笑門来福と言うように笑いはとても大切だ。私自身、眠れない夜にはインターネットでアホバカ画像を見たり、トンデモない言い間違いを集めたサイトを覗いてケケケと笑うことを心がける。
「ジギルとハイジ」
「ロミオとハムレット」
イメージしてみると何となく笑える。
ほんのチョットの言葉の間違いも私のツボにはまる。
ケイン・コスギならぬ「コイン・ケスギ」
デビ夫人転じて「デビル夫人」
イベリコ豚を「イベリ子豚」
その手のくだらないネタで笑えるからインターネットさまさまである。安上がりの楽しみ方である。
他にもこんなものに笑ってしまった。
(正)「あそこに立っているのが私のダンナです」
(誤)「あそこが立っているのが私のダンナです」
はたまた、
(正)「どいてよ!」
(誤)「だいてよ!」
些細な違いでここまで意味が変わるものかと妙に感心してしまう。
ついでに私自身の恥ずかしい経験をひとつ紹介する。
巨人の原監督が高校野球で話題になり始めた頃にさかのぼる。まだ小学生だった私は原選手が在籍していた「東海大相模高校」が読めなくて恥ずかしい思いをした。
東海大学の付属校であるという基本認識自体が無かったうえに「サガミ」を「スモウ」と読んでいた。
結果、「とうかい・おおずもう」である。野球なのにナゼ相撲なんだろうと真剣に悩んだ記憶がある。
漢字一文字で大違いである。
娘がまだ小さかった頃、童謡「赤い靴」をウソバージョンで教え込んだ。
「異人さん」に連れて行かれた少女のことを娘はかなり長い間、「ひい爺さんに連れられて~」と歌っていた。
なんだかくだらないことばかり書き殴ってしまったが、今日書きたかったのは「ほんの少しの違い」についての考察だった。
仕事の現場でも「あと少しだったんです」とか「ほとんど出来てます」とか「もうちょっとだけ時間ください」とか、そういう言い回しが乱発される。
これらはすべて言い訳であり、その時点で0点である。それぞれ「ダメでした」、「出来ませんでした」という意味でしかない。
若い人間が平気でこの手の言い訳を連発するのが腹立たしく感じる。
10対9で負けたらタダの負けである。勝ったほうは1勝、負けたほうは0勝。1勝と0勝の差は無限大だ。
1億円の商品で販売競争した場合、勝ったほうには1億円が転がり込む反面、負けたほうは収入ゼロである。
僅差、微差だろうが負けた側、選ばれなかった側はゼロでしかない。大統領選挙が仮に1票差で決まったとしても、負けたほうはタダの人である。
「ほんの少しの違い」。ここを埋められるかどうかで天と地ほどの開きがあることを肝に銘じないと発展や成長など期待できない。
なんだか「コイン・ケスギ」の話とは随分様子が変わってきてしまった・・・。
ここで説教じみたことを書いてもしょうがないか。
ちょっとの違いの大事さは、大げさな次元の話ではなく、身近にいくらでも転がっている。
パスタの茹で時間を1分まちがえただけで食感が変わっちゃうし、風呂の温度がたった2度違うだけでビックリするし、冷えたビールと冷えてないビールの違いだって同じ。
好きな相手とのキスだって、ほんの3センチずれたら鼻の穴である。そんなところに吸い付いたら大事故だ。
ついでにいえば、男が突撃を企む女性の秘所だって、わずか数センチ違えば、まるで別な門にたどりつく。
そう考えると、つくづくほんのチョットの違いを軽んじてはいけないと感じる。
「別な門」もそれなりに・・・などと思ってはいけない。
2014年11月10日月曜日
僅差、微差
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