2025年6月27日金曜日

魔性の女

 夏風邪になってしまったり機種変したスマホがトンチンカンだったりと何かと不調で更新をサボってしまいました。


というわけで「魔性の女」についてアレコレ考察した過去ネタを載せます。


https://fugoh-kisya.blogspot.com/2012/03/blog-post_30.html




2025年6月25日水曜日

黒歴史

 サラダと名前がついていれば全て野菜っぽい健康的な食べ物だと信じて疑っていなかったバカな私の過去ネタです。


https://fugoh-kisya.blogspot.com/2016/06/blog-post_17.html




2025年6月23日月曜日

タマゴの世界

 

タマゴの世界は奥が深い。外食の際などテキトーなタマゴを無頓着に食べがちだが、ウマいタマゴとマズいタマゴの差は思った以上に大きい。あまり神経質になるのもイヤだが、家で食べるならそれなりにタマゴにはこだわりたい。

 

食料品など日常の買い物はたいていネットスーパーで済ませてしまう私だが、タマゴは単純に高い商品を選ぶ。高いといっても6個入りで500円~800円ぐらいだ。ごく普通の10個入りパックに比べて23倍の値付けだが「なんとなく安心」をその値段で買っているような気がする。

 

廉価品より高いほうが味が濃い目だ。というか、安いタマゴには味がない。大量生産の廉価品はニワトリのタマゴというより一種の工業製品だという指摘もある。文明が進んだ今の社会で、ましてや都会暮らしをしていると本来のタマゴの味など分からなくなるのかもしれない。

 

高い値付けのタマゴもすべてウマいわけではない。なかにはさえない商品もある。とはいえ、鶏の飼育環境や餌にこだわっているらしいので「なんとなく安心」して食べている。

 

TKG、すなわちタマゴかけご飯を家で食べる時はコクや旨味が強いタマゴを選びたい。専用醬油もずいぶんと試してお気に入りを常備している私としてはその点にはこだわりがある。

 

最近のお気に入りは大分県で作られている「蘭王たまご」だ。通販でも買えるが、ふるさと納税の返礼品として頻繁に取り寄せている。返礼品だと最低単位が20個なので賞味期限内に食べきれないこともあるが、その場合は茹で卵をいくつも作り置きして間食用にしている。

 




「蘭王たまご」は単純明快に美味しい。コクや旨味が格段に強い。オレンジ系の黄身も美しい。通販の単価も凄い高値というわけでもない。これより高い値付けのタマゴも高級スーパーに行けば珍しくないが、私の経験ではそうした高級品よりもウマいと感じる。

 

TKGはもちろん、目玉焼きにしても茹で卵にしてもそこらへんでテキトーに買うタマゴとは一味も二味も違う。ベーコンエッグを作ってみてもタマゴの主役感が強い。

 

もともとこのタマゴの存在を知ったのは銀座の焼鳥屋さん「串銀座」でのこと。一品メニューの温玉に感激して4回おかわりしたこともある。ツマミだけでなく温玉を乗せたそぼろ丼も食べたくなる。このブログでも何度か書いてきたネタだ。

 

銀座界隈には焼鳥屋は星の数ほどあるが、私がこの店をリピートするのは単純に「蘭王たまご」を食べたいからだ。店側は焼鳥やそのほかの鶏料理を一生懸命作ってくれるのだが、私の目当てはあくまでタマゴだ。そんな本音は店主には内緒だ。

 




これが温玉そぼろ丼の画像だ。黄身の色が実にウマそうだ。実際にウマい。これが味がしっかりしたそぼろと相まって幸せな味になる。白米を永遠に食べられそうな気がする。

 

自宅ではそぼろを作ったり絶妙な温玉に仕上げたりするのが面倒だからもっぱらTKGを満喫している。時々は目玉焼き、もしくは茹で卵にして味わっている。

 

茹で卵の場合、沸騰したお湯に7分半程度、緩めの半熟が私の好みだ。黄身がちょっとこぼれそうなぐらいな状態でトリュフ塩を一振りしたらそりゃあもう悶絶である。

 

たかがタマゴ、されどタマゴである。自分の好みのタマゴを見つけて思い入れたっぷりに味わうことは日常にちょっとした彩りを添えてくれると思う。

 

 

 

 

 

2025年6月20日金曜日

アッパレ!カツ丼

 

何かとバタバタで更新が怠りがちだ。たいして忙しいわけでもないのに何事においても集中力が衰えてきているのだろうか。とりあえず暑さのせいにしておく。

 

思えば、私の世代は小学校、中学、高校にエアコンなど設置されていなかった。夏は下敷きを団扇代わりにするだけでしのいでいた。おまけに部活は水飲み禁止の時代だった。いま思えば違う星の話みたいに感じる。

 

40年以上も前のことだから確実に気象状況が変わったのだろう。ゲリラ豪雨なんて言葉もなかったし、熱中症という言葉も一般的ではなかった。時々、日射病で医務室に行くヤツがいる程度だった。

 

そう考えるとこれから30年、40年先はどこまで地球は暑くなるのだろう。こちらは死んじゃうから構わないが、今の若い人が私の年齢になる頃には異常な気温の中で暮らすようになるのだろう。お気の毒だ。

 

さて、話は変わる。

 



最近、やたらとカツ丼を食べたい気分になる。もともとトンカツが大の好物なのだが、カツ丼とトンカツの関係は考えてみれば不思議だ。派生形と呼ぶには随分と様相が変わる。

 

トンカツといえばソースである。ニッポンの洋食の大定番として誕生したトンカツに合うように日本人が開発したのがトンカツソースという崇高な調味料である。トンカツソースあっての料理ともいえる。

 

時々「お塩でどうぞ」やら「おろしポン酢も合いますよ」みたいな余計なことをいうお店もあるが、あくまでトンカツはあのソースあってこそ完成する食べ物だろう。

 

対するカツ丼はソースのソの字も感じさせない仕上げ方なのにそれはそれで別次元のウマさに到達している。地域によってはソースカツ丼が定番であるケースもあるが、ここでは卵とじで麺つゆを基本にした古典的カツ丼に絞って語る。

 

トンカツソースという絶対的エースに背を向けて、おまけに揚げ物本来のウリである食感さえ無視して出来上がるのがカツ丼だ。脇役であるタマネギも絶妙なマッチングをみせる。原点であるトンカツにはキャベツこそ付いてくるもののタマネギが同席することはない。思い切った「進化」を遂げたものだと思う。

 

詳しいことは知らないが、街場のお蕎麦屋さんがカツ丼文化を発展させたことは間違いない。親子丼、天丼しかりでアノ麺つゆの味わいをコメの世界にも広げてくれた功績は素晴らしいと思う。

 

そんなことをシミジミ感心しながらカツ丼を頬張っている人はいないだろうが、トンカツ専門店で普通のトンカツ定食とカツ丼を両方注文してみると、ウマいものを追求してきた先人たちの努力に敬意を払いたくなる。まるで王・長嶋の「ON砲」にも匹敵する文化遺産的2大巨頭のように思える。

 



いつだったか、銀座のトンカツ屋さん「梅林」でカツ丼の上級バージョンを注文したことがある。かっ食らおうとしたら隣から妙に熱い視線を感じた。二人連れの外国人観光客からの「ガン見光線」だった。かれらは普通のトンカツ定食を前に喜色満面だったのだが、隣に座った日本人が食べようとしている得体の知れないドンブリものに心を奪われたかのような顔で覗き込んでいた。

 

偏屈な私は彼らにカツ丼を解説してあげることもなくスカした様子で「こっちはそんな平凡なトンカツなんてしょちゅう食ってるんだよ。たまには高級カツ丼も悪くないぜ、キミらにはまだ早いんじゃないかな」と横顔で語ってみた。

 

外国人からみれば生の卵黄まで乗っかったナゾのカツ料理はニッポンの神秘に映ったのではなかろうか。いや、彼らの目にはゲテモノに見えたのかもしれないが真相は不明だ。

 



この画像は函館のみに展開するファストフードの「ラッキーピエロ」のカツ丼だ。こういう気候になってくると私にとって第二のふるさととも言える函館に行きたくなる。函館といえばウニ丼、いくら丼がエースだが、今の私はラッキーピエロのカツ丼が妙に恋しい。

 

最近は節制を基本にしていたので、カツ丼を食べる際にも上ばかり食べてご飯をほとんど食べないという人の道に外れたことばかりしている。

 

でも、一説によると75日にはみんな死んじゃうかもしれないようなので、そんなバカげた食べ方をしている場合ではない。上はロースとヒレのダブル、ご飯も大盛り、そんなカツ丼を夢中になって食べたい気分である。





 

 

 

 

2025年6月16日月曜日

トマトすき焼き


肉だけ食べていれば太らないという都市伝説のような話をよく聞く。素直に信用する気にはならないが、きっと何かしら根拠みたいなものはあるのだろう。

 

信じる者は救われる精神で私も肉だけをムホムホ食べる機会が増えた。牛より豚のほうが好きなので我が家の冷蔵庫や冷凍庫には豚肉ばかり保管されている。

 

ふるさと納税で取り寄せている沖縄のパイナップルポークは旨味たっぷりでヘタな牛肉を食べるより幸せな気分になる。ネットスーパーで買い物をする際も鹿児島産黒豚の一点買いである。ちゃんとした豚肉は誰が何と言おうと牛肉よりウマいと言い切ってしまいたくなる。

 

かといって牛肉をまったく食べないわけではない。下の画像は暇な時に作ってみた自家製牛丼である。以前、ネットでみたレシピで作った豚丼が美味しく出来たので、似たような感じで牛丼にもトライした。

 



 結果はイマイチ。味自体は悪くないのだが使った肉のせいか固くなってしまった。やはり脂身の多いバラ肉じゃないと牛丼らしさは出ない。結構良い肉を用意した時点で選択ミスだったわけだ。

 

話は変わる。某日、京橋にある日本料理屋「婆娑羅」に行く機会があった。1年ぶりぐらいだろうか。トマトすき焼きをウリにした店だ。

 

ウマいトマトを使うだけでなく、牛肉のほかはタマネギしか具材が用意されていない点が私には嬉しい。白菜やネギやシラタキの姿はそこにはない。私の天敵である春菊もない。なかなか素敵だと思う。

 


 

すき焼きの前には箱に詰められた八寸が出てくる。これが毎度美味しい。正統派日本料理店の技量が凝縮されている感じだ。

 

この日はそのほかにカラスミや酒盗を頼んでのんびり一献。八寸を始めこういうチマチマしたツマミを突つきながら過ごすのが嬉しい。

 


 

すき焼きはお店の人が作ってくれる。トマトがやたらと美味しい。看板商品だけのことはある。肉汁をまとったタマネギとトマトだけ食べていても満足しそうだ。

 

すき焼きの肉は普通の和牛と松坂牛が用意されている。いつも普通のほうが食べたいのだが、ここに来るのはたいていが‟おもてなし”の時だから上級バージョンである松坂牛を注文してしまう。私にはちょっと重たい。

 




肉をつける卵が温かい状態で出されるのも悪くない。こういうひと手間が日本料理の細やかさである。外国人観光客だったらきっといちいち大げさに感動するような気がする。

 

トマトすき焼きのシメはパスタである。こちらもお店の人がその場で仕上げてくれる。すき焼き鍋の残り汁をベースにしたアルデンテの平打ち麺だ。食べる際に残った卵汁を適量追加投入することで得も言われぬニッポンのパスタになる。

 



内装も高級感があってゆったりできる。銀座あたりにあったらもっと混むはずだが、京橋という立地のせいか夜の時間帯は大混雑していることが少ないのも良い。穴場だと思う。

 

トマトすき焼きだけでなく、この店で出すトンカツも非常に美味しい。でも、前に来た時にトンカツのせいですき焼きの肉やシメのパスタにゲンナリしちゃったことがあるのでこの日はパスした。

 

ウマいトンカツがあるのを分かっているのに注文しなかった自分が残念である。節制という言い訳のせいで自分の魂が弱っていくみたいである。

 

「つまらない大人にはなりたくない」と歌っていた佐野元春のガラスのジェネレーションでも聴き直して反省しようと思う。

 

 

 

 


2025年6月13日金曜日

胃袋の大きさ

 

節制を意識するようになって3か月ほどが経った。目的だった倦怠感退治にはどうやら成功した。「適度な運動、適切な食事」という厚生労働省に褒められそうな暮らしを実践していたらかなり元気になった。体重も10キロ以上減った。

 

ダイエットをしていた自覚はないのだが、10キロも減量に成功すると変な欲が出てきて、今の私は単なるダイエットオジサンと化してしまった。ちょっと問題である。

 

何が問題かって目指すべきゴールを設定していない点である。今だけだとは思うが前ほどの空腹感を感じない状態だから、これ幸いとばかりに体重減を目指してシャバダバな食生活を続けている。

 

ベルトやズボンがおかしなことになってきたから適当に切り上げないと面倒だ。ゆるゆるズボンをベルトで締め上げている姿は上着を着ていれば目立たない。でも、いよいよ暑くなってきたからスーツの上着は脱いだ状態になる。「身体に合っていない服を着たダサいオジサン」である。

 

いっそのこと100万ぐらい投下してスーツを何着か仕立て直そうと思うのだが、過去の人生でリバウンドしなかったことは一度もない。さすがに勇気が出ない。思い切って持っている衣類をすべて入れ替えするぐらいの根性がないことが私の凡人たる証である。

 

減量生活といってもサラダばかり食べるような寂しい生活はイヤだ。キチンと?ジャンクフードも食べたい。先日はサムライマックのトリプル、すなわち肉3枚バージョンとビッグマックの倍バージョンをデリバリーして食べた。もちろん、パンはすべて排除するというヘンテコな食べ方である。

 

サムライマックの肉はバーガーキングの肉のように割とマトモだから3枚版を味わっていると良い感じのハンバーグを堪能している気分になる。

 

倍ビッグマックは肉4枚だが、こちらは「マック標準肉」だから4枚だろうと肉々しい感じはない。そういえば大昔の「猫肉騒動」を知っている人はみんなすっかり年寄りになった。

 

一応、マックの肉を7枚という贅沢?な食事ぶりだが、パンを除くとズッシリ感も満腹感もないし、実際に翌日に体重が増えることもなかった。

 

話は変わる。減量といえどもウナギを無視する生活は私には無理だ。大好物まで絶つようなストイックさは無いので最近も何度かウナギ大会を開催した。

 

さすがに鰻重のご飯を少なめにしてもらうようにはしている。なんなら「少な目で」ではなく「極少で」と頼む。鰻重の前に白焼きやその他のツマミも食べるからシメのコメまでバンバン食べるわけにはいかない。

 


 

おかげで鰻重の画像もこんなに寂しげだ。これは銀座の「神田川」での画像。胃が小さくなりつつある私はこれでも結構満足できてしまう。暴飲暴食の人生をウリ?にしてきた私としては実に寂しい話だが、今はちょっとだけ我慢の時である。

 

別な日、日本橋の「大江戸」に出かけた。この店の鰻重はランクが6段階ぐらいに分かれている。最上級の「極上」はそれこそ飽きるほどのウナギがモリモリである。10年、いや5年、いや3年前ぐらいまでは常に「極上」を食べていた私だが、この日は下から2番目のサイズにした。

 

減量、節制に関係なくここ12年は「極上」のボリュームを厳しく感じている自分が残念である。これが還暦間近の現実だろうか。この日も同行者に食べさせた極上を前に私のウナギはチンマリしていた。

 



別な日、自宅で大豆ハンバーグなるものをムシャムシャ食べた。そんなものを買ってしまう自分がちょっとイヤだが、実はこれは節制目的で買ったのではない。だいぶ前に近所にある宮城県の物産特売所みたいな店で味見したところ妙にウマかったのでまとめ買いをした。

 

ずんだシェイクを飲みに行っただけなのに余計な買い物をしてしまった。試食コーナーの魔の手にやられた。プレーンな状態でも薄く塩味はついていたが試食の際はマヨネーズをつけた状態で出された。マヨ好きな私は一気に心を鷲掴みされて買ってしまったわけだ。




 正直言うと買ったはいいものの冷凍庫の中で眠ったままだった。我が家には他にもウマいものはいろいろあるから大豆ハンバーグという不気味なヤツの出る幕はなかったわけだ。同じシリーズのいわしハンバーグも冷凍庫に眠っている。

 

先日、冷凍庫を整理するついでに存在を思い出して一度に大豆ハンバーグを3枚ほど食べてみた。マヨ醤油とマヨソース、そしておろしポン酢をそれぞれ小皿に用意してとっかえひっかえ味変して味わった。

 

単純にウマかった。幸福感を感じるほどウマいわけではないが、サラダチキンをかじるよりもマトモな食事をしている気分になれた。これはこれで悪くない。

 

よくよく考えたらマヨネーズがウマいというだけの話かもしれない…。

 

 

 

 

 





2025年6月9日月曜日

未知の場所


好奇心は歳とともに弱まっていく。ついつい自分の知っている範囲の中で安穏と過ごしがちだ。それに問題があるわけではないが、やはり知らない世界を覗くことは刺激になる。

 

もともと私は社交的ではない。人当たりは良いほうだと思うが、進んで新しいジャンルに足を踏み出すことは苦手なほうだ。このままでは「内向的ジジイ」というタチの悪い生き物になっちゃいそうだから気を付けないといけない。

 

先日、医療関係のイベントというか、シンポジウムのような集まりに参加してみた。主催者である旧友への義理みたいなつもりで出かけたのだが、なかなか面白かった。旧友の誘いがなければ知らなかった世界である。

 



その名も「医療は人生を手術する」と題するガンマナイフ開業30周年を記念したイベントだ。ガンマナイフとは「切らずに切る」ことを可能にした治療法で放射線の一種であるガンマ線の照射で脳腫瘍の患部などを切除するもの。

 

この第一人者である某医大教授が中学高校の同級生で、大人になってから何かとお世話になる機会があった。彼自身、過去に大病をした経験があるせいで患者目線をとても大切にする人格者だ。

 

彼の講演を聞いていると「医者と患者」の在り方を根っこから考え直したくなる。漠然と医師の言いなりになってしまう患者は多い。私もそんな傾向がある。専門家相手に門外漢がアレコレ言うのはどうかという一種の常識が邪魔をしてしまうわけだが、はたしてそれは双方にとって良いことなのだろうか。

 

友人の医師は「患者は医師にもっと意見を言うべき」と主張する。そうは言っても一般の患者にとってそれは簡単なことではない。でも彼いわく「何がしたいのか、どうなりたいのかを教えてほしい」という。

 



すなわち、制限はつくにせよ治療後に趣味の山登りを続けたいのか、楽器演奏を続けたいのか、具体的にどんな目標を目指して治療後を生きていきたいのかを共有して、それを実現させるための方策を建設的に考えたいという趣旨である。

 

活字で書いてしまうと当たり前のことのようだが、実際にはエラそうな態度の医師は多いし、大病院では初診の患者と目も合わさない医師もいるぐらいだから、そんな本来は当たり前のことを強く主張する彼の意見が新鮮に思えた。

 

「医者だって一瞬で患者になる」。重い病気を経験した彼の言葉には説得力がある。患者という存在は言い換えれば正常な状態ではない人である。丁寧に接して欲しいといった表面的なことも大事だが、それ以上に本来はその人は何をしていて何がしたくて、どのように生きている人物なのかを共有することが基本中の基本だと痛感した。

 

学会のような堅苦しいイベントかと思って出かけたが、途中でシャンソンを聴く時間があったりフィナーレは会場に集まった数百人がナゼか「オーシャンゼリゼ」を合唱するというアットホームな雰囲気だった。

 



感じたのは出不精ではダメだということだ。やはり知らない世界に身を置いてみると何かしら得るものはある。年齢とともに知った場所にしか行かなくなっている自分を反省する機会になった。

 

最近は、キックボクシングジムと大学野球観戦ばかりの日々だからもう少し日常に変化をつけようと検討中だ。

 

とはいえ、今日から大学野球の日本選手権が始まるから、しばし、そこに熱中してしまいそうだ。昨年初めていくつかの試合を生観戦したのだが、名前も知らない大学が結構強かったりしてなかなか面白い。

 

だいたい全国に大学リーグが30近くも存在することを昨年まで知らなかったわけだから、これも一種の未知の世界だった。全国の大学リーグで春のリーグ戦を制したチームが集まってトーナメントで優勝を争う。

 

昨年は東京六大学代表の早稲田と東都大学代表の青学が決勝で激突して青学が勝った。雪辱を期す早稲田は今回も東京六大学を制したから、再び決勝での青学との熱戦に期待している。


なんだか話が大きく逸れてしまった。。。