ぐい呑みとか徳利などの焼きものに興味を持つと必ずぶつかるのが魯山人モノだ。もちろん、その大半がニセモノ。実用食器を下働きの職人を駆使して大量に生産したこともあってニセモノが生まれやすい。
魯山人モノに詳しくない私ですら一目で「アッチャッチャ・・・」といいたくなる粗末なニセモノがあふれている。ネットオークションで魯山人作品を探すと物凄い数が出てくるが、それ自体おかしな話。
希代の美食家で美食のために陶芸を極めた北大路魯山人。私も焼きものにハマり始めた頃、展示会に出かけたり評伝などを読んだ。
端的に言って変人であり偏屈者。ちっとも人間的な魅力を感じない。哀れな感じすら漂う。事実、晩年は随分と寂しく過ごしたらしい。
魯山人の芸術性が高く評価されるようになったのはアメリカでの人気が逆輸入されたことがきっかけだ。
魯山人の人間性がまったく知られていなかったから、単に作品のみが絶賛されたわけだ。強烈かつネガティブな個性がマイナスイメージにつながり国内では没後しばらくは評価を得られなかったというのが定説だ。
ヨソの国で人気が出たから国内でも見直されるあたりが、日本人の日和見的性質を感じるが、まあ嫌われかたがハンパじゃなかったらしいから仕方ないのかもしれない。
このエピソードから気付かされたのが、固定観念や思い込みの怖さ。異端や門外漢が嫌われてしまうと結局、世の中から抹殺されかねない恐れがあるということ。魯山人だってアメリカからの賞賛がなければ今の名声があったかどうか分かったものではない。
異端や門外漢を忌み嫌う風潮はどこの世界にもある。その世界が権威という名で確立されたジャンルであれば尚更だろう。
モノの見方、発想に大切なのは、固定観念にとらわれない柔軟さであることは当然だが、それに加えて、異端であっても受入れる度量も大事な要素なのだろう。
もちろん、異端は異端ゆえに正しいかどうかの判断が難しい。かといって、全否定ありきではなく、耳をふさがないという姿勢で対応することは難しくはない。
権威という曖昧な価値観は、ややもすると前例や慣習重視と同じ意味に勘違いされる。これでは柔軟性がまったくない。
同じ仕事を長く続け、自分自身が若者とは言えない年齢になってくると、いろんな意味で柔軟性が足りなくなっていることを痛感する。世の中の多くの中高年がそんな“凝り固まっちゃった症候群”なんだと思う。
仕事にも遊びにも勢いがある人を見ると、共通するのはたいてい発想や意識の柔軟性だったりする。
なんかまとまりがなくなってきた。要するにもっとアレコレと柔軟に対応していこうと思う今日この頃だ。
2009年8月24日月曜日
魯山人
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