2025年10月1日水曜日

銀座の酒とサイゼの酒


先日受けた血液検査では「γ-gpt」の数値が正常値になっていた。ビックリである。10年、いや20年、いや、30代以降は正常値だった記憶がない。正常値の3倍、5倍だったらちゃんと注意してきたのだろうが、正常値を2割、3割程度超える程度だったから気にしたことはなかった。

 

別に大酒飲みじゃなくても普通に酒を飲む人なら多少は数値が高くなるのが当たり前だと信じ込んでいた。大のオトナでも正常値になることがあるんだと妙に感心してしまった。まあ、考えてみればこの半年は節制生活だったから酒を飲む量もかなり減っていた。

 

とりあえず15キロ減になった体重を何とか維持している。でも最近はちょっと怪しくなってきた。先日も酔って帰宅した後にウーバーで牛丼を頼んでしまった。白米はかなり残したが半年ぶりの自分らしい行動をちょっと誇らしく?感じた。バカである。

 

体重が減ったことと関係があるのかどうかわからないが、このところ酒を飲み過ぎても以前ほどキツくない。以前なら飲み過ぎるとビミョーにムカムカしちゃったのだが最近はそれが無い。しばらく酒を減らしていたから肝臓も元気を取り戻したのだろうか。

 

先週はやたらと飲む機会が多かったのだが、飲んだ後のムカムカや二日酔いで困ることがなかった。気のせいかもしれないが、だとしたら気のせいも大事だ。

 


 

夜の銀座にも何度か足を運んだ。以前ほど通わなくなったが、多少は付き合いもある。私はかなり義理堅いし綺麗な女性にお世辞を言われるのも好きだから、まだそちらの活動は引退していない。

 

やはり時には華やかな空気感の中でちょっと気取ってイケオジのフリをすることも必要だ。自分がまだ現役だと確認するためにも大事なことかもしれない。

 



クラブ活動はその日の2軒目、3軒目になるからそこそこ飲んでからの参戦だ。それでもせっせと水割りのおかわりを用意されるとグビグビ飲んでしまう。クラブ活動ではオールドパーを定番にしているのだが、最近はオールドパーの味が妙に美味しい。

 

オールドパーは独特の味だから好みが分かれる酒だ。私自身、正直言えばそんなに好きな味ではない。それでも祖父の代からのいろんな物語にあやかって銀座ではオールドパー一辺倒だ。最近になってウマく感じるのは年齢のせいだろうか。謎だ。

 

「座っただけでウン万円」といわれる銀座だが、おかしなもので、あれが「座っただけで2千円」だったら有難みも面白みも無い。変な話だが非日常感みたいな部分が銀座を銀座として成り立たせている一番の理由だ。

 



そのために独自の矜持をもって働く人々がそんな世界を支えているのも確かだ。昔よりはそういう濃厚さが薄れてきているが、それでも他の繁華街とは一線を画す。世の中すべてがマイルド化、均一化、平準化してきた今だからこそ、あの街の神秘性というか、良い意味での排他性は維持されてほしい。

 

妙に高い酒の話を書いたついでに妙に安い酒の話も書く。

 

先日、初めて「サイゼ飲み」を体験した。良心的な値段で人気の「サイゼリア」である。バンド練習の後でメンバー5人ほどで行ってみた。

 

いやはや感動の一言である。オッサンたちで長居したことを反省したくなった。あんな値段で食べて飲めるなら若者のオアシスである。メニューを見てあそこまで価格を抑えていることにひたすら感動した。

 


ワインはたいていのボトルが1000円だ。白だの赤だの悩むヒマがあったら両方頼めば済むし、なんならシュワシュワも1000円だ。一品料理も500円を超えるものを注文すると富豪みたいな気分になるほど安い。ただただ企業努力に敬服する。

 

結局、ビールの他にワインを5本ぐらい頼んでアレコレと食べ物も注文して一人あたり3千円を切ったような金額で済んだ。安かろう悪かろうではなかった点に感動した。

 



座っただけでウン万の店だろうとサイゼリアだろうと酒を飲むという行為はあくまで楽しさが前提じゃないといけない。あたりまえの話だがこの歳になるとつくづくそう思う。

 

ヤケ酒や悲しい酒をいかに少なく済ませられるか、人生後半戦は案外それとの闘いのような気がする。

 

 

 

 

 

 

2025年9月29日月曜日

謎めし。エンガワとか。

 

世の中の食べ物にはウマいものとマズいものの他に「ビミョーなもの」も存在する。ウマいマズいの範疇の外に位置する独特なモノのことだ。

 

もちろん、味覚なんて個人的な好みだから滋賀の鮒ずしや変な匂いのするチーズが大好物だという人もいるだろう。でもああいう特殊な食べ物は万人が揃って「ウマいなあ」と頷く味ではない。

 

そういう文化遺産的なビミョーな味はさておき、バカみたいに辛くしたカレーやらアホみたいに脂ギトギトにしたラーメンなんかも実に「ビミョー」だと思う。ウマいなあと頷くよりも一種の征服感を味わうために食べているだけだと思う。

 

若い頃は「強い味」をウマいと感じる。俗にいうガッツリってやつだ。加齢とともにキツくなってきて背を向けるようになるが、私だって若者時代はわざわざ辛さがウリのエスニック料理を得意になって食べていた。今では見向きもしなくなった。

 

それでもやはり「男の子DNA」は我が身に残っていて、今でもトンチンカン?なジャンクフードに食らいつきたくなる時がある。先日もよせばいいのにヘンテコな一品を食べてみた。

 




吉野家の牛玉スナミナまぜそばである。だいたいスタミナと呼称する食べ物は滋味深い優しい味とは無縁だ。ヤケッパチみたいに塩やニンニクが前面に押し出されている。ウマいマズいの外の世界である。

 

牛丼の具が乗っかった混ぜ麺なら美味しいはずだという私の安易な考えが甘かった。おまけに味をマイルドにする効果があるタマゴを混ぜ合わせるのを忘れた。なんだか拷問みたいな味だった。すみません、個人的な感想です。

 

40年、いや30年前ならウマいなあと喜んだのだろうか。天下の吉野家がメニューに採用するぐらいだからきっと私が言うほどヘンテコではないのかもしれない。謎だ。

 

ヘンテコな食べ物といえば回転寿司で出てくる「謎のエンガワ」も捨てがたい。ヒラメやカレイのエンガワの部分があんなに日本全国どこでも毎日品切れにならずに提供されるはずもない。謎の深海魚みたいな魚がエンガワに似ている風味だったから一斉に普及したシロモノだ。

 

独特の脂っぽさが若い人をトリコにする。実は私もあれが好きだ。正統派のお寿司屋さんで食べる本物のエンガワのほうが好きだが、そもそも比べるべきものではない。謎のエンガワはあれはあれで独自の世界だ。

 




チマタでは「えんがわの押し寿司」が人気だという。東京駅などでは売り切れ続出だと聞いたことがある。以前、たまたま羽田空港で売っているのを見つけて勇んで買ってみた。ワクワクしながら食べたのだが、これが思ったより口に合わずに落胆した。

 

あまりにも脂がギトギトで尋常な状態ではなかった。ラーメンの世界では「脂マシマシ」なる危険な?注文の仕方があるそうだが、きっとそれを上回るベトベトぶりだった。容器や附属のおしぼり小袋までベトついていた印象だ。

 

やはり、謎のエンガワは謎の存在であって、マトモなエンガワには遠く及ばない怪しい食べ物だと痛感した。ナゼそんなものが大人気なのか不思議で仕方なかった。

 

その後も羽田空港に行くたびに謎の押し寿司を目にしていたのだが、さすがに怖くて買えずに時は過ぎた。しかし、人間の記憶力と学習能力なんて頼りないもので、最初の体験からほんの23か月しか経っていない某日、ナゼかまた購入してしまった。

 

箱のデザインが以前と違っていたから買いたくなった。違う業者さんの商品だろう。前に食べたやつとの違いを確かめたい気持ちに負けて再挑戦である。

 




で、恐る恐るラウンジの隅っこで食べてみた。ふむふむ、これならイケる。私のジャンク魂が頷いていた。前に食べた押し寿司よりもギトギト感が強くない。回転寿司屋のエンガワに近い感覚だった。

 

ウマいなあとしみじみする味ではないのだが、こういうモノを食べたい気分の時ならちゃんと美味しく感じる。えんがわの押し寿司をいくつの業者さんが販売しているか知らないが私のおススメはこれ。この箱のデザインが目印だ。

 

他にもウマいのがあるかもしれないが、たった2種類を食べた私の感想はそんな感じだ。それにしても最初に紹介したほうはなぜあんなにギトギトだったのか今も謎だ。ひょっとしたら保管状態ひとつで状態が大きく変化するのかもしれない。一応、そっちの業者さんの名誉のために付け加えておく。

 

四の五の書いたが、結局はホンモノのエンガワを正統派のお寿司屋さんで食べるのが一番幸せである。もともと数に限りがあるネタだから「エンガワ、まだありますか?」と尋ねながら注文する姿勢が望ましい。「エンガワください!」などとネタがあるのが当然みたいな頼み方はオトナのたしなみとしてはスマートではない。

 

大きなお世話かもしれないが…。

 

 

 

 

 

 

2025年9月26日金曜日

優しさとは

 更新しそびれてしまったので過去ネタを一つ。


優しいオジサマ

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2015/04/blog-post_22.html




2025年9月24日水曜日

馬、馬、馬


精力と聞くとすぐにアッチのほうを想像してしまうのは正しくない。もちろん、ソッチの意味合いで使われることは多いが、そもそもは日々を生きるエネルギーの源そのものを指す言葉である。

 

やる気、根気、意欲や情熱という前向きな姿勢すべてを意味する言葉である。いわば活力と同義語みたいなものだろう。精力は年齢とともに自然と低下するのが普通だ。情熱バリバリのオジイサンという話はあまり聞かない。


ご多分に漏れず私も精力は減退気味だ。体重を減らして倦怠感こそ無くなったものの、物事への集中力や意欲はどうしても若い頃よりは弱まってくる。

 

一応、自分の名誉のために書くとアッチのほう?の精力はまだちゃんとしている。男として生きているうえでこれは救いだ。この歳になって現役でいられることは有難い。

 

 いまだにスキあらば一戦交えようと思うし、据え膳は残さず食べる。ソッチはもういいやという感覚の同年代男も増えてきたが、まだしばらくは現役でいようと思っている。



 そういう考え自体が精力旺盛ともいえるが、そうじゃないとさすがに退屈だから多少は無理してでもカラ元気に励もうと思っている。とはいえ、ランニングしたりスクワットに励んだりするような努力はちょっと苦手だ。

 

努力なしに活力、精力を維持できるのが食事だろう。気がつくと最近の私は馬刺しばかり食べている。精力アップをもくろんでいるわけではない。純粋にウマいから食べまくっている。とはいえ、精力増強に良いという側面も何となく意識はしている。

 



 馬肉の強壮効果は昔から有名だ。江戸時代の吉原の近隣には桜鍋の店がたくさんあったそうだ。遊郭に遊びに行く前に男たちがこぞって馬力をつけに行ったわけだ。俗に「蹴とばし」とも呼ばれたそうだが、そのぐらいパワーがつくことが理由だ。

 

馬肉の良い効能は火を通すことでいくつかは消滅するらしいから馬刺しで食べるのは元気になるためには理にかなっているらしい。おまけに馬刺しの場合、ほぼ100%スライスタマネギが付いてくる。私はこのスライスタマネギが好きで、時にはそれだけ大盛りにしてもらう。

  



タマネギも精力増強に効果的なのは有名だ。昔の中国のお寺の入口にはタマネギ持ち込み禁止が掲示されていたという話を聞いたことがある。修行僧がギンギンになっては困るという趣旨だったそうだ。タマネギはニンニクと同系の植物だからパワーの源としても似たようなものなのだろう。

  

馬刺しにタマネギをセットで食べるわけだからきっと精力増強には最強の組み合わせだろう。このところ週に何度も食べているから私も何とか元気ハツラツぶっていられる。


半年前までコンビニの菓子パンばかり食べていた頃より寝起きも良い、睡眠の質も良い、ダルさもあまり感じなくなった。ついでにいえばアチラのほうも何となくラクチン?になっている。

  

好きなものを食べて元気になるわけだからこんなに良い話はない。飽き性だからいつ馬刺しに目がいかなくなるかが心配だが、しばらくはB型特有の凝り性体質のほうを活かして食べ続けようと思う。

 



この画像は赤坂の肉十八番屋という店の赤身とフタエゴの盛り合わせだ。ここ数か月なぜか何度も通っている店だ。タバコが吸えることと「鬼おろし」と名付けられた果肉ブリブリの生グレープフルーツサワーに惹かれて通うようになったのだが、馬刺しのウマさも魅力だ。おかわりしちゃうこともある。


タテガミだと脂っぽいだけの印象もあるが、赤身が混ざっているフタエゴやら肩ロースあたりはサッパリに加えて適度なコッテリも感じるので延々と食べられてしまう。

 

馬刺しばかり食べて、あとは梅キュウやら牛スジ煮込みでも食べていればいつの間にか満足する。炭水化物はちょっと我慢である。節制暮らしには最適な過ごし方だと思っている。

 



こちらはモツ鍋の人気店「やましょう」人形町店の馬刺しだ。普通は鍋を食べに行く店だが、馬肉が目的の私は鍋には見向きもせずチマチマと一品料理だけを注文して焼酎のアテとして楽しむ。そのぶん高くつくのだが…。馬刺しの値付けが高いのが残念だが、その分、間違いのない肉質の一品が出てくるから悪くない。

 

他にも行き当たりばったりで馬刺しを注文しまくっている。先日は、日比谷の路地をうろつきながら適当に入った居酒屋でも食べた。お客さんがほとんどいないシャバダバな様子の店だったので、久しぶりにハズしたかと思ったが、馬刺しはマトモだった。

 

結局、馬刺し専用の甘くて濃いめの醤油とサラシタマネギをたっぷり加えて食べればたいていの馬刺しは私にとってはアタリだ。単純である。

 



精力旺盛になるのは結構なことだが、そのエネルギーをどこに向けるかが問題である。加齢にあらがって下世話な事ばかり考えているようでは情けない。

 

何か建設的なことに活力を向けるように心がけようと思う。










 

2025年9月22日月曜日

飯茶碗のこだわり

 

誰もが日頃の暮らしの中で「こだわりグッズ」を使っている。私も凝り性だから生活のいろんな場面でどうでもいいこだわりに縛られている。

 

縛られていると書いたが、自分ではこだわっていることに快感を感じている。トイレットぺーパーはドコソコ製のナンチャラじゃなきゃイヤという感覚だってこだわりだ。それを徹底することは一種の快感になる。

 

私の愛用品といえば器関係が多い。30代のころに窯場巡りにハマって日本中の焼き物を見て歩いた。見るだけではなく随分買った。立派なベンツ1台ぐらい買えるほど器にお金をかけた。

 

現代陶芸作家モノが中心で骨董品にはほぼ手を出さなかったので破産しないで済んだ。いまは当時ほどの情熱はないが、それでも飯茶碗、湯飲み、ぐい飲み、豆皿あたりにはこだわりがある。

 

もっとも、家庭人を卒業してからはレンジでチンできる安っぽい皿を使う頻度が激増した。家庭人時代はすべての器が日本中の窯場で仕入れてきた一点モノだったわけだから随分と豊かだった。何だか懐かしい。一時期でもそんな文化的?な暮らしをしていたわけだから私もなかなかの粋人だったわけだ。

 

日常遣いの器の基本が飯茶碗である。個人的にはお気に入りを見つけるのに最も苦労するシロモノだ。世の中に出回っている飯茶碗って小さすぎると思う。私に言わせればたいていが女性向け、子供向けにしか見えない。

 

コメを茶碗によそう際に料亭みたいに上品にしたいのなら小ぶりの茶碗でもいいだろうが、私としてはウマいコメを炊いたらしっかり盛りたい。それには相応のサイズの茶碗が必要だ。

 

長年愛用しているのが唐津の作家モノだ。飯茶碗ではなく小ぶりの抹茶椀である。抹茶椀は焼き物の世界ではドッヒャー!と値段が高くなるので気軽に使えないのが普通だ。

 



 その点、我が愛玩品はお抹茶の練習用として造られたらしく抹茶椀としては格安だったのでガンガン使っている。絵唐津という様式に分類されるのだが、色柄よりもサイズ感に惹かれて長年使い続けている。

 

とはいえ、最近ちょっと浮気をしてしまった。半年ほど前からの節制生活のせいで自宅でコメを食べる機会が減った。食べるにしても小盛り程度にしている。そうなると愛しの絵唐津の飯茶碗が甚だしくオーバーサイズなのが気になっていた。

 

料理を盛る器には「余白の美」が必要だが、飯茶碗だとそんな風流な気分にはならない、大きめの茶碗にちょこんと白米がある風情はちょっと寂しい。これっぽっちしか食えないのかという飢餓感さえ覚える。

 

というわけで、小ぶりの飯茶碗の意義を改めて痛感している。ウチにはなかなか素敵な美濃焼の飯茶碗があるのだが、同居する娘に使わせているから今さら奪い取るわけにもいかない。

 



美濃焼探訪のために岐阜の多治見に行った際に購入した茶碗だ。織部様式の中でも全体が緑色の総織部である。織部の緑は発色がすべてだ。安っぽい観光土産みたいなシロモノと真っ当に作られた本気モノとでは色の深み、渋みがまるで違う。

 

白米が映えるのもこういう茶碗の良さだろう。画像だと分かりにくいが先の絵唐津椀に比べれば随分と小さい。今の私はこっちを使いたい。

 

で、先日の沖縄旅行の際に新しい飯茶碗を買ってきた。私にしては小ぶり、一般的にはまあまあしっかりしたサイズだ。見込み、すなわち覗き込む内側は無地のキレイな乳白色だ。外側の絵柄は沖縄・壺屋焼ならではの風情だが、いわゆる民芸路線のスタイルとして益子焼などにも似た雰囲気だ。

 



単なる白ではなく実に雰囲気のある乳白色だった点が気に入った。作家モノとはいえ、大御所でもない限り数千円で買える。こういうものは出会いである。さっそく自宅でこの器でタマゴかけご飯を食べた。なかなか良い。

 

窯場めぐりではなくとも旅先で出会った器を使い込むのは楽しい。いちいちその器を買った時の旅を思い出す。大げさに言えばそんな器たちには何かしらの物語があるわけだ。使うたびにそこに思いを馳せるのもオツだ。

 



こちらは大きめの茶碗だ。正当な抹茶椀だが、私にとってはお茶漬け専用飯碗である。唐津焼の中の斑唐津というジャンルの器だ。有名人気作家の一品だが、窯場めぐりをマメにしていた頃に親交を深めたおかげで格安で譲ってもらった。

 

抹茶椀といえば陶芸家がとくに気合を入れて造るものだ。ましてや唐津の茶碗は茶人の世界でも人気が高い。そんな作品をお茶漬け専用にしているのは贅沢だが、それもまた楽しみである。


単純な私はお茶漬けを食べるたびにこの器のおかげでとても豊かな気分に浸れる。たかがお茶漬け、されどお茶漬けである。15年以上使っているが傷も欠けも無い。愛着があれば長持ちするものである。


日常使いの器の話をもっと書こうと思っていたのだが、長くなったので今日はこの辺でおしまいにします。

 

 

 

 

 

 

 

2025年9月19日金曜日

危うし、ドカ食い


ドカ食い男。魅力的な言葉だ。単純に豪快なイメージがある。これに対して「食が細い男」は線が細く頼りない感じだからカッチョ悪い。どう考えてもドカドカ食べる男のほうがエネルギッシュだろう。

 

私自身、ドカ食いには結構な自負があった。いまそれを過去形で語っていることに忸怩たる思いがある。還暦を前に我がドカ食い人生も終焉を迎えそうで切ない。そんな状況にストレスすら感じる。

 

いい歳して牛丼特盛に牛皿まで追加して注文しちゃうのはバカである。バカだと自覚していてもそれが出来ちゃう自分がちょっと誇らしかったりする。

 



酒を飲んだ後にラーメン屋で当然のようにチャーシュー麵大盛りを頼み、寿司屋でしっかり食事した後にマックのフィレオフィッシュとビッグマックを食べちゃう行動は私にとってわりと普通だった。50代後半になってもそんな行動様式は不変だった。

 

人から見ればバカげた行動だから、一応オモテ向きには「恥ずかしいこと」「反省すべきこと」と表明してきた。でも実際には「オレって結構ヤンチャなんだぜ」的な自己肯定感に浸っている自分もいた。

 

男たるものウサギみたいにチマチマと野菜なんか食えないぜ!といった無駄なツッパリ精神と考え方の根っこは同じだ。「ジャンクなものをドカ食いするワイルドなオレ」。それを一種のライフスタイルとして貫いてきたのが私の生きざまだった。

 

なんだか大げさな書きぶりになってしまったが、そんなドカ食い人生が危うくなってきた。寄る年波のせいか、この半年の節制生活の副作用か、情けないことにちょこっとした量の食事で満足している自分がいる。健康には良いと分かっているのだが、言い知れぬ無念さみたいな感情も渦巻く。

 

まるで「普通の人」である。ドカ食いを得意とする「普通じゃないオレ」であることにどこか変態的優越感?に浸っていた私にとっては危機的状況である。

 

喜多方ラーメンの人気チェーン店「坂内」が9月になるとヤケクソみたいなチャーシュー祭りを実施する。チャーシューが23枚も乗っかっているハッピーなラーメンが食べられるキャンペーンだ。

 

今年は、ネット上の告知を見て心が揺れた。なぜなら今年からヤケクソチャーシュー麺に小型サイズが登場したせいだ。麺は半盛でチャーシューは15枚程度だとか。今までならそんな中途半端な商品をクサしたはずの私がそっちのほうに惹かれた。

 

その時点で敗北である。あくまでアノ挑発的ですらある23枚入りチャーシュー麺をシレっと平らげるのが正しき男の姿だ。そう信じてきた私にとっては小型サイズによろめきかけた事実は敗北でしかない。

 

で、瞬時に心を入れ替え、通常版のヤケクソチャーシュー麺を食べに行った。でも例年のようにワクワクしない。どこか自信を失っている自分がいた。私の心の動きだから当然私にしか分からない話だが、身体の中を冷たい風が通り過ぎていくような寂しさを感じた。

 



で、ヤツが運ばれてきた。やはりワクワクよりも不安が募る。完食は無理かも…。せめて肉だけは全部食べるぞと弱々しい気持ちで箸を手に取った。

 

もともとこの店のチャーシューは好きだ。美味しく食べ進む。満腹にならないように心なしか急いで豚肉を味わう。山頭火の句に「分け入っても分け入っても青い山」があるが、まさにそんな感じだ。分け入っても分け入ってもチャーシューが次から次に出てくる。

 



結論から言えば完食出来た。喜ばしいことだが、食後の感想が例年とは違った。今までは「たいしたことないぜ」だったが、今年は「厳しかった、苦しい」である。

 

敗北はしなかったが勝利もしていない。ついでにいえば「これを食べるのも今年が最後かな」という心の声も聞こえた。完食した達成感よりも自らの限界がすぐそこまで来ていることを痛感させられた。

 


もっと言えばこの時はすこぶる空腹だったのにこのザマである。午前中に胃の内視鏡検査を受けたので朝から何も食べておらず検査後に職場に戻ったりして、結局チャーシュー麺と対峙したのは夕方の5時だった。最高潮レベルで空腹だったのに余裕しゃくしゃくで食べられなかったことが残念だった。

 

ドカ食い人生も風前の灯火である。

 

というか、チャーシュー麺を食べただけの話をここまで膨らませて書いてしまう私のクドい文章にお付き合いくださりありがとうございます!

 

 

 

 

 

 

2025年9月17日水曜日

自然治癒力

 

キックボクシングを始めて7か月が過ぎた。半年続けば上等だと思っていたのだが、ここまでくれば1年は続きそうだ。倦怠感退治を目的にジムに通い始めたが今ではすっかり元気になってきた。身体を適度に動かすことの大事さを今更ながら痛感する。

 

特筆すべきは昨年痛めた左脚の膝が問題なく動かせるようになったことだ。不調だった時期が長かったからこれは大きい。痛みが続いていた頃だったらキックのジムなど通えなかった。

 



 

昨年の初めに自転車で大転倒して脚を強打し左膝付近がおかしくなった。その後は半年以上も湿布を貼り続け、早足で歩くことすらままならない状態が続いた。整形外科にも行ったが医者の態度がすこぶる悪かったのでリハビリなどもせず不便な日々を送っていた。

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2024/01/blog-post_31.html

 

普通には歩けたのだが、小走りなどまったく無理。歩行者信号が点滅しちゃったらあきらめるというヨレヨレ老人みたいな状態だった。不便だったが騙し騙し過ごしていた。残りの人生で走ることなどないだろうと達観していた。

 

大転倒から10か月ぐらいたったある日、ふとしたことから膝痛に効くストレッチのやり方をネットで目にして半信半疑で実践してみた。今ではそのやり方も忘れちゃった程度の簡単なストレッチだったのだが、ほんの2日ぐらいで膝の調子が劇的に良くなった。まさにキツネにつままれたような感じだった。

 

その後、一週間ぐらいそのストレッチを続けたら早歩きどころか小走りまでできるようになった。信号が点滅するとウキウキしちゃうほどだった。得意になって小走りに励んだ。

 

で、思ったのが「自然治癒力」についてだ。ストレッチという手段は用いたものの医学的な手助け無しにあれほど絶不調だったものが回復したわけだから自ら修復しようとする力は侮れないことを痛感した。

 

人間が本来持っている回復力は自分が思っているより遥かに強いのかもしれない。風邪薬や葛根湯が大好き?な私はちょっと調子が落ちるとすぐに薬に頼ってしまう。服用すれば安心するだけで実はムダなことをしている可能性はある。

 

お医者さんだって商売だから訪ねてきたお客さんに「自然治癒力で治しましょう」とは言わない。言い方は悪いが病人に仕立てたほうが都合が良いのは当然だ。

 

もう10年以上前になるが、腰痛がヒドくなっていろんなところに頼ってみた。もちろん整形外科にも行った。レントゲンを撮られてヘルニアと診断されて手術しかないと言われた。


もちろん、腰の手術なんて怖くてしょうがないからとっとと逃げ出した。とはいえ改善しなかったので知り合いから謎の整体師さんみたいな人を紹介してもらって藁にもすがる思いで通ってみた。

 

いくつかの整体に行ったのでどれが効いたのかは正直よく分からない。ある人には「宇宙エネルギーを注いで治します」みたいなケッタイなことを言われた。もはやスピリチュアルの世界である。

 

そんなことを言われたら笑うしかないのだが、ひょっとしたらそれが一番効いたのかもしれない。次第に痛みは無くなり、この10年ぐらい腰痛からは解放されている。今は整体にも通っていない。結局は自らの自然治癒力が痛みを克服したのだろう。

 

そういう実体験を思い返すと、レントゲンまで撮ってヘルニアだと確定診断して手術するしかないと言い切ったお医者さんの判断は何だったのか首をかしげたくなる。

 

別に西洋医学を否定する気はさらさらない。実際、日頃からいろんな検査やらで普通にお医者さん通いをしている。決して偏屈な医者嫌いというわけではない。でも今の膝の状態を思うと、何事に関しても自ら回復しようとする力をもっと信用したほうがいいという気持ちになっている。

 

もちろん、精神力だけですべての病が吹っ飛んでくれるほど甘くはないのだろうが、意味もない通院や服薬、検査は溢れかえっているはずだ。ちょっと冷静になったほうがいいと思う。


先月コロナに感染した際もロキソニンは飲んだもののとくに専用の薬をもらったわけではない。4日もすれば治まった。自分の体が勝手に治そうとしたわけだ。

 

そうは言っても、歳も歳だしこれから先は命にかかわるような厄介な病気が待っているはずだ。自分の力ではどうにもならないだろうが、少しでも自然治癒力をパワーアップしたいものである。はたしてどうすればいいのだろう。

 

規則正しい生活、健康的な食生活等々、そんなことは分かっているが、今さらそんな刑務所暮らしみたいなことは難しい。だいたいそんなの面白くない。「酒も煙草も女もやめてそれで100まで生きる馬鹿」という格言?もある。なかなか難しいところだ。


せいぜいストレスを最小限にして好きなことばかりに目を向けるワガママオヤジになりきることが早道だろうか。