2013年4月22日月曜日

長嶋茂雄


3月の終わりにBSで放送された異色の映画を録画しておいた。

先日ようやく見た。ぶっとんだ。

なんと表現したらよいのだろう。なんともまあ凄い映画だった。感動というより、何度も金縛りにあったような気分になった。

これまでの人生でいろんな映画を見たが、「インパクト」という意味では一番だった。

「ミスタージャイアンツ 勝利の旗」という昭和39年に公開された映画だ。主演はもちろん長嶋茂雄だ。半世紀を経たいま国民栄誉賞をもらうアノ長嶋さんの映画である。

昭和38年のシーズンをベースに巨人の主砲に君臨する長嶋青年の苦悩と努力を描いた実にオッタマゲの映画だった。

セミフィクションというべき手法なのだろう。実際の昭和38年シーズンの動向も盛り込みながら、野球人・長嶋がしっかり役者としても演技している。

なんとも大らかなシーンが満載でビックリした。試合後、駐車場で長嶋を待ちかまえる少年と仲良くなって少年の家までクルマで送ってあげる長嶋さん。

自宅の塀にイタズラ書きを書きまくる近所の子ども達とニコニコ語り合う長嶋さん。映画に刺激されて実際に真似されたらどうしようという心配はなかったのだろうか。

合間合間には、売り出し中?の王選手も登場して、軽快にベタなセリフを連発する。

川上監督もしっかり長セリフを棒読みして渋さを発揮する。その後の「川上VS長嶋の確執」など想像も出来ない師弟関係だ。

藤田元司、広岡達郎あたりのその後の大御所も、長嶋の同僚として出演。照れくさそうに演技をかます。ちょい役で西鉄の中西太も出てきた。

みなさん青年である。映像が綺麗に保存されているせいで、妙にリアリティーがある。でも伝説の人々が若者のまんまで動いている。実に不思議な気分に陥った。

共演陣がまた凄い。長嶋ファンのタクシー運転手役に伴淳三郎、長嶋の世話を焼くオバサン役に淡島千景、銀座のバーで酔っぱらって長嶋に絡むのは水戸黄門で知られる西村晃。

球団広報として長嶋と語り合うのはフランキー堺、そのほかに淡路恵子、沢村貞子、宝田明、仲代達矢、草笛光子、三木のり平、加藤大介といった大スター軍団が登場する。

真面目に見ようと思ったわけでなく、正直、暇つぶしに録画したのだが、見始めたらまさに身を乗り出して鑑賞した。絶対にこの録画は消去できないほど貴重だ。ブルーレイディスクに保存して後生大事にしようと思っている。

入団6年目ぐらいの長嶋さんだ。まだまだ伝説のスターになる前の伸び盛りの頃だ。そんな頃からそんな映画の主役を務めていた事実が凄い。タダモノではない。

野球ぐらいしか娯楽がなかった時代とはいえ、今の時代、スポーツ選手がどれだけ活躍したってこんな映画は生まれないだろう。

「ミスタージャイアンツ」という呼称は、てっきりベテランになった長嶋さんに付けられたものだと思っていたが、入団5年やそこらで既にそんな称号を手にしていたとは驚きだ。

まあ、レンタルビデオ屋にも無さそうな映画の話を書き続けても仕方がない。

長嶋さんである。

昭和49年10月の後楽園球場での引退セレモニー。テレビの前に釘付けになったことを覚えている。私が小学生の頃だ。

長嶋ファンの祖母が涙を流す。野球少年になり始めたばかりの私も大事件なんだと必死にテレビを見た記憶がある。

全盛期のバッティングは覚えていないが、あの華麗な守備はおぼろげに覚えている。子どもが基本として教わるような動きとは異質な流れるような身のこなし、大リーガーの華麗さとも違う「長嶋流」のリズミカルな「形」の美しさは誰にも真似できないレベルだった。

引退後すぐに監督になった長嶋さん。いきなりリーグ最下位という屈辱に沈む。

私の「長嶋像」は実はその頃の印象が強い。後楽園球場の年間指定席まで持っていた祖母に連れられ、頻繁に試合を見に行ったのがあの年だった。

いつもピッチャー交代で出てくるのは新浦。これがまた打たれる。代打で出すのは「原田」。これまた凡打ばかりだった。子ども心に「なんで新浦?」「また原田?」とイライラしながら長嶋監督にブーブー文句を言っていた。

その後、加藤初、張本なんかの加入、小林繁も踏ん張って初優勝した時の長嶋さんの笑顔がまた素晴らしかった。

その後、勘ピューターなどと揶揄されながら監督業を続けたが、突然の解任劇。野球界から距離を置き、カールルイス相手に客席から「ヘイ!カール」と大騒ぎしたり、旅番組で意味不明の解説をしながら、巨人復帰待望論が異様に熱を帯びていったことは記憶に新しい。

私自身は、高田選手のファンだったし、年齢的に長嶋ファンという位置付けではない。それでもアノ人は別格であり、軟式とはいえ野球をかじったモノとしては、崇拝の対象として見ていた。

大学生になって、神宮球場で見た六大学野球。敵チームには長嶋一茂がいた。対峙するピッチャーは私のクラスメートだったのだが、ヤツはいとも簡単に一茂に打たれた。でも「長嶋さんの息子なら仕方ない」と妙に納得したことを覚えている。

その後、なぜか長嶋一茂を偶然目撃することが重なった。ある時は六本木のレストラン、ある時は繁華街の路上で。彼はいつも綺麗な女性を連れていたのでムカついたが、「長嶋さんの息子なら仕方がない」と自分に言い聞かせていた。野村監督の息子であるカツノリだったら、きっとそう思われないだろう。

おっと、話がそれた。長嶋監督である。

そして「33番」を背負って颯爽と現場復帰。

「長嶋監督」といえば「背番号33」をイメージする人が多いようだが、私は断然「背番号90」の監督時代が好きだった。

「33番」として伝説的な監督返り咲きを果たした時には、長嶋さんは大袈裟ではなく野球界では神聖不可侵な「神」になっていた。侵してはいけない別格な存在になっていた気がする。チームもFAの恩恵でアホほど補強をして常勝態勢になり、面白味に欠けてきたような印象がある。

「90番」の頃の長嶋さんはまだまだ俗っぽい長嶋さんだった。凡人達が平気で批判したり野次ったりしてもムッとしてくれそうな俗っぽさがあって、それがまた魅力的だった。チームも弱かったし、その状況と奮戦している長嶋さんが野性的で格好良かった。

私の祖母が生前宝物にしていた写真がある。90番時代の長嶋さんをどこかのホテルのロビーで発見して、狂喜乱舞して2ショットの写真を撮ってもらった時のものだ。

強烈に腕を引っ張られて困惑する表情の長嶋さんと喜色満面の祖母が対称的で何とも面白い写真だった。

いま、長嶋さんを発見したとしても、「神」だからあんな強引なお願いはなかなか出来そうにない。

長嶋さんが「神」になっていく過程とその時代を段階的に共有できたことは幸せなことだと思う。


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