2011年9月14日水曜日

幼稚で結構だ

大人と子どもの違いって何だろう。いきなりだが、最近よくそんなことを考えてしまう。

どこをどう切り取っても、いくら逆立ちしても40代の自分はレッキとした大人だ。そうは言いながら、自分の内面のエゲツナイほどの子供っぽさに気付いて慌てることが多い。

世の中、ひょっとすると大人なんて皆無で、みなさん「大人のフリ」をしているだけなんじゃないかと思ったりする。

思い込み、刷り込み、社会的なしきたりなどで、いつのまにか「大人」が出来上がる。

でも、誰もが内面は単なる子どものままで、それを隠しているのかもしれない。隠していることにすら気付かなかったりする。

幼い頃は少しでも成長したいと願い、年上の存在に憧れる。身体能力とか、知識なんて放っておけば簡単に年上に追いつくのに、本人は必死に背伸びしたくなる。

その繰り返しは、思春期や青年期も同じ。ある年代までは、こぞって大人になりたがる。気付けば誰もが年齢だけは勝手に大人になっていく。

社会人だって、平社員は課長さんや部長さんを目指し、部長さんはもっと上に憧れて、そのレールを喜んでなぞろうとする。

背伸びして、大きくなりたい、大人になりたい、上を目指したいと考えると、結局は「子どもっぽいこと」、「若気の至り」はすべて否定の対象になってしまう。

格好悪い、恥ずかしい等々、その手の曖昧模糊とした基準に引きずられ、いつのまにかわざわざ自分から「去勢」されていく。

気付いたら社会が求める平凡な型にまんまとはまっている。秩序とモラル、常識という名の統制のなかで「大人」が完成する。当人達もそれこそが社会性と認識して妙に納得する。

母性を持つ女性よりも男性のほうが、そういう傾向が強いと思う。世のオジサンがたが妙に子どもっぽい趣味嗜好に走りがちなのも、結局は子どもだからだろう。

意味不明なグッズの収集癖があったり、小さい書斎にこもりたがったり、怪しげな赤ちょうちんを彷徨うことだって子どもの行動だ。

スナック菓子のオマケを集める、物置や屋根裏部屋を秘密基地と名付けて悦に入る、自転車で知らない街を散策して冒険気分に浸る。

オジサンがたの行動の原点は結局子ども時代と一緒だ。

40代、50代、はたまたもっと年長になってから、急にイキイキとオヤジバンドを結成したり、趣味のサークル活動に精を出す人は多い。きっと「大人のフリ」に疲れちゃって、子ども部分が前面に出ているんだと思う。

誰もが社会の中で「大人の仮面」をかぶっていないとマズい。そうしないと給料ももらえないし、それこそ格好がつかない。当然、反動も強まる。

赤ちゃんプレイをウリにする風俗店に社会的地位の高い人が通うなんて話は、そう考えると涙無くしては聞けない?切ない話だ。

変な趣味、変な性癖が強ければ強いほど、その人は普段、一生懸命にオトナ仮面をかぶってるんだろう。私はそういう人を全面的に支持したい!!頑張れ変態!

どうも話が怪しい方向に行きそうだ。

男のエゴかも知れないが、子どもを育てることだって、女性と男性では感覚が違う。なんてったって、自分の腹を痛めたわけではない。母親とは温度差がある。

「良きお父さん」なんて別になりたいと思わない。こっちだって子どもなんだから・・・、そう考える人が増殖してもちっとも不思議ではない。

古き良き日本の美徳というか、儒教的思想とか、修身教育的発想が崩壊してしまった現代社会では、そんな無責任?オヤジが増えてしまう可能性は強いだろう。

だからこそ、イクメンとかいうオシャレっぽい言葉で世の男どもを型にはめ直そうとする空気が社会の中に自然発生的に生まれているのだと思う。

で、私はどうだろう。やはり、ひと皮ひんめくれば子どもバリバリだ。

秘密の場所が欲しくなる。気を許した人の前では一気にワガママになって、図々しくなって甘ったれる。昔のドラマに出てきた「冬彦さん」みたいに奇声も出したくなる。

会社で働く自分、家庭を持つ自分、子育て問題について建前で綺麗事を言う自分、そして、どれにも当てはまらない素の自分などなど。いろいろな自分がいる。

きっと誰もがそんなもんだろう。藤子不二雄じゃないが、AとかBなどいろいろな自分が存在するのだと思う。

まあ、こんなことをダラダラと書いていることが子どもっぽい。

いずれにせよ、あきらめたり、我慢することばかりが大人の努めだとしたら、子どもで結構だ。そういう居直りは売れないロックミュージシャンみたいで陳腐な感じだが、そんな陳腐さも大事なことだ。

子どもっぽい、青臭い、幼稚。このあたりの言葉を他人から浴びせられるぐらいになったら、きっと自分自身は最高に幸せなんだろう。

ちょっくら目指してみることにしよう。

0 件のコメント: