このブログで頻繁に食べ物の話を載せているせいで、私のことを美食家のように思っている人がいるが正しくない。
食い道楽と呼べるほど脇目もふらずウマいものを食べに行くほど凝り性ではない。とはいえ、マズいものを食べるのはイヤだ。
元来マメじゃないから自分の行動範囲の中でしか食事しないし、コンビニ弁当もしょっちゅう食べている。ヘンテコな菓子パンも密かに好きだったりする。
「生きるための食事」と「楽しむための食事」、「お付き合いで食べる食事」。食事を分類すると大体この3種類に分けられる。
グルメだ、美食家だというほどではないが、私の場合、強いて言えば「楽しむための食事」の頻度が高い方だろう。
ウマいものを食べたときの、カッと見開いた目がグルグル回っちゃうような嬉しさは、人間の数ある快楽の中でもナンバー1だと思う。
赤坂にある中華料理の名店「維新號」で食べたフカヒレの姿煮だ。何度か食べに行った銀座の維新號でもフカヒレに悶絶したが、ここ赤坂店がグループのフラッグシップ店である。
心して味わってみた。身体に染み入るウマさとでも言おうか。うなずくばかりで声を発することなく食べ進みたくなる。たまにはこうした“神髄”にノックアウトされるのも悪くない。
マックの100円バーガーを100人にご馳走できるぐらいの値段だ。滅多にありつけないご馳走だが、脳ミソを直撃した嬉しくホワホワした気持ちは10年ぐらい残りそうだから良しとしよう。
名のある高級店の存在意義は「アノ店のアレを食っちゃったもんね」という心理的な満足感にもあるのだろう。隠れ家とか、知る人ぞ知る穴場っていう路線も楽しいが、古典的王道の店の地力はさすがだ。
古典的な王道の店といえば、先日、六本木の「サバティーニ」に行く機会があった。
メンバーは6人。ありきありのコース料理だったから特に期待もしていなかったが、出てきた料理はどれも極々普通。
仕事メシという退屈さが多分に影響しているから、つい辛口評価になってしまうのだろう。まあ、あれはあれで「それっぽい雰囲気」に身を置くことに意味がある店だと思う。
個室の雰囲気も重厚感があって、サービスもキチッとしている。味より雰囲気、お座敷よりテーブルという路線の“おめかし会食”に利用するなら悪くない。
人の味覚なんてものは、結局、その時の気分に左右されるから、ウマいのマズいのと必死に解説したところで意味はない。
食べた人それぞれがその時どう感じたか、こればかりは十人十色である。
あまりツマミを食べずに酒ばかり飲んで帰宅して、ほっと一息入れて空腹に気付く。そんな深夜に食べるお茶漬けやカップラーメンのウマさは驚天動地だ。
大好きな人とウキウキした気分で出かける電車旅で並んで食べる駅弁の美味しさはオッパッピーである。ミシュランなんて屁のかっぱである。
最高の料理人が最高の素材で作った最高の料理を前にしても、破産宣告を受けた直後とか、遊びのつもりだった相手から妊娠を告げられたら、味なんてデロデロバーだろう。
ついでに言えば、「それを食べたい気分なのか」というモチベーション?もウマいマズいを決める大事な要素である。
ウナギを食べたくてウナギのことばかり頭に浮かんでいるのに、カルボナーラとかタコスが出てきたら空腹でもゲンナリするはずだ。
なんだか話が迷走してきた。
最近、私がしみじみウマいな~と涙を流して喜んでいるのが、実は「生卵かけご飯」である。
死ぬ前に食べる最後の一食を選べと言われたら、少し迷ったあげく結局はこれを選ぶと思う。
自分好みに硬めに炊いた白米に極上の生卵をぶちかけてかっこむ幸せは何物にも代えがたい。
先日も1コ500円もする生卵を買ってきた。バカである。普通の常識がある人なら買わない卵だが、それはそれは別格の味わいだった。
考えてみたら「松屋の牛メシ特盛り」だって500円ぐらいしたはずだ。スペシャルな生卵かけご飯にそのぐらいの予算を投入したってバチは当たらない。
新鮮な醤油でも良し、生卵かけご飯用に売られている専用ダレも悪くない。慎重に卵を割り、痰壺デロデロみたいな部分だけを捨て去り(ここがポイント!)、湯気を立てて待ちかねているご飯の中央部分に穴をこじ開け、“黄金汁”を流し込む。
ワンダフォ~ベリーマッチ!オーマイガッ、ベリ~マッチ!である。
書いているだけでヨダレが出てきた。
明日の朝食も決まりだ。
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