2012年7月30日月曜日

隣のトロロ

もう夏バテだ。ダルくてしょうがない。オフィスの冷房と外のアホみたいな熱気で、さすがに体調がスッキリしない。

夏バテに効く食べ物といえばウナギだ。日頃ウナギは散々食べまくっているから、夏バテに効くという話はウソだろう。ウナギで元気になった自覚など無い。

いや、ひょっとしたらウナギをマメに摂取しているからこの程度で済んでいるのかもしれない。ウナギを食べまくっていなかったら今頃死んでいたかもしれない。そういうことにしておこう。

俗にネバネバ系食品が、夏バテ防止や元気促進に効果があるといわれる。ウナギもネバネバ系の一種だ。

真相は分らないが、確かにネバネバは身体に良さそうだ。食べた後に善行を施した気分になる。

納豆、オクラ、とろろを「ネバネバ3兄弟」と呼ぶらしい。私の場合、納豆は嫌い、オクラにも殺意を覚えるので、とろろしか仲間がいない。

他にもネバネバ一家には、モロヘイヤとかメカブとか、ナメコとか、海草類なんかが名を連ねる。

函館に旅行する際には、しょっちゅうガゴメ昆布というネバトロベロンチョって感じの昆布を買うのだが、あの昆布も癌まで退治しちゃうスーパー食品だという噂を聞いたことがある。

ネバネバしていれば何でもOKなら、変な話、鼻水とか痰とかも吐き出さずに身体に貯め込めばいいのかと思うが、さすがにそっちは食品ではないからダメだろう。

話がそれた。

ネバネバの元は、糖とタンパク質が結合して出来たムチンという成分らしい。「ムチン」だ。なんか言葉の響きだけでも強力そうだ。ムチン、ムチン、ムチン!!。

ムチンには血糖値を抑制する作用や、コレステロール値を低下させる作用があるそうだ。凄いぞムチン。

おまけに胃の粘膜保護に抜群の働きがあるらしい。胃潰瘍とか胃炎の予防効果もあるのだという。逆流性食道炎だけでなく、最近しょっちゅう胃の調子が悪い私にとっては最高の物質だ。エラいぞムチン。

ケタ外れにムチンが多いのが納豆だとか。私は子どもの頃から納豆が嫌いで、いまだに納豆巻きを作った職人さんに寿司を握ってもらうのに抵抗があるぐらいヤツが苦手だ。

実家の家族はみんな喜々として食べていたが、なぜか私だけ納豆が嫌い。きっと生まれながらにして上品過ぎる人間なんだろう。

仕方がないから「とろろ」と共に生きていこうと決意している。麦飯にとろろをぶっかけてかっ込むのも好きだし、ウナギと合わせて良し、マグロに合わせても良し、なかなか素敵な食べ物だ。

ここだけの話だが、とろろと言えば、子どもの頃にコッソリ見た官能漫画を思い出す。裸にされて縛られた女性が悪者からとろろ攻めにあって身悶えるというトンデモない設定だった。

そのせいか?、とろろを食べる時は自分が裸じゃないことを確認する。とくに下半身がむき出しになっていないか要注意だ。

冗談はさておき、口の周りが痒くならないように細心の注意を払って食べる。結局、すぼめた口で一気に流し込むように食べることが多くなった。食べるというより飲むと言った方が的確かもしれない。

居酒屋に行っても、山かけなんかを頼まずに「とろろだけ貰えますか」とオーダーしてみる。あまりに貧しい感じだから、一応、卵黄だけ落としてもらうバーションが多い。

ネバネバ系の特徴は、身体に良いだけでなく、精力増強、いわゆる強壮作用にもあるらしい。私の場合、そんな実感は特にない。そっちがへばってる自覚など無い?のであくまで夏バテ防止だ。

いや、ウナギとかとろろとか牡蠣とかを一切食べていなかったら、きっと男として大変な事態なのかもしれない・・・。

もとい。

先日、高田馬場・鮨源で、わがままオーダーをしてみた。山かけが用意できるはずだから、当然、単品とろろも貰えるはずだと長年通っていたのに初めて気づいた。


「とろろが飲みたい」。別に変な食べ物ではないが、お寿司屋さんで注文するのは変かもしれない。おまけに、皿じゃなくてグラスに注いでくれと無茶な頼み方をした。

生卵の黄身だけトッピングして貰って、ジョッキにたっぷり「とろろ大盛り」だ。見た目はミルクセーキみたいだ。マドラーまで借りて混ぜ混ぜして醤油を加えて出来上がり。

グビグビと飲む。隣に座っていたほろ酔い状態の見知らぬオジサンが目を丸くして私を宇宙人でも見るような顔で見ている。

うまい!身体が喜ぶ味だ。エネルギーが湧いてくるような錯覚に陥る。

変テコなオーダーではあるが、私から見れば、あの不気味な納豆を巻物にして食べるという神をも恐れぬ行為自体がよほど変テコだと思っている。ただ単にとろろを飲む行為など極めて正常な行動だと思う。

コレステロールを抑えて、胃の粘膜を保護してくれて、おまけに男性機能のサポーターまで買って出てくれるなんて有難いったらありゃしない。

そんなわけで、とろろに夢中だ。例えて言うなら、身近すぎて気づかなかった幼なじみの魅力に突然気づいて激しい恋に落ちちゃったような感じだ。

長く付き合っていきたい。

2012年7月27日金曜日

いつかの夏

子どもの頃に比べて都会の夏は蝉の声が少なくなった気がする。

8月も半ばになればミンミン、ジージーと賑やかになるので、少なくなったというよりは、鳴き始める時期が遅くなったのだろうか。

30度を超える猛暑日でも、まだまだ騒々しい蝉の声は聞こえない。うるさい鳴き声が暑さを助長する側面もあるが、やはり夏は、あの音色が無ければ始まらない。

もちろん、7月の今でも、うっそうと木々が茂っているところでは蝉の合唱は聞こえる。記憶違いかもしれないが、子供の頃は夏休みに入る頃には既にセミが賑やかだった覚えがある。


遠い日の思い出は美化されがちなので、「夏休みイコール蝉の声」という方程式が頭の中で固まってしまってそう思うのだろうか。

ミンミンゼミ、ツクツクホウシ、ヒグラシ。とにかくこの3種類が私にとっての「正しい蝉」?である。姿形はどうでもよく、あくまでその泣き声が私の耳を喜ばせてくれる。

あれほど季節感を感じさせる自然界の音は、他には無いのではないか。目を閉じてあの鳴き声をイメージした途端に、一気に灼熱の太陽と水がきらめく情景が浮かぶ。

虫取り網、麦わら帽子、スイカ、かき氷・・・、氷を浮かべてキラキラ輝くガラスの器や、汗を拭い続けて袖だけクシャクシャになったTシャツとか、時間を忘れて遊んでいた夏のイメージには必ず蝉の声があった。

急な夕立に冷やされて匂い立つ緑、蚊取り線香のはかなげな煙や切なげな香り、団扇に運ばれるお香みたいなおばあちゃんの香り・・・、そんな夏の思い出にも、夕暮れに響くヒグラシの音色が付きものだった。

日本人は遙か昔から蝉の姿に「もののあはれ」を重ねてきた。もともと抜け殻を意味する「空蝉」という言葉はその代表だろう。

強烈な日射しや生き物が躍動する季節にもかかわらず、空蝉に哀愁や情緒を見出した先人の感性はとても素敵だと思う。

夏を待つ春にも増して、秋が控える夏にしみじみとした情感を感じ取った大和ごころの風雅さに今更ながらグッと来てしまう。

へばるような暑さの中だからこそ、あえて風流人を目指したいと思う。そうは言いながら、先日も炎天下での風鈴の取り付けが上手くいかずにキレまくってしまった私だ。まだまだ修行が足りない。

ところで、何事かを懐かしく思い返す時、不思議と夏のことばかり思い出すような気がする。私だけだろうか。ボケッと思い出す昔の思い出は不思議と夏にかかわるものばかりだ。

そのどれもが蝉の鳴き声とともに脳裏をよぎる。

大磯ロングビーチに連れて行ってもらってドデカいプールに圧倒されたこととか、親戚に連れて行かれた高原の保養地で可愛い女の子にドキドキしたこととか、中学の野球部の練習で通った深大寺グランドの帰り道で浴びるほど飲んだファンタの美味しさとか、思い出すのは夏の出来事ばかり。

未成年の分際で伊豆高原のペンションとやらに女の子連れで出かけたのも夏だったし、どこぞの富豪令嬢の別荘で大勢で乱痴気騒ぎしたのも夏だった。

いたいけな少年の頃、色気づいていた若造の頃、そして大人になってからも、ふと思い出す印象的な出来事はみんな夏の出来事であり、思い返すたびにその情景と一緒に蝉の音色が聞こえてくる。

ある夏の日、猛暑続きなのに鄙びた温泉に出かけたことがある。思いを寄せていた女性とともに汗をかきかき電車を乗り継いで出かけた。

閑散とした宿だった。通された部屋の庭には半露天の風呂があり、涼しい風が吹き始めた夕暮れにゆったりと身を沈めてみた。

風呂の屋根に何匹もの蝉が陣取っていたようで、近くから迫ってくる蝉時雨に圧倒された。庭の木々にいる蝉の合唱も相まって金属音かと思うほどの強烈な音色に前後左右から包まれ、めまいにも似た感覚に陥った。

異次元に迷い込んだような、幽玄の世界に身を預けたような不思議な時間だった。

蝉時雨には人の心を攪乱する不思議な力が宿っているような気がした。

とても懐かしく大事な思い出だ。

誰にでも強烈な印象をともなう夏の思い出はいくつもあるのだろう。そんな思い出を毎年毎年増やしていければ幸せだ。

今年もいよいよ夏まっ盛り。今年の夏が、将来懐かしく思い出す「いつかの夏」になるように充実した時間を過ごしたい。

2012年7月25日水曜日

浜松 ウナギ

ウナギばかり食べている。何事もホドホドじゃないといけないのだが、ついついウナギの香りが頭の中を支配する。

食べ過ぎると胆石になるという噂を耳にしたが、正確には胆石を患った人が食べるには適さないという話のようだ。

気になるので、ウナギの食べ過ぎはどのような弊害があるのか調べてみた。見つかった答えは「カロリーオーバー」だ。

ヤバいことである。せめてご飯は少なめにしないといけない。

稚魚の不漁によってうなぎの値段は高騰中だ。メニューを見て、アッと驚くタメゴローみたいな価格に慌てることも増えてきた。都内某店では、鰻重の一番高いやつが7千円を超えていた。危機的状況である。

ウナギ屋さんが悪いわけではない。今こそ、伝統文化と職人技を保持してもらうために苦況のウナギ屋さんを助けに足繁く通わないとなるまい。

で、浜松まで行ってきた。ちょっと飛躍しすぎだ。

東京にいくらでもウマい店はあるのだが、ときどき無性に「浜松でウナギを食べる」ことに燃える。

10代の頃、親に連れられていった浜松で、それまで自宅で食べていたレトルトウナギとは異質の超絶的美味ウナギを食べたことがきっかけで、いまだに「浜松」という文字を見ると「ウナギ」というフリガナを充てたくなる。

白焼きを初めて体験したのも浜松だったし、ご飯の間に蒲焼きが挟まっていた2段重を体験したのも浜松だった。

浜松に行く時は、舘山寺温泉に泊まる習性?があるので、1泊で出かける場合には、初日の昼と翌日の昼がウナギ攻めの時間になる。

舘山寺温泉での夜飯にもウナギを注文することもあるのだが、今回はカロリーオーバーを恐れてそれはパスしておいた。


初日の昼、浜松駅北口にある「中ノ庄」という比較的新しい店を訪ねた。モダンで綺麗な内装で、風情だとか渋さとは無縁だ。

蒸さない関西風ウナギはあまり好きではないのだが、モノは試しとトライしてみた。浜松は関東風、関西風の店が混在する街だから、東京の名店とは違う味を楽しむのも旅の面白さだ。

まずは白焼きから。初めての感覚だった。サクサクしている。サクサクした後にジュワーとウナギの味が口に拡がる。これはこれで悪くない。

わさび醤油で食べる白焼きと冷酒の組み合わせが無敵だと信じて疑わない私だが、こちらの白焼きはビールにもバッチリ合う感じ。関東風ウナギのエロさ?とは異なる健康的で爽やかな青年みたいな雰囲気だった(意味不明でスイマセン)。


この店の名物は「固焼き鰻重」だ。じっくり時間をかけて焼くらしい。外側のカリカリ感が独特。中はそこそこふっくらしている。でも、どことなくクドい。タレのせいか、調理法のせいかは分らないが、軽やかさとは違うドッシリ感が強い。一種独特だった。

膨満感ブリブリのまま、レンタカーをかっ飛ばして舘山寺温泉へ。ホテル九重に到着。舘山寺といえばこの宿だろう。今回は展望風呂付きの部屋にしてみた。

にごり湯の温泉を部屋にいながら味わえるのは有難い。浜名湖を眺めながらぬるめの湯に浸かってホゲホゲしながら消化促進。


この宿は大浴場も趣向を凝らしてあって楽しい。タオルも脱衣所にふんだんに用意されているし、浴場内にも冷たい水が常備されサウナラバーにも優しい。湖畔の眺めに癒される。

夕飯はヒラメの活け作りとかアジのタタキとか、鮑の踊り焼きとかサッパリ系が多かったので、食い過ぎ男としては助かった感じ。

翌日、のろのろとチェックアウトして、クルマで少し移動して鍾乳洞見学。相当なモノらしいが、私はあの手の閉そく感を感じる場所では、圧迫感のせいで気分が悪くなるので、速攻で出口に向かいボケッとソフトクリームを舐めて過ごす。

鍾乳洞のことより頭の中はすっかりウナギだ。

旅館の朝飯を軽く済ませていたため、浜松駅のほうに戻ってきたら、全身ウナギ欲求モードになっていた。


駅南口に近い「うな炭亭」に行ってみた。有名人のサイン色紙を自慢気に置いてあるセンスにたじろぐ。でも、天下の小澤征爾のサイン色紙を見て、ある意味安心する。期待が持てそうだ。

石ちゃんとか彦麻呂あたりの色紙だったら、微妙だが、「年老いた文化人枠」お墨付き?とあれば大丈夫だろう。

白焼き丼と鰻重を注文。この店も関西風と聞いていたが、少しは蒸しているのだろうか。いい感じにふっくらだ。ただの直焼きとは違うように感じた。

あちらこちらでウナギを食べているが、この店は相当おいしかったです。前日の膨満感のせいで普通サイズを注文したことを、その後3日間ぐらい後悔したほどウマかった。

香り、食感、タレの味、すべてのバランスが抜群。悶絶したくなる味だった。職場や家の近所にあったら毎日通ってしまうかもしれない。

白焼き丼も格別の味がした。ご飯には普通の鰻重用のたれがすこしまぶしてある。乗っかっている白焼きにはわさび醤油を垂らしながら味わう。相容れないような組み合わせだが、これが中々ウマい。ネギと海苔もトッピングして実に画期的な味わいを楽しめた。

今日、こんな話を書いているだけで、またもやウナギが食べたくなってしまった。中毒性があるのだろうか。

実は、この拙文を書いている途中に無性にウナギが食べたくなって、急きょ職場からタクシーを飛ばして江戸川橋の「はし本」で鰻重をかっ込んできた。

昼だから満腹にならないように普通の鰻重をおとなしく一人前だけささっと食べてきた。総所要時間1時間弱で職場に戻って来られた。バッチグーだ。

どうもこのところのウナギへの偏愛ぶりは病的だ。何かが乗り移ったのだろうか。ちょっと心配だ。

そろそろウナギ供養をウリにしている寺にお参りに行こうかと思っている。

2012年7月23日月曜日

本を読んで絵を見る

読書と絵画鑑賞などというと、ありきたりな釣書に書いてありそうな感じだが、一応、私も読書と絵画鑑賞が好きである。

などと書くと大げさだが、寝る前の読書と暇つぶし?の絵画鑑賞は日常の中で一服の清涼剤になる。

読書といっても、肩の凝らない短編小説とかルポとかをパラパラすることが多い。長編小説は、読み切らずに間が開くとすっかり読んだ部分を忘れちゃうから、一気に読めそうな時だけ手にする。

で、先日読んだ長編小説に魂が震えた話を書く。

長編といっても複数の人物の人生が交錯するオムニバス的な要素もあったので短編を気軽に読み進むような感覚で楽しめた。

楽しめたと書いてみたが、途中からゾッとしたり、うるうるしたり、呆然としたり、何かと心の動きが忙しくなった。


浅田次郎の「降霊会の夜」という作品だ。オカルトとかファンタジーとか、そういうジャンル分けに収まらない人間の葛藤を描いた実に深い内容だった。

本の紹介コピーには「至高の恋愛小説であり、一級の戦争文学であり、極めつきの現代怪異譚――。まさに浅田文学の真骨頂!」とある。

そう言われても分りにくいが、まさにそういうこと。

中年の男がひょんなことから謎めいた女性に連れられて半信半疑で降霊の儀式に臨む。そして男が忘れようとしていた人間達の魂が次から次に男の知らなかった葛藤を語りはじめるというストーリー。

降霊とか霊魂などと書くと一気にありきたりのホラー系、オカルト系を連想させるが、作者の力量のせいで、そんな超自然的な素材でも違和感なく心に染みるストーリーに仕上がっている。

実に面白かった。いや、面白かったという表現は的確ではない。読んでいる最中から、高揚感とか感動とか、そんな普通の感覚では説明しきれない「魂が震えるような感じ」に包まれた。大げさだが、私にとってはそんな印象が強かった。

読み終えた後、深夜なのに部屋で体操してしまった。そうでもしないと何者かに押し潰されそうな変な感覚があった。実に力のある小説だと思った。

「鉄道員(ぽっぽや)」はもちろん、「壬生義士伝」とか「天切り松」とか、ジャンルを問わずに卓越したストーリーテラーぶりを発揮する著者の力量に改めて驚愕の思いだ。

この人の作品のせいで、小説家になりたいという淡い夢をあっさり諦めた人は多いんだろうなあと思う。プロの力量は凄まじい。

本の世界がもたらす一時的なトリップ感覚は麻薬みたいなものだ。自分好みの作品に出会うと純粋にその世界に入り込める。束の間の非日常感は少なからず自分の感性を刺激してくれる。



さて、絵画鑑賞に話題を移す。エラそうに書いているが、芸術的感性などカケラも持ち合わせていないから、絵に関する難しいことはサッパリ分らない。

それでも自分の眼が引き寄せられる作品に出会うと、読書と同じで束の間だが異次元にトリップできる。

前衛絵画はサッパリだし、宗教画も興味ない私としては、ただ単純に分りやすくさりげないトーンの絵が好きだ。

光の明暗を繊細に描いているような作品にはついつい目が向く。昨年パリに行った際にガラにもなく美術館をあれこれめぐったのだが、どうしても光彩の微妙なタッチにばかり興味を持った。

http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2011/07/blog-post_20.html

そんな私だから、職場から徒歩5分の所で開催されていたフェルメールの作品展はとても有難かった。この暑い中、遠方まで絵を見に行くのも億劫だし、休日の大混雑もイヤだ。ものぐさ太郎としては平日にちょろっと見に行けたことが何より。

フェルメールの作品展は、昨年秋に京都に行った際に見る機会があった。

http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2011/10/blog-post_19.html

今回見た作品群は、「リ・クリエイト」だそうだ。模造、模倣でもなく、洗浄や修復でもないと謳っていたが、あくまでホンモノではない。

最新のデジタル技術を駆使して画家の思いが宿った細部までを表現し直したものだという。なんだかよく分からないが、そういうことらしい。

確かに微妙な色彩や、光の表現が実に美しく感じられた。経年劣化そのものを絵の味わいだと思う人にはダメだろうが、素人である私はこれでもOKだ。




会場での作品解説もiPodが用意されていた。日本でいえば江戸時代の画家の作品が、デジタルの恩恵でイキイキと輝いていた感じ。

何もないキャンバスにあれほど精緻に光の神秘を描いた作品はボケッと見ていても飽きない。白い壁を微妙な白色で描く繊細さも凄いと思う。

2枚目の画像の耳を飾る真珠の光具合も圧巻だ。劣化した絵とは違うデジタル再生ならではの面白さだろう。

ちなみに光にこだわった画家としてはフェルメールよりもレンブラントのほうが印象が強い。奇しくも同じ17世紀オランダで活動していたという共通項がある。

以前、カリブ海からヨーロッパに飛ぶ旅行をした際に、1日だけ立ち寄ったアムステルダムで、眠い目をこすりながらレンブラントの「夜警」を見に行ったことがある。

「明暗の魔術師」が残した想像以上に大きな作品に圧倒された。吸い込まれそうな感覚に陥ったことを覚えている。

小ぶりな作品の中で静かに光線を操ったフェルメール、ドラマチックな作品の中で光と影を描いたレンブラント。それぞれの面白さを気軽に堪能できる現代に生きていることは幸運なのかもしれない。

電気のない時代に生きた二人には、ネオンきらめく現代文明の光がどのように映るのかなどと考えながら見てみるのも楽しい。

なんか陳腐な評論もどきになってしまった。すいません。

いずれにしても、本と絵は、楽しむ上で何も準備も要らず、段取りも不要な手軽なツールであり、束の間でも乾いた日常に潤いを与えてくれる。もっと積極的に楽しまないともったいない気がした。

2012年7月20日金曜日

作詞

アコースティックバンド、略してアコギバンドの練習を少しずつ重ねている。練習といっても、私は演奏するわけではないので、せっせと天使のような美声に磨きをかけるだけだ。

練習のたびにギターを自由自在に奏でる友人の姿を羨ましく感じる。コードを確認したり、ちょっとしたテクニックを確認し合ったり、私の知らない専門用語で語り合っている姿を見ると「仲間に入りてえよ~」とつくづく思う。

中学2年の頃、ギターを始めようと思い立って3日間ぐらいフォークギターを抱えた。独学でやろうと思ったのだが、肝心の調弦っていうのか、いわゆるチューニングが分らない。

そこをすっ飛ばしてかき鳴らしてみても意味はないわけで、文字通り三日坊主で終わった。

今ではギターに取り付けるオートチューナーなる器具があって、簡単に私が挫折した段階をクリアできるらしい。うーん、悔しい。あの頃、そんな便利グッズがあれば今頃は「印税ガッポガポ生活」だったはずだ。

後悔しても仕方がない。こっそりギターを始めてみようかと思案中だ。どこかに私を速攻で上達させてくれる先生はいないだろうか。

プライベートでマンツーマンで1日数時間みっちり何度もレッスンしてくれる優しい先生はいないだろうか。謝礼は弾むつもりだ。

できればエマニエル夫人みたいな人がいい。

いるわけないか。

さて、アコギバンドの話だ。

9月の本番で実際に採用するかどうかは未定だが、オリジナル曲も準備中だ。一応、作詞は不肖この私だ。

子どもの頃ではあるが、作詞家になりたいと淡い夢を描いたこともあったから、よせばいいのにホロ酔いついでに3曲分も作詞してみた。

高校生の頃にも即興バンド用に作詞したことがあるから、エラそうに言えばまったく初めてではない。

ただ、この年になってトライしてみると、韻を踏もうかとか、1番と2番で完璧に言葉数を合わせてみようとか、季節感をどうしようとか、中途半端な大人っぽい?邪念がよぎる。

情熱や勢いでサラサラ~って書き上げたほうがいいのだろうが、さすがに無理な相談だ。なんとか出来あがったが、何となくグっと刺さらない。

何百回、何千回とのたうち回って書けば、そのうちそれっぽくなるかもしれない。

まあ、楽しい作業だったから良しとしよう。

素人作詞を楽しめたのも、あくまでアコギバンドをやると決めて日程も決めて練習回数も限られる状況だからである。

ただ漠然と作詞をしようと思っても無理な相談である。そういう意味では、ひょんなことで始めた「オヤジバンドの効能」に今更ながら驚く。

あせあせと過ぎていく日常の中で、普段とはまったく違う取組みに集中できることは意外に大事だと思う。頭の切り替え、気持ちの切り替えは精神状態の健康さを保つためにも必要だ。

「詩を書く」などというと大げさだが、言葉を選んだり、言葉数を揃えたり、イメージを頭で膨らませたりする作業は、なかなか楽しいマスターベーションの世界である。ボケ防止?にも役立つだろう。

書いてみた3作の詩は、都内某所の坂の名前をタイトルにしたラブソングと、まだまだ枯れちゃいかんと大人の男を激励する詩と、もうひとつが「スパイダーリリー」というタイトルだ。

小っ恥ずかしいから、中身は書かないが、自分としてはイメージした内容に近づいた。


スパイダーリリーとは、南の島でよく見かける妖艶な花で、その姿形と独特な名前が印象的だ。可憐と言うよりどこか怪しげ。

この花をモチーフにエロ系?の歌詞にしてみた。まあ端的に言えば、朝までベッドで情熱的に過ごし、翌日は夜を待てずにまた一戦交えるという内容だ。

もったいぶった感じになってしまったから、恥を忍んで一部だけ抜き出して公開してみる。


♪・・・・

ガムランの響き
風に漂う

甘噛みに肩が染まる
吐息に濡れる夜

つかの間のハイダウェイ
刹那に微笑む共犯者たち
ミスキャストはいらない

溺れていたい
ロータスの花が開くまで 

・・・♪


うーん、カタカナばかりのJポップの詩が好きではない私なのだが、結局カタカナが多い。中途半端に媚びているようでダメだ。

エロさも足りない。やはり、まだまだ及び腰だ。ハジけていない。素人特有のヌルい出来だ。

ここで自己分析してみて改めてそう感じる。

正直に言うと、これよりも他の2つの歌詞のほうが自己満足度が高い。なかなかウマく書けたと思う。表現したいことがある程度反映できた。

でも凄く恥ずかしいから内緒にしておく。

いずれにしても、詩を書くことも人様の前で演奏して歌うことも、それ自体が壮大なマスターベーションではある。ならば楽しんだもん勝ちの世界だろう。

バンド名はまだ決まっていないが、候補として浮上したのが「Z’Z」だ。「ジーズ」と読む。いや正確に発音すれば「ジイズ」である。

なんのことはない。語源は「自慰」である。

失礼しました。

2012年7月18日水曜日

愚痴です。愚痴。

自分が偏屈になったのか、世の中がおかしいのか、最近どうも気にいらないことが多い。

先日、ぶらぶら歩いていたらカラオケ屋の呼び込みが声をかけてきた。

「カラオケ大丈夫ですか~」。

何じゃそりゃ。初対面の相手からいきなりそんなことを言われて結構たじろいだ。答えようがない。「大丈夫じゃないです」って答えないとイカンのだろうか。

日本語としてどうなのだろう。私の理解を超えている。イマドキの日本語はそういう言い回しが普通なのだろうか。

そのうち、繁華街の風俗の呼び込みも「オッパイとか大丈夫ですか~」って聞いてくるようになるのだろうか。頭が痛い。

コンビニや飲食店店員のわけの分らん変な日本語遣いには随分なれてきたが、そうやって言葉は変わっていくのだろうか。

言葉遣いだけでなく、どうも世の中の「思考停止」が気になる場面も多い。判断力が無いとうか、自分で判断する習慣が無いというか、いっぱしの大人のバカな態度に驚くことが多い。

節電と言われれば、死にかけるまで暑さを我慢したり、必要な灯りの区別もつかずにただただスイッチを消していく。

レストランでも1~2品しか頼んでないのに、「ご注文繰り返します」とか言って高らかに反復される。「ハイ、間違いございません。よく覚えましたね、ブラボー!」とか言わないといけないのだろうか。

臨機応変っていう感覚が世の中から消えていっているのだろうか。先日もFacebookを見ていたら、倒れていた人を見つけて、クルマを止めて救助した人に対して、駐車違反の反則切符が切られたという話を聞いた。バカは楽でいいだろうが、バカのせいで世の中が殺伐としてしまう。

他にもいろいろある。

少しばかり自分よりエライ人の言葉を無条件に信じる。怪しい権威を絶対的なものとして疑わない。

特売だセールだと言われれば要らないモノまで買って喜ぶ。韓流スターなら誰でも構わないオバサン。AKBがすべった転んだで人生を傾ける若者。

うん?話がそれてきたか。

全然話は変わるが、先日もいっぱしの大人のダメさにあきれた。

某レストランでの話。普段は愛煙家に優しい店なのだが、一定の時間は禁煙になる。当然、それを守って過ごしていたのだが、閉店間際になって他の客が全部帰ったタイミングで灰皿を持ってきてくれるように頼んだ。

その店員さん、これが判断できない。誰かに確認に走る。考える習慣がないのだろうか。誰かに聞かないと何も出来ない。昨日今日働き始めた人ならともかく、結構な大人だったから、ありゃダメだろう。

関西電力が原発を稼動させた代わりに火力発電を停止させたらしい。アホじゃなかろうか。いや純粋なアホだ。あれも一種の思考停止だろう。

調子づいてる野田さんは、次期衆院選マニフェストに消費税増税を改めて盛り込むそうだ。それに同意しない議員はマニフェストを守れないヤツとして公認しないそうだ。

自らマニフェストを無視しまっくてきたクセに、いまさらマニフェスト原理主義ぶっている。喜劇を通り越して悲劇だな。

大阪の橋下さん人気も熱病みたいなものだろう。是々非々という判断力を働かせて彼の言動を見ている人がどれだけいるのだろう。

閉そく感打破のために期待が集まるのは無理もないが、全面的無条件完全支持みたいな空気はいかがなもんだろう。

パンダの赤ちゃんが死んでしまった。悲しい話だけど日本中で大騒ぎする話だろうか。それを言うなら動物園で飼うことや親善の道具として海外にまで出稼ぎさせることは問題ないのだろうか。

イヤミみたいになっちゃうが、個人的には新潟のトキの繁殖のほうが気になる。パンダに比べてトキは顔がブサイクだから騒いでもらえないのだろうか。

いかんいかん、こんなコトばかり書くとこのブログも荒れてしまうかも。

そういえばネットの世界での「荒らし」なるものも不気味だ。鬼の首でもとったように個人の考えや意見が全否定される。もちろん、極端に非人道的な主張は非難されるべきだが、集団ヒステリーみたいに熱気を帯びると気持ち悪い。

最大公約数的かつ無難な落としどころで結論づける大新聞やテレビの報道と同様に、ネット社会の言論まで荒らしを恐れるあまりに当たり障りのないものになっていくのだろうか。面白くない。

世の中、すべて表と裏があって、立ち位置によって見方や解釈の仕方は違って当然だ。だからこそ個性的な意見や少数意見が抹殺されることは危険なことだと思う。

テレビをつければ相変わらずしょうもないバラエティー番組ばかり。需要があるなら別に構わないが、あまりにも多過ぎると思う。本当に面白いと思って見ている人はどれだけいるのだろう。

ただ漫然と何の気ナシに見ている人ばかりなら、それこそ節電のためにヤメちまえばいいと思う。

私自身がいまだにスマホを持っていないから、半分ヤッカミ?で言うのだが、いっぱしのオジサンがあんな機械に魂を奪われたみたいにニラメッコしながらゴッツイ手でちょちょろイジリまわしている姿は、それこそスマートではない。

着メロとかに凝りすぎる大人の男も気持ち悪い。近頃の男性の中世化を象徴しているように思う。

男性の中世化は、子どもの学校行事に命懸け?で駆け付ける働き盛りのお父さんの多さを見ればよく分かる。

運動会や参観日ぐらいは参加するのが普通だろうが、どうでもいい細かい行事にまで仕事を休んで参加する。おまけに率先して皆さんの前で持論を展開して喜んでいたりする。そんなにお母さん役を担いたいのだろうか。

こんなこと書いている私のほうが時代からズレまくっているのだろうか。時々妙に不安になる。

全然話は違うのだが、いつだったか、製造者責任法、いわゆるPL法が出来てから、世の中すべてが手取り足取りお節介になっていったような記憶がある。カップ麺のフタにいちいち「やけどに注意」とか書かれるようになったのもPL法がきっかけだった。

便利になった分、一生懸命考えなくても何でもかんでもシステマチックに進むようになってきたのかもしれない。良いことなのかどうなのか微妙な感じだ。

いやあ、それにしても結論のない話をダラダラ書き殴ってしまった。まったくもってスイマセンです。あくまで個人的な愚痴ですので悪しからず。

2012年7月13日金曜日

ジャンク万歳

ジャンクフードの定義はよく分からないが、端的に言って、テキトーな素材をそれっぽく、かつ安く食べさせるものだろう。

言ってみればフツーの人がフツーに日常食べているものの多くがジャンク系だと言うことも出来る。

高名な料理評論家とかレストラン批評家などもジャンクフードを食べているのだろうが、やれペヤングがウマいとか、やれフィレオフィッシュのタルタルソースは最高だか、生卵かけご飯は生卵のデロデロ部分を捨てるべきだという話を一向に聞かない。不思議だ。

私もジャンク系は大好きだ。コンビニで売っている得体の知れない肉を使っていそうなフランクフルトとかも喜んで買うし、マックのポテトをバニラシェイクと混ぜて食べたりもする。

あまったソーメンを油で炒めてウスターソースをかけて食べるのも大好きだ。

ジャンクというには少し気の毒だが、ビアガーデンのつまみなんかも安っぽい味がすればするほど不思議とワクワクする。

先日、銀座7丁目の「文化財」であるサッポロライオンにビールを飲みに行った時もついつい余計なモノをたくさん注文した。




場所柄と伝統のせいもあってイマドキの格安居酒屋よりはよほど高いのだが、グルメ評論なんかとは無縁という意味では、ジャンクに近い位置付けだろう。

上から紙カツ、チキンライス、塩焼きそばだ。それ以外にはソーセージとか枝豆とか定番系もワシワシ食べた。ローストビーフも価格を抑える意味もあってか、ちっとも脂っぽくない。かえってオッサンには好都合だった。

ビールを飲みたいオヤジを唸らせる昭和ジャンクの殿堂みたいなメニューがやたら楽しい。

スーパーモデルのヌードよりも隣に住んでるオネエサンのパンチラのほうがワクワクするのと似ている。

気取ったレストランで、平たく言えばカツのくせして得体の知れないソースが勿体ぶってかかっている料理より、ウスター、中濃、トンカツソースを好き放題使える店のほうが有難い。

フツーの偉大さとでも言おうか。スーパーモデルの脚線美より、電車で向かい側に座っているお姉さんの太もものほうがイタズラしたくなる心理とでも言おうか。

そんな感じだ。

さて話は変わる。

ジャンクの世界では見かけない「上質な素材」に出会うためには、それなりの路線の店に行く必要がある。素材そのものをストレートに楽しむような料理なら、それなりの出費も伴う。

先日ふらっと立ち寄った赤坂の肉料理店は、希少な肉の部位をあれこれ揃える面白い店だった。

店の名前は「金舌」。結構な人気店のようだ。偶然入ったのだが、肉をやたらと自慢気に出してくる。

正直、ぶっ飛ぶほど凄い肉を出しているとは思わなかったが、さすがに全部ウマかった。




カイノミ、トモサンカクに続いてはハツだ。

最初の2品は、脇の下だとかモモの中のどこかだとか言われた気がする。

味付けは基本的に塩だけ。韓国系焼肉屋のようにタレ風味を楽しませる路線とは違って肉そのものを堪能させる感じ。

前菜代わりの牛タンの刺身てっさ風もウマかったし、ユッケ三種盛りも良かった。ひとつは生卵の黄身ではなく生ウニがトッピングされており、ユッケと混ぜ合わせると中々官能的な味わいだった



熟成したタンを茹でた一品もホロホロとした食感がよかった。

ハイライトはレバだ。レバ刺しと書いてもいいのだろうが、一応、時節柄、石焼用に熱した石が別途用意される。メニューの上では「レバ焼き」だ。

禁止になるまで大好評だったレバ刺しと同様のものだそうだ。まさに「焼け石にナントカ」みたいな説明を受ける。

要は表面を焼いて食えという趣旨だが、上質なレバーを良く焼くのもバカらしい。軽く炙るか、炙る真似事をして食べればいいだけの話だ。自己責任だ。

で、自分流に食べてみた。久々にウマいレバ刺しを食った気がした。

このお店、なかなかの価格設定だが、結構お客さんは入っていた。確かに焼肉屋とかステーキ屋でどかんと肉を出されるより、ちょこちょこと珍しい部位を少しづつ食べられるから、胃腸の疲れたオトナには使い勝手がいいのだろう。

まあ、そうは言っても、レバとかハツとか、タンとか、そのほかハラミなんかもそうだが、その手の部位はしょせんは高値で取引される高級肉とは違って内臓系である。

いわば肉業界?におけるジャンクだ。あんまり仰々しく食べるものでもないと思う。

と、偉そうに書いてみたが、ジャンク系内臓モノのほうが高価な肉より美味しく感じてしまう私であった。

ジャンク万歳である。