妙に落ち着くし、池袋のバニーバーの衣装に萌える。
温泉の泉質がどーだの旅館の風呂があーだの書いている一方で、もう随分と吉原で風呂に入ってないなあなどとくだらないことが脳裏をよぎったりもする。
クルマの運転席に置いたまま、ケツで踏んづけちゃって壊れたメガネを修理できずに歪んだまま使ってるし、喫茶店代をおごってもらっただけで実は大喜びしているケチな性分でもある。
TPP問題だって、日本の食料自給率が危機だから無条件で賛成できないなどと気取りながら、実際にはジョンロブやエドワードグリーンの靴が関税撤廃でどのぐらい安くなるかだけが興味の対象だ。
もっと本音を言えば、個人的な家庭の話も随分と装飾して書いている自分がイヤだ。本当は「解散!」って叫びたいぐらいなのに、そんなことは書けないし、ダウン症の息子のことだって同じだ。
「障害児を授かって命の輝きに思いを馳せる父親」みたいに何度も書き綴っているが、本音は全然違ったりするのも正直ストレスだ。なんでそんな目に遭わねばならないのか、こっちがダウンしたいと思っているのが実際の姿ではある。
仕事についても、報道だ、メディアの姿勢だ、社会の公器だなどと格好付けても、営利企業としての存立基盤はただただ利益確保だから、そのために目をつぶることも増えてきた。なんか疲れる場面が多い。
資金繰りに青くなったり赤くなったりして胃腸の調子は悪くなるし、コストカットに関連した人事の悩みだって尽きない。
好きな人に思いが届かなかったり、諍いを起してしまう不甲斐なさに落ち込むこともある。やるせなす。
どうも最近、仕事やプライベートすべてにおいて、「本音と建前と実際」の渦の中でこんがらがっているような感覚になることが多い。
どうでもいいことまで含めて、あーでもないこーでもない、などと悶々としていると、「鬱はこんな風に始まるのだろうか」と無性に恐ろしくなったりする。
バイオリズムが悪い時期に入ったのだろうか。
いかんいかん。もっとお気軽モードになることにする。もう少し自分の首を絞めない範囲で、本音を出しながら相も変わらぬ雑文を書き続けていこうかと思い始めている。
まずは血圧を下げることと、不摂生による吹き出物を治そう。うーん、小さい・・・。
2011年11月14日月曜日
誉めるということ
「よく頑張った」、「当然のことだ」。同じ行為であっても評価する側の見方は分かれる。モノの見方、立ち位置によって評価ほど難しいものはない。
人事コンサルティングの現場では、無遅刻無欠勤を誉めることは間違いだというのが基本姿勢。あくまで「そうすることが当然だから」という視点だ。
もちろん、それも正論だろう。遅刻や欠勤が悪なのであって、それをしないのが普通だという理屈だ。
もちろん、この考え方だけで世の中が回るなら苦労は要らない。ケースバイケースで柔軟な対応も大事だ。評価される側に心がある以上、モチベーションは無視できない。
人の心の機微や情を無視できたら経営もきっと遙かに簡単になるのだろう。しがらみの無い外国人を突然連れてきて、ようやく再生するような大企業があるのがその証しだ。
いっそのこと、いよいよ退陣を決めた異才?ベルルスコーニに日本に来てもらってリーダーに据えたほうがマシじゃないか、などと暴論も言いたくなる
話がそれた。
「当たり前のことを誉める」という行為は、戦略的に目的を持って実行することで意味を持つ。当たり前のことを闇雲に誉めるだけでは単なるお人好しだ。
戦略的な目的、狙いとは何か。言うまでもなく更なる奮起と周囲への波及効果だ。
優良ドライバーを表彰する制度がある。警察署長がうやうやしく表彰してくれる。
安全運転はそれこそ当たり前だ。といって、それを「単なる義務だから」と軽んじることが出来るだろうか。当然だと一蹴されればモラルは低下する。
表彰された人は、まちがいなく身が引き締まる思いをし、更なる安全運転を誓う。周囲の人も表彰が仰々しければ仰々しいほど、賞賛の視線を送る。
国への最大の貢献である納税はどうだろう。真面目に高額納税を続ける行為を顕彰する制度はまったくない。その理由は「当然のことだから」。
こんなドライな考えの下で納税道義が高揚するはずはない。税金をごまかす行為には数々の厳罰が用意されているわけだから、対極にある尊い行為は賞賛されて然るべき。これまた当然のことだ。
高額納税者を讃えることは、至極まっとうな金持ち優遇策であり、将来の税源育成にもつながる。
こんな当たり前の考え方が欠落していることは非常に不自然だと思う。
戦前、わが国に存在したのが「貴族院議員制度」だ。爵位うんぬんだけでなく、高額納税者も議員に選ばれていた。
国の「会費」である税金を多く納めているわけだから「会の運営」にせっせと発言するのが当然という発想だ。
社会主義的思想が前面に出てきた民主党政権。年金制度改悪では、驚いたことに高所得者層に対して平気で月々5万円の負担増を求める一方で、将来給付される年金額は増やさないという、ボッタクリーバーもビックリなハチャメチャな政策を平気で通そうとしている。
人より頑張って稼いで、人より国に貢献している人への感謝すらなしに、ボッタくることだけを考える。お粗末極まりない。
その一方で、生活保護の支給対象者は過去最高をマーク。本当に困っている人を救うのは政治の大事な使命だが、パチンコ三昧の遊び人にまで生活保護が出ているのも一面の真実。
書いているだけで憂鬱になってきた。