最近読んだ二冊の本のおかげで「偏屈」をちょっと肯定したい気分になった。
偏屈を辞書で調べると「性質がかたくなで、素直でないこと。ひねくれていること」である。
私自身、年齢とともに偏屈ぶりが加速しているような気がする。このままではイカンと思っている。
でも、偏屈は「こだわり」と密接に関係している。こだわりや主義主張がない男になるのもイヤだから上手に折り合いを付けるしかない。
2冊の本とは「我、拗ね者として生涯を閉ず」(本田靖春)と「あなたに褒められたくて」(高倉健)である。
前者は10年前、後者は20年以上前に刊行された本だ。前者は古本屋で買った。健さんの本は再版本が今も書店で平積みになっている。
本田靖春さんという人は高度成長期の読売社会部のスター記者で、その後フリーになってノンフィクションの名手として活躍した。
晩年の病床で生涯を振り返る鬼気迫る回想録である。
なんてったって自ら「拗ね者」を自称するだけに偏屈ぶりは相当なものだ。好き嫌いがはっきりしているというか、全部が嫌いなんじゃないかというほど舌鋒鋭い。
回顧モノだから自らの武勇伝自慢がちょっと鼻につくが、そういう箇所の書きぶり一つとっても予定調和のような謙遜はなく、ただただ潔く自分の思うがままを吐き出している。
現在よりもムラ社会的要素が強かった昭和の日本で徹頭徹尾、自我を押し通した生き様は驚異的だ。
好き勝手に生きることは誰もが憧れるが、この人ぐらい突き抜けていると見知らぬ人、ましてや故人なのに心配したくなる。
きっとあらゆる局面で軋轢に押しつぶされそうになったはずだ。肩に力を入れ続けて生きていたのではないか。
いや、ひょっとするとそんな気負いなどまるで無く自我を押し通すことが自然体だったのかもしれない。そうでもなければ拗ね者を徹底することは不可能だ。
だとしたら、ある意味とても羨ましい。でも、この人のことを嫌っていた人は多そうだ。きっとナベツネさんなんかハラワタ煮えくりかえっているような気がする。
お次は健さんである。「高倉健」のイメージを壊さないために相当な努力していたようだが、良くも悪くも「偏屈」だから、アノ姿を徹底できたのだろう。
エッセイの中にもそんな姿を感じさせるエピソードがいくつもあった。
村田兆治投手の引退をテレビで知って無性に花を届けたくなった健さんは、付き合いがあるわけでも無い村田投手の家を探し出して不法侵入?ばりの意気込みで手紙と花を置いていく。
感激した村田夫人経由で新聞記事になりそうになるが、健さんはそれを頑なに拒否する。拒否することを素直に詫びているのにナゼだか公にすることを嫌がる。
見方によっては単なる頑固である。健さんも自ら素直ではない性格のことを認めている。冒頭で書いた「偏屈」の意味を見ても分かる通り、端的に言って健さんも偏屈である。
変な言い方になるが、「健さん」のカッコ良さは「偏屈」が大前提になっていたわけだ。
「男の中の男」。健さんを象徴するイメージだ。いわば、「男の中の男に必要なのは偏屈である」という三段論法が成立する。
偏屈バンザイである。
いまの世の中に足りないものは「健全な偏屈」ではないだろうか。偏屈というと誤解を招くが、最低限の自己主張は必要だ。
長いものには巻かれろ、物言えばくちびる寒し・・・。これらの考え方は日本人の一種の美徳かも知れないが、行き過ぎると何も考えない弊害を生む。
何も考えずボケっとしていたらラクチンだろうが、時には自分のこだわりを押し通すのも人生を豊かにする一助になる。
2 件のコメント:
富豪記者殿
偏屈というか、矜持というかあるいは美学というべきか。そういうものがないとつまらないですよね。特に40代も半ばを過ぎて付和雷同しているばかりでは。自分の色をもって。大袈裟に言えばそれに関しては対立を恐れない強さを持つ事が魅力的な大人ではないでしょうか。
道草人生様
まったくおっしゃる通りだと思います!
矜持や自分のカラーが無いままでは何のために年を重ねてきたかわかりませんよね。
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