2015年7月31日金曜日

タンスイカブラーとビリヤニ


「炭水化物の摂り過ぎは危険」。この手の話に過敏に反応するのは嫌いなのだが、最近はチョット気にしている。

どうもここ1か月ぐらい調子が上がらない。スッキリ爽やかな気分で過ごす日がほとんど無い。いろいろと原因を考えたのだが、「炭水化物犯人説」も充分にあり得る気がしてきた。

ここ1~2か月、特に理由はないが、酒量が減った。飲む時はズンズン飲むのだが、まるっきり飲まない日も増えた。

しっかり飲む時はツマミは少なめで炭水化物は腹がふくれるので食べない。酒を抜く日は酒のカロリーの分まで堂々と炭水化物を食べてしまう。

ということで、このところ以前より炭水化物をドカ食いする機会が増えたのは確かである。

炭水化物の摂り過ぎは次のような症状が出るそうだ。

疲労感
集中力低下
記憶力低下
いつも眠い
中性脂肪の増加
高血圧

いやはや、まさに最近の私の状態のようである。炭水化物、すなわち糖質の大量摂取がそんな悪影響をもたらすなんて知らなかった。

エネルギーが増強すると思ってガツガツ食べていたのに逆効果だったかもしれない。

あー面倒くさい話である。糖質制限ダイエットは高齢者が頑張るとかえって危険だという話もある。そんな話を聞いて「炭水化物はいいヤツ」だと信じていたのに裏切られた感じだ。

まあ、そうはいっても何事も過剰反応はバカっぽいから、今後は少しだけタンスイカブラー生活を控えめにしてみようと思う。もっと酒を飲む機会を増やせば済む話である。

で、そんな悟り?にたどりつく前の最近も「ウマい糖質」をわっせわっせと摂取していた。

インド料理のビリヤニをご存じだろうか。平たくいえば「インドの炊き込みご飯」である。コメ好きな私としてはウットリしちゃう食べ物である。

ここ10年ぐらいでやたらと増殖したそっち方面のカレー専門店のメニューにも「ビリヤニ」をちょくちょく見かける。

ところが、大半の店がサフランライスを具と一緒に炒めてチャッチャと提供するバージョンである。いわばインドチャーハンだ。

それはそれでウマいのだが、本場のコメを使った炊き込みご飯とは、やはり似て非なるものである。

先日、友人と食事をする機会があったので本格的なビリヤ二を出す店に行ってみた。京橋というか、銀座1丁目あたりに佇む「カイバル」という店。

姉妹店の「ダバ・インディア」という店が都内屈指の人気店だから、こちらの店も期待できそうである。


カレーもタンドリー料理も実にまっとうで美味しい。アサリと海老のカレーという一品もなかなかおシャンティー?である。

でも、私の狙いはあくまでビリヤニである。釜焼きの肉も魚もカレーも正直いってどうでも良い。体調が変になるほどのタンスイカブラーとしては「インド米の炊き込みご飯」のことばかりが頭をよぎる。

この日は2種類のビリヤニをオーダーした。


最初にやってきたのはマトンのビリヤニである。

ボソボソ系のコメの食感が妙に嬉しい。自宅の炊飯器でもやたらと硬めにコメを炊く私としては、世の中にはびこる軟らかいコメが苦手だ。

その点、「正しいボソボソ感」のこの店のビリヤニは好感が持てる。味も悪くない。具もゴロゴロ入っていてバッチグーだ。思った以上にあっさりしていたので、カレーをかけたりしながら無心で食べる。


続いては鶏の挽き肉のビリヤニである。本当はエビのビリヤニをオーダーしたのだが、店の人が間違えてしまい、炊き直させるのもメンドーなので、そのまま貰うことにした。

まあ、ビリヤニと名が付けば何だって嬉しい私である。こちらも正しくボソボソ。挽き肉のジューシーな感じをまとった細長いインド米が私を悩殺する。

結局、この日も大量に糖質を身体に取り入れてしまったわけだ。問題である。

本格的なビリヤニを堪能したにもかかわらず、私の味覚は、そこらの「ビリヤニもどき」を否定することが出来ないのも事実である。

会社から徒歩3分ぐらいの距離にさえない感じのドンヨリとしたインド料理屋がある。

ビリヤニがメニューにあるので、それを食べに行く。ビチャッとした炒めご飯にスパイシーなチキンがゴロゴロ混ざっている。

正しく言えばビリヤニもどきである。コメが立っている感じも一切ない。でも、なんだか魅力的な味わいで、2か月に一度ぐらいは食べる。

結局、本格的かどうかなんて私には関係ないみたいだ。コメが主役のちょっとジャンクフードっぽい味なら何でもムシャムシャ頬張ってしまう。

ヘンテコな結論である。

というわけで、際限なく炭水化物を食べる生活をチョット変えてみようと思う。1か月も経ったら体調がどう変化したかこのブログで報告します。

2015年7月29日水曜日

夏の味


夏である。暑い。子どもの頃はもちろん、若い頃も暑い夏が大好きだったが、最近はさすがにキツい。実際、昔はこんなに異様に暑くなかった。確実に気象状況は変化している。


目白にある和菓子屋「志むら」のかき氷にありつけないのが物凄くストレスである。例年になく店が大混雑している。先日も平日の夕方16時にノコノコ行ってみたが行列を見て断念。由々しき問題である。

調べてみたら2008年から毎年のようにこのブログでも取り上げていた。「志むらのかき氷」は私にとっての夏の風物詩だ。

SNSなんかが発達したせいか、はたまた単純にかき氷人気が盛り上がっているせいか、年々店が混雑するようになった。ちっとも食べられない。

さて、季節ごとの味覚を楽しむのは日本人の楽しみである。四季それぞれにウリはあるのだが、さすがに暑い季節である夏は他の季節に比べると不利である。ソーメンやスイカやかき氷が主役だったりする。

松茸やフグに比べると随分と線が細い。ウナギを夏のイメージで認識している人もいるが、アレは本来は冬の味覚である。夏にちっとも売れなかったから「土用の丑の日」キャンペーンが生まれたわけだ。

穴子は夏にウマくなる魚だ。ウナギの酢の物である「うざく」を穴子バージョンで作ってもらうのも悪くない。「あなざく」である。不思議と夏になると食べたくなる。



お寿司屋さんのネタで夏を告げるモノといえばシンコだ。コハダの赤ちゃんである。赤ちゃんのホッペのような肌触りというか食感がタマランチンなのだが、夏本番になるとシンコも終わりだ。

6月半ばから後半ぐらいには握り1貫につき5枚漬け、6枚漬けだったものが、徐々に大きくなり、3枚漬けぐらいのサイズになる頃が食べ頃だ。シンコが大きくなれば夏まっ盛りである。

シンコがチヤホヤされなくなった頃に登場するのが新イカである。スミイカの赤ちゃんである。

初物食いといえば聞こえがいいが、シンコも新イカも単なる「赤ちゃん食い」である。そう考えるとちょっと残酷だ。

新イカが終わる頃のには生イクラが出てくる。こっちは赤ちゃんにもなっていないタマゴ状態で食べるわけだから、つくづく残酷な話ではある。残酷だがウマいんだからしょうがない。

さて、新イカである。個人的にはスミイカは好きな種類ではないのだが、新イカは別。赤ちゃん独特のフワッと頼りなく軟らかい感じの食感が最高である。



高田馬場・鮨源で食べた初モノである。新イカと新イカのゲソである。ゲソがまた良かった。ゲソのクセにすべてが「フニャフワ」って感じ。背徳感に満ちた美味しさだった。

なんだか自分がロリコン趣味オヤジみたいに思えてきた。変態趣味があるみたいでイヤだ。

人間の女性が相手なら一応、食べ頃は見極めている。子どもより大人の方がいい。突発的な「事故」の際には、相手が若すぎちゃうこともあるが、やはり「旬」こそ一番だと思っている。

話がそれてしまった。それにしても女性の『旬』って何を基準に決めるのだろう・・・。

さてさて、夏の魚といえば鮎も外せない。珍味好きの私にとっては鮎はキモを味わう魚だというイメージがあるが、身は身で川魚独特の風味があって美味しい。

先日、銀座のお寿司屋さん「さ久ら」で鮎の握りを食べさせてもらった。キモは別途、塩辛っぽく食べさせてもらい、肝心の身は一尾まるまる焼いて頭と尾っぽを切り落とし、寿司飯を抱いてもらった。



焼き鮎の寿司飯サンドみたいな雰囲気である。この季節ならではの楽しみだと思う。
日本人に生まれた幸せを実感する。

なんだか風流ぶった話を書いてしまった。


なんだかんだ言っても、ぶっちゃけ夏は串揚げをつまみに生ビールが最高である。画像はホッピーだが、これもどことなく夏っぽい。

二度漬け禁止の関西風の串揚げ屋でハムカツや紅ショウガの串揚げなんかをツマミにビールや黒ホッピーをグビグビするのが、ニッポンの夏の最高の喜びかもしれない。

ヘンテコなまとめ方になってしまった。

2015年7月27日月曜日

50年に一度


今年の秋が来たらいよいよ50歳である。ビックリだ。四捨五入したら100歳だ。時が経つのがやたらと早く感じる。このブログを書き始めたのは40代前半の頃である。「50歳」なんて遙か先の話だと思っていた。

Facebookの「友達」の大半が小、中、高の同級生だ。そのせいで頻繁に友人達の「大台突破」の知らせが通知される。これまたビックリである。

子どもの頃と同じ感覚で付き合っている連中が「50男」である。私が50になるのも仕方がない。意味不明でスイマセン。

子どもの頃「50歳の人」なんて宇宙人だと思っていたのに、いよいよ10月になったら私も宇宙人になる。

江戸時代だったらヘタすれば隠居爺さんだ。昭和のサラリーマンの定年は55歳。あとたった5年だ。人生の折り返し地点はとっくに過ぎて後半戦まっただ中って感じだ。

でも、有難いことにここ20年ぐらいの間に「年齢の固定概念」が大きく変わった。女優さんは40歳ぐらいでもミニスカートで色恋モノに励み、50歳を過ぎた男優が管理職ではなく現場の若手サラリーマンのような役をこなす。

昭和の大ヒットドラマ「太陽にほえろ」で渋いボス役を演じた石原裕次郎が当時まだ30代後半だったことを思うと、昔の人の老成ぶりに驚く。というか、今のオトナが幼いのだろうか。

社会全体の幼稚化と言ってしまえばそれまでだが、結局そのおかげで50歳前後の中高年がいろんな意味で「現役バリバリ」でいられる。

50ヅラ下げた男が若いお姉さんと普通にデートして、普通の男女みたいな会話を交わし、若者なみにケダモノ的行為に励むことも珍しくなくなった。

昭和の頃とは感覚が違ってきたようだ。高齢化社会の副作用みたいな話である。

おかげで私自身も現役のケダモノとしてお気軽に暮らしているのだから、時代そのものに感謝しないとなるまい。

さて、50年に一度の誕生日である。半世紀に一度である。言葉にすると何だか大変だ。イベント嫌いの私でも何か考えたくなる。

しがない独身生活の影響もあって、誕生日やクリスマスなどのイベントっぽいものがウザくて仕方ない。でも、今年の誕生日は50年に一度だから何か画策しようと思う。

先日、知り合いが東京から広島まで自転車で旅をしたそうだ。5日間という制限の中で想像以上の苦労があったらしい。

一種の極限状態の中で、いろいろなことが見えて、いろいろなことが聞こえてきたそうだ。五感が研ぎ澄まされたらしい。話を聞いて妙に刺激を受けた。

この年になると自らに負荷をかけて何かにチャレンジする場面がなくなる。自分のペースで都合よく勝手なことをして日々を過ごしてしまう。

「自らに負荷をかける行動」はついつい避けがちだ。でも、少しぐらいそんな思いをしてみたいという屈折した願望もある。

富士山に登りたい、四国のお遍路にトライしたい等々、最近人気のそんな旅のスタイルもオッサンオバサンの変態的欲求?が背景にある。

ということで、私も記念すべき半世紀に一度の誕生日にはちょっぴり負荷をかける行動にトライしようかなどと考え始めている。

とりあえず「どこかに行く」ことだけは心に決めた。前後の日程も合わせて休みを取って「何か」に挑戦してみようと思う。

箱根山を徒歩で越えるなんてどうだろう。日頃身体を鍛えていないオジサマの負荷としては結構キツいはずだ。

でも、キツ過ぎるのもイヤだ。別に解脱したいわけでもなく、修行僧のように悟りを目指すつもりもない。

煩悩大好き男としてはあまりハードな行動は避けたい。哲学的な心境になって今の暮らしを反省したり、変に生真面目な生き方を目指し始めたらオッタマゲである。

それなりに楽しめて、適度に大変で、そこそこ画期的なことって何があるだろう。そんなことばかり考えている。

見知らぬ街の路上でギター抱えてストリートライブの真似事をコッソリやってみようとか、長年のダイビング経験を活かしてフィンスイミングに挑戦しようといったアイディアは浮かぶのだが、なんだかシックリこない。

四輪駆動小僧だった若い頃を思い出して、オーストラリアあたりでオフロードドライブツアーを企画するとか、ギリシャ・トルコの海底遺跡を潜ってみるとか、はたまた、アメリカの片田舎に行って草野球の試合に混ぜてもらって硬式球をかっ飛ばすというプランも考えてみた。

真面目に考えている割には、どれもこれもさほどワクワクしない。困ったもんである。結局、普通に旅に出て見知らぬ土地で誕生日を迎えてシミジミするだけで終わりそうだ。

せめて、アフリカの大草原で星空を眺めるとか北極のほうまでオーロラを見に行くとか、ガラパゴスに行って生命の神秘を考えるとか、普通とは一味違った旅でもしようか。

まあ、こういうことは企画段階、というか考えている時が一番楽しい。この夏はきっと世界中の旅行ガイドブックを買い集めて、秘境とか絶景、世界遺産なんかに妙に詳しくなりそうだ。

でも結局、秘境でも何でもないヨーロッパの片田舎であてもなく散歩しているだけの自分の姿を想像してしまう。

そんな面白くない結末にならないようにアレコレ研究しようと思う。

2015年7月24日金曜日

ピラフへの愛


たまに無性に食べたくなるものがある。安いモノ、高いモノ、ゲテモノ等々、ふとした時に頭に浮かび、それを食べるまでは落ち着かないほど執着心ブリブリになる。

うな重の場合もあるし、フィレオフィッシュの場合もある。イクラ丼の場合もあれば、ガリガリ君の場合もある。

どこの街のどの店でも均一の味が保たれている「松屋の牛丼」や「なか卯の親子丼」ならテキトーにターミナル駅周辺を探せばありつける。

こうした店の味の安定性は素晴らしいことだと思う。高度にシステム化された日本社会の洗練度を現わしている。ちょっと褒めすぎだ。

「どこでもいつでも同じ味」が凄いことは間違いないが、希少性というか有り難みに欠けるのも事実である。

特定の店の特定のモノが食べたい気分にかられて、わざわざ出かけていって味わう時のワクワクした気分は捨てがたい。独特の高揚感がある。

そんなことを力説するヤツはたいていがデブである。オフコース・ミー・トゥーである。


某日、ホテルグランドパレスのピラフがどうしても食べたくなっていそいそ出かけてきた。

シャトーソースと呼ばれる「秘伝のタレ」というか汁をビチャビチャかけて食べる至極の一品である。

昔は、海老やチキンも用意されていたのに、ここ数十年の歴史の中でメニューが絞り込まれ、今では「ホタテ貝柱のピラフ」だけになってしまったことが泣きたくなるほど残念である。

まあ、残念などとおとなしく引き下がってはいけない。こっちは小学生時代、すなわち40年以上前からこのピラフに馴染んできた筋金入りの“ピラファー”である。

韓国の金大中元大統領が若かりし頃、グランドパレスで拉致される大事件があったが、既にその当時から私はここのピラフと付き合っていたわけだ。まさに生き字引みたいだ。ちょっとしたワガママぐらいは言わせてもらう。

別に大げさなことではない。「ホタテ貝柱のピラフ・シャトーソース」とともにメニューに用意されている「シーフードピラフ・ニューバーグ風」なる一品を応用してもらうだけである。

ニューバーグ風と名乗るピラフはホワイトソースをビチャビチャかけて食べる仕組みなのだが、このソースをシャトーソースに交換してもらうわけである。

シーフードピラフと名乗っている通り、ホタテ以外にもエビもカニもしっかり登場する。メニューから姿を消した「小海老のピラフ」を再現したかのような気分になれる。

大げさである。


この程度のメニューのアレンジは、大したワガママではない。紳士的にお願いすればOKである。たぶん。

このシャトーソースは、ドミグラスソース、白ワイン、エシャロットなどから作られているらしい。ほんのりバター風味のピラフとの相性がタマランチンだ。

と、徹頭徹尾ホメまくりたいのだが、時々、ソースの味が「オヨヨ」の時がある。まあ、人が作るものだから多少の味の差は仕方ないが、長年にわたってこのピラフにホレ抜いている私としては切ない気分になる。

エラいシェフが今日は休みなのか?、新人が慌てて作ったのか?等々、いろんな妄想が頭をよぎる。

塩が多いだの白ワインの分量が足りないなど、具体的に指摘できるものなら、図々しいと言われようとも、愛するピラフのために意見してみたい。でも普段とどこがどう違うのか明確に指摘できるほどの知識はない。ウジウジする。

決してマズいというほど味が変わるわけではないのだが、「もっとウマく作れるはずだ!」「今日はちょっと雑なんじゃないか!」と心の中で叫ぶ。

文句やクレームではない。愛するがゆえの苦悩である。多少の乱れ?があったとしても私のあのピラフへの思いは不変である。

今日は老舗の味についてアレコレ書くつもりだったのだが、結局ピラフへの愛を切々と?書いただけで終わってしまった。

2015年7月22日水曜日

夜の蝶の心意気


「これが私の素の姿ですから」などと親しくもない人に得意気に言われるとビックリする。大丈夫ですか?と言いたくなる。

そんなに「自分」を大盤振る舞い?しちゃうと何かと大変だろう。「素の自分」を見せることが美徳かのような最近の風潮はチョット変だと思う。

もちろん、自分らしさを隠さず、思ったように行動することは大事だ。我慢ばかりだと病気になってしまう。でも、それと「素のまま」をさらけだすことは違う。

すべてをさらけ出しちゃうのは行き過ぎだ。「素の自分」にしても「ある一部の面における素の自分」でとどめておくことが必要だろう。

飾ることは人として当り前の作業だ。人様に良く思われたい、信用されたい、評価されたい、頼りにされたい、愛されたい等々、すべての欲求を少しでも満たすためには、「素のまま」では難しいだろう。言葉や態度や見た目を飾るのは普通のことである。

虚飾や偽装だとしても、そこには頑張っている感じがある。「素の自分」のままだと何だか居直り、開き直りにも思える。

やはり適度な装飾は大事だと思う。

などとウサンくさいことを書いたが、今日書きたかったのは「女性の化け方」の話である。


要は虚飾、偽装、はたまた粉飾?だろうと、必死に自分を飾る女性はエラいという話を書きたかっただけである。前振りが長くてスイマセン。

男の場合、スーツが制服みたいなものだから飾りっ気は少ない。化粧もしないし、髪型もとっかえひっかえしない。簡単である。

女性は大変だ。服だって種類、色合い、素材感すべてに大量の選択肢がある。化粧も同様だ。飾り立てるための苦労も大変だと思う。



銀座あたりで奮闘する夜の女性陣の装飾にはつくづく感心する。それこそ「素」の状態から比べれば、別な人間が突然生まれたのかと思う。

極端な場合、30分もあれば明治維新ぐらいの激しい変化が達成される。

美容院で「立ち上がった巻き巻きの髪型」を製作してもらっている間に、がっつりハードに化粧に励めばモノの30分で「違う人」が出来上がる。それっぽい衣装をまとえば完成である。

虚飾や偽装などというとインチキみたいだが、良心的なインチキである。夜の街では男達自身が虚飾や偽装を喜んで鑑賞している。「素のまま」では決して成り立たない世界だ。

夜の蝶っぽい衣装や髪型を普段の生活で見かけることはない。だからこそドシドシそれっぽく飾ってもらったほうが楽しい。

その昔の「川口浩探検隊」とか「徳川埋蔵金」を探すテレビ番組と同じである。作りモノであり、ヤラセであり、何も出てこないのは分かっているのに、ワクワクした気分で見入ってしまう。


だから私は夜の街の女性がキンキンキラキラに変身している姿が好きだ。普段はパンクロッカーみたいな服を着ていたり、「森ガール」だとしても、そんな姿を連想させないでくれれば結構だ。

ちなみに、虚飾や装飾が激しくなるほど、男性客との距離をキッチリ保つ効果があるのかもしれない。「普通じゃない感じ」がかえって男と女の生々しさを分ける壁になっている気がする。

バニーガールの衣装なんてそういう点では最高である。多少、顔立ちが埴輪とか土偶みたいな女性でも、あの格好をしているだけで俄然ヒロインに思えてくる。

あくまでその女性はバニーちゃんであり、土偶ちゃんではない。バニーちゃんだからチヤホヤしちゃうし、バニーちゃんだからドリンクを奢ってあげちゃう。バニーちゃんだから口説こうとかお持ち帰りしようという発想も湧かない。

良いことづくめである。

装飾することで生まれる非日常性は言い換えれば「疑似」である。疑似恋愛の疑似だ。虚飾や偽装が疑似恋愛の大事なアイコンになっているのかもしれない。

ふむふむ、そういうことなんだろう。


ところで、夜の世界では客側、すなわち男にだって虚飾や偽装は付きものだ。カツラやシークレットブーツの話ではない。「それっぽく演じる姿」のことである。いわば「心のコスプレ」だ。

紳士的な印象を持たれたい、豪放磊落なイメージの男でありたい、寂しがりの甘えん坊のフリがしたい等々、多くの男性が無意識のうちにそんな可愛い偽装をしてみたくなる。

私などは「苦み走った寡黙な男」、「物静かな謎めいた男」を目指そうと本気で頑張ってみることがあるのだが、2分30秒ぐらいでボロが出てしまう。

ボロが出てしまっても、そこはしがない男である。適度にカッコつけて適度に見栄も張ってそれなりに気取っているわけだから、それだけで一種の偽装状態である。

化かし合いと言っちゃうと夢も希望もないが、夜の街には偽装した者同士だからこそ楽しめる要素が間違いなくあると思う。

と、さも真理を悟ったようなことを書いてしまった。

まあ、エラそうにグダグダ言ったが、男のサガはなかなか面倒で、分かっちゃいるのに「疑似」じゃない色恋に期待してしまう。

その「サガ」のせいで、結局、世のオトコ達は女性陣に手玉に取られる。古今東西それだけが真理である。

2015年7月17日金曜日

靴を磨く


先日、娘とデートをした。渋谷で買物に付き合ったのだが、ちょっと値の張る靴も買ってしまった。

「良い靴は素敵な場所に連れてってくれるんだぞ」という父親のクサいセリフなど耳に入っていないようだったが、嬉しそうだったから良しとしよう。

靴好きを自認する私としては自分の娘の靴も気になる。ヘタレた靴を履いていたら文句を言いたくなる。


「靴は人格そのものだぞ」。そんなこと言われたって中学生の娘にはピンとこないだろうが、一応、洗脳である。

「ベッドと椅子と靴は良いものにこだわれ」。イギリス人だかフランス人の言い伝えらしい。

確かにすべてが暮らしを支える土台みたいなものだ。大事にすることは大人の嗜みだ。

男の靴は女性靴と違ってバラエティに富まない分、奥深さがあるように思う。ファッションというより生き様を表すみたいなイメージがある。大げさだろうか。

ひも靴のひもを締め上げた時のキリリとした気分、靴べらを介してかかとがすっぽりと靴に包まれた瞬間の安心感など何気なく五感を刺激してくれる。

靴磨きも楽しい。時々、無心になって汗だくになりながらピカピカにしたくなる。

手入れをサボってヨレていた靴が磨き上げることで甦ってくる感じが堪らない。妙に暗示的だと思う。

人としてヨレてきている自分も、時々丁寧に磨きあげることで独特な風合いとともに甦るのではと思えてくる。


たまにアホな女性から「奥様に大事にされてるんですね」と言われる。オイオイである。後ろ回し蹴りを繰り出したくなる。

こちらの靴をチェックするのは良い心掛けだが、「綺麗な靴イコール奥さんの手柄」というトンチンカンな発想は困ったものだ。

実際、世の男性の中でも「まあまあ」ではなく「かなり」靴がピカピカな男は、たいてい自分で靴を磨いている。そんなもんである。

靴に興味が無い人はヨレた靴を平気で履いていることが多い。ネクタイやスーツにはそれなりに気を遣う人でも靴だけがオヨヨだったりする。

駅や電車の中でスーツ姿の人達の靴を眺めてみると、思った以上に「残念」な人が多い。その一方、丁寧に手入れされた靴を履いている人を見ると、その人が立派に見える。

きっと奥さんに大事にされているんだろう・・・・!?。

さて、予定や気分に合わせてその日の靴を選んでいるが、「どうでもいい日」には「ダメ靴」を選ぶ習慣がある。

客人の予定もなく、夜の席もなく、デートっぽい話もなく、ヘタすればまっすぐ帰宅するような日が「どうでもいい日」である。

そんな日は、私にとって二軍や三軍扱いのダメ靴の出番である。ダメ靴という呼び方は靴に対して申し訳ないのだが、ビミョーなサイズ感や色合い、形状などさまざま理由で二軍、三軍に落ちてしまった哀れな靴である。

ダメ靴と呼ばれながらも私を支える土台として踏ん張ってくれている。楽しい場所、素敵な場所には履いていってもらえず、ダルそうに歩くのに付き合わされる。おまけに一軍には上がれない。

当然、綺麗に磨く機会もほとんどなかったのだが、先日、突然、ダメ靴達が気の毒になり、ピカピカに磨いてみた。

元々がそこそこの革質の靴だったので、思った以上に綺麗に甦った。磨きながら靴が喜んでいた。私としてもそれまでの不義理を詫びたい気持ちになった。

やはり暗示的である。決めつけてしまうことの愚かさを教わったような感じだ。思い込みや決めつけ、固定観念などは自分が思っているよりモロい。

気に入らないことがあっても、その判断は絶対ではない。後になって思い直すこともある。心変わりを恥などと思わず、臨機応変に受け止めればいいと思う。

なんだか説教くさい書きぶりになってしまった。

ということで、近いうちにダメ靴を素敵な場所に連れて行ってやろうと思う。

2015年7月15日水曜日

ワイ談 Tバック


猥談が大好きである。漢字で書くと仰々しい感じだ。「ワイ談」と表記するのがちょうどいい。

そういえば、ワイ談という言葉自体を知らない若い女性に会ったことがあるが、この言葉もいずれは死語になるのだろうか。なんとか存続して欲しい。

ワイセツ談義である。簡単そうで難しい。単に下品になっちゃうか、フムフムと感心できるかで大きな違いがある。

まあ、ワイ談ごときで感心する必要など無いと言われそうだが、あながちバカにしたものではない。

交尾中にメスに頭から食われちゃうカマキリの話を「男は情けない」などと上っ面だけで捉えてはダメである。

メスに食われること自体、その間は交尾をし続けられる、すなわち、注入できる精子の量を増やすために編み出した秘技?なんだそうだ。実に奥深い話である。

人間ほど排卵日が分かりにくい生き物はいないという話だって高尚なテーマである。独特のセックス文化を持つ人間を考える上で重要なテーマだ。

人間のメスは排卵日を分かりにくくしたことでオスとの関係性を上手にコントロールしたという説もあるらしい。

まあ、この手の大真面目な話はワイ談とは言えないかもしれないが、単なるアホバカスケベ話の合間に混ぜると効果的である。ワイ談全体の社会的地位?を押し上げてくれる。

さて、話を変える。相変わらずTバックが好きである。昔からこのブログでも書いているテーマなので、いまさら隠すこともない。下着だろうと水着だろうと「T派」である。

Tバックにもいろいろある。個人的な好みやエピソードやそれを駆使?したいろんな話を書こうと思ったのだが、さすがに過激な方向に行きそうなので自己規制する。

行き過ぎると「フェティズム的服装倒錯症」とかいうビョーキと見なされちゃうらしい。危ない危ない。

一応、病気として分類をされるのは「それによって健康な生活を送ることが困難である」、「他の人々の健全な生活に問題を引き起こす」ことが前提らしい。

私の場合、Tバックの女性に四六時中囲まれていなくても暮らしていけるので一応セーフだろう。でも、Tバック着用を「他の人々」に強力に要請することがあるので、その人が健全な生活に支障があると感じていたら問題である。

女性の場合、パンツスタイルの際の下着のラインを気にしてTバックを着用する。その場合、実用目的であり、セクシーな用途とはちょっと異なる。

実用優先とセクシー路線。対極的な関係である。桃太郎と鬼のような関係だ。同じTバックといえども雲泥の差がある。

ということで、セクシー路線のTバックを所持していない人にはプレゼントしちゃうのが正しい行動だ。四の五の論評しているヒマがあったら渡してしまえばいい。

高いブティックで洋服を買わされるより遙かに気楽だ。極端に過激なものでなければ女性だってもらって困るわけではない。

私とムフフな機会があるのなら、義理でもそれを着用してくれるだろうし、そうでなくても、どっかの誰かとのムフフの際に勝負下着として着用してくれればいい。「NTRフェチ」の私としてはそれを妄想するだけで結構楽しめる。

相変わらずバカである。

そうはいっても、大のオトナの紳士が女性下着の店に買い物には行けない。おのずとネット通販である。

楽天は購入履歴を消去したり非表示に出来ないので問題外である。時々我が家に遊びに来る娘と一緒にネットショッピングする際にひょんな画像が出てきても困る。

で、Amazonを活用する。やはり漫然と下着だけの画像を載せている業者より、モデルに着せたり、マネキンに着用させている画像を載せている業者の商品に目が行く。

選んでいる時の小っ恥ずかしい気分が何とも言えない倒錯の時間である。じっくり見ないと好みのものかどうか分からないから目が血走るほどじっくり見てしまう。

数限りないほどのセクシーランジェリーが売られているのだが、不思議なことに、いざ購入する際には、かなりコンサバな商品を選んでしまう。

激しいのを選びたいくせに、ついつい無難なものに走る。そんな買物をしている時点でただのスケベ大王なんだから、気にせず突っ走ればいいのに割と地味なのを選んでしまう。

こういうところが私の生真面目さの証である。謙虚さというか、臆病というか、まあ、震える子羊のような性格というわけである。

ワイ談の話が下着フェチ的な方向に変わってしまったが、「Tバックをネット通販で必死に選んでいる話」も枝葉の伸ばし方によっては充分にワイ談として成立する。

ついでにいえば、「そのTバックを着用している姿を見せてもらいたくて必死に作戦を練っている話」なんかも、男の切なさを物語る高尚なワイ談として成立する。

ワイ談は、過去に実践(実戦?)したヘンテコな話がキモになることが多い。愉快なワイ談をドシドシ展開していくためには、ヘンテコな経験をもっともっと経験しないとなるまい。

頑張ろうと思う。