2025年12月15日月曜日

クリスマスの意味

 

クリスマスシーズンである。自分の加齢を妙に実感する時期でもある。若い頃はせっせと浮かれた雰囲気に乗って奮戦して、家庭人になった頃はキチンと子供のためにそれっぽいこともした。離婚してしばらくはこの季節に置いてけぼりをくらったようなアワアワ感があった。

 

中年前期の私にとってクリスマスはうとましいだけだった。浮き立つ街が何となく腹立たしいというか騒々しく感じて不快だった。意識し過ぎだったのだろう。


中年後期の今になると本当にどうでもよくなってきた。ニギニギしくハッスルしている人々に素直にエールを送りたいほど無関係な気持ちになってきた。


何だかやっと別天地にたどり着いた感覚がある。クリスマスというアザとさの塊のようなイベントに自分が影響されなくなったことに安堵している。

 

と同時に、いよいよ自分が社会の中心より隅っこのほうに居場所を移したような一抹の寂しさも感じる。


はしゃいだり、うとましく感じたりしたのは、言ってみればクリスマスという渦の中にちゃんと巻き込まれていたからである。「無関係ゾーン」にたどり着いたことは結構なことだが、あまりに距離を置いちゃうと偏屈な世捨て人みたいだ。難しいところである。

 



東京駅前のキッテという商業ビル内のツリーだ。ちゃんとスマホを向けて撮影してみた。危うく素通りしそうだったが、上に書いたような偏屈な世捨て人にならないために一応パシャパシャ撮ってみた。賑わう人々のそういう空気の中の一部になれたみたいでちょっとホッとした。

 

なんだかバカみたいである。

 

キリスト教系の学校に幼稚園から高校まで通った。小学生時代は聖歌隊に所属していたわけだからキリスト様やらクリスマスやらには造詣が深い?はずだ。いや、たいした知識はないが、クリスマスっぽいものに身近に接してから半世紀以上のベテランなのは事実だ。ポっと出のクリスマスマニア?とはキャリアが違う。

 

子どもの頃、実家の庭に植わっていた本物のモミの木がこの季節になると植木屋さん数人の手によって我が家の吹き抜けの大広間に移された。高さ3メートルはあった。そこに飾り付けをして家族や親せきも集まってワイのワイのと楽しく過ごした。

 

いま思えば凄い話だ。都内でそんなツリーが毎年毎年、家の中に用意されていたのだから富豪みたいである。そう考えると自分の娘や息子にはたいしたことをしてあげなかったことがちょっと残念だ。昔の大人たちは今の時代より節目節目のイベントに驚異的に真剣に向き合っていたのかもしれない。

 

いまの社会のあらゆる分野に漂うヌルさは、我々の世代が社会に出る頃から徐々に世間を覆うようになっていった気がする。そう考えるとヌルい世の中を作っちゃったのは我々の世代にも責任があるのだろう。ちょっと複雑だ。

 

8年前にクリスマスの思い出をアレコレ書いた話を載せる。

 https://fugoh-kisya.blogspot.com/2017/12/blog-post_18.html

 

そこでも書いていたが、思い返せば私のファーストキスは当時の彼女からのクリスマスプレゼントだった。なんだか胸キュンである。あまり覚えていないのだが、なかなかこっちから行動に移せず寒い中、公園のベンチで長々と座っていた記憶だけはある。

 

実に可愛い思い出だ。キュンキュンしちゃう。でも、あんなに純情だった私はいったいどこに行ってしまったのだろう。いまやカゲも形も鼻毛のカケラすら無い。

 

つい先日もここでは書けない変態大会を開催してへとへとになった。我ながら還暦を迎えたくせに何を血迷っているのかと頭を抱えたくなった。

 

わずか0.5秒の唇の触れ合いに世の中の時間がすべて止まったかのように感じた少年。それが私だった。あれから45年。少年の伸びしろって想像以上に凄いものだと痛感する。

 

その伸びしろを野球に向けていたら野茂投手より先にメジャーで活躍したかもしれないし、勉学に向けたらノーベル賞候補になれたかもしれない。さすがにそれはないか…。


いずれにせよ、あの頃、進む道、選べる道は数限りなくあったはずなのに私の選んだ道は何とも独特な場所に私を導いた。

 

後悔しているかと問われたら答えはノーである。いや、臨終の床でどう感じるかはまだ分からないが、少なくとも現段階ではちっとも後悔はない。トータルで楽しいことのほうが多かったのは確かだし文句を言ったらバチがあたると思う。

 

なんだかよく分からない自省録になってしまった。クリスマスというイベントはそんな振り返りをしてみるには良い機会なのかもしれない。

 

 

 

2025年12月12日金曜日

ウチメシの贅沢

 

最近は何かとバタバタで更新を怠りがちだ。一応、自分に課した定めだから週3回の更新は維持したい。でも来年あたりから週2回の更新に変更しそうな気がする…。こうやって人間はラクなほう、ラクなほうへと逃げていくことでフヌケになってしまうのだろうか。気をつけようっと。

 

さて、今日はプチ贅沢の話だ。贅沢というかワガママ極まりない私のウチメシの話を書いてみる。外食と違ってウチメシは人様の目が無い。だから何をしてもOK?である。

 

同居する娘がいる時はさすがにブレーキがかかるが、ウチに一人でいる時にはかなりフシダラな食べ方を実践している。

 

一人なのにハンバーガーを56個デリバリーしてパンの部分を全部捨てちゃって中身だけ食べるとか、並盛り4個セットなら割引キャンペーンだった牛丼のデリバリーでは、ご飯1人前に4個分の牛丼の上だけをのっけて贅沢丼にするとか、罰当たりなことに励んでいる。

 

こういう悪いクセが定番化してしまったのには切なくも悲しい私の過去が関係している。

 

というのはウソで、単に家庭人生活からオサラバしてウチの中に主婦がいなくなったことがきっかけだ。中年男のヤモメ暮らしは食生活にわびしいイメージがつきまとう。映画やドラマではたいていコンビニ弁当をチンして缶ビール片手に寂しそうに食べている。

 

そういうシャバダバな情景に身を置きたくないから私のウチメシは無軌道になっていった。レトルト食品にしても高級路線のモノを揃えて少しでもわびしさに繋がらないように努めた。

 

独身に戻ってから10年以上たった今は以前ほどのこだわりはなくなったが、それでもレトルトのカレーやハヤシはちょっと値の張るモノをあえて買ってしまう。おまけに食べる時には一気に2つ使うという暴挙?にでる。

 



先日、ウチに余っていたレトルトシチューを若者におすそ分けした。こちらとしては「レトルトなんかでゴメン」「レトルトごときで迷惑かな」みたいな感覚だったのだが、意に反した答えが返ってきた。「レトルトなんか高くて普段は買えません」という。

 

いやはや昭和人の感覚だとレトルトは“ごとき”だったのに既に時代は変わったようだ。大丈夫か、ニッポンの将来!という複雑な気持ちになった。

 

先日、ふるさと納税の返礼品としてイクラがやってきた。イクラはやっぱりドンブリ飯にドカンとのっけて食べたい。観光地で売られている瓶詰だと中身のイクラが50グラムほどしか入っていないシャバダバなものが多いが、あれではイクラ丼は無理だ。

 

ウチメシの際のイクラ丼はケチケチしてはいけない。ふるさと納税の返礼品なら実質的にタダで手に入ったものである。ドンブリ飯に150グラムはのっけてウヒウヒした気分で味わいたいものだ。高い税金を納めている自分へのご褒美である。

 



それにしても腹立たしいのが来年からふるさと納税の控除額に上限が設定される話だ。高額納税者は寄付に回せるいわゆる控除額が大きくなるのはごくごく当然の話。

 

にもかかわらず控除額が大きくなれば返礼品をもらえるメリットが大きくなる点を「金持ち優遇」だとイチャモンをつけて規制しようという話だ。

 

高所得者と高額納税者は違う。高額納税者への感謝や敬意のカケラもない話だ。年収5千万円〜1億円で控除額を打ち切りにする案が出ているので当面は大半の人に影響はない。とはいえいずれジワジワと規制の網は下がってくることは確実だろう。

 

高市政権は「責任ある積極財政」を旗印にしている。そのわりには随分と気持ち悪い発想だ。低所得者優遇ばかりを狙った積極財政では経済効果は限定的だ。経済のけん引役である所得階層をイジメ続けるなら単なる愚策だろう。

 

話がそれた。

 

ウチメシでのワガママ三昧の話だった。最近の週末はブラックコーヒーとドーナツというアメリカ人のようなパターンが増えた。今年の秋口までかなり徹底していた節制暮らしでは小麦もほぼ食べなかった。今はユルユル状態だから休みの日の午前中に頬張るドーナツの味は毎回私をウットリさせてくれる。

 


 

画像はミスドのアレコレだが、スタバのマズいドーナツと違って種類がやたらと豊富なうえにウマい。当然いろいろ食べたくなるのが人情である。

 

とはいえ、ドーナツである。せいぜい3つも食べれば満足しちゃう。それもシャクである。といううわけで大量にデリバリーしてもらってそれぞれ半分か3分の1程度づつ齧ったりちぎったりして全部の味を楽しむのが私の悪行である。

 

娘が帰宅して残骸を食べてくれると救われた気がするが、そんな救世主が表れないと、あわれ余ったドーナツは廃棄処分の憂き目に。地球環境を考えたことは一度たりともない私だが、こういうフードロスはさすがに反省する。

 

次からはすべてちゃんと食べきろうと決意するのだが、せっかく15キロも減量した努力を思い返すと心が揺れる。昔なら余裕でたいらげたのにすっかりシミったれた男になってしまった。

 

なんだか残念だ。ヘンテコな結論になってしまった。

 

 

 

 

 

 

2025年12月8日月曜日

豚の日々


相変わらず豚肉を愛しまくる日々だ。もし残りの人生で食べられる肉類を一つしか選べないとしたら迷わず豚肉を選ぶ。それを尋ねられてから0.3秒ぐらいで「豚肉!」と即答する自信がある。

 

今年も随分と豚肉を味わってきたが、もっとも印象に残ったのは夏に北海道のエスコンフィールド近くの某フードコートで食べた「ぶたはげ」という店の豚丼だ。ウマくてウマくて泣きながら食べた記憶がある。さすがに泣いてはないが。

 



前から不思議に思っているのが「豚丼」の社会的地位だ。ウマい豚丼屋は都内にもいくつかあるが、ラーメンやカレー、はたまたファストフードの牛丼に比べて人様の話題に上ることは滅多にない。

 

日本人に染みついている「牛が上、豚は下」みたいな固定観念のせいだろうか。だとしたら実にもったいない話だ。豚丼の魅力に気づく人がもっと増えたら、いずれカレーや牛丼みたいな一種の国民食になりえるポテンシャルはあると思う。

 

今すぐにでも本場・帯広に行って豚丼を攻めたい気分だが、さすがに12月は寒そうだ。来年こそは帯広に何日も滞在して豚丼屋めぐりだけに励む旅をしてみたい。

 

さてさて、先日、銀座にある「華連」というJA鹿児島が直営するしゃぶしゃぶ屋さんに出かけた。狙いは黒豚である。この日はしゃぶしゃぶではなく「せいろ蒸し」を選択。

 



 個人的には豚肉だけが良かったのだが、同行者の意向もあって黒牛と黒豚のミックスを選ぶ。当然、牛は同行者にすべて任せて私は黒豚を担当した。肉を上、下に野菜のせいろを重ねることで肉の旨味が野菜に滴り落ちる仕組みだ

 




この歳になると余計な脂を落とした肉には愛しさを覚える。その優しさに惚れてしまう。とか言いながら私の正体は“トンカツ野郎”でもあるので、せいろ蒸しの他に黒豚の厚切りロースかつも注文した。

 

せいろ蒸しが脂を落としちゃうなら脂を補給しないとダメ?である。だいたい二段せいろの野菜のほうは私にとっては敵である。肉の旨味や脂をまとったとはいえ野菜は野菜である。野菜の上に落ちてしまった脂分を補給するにはヒレカツよりロースカツを選ぶのが正しい。

 


 

トンカツを肴に芋焼酎をロックでちびちびやるのが私にとっては至福の時間である。同行者に野菜を担当してもらい私はせっせとヒレカツと芋焼酎でウヒウヒしていた。ハッピーだった。

 

銀座で豚肉といえば中学高校時代の後輩が経営する「美らしゃぶ亭」がある。日本中の豚肉の中でも特にウマい「パイナップルポーク」を知ったのもこの店だ。

 

オーナーである後輩は銀座で豪快に飲み歩くタイプの男。毎日のように銀座の飲食店にお金を落とすのがもったいない?という理由で自ら出店した店だ。その後輩は今は体調を崩して引っ込んでいるため最近は彼の店を訪ねる機会が減っていた。

 



 先日、久しぶりに行く機会があったのだが相変わらずパイナップルポークのしゃぶしゃぶは絶品だった。通常の牛肉しゃぶしゃぶの専門店に行くより高くつく。でも私にとっては高級牛肉よりこちらの豚肉のほうが美味しいのでそれも仕方ない。

 

ちなみに我が家の冷凍庫にはパイナップルポークを常備している。生姜焼き用の切り身、しゃぶしゃぶ用の薄切りなど数種類が揃っている。無くなりそうになると慌ててふるさと納税サイトを開いて追加注文している。

 

今年は過去になく節制に励んだ一年だったが、そんな中でも豚肉は私をサポートしてくれた。節制に挫折しそうになると訪ねたのがモツ焼き屋だ。茅場町の「紅とん」には何度足を運んだだろう。

 

いつも生グレープフルーツサワーかホッピーを片手に太らなさそうなツマミをたくさん頼んで空腹をしのいだ。まずはオニオンスライスやワカメポン酢、梅きゅうなどで空腹を落ち着かせる。

 

その後は豚肉類をあれこれ頼んで炭水化物や揚げ物は控えて過ごした。純レバや肉モヤシ炒めのおかげで体重は順調に落ちていった。安い店だから肉モヤシ炒めも「ほぼモヤシ」である。節制には最適だった。

 



そんな食べ方をしていれば割と簡単に腹はふくれる。串モノは34本もあればしっかり満足できた。今も不摂生モードに陥りかけるとこの店に行ってオニオンスライスとワカメポン酢から始める。

 

生グレープフルーツサワーのグレープフルーツが鼻くそ程度にしか入っていないのがシャバダバだが、おかげであんまり美味しくないから飲み過ぎないで済む。逆に有難い。

 

こんな話を書いていたらナゼか無性にカツサンドが食べたくなってきた。豚肉愛好家にとっての“スーパーおやつ”である。先日も深夜に銀座のバーで酔いにまかせて食べてしまった。ウイスキーと妙に相性が良いので深夜の銀座のバーは危険である。




いかんいかん、最近はキックボクシングジムに行く機会が減ってきたし、肥満の道に舞い戻りそうな気配が漂っている。12月はただでさえ会食の機会が増える。やはり、ここは大衆モツ焼き屋に行って肉モヤシ炒めでしのいでおこう。







 

 

 

 

 

2025年12月5日金曜日

たまごの日々


わが家に常備している生卵は大分県の「蘭王たまご」だ。この味が大好きで定期的に取り寄せている。購入するにしても他のブランド卵より手軽な値段なのだが、私は毎月のようにふるさと納税の返礼品として入手している。


TKGはもちろん目玉焼きにしてもウマい。ゆで卵も頻繁に作る。ゆで卵はトリュフ塩をまぶして食べるだけでご馳走になる。

 

このタマゴを知ったのは銀座にある「串銀座」というお店だ。15年ぐらい前から時々訪ねている。お目当ては温玉である。温玉以外は正直普通だ。温玉を4回おかわりしたこともある。

 

先日、久しぶりに訪ねたのだが、温玉と鳥刺し、温玉そぼろ丼しか記憶にない。当然、串ものや他の料理もアレコレ出てきたのだが、酔っていたから温玉の印象ばかり残っている。

 




 

刺身はハツやレバーなど内臓系が嬉しい。モモやササミの刺身は同行者に譲って“コレステローラー”ならではの時間を過ごした。

 

話は変わる。わが家の定番料理が「目玉焼きまぜまぜご飯」である。子どもの頃、せわしない朝に母親が即興で作ってくれた私のソウルフードでもある。硬めに炊いたウマいご飯を使うのが鉄則だ。

 

フライパンに油を少し多めに入れて作った目玉焼きをご飯にグチャグチャと混ぜる。そこにウスターソースを適量投入すれば完成である。至極簡単だがこれが非常にウマい。

 



完成画像である。美味しそうには見えないかもしれないが、騙されたと思ってトライしていただきたい。延々といくらでも食べられるレベルだ。

 

これにももちろん蘭王たまごを使う。黄身の味が正しく濃いから混ぜ混ぜ状態になっても間違いなく美味しい。コメは山形の「雪若丸」か「つや姫」をかなり硬めに炊く。ウマいコメあっての一品だ。

  

たまごもコメもふるさと納税で取り寄せているから事実上無料だ。贅沢どころか究極の倹約メシだと言えなくもない。こだわった食材を実質タダで楽しめるわけだから皆様も年内にふるさと納税のワクを使い切らないと損だと思う。

 

話がそれた。

  

投入するソースはブルドックの「スーパープレミアムソース」一択である。凝り性の私は目玉焼きまぜまぜご飯のために数々のソースを試してきたが何だかんだいってこのソースが一番だ。名前が大げさなところが気に入らないが、これしか使わない私にとってはやはりスーパープレミアムなんだろう。




ハムエッグ、ベーコンエッグも時々作る。蘭王たまごに合わせるにはハムやベーコンにもこだわりたい。私が頻繁に使うのが北海道の「大金ハム」というメーカーのハムやベーコンだ。

 

都内に店舗はないのだが、毎月のように都内のデパートや物産展に出店している。マメな私は予定表にそれらの日程を書き込んでいる。銀座や日本橋の三越など自宅から近いエリアに出店する際は必ずと言っていいほど買いに行く。

 



長い一本状態で販売されている「大金ハム」特製ベーコンをぶつ切りにして目玉焼きと一緒に焼いた一品である。ベーコンエッグという平凡極まりないものも自分がこだわった素材で作ると途端にゴージャスに思えてくる。

 

これにもスーパープレミアムソースを合わせるのが基本だが、時にはちょっとアレンジもする。ソース7、ケチャップ2、マヨネーズ1ぐらいの割合であらかじめ混ぜ合わせた謎の専用ソースを作ってベーコンエッグに合わせる。なかなかエロティックな味になる。

 

誰の参考になるかさっぱり分からない話を書き殴ってみたが、平凡な家メシひとつとっても“大人のこだわり”を徹底してみるとちょっとした幸せを感じる。平凡な日常にアクセントが加わって悪くない。

 

 

 

 

 

 

 

 

2025年12月3日水曜日

過去ネタ

 更新が間に合わなかったので過去ネタを一つ載せます。ストレスは万病の元だから関わる人にはつくづく気をつけたいと思う。


愉快な人








2025年12月1日月曜日

ウーバー頼みの暮らし


11月の1ヵ月でウーバーイーツの利用回数が25回、支払いも10万円を超えていた。我ながらビックリである。こういう無駄が多いからいつもピーピーしているのだろう。童話「アリとキリギリス」でいえばキリギリス間違いナシである。

 

食事のデリバリーだけでなく、日用品や食料品、雑貨をコンビニやスーパーから持ってきてもらうことも多いが、大半は“横着メシ”をデリバリーしてもらう。

 

最近のお気に入りが「餃子の王将」だ。ちっとも富豪っぽくないが、ヘタな高級料理店の料理よりも私を喜ばせてくれる。11月は5回以上頼んでしまった。

 



かに玉をしょっちゅう頼んでいる。もともと天津飯を注文した際に味付けが「甘酢」か「塩」か「京風」の3種類から選べることを知ったのがハマったきっかけだ。


かに玉は天津飯のご飯抜きだ。本当は天津飯をかっこみたいのだがデブ予防のために我慢して「かに玉(甘酢)」にしている。

 

天津飯は東京人にとっては由々しき問題を抱えている。甘酢味が絶滅危惧種みたいになっていることがそれだ。昭和の頃、町中華で出てくる天津飯は甘酢あんかけが定番だった。初めて食べた時に何とも言えない劇的かつ官能的な味わいに興奮した記憶がある。

 

私にとってはアノ甘酢味こそが天津飯そのものである。イマドキはナゼかダシ醤油あんが主流になっているが、個人的にはあれが苦手だ。甘酢味のつもりで注文したのに醤油味やら塩だれ味に当たると物凄く落胆しちゃう。

 

詳しいことは知らないが、もともと関西で天津飯といえば甘酢ではなく醬油ベースのあんで作られていたらしい。どうやら天津飯の世界も「西からの攻勢」にすっかりやられてしまったようだ。

 

ここ20~30年ぐらいで東京の味は随分と関西風の味付けにとって変わられてしまった。天津飯も例外ではないらしい。確かに妙にインパクトのある甘酢あんよりダシ醤油系のほうが味の収まりが良いのは理解できる。

 

でも、でもである。私にとってはダシ醤油の天津飯は面白いところが一つもない映画を観ちゃったような残念な気分になる。甘酢味だと全盛期のツービートの漫才を観たような痛快な気分になる。その違いは大きい。

 

そういう点で「餃子の王将」の天津飯、かに玉には感謝している。甘酢味を堂々と選べるのは私にとっては憩いそのものである。麻婆豆腐も日本風?で美味しいし、ホイコーローや酢豚あたりも昔ながらの町中華の王道みたいな感じで安定感がある。

 



揚げ麺の焼きそばも好きだ。麺とあんかけが別々に運ばれてくるのだが、あんかけがあり得ないほどテンコ盛りだ。麺は3分の1ぐらいで充分。


結果、揚げ麺が脇役みたいになり具材ばかり食べるからヘルシーな一品になる。私はこれにアホみたいにお酢をドバドバかけて食べるのが大好きだ。画像は揚げ麺を三分の一、あんかけを半分ぐらいだけ盛った状態。

 

「餃子の王将」の回し者みたいになってしまったが、ほぼ同じ名前?の関西系のチェーン店より私はこちらのほうが好きだ。あちらの天津飯は醤油ベースらしいので論外である。ファンの方、すいません!

 

中央区に住んでいるとウーバーで頼める飲食店は星の数ほどある。日本橋、銀座あたりの有名レストランもたくさんあるが、デリバリーを頼むのは定番のチェーン店が多い。包装や容器等々、手慣れた感じ、こなれた感じで安心できる。個人店だと時折とんでもない包装で料理がグチャグチャになっていることもある。

 

温め直しても楽しめるモノを選ぶのがデリバリーを考える上でのポイントだ。麺類はそもそも厳しいし、ドンブリ系でも汁を吸ったご飯は時間がたつとシャバダバだ。なか卯や松屋あたりだと具材とご飯が別盛りで来るものもあるから温め直しても美味しく食べられる。

 

週末の朝に食べたくなるドーナツもちょっとだけレンチンするだけで抜群に美味しくなる。ブラックコーヒーと合わせて少し暖めた甘々なドーナツを頬張るのは至福の時間だ。5万、10万の極上料理を食べることに比べても負けないぐらい幸せを感じる。

 


 

わが家からだと「クリスピークリームドーナツ」が最速で届くので主にそこを利用していたのだが、最近は「ミスタードーナッツ」に宗旨替えをした。単純にミスドのほうが美味しい。甘くないクリームシチューパイみたいなメニューもあるから使い勝手も良い。

 

60歳になって嬉々としてドーナツに感激しているのもヘンテコだが、味覚が年々子供帰りしている感じがするので今の私には欠かせない食べ物の一つだ。

 

本当は「ハリッツ」という知る人ぞ知るウマいドーナツ屋さんから運んできてもらいたいのだが、そこは昼近くにならないと開店しない。「ドーナツは朝飯」と決めている私とはタイミングが合わないのが残念だ。

 

いずれにせよ、レンチンしてコーティングが少し溶けちゃったドーナツで手がベトベトになってオタオタするのが今の私にとっては幸せな時間だ。

 

 

 

 

 

 

2025年11月26日水曜日

ライブ終了、伸びしろは…


わがオヤジバンドの還暦記念ライブが無事終わった。2012年にバンド活動をヨチヨチ始めて十数年、我ながら随分とこなれてきた実感がある。

 

今年は16曲の演目のほか、小ネタもアレコレ入れて2時間半ほどのステージだった。例年より緊張せずに乗り切れたのには大きな理由がある。

 

我がバンドのライブの2週間前に友人が参加しているバンドの演奏を観に行った。会場はたまたま我々と同じライブハウス。何度も使っている場所だが客として訪ねたのは初めてだった。一緒に行ったバンド仲間と開演前から楽しく飲みながらもろもろ観察してみた。

 

そこで気づいたのだが、お客さんたちは酒を飲みながら気ままに好き勝手に過ごしている。プロの公演なら身構えてステージに集中するのだろうが、素人バンドのライブでは様子が違う。一緒に来た人同士で一種の飲み会的に利用している感じだ。

 

もちろん、演奏が始まればそっちに意識は向く。とはいえ気ままに向き合っている感じは変わらない。極端に言えば楽しく過ごしている場所でバンド演奏がBGMみたいな役割になっている感じとでも言おうか。

 

BGMみたいなどと言うとさすがに極端過ぎるが、少なくともプロの公演のように一音一音聞き逃すまいと真剣に没頭する感じとはちょっと違うのは確かだ。

 

なんてったって私自身がそんなノリで友人のライブを観ていた。ハマショー師匠のライブに行くのとは大違いである。でもそれが逆に楽しかった。なんとなくラフな感じで肩に力も入らず心地よく過ごせた。

 

会場の雰囲気がそうならば演者側として過剰に緊張するのはバカみたいである。気ままに楽しまなきゃ損。当たり前の話だが、気づいたのはこの真理である。単純なことかもしれないが心からそう思えたことは大きな収穫だった。

 

例年、とくにオープニングからしばらくはムダに緊張しまくって頭の中が白くなるほどだったが、今年は違った。


共感性羞恥心という言葉もあるぐらいだから緊張感だって客席に伝染しちゃうはずだ。開き直って自分が楽しんだほうが会場も和む。そんな意識を今まで以上に強く持って当日を迎えることが出来た。

 



オープニングはロッキーのテーマ。我がバンドの腕っこきメンバーがカッチョよく奏でている途中でボクシンググローブを着けてステージに登場してみた。ウケ狙いというよりあくまで「そんなノリの集いですよ」というデモンストレーションである。カッコつけて登場するよりクダけた雰囲気が優先だ。

 

例年、一曲目の歌い出しに異常に緊張感を覚えるのだが、今年はインストゥルメンタルからのスタートだったからラクチンだった。おかげでМCの流れも順調で全体的にメンバーの演奏も大きなミスや破たんも皆無だった。

 



過剰な緊張感とオサラバできたことは還暦の効用もあるかもしれない。過剰に緊張することは自意識過剰が原因でもある。さすがにこの歳になれば「まあ、いいか」的な鈍感力が増してきた。もちろん人からどう見られているかは気になるが、以前ほど意識しなくなった。加齢バンザイ、華麗なる変身である。

 

歌詞を間違えた個所もいくつかあったが、適当な言葉を入れたり、別の部分の歌詞に逃げたりしてウマく凌げた。このあたりも経験の積み重ねによる“加齢力”である。

 

正直言うと、還暦記念ライブを節目に個人的にはバンド活動をやめようと考えていた。いろいろ思うところもあり、また、当初は3人だったメンバーが総勢11名という大所帯になってしまったことで諸々の不都合も感じるようになっていた。

 

もっと言えば、アコースティックギター2本だけの3人組からフルバンドに進化して広範囲のジャンルの楽曲をこなせるようになったことで“天井感”みたいな感覚も生まれた。すなわち、やり切った感じというか伸びしろが伸び切っちゃったような気持ちになっていた。

 

なんだかエラそうな書きぶりだ。いずれにせよ今回のライブ直前まではそんな気分だったが、無事に還暦記念ライブを終えた今になってムクムクと次への野望?を感じ始めている。

 

メンバー間でカドがたたない範囲で私が抱えていたストレスの部分を積極的に潰していこうと思っている。一昨年、昨年、今年とわがバンドのライブの盛り上がりはかなりのレベルになってきた。素人オヤジバンドにしては結構な水準にあると思う。

 

これをゼロにしちゃうのはさすがにもったいない。私が感じているストレスを潰すことで、今後、今よりも盛り上がるライブを実現させる自信もある。もちろん、他のメンバーが同意してくれればの話ではある。

 



バンド活動はもちろん趣味であり遊びだ。でも趣味や遊びだからこそ本気度をもっと高めたらますます面白くなる可能性はある。人生後半戦、せっかく続けてきた「得難い経験ができる遊び」だ。もっと気合を入れて向き合うのも悪くない。

 

伸びしろが伸び切っちゃったと書いたが、斜めや横にはまだまだ伸びしろは残っている。そんなことに気付いた今回のライブだった。

 

ご来場いただいた方々にはこの場を借りて改めて御礼申し上げます。