2022年11月25日金曜日

奇跡と言われなくなるまで…

 サッカーワールドカップのドイツ戦には興奮した。大人と子供の戦いにしか見えなかった前半から一転、後半の戦いぶりには驚かされた。


つくづく昔に比べると進化していることを痛感した。戦術の勝利である。それを日本人監督の元でやり遂げたわけだから昔を知る世代には感慨深い。


とにもかくにも外国人監督を連れて来ていたのが日本代表だった。かのドーハの悲劇のメンバーだった森保監督が50代のオッサンになってチームを率いている今の姿は時代を感じる。


何だか保守バリバリの右翼男みたいだが、ヨソの国の人ではなく自国出身の監督で世界を驚かせたことは有意義だと思う。


サポートメンバーにキング・カズを入れて欲しいなどとトンチンカンなことを言う私ごときが四の五の言っても始まらないが、私にだってサッカーには思い入れがある。


というわけで、今日は更新が追いつかなかったのでサッカー絡みの過去ネタをあげてみます。8年前に書いた話です。この頃より日本サッカーが進化しているとしたらハッピー。


1つ勝っただけで「奇跡」と称されているうちはまだまだだろう。いつか下馬評の段階で優勝候補になるぐらいまで進化して欲しい。


https://fugoh-kisya.blogspot.com/2014/06/blog-post_18.html?m=1







2022年11月21日月曜日

ハートマーク


。ハートマークは中世の頃から愛情の印として使われてきたらしい。心臓が感情を司る臓器と思われていたことでそれを捧げることが愛の証となったそうだ。

 

マーク自体はそれより遙か昔の紀元前7世紀頃の古代ギリシャの硬貨にも使われていたとか。いわば途方もない長い歴史があるわけだ。

 

そんなハートマークだが、絵文字でアレを使うオジサンほど気持ち悪いものはない。あれは女子専用のアイテムだと割り切ったほうがいいだろう。当然ながら私は人生で一度もハートマークを使ったことがない。当たり前か。

 



先日、お寿司屋さんでハートの形のイクラの握りが出てきた。これまたビックリである。私の連れの女性に職人さんが恋心を抱いたのだろうか。

 

ハートのイクラ。ちょっと悪趣味である。でも「寝取られシリース」のアダルト動画が好きな私にとっては悪くない演出だった。ムホムホする。とはいえ、私が一人客の時には間違ってもこんなものは出さないで欲しい。

 

さて、ハートマークで困った問題といえばカプチーノである。私はコーヒー党ではないので喫茶店ではカフェオレかカプチーノを頼むことが多いのだが、ラテアートなる技法でハートマークが描かれているとビミョーな気分になる。

 



オジサマが一人、ちょっと息抜きに入った喫茶店で、同じくオジサンのマスターからハートマーク付きのコーヒーを出されるのはブキミとしか言いようがない。

 

そういう場面ではなくても一人でのカフェタイムにハートのモチーフ付きのコーヒーは困りものだ。夢見る乙女ではなく還暦が遠くないオジサマである。せめて葉っぱのデザインにしてもらいたい。

 

ハートでも葉っぱでも綺麗に描かれていると壊すのが悪い気がするのも面倒である。カフェオレならアートで困ることはないが、スチームミルクを使うカプチーノだと必ず何かが描かれている。

 

どうせ描くのなら文字にすればいいと思う。「まいど」とか「ウマいよ」とか、何なら「水です」とか書いてくれたほうが楽しい気分になる。

  

相変わらずスティックコーヒーばかり飲んでいる。ドルチェグストのカプセルより何だかんだ言って私の味覚には合うのだろう。高倉健師匠のようにブラックでは飲めないので、たいていはちょっと甘いやつを選ぶ。

 



画像は職場の私の部屋だ。キャビネの上に乱雑にスティックコーヒーが並んでいる。一応この他に紅茶や緑茶ティーパックや梅昆布茶粉末も用意しているのだが、頻度ではスティックコーヒーの出番が一番多い。

 

甘いカフェオレスティックは何杯も飲むと飽きる。その場合はブラックのスティックコーヒーと混ぜ合わせて甘さを抑えるとまた違った雰囲気になって悪くない。

 

コーヒーにはタバコが付きものだが、職場では匂いが99%カットされている電子タバコ・プルームテックで我慢している。


それにしてもタバコとコーヒーの相性って生卵と炊きたての白飯ぐらいバッチリなのに世の中は禁煙だらけで実に不便だ。何とかならないものだろうか。

 

職場の近くのプロントや上島珈琲には喫煙ブースがあるのだが、立ったまま吸わされるのがイヤで、時にはわざわざ5分ほど歩いた場所の喫茶店に出向くことがある。

 

日本橋高島屋近くのレトロな喫茶店なのだが、知る人ぞ知るオムライスの名店でもあるらしい。私はタバコ目的だけでしか使ったことがないのでオムライス未体験だが、いつかしっかり食べてみたい。その場で食後の一服が出来ると思うだけでオムライスが普通より有難く感じるはずだ。

 

先日は新橋駅近くの屋外喫煙所でスパスパ始めたら「ここは電子タバコ専用ですよ」と注意された。まさに「何じゃそれ?」という世界である。電子タバコ派にまで紙巻き派が迫害される時代になってしまったことが切ない。

 

何だか今日はハートマークについてあれこれ書くつもりが禁煙社会への愚痴になってしまった。

 

今週も頑張りましょう!

 

 

 

 

 

2022年11月18日金曜日

トビウオと呼ばれる女


仕事の時以外はワイ談だけを喋りまくって生きている私だが、最近知ったエッチ系の隠語がある。その名も「トビウオ」。それだけ聞いても意味不明だが、対義語が「マグロ」だと知れば合点がいく。

 

エッチの世界でマグロといえばそっち方面に極めて消極的な女性のことを意味する。小学館のデジタル大辞泉には、魚のマグロの意味の他に「性交のときに自らは体を動かさず、ただ寝転がっている相手」としっかり記載されているらしい。もはや裏の言葉ではないわけだ。

 

トビウオはマグロの逆。積極性バリバリの女性を意味するそうだ。いつから出てきた言葉だか不明だが、ずいぶんと元気そうな印象がある。

 

ソッチの意味でのマグロの対義語ははたしてトビウオで的確なのだろうか。何となくシックリこない。かといってカツオでもサバでもイカでもタコでもなさそうだ。

 

シャチなんてどうだろう?ハモなんかもアリだ。ちょっと怖いか。ドテっとしたマグロの対極と言えば「クリオネ」はどうだろう。クネクネしてるし…。語感も悪くない。ちょっと可憐すぎるか。

 

キリがないから仕方なくトビウオに同意しようと思う。私もマグロは苦手である。若い頃ならいざ知らず今更そんな相手に出くわしたら時間の無駄である。トビウオ大歓迎だ、なんなら群れで遭遇したい。



 

さて、先日ひょんなことからYouTubeで懐かしの迷曲「E気持ち」の動画を見た。かつて近藤真彦と新人賞レースを繰り広げた今は亡き沖田浩之の衝撃のデビュー曲である。

 

https://www.youtube.com/watch?v=JxDtsZf4xuk

 

ABCABC~、ハ~ン、いい気持ち~♪という戦慄の歌詞が時代を感じさせる。今ではすっかり死語になったエッチ系の隠語が「ABC」である。

 

キスをA、途中までをB、結合までたどり着いたらCと称した。「アイツ、Bまでしかさせてくれねえんだよ」みたいに使われた。

 

思えばあの頃は「エッチする」という表現もまだ普及していなかった覚えがある。今では「パコる」という言い方もあるそうだから随分と進化したものである。

 

AだのBだの言っていた時代は当然インターネットもなかったからエッチなことに対する若者の“熱”はかなりのものだった。今の若い人はヘアヌード論争すら知らないことに驚かされるが、その頃は「毛一本で大騒ぎ」するのが若者だった。

 

今ではAだのBだのと段階を踏まずに一気にCに突入するぶっきらぼうな世相になってしまったのだろうか。なんならAもBも省略するような殺伐とした時代なのだろうか。だとしたら夢がない。やはりそういうことは段階を踏んで進んで欲しい。

 

ちなみに「マグロ」などが代表的だが、本来の意味とはまったく関係なくエッチ系の隠語にされている言葉は意外に多い。その言葉を本来の意味で普通に使う関係者にとってはお気の毒である。

 

「尺八が得意なんです」。妙齢の美しい女性にそんなことを言われたら世の中のスケベオヤジは全員が悶絶する。本来の意味だとちゃんと理解できる人はおそらく10人に2人ぐらいではないだろうか。

 

「調教」。これまた競馬の世界などではごくごく普通の言葉だが、聞いた瞬間におかしな連想をしちゃう人が全国に3千万人ぐらいはいるかもしれない。個人的には「調教師」と聞くだけで無条件に尊敬してしまう。

 

「本番」という言葉もすっかりエッチ用語では古典的である。私の世代では本番と聞くと「愛染恭子」を連想する。映画「白日夢」である。

 

あの映画が話題になったのはもう40年以上前のことだ。思えばこの40年そっちのことばかり考えながら生きてきたような気がする。

 

さてさて、我がオヤジバンドライブまであと一週間ちょっとである。「もうすぐ本番だ」と練習の際に口にするたびにエッチな妄想が頭に浮かぶから困ったものだ。

 

本番は何度やっても緊張する。でも本番を楽しむために長期間練習に励んできた。本番が最高の出来になるよう頑張ろうと思う。

 

 

 

 

 

2022年11月16日水曜日

男の子の成れの果て


私は昭和の男の子の成れの果てである。昔は食品添加物をうるさく気にする人はいなかったし、炭水化物がどーだ糖質制限があーだといった概念に触れる機会は少なかった。

 

そんな時代に少年だったから駄菓子屋で売っていた凄い色のスモモが好きだった。舌まで赤くなるヤツである。もちろんコーラもファンタも大好きだった。袋麺、カップ麺を問わず即席麺はある意味ご馳走だったし、マックなんて毎日でも食べたいぐらいだった。

 

大らかに生きてきてしまったから還暦が近づいてきた今でも率先してジャンクなものを食べたくなる。男メシ、邪道食い、大いに結構だと思う。

 

先日、散歩しながら月島界隈に足を伸ばした。夕方だったから適当な居酒屋にでも入ろうと思ったのだが、もんじゃの街だから漂ってくるのはソースの香りである。

 

私はもんじゃが苦手だ。美味しいと思わない。見た目だってゲロみたいである。もんじゃ関係者、もんじゃファンの皆様、本当にスイマセン。

 

でも私が育った杉並区あたりではもんじゃ焼きの店は無かったから、昭和の子供だったとはいえ馴染みはまったくない。

 

地方の人の中にはもんじゃを東京の名物料理だと思っている人は多いが、東京でもちょっと限定的なエリアの食文化だろう。今では観光的な食べ物としてある意味“東京ばな奈”的な位置付けに思える。違うだろうか。

 

「東京ばな奈」というお菓子は私が少年、青年時代には見たことも聞いたこともなかった。いまだに一度も食べたことはない。あれを東京銘菓と言われてもピンとこない。

 

まあ、雷おこしも鳩サブレーも東京の人が食べる機会は滅多にないのではないか。名物ってそんなものかもしれない。

 

先日、鳥取出身の人と話す機会があったから私が大好きな鳥取銘菓「若草」について熱く語ったのだが先方は若草を知らなかったからズッコケてしまった。

 



話が逸れた。

 

さて、香りに誘われて苦手なはずのもんじゃ屋に入った私だが何を選べばいいか分からない。どうせならヘンテコなものを頼もうとヤケッパチ精神で選んだのが「オムライスもんじゃ」なる一品だ。

 

ネーミングから意味不明だ。どんなものが出てくるのか分からない。お化け屋敷の中を怖々歩くような気分で待っていたのだが、出てきたのはもんじゃの上にご飯とケチャップ、タマゴを乗せる不思議な食べ物だった。

 


 

もんじゃ焼きの店は自分で作らなければならないから困ったものだ。大名家の血を引き華族に列せられていた実家で育った私には荷が重い作業だ。大ウソです。すいません。

 

しかたなく店員のオニイチャンに「こんなもの分からないよ~。何とかしてくれ!」と頼み込んで作ってもらった

 

オニイチャンは鮮やかな手さばきでオムライスもんじゃを仕上げてくれた。華族の家に生まれた私から見ればまさに魔法である。

 


 

これほどまで「映え」と程遠い食べ物は珍しい。見た目だけではちっとも食べたいと思えない。でもそこそこ空腹で独特の香りが漂ってくれば案外ウキウキと手を伸ばしたくなる。

 

食べてビックリ。意外に美味しい。正確には美味しいという表現とは違うのかも知れないが、そもそも食事なのかおやつなのか分からないもんじゃという物体にご飯が混ざっただけで立派に「料理」に格上げである。

 

“オムライス風の味がするキャベツが多めのリゾット”と表現すれば分かりやすいだろう。そう思いながら食べ進める。なかなか悪くない。私の身体の根っこにあるジャンク魂が揺さぶられた。

 

その後に運ばれてきた焼きそばセットは私が張り切って作った。私はウチで頻繁にウマい焼きそばを仕上げている“天性の料理人”である。本格仕様の鉄板という舞台が用意されればマズく作るのが難しいぐらいである。

 


 

オムライス風もんじゃ、焼きそば。昔の男の子の成れの果てとしては実に心が満たされる組み合わせだった。生ビールとレモンサワーをお供にしばしの悦楽タイムが過ごせた。

 

つくづく男子に生まれた幸せを感じた。この歳の女性がこんな組み合わせの夕飯を選ぶのは考えにくい。いわば男メシである。寿命の直前までこんなモノを美味しく感じながら過ごしたいものだ。

 

 

 

 

 

 

2022年11月14日月曜日

アーカイブです

 今日は更新が間に合わなかったので過去ネタを一つアップします。アナ雪からもうそんなに時間が経ったのかと思うと時の流れの速さに唖然とする・・・。


https://fugoh-kisya.blogspot.com/2014/04/blog-post_30.html

2022年11月11日金曜日

天性の料理人

 



 

もう今年も後半である。街にもネオンが光り始めてせわしない感じが漂ってきた。こういう季節こそ女子のナマ脚を眺めながらウマい酒を飲みたくなる。

 

まあ、年柄年中、女子の脚は眺めていたい。最近はメシ相手になってくれる女性陣には“脚だしスタイル”を強制、いや、要請しているので一種の花見感覚で一献傾けている。

 

さて、ネオンと女子の画像を“ツカミ”で使ってみたが、今日書く話は夜の街でも女性のことでもない。自慢にもならない自慢話である。

 

大きな声では言えないが(ここに書いている段階で論理破綻だが)、私は自分のことを「天性の料理人」だと自称している。


ずいぶん大きく出たものだ。

 

といってもこの図々しい発言を聞いているのは娘だけである。つまり家の中でそうホザいているわけだ。とてもじゃないが外の世界では言えない。

 

と、謙遜してみたが、私の味付けのセンスはなかなかのものである。家での簡単調理で失敗することはない。鶏肉や豚肉を炒めて調理させたら相当な腕前だ。たぶん。たいてい美味しく仕上がる。

 



 先日も娘と食事に行き、人生でほとんど作ったことのないお好み焼きを完璧に仕上げた。その後は2時間ぐらいドヤ顔で過ごしていた。これは味付けとは違うが要はセンスが良い!?のだろう。ウン十年もさんざん外食におカネを落としてきた成果である。

 

某日、賞味期限が怪しかったシメジやエノキを捨てかけたのだが、思い直して即興で炒めてみた。軽く塩コショウしてフライパンにバターも一切れ入れて炒めた。仕上げ間近に冷蔵庫にあったオニオンステーキソースなる液体をチョロっとまぶして仕上げた。

 



 食べてみてビックリ。バカうまだった。テキトーにちゃっちゃと作ったのに夢のような!味になった。自分の「天性の料理人」ぶりに驚き、ついでに豚肉も焼いて娘用の一食を作り置きしておいた。やさしいパパである。これもパパ活と呼ぶのだろうか。

 

簡単パスタも最近の私の定番だ。早茹での乾麺が便利だから頻繁に作っている。「早茹で4分」のパスタ麺なら茹で時間は2分。そこからフライパンに準備しているパスタソースとあえているうちに良い感じのアルデンテになる。

 



 出来合いのレトルトパスタソースにアレンジを加えるのが一番簡単だが、私の今のお気に入りはこの画像のペペロンチーノっぽいオイルソースだ。

 

どこにでも売っている定番である。これだけでも具材次第で充分にウマく仕上がるが、時にはこれにバジリコの粉末を適量パラパラすると一段と美味しくなる。

 



この画像はスーパーシーフードパスタだ。エビやホタテ、アサリなどをあらかじめオリーブオイルで炒め白ワインもちょっと投入して蒸し焼き風に仕上げる。そこに2分茹でたパスタを投入してあえながらオイルソースとコショウをぶりぶり入れて味を整えるだけだ。

 

具材をドッサリ入れれば具材からの旨味が自然とウマいパスタに仕上げてくれる。いつもは麺を200グラムぐらい食べたい私だが、具をたくさん入れることで麺は100グラムでも充分。炭水化物の摂り過ぎ対策にもなる。

 




 カキのパスタも同様だ。レストランのカキパスタとは比較にならないほど大量にカキを投入できるのが家パスタの魅力である。

 

上のカキパスタの具材はしめじとカキだけ。下のはシメジの他に缶詰のツナ、缶詰のアサリも入れたボリューム満点の一品。画像では分かりにくいが下のパスタには小ぶりのカキが一皿に15個ぐらい入っている。カキだらけパスタである。

 

たかだかパスタ麺100グラムでもこれだけ具材を入れると充分満足出来る。味付けは塩コショウすらせずに上で紹介したオイルソースと粉末バジルのみ。これからのカキの季節にはオススメだ。

 

天性の料理人って言ったところで基本的には市販品で味付けしているわけだが、コトはそう簡単ではない。炒める際の加減や目分量で投入するソースなど私だからこその加減が抜群の味につながるわけだ。そう信じて疑わないでいると幸せな気分でいられる。

 

ナゼか包丁とまな板は使わないポリシーを今も守っている。あれを用意してまで作業するとヘタなものは作れないような強迫観念に駆られる。


だから肉を切る際もハサミを使う。野菜やキノコは手でちぎる。このスタイルでそれっぽい美味しいモノが出来上がると何かに勝ったような気がする。

 

ヘンテコなこだわりである。“天性の料理人”などとよくもまあ言ったものである・・・。

 




 

 

 

 

 

2022年11月9日水曜日

障害児の父親

 

このところ息子に癒やされる場面が増えている。ダウン症児として生まれてから早16年近くが経つ。いっぱしの高校生である。肉体的には視力以外にとくに持病は無く元気に育ってくれたが知育面はサッパリだ。読み書きが出来ないから何かと不便である。

 

息子の話は折に触れてこのブログでも書いてきた。いま思うと以前は少し力んだような書きぶりにも見える。

 

わが家のダウン症

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2010/02/blog-post.html

 

ダウンちゃん、中学生になる

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2019/04/blog-post_12.html

  

時間とともに息子との関わりは“未知との遭遇”から“普通の日常”に変わってきた。障害児を持つ親として、もっと啓蒙みたいな話を展開したほうがいいのかもしれないが、何だかそれも違うような気もする。

 

つくづく時間という「薬」の効能を痛感する。16年前に息子がダウン症だと宣告された時の衝撃の大きさは私の人生の中でもメガトン級だった。その後、いろんな葛藤もあったが今では彼の存在は私の人生に欠かせない。会えば癒やしをもらえる。私にとってはホトケ様みたいなものだ。

 

口の中の構造上の問題で話し方はたどたどしいが、コミュニケーションは普通にとれている。というか、会うたびにこっちの体調を心配してくれるような気配り上手に育ってくれた。父親、母親、姉と比べても心の安定感や穏やかさは一番である。

 

よこしまな気持ち、狡猾さ、あざとさ、計算高さといった要素がまるでない。一緒に時間を過ごすと不思議とホンワカと平穏な気持ちになる。

 

喜怒哀楽の喜と楽が彼の大半。哀と怒はほぼない。あってもすぐに消える。争いごとが嫌いで学校でも揉め事があれば仲裁役になり、収まらない時には教室から出て行ってしまうらしい。

 

競う意識、戦う意識も無いみたいだ。欲も不平不満もすぐに引っ込める。これまでダダをこねられたことが一度も無かったのは今思えば凄いことだと思う。

 

変な執着心がないというか、一種の達観みたいにあるがままを受け入れる。ハンバーグが食べたいという彼の強い希望を無視して回転寿司屋に行っても嬉しそうにその場を楽しむ。例えがヘンテコですいません。

 


 

先日、娘と3人で回転寿司に行った時の画像だ。とにかくよく食べる。高校生男子だから当然といえば当然だ。普段は母親が肥満防止のために食べる量をしっかり管理しているが、私と会っている時は別である。月に3回ぐらいしか会っていないのでここぞとばかりに食べさせる。

 

ここでも、やれトロが食べたいとかイクラをもっとくれみたいなことは言わない。彼にも好みはちゃんとあるのだが、私が勧めるものを楽しそうに文句も言わずバクバク食べる。

 

息子は私と会うと散歩をせがむ。いつも1時間は黙々と歩く。一緒に鼻歌を歌いながらアテもなく歩く。私にとっても気持ちの良い時間だ。


先日は上野動物園にも行ってみた。普通の高校生なら行きそうにないが、そこは我がホトケ様ちゃんである。楽しそうにしていた。大人目線ではデッカい動物を見たくなるが、彼は変な小さな猿やフラミンゴなどをじっと観察していた。感性が私とは違うみたいだ。




最近の散歩ではなぜか新幹線に突然乗るハメになったこともある。八重洲エリアを散歩した際に乗りたいと言い出した。甘甘父ちゃんとしては断るのも可哀想だから、こだまに乗って小田原まで単純往復をしてきた。

 

息子は車窓から外を見てゴキゲンである。娘とは海外旅行に行ったりさんざんウマいものを食べ歩いたりしてきたが、息子とはいつも散歩するぐらいである。不公平だからたまには息子サービスの時間も必要である。


小田原まで40分弱ぐらいだったか。着いたらすぐに戻りの電車のキップを買って20分後には駅弁を買って東京行きのこだまに乗り込む。ヘンテコなプチ旅行だが案外楽しかった。

 




わが家に遊びに来ることも多いが、こちらのエリアで息子が大喜びするのが隅田川のクルーズだ。いつだったか隅田川沿いの遊歩道を二人で散歩していたらたまたま聖路加病院そばの船着き場に定期船が来たので“衝動乗り”して竹芝の方までちょろっと船移動した。

 

つかの間の船の時間と下船後にゆりかもめで戻ってきた“ぶらり途中下車の旅”みたいな時間だった。息子にとっては一大トピックスだったみたいだ。学校でもこの日のことをその後しばらく話し続けていたらしい。

  

その後も船のリクエストに何度か応えた。おかげで私もすっかり隅田川にかかる橋の順番や名前をだいぶ把握することが出来た。

 



こう書いてみるとさんざん息子を相手に良いパパをやっているように読めてしまうが、10年前に離婚して以来、息子と会うのはせいぜい月に3回ぐらいだからエラそうなことは言えない。

 

でも変な話だが“頑張りすぎる父親”の残念な話を何度も聞いてきたからそれはそれで良いと肯定している。障害児を持った家庭にありがちな話なのだが、子供のことで一生懸命になり過ぎて無理がたたって早く亡くなってしまう父親は少なくない。

 

ちょっと分かる気がする。母親より父親のほうが確実に弱い。もともと男の方が寿命が短いのに加えて予想外の「障害児の父親」という役割が肉体的にも精神的にも何かの歯車を狂わせてしまうのだろう。

 

私自身が見聞きしてきたケースでも早逝するのは“頑張りすぎた父親”ばかりだった。母性という強さには太刀打ちできない男のサガみたいなものだと思う。

 

私などは頑張りたいと思ったところで月に何度かしか会わないからたかが知れている。息子の登場で私の人生に大きな狂いがあったわけでもない。こんなヌルい状態ではさっさとヘタバっているわけにはいかない。

 

自分勝手な解釈だが、頑張りすぎて早くいなくなってしまうより、細く長く息子の散歩に付き合ってやるのは大いに意味があると思っている。

 

まあ、あーこーだ書いてみたが、少なくとも今の私は生きボトケ?のような息子の空気感にホッコリさせられる。こっちのほうが功徳を施してもらっているような気がする。