9月になっても相変わらず暑くてイヤになってしまう。世の中にはイライラしている人が多いみたいだが、今日は私が最近感じた「ちょっとイラついたこと」を書いてみたい。
「二宮金次郎は座っている」。最近知ったヘンテコ話である。薪を背負って歩きながらも必死に本を読んで勉強する姿が私が知る金次郎さんである。一定年齢以上の人ならだれもそういう認識だろう。
ところが、最近は座っている二宮金次郎像が増えているのだとか。実際に見たわけではないので何とも言えないが、その理由に驚いた。「歩きスマホを助長しないため」だとか。うーん、何じゃそれ!?である。
いわゆる、ながら運転、ながらスマホはいけないことだが、金次郎さんにまでそんな“コンプラ”を押し付けるとは実に気持ち悪い社会になったものである。座っちゃったら単なる休憩だ。寸暇を惜しんで頑張ったという大事な部分とズレてしまう。
いったいどんなバカがそんなヘンチクリンな方針転換を指示し始めたのだろう。もちろん、歩きながら本を読むのは危険だ。そんなの当たり前だ。それはそれである。その正論をゴリゴリ押し付ける対象が金次郎さんにまで及ぶのは行き過ぎだろう。
誰が言い出したのか知らないが、そんな要求だか主張をいちいち気にするほうもどうかしている。コンプラ絶対正義論者の思いつきみたいな声を気にしてヘンテコな路線に変えちゃう安易さが気持ち悪い。
各地で話題になっている裸婦像の撤去問題も同じだ。公共の場に裸の女性の姿があるのはけしからんという話。これまた何だかな~って感じだ。
そりゃあオッパイを見てドキっとするのは普通だが、芸術作品とエロとはまた別な話だ。ここでも「オッパイはダメ」というゴリゴリな正論モドキが暗躍する。それこそ筋骨隆々の男性の裸体像にはそんな声は上がらない。ヘンテコな話だ。あれだって思春期の女の子が見たらドキっとするはずだ。
裸婦像だけが俎上にあがって裸男像は無視されているあたりがジェンダー、ジェンダーとやかましく騒ぐ連中の底の浅さを露呈しているような気もする。ちょっと言い過ぎだろうか。
テレビドラマの世界では車で逃げる犯人がシートベルトをして、どんなに悪人だろうとタバコのポイ捨てすらしないような生真面目な“規制”が最近では標準様式になった。昭和のおおらかさのほうが正しいとまでは言わないが、今の社会の「ウソっぽい感じ」が妙に思えて仕方ない。
何でもアリ状態のネットの世界と一般メディアとの二元的な迷走は非常に陳腐だと思う。配慮しているつもりの青少年世代はそんな「ウソっぽい感じ」をもっとも敏感に感じ取り、そのダメダメぶりを嘲笑しているのが実態だろう。
そういえば最近ここでも書いたネットフリックスの「グラスハート」というドラマにもナゼだか13歳以下には視聴制限が推奨されていた。エロい描写も無いしいったい何で制限するのかと思ったら「乱暴な言葉」のせいで該当しているらしい。こりゃまたオイオイ?って感じだ。
やくざ映画のおっそろしいセリフが飛び交うわけでもなく、いわばバンドマン達の青春ドラマである。そりゃあ少しぐらいイケてるセリフも飛び交う。それを「乱暴な言葉だからダメです」と押し付けちゃうゴリゴリぶりがバカみたいだ。世の中の12歳や13歳をバカにし過ぎ。
女優という言葉が急速に使われなくなっているのも気持ち悪い。俳優に統一されつつある。これまた「ジェンダーゴリゴリ」の流れだ。女優はあくまで女優でありそこにはいろんなニュアンスが含まれている固有の言葉だ。なんなら美しい言葉だと思う。
帰国子女、父兄会みたいな言葉を使わなくなったり、看護婦さんが看護師になったり、女流〇〇みたいな表現が規制されるのと同じ意味合いだろう。深く考えずに「女優」という言葉まで無くそうという安易さはこれまた気持ち悪いことだと感じる。
話は飛ぶが、日本中で熊が人を襲って大惨事になっているのに熊の殺処分にあからさまに反対する声も相変わらず存在するらしい。
「熊を殺しちゃダメ」。そりゃあまあそう言いたい気持ちも分からなくはないが、今の状況でまだそんなことを言うのはさすがに幼い。「白クマさんが可哀そうだからエアコン消しましょう」という小学生の姿にかぶる。
なんだか話がとっ散らかってきた。とにかく今の世の中、一部の「ゴリゴリ正論モドキ」に過剰反応し過ぎだと思う。コンプラも結構、ホワイトも結構。でも現実を見据えながら自分の頭で考えたり、物事を必要に応じてナナメから見るような意識がどんどん希薄になっているように感じる。
私もたいがいバカなのだが、そんな私が呆れちゃうようなバカな言動や行動がチマタに溢れまくっている。なんだかゾワゾワしてしまう。
あくまで個人的な愚痴だが、こんなことをツラツラ書き連ねることが私自身が時代から取り残された証拠だとしたらちょっと切ない。