2023年11月20日月曜日

善行

 

人生も後半戦になった今、自分は「善行」をどのぐらいしてきたか考えてみた。いろいろ思い返してみたが実にショボイ。いかに自分のことだけ考えて生きてきたかが分かる。

 

ニュースなどで目にする数々の善行を知るにつれ、自らの凡人ぶりが残念になる。かといって何をどうすればよいのか分からないのも事実だ。

 

私だって大きな災害時には義援金を送っているが、金額はたいしたレベルではない。人様に胸を張れるような話でもない。

 

ハヤりのクラウドファンディングもいろいろ協力したが、ほとんど当事者に頼まれて応じたものばかりだ。善行とは趣旨が違う。

 

返ってこないのを知りながら人にお金を貸したこともあるが、しょせんは義理みたいな話でこれまた善行とは意味が違う。

 

小学生の頃、バス停でハンドバックを拾い交番に届けたことがある。もう40年以上前の話だが、中には現金40万円ほどに加えて貴金属も入っていた。

 

すぐに持ち主が見つかり、謝礼として1万円をもらった。小学生には大金だが、子供心に「足りなくねえか?」と不満に思ったことを覚えている。三つ子の魂ナンチャラで結局私はそんな人間である。

 

一応、若い頃は混雑する電車でお年寄りに席を譲ったことも何度もあるが、それと同じぐらい寝たふりをして席を死守?したこともある。

 

小雨だったから見知らぬお年寄りに傘をあげたこともある。びしょ濡れの子供にもあげたこともある。でもその一方で、レストランの傘立てから自分が置いた傘より綺麗な傘を持って帰った前科もある。ダメダメだ。

 

試験に遅れそうだという見ず知らずの中学生を車で学校のそばまで送り届けたことがある。そう書くと善行みたいだが、信号待ちをしていた私の車にその中学生が勝手にドアを開けて乗り込んできたから送っただけの話である。ウソみたいな本当の話だ。

 

駅などでバギーの運搬に苦労するお母さんを手伝ったことが何度かある。とはいえ、白い杖を持つ人に声をかけて一緒に道路を横断するとか、車椅子の人に手を貸すとかの積極的な行動に出たことはない。

 

しょせん私にはチマチマした善行モドキの経験しかない。実に残念だ。

 

困っていそうな人を目にしても、肝心の一歩目が出ずに通り過ぎてしまいがちだ。躊躇せずにサっと行動に移れる人こそ善人なんだろう。

 

毎月数百円で海外の孤児が救えます、月々わずかの支援で途上国の人に飲み水を支援できます、少しの善意で途上国に学校を作れます、といった案内をよく目にする。協力しようかと思うことはあるのだが、まずは国内の困った人に目を向けるのが先かな、と逡巡しているうちに結局何もしないで終わってしまう。

 

ダウン症の息子のおかげで世の中には邪念のない善行を普通にこなしている人が大勢いることを思い知らされた。それまでは、しょせん善行といっても虚栄心や自己満足やエエ格好しいが背景にあるのが普通だと思っていた。そう考えていたこと自体がヒネクレ者の証だろう。

 

善行という意識すらないまま奉仕の心や犠牲的精神を標準モードにしている人は結構いるものだ。そういう人達は善行を自慢げに話すことはない。だから人に知られることもない。実に尊い人達だと思う。

 

どういう生まれ育ちをすればそういう人間性が作られるのだろうか。持って生まれた性質だとしたら神様が一定の役割を持たせてこの世に送り出したのかもしれない。

 

根っからの悪人などいない、と言われるが、私に言わせれば根っからの悪人は存在する。そういう連中がいるからこそ根っからの善人が送り込まれてバランスを取っているのかもしれない。もっと言えば善行精神の塊みたいな人が一定数存在することが社会秩序を維持する支えになっているのだろう。

 

何が書きたかったのかよく分からなくなってきた。だんだんと人生を振り返ることが増えてきたから自分の俗人ぶりを今更ながら反省したくなってきたのだろうか。

 

いまさら善行精神の塊みたいな人になれるはずもないから、せめて周りの人への親切心だけは忘れないようにしようと思う。

 

安っちい道徳論みたいになってしまったが、世の中結局大事なのは安っちい道徳の積み重ねでしかないのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

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