2016年1月8日金曜日

泣ける?焼鳥


10年以上前、まともに家庭人をやっていた頃、都内某所に家を新築した。ウキウキ気分で近隣を散策しながら気軽に飲める店を探した。

ほどなく居心地が良くてウマい焼鳥屋「T」を見つける。独創的な一品料理も魅力で、仕事帰りに週に一度ぐらい顔を出すようになった。

休みの日にもちょこちょこ出かけた。まだ幼かった子どもを連れてまで通った。子どもには特製親子丼を食べさせ、お父ちゃんはグビグビ焼酎をあおっていた。

その後、「T」の大将とも親しくなり、あれこれ相談を受けたり、愚痴を聞いてもらったり。職場の宴会を豪勢にやったこともある。

いつも焼酎片手に鶏のレバ刺しで酔っ払っていた。マヨ風味が堪らない特製コロッケも毎度のように食べていた。

お土産でもらった極上生卵を無造作にレジ袋に突っ込んで歩いて帰ったら、酔ってたせいで全部割れちゃっていたことも何度かある。

そのうち、恥ずかしながら“家庭経営”がうまくいかなくなり、家の近所で飲む機会が減り始める。3・11の震災も影響して「T」に行っても大将との会話が徐々に重苦しくなっていった。

その後、別なエリアで一人暮しを始めたので、自宅の近所で飲む機会が無くなる。仕方なく移転先周辺で気軽に通える焼鳥屋を探すがどこもピンとこなかった。

そして、正式に家庭から離脱することになって家を明け渡したから、その街で飲む機会は完全に消滅してしまった。

名物料理「レバ炙りポン酢」が食べたくて、何度か「T」に行きかけたが、やはり、その街にはなかなか足が向かなかった。「T」の大将に事情を話すのもメンドーだったから行かずじまいになる。

それから4年近くが過ぎた。

鶏のレバ刺しを常備している店はいくつか開拓した。でも、やはり生レバに対する「T」のアレンジは最高だと思っていたので、どこで食べても思い出すのは「T」のことばかり。

そして去年の秋も深まった頃、ひょんなことから「T」が移転するという情報を入手。さっそくネットで詳細情報を調べてみた。

すぐにFacebookページを発見。住所も細かく出ていたので、近いうちに再訪することを一人勝手に誓った。

そして年も押し迫ったクリスマスの頃、おそるおそる出かけてみた。ありえないぐらい不便な場所に移転していた。最寄り駅は無いといったほうがいい。住宅街にポツンとあった。

開店まもない時間に暖簾をくぐる。仕込み中の大将と目が合う。お互い10秒ほど目を真ん丸にして見つめ合う。

「オ~っ」とか「ドゥわ~っ」とか「ホゲ~」などと言いながら再会を大袈裟に喜び合う。なんだか少しジンときた。

「サンタクロースかと思ったよ~」。「T」の大将の風貌は正直に言って「海坊主系」?なのだが、そんな彼がセンチなことを言ってくれた。

私も何だか嬉しい。やたらと愉快な気分になる。疎遠になっていた4年近くの間にお互い50歳という節目を超えていた。オーダーも忘れてしばしベラベラお互いに近況報告をして盛り上がる。

私専用の焼酎キープ用の瓶も処分されずに残っていた。新たに焼酎を注入して再利用スタートである。その日のうちにだいぶ減ってしまったが、陽気な気分でグビグビしちゃったんだから仕方がない。




レバ刺し、レバ炙りポン酢、特製コロッケである。移転しても以前と同じメニューだった。相変わらずウマい。

ベタ誉めしているが、あくまで街場の焼鳥屋さんである。移転早々だから店は綺麗だが、ちっともオシャレではないし、グルメ評論家っぽい人がやってくる風情ではない。

ただし、街場の焼鳥屋さんとしては抜群にウマい。レバ炙りポン酢や特製コロッケはどんな高級焼鳥店に行っても味わえない珠玉の一品だと思う。

普通の串モノにしても1本100円台の焼鳥としてはトップレベルだろう。1本600円~700円も取るような都心の高級焼鳥屋にも行く機会はあるが、「T」で鶏づくしを堪能すると都心の高級焼鳥店はあくまで雰囲気を楽しむ場所だと痛感する。

まあ、私にとってウマいマズいという話はさほど重要ではない。自分にとって色々あったこの10年と絡み合っていた場所のような気がして、そんな店と改めてつながり直せたことが感慨深いわけだ。

男にとって「止まり木」みたいな場所があるのは嬉しいことだ。「T」との“復縁”は中年男の繊細な?心にグサッと刺さった。琴線がかき鳴らされた感じである。

なんだか、店の実名も出さないまま、富豪っぽく?もなく、ちっとも参考にもならない話を書き散らかしてしまった。スイマセン! 

でも何となく書いたことでスッキリした。

2016年1月6日水曜日

浅草の底力


本年もよろしくお願いいたします。

年末年始は旅行も行かずホゲホゲ過ごせた。元旦の夜から2日にかけては11時間も寝た。桃源郷暮らしみたいな話だ。

さて、年末の某日、ふらっと浅草に行った。時々無性に行きたくなる我が心のふるさとである。


祖父が浅草生まれだったから、一応、浅草DNAは私にも受け継がれている。子どもの頃、浅草寺境内で揚げまんじゅうを買ってもらいたくてお参りにしょっちゅう付き合った。

その後、大人になり世はバブル景気に突入。都内各地で新興の街が活気づく一方で浅草のシュールな感じは際立っていった。時代に取り残されたような感じだった。

アマノジャクな私は、イケイケのシティーボーイ(何じゃそりゃ?)を気取りながらあえてワンレンボディコンのイケてる女子を浅草に連れ出し、時代に逆行するかのようなデートを楽しんだりした。「オシャレじゃないことこそオシャレ」だと思っていた。

ブロマイドのマルベル堂を冷やかし、焼立て煎餅をかじり、梅園で粟ぜんざいを舐めてから花やしきを覗いて、鰻の前川、天ぷらの中清あたりで夕食というのが定番だった。

中年になってからも、夏の夕暮れに竹芝あたりからわざわざ水上バスに乗って釜飯屋に一杯ひっかけに行ったり、週末、夫婦喧嘩に疲れると浅草寺境内の猿回しを見に行って癒やされたりしていた。

私にとっての浅草はいつもシュールな場所であり異次元空間だった。言うなれば「昭和の残照」である。秘密じゃないけど秘密基地みたいな場所だ。

ところが、ここ数年の浅草は何だか大変なことになっている。外国人観光客の激増、スカイツリー特需の関係で、やたらと活気づいている。

オノボリさん用の観光地として割り切って新たな発展の道を踏み出している。やたらと元気だ。アノ独特なサビレ感、くたびれ感が日に日に無くなっていく。チョッピリ淋しい。

EXILEみたいな兄ちゃん達が元気よく人力車を引っ張っているし、シュールな甘味処より小洒落たスイーツ屋が目につくようになった。

今回、驚いたのは孤高の存在として最後まで無頼な空気を漂わせていた六区周辺の怪しげなエリアも再開発が進んで小ざっぱりしていたことだ。

なんちゃらホテルが開業し、下層階には物産展のようなテナントがわんさか入居した大きな商業ビルが大勢の人を集めていた。

あれじゃあ、独特の浅草ファッションに身を包んで場外馬券場で痰を吐き散らかしていたオッサン達は行き場を失ってしまいそうである。

さてさて、愚痴はともかく、この日は年末で休みに入った店も多く、行きたかった洋食屋さんに行けなかった。

慌てて、スマホを駆使して界隈の洋食屋さんの中から開いている店を探す。「シーフード メヒコ」なる店のカニピラフが美味しいらしい。

福島や茨城を拠点とするチェーン店のようだ。チェーン店嫌いの私だが、スマホで見たカニピラフの麗しい画像に惹かれて行ってみた。


カニが好きでピラフにも目がない私が注文すべき一品はこれしかない。ヤケクソのようなカニピラフである。

悪く言えば創意工夫のカケラもない。何の変哲も特別な具もないピラフの上にこれでもかってぐらいカニが乗っている。でもそれが嬉しい。

ちゃんとカニフォークとフィンガーボウルまで出てくる。上に乗ったカニは出がらしの殻みたいな飾り的なものではなく、身肉がぎっしり状態である。

ウホウホと身をほじくり出す。出るわ出るわ、カニの身がアッという間にピラフの上を覆い始める。全部ほじっているとピラフが冷めちゃうから適当なタイミングでピラフと一緒に口の中に放り込む。


なかなかウマい。何の変哲もないピラフが逆にバッチリである。ヘタに自己主張されるとカニの風味を殺しかねないが、ここのピラフはカニをちゃんと主役にする。実にバランスが良い。

ビックリするほどウマいわけではないが、正しくジンワリとウマい。近所だったらちょこちょこ食べに行きそうな店だ。



カニクリームコロッケにもカニ身がしっかり入っていたし、それ以前にベシャメルソースが正しくクドくて嬉しかった。「浅草で洋食」という気分を満たしてくれた。海老のポテトサラダなる一品もビールのツマミとして優秀だった。

さすが浅草に店を構えるだけのことはある。店名も店内の雰囲気もどこかヌルい感じだ。浅草的ファミレスと表現したくなる店だった。

その後は、腹ごなしに周辺を散策、街の変わりように驚きつつ、歩き疲れたので休憩をかねて東洋館(冒頭の画像です)に入る。昔のフランス座だ。

渥美清や欽ちゃんが活躍し、ビートたけしを生んだ劇場である。昭和の雰囲気がむんむんである。


「松鶴屋千とせ」の他はまったく知らない人ばかりだ。誰も知らないからかえって浅草芸人の技量を先入観抜きに楽しめて楽しい。

70歳を優に超えたギター漫談のギターテクニックに衝撃を受け、88歳の漫談家のシャンとした姿に圧倒された。

浅草の底力を見た気がした。街自体が衰退からひょっこり立ち直って、それを支える人々も年齢に関係なく活躍している。

なんだかんだ言って浅草に行くと気分がリフレッシュする。あの街は私にとって一種のパワースポットみたいな場所だと思う。

浅草中を覆う「泰然自若っぽい空気」を前にすると中途半端にモノがわかったフリをしたり、中途半端な年齢をタテに分別ヅラすることが恥ずかしくなる。

あくまで我が道をズンズン進んでいるような浅草の突き抜けた感じを見習って新しい年を乗り切っていきたい。

2015年12月30日水曜日

年の終わり


日記を12月末まで続けられる人はわずか1割だとか。何年も日記を続けていれば、いずれ読み返したときに単純に面白いし、何かと参考になる。でもメンドーなのも確かである。

私自身、過去に何度も日記に挑戦して、その都度挫折してきた。

年が明ければ、このブログも9年目になる。途中で何度かやめようかとも思ったが、一種の日記みたいな効果があって何となく続いている。

数年前の同じ時期に何をしていたのか、どんなことを感じていたのか。その話を書いた頃の自分自身の背景も思い出すからなかなか面白い。

ちっとも進歩していないことに唖然とすることも多いが、それはそれである。若者じゃないからさすがにグングン成長するはずもない。

ということで、今日が今年最後の更新です。

例年のように年末になると、来年はこうしよう、ああしようといった話を書いているが大体なにも変わらず月日だけが過ぎていく。

何年か前に「偏屈は良くないから笑って過ごそう」と決意を書いたが、今年の私は偏屈に加速がかかった1年だったように思う。

50歳の大台を越え、泰然自若に過ごしたいものだが、どうも偏屈ジジイへの階段を順調にステップアップしている。ちょっと問題である。

変な話、最近は出前の注文を幾度となくキャンセルしている。インターネットの出前専用サイトでは、出前してくれるさまざまな店を配達時間の早い順に選ぶことが出来る。

待ち時間は短いほうが嬉しいから、その基準を元に店を選ぶのだが、真面目な店とインチキな店の差が激しいのが困りものである。

待ち時間30分という店を選んでも、ヘタすると1時間ぐらい平気で待たされることがある。真面目な店は予定時間を遅れそうになると電話してくる。インチキな店はうんともすんとも言ってこない。

すべての店が不真面目なら私も我慢するのだろうが、真面目な店が結構あるからインチキな店に無性に腹が立つ。

で、長々と待たされると「インチキするな!」と怒りの電話をかける。当然キャンセルを伝える。「もう出ました」と言われてもダメだ。

我慢が足りないと言われればそうなのだろうが、最低限のルールは守ってもらいたい。

そういう事態に陥ると死ぬほど空腹である。でも空腹に負けてインチキを許すのは武士として許しがたい(武士じゃないけど)。そんな横暴を許したらその店は今後もインチキを続ける。

反省を促すため、その後の被害者をなくすため、などと勝手に力みながら空腹に耐えかねて仕方なくカップ麺をすすったりする。

短気は損気である。

自分で言うのもなんだが、私は結構温厚なほうだ。いちいちカッカしないし、瞬間湯沸かし器的にキレたりもしない。

でも、自分でもあんまりよく分かっていない自分なりの「基準」があって、それに触れると途端に寛容な心が消え去る。インチキっぽいことや最低限のルールが守られないことが大の苦手だ。

タクシーを拾った際、わりと単純な道のりを知らないことを悪びれずに済まそうとする運転手にあたると迷わず降りる。

プロならプロの対応をしてほしい。じゃないと真っ当なプロが可哀想だ。単純な道のりなのに、細かくこちら側が指図しないとならないなら、プロと同じ料金を払うのは理屈に合わない。

高校野球のお粗末なエラーには同情するが、プロ野球のチンケなエラーには腹が立つ。プロならプロらしくしてほしい。珍プレーなどと笑っている場合ではない。張本さんのようにみんなで喝!を連発しないといけないと思う。

席が空いているのになかなか案内しないファミレスの店員とか異常なまでにマニュアル的な応対しか出来ない若者とか、いい歳して「考えることを放棄したようなヤツ」には腹が立つ。

先日もつまらないことで腹を立ててしまった。コンビニでの勘定の際に、店長がレジの処理の仕方を新人に教えている。新人に自ら作業させようと店長は横に立ったまま手を出さない。新人はチョンボするからやたら時間がかかる。待たされている私のことはお構いなし。

私じゃなくても怒るはずだ。こういうナメた行動には激しくイラつく。「なんでオタクの研修にオレが付き合わされるんだ?」わりと大きな声で言ってしまった。

気まずいからそのコンビニに行けなくなってしまった。不便でしょうがない。でも、それもこれも社会のため?である。

実にチンケなことで腹を立てている。書いていて少し残念な気持ちになる。小さい小さい。もっとデンと構えないといけない。

イベントっぽいものが好きではないので、偏屈だからハロウィンのバカ騒ぎを鼻で笑い、クリスマスのイルミネーションも「ケッ!」とやり過ごした。

年が明けたら早々にやってくる「恵方巻き騒ぎ」にも今からイライラしている。あんなものは関西のお座敷遊びから派生した下品な座興である。

2月のバレンタインデーも鬱陶しい。世の中がチョコレート一色になるバカげた風習は日本独自のヘンテコな習慣である。

義理チョコをもらって喜んでいる世の中のオッサン達にも張本さんから「喝!」を入れて欲しい。

さてさて、偏屈が人様から喜ばれたり、有り難がられることはない。当然である。偏屈なヤツはメンドーである。私自身、偏屈なヤツと付き合いたいとは思わない。

でも、今の世の中「正しい偏屈」が不足しているのも確かだ。一つの流行にいっせいに飛びつく。テレビや雑誌に出てたからといって無条件に信じる。なんだかな~って感じだ。

オレオレ詐欺なんて昔はなかった。あんなものが珍しくない世の中になったこととイマドキの世相は無関係ではないと思う。

なんでもかんでもストレートに受け止めるのは単なる「幼稚さ」である。大人だったら適度に斜に構える心掛けは必要だろう。

偏屈な自分を反省しようと思っていたのに、書いているうちに偏屈推進論みたいになってしまった。

まあいいか。結局、偏屈を直す気などちっとも無いのかもしれない。今後はドンヨリしない程度に偏屈に磨きをかけよう。

楽しく笑顔で偏屈に!

ちょっと難しそうだけどそんな路線を目指すことにする。

来年もよろしくお願いいたします。


★新年は1月6日から更新する予定です。

2015年12月28日月曜日

寿司嫌い 糸賀 鮨源

年末はお寿司屋さんばかりに出没していた。他に行くのはカウンターの和食屋、鰻屋、焼鳥屋など。年々、外食の傾向がドメスティック一辺倒になっている。

私にだって麗しき女性をイタリアンやフレンチの洒落た店にエスコートしていた日々もあった。ずいぶん昔の話ではある。考えてみれば、前の世紀の出来事である。

まあいいや。

お寿司屋さんのカウンターでフニャフニャ過ごすのが好きなくせに最近はあまり食べられなくなった。残念なことだ。

でも、酔っ払った深夜に牛丼の特盛りをあっという間に完食する私である。物理的にまだドカ食いが出来る。お寿司屋さんでチョロチョロしか食べないのが不思議である。

ひょっとすると寿司が嫌いなのかもしれない。

若い頃も寿司屋の帰りにフィレオフィッシュを食べる変なクセがあったし、今もツナサラダの軍艦巻きという邪道丸出しの一品が大好物である。

寿司よりも寿司屋の空間にいることが好きなのだろうか。

冒頭の画像は新橋の「糸賀」というお寿司屋さんに連れていってもらった時の1枚。香箱ガニやら珍味を並べてマイぐい呑みで熱燗をチビチビ。至福の時間だった。

SL広場から程近い場所に構えるこの店は、周辺の猥雑な感じとは一味違って適度に凜とした空気が漂う。とはいえ、気さくな大将のおかげで窮屈な雰囲気は無い。初回でも居心地の良い店だった。


ツマミと握りそれぞれにその日のおすすめが書かれた紙が用意されている。客にとって有難い配慮だ。酒飲みにとっても嬉しい一品が揃っているし、頻繁に通いたくなる店だと思う。

問題があるとしたら混雑ぶりだ。遅めの時間なら空いていると聞いたので、後日、9時半ごろふらっと立ち寄ってみたが、席が空く気配なし。

その後、今度は2日後の予約をしようと電話したものの満席とのこと。良い店の証拠だろうが、気ままにふらっと行っても入れる可能性が低いのが残念。


話は変わる。毎週のように行く高田馬場「鮨源」で摩訶不思議な一品を食べた。以前、隣に座っていたお客さんが注文していたのを見て気になっていたヘンテコシリーズである。

「いくらの裏ごし」である。生イクラのエキスだけで一種の生卵かけご飯にしてしまうシロモノだ。



生イクラは日が経つにつれ皮が固くなってしまう。味自体はバッチリなのにネタとして使いにくくなるから裏ごしして中身だけを抽出したんだとか。

裏ごししたイクラにちょろっと醬油を垂らして寿司飯と混ぜて食べてみた。TKGである。素直に美味しい。でもイクラの食感をまったく感じない変な寂しさがある。ちょっと面白い経験だった。

お寿司が大好きなら回転寿司にだって行きそうなものだが、まったく行く機会はない。一応、小さい子どもを持つ家庭人だった当時は何度も行ったが、子ども抜きで行ったことはない。

やはり寿司が嫌いなのだろうか。

つい先日、銀座にある北海道直送モノがウリのお寿司屋さん「九谷」に出かけた。

同年代オヤジと差しつ差されつの会だったのだが、握りを10貫ほど食べた連れに対して、ツマミ以外に私が食べたのはタラコの握りとウニの手巻きだけだった。

上等な寿司ネタがワンサカ揃っているのに美味しいツマミをあれこれ並べて酒を飲むほうが楽しい。ダメな客であり、無粋な話である。


10月の終わり頃だったか、寿司の人気店だけを毎週紹介しているBSの番組にこの店が取り上げられた。

その番組は、「吉田類」みたいなオジサンが嬉しそうに酒を飲む番組ではなく、店主のオススメの握りを10貫ほど紹介するもの。

いつも気の利いたツマミを出してもらって酔っ払っていた私としては、次に行った時には握りをたくさん食べようと決意?するほどウマそうな寿司が画面一杯に広がっていた。

で、久々に訪ねたのに、私が食べた握りはウニとタラコだけである。実にもったいない話だ。来年あたりは寿司屋における注文の仕方を虚心坦懐に考え直したほうがいいかもしれない。

日頃、私がエラソーに否定している「おまかせ」にして、黙って出されるものを食べるようにすれば握りも10貫以上食べられるはずだ。

そっちのほうがよほど真っ当で粋な客である。

若い頃、お寿司屋さんのカウンターで格好良く過ごせる大人になりたくて、いろんな店で人間観察に励んだ。良い見本、悪い見本それぞれいろいろ見てきた。

カッチョ悪いと思ったのは「分かったような顔でエラそうにウンチクを語るくせに酒ばかり飲んでロクに食べない客」である。

今の私の姿である。ガーン!って感じだ。人様の様子をあれこれ気にする前に、自分をそれなりに律しないとダメみたいだ。

「オレの振りふり見て我が振り直せ」。
来年のスローガンにしようと思う。

2015年12月25日金曜日

越路吹雪の凄さ


今年の紅白のトリはマッチと聖子ちゃんだそうだ。正直言って意味不明である。NHKも目玉が無い紅白を盛り上げようと苦心したようだが、なんだかパっとしない。

紅白を今年限りで「卒業」する森進一に彼のヒット曲をメドレーで歌わせたほうがよっぽど見応えがありそうだ。

まあ、いいや。

今日は昭和の歌について書いてみたい。マッチも聖子ちゃんもそれなりに人気があったが、昭和歌謡というジャンルは彼らより少し前の世代までが一般的だと思う。

沢田研二やピンクレディーぐらいまでじゃなかろうか。昭和30年代半ばぐらいの石原裕次郎や美空ひばりあたりから五木ひろし、都はるみといった演歌勢、布施明、尾崎紀世彦、ちあきなおみなどの歌唱力系、西城秀樹、山口百恵などのアイドル元祖系が第一線で活躍した時代が昭和歌謡の中心的な時代だろう。

ヒット曲といえば、子どもから年寄りまでみんなが知っていた。今の時代は100万枚のセールスといっても全世代が共通して知っている歌は存在しない。

今の時代にも名曲はいくらでもあるのだろうが、全世代みんなが口ずさめたという点では昭和歌謡のインパクトは独特だ。

昭和歌謡の大スターは裕次郎、ひばりを筆頭にいろいろな人の名前が挙がるが、少し特異なポジションにあるのが「越路吹雪」である。


昭和歌謡というジャンルを超越した傑物である。シャンソンの女王と呼ばれていたが、そんな括り方では済まないエンターテイナーだ。ジャズもこなすし、言ってみればジャンル自体が『越路吹雪』である。

「愛の賛歌」「サントワマミー」「ろくでなし」などの代表曲は元々フランスの曲だが、“翻訳したカバー曲”というイメージではない。越路吹雪自身のオリジナル曲かと思えるほど独自の世界を作り上げている。

たとえば、この曲の表現力の凄さには圧倒される。大袈裟に言えば、誰にも似ていない、誰にも真似できない、まさに孤高の存在だと思う。


https://www.youtube.com/watch?v=2cPKNwaHuUU

私がまだ幼い頃、母親がしょっちゅう聴いていたのが越路吹雪だった。子供心には「ド派手で恐そうなオバサン」という印象しかなかったが、大人になるに連れその凄さを痛感するようになった。

昭和40年代、高度成長期で少し余裕の出てきた日本人に「オシャレな欧州の気分」を体現して見せた人だったのだろう。

不世出の傑物のわりには裕次郎やひばりに比べて後世の扱われ方は少し地味に過ぎる。きっと彼女の放つ空気が独特だったせいだ。

すべての大衆を引きつけるオーラというより、良い意味でのスノッブな雰囲気が漂っていたから、熱狂する人とそうでない人の温度差が大きかったのかもしれない。

ウィキペディアの受け売りだが、過去に何度も出場していたNHK紅白への復帰要請に対して「ジーンズ姿の歌手と並んで出るのはイヤ」という理由で断り続けたという。

あの時代の大スターの矜持みたいなエピソードだと思う。悪くない話だ。

当時、スターといえば親近感をウリにするのではなく、文字通り星のように手が届かない存在だった。だからこそ今と違ってスターという言葉が一般的だったわけだ。

次に貼り付けたのは「愛の賛歌」である。まさに圧倒的だ。こんな表現力豊かな歌い手は人間国宝級だろう。

https://www.youtube.com/watch?v=qaUIQ3t7mPo

私自身、この歌が大好きである。カラオケ宴会の際にはウケ狙い?でよく選曲して身振り手振りを交えて熱唱する。

「愛の賛歌」は、今をときめく?シンガーソングライターの斉藤和義がライブなどでカバーして熱唱することでも知られる。

50歳近辺の彼の年齢からすると私と同じように子ども時代に「ド派手で恐そうなオバサン」のこの歌に圧倒されたのだろう。

そういえば、今は亡き忌野清志郎も「サントワマミー」をロック風にアレンジしていた。激しいロックバージョンになっているのに、気のせいか越路吹雪のパワーには及ばなかったように感じる。

カバーされればされるほど、本家の凄さが際立つ。そういう意味では、越路吹雪の名曲が現代のミュージシャンによってどんどんカバーされて欲しい。

コンサートやライブではなく、あくまでリサイタルという言葉が似合った傑物・越路吹雪。彼女の熱唱を手軽に見られるYouTubeの存在がつくづく有難い。

平和な年の瀬である。

2015年12月21日月曜日

おやすみ




だらしないことに体調を崩して寝込んでしまい、1回分は書き置いてあったつもりの原稿も存在しなかったため、申し訳ありませんが今日は更新をサボります!すいません。。。。





2015年12月18日金曜日

ぐり茶 ポタージュ揚げ餅、Amazon


日常生活に不可欠なインターネットが普及したのは、わずか20年前のことだとか。結構ビックリである。

20年前、私はすでに大人だったが、インターネットに無縁な生活を過ごしていたわけだ。

思い返してみれば、アナログな日々だった。懐古趣味はないが、あの時代はあの時代で何も不便は無かった。今が飛躍的に便利になったかというとよく分からない。

でも、物凄く便利になったのだろう。その渦中にいると気付かないが、20年以上前に比べるとライフスタイルの多くが変わったのは確かだ。


買物の多くがネットで済んでしまう。これは画期的だ。私自身、ネットスーパーを頻繁に利用する。

かさばるモノ、重いモノ、紳士がスーツ姿で持ち歩くのが恥ずかしいモノ?など、ありとあらゆるものが買える。指定した時間帯に玄関先まで持ってきてくれるのだから有難い。

画像のティーバッグは私がしょっちゅうネットで購入する商品だ。ずいぶん前に伊豆方面に旅行した際にお土産屋さんで買って妙に気に入ったものだ。

気に入ったらメーカー名や商品名を控えておけば、まず間違いなくネット上で販売されている。あとは欲しい時に注文すれば済む。

唐津や信楽、常滑あたりの作家モノの急須をいくつも持っているくせに、このティーバッグを知ってしまってから使わなくなってしまった。

「ぐり茶」は苦みがないのが特徴だ。ティーバッグで濃い目にお茶成分を抽出するのにもってこいである。

熱い湯を入れた湯飲みの中で20回ぐらいジャブジャブしてから2~3分適当にフタをして蒸らしてから飲むと抜群である。ティーバッグでいれたお茶だとは思えないレベルだ。

お茶が飲みたい、でも急須にお茶っ葉を入れると後々メンドーだ。かといってティーバッグのお茶はまずくてイヤだというモノグサな人にはオススメである。

デパ地下でエラそうに売られている高級ティーバッグもいくつも試してみたが、それらより遙かに安くて味わいも豊かだ。


お次はお菓子である。滅多に菓子など買わない私が最近アホみたいにハマっているのがコーンポタージュ味の揚げ餅である。

いつだったか、お土産でいただいたのがきっかけ。こういうモノは普段食べないので放置していたのだが、家に遊びに来た娘に食べさせたついでに一口頬張ってみたら目ン玉が飛び出るほどウマくてビックリした。

http://www.zuika.jp/shop/item_detail?category_id=398193&item_id=1794254

ありがちなポタージュ風味のスナック菓子は化学調味料っぽい?後味が残念だが、この揚げ餅はポタージュ風味があざとくない。実に自然だ。揚げ餅自体も軽やかで油っぽい感じもない。優しい味わいである。

銀座・並木通りに直営店があるのを見つけ何度も買いに行った。もちろん、ネットでも買える。ちなみにネット通販のページを見ていたら、これが季節限定商品だという重要な秘密を知ってしまった。

12月までの販売だとか。大変である。大いに慌てている。賞味期限は1~2か月程度だから、どんなに買い占めても春の声を聞く頃にはオサラバである。

この手の煎餅って冷凍したら数ヶ月は風味が維持されたりしないものだろうか。今の私にとって今世紀最大の難問である。


葉巻もネットで購入することが多い。種類にもよるがキューバ産の葉巻が日本の半額ぐらいで買えることも珍しくない。

葉巻通販業者の中には、通関の際に必要な税金をごまかすためにアレコレ工夫してくる業者もいる。

私は真面目な納税者なので、そういう業者を選んでいるわけではない。たまたま結果的に私の意に反して!税関をスルーしちゃうことが過去にはあった。

税関で引っかかる、いや、税関でキチンと処理される場合、注文から到着までの日数は1週間はかかる。真っ当な通販業者は湿度管理に配慮した梱包をしてくれるので1週間以上かかっても葉巻の状態は悪くない。

海外の適当な国際空港で売られている乾燥しちゃった葉巻よりもよっぽど間違いがない。


さて、ネットで買物と言えば、Amazonである。私もなんちゃら会員に登録しているから、ものによっては注文した当日に普通に届く。もう慣れっこになったが、考えてみれば凄い話だと思う。

最近、買ったのはコーヒーメーカー用の専用カートリッジやギターの弦、特殊な形状の電池、盛り塩用のそれっぽい塩、職場で使うひざかけ、それ以外には仏像入門から小説まで脈略のない本があれこれ。そんな感じである。

本屋さんでぶらぶらしながら好みの本を見つける楽しみは捨てがたい。でも、ネット上では特定の本を選んだ場合にそれと関連するオススメ本を表示してくるから、あの機能を使えば結構「ぶらぶら感」も楽しめる。

最近は小説を読むにしてもすっかり短編ばかりになった。本屋でズラッと並んだ棚から一目で短編集かどうかを探すのは無理だが、ネット上では「短編」とキーワードを入れれば簡単に絞り込める。


気になる作家の本を探そうにも本屋だと出版社別に陳列棚が別れているが、ネット上ではそういう問題もない。実店舗での小売りの世界はジャンルを問わず今後が本当に大変だと思う。

ついでにいえば、ネット上では過去の購入履歴から私に関する「傾向と対策」が勝手に研究されて、何となく私が興味を持ちそうな商品を表示してくる。だからついつい衝動買いもしてしまう。

インターネットとクレジットカードがこの世に無ければ、私の預貯金残高が今のようにスカスカになることはなかったはずだ。

便利になるってお金が無くなることと同じ意味なのだろうか。